く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<薬師寺> 国宝の東塔、8年ぶりに優美な姿が!

2019年12月30日 | 祭り

【正月控え薬師三尊や弥勒三尊も〝お身拭い〟】

 法相宗大本山薬師寺(奈良・西ノ京)の東塔の解体修理が2020年春の落慶法要に向けて完成に近づいてきた。2011年から建物全体を覆っていた素屋根も撤去され、新年を前に〝凍れる音楽〟とも形容される優美な姿を再び現した。29日には年末恒例の本尊薬師如来など仏像の〝お身拭い〟も行われた。

 東塔は裳階(もこし)と呼ばれる飾り屋根が付いた三重塔。約1300年前の天平年間に創建された。2009年から約110年ぶりという大規模な解体修理中。東塔の高さは約34mだったが、今回の解体修理に伴って1mほど高い約35mになった。今後予想される大きな地震に耐えられるように、創建当時の基壇(約13m四方)をコンクリートで覆って新しい基壇を造ったことによる。

 解体修理では塔の中心を貫く心柱の劣化部分を補強したほか、塔上にある奈良時代の水煙も傷みが激しいことから形や材質を忠実に再現した新しい水煙に取り替えた。また屋根瓦も約6万枚のうちほぼ3分の1を新しいものに更新した。落慶法要は来年4月22~26日の予定。5月1日からは東塔内陣の特別公開も予定している。

 お身拭いは仏像に積もったほこりを払って、きれいなお姿で新年を迎えてもらおうというもの。同時に参拝者の心の埃も取り除いてくれるそうだ。午後1時、薬師三尊像(国宝)を祀る金堂で始まった。まず仏像の魂を抜く法要。この後、僧侶に高校生や大学生たちの青年衆が加わり約60人で、鏡餅用のもち米を蒸した湯を使い浄布でお体を拭き清めた。続いて北側の大講堂に移動し、弥勒三尊像(重文)や釈迦十大弟子も同様に丁寧にお身拭いを行った。

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<大阪市立美術館> 特別展示「船場の絵描き 庭山耕園」

2019年12月25日 | 美術

【花鳥画を得意とした大阪画壇の重鎮】

 大阪市立美術館で特集展示「船場の絵描き 庭山耕園―近代大阪の四条派」が始まった。庭山耕園(1869~1942)は花鳥画を得意とした四条派の日本画家。大阪・船場を拠点に画塾を開いたり大阪市美術協会の創立に貢献したりするなど、大阪画壇の重鎮として活躍した。生誕150年を記念する今展には遺族から寄贈された屏風や掛軸、写生画帖などのほか、耕園が師事した四条派の画家たちの作品も並ぶ。会期は来年2月9日まで。

  

 耕園の作品には精緻な写実を基本とした季節感あふれるものが多い。『八重桜雀図』(写真は部分)は満開の桜の小枝で5羽の雀が仲良く身を寄せ合う。明るい光の中で雀たちも春の訪れを喜んでいるかのようだ。『雨中燕子花(かきつばた)図』(同)は小雨の中、5~6輪の青紫の花がしっとりと咲き誇る。よく見ると右下の葉の上に小さな雨蛙が1匹。『紅白萩図屏風』(2曲1双)でも黒いアゲハチョウが1羽、白萩の花の蜜を吸っていた。自然とそこに目が引き寄せられる。

 『一笑図』は笹竹の下で3匹の子犬たちがじゃれあう構図。見ていても気分がほっこりしてくる作品だ。竹と犬を組み合わせた絵画を「一笑図」と呼ぶのは「笑」の文字が「竹」と「犬」(正確には「夭」だが)からなることから。めでたい画題としてしばしば描かれてきた。『箱根富嶽図』『鯉図』『遠山雲鶴図』『旭日静波図』など正月の床の間に合いそうな図柄の作品も多く並ぶ。耕園は写生画帖や写生帳も多く残した。その写生画帖の中にも栗鼠(りす)や山鳥、塩鮭、鮎など一幅の絵として見応えのあるものが多かった。

 同美術館所蔵の耕園の作品群は長男慶一郎氏から1994年に寄贈された。同氏の著書「父を語る」によると耕園は円山応挙、呉春、松村景文を尊敬し、彼らの作品を徹底して研究していたという。呉春は四条派の祖。展示中の耕園作『十六羅漢図』は呉春の図を模したといわれる。展示作には呉春自身の『双柳図衝立』や門下の岡本豊彦作『呉春像』も。また大阪天満宮所蔵の耕園作『広沢池図襖』(2面)や上田耕冲作『鷹狩図襖』『雪中松図襖』(ともに2面)も並ぶ。上田耕冲(1819~1911)は耕園が十代半ばから長く師事した四条派の絵師で、襖絵2点は亡くなる前年の1910年に描かれたそうだ。

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<小浜市㊦> 空印寺境内に八百比丘尼入定の洞窟

2019年12月19日 | 旅・想い出写真館

【小浜城は小浜湾を望む全国屈指の水城だった!】

 若狭地方最大の秋祭り「放生祭(ほうぜまつり)」で有名な八幡神社のすぐ西側、空印寺(曹洞宗)の境内に〝八百比丘尼(はっぴゃくびくに)入定(にゅうじょう)の地〟といわれる洞窟があった。空印寺は小浜藩主酒井家の菩提寺。八百比丘尼の不老長寿伝説は人魚伝説の一つとして全国各地で語り継がれており、ある研究者の調べでは全国約120カ所に残っているという。そのほとんどの伝承に若狭の地名が登場するそうだ。

 小浜に伝わる物語は――。昔、地元の長者が竜宮に招かれ土産として人魚の肉を持ち帰る。これを口にした娘はそれからというもの、いくら歳を重ねても年老いることがなく若さと美しさを保ち続けた。120歳のとき剃髪し比丘尼(尼さん)になって全国を行脚した後、故郷に戻ってこの洞窟に籠り静かに死のときを待った。後世の人々は800歳まで生きたこの娘を「八百比丘尼」「八百姫」などと呼んで敬った。

 

 洞窟の入り口右手には柔和な表情の比丘尼の石像。洞窟内の観覧は自由で、手を合わせ中に入らせてもらった。大きさは高さ2m、幅1.5m、奥行き5mほど。壁面の岩は実に巨大で、一瞬「石舞台古墳」(奈良県明日香村)の光景が頭をよぎった。一番奥には「八百比丘尼」と彫られた石碑が立っていた。人魚伝説に因んで、ここから北へ約400m、小浜湾に面した「マーメードテラス」には2体の人魚像が飾られていた。人魚の像は小浜駅前商店街の郵便ポストの上にも置かれていた。

 

 小浜城跡は北川と南川の間にあり西側に小浜湾を望む場所に位置する。関が原の後若狭に入国した京極高次と忠高が2代30年余をかけて築城、その後、藩主として入城した酒井家14代237年にわたる居城となった。全国屈指の水城で別名「雲浜城(うんぴんじょう)」とも呼ばれた。1871年に改修中、本丸櫓から出火して大半を焼失し、今は城郭の石垣を残すのみ。本丸跡には藩祖酒井忠勝を祀る小浜神社が鎮座する。

 その一角にも八百比丘尼にまつわる痕跡があった。赤屋根で覆われた古い井戸の前に置かれた平たい「古呂美橋(ころびばし)の石」。かつて現在の小浜市鹿島区と浅間区の間にあった石橋の石という。小浜藩儒(藩主に仕えた儒学者)千賀玉斎(1633~82)著『向若録』にはこんな内容が記されているそうだ。「八百比丘尼がこの場で倒れたまま起きずして死す。故に名付けて古呂美橋という。京極家の地領の時にこの本丸に移す」

 

 小浜は明治時代に与謝野晶子とともに『明星』で活躍した歌人山川登美子(1879~1909)の出身地。生家が記念館として公開され、小浜公園には歌碑が立ち、観光案内標識などにも登美子の歌が記されていた。旧茶屋町「三丁町」の標識の側面には与謝野鉄幹の歌「君なきか若狭のとみ子しら玉のあたら君さえ砕けはつるか」。ただ山川登美子記念館は訪ねた火曜日が運悪く定休日だった。明治時代の芝居小屋を移築・復元した「旭座」も火曜定休で入れなかったのが少々心残りだった。

 

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<小浜市㊤> 茶屋町などの伝統的な町並み「小浜西組」

2019年12月18日 | 旅・想い出写真館

【常高寺の山門と石段の間にJR小浜線のレールが!】

 福井県内には国の重要伝統的建造物群保存地区が2カ所ある。一つが「若狭町熊川宿」(1996年選定)、そしてもう一つが「小浜市小浜西組」(2008年選定)。この西組は主に茶屋町と商家町で構成し、多くが明治中期の1888年の大火以降の建築だが、丹後街道を中心とした古くからの町割を今に残す。〝ウナギの寝床〟のように間口が狭く奥行きが長い京風の間取りが多く、袖壁(袖うだつ)やベンガラ格子、若狭瓦などの伝統的な家屋も少なくない。

 小浜西組は飛鳥区、香取区、貴船区、浅間区、住吉区、鹿島区などから成り、これらの地名は全国の有名な神社に由来する。例えば飛鳥は奈良県の飛鳥坐(あすかにいます)神社から、香取は千葉県の香取神宮からといった具合だ。保存地区を代表するエリアが飛鳥~香取区の元茶屋町「三丁町(さんちょうまち)」界隈。猟師町・柳町・寺町の3つをまとめて三丁町と呼ばれたという。この地域には明治期の元料亭「蓬嶋楼(ほうとうろう)」や「町並みと食の館」(元料亭「酔月」)などがある。NHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」でヒロインの祖母はこの三丁町の元芸妓という設定だった。

 

 飛鳥区には庚申堂があり、通り沿いの家屋の軒先には本尊青面金剛の使いの猿を模した魔除けのお守り〝身代わり猿〟が吊るされていた。その光景はまるで奈良市内の古い町並み「なら町」界隈にそっくり。保存地区内には大火を教訓に建てられたという西洋風建物の「白鳥会館」や「高島歯科医院」(いずれも国の登録文化財)、大正期の京町家風の「町並み保存資料館」などもあった。

 保存地区の南側一帯にはいくつもの寺院が並ぶ。その一つ、臨済宗妙心寺派の常高寺は浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の次女で、小浜藩主京極高次の妻お初の方(常高院)が1630年に建立した。晩年を江戸で過ごしたお初がここに寺を建てたのは自らの心の拠りどころのほか、若くして非業の最期を遂げた両親の菩提を弔いたいとの思いもあったようだ。本堂にはお初の位牌を中心に、右側に夫京極高次、左側に両親の位牌が祀られていた。

 

 この常高寺の山門を見上げる参道の石階段もNHKの「ちりとてちん」のロケ地になった。ただ階段を上がっても山門に辿りつくことはできない。石段の上と山門の間にJR小浜線が走っているためだ。そのため寺に向かうには階段下を左折し線路をくぐって回り込まなければならない。参道の石段と山門とその間に横たわるレール。実に珍しい光景。階段下には親切に電車が通過する時刻表も掲示されていた。

 

 山門脇には俳人尾崎放哉(1885~1926)の句碑が立っていた。「浪音淋しく三味や免させて居る」。托鉢生活で各地を転々とした放哉は一時期をこの常高寺の寺男として過ごし多くの自由律俳句を残した。寺宝に常高院肖像画や自筆の墨書、書院を彩る狩野派の障壁画など。本堂裏手の庭園も紅葉が美しかった。

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<鯖街道熊川宿> 宿場町の面影を残す約1キロの町並み

2019年12月15日 | 旅・想い出写真館

【東の端に番所、街道沿いには勢いよく流れる水路「前川」

 〝鯖街道〟として知られる若狭街道は日本海側の小浜を起点に朽木、花折、大原を経て京都に至る。その街道随一の宿場町として栄えたのが熊川宿(福井県若狭町)。16世紀末、若狭の領主となった浅野長政が交通・軍事の要衝として着目して町並みを整備、海産物を運ぶ人の往来でにぎわった。往時の歴史的景観を残す熊川宿は1996年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、さらに4年前の2015年には「御食国(みけつくに)若狭と鯖街道」が日本遺産に認定された。専門家が選ぶ「訪ねてみたい風情あふれる宿場町」(10月26日付日本経済新聞「NIKKEIプラス1」)でも妻籠宿(長野)や大内宿(福島)、馬籠宿(岐阜)などに続いて10位にランクインしている。

 熊川宿の町並みは小浜側から下ノ町(しもんちょ、約300m)、中ノ町(なかんちょ、約300m)、上ノ町(かみんちょ、約400m)と続く。重伝建保存地区の広さは約10.8ヘクタール。街道は一直線ではなく緩やかにカーブを描き、下ノ町と中ノ町の境目は「まがり」と呼ばれ直角に折れ曲がる。熊川宿を訪れるのは今回が初めて。JR京都駅から湖西線で今津近江に向かい、駅前からバスに揺られること約30分、道の駅若狭熊川駅に降り立った。

 

 道の駅の一角に設けられた「マンガで知る鯖街道ミュージアム」を見学後、早速上ノ町へ。まず出迎えてくれたのが復元された「熊川番所」。江戸時代にはここで「入り鉄砲に出女」と呼ばれるように往来が厳しく取り締まられ流通物資への課税も行われた。2体の役人の人形が番所内から通りに目を光らせていた。その近くに鎮座する権現神社は再三大火に見舞われたことから村人が防火を願って建立した。〝権現さん〟として親しまれてきたそうだ。

 

 中心部の中ノ町には熊川宿で最も古い町家「倉見屋荻野家住宅」をはじめ趣のある建物が多い。倉見屋は当時の問屋の形式をよく残しているとして5年前、国の重要文化財に指定された。「勢馬清兵衛家」も「菱屋」という旧問屋で、整然とした格子が美しい。「旧逸見勘兵衛家住宅」は伊藤忠商事2代目社長伊藤竹之助(1883~1947)の生家。約20年前に大改修が行われたが、外観は昔ながらの町家造りになっている。その近くに明るい青い壁の「宿場館(若狭鯖街道資料館)」があったが、訪ねた日は残念ながら定休日だった。元々は昭和前期の1940年に熊川村役場として建てられたとのこと。

 中ノ町には神社仏閣も多い。松木神社は江戸初期に厳しい年貢の引き下げを訴え続けて28歳の若さで磔の刑に処せられた義民松木庄左衛門を祀る。鳥居のそばに銅像が立ち、境内には遺徳を顕彰する義民館も。参道を上って境内に入ると、お尻が真っ赤なサル2匹が森に向かって逃げていた。白石神社は地元の氏神で、毎年5月3日の祭礼では京都の祇園祭に模した豪華な見送り幕(県指定文化財)で飾られた山車が曳き回されるという。得法寺は徳川家康が織田信長に従って越前の朝倉義景を討つため敦賀に向かう途中に泊まったといわれ、境内には翌朝出陣の際に座ったという〝家康腰かけの松〟の跡が残っていた。

 

 下ノ町には街道の歴史や食文化を紹介する「村田館」、木工や陶芸を体験できる「熊川宿体験交流施設与七」があり、西側端の山側には「孝子与七の碑」が立つ。与七とその妻は約270年前、貧しい暮らしの中で父母にご馳走を食べさせるなど孝行を尽くし、時の藩主は米数俵を与えて褒め称えたそうだ。熊川宿の街道沿いには前川と呼ばれる幅1m強の水路が走り、家々の前には水路に下りる「かわと」という石段の洗い場が設けられていた。この前川は2008年、環境省の「平成の名水百選」に選ばれている。

 

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