く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<松伯美術館> 「未来につなぐ日本画展」

2023年02月27日 | 美術

【公募展優秀賞受賞作家の現在(いま)Ⅰ】

 松伯美術館(奈良市登美が丘2丁目)で「未来につなぐ日本画展」が開かれている。副題に「公募展優秀賞受賞作家の現在(いま)Ⅰ」。この美術館では日本画の普及と若手作家の育成を目的に、開館以来ジャンルを花鳥画に絞った公募展「花鳥画展」を23回にわたって開催してきた。さらに2016年からは隔年でジャンルを問わない「松伯日本画展」も開いてきた。

 ところが新型コロナ感染症の拡大で、今年度も含め3年連続公募展の中止を余儀なくされた。そんな中で企画したのがこの「未来につなぐ日本画展」。公募展の歩みを振り返りながら受賞者の制作を支援しようという試みだ。昨年度の大賞受賞作家の作品展に続いて、今年度と来年度は優秀賞受賞作家を取り上げ2回に分けて近年の作品を紹介する。今展の会期は3月12日まで。

 出品作家は26人。1人で複数点を出品した作家もあり展示総数は全部で40点に上る。出品者のプロフィルを眺めると、20代で優秀賞を受賞した作家も多く含まれる。受賞後、他の展覧会で大きな賞を受賞したり個展を重ねたり活躍の場を広げてきた人が目立つ。公募展での受賞が作品制作の大きな励みになったことは間違いない。

 青木秀明さんは20代早々に優秀賞を受賞、その後も第9回川端龍子大賞展で龍子大賞、2007年京展で市長賞など高い評価を得ている。今回の出品作は『re born』と『自在の様相』の2点。ハゲタカのような猛禽類の鳥と立派な角を持つ羊が美しい衣装を身にまとう。それぞれにこんなコメントを添えていた。「もし前世があったなら、私は人間だったんだろうか。そんな発想から生まれた私の輪廻転生図」「何を描いても結局は自画像だと思う。自我像とも言うべきか」

 藤城正晴さんも20代前半に優秀賞を受賞。その後、東京や愛知を中心に精力的に個展を開催してきた。出品作『散華』は満天の星と三日月の下で光り輝く満開の桜を描いた作品。画面全体に無音の世界と静謐な美しさが広がる。「満開の桜から花びらが舞い散り、桜と外部との境が融解していく様」を描いた。

 池田真理子さんの作品『ツチアゲビ』はラン科の植物を忠実に描写した細密画で、他の展示作品とはやや趣を異にする。プロフィルによると、第20回アメリカボタニカルアーティスト協会展最高賞(2018年)、英王立園芸協会展最高作品賞(19年)。今やボタニカルアートの世界で第一人者として活躍しているようだ。作品には「日本画とは離れているように見えますが、植物を愛おしく見つめ、写生から学ぶ姿勢は古くからある花鳥画の視点に共通するものを感じます」とのコメントが添えられていた。

 守家美保子さんの『河伯(かはく)の居るところ』は池の畔で過酷な環境を生き抜いてきた大木を描く。河伯は河童(かっぱ)のこと。河童を愛した芥川賞作家火野葦平の旧居名が「河伯洞」(北九州市若松区)だったことを思い出した。ボタンの透き通るような花びらが美しい長谷川雅也さんの『―華―吟―』、無数の白菊の花で画面を埋め尽くした那須ちひろさんの『冬隣』、絹本着彩で闇夜に浮かぶ桜の花弁の透明感を表現した松原亜実さんの『春麗』、メルヘンチックな古田年寿さんの作品『昭和浪漫』なども印象に残った。

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<アンビリバボー> なに、これ? 巨大ナメクジ?

2023年02月25日 | アンビリバボー

【ヤンバルヤマナメクジか 6年前に沖縄で】

 2月24日の日経新聞朝刊「絶景で神頼み」に沖縄の斎場御嶽(せーふぁうたき)が掲載されていた。参道奥の巨岩がもたれかかった三庫理(さんぐーい)の大きな写真とともに。6年前に訪ねた懐かしい場所だ。久しぶりにパソコンで当時の写真を見返すうち、撮ったのもすっかり忘れていたこの巨大ナメクジのような画面が目に飛び込んできた。

 撮ったのは2016年10月6日、沖縄島中部の亜熱帯の森「ビオスの丘」(うるま市)を訪ねたとき。同伴の3人の仲間と共に「湖水観賞舟」に乗ってジャングルクルーズを楽しんだ。水辺の草花や野鳥のさえずり、水浴びする水牛など亜熱帯の雰囲気を堪能して船着場で下船。その直後、木製ベンチの端にこれまで見たことのない物体が張り付いていることに気づいた。

 胴体が薄茶色で太く、背中は模様がなく無地。全身ぬるっとした粘液で覆われているような感じだった。見た目、あまり気持ちのいいものではない。上のほうに這い回ったような粘液の跡も付いていた。ナメクジの仲間だろう。それにしても普通のナメクジに比べると、あまりにも大きい。そんな印象を抱きながら、その後調べることもなく済ませていた。

 今回ネットで「巨大ナメクジ」と検索すると、まず「マダラコウラナメクジ」がヒットした。まだ比較的新しい外来種で、2006年に茨城県で初めて発見されたという。その後、関東や東北を中心に分布域をじわじわ広げているそうだ。ただ名前の通り体全体が黒い斑模様で覆われている。日本の在来種で大きいものに「ヤマナメクジ」があることも分かった。だがこちらも脇腹の部分に帯状の黒い筋模様が走る。

 ヤマナメクジを調べるうち、沖縄に「ヤンバルヤマナメクジ」という類似種が生息していることが判明した。画像をチェックすると、大きくてほとんど無地。これに間違いないとほぼ確信した。ヤンバル(山原)は沖縄島北部の通称。ヤンバルヤマナメクジは主に常緑広葉樹イタジイ(スダジイの沖縄名)などの森に生息し、キノコや昆虫の死骸などを食しているそうだ。このナメクジも伐採されたイタジイと共に「ビオスの丘」まで運ばれてきたのかもしれない。

 ちなみに、ごく普通に見かける長さ5cmほどのナメクジの正式名は「チャコウラナメクジ」というそうだ。チャコウラは「茶甲羅」。ヨーロッパ原産の外来種で、日本には1950年代に米軍の物資に混じって持ち込まれたという。日本生態学会により「日本の侵略的外来種ワースト100」に指定されている。

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<大和郡山盆梅展> 丹精込めた花梅約120鉢

2023年02月23日 | 花の四季

【七分咲き、3月12日まで】

 春の訪れを一足早く告げる盆梅展が各地で開かれている。関西で最も有名なのが滋賀県長浜市の盆梅展。訪ねたのは随分前だが、今でも初めて盆梅を目にしたときの情景、見事な古木の枝ぶりが目に浮かぶ。奈良県大和郡山市の盆梅展は長浜が今年で72回目なのに対し、まだ20回目と歴史は浅い。だけど今ではすっかり大和路の春の風物詩として定着、連日多くの見物客でにぎわっている。

 大和郡山盆梅展の会場は郡山城跡の追手門・追手向櫓・多聞櫓(写真)。郡山城跡は「続日本100名城」の一つで、昨年11月には国の史跡にも指定された。主催は大和郡山盆梅展実行委員会(速見俊雄会長)。会場には愛好者が丹精込めて育てた花梅約120鉢がずらりと並ぶ。靴を脱いで櫓の建物内に入ると、花の甘い香りがマスク越しでも分かるほど漂っていた。

 この盆梅展を前回訪ねたのは2017年の第14回のとき。ということは6年ぶりになる。入場券の販売窓口には「七分咲き」と書いていた。だが、屋外に展示していた鉢植えはまだほとんどが蕾の状態。屋内では咲き始めのちらほらからほぼ満開のものまでばらつきがあった。咲き具合を関係者に問うと「例年よりやや遅め」とのこと。

 奈良県では大和郡山のほかに菅原天満宮(奈良市菅原町)の盆梅展も有名。一昨年2021年2月その天満宮を訪ねたとき、梅には大きく野梅、豊後、紅梅の3つの系統があり、野梅系は早咲き、豊後系は遅咲きが多いと教わった。開花時期も品種や生育環境によって違うようだ。

 展示中の盆梅は樹高が3m近いものから数十センチのものまで様々。花も一重に八重咲き、色も白、桃色、濃い紅色と多彩。樹齢が優に100年を超えるようなものもいくつもあった。小さい盆梅ほど咲き進んでいるものが多いように見受けられた。

 盆梅には名札が付いたものも多い。「舞姫」「紅姫」「悠妃」「春の淡雪」など優美な名前のものや「信玄」「順慶」「秀長」など戦国武将に因むものも。6年前に見かけたものも多く、久しぶりに友と再会するような懐かしさもあった。

 中には太い幹がほとんど空洞になったものも。それでも枝先などにぷっくりと膨らんだ蕾をいっぱい付けていた。老当益壮(ろうとうえきそう)。老いてますます盛んな盆梅の逞しい生命力に「まだまだこれから」と力をもらった1日だった。

 会場そばの「郡山城址会館」の前には「清明梅」と名付けられた梅林がある。2014年の市制60周年の記念樹として植樹された。こちらの梅林は枝垂れ梅が二~三分咲きで、ほとんどはまだ咲き始め。見ごろはもう少し先になりそうだ。ちなみに、この城址会館は1908年に日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内(現在の奈良県庁の南側)に建てられた旧奈良県立図書館の本館。1968年にこの郡山城跡の一角に移築された。

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<奈良市写真美術館> 「入江泰吉 万葉大和路とみほとけ」展

2023年02月19日 | 美術

【没後30年記念、未発表の仏像写真を含む81点】

 奈良市写真美術館(高畑町)で「没後30年記念 入江泰吉 万葉大和路とみほとけ」展が始まった(3月26日まで)。写真家入江泰吉は戦後ほぼ半世紀にわたって奈良の風物を撮り続けた。この美術館はその入江の作品を広く紹介するため1992年4月に開館した。そのため正式名にも奈良市の前に「入江泰吉記念」と付く。ところが美術館が開館する直前、入江は92年1月16日86年の生涯を閉じた。(写真は晩年の入江泰吉)

 今展での展示作品は大和路の風景や万葉集に詠まれた草花、仏像など合わせて81点。そのうち仏像写真は28点で、戦後まもない1940年代から50年代にかけガラス乾板で撮った未発表作品も多く含まれる。<みほとけ>の展示会場には入江が愛用したカメラ「リンホフ スーパーテヒニカ4×5in判」も三脚に載せて展示されていた。

 会場入り口正面には大きな『東大寺戒壇堂広目天像』が1枚展示されていた。1945年ごろガラス乾板で撮った作品。憤怒の表情には圧倒されるばかり。眉を寄せ細い目でこちらを凝視する。会場に入ると約30年後に別の角度から撮った『東大寺広目天像』もあった。その両側を『中宮寺菩薩半跏像』と『興福寺阿修羅像』が飾る。広目天像とは対照的な優しく柔和な面持ち。いずれも飛鳥・天平時代の最高傑作といわれる。

 『東大寺南大門金剛力士像 吽形』は力強い目鼻と筋骨隆々の胸の部分をほぼ目の高さからとらえた作品。解説文の中に「24時間365日いつでも見ることができる国宝仏像は全国的にも珍しい」とあった。そういえばそうか。これまで何度も南大門をくぐってきたが、そこまで思いを巡らせたことがなかった。仏像写真にはほかに『東大寺吉祥天像』や『興福寺舎利佛像』『薬師寺金堂薬師如来像』『聖林寺十一面観音像』など。いずれも仏さまの内面に迫る作品だった。

 <万葉大和路>の風景や草花の写真にはそれぞれ万葉歌が添えられていた。『残照二上山』には大伯皇女の「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む」。弟の大津皇子の亡骸を二上山に移葬したときに詠んだ哀歌だ。『東大寺境内夕月』の写真(㊤)には大伴家持の「振りさけて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも」、『砂ずりの藤に彩られた春日大社境内』には大伴四綱の「藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思うほすや君」。

 写真美術館からの帰り、近くの新薬師寺と興福寺の国宝館に立ち寄った。今回の仏像写真の中に『新薬師寺宮毘羅(くびら)大将像』や『興福寺五部浄像』などもあった。そこで改めて実物の仏像を拝観したいと急に思い立った次第。宮毘羅大将像は右手の剣で仏敵を今まさに突き刺すような勢いで、十二神将の中では最も動きのある像だった。一方の写真は上半身に焦点が当たっていた。

 興福寺の五部浄像は八部衆立像の中で唯一胸から下の部分が失われており、高さが約50cmと小さい。頭にはゾウの冠を被る。八部衆の中では三面六臂の阿修羅や沙羯羅(さから)が美少年の像として人気を集めているが、この五部浄もつぶらな瞳の童顔が可愛らしく改めて見入ってしまった。八部衆は奈良時代創建の西金堂で本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた。それから約1300年、興福寺はたびたび火難に襲われた。それを乗り越え8体が全部そろって現存しているのはまさに奇跡!

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<奈良大学博物館> 「古写真のなかの奈良」展

2023年02月17日 | メモ

【北村信昭コレクションのガラス乾板写真】

 奈良大学博物館で「古写真のなかの奈良」展が開かれている(3月20日まで)。副題に「奈良大学図書館所蔵北村信昭コレクションのガラス乾板写真」。北村信昭(1906~99)は明治時代に奈良市の猿沢池畔で「北村写真館」を開業した北村太一(1856~1911年)の孫に当たり、写真や文筆、民俗学など多方面で活躍した。太一は近代写真の草分け的存在といわれる。長州(山口)に生まれ、東京で写真技術を学んで写真撮影のため訪れた古都奈良の情景に魅せられ永住した。

 この写真展は明治~昭和初期の寺社や奈良公園周辺の風景など23枚の写真パネルで構成する。太一が撮影したものが18枚を占め、そのうち12枚は大型ガラス乾板で撮影されデジタル処理して引き伸ばした。これに信昭撮影分3枚と撮影者不明2枚が加わる。『東大寺大仏殿』は明治30~40年代の撮影。大仏殿は1903年(明治36年)から修理準備工事が始まって3年後本工事に着工、1915年(大正4年)に落慶供養が営まれた。写真は初層の屋根瓦が一部はがされ、下に建築資材も置かれていることから工事期間中のころとみられる。

 『興福寺五重塔から三条通方面を望む』(写真㊤)には南円堂の左下側の南大門跡の一角に三角屋根の茅葺きの建物が写っている。撮影時期は不明。五重塔からの写真は孫の信昭も残している。こちらは奈良市観光課からの依頼で1936年の春に撮影した。欄干を乗り越え屋根に三脚を設置して撮ったそうだ。信昭の『興福寺五重塔からの眺め』は3枚あり、このうち「荒池・奈良ホテルを望む」(写真㊦)には五重塔の眼下に大きな旅館が立ち並び、奥に奈良ホテルも見える。戦時中だった当時、一定高度以上からの俯瞰撮影は防衛上の理由で禁じられていた。そのため本来ならガラス乾板も処分しなければならなかったが、信昭が隠し持っていたという。

 『猿沢池畔』(写真㊦)の撮影時期は130年ほど前の明治20年代後期ごろ。北村写真館の2階から撮ったもので、松の木の奥に「は勢」(ハゼ)という暖簾が掛かった屋台が写る。ハゼは麦を炒ってはぜさせたものでコイの餌として売られた。池の畔には東西に2軒のハゼ屋があったそうだ。このほかに約120~130年前に撮影した『奈良帝室博物館(現奈良国立博物館)』や『猿沢池の池ざらえ』、現在の奈良市ならまちセンターの場所にあった『旧奈良市市役所』なども展示されている。

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<橿考研付属博物館> 特別陳列「豪族と渡来人―高取の古墳文化」

2023年02月14日 | 考古・歴史

【薩摩遺跡から市尾墓山・宮塚、与楽、束明神古墳まで】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で、特別陳列「豪族と渡来人―高取の古墳文化」が始まった。奈良盆地の東南部に位置する高取町には約800基の古墳があり、〝古墳密度〟は隣の明日香村を凌ぎ県内1位といわれる。昨秋、高取を代表する2つの前方後円墳、市尾墓山古墳と市尾宮塚古墳を初めて訪ねた。このブログでも取り上げた(10月11日)が、その4カ月後にまさか高取の古墳に焦点を当てた特別展が開かれようとは……。会期は3月21日まで。

 館内に入ると、展示会場入り口手前で市尾墓山古墳、与楽(ようらく)カンジョ古墳など4カ所の横穴式石室・石槨の360度回転映像が流れていた。会場では弥生時代後期~古墳時代前期(2-3世紀)の薩摩遺跡から始まって、古墳時代終末期(7世紀末)の束明神(つかみょうじん)古墳まで時代を辿る形で出土品や写真パネルなどを展示。薩摩遺跡の古墳群の周溝や集落跡からは当時の広域的な交流を物語るように近江、東海、吉備産などに加え韓式など外来系土器も出土した(上の写真)

 古墳時代前期も後半になると副葬品も充実。代表例としてタニグチ古墳群の1号墳を挙げる。直径20mの小型の円墳だが、銅鏡や鉄製甲、中国や朝鮮半島との関連をうかがわせる長大な素環頭大刀や鉄鉾などが出土した(上の写真)。中期に入ると、小規模墳の築造が本格化する。市尾今田古墳群の1号墳、2号墳には多数の武器・武具類が副葬され、ヤマト政権中枢との関係を示す帯金式甲冑、朝鮮半島の影響を受けた鉤状鉄器や鉄鉾も出土した。(下の写真は市尾今田2号墳出土の儀仗形埴輪)

 高取最大の前方後円墳、市尾墓山古墳は6世紀前半に築造された。墳丘長は70m、周濠と外堤を合わせると100mを超える。続いて6世紀後半にはその南西側に市尾宮塚古墳が築かれた。2つの古墳はいずれも国史跡。石室からは首長墓にふさわしい多彩な副葬品が見つかった。築造者は地元に拠点を置いた豪族巨勢氏とする説が有力で、墓山古墳の被葬者は継体天皇の擁立に関わった巨勢男人では、といわれる。その一方で稲目以前の蘇我氏とする説も。橿考研は「石室の系統が巨勢谷一帯でまとまる点、継体朝と関わりの深い遺物が見られる点は重視すべき事実であろう」としている。(写真は㊤市尾墓山古墳出土のガラス玉など、㊦市尾宮塚古墳出土の耳環やトンボ玉など)

 古墳時代後期には小規模墳が密集した群集墳の造営が盛んになる。その代表格が約100基からなる与楽古墳群(国史跡)で、一帯は渡来系集団東漢氏の墓域だったといわれる。渡来系集団の横穴式石室を市尾の首長墓と比べると、天井が高いことや釘付け式木棺を2つ並べて置くケースが多いことなどが大きな特徴。これらの石室の造り、釘付け式木棺、二棺並葬・夫婦合葬という葬制が「一体のものとして百済から伝わったと考えられる」という。

 渡来系集団の古墳の石室からは木棺を打ち付けた多くの鉄釘が見つかっている。ミニチュア炊飯具が副葬されることも多く、与楽古墳群では鑵子塚(かんすづか)、カンジョ、ナシタニ支群、寺崎白壁塚などから見つかっている(上の写真は与楽ナシタニ6号墳出土のミニチュア炊飯具など)。装身具ではかんざしの一種、釵子(さいし)や銀製の耳環などの出土例が目立つ。市尾宮塚古墳などで見つかった耳環は太めの中空で作ったものが中心だが、渡来系の群集墳からは細身の針金状で中実のものが多い。藤井イノヲク古墳群からは鍛冶具、ミニチュア農耕具、土器棺に転用した煙突形土製品、銀装円頭大刀などが出土した。被葬者は渡来系鍛冶工人の親方層ではないかといわれる。(写真は㊤藤井イノヲク12号墳出土の煙突形土製品、㊦同1号墳出土の鍛冶具など)

 終末期古墳の束明神古墳は対角長30mの八角形墳で、凝灰岩の切石を積み上げた横口式石槨を持つ。発掘調査は橿原考古学研究所と高取町教育委員会によって1984年に行われた。その被葬者として有力視されているのが天武天皇と持統天皇の間に生まれ、早世した草壁皇子(追号岡宮天皇)。宮内庁が皇子の陵墓として管理している岡宮天皇陵は少し離れた南側にある。橿考研付属博物館の前庭には束明神古墳の復元石槨が展示されている。

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<なら歴史芸術文化村㊦> 地域展「物部氏の古墳 石上・豊田古墳群と別所古墳群」

2023年02月10日 | 考古・歴史

【「発掘された日本列島2022」展と同時開催中】

 奈良県天理市の布留遺跡は古代の有力氏族、物部氏の拠点だった可能性が高いといわれる。その遺跡の北側に広がるのが石上(いそのかみ)・豊田古墳群と別所古墳群。それらの古墳群のこれまでの発掘調査の成果を一堂に紹介する地域展「物部氏の古墳 石上・豊田古墳群と別所古墳群」が、「発掘された日本列島2022」展開催中の「なら歴史芸術文化村」で同時に開かれている。文化村と天理市教育委員会の共催。

 石上・豊田古墳群と別所古墳群は合わせて270基を超える古墳を擁する群集墳。6世紀を中心に大型の前方後円墳や中小規模の円墳が相次いで築かれた。そのうち石上大塚古墳やウワナリ塚古墳、別所大塚古墳は全長が100mを超える。6世紀末に前方後円墳の造営が終わった後も、ハミ塚古墳や豊田トンド山古墳といった大型の方墳・円墳の造営が続いた。これらの古墳は布留遺跡を拠点とした首長クラスの墳墓とみられる。中小の古墳群は分布域によって○○支群と呼ばれる。支群の中でも墳丘や石室の規模が異なり、規模が比較的大きいものに狐ケ尾(きつねがお)、ホリノヲ、アミダヒラなどの支群がある。

 狐ケ尾支群は名阪国道天理東インターの西側一帯に広がる。これまでに古墳57基の存在が確認されており、これまでに5基で発掘調査が行われた。そのうち8号墳の横穴式石室からは大量の須恵器や土師器、馬具などの鉄製品が出土した(上の写真)。ホリノヲ支群の4号墳石室からは「双口(そうこう)はそう」と呼ばれる珍しい形の須恵器が見つかった(下の写真)。はそう(漢字は「瓦」の右に「泉」)は球形の胴部に注ぎ口の孔を持つ土器。出土品は2つのはそうが連接し、内部は粘土板で仕切られてそれぞれ独立した空間になっていた。この4号墳からは石上・豊田古墳群では最大の須恵器台付き長頚壷(高さ45.9cm)も出土している。

 展示品の中に「本物の革製品では」と見間違いそうな土器があった。その名も「革袋形須恵器」(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館蔵)。古墳時代の須恵器を網羅した田辺昭三著『須恵器大成』(1981年)には「石上古墳群出土」として紹介されているという。高さ12.2cm。革の綴じ目は刻み模様の突帯で表し、革の風合いを見事に表現していた。革袋形の土器は東北アジアで見られる革袋製の容器を模したものといわれ、国内での出土は100例に満たないそうだ。

 

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<なら歴史芸術文化村㊤> 「発掘された日本列島2022」展

2023年02月09日 | 考古・歴史

【全国各地の33遺跡約520点の出土品を展示】

 国内でこれまでに確認された遺跡は約47万カ所に上り、毎年約8000件の発掘調査が行われているという。文化庁は発掘の成果を公開するため1995年度から「発掘された日本列島」展を開いてきた。今年度の「発掘された日本列島2022」展は昨年6月の埼玉県さいたま市を皮切りに北海道伊達市、宮城県石巻市、宮崎市と巡回し、現在は最終地の奈良県天理市「なら歴史芸術文化村」で開催中(2月12日まで)。「新発見考古速報」と昨年度から始まった「我がまちが誇る遺跡」の2本立てで、合わせて33遺跡約520点の出土品を展示している。

 「新発見考古速報」で取り上げた遺跡は旧石器時代から縄文・弥生・古墳時代、さらに古代・中世・近代まで全国の14遺跡。「史跡取掛西(とりかけにし)貝塚」(千葉県船橋市)は縄文前期の集落で、貝塚が多く残る東京湾東岸部でも最古級の遺跡といわれる。貝塚からは多種多様な骨などが出土した。貝や魚をはじめイノシシ・シカ・タヌキ・キジ・カモ……。1万年前の食生活や環境を知ることができる点で全国的にも希少・貴重な遺跡という。

 「東小田峯遺跡」(福岡県筑前町)は弥生前期~中期の集落と墳墓の複合遺跡。墳丘墓や祭祀土坑から赤く塗られた丹塗(にぬり)の土器が大量に出土した(写真)。展示中の各地の出土品の中でも明るく鮮やかな土器の色合いがひときわ目を引いていた。古墳時代前期の「猪ノ鼻遺跡」(青森県七戸町)は発掘調査の結果、北東北の太平洋岸が北海道から南下した続縄文文化と、南東北以南から北上した古墳文化が複雑に入り混じった地域と分かったそうだ。

 古墳時代後期の「金井下新田遺跡」(群馬県渋川市)は6世紀初めの榛名山噴火による火山灰と火砕流で集落がそっくり埋まったまま出土した。火山灰の上面では逃れようとする人と馬の足跡が残り、避難の途中で窪地に落ち火砕流に埋まった10歳前後の子供2人と馬3頭も見つかった。展示中の「古墳人の首飾り」の下には「被災した子供が身に着けていた」と書き添えられていた。

 「新発見考古速報」では他に旧石器時代の「稚児野遺跡」(京都府福知山市)、江戸時末期から明治時代にかけて操業した日本最古の西洋式高炉「史跡橋野高炉跡」(岩手県釜石市)、1872年に開業した日本最初の鉄道の遺跡「史跡旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」(東京都港区)なども取り上げている。

 「我がまちが誇る遺跡」では長野県富士見町の「井戸尻遺跡群」、京都市の「公家が繋いだ京都の文化(公家町遺跡)」、和歌山県の「岩橋千塚古墳群と紀氏の遺跡」の3カ所を紹介。井戸尻遺跡群は八ケ岳西南麓に位置する縄文中期の遺跡で、60年以上前から地元住民が発掘調査と保護活動に取り組んできた。遺跡群の一つ、藤内遺跡から出土した縄文土器199点は2002年に国の重要文化財に指定されている。出土品の調査を基に考古学者藤森栄一氏は「縄文農耕論」を唱えた。英国の陶芸家バーナード・リーチや岡本太郎は土器の造形の素晴らしさに感嘆したそうだ。(写真は藤内遺跡出土の「双眼五重深鉢」)

 和歌山県の「岩橋千塚古墳群……」のコーナーでは古墳時代中期の5世紀に栄えた紀の川北岸と後期の6世紀を中心に多くの古墳が築造された紀の川南岸を比較しながら紹介している。(下の写真は北岸の楠見遺跡出土の楠見式土器)

 南岸の岩橋千塚古墳群は円墳を中心に約900基の古墳が集中する全国有数の群集墳。地域色を持つ竪穴式石室や形象埴輪が多く出土しており、国の特別史跡にもなっている。写真は㊤井辺(いんべ)八幡山古墳(南岸)出土の双脚輪状文埴輪、㊦鳴滝遺跡(北岸)出土の須恵器大甕と前山A58号墳(南岸)出土の馬形埴輪

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<なら工芸館> 「黒川和江 御所人形六十年の軌跡」展

2023年02月05日 | 美術

【裸姿の愛らしい人形や和紙の衣裳をまとった雛人形など60点】

 人形作家として関西を中心に長く活躍した黒川和江さんの作品展が「なら工芸館」(奈良市阿字万字町)で始まった。「黒川和江 御所人形六十年の軌跡」展(2月26日まで)。黒川さんは20代後半から人形作りに没頭し、日本伝統工芸展などで受賞を重ねた。後に同展の鑑査委員や日本工芸会近畿支部人形部会長、奈良県美術展覧会審査員なども務め、伝統工芸の継承・発展に尽くしてきた。今展は奈良県下で開く初の個展。ところが残念なことに2022年10月に逝去されたということで、生前を偲ぶ回顧展となった。

 黒川さんは1932年広島県生まれ。60年に京都の人形作家、面屋庄三氏(十三世面庄)に師事し、その後、人間国宝(重要無形文化財保持者)の桐塑人形師、林駒夫氏に入門して技を磨いた。1994年には第41回日本伝統工芸展で出品作『月光』が日本工芸会会長賞を受賞した。〝張抜胡粉(はりぬきごふん)〟という技法で横笛を手に月を見上げる裸童を表現した作品。当時の総評は「高い格調、形の単純化等が的確に表現され、冴え冴えとした仕上がりは見る者を共に月光の世界へ誘うような佳品」と絶賛している。

 今展の展示作は愛らしい裸形や豪華な衣装をまとった人形など60点。御所人形は木彫の型の上に貝殻を砕いた純白の胡粉を厚く塗り重ねて成形する。頭が大きくて真っ白い肌色の幼児の裸姿のものが多い。子どもの健やかな成長への願いが込められているという。その名は江戸時代、宮廷や公家など高貴な人たちの間で愛玩されたことに由来するそうだ。

 裸形の展示作品には一つひとつ『月の雫』『砂ずりの富士』『明日香の風』『雪舞い』などロマンチックなタイトルが付けられていた。『雛彩色 犬筥(いぬばこ)』は雌雄一対の犬を表現した箱型で、雛飾りとしても飾られることが多いという。『桐塑和紙貼 立ち雛』は桐の木粉にノリを混ぜた練り物で成形し、和紙を貼って仕上げた立ち姿の雛人形。赤と金色を基調とした和紙の煌びやかな輝きが美しい。

 桐塑和紙貼の作品は他に『農婦』『舞妓』『十三詣り』なども。力士をかたどった4体の作品は『関取』と『相撲』の2つが和紙貼で、『初場所』と『闘志』の2つは和紙の代わりに布を使った桐塑布貼。『立ち児 童女・若宮・童子』と名付けられた作品3点はふくよかな表情と豪華な着物の衣装が目を引いた。

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<キャット> 庭を訪ねてくれたネコたち

2023年02月01日 | メモ

【飼い猫?野良猫? 黒・白・茶トラ・キジトラ…】

 新型コロナ騒ぎもあって在宅時間が長くなったせいか、庭を眺める時間も長くなった。すると、野鳥たちとともに庭にやって来る猫も多いことに気づいた。全身真っ黒のネコは最初「シャー」と威嚇してきたが、次第に懐いていつの間にかじゃれ付くように。茶トラ模様の猫もたびたび庭に姿を見せた。が、やがて2匹とも突然姿を消した。飼い猫だったのか? 猫にはそれまであまり関心がなかった。しかし最近「ペットロス」という喪失感が少し分かるような気がしてきた。

 黒猫は最初にやって来たとき、まだ生後半年か1年だったかもしれない。体が少し小さめだったような気がする。2週間ほどは近づくと「シャー」と怖い顔を向けてきた。だがペットフードをあげるうち敵じゃないと分かってくれたようだ。そのうち庭にいる時間も長くなって、ハナミズキの木によじ登って爪を研いだり、屋外に置いたロッキングチェアでしばし眠ったり。

 軒下の洗面器の中で丸まって熟睡していたこともあった。なかなか賢いことには感心した。「待て」「よし」「あっち」といった言葉にも、その意味を分かってくれているように反応してくれた。ところが、その後突然姿を消してしまった。黒猫の右耳にはV字に切り込みが入っていた。後でそれが避妊手術済みを表す“さくら猫”だったことを知った。やっぱり飼い猫だったのか。

 それからしばらくして茶色のトラ柄模様のネコがやって来た。茶トラはほとんどがオスだそうだが、この猫もオスだった。後姿を見ると、立派なタマタマがぶら下がっていた。ただ、前の黒猫が「ニャーオー」と可愛らしい鳴き声を上げていたのに対し、この猫は全くの無口。超接近した時「ブー」という威嚇するような声を数回発しただけだった。ただ餌を与えるうち少し馴れると、開け放したガラス戸からいつの間にか家の中に入り込んでいたことも。茶トラは好奇心が旺盛というが、まさにその通りだった。この猫も数カ月たつと、突然庭から姿を消してしまった。『210日ぶりに帰ってきた奇跡のネコ』(藤原博史著)という本を読んだのもその頃だった。

 庭には尻尾がふさふさの猫もやって来た。よく見かける三毛猫や黒猫、茶トラとは違って全身に気品のようなものが漂っていた。洋猫の系統で飼い猫かもしれない。これまでに見かけたのは確か2回。いつだったか、近所の方から「うちのネコがいなくなって」という声を掛けられたことがあった。もしかしたら、このネコだったのかもしれない。

 その後も全身が真っ白い猫や、黒い縞模様のキジトラ柄の猫も時々やって来た。白猫は目立ちやすいため警戒心が強いといわれる。たまたま見かけたとき、そっとガラス戸に近づくと、すぐ下側でしばらく何かを漁っていた。草でも食んでいるのだろうか。たまたま望遠レンズだったため、顔が大写しになってしまった。キジトラは屋外の皿に入れていた何かのスープの残りを飲んだ後、満足そうに舌なめずりしながら帰っていった。

 つい数日前、鮮やかなグリーンの瞳の黒猫がやって来た。全身漆黒の毛にまるで宝石のようなエメラルドグリーン。ガラス戸越しに目が合うと、逃げるように早足に去っていった。以前撮った写真の中に、同じような瞳が緑色の黒猫がいた(写真)。撮ったのは最初に取り上げた黒猫がよくやって来た頃。その猫の瞳が光の加減で緑色に写ったのだろうか。右耳に切れ込みがあるように見えなくもない。ただ、いつもの瞳の色とあまりにも違いすぎる。そして今回の遭遇。神秘的な瞳を持った猫にもう一度会いたい。できれば友達になりたい。そう願いながら、在宅中カメラを身近に置いて時々庭を見つめている。

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