く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<首里城炎上> 正殿が灰燼に まさか、ウソだろ! 

2019年10月31日 | アンビリバボー

【沖縄のシンボル、北殿や南殿なども全焼】

 早朝5時前、いつもの通り寝床に入ったままネットで最新ニュースをチェック。すると、衝撃的な悲報が流れていた。首里城の炎上! 3年前の2016年秋久しぶりの沖縄旅行で、鮮やかな首里城正殿の姿が目に焼きついていただけに、にわかには信じられない。だが紅蓮の炎に包まれた首里城の写真が現実を物語っていた。正殿は骨組みだけを残し今まさに崩れ落ちそうになっていた。(火災の写真は「琉球新報電子版」から借用、その他は2016年10月7日撮影)

 首里城は約450年続いた琉球王国の政治・外交・文化の要。しかし戦時中、沖縄守備隊の司令部が置かれていたこともあって、米軍の猛攻撃を受け灰燼に帰した。その後、1980年代後半から復元事業が本格化し、守礼門や歓会門に続いて1992年には正殿などが復元された。首里城跡は2000年秋、斎場御嶽(せいふぁーうたき)や中城城跡などとともに「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」として世界遺産に登録された。

 

 正殿内部でとりわけ印象に残ったのは煌びやかな国王の玉座が飾られた「御差床(うーさすか)」。上部に飾られた扁額は清国皇帝から贈られたもの。玉座も扁額も往時の忠実な再現という。正殿裏側は「御内原(うーちばる)」と呼ばれる国王とその家族の生活空間で、2014年には寝室があった「黄金御殿」や「奥書院」などの一般公開も始まった。まだ真新しい室内に清々しい空気が漂っていたのが懐かしく思い出される。その黄金御殿や奥書院も焼失してしまった。

 首里城では10月27日から「首里城祭」が開催中だった。11月3日までの会期中、琉球王朝絵巻行列や古式行列、伝統芸能の公演、園内を幻想的なキャンドルで彩る「万国津梁の灯火」など多彩な行事が予定されていた。出火時も未明までイベントの準備が行われていたという。最初に火災に気づいたのは警備員で、警備システムのセンサーに熱反応があり、確認すると既に正殿から火の手が上がっていたそうだ。出火原因は何か。漏電? 煙草? それともイベント準備中の失火? まさか放火ではないだろう。それにしてもスプリンクラーなど防火体制は一体どうなっていたのだろうか。

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<津観音> 日本三観音の一つ 浅草・大須とともに

2019年10月28日 | 旅・想い出写真館

【本堂脇に映画監督小津安二郎の記念碑!】

 三重県津市の恵日山観音寺大宝院(通称「津観音」)は真言宗醍醐派の古刹で、東京の浅草寺、名古屋の大須観音と並んで日本三観音の一つに数えられている。開創は約1300年前の709年(和銅2年)まで遡る。伊勢国の阿漕ケ浦で漁師の網に掛かった聖観音立像を祀ったのが始まりという。かつては観音堂を中心に七つの塔頭寺院を擁する本山で、伊勢神宮への参拝者の多くが津観音にも立ち寄るようになって「津観音に参らねば片参り」とまでいわれたそうだ。

 その大伽藍も残念ながら1945年の空襲で多くの寺宝とともに焼失してしまった。ただ、津観音は今も市民の心の拠りどころになっているという。市内最大の祭り「津まつり」(10月)では津観音が神輿を安置するお旅所になっており、境内では郷土芸能の披露などもあって多くの市民でにぎわう。また「つ七夕まつり」(7月7日)でも津観音から観音橋一帯にかけて例年大変なにぎわいを見せるそうだ。

 

 朱塗りの山門の真下中央に「撫で石」という自然石が置かれていた。四国88カ所の第60番札所横峰寺から齎(もたら)されたもの。全国各地の天満宮などに鎮座する「撫で牛」や賓頭廬(びんずる)さんのような「撫で仏」同様に、石を撫でた手で体の悪い部分を触ると良くなるという言い伝えがあるそうだ。境内で唯一戦火を免れたのが地蔵菩薩像。毎年7月28日にはその像の前で「平和と感謝の祈り」が捧げられる。

 本堂に向かって右手にまだ新しそうな黒い石碑が立っていた。「小津安二郎記念碑」。えっ、なぜ? 小津安二郎(1903~63)といえば原節子主演の『東京物語』などで知られる世界的な映画監督。石碑は4年前の2015年春に建立された。碑にはこう刻まれていた。「おばあさんが津の宿屋町に住んでいる。朝早く僕はおばあさんの前に久振りに両手をついて殊の外真面目に云った―行ってまいります。おばあさんは笑いながら―またおいなされ。僕はなんだか悲しくなった」

 小津は東京・深川生まれだが、父の郷里が松阪だったことから9歳の頃から約10年間三重県で過ごしたという。祖母も母も津生まれ津育ちだった。そのため小津はしばしば津を訪ね、津観音の境内にあった映画館に行ったこともあった。代用教員などを経て松竹に入っていた小津は1927年、23歳のとき監督に昇進する。ところがその年、久居(現津市)にあった陸軍歩兵連隊に短期入隊することに。

 碑文は入隊する朝の祖母とのやり取りを記し中学時代の友人に宛てた手紙からの抜粋だった。小津は祖母宅を出て軽便鉄道で久居に向かう。その車内から目にした彼岸花が小津の記憶に強く刻まれた。碑文の最後に「おいなされ又このつぎに彼岸草」という句が添えられていた。小津は1958年『彼岸花』というタイトルの映画を制作している。短期入隊から約31年後。小津にとって初めてのカラー作品だった。

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<津城跡> 築城の名手、藤堂高虎が大改修

2019年10月25日 | 旅・想い出写真館

【荒廃した町の再興にも手腕を発揮】

 戦国武将藤堂高虎(1556~1630)は築城の名手として広く名を馳せた。彼が築城・修築を手掛けた城は全国各地に点在する。宇和島城、今治城、伊賀上野城、伏見城、江戸城、篠山城、大坂城、二条城……。津城(三重県津市丸之内)もその一つ。四国の伊予今治から初代津藩主として入城した高虎は1611年、自身の居城として津城を大改修した。

 津城はもともと織田信包(信長の弟)らの居城だったが、高虎は北側の石垣を高く積み増して東西両隅に三重の櫓を築くなど、近代的な城郭として整備した。明治維新後、天守や櫓など建物は全て取り壊され堀も大半が埋め立てられたが、本丸・西之丸の石垣や内堀の一部が今も往時の姿をとどめている。2年前には日本城郭協会から「続日本100名城」に選定された。

 

 三重県指定史跡でもある津城跡は「お城公園」として市民の憩いの場になっている。公園の一角には馬上姿の高虎像がそびえ立つ。公園内には10代藩主藤堂高兌(たかさわ)が1820年に創設した藩校「有造館」の正門「入徳門」も移築・保存されている。高虎は城下町の復興にも力を注いだ。城を中心として武家屋敷や町屋、寺町を整然と配置し、伊勢街道を城下に取り入れるなど町並みを整備した。町の目抜き通りにも高虎の銅像が飾られていた。そこにも「全国各地のまちづくりも手がけ、まちづくりの名手として有名になりました」と功績が刻まれていた。

 

 津市では毎年4月と11月、高虎に因んだイベント「高虎楽座」がにぎやかに開かれる。そこで活躍するのが創作和太鼓チーム「津高虎太鼓」。高い演奏技術で知られ、ニューヨークのカーネギーホールで演奏したこともあるという。津市PRのご当地キャラ「シロモチくん」も当然高虎に因む。高虎が若い頃、餅屋の主人から受けた恩を忘れないようにと、シロモチ(白い三つ丸餅)を旗印にしたという逸話から生まれた。最近ではドッグサンド専門店「高虎ドッグ」が人気を集めているそうだ。市民の高虎に寄せる愛着は半端じゃない!

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<広島・縮景園>上田宗箇作庭、清水七郎右衛門が大改修

2019年10月21日 | 旅・想い出写真館

【国の名勝、広島県立美術館に隣接する池泉回遊式庭園】

 国の名勝「縮景園」(広島市中区)は大名庭園の先駆けといわれる。浅野長晟(ながあきら)が広島浅野藩の初代藩主として1619年入国した翌年から別邸として「泉水屋敷」の築成が始まった。当時「御泉水」と呼ばれた庭の作庭を担当したのが浅野家家老の上田重安(宗箇)。茶人・造園家としても名を馳せた宗箇は徳島城表御殿庭園、和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園(和歌山県紀の川市)、名古屋城二の丸庭園などを手掛けたことでも知られる。

 ただ縮景園がほぼ現在のような規模と姿になったのはおよそ1世紀半後の1780年代の〝天明の大改修〟による。7代藩主浅野重晟が京都から庭師清水七郎右衛門(尾道出身)を呼び寄せて改修させた。庭園中央に濯纓池(たくえいち)が広がり、跨虹橋(ここうきょう、通称「太鼓橋」)が南北を結ぶ。池の中には大小10余りの島々。ほとりには茅葺きの四阿(あずまや)「悠々亭」などが立つ。これらも清水の手によって造られた。池の島々は参勤交代の途上、船上から眺めた瀬戸内海の多島美を再現させたものといわれる。

 

 池の北側のやや小高い所に「慰霊」と刻まれた原爆慰霊碑が立っていた。案内板によると、1枚の写真がもとで約30年前の1987年7月末、この場所から埋葬された原爆死没者の遺体が見つかった。発掘された遺骨は64体分に上り、その翌月、平和記念公園内の原爆供養塔に納骨された。以来、毎年ここで慰霊祭が開かれているそうだ。

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<平城宮跡資料館> 地下の正倉院展「年号と木簡」

2019年10月18日 | 考古・歴史

【「大宝」から「延暦」まで年号が記された木簡70点余】

 奈良文化財研究所の平城宮跡資料館で秋季特別展「地下の正倉院展」が始まった。今年のテーマは「年号と木簡」。新しい元号令和が施行されたことから年号に焦点を当てた。中国に倣って日本で年号の使用が本格的に始まったのは701年の「大宝」から。それから782年の「延暦」まで年号が記された木簡を中心に70点余(うち国宝12点)を3期に分け展示する(会期は11月24日まで)。

 日本最初の年号は「大化の改新」(645年)でおなじみの「大化」。ただこの後は年号が継続して使われた形跡がなく、今日まで途切れることなく使われ始めたのは「大宝」から。「大宝令」には公文書に年を記すときは年号を用いよという規定があった。「大宝」は対馬から金が貢納されたことに因む年号。それ以前は主に干支年が使われていた。会場には大宝が使われ始める前年の700年を示す「庚子年」と記された木簡なども展示中。平城宮跡からは年号と干支を併記した木簡も出土している。

 

 8世紀には「大宝」の他にも「天平勝宝」「宝亀」など宝のつくものが多いが、木簡に記された字体はいずれも「寶」。奈良時代には「霊亀」「神亀」「宝亀」と亀に因む年号も多い。「天平」という年号も亀の甲羅に書かれた文字から採られた。年号は基本的に漢字2文字だが、奈良時代後半の749~770年には4文字の時代が5期続いた。天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲。これは中国・唐(周)の女帝則天武后の時代の年号に倣ったものと考えられているそうだ。

 展示中の木簡の中に「天平勝宝八歳」(758年)と記された木簡があった。「年」ではなく「歳」とする年紀は天平宝字に改元されるまで続いた。なぜ? これは天平勝宝7年正月4日の勅によるもので、これも唐の影響とされる。中には天平宝字とかくべきところ天平字宝と間違って、「宝」の右に上下逆に読むよう記号を打った木簡も。また4文字年号は前半の2文字を省いて書かれることもしばしばあった。

 最初の4文字年号の天平感宝はその期間が僅か2カ月半と短いこともあって、その年号を記した木簡の出土例は島根県出雲市内出土の1点のみで、平城宮・京跡からはまだ見つかっていない。年号を省略してただ「○年」と記した木簡もあった(写真)。当時の人たちにはこれで十分通じたに違いないが、1300年経って今では年号を推測するしかない。

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<奈良国立博物館・青銅器館> 古代中国の逸品がずらりと

2019年10月11日 | 美術

【坂本コレクション、撮影が可能になった!】

 奈良国立博物館(奈良市登大路町)に古代中国の青銅器を一堂に展示した一角がある。「なら仏像館」と渡り廊下で結ばれた「青銅器館」。これまで新館や仏像館とともに原則撮影が禁止されていたが、青銅器館に限り10月8日から来場者が自由に撮影できるようになった。展示中の青銅器類は古美術商で世界的な古美術収集家でもあった坂本五郎氏(1923~2016)から寄贈されたもので〝坂本コレクション〟と呼ばれている。

 中国の青銅器時代が始まったのは紀元前2000年頃で、夏、商(殷)、周を経て戦国時代後期の紀元前3世紀まで続いた。とりわけ初期の商・周時代の青銅製容器は支配階級専用の祭器として「彝器(いき)」と呼ばれ、世界の青銅器文化の最先端にあった。坂本コレクションはその時代から漢代にわたる青銅製の容器や楽器を中心に約400点に及ぶ。同じ種類の器物が多く含まれているのが特徴で、美術的価値とともに学問的な比較研究資料としての価値も高い。

  

 例えば鍋の一種で主に肉などを煮炊きする「鼎(てい)」。コレクションにはこれだけでも約50点がそろっており、比較することで形や文様の変遷を辿ることができる。当初は実用的なものが多く文様も無文かごく簡素だったが、その後、祭祀用として次第に装飾したものが増えていく。また鼎は通常3本足だが、四角い器身と4本足を持つ「方鼎(ほうてい)」も現れ、春秋期中期以降には蓋や縁に両耳(取っ手)が付くようになる。中には蓋の表に3つの突起があり、逆さに置くと浅い皿になるように工夫したものも。

 

 酒を温めるための3本足の「爵(しゃく)」もコレクションに40点近くがそろう。商前期のものは底が平たく扁平な器身を持つが、商後期になると鋳造技術の発達により洗練された丸底の形のものが増えてくる。「卣(ゆう)」という取っ手の付いた酒壷は商前期に出現し、西周~戦国期にかけ頚部がくびれ腹部が張るなど形が少しずつ変化していった。春秋末期~戦国期には扁平な楕円形の「扁壷(へんこ)」が流行した。北方騎馬民族の水筒から形を写した可能性があるという。戦国期には「盉(か)」と呼ばれる鳥形の注ぎ口が付いた急須のような器も登場した。3本または4本の足が付いており、酒などを温める機能も持っていたとみられる。

 

 時代ごとに器類の変遷を見ると、商(殷)代には酒に関係する器が多く、西周期には食べ物を入れたり煮炊きしたりするための器が多いそうだ。殷代の暴君に因む故事に、贅を極めた酒宴を意味する「酒池肉林」がある。展示パネルはこの故事をひきながら「商の人が酒を飲みすぎて滅び、そのことを西周王朝では戒めとしていたから酒器が減ったともいわれる」と記していた。

 

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<イトラッキョウ(糸辣韮)> 長崎・平戸島に自生する日本固有種

2019年10月08日 | 花の四季

【細い茎の先にピンクの小花を数輪ずつ、まれに白花も】

 ユリ科(ヒガンバナ科とも)ネギ属(アリウム属)の山野草。草丈10~20cmで、食用として栽培されるラッキョウに比べると、背丈も花や葉の大きさもはるかに小さい。和名は葉が糸のように細いことから。10~11月頃、細い茎の先端に小さなピンク色の花を散形状に数輪ずつ付ける。花びらは上向きに平開し、長い雄しべが突き出す

 群生地として有名なのが長崎・平戸島の南西部に位置する礫岩(つぶていわ、標高287m)と呼ばれる岩山周辺。植物写真家冨成忠夫氏(1919~92)が1975年「夢見るような雰囲気の花」と著作の中で絶賛したことから、その存在が一躍全国に知れ渡ったという。一帯にはチョウセンノギクなど朝鮮半島系と日本列島系の植物が共存しており、かつて日本が大陸と陸続きだったことを示す。「礫岩の岩石地植物群落」は国指定の天然記念物で、西海国立公園特別保護地区にもなっている。  

 学名は「Allium virgunculae(アリウム・ヴィルグンクラエ)」。種小名はラテン語で「少女」を意味する。まれに花色が白いものがあり、「シロバナイトラッキョウ」や「オトメ(乙女)ラッキョウ」と呼ばれている。環境省のレッドデータによると、イトラッキョウは準絶滅危惧種。近縁の「コシキ(甑)イトラッキョウ」と「ヤクシマ(屋久島)イトラッキョウ」は絶滅危惧ⅠB類、「キイ(紀伊)イトラッキョウ」は同Ⅱ類に分類されている。

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<ウメバチソウ(梅鉢草)> 菅原道真の「梅鉢紋」になぞらえて

2019年10月06日 | 花の四季

【花茎の先に白梅に似た清楚な5弁花を上向きに】

 ニシキギ科(旧ユキノシタ科)ウメバチソウ属(パルナッシア属)の多年草。日本やアジア東北部、北米など北半球に広く分布する。日当たりのいい湿地、渓流沿い、草原など、やや冷涼で湿り気のある場所を好む。学名の「palustris(パルストリス)」(種小名)も「沼地に生える」を意味する。

 草丈は15~30cm。8~10月頃、花茎の先に白い5弁花を1輪ずつ上向きに付ける。花径は2~2.5cmほど。雄しべ10本のうち5本は「仮雄蕊(かゆうずい)」と呼ばれ、退化して花粉を作らない。変種に草丈や花が小ぶりな伊豆七島産の「イズノシマ(またはコウヅ)ウメバチソウ」、屋久島産の「ヤクシマウメバチソウ」などがあり、盆栽用の山野草として人気を集めている。

 和名は梅の花をかたどった家紋「梅鉢紋」に花の形が似ていることから。梅鉢紋は学問の神様として有名な菅原道真の菅原氏が使っていた家紋で、道真を祀る太宰府天満宮(福岡県太宰府市)の神紋としても知られる。戦国大名前田利家も「加賀梅鉢紋」を家紋としていた。「けんめいに今年も其処に咲いている ウメバチソウよけなげな花よ」(鳥海昭子)

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<ヤナギハナガサ(柳花笠)> 南米原産の帰化植物

2019年10月03日 | 花の四季

【「サンジャク(三尺)バーベナ」の別名も】

 ブラジルやチリ、アルゼンチンなど南米原産のクマツヅラ科クマツヅラ属(バーベナ属)の多年草。こぼれ種でよく増え繁殖力が旺盛なため、北米、アジア、アフリカなど世界各地で帰化植物として野生化している。日本には観賞用の園芸植物として持ち込まれたとみられるが、明確な渡来時期は不明。ただ1940年代後半に東海地方で野生化が確認されており、今では市街地の日当たりのいい空き地や道端、河川敷などで目にすることが増えてきた。

 花期は夏から初秋にかけて。細長い茎の頂部の集散花序に、淡い紫色の小花をたくさん付ける。花は径3~6ミリほどの筒状花で、花冠の先端が5つに裂ける。茎は中空、その断面は円形ではなくて四角形のものが多い。葉は細長い広線形で、縁にはギザギザの鋸歯がある。和名はヤナギに似た葉の形と、花笠のような集合花の様子から名付けられた。

 別名「サンジャクバーベナ」。これは茎がすくっと伸びて高い草姿から。ただ三尺といえばおよそ90cmだが、実際には高くなるとしばしば150cmを超える。学名は「Verbena bonariensis(バーベナ・ボナリエンシス)」。種小名のボナリエンシスは「ブエノスアイレス(アルゼンチンの首都)産の」を意味する。よく似た近縁種に同じく南米産の「アレチハナガサ」。こちらの種小名は「ブラジル産の」を意味する「brasiliensis(ブラシリエンシス)」。ヤナギハナガサに比べると、花が小さくて花数も少ない。

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<旧徳島城表御殿庭園> 南側に枯山水、北側に築山泉水庭

2019年10月01日 | 旅・想い出写真館

【阿波特産の青石を多用、作庭は茶人武将上田宗箇?】

 「旧徳島城表御殿庭園」(国の名勝)は徳島藩蜂須賀家の居城徳島城の表御殿に設けられた回遊式の庭園。広さは5000㎡強で、南側の枯山水と北側の築山泉水庭という全く趣が異なる2つの庭園からなる。織豊時代~江戸時代初期に活躍した茶人武将で造園家の上田宗箇(1563~1650)が藩祖の蜂須賀家政の依頼により作庭したといわれる。

 庭内には阿波特産の「青石」と呼ばれる緑泥片岩が多く使われているのが特徴。とりわけ枯山水庭の砂紋の上に渡された自然石の青石橋(長さ10.5m、重さ約13トン)には圧倒的な存在感が漂う。この石橋には途中で大きな割れ目が入っている。それにはこんな伝説も。初代藩主蜂須賀至鎮(よししげ、家政の長男)は徳川家から迎え入れた正室氏姫が幕府の陰謀で毒を盛ったと思い込み、悔しくて地団駄を踏んで石橋を割ってしまった――。ただ実際には夫婦睦まじく仲は良かったともいわれる。青石橋の少し先には御影石を長方形に加工した切石橋(長さ6m)が架かる。

 

 先に進むと右手の築山に不思議な形の岩が鎮座していた。子孫の繁栄を祈る「陰陽石」。その異様な姿から骸骨にも見立てられている。穴の内側に耳を寄せると地獄の釜のたぎる音が聞こえるとも。城内には飲み水確保のため何箇所も井戸が掘られた。園内にも花崗岩や御影石を刳り貫いた井戸の井筒が残っている。藩主が暮らした御殿の鬼門に当たる東北の小高い場所には観音様を祀った観音堂とみられる遺構があった。

 

 その観音山から湧水が渓谷を下って心字池に注ぐ。無数の青石を使った豪快な石組が渓谷や池の周りをぐるっと囲む。江戸時代、池は東側の内堀と地下樋道で結ばれており潮の干満とともに水位が変化した。このため「潮入り庭園」とも呼ばれた。園内には桃山時代に大名が好んだという蘇鉄が17株も現存しているそうだ。この味わい深い庭園、入園料はたったの50円、しかも65歳以上は無料。徳島市民が羨ましくなった。

 

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