く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良大学博物館> 「南都・厳島図屏風」初公開!

2022年03月26日 | 美術

【奈良大学所蔵「絵画優品展」で】

 奈良大学博物館で「令和3年度館蔵品展Ⅱ 絵画優品展」が始まった。注目の作品は収蔵品として新たに加わった今回初公開の八曲一双「南都・厳島図屏風」。江戸時代初期の興福寺から東大寺にかけての奈良の景観が描かれた南都図屏風と、安芸の宮島が描かれた厳島図屏風が対になっている。そのうち南都図には東大寺の大仏殿がなく雨ざらしのままの大仏が描かれている。露座の大仏を描いた作品は少ないだけに話題を集めそうだ。

 南都図屏風には向かって右側から元興寺や興福寺、春日大社、東大寺などが描かれ、東大寺の部分には南大門や二月堂、鐘楼などが確認できる。露座の大仏が描かれているのは屏風左側の下の部分(写真㊤)。東大寺は戦国時代の1567年(永禄10年)、松永久秀と三好三人衆が激突した「東大寺大仏殿の戦い」の舞台となって、大仏殿は焼け落ち大仏自体も上半身が無残に溶け崩れた。大仏の修理が完了し開眼供養が営まれたのはそれから100年以上後の1692年(元禄5年)。大仏殿の再建にはさらに月日を要し、1709年(宝永5年)に落慶法要が営まれた。この屏風はその間の近世初頭の奈良の姿を表したものとして貴重な作品といえる。

 南都図屏風には春日若宮おん祭りのお渡り式(風流行列)の様子も詳細に描かれている。その中には今も春日大社一の鳥居のそばで行われている松の下式や御旅所祭などの様子も。松の下式の場面に見える松の木は能舞台の鏡板に描かれる老松のモデルとされる〝影向(ようごう)の松〟のクロマツだろう。厳島図屏風(写真㊤)は宮島の厳島神社を本州側から眺めた構図。ただ、この作品には「建築描写は実景と異なる点が多く、作者は実際に厳島神社を見ていない可能性がある」との注釈が付いていた。

 大仏の復興と大仏殿の再建は江戸時代のお伊勢参りなどの旅行ブームもあって、奈良も大仏詣での人々で大賑わいだった。今展には「大和名所図会」「春日大社若宮祭礼図」など江戸時代の旅行者向けの観光案内書も展示中。同時に江戸時代の六曲一双の「源氏物語図屏風」(写真㊤)や「源氏物語色絵」「源氏物語歌歌留多」、江戸前期~中期に京都で活躍した浮世絵師西川祐信(1671~1750)の「絵本常盤草」の美人画(写真㊦)、江戸後期の戯作者為永春水(1790~1844)の「薄俤幻(うすおもかげまぼろし)日記」なども展示している。優品展の公開は4月23日まで。

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<奈良県立美術館> 所蔵名品展「奈良県美から始める展覧会遊覧」

2022年03月24日 | 美術

【絵画、浮世絵、陶磁器、染織品、甲冑…】

 奈良県立美術館(奈良市登大路町)が開館したのは1973年(昭和48年)。日本画家・風俗史研究家吉川観方氏(1894~1979)からの膨大なコレクションの寄贈が契機となった。それからほぼ半世紀。その後も篤志家の寄贈が続いたこともあって、収蔵品は4000点を超え関西有数の美術の殿堂となった。「奈良県美から始める展覧会遊覧」と銘打った今展では、日本の書画や洋画をはじめ陶磁器、刀剣甲冑、浮世絵、染織品など多岐にわたる収蔵品の中から選りすぐりの名品が約170点(前後期合わせ)展示されている。

 6つの展示室のうち最初の第1室には寄贈者やジャンルを問わず作品がランダムに並ぶ。まず江戸時代初期の『伝淀殿画像』(写真㊤)、伝曽我蕭白の『瀧山水図』、富本憲吉の『金銀彩羊歯模様大飾皿』、〝アクションペインティング〟で有名な白髪一雄の作品2点、奈良出身のグラフィックデザイナー田中一光の『写楽二百年ポスター』など。奥に進むと葛飾北斎の『富嶽三十六景相州七里浜』や狩野探幽の『春日若宮御祭図屏風』(写真㊦)、祗園井特の『美人図』、野見山暁治の『脱ぐ女』、田中敦子の『90E』……と続く。田中敦子(1932~2005)は白髪一雄と同じく具体美術協会の会員として活躍した。出身は大阪市だが、1972年に奈良・明日香村にアトリエを構えた。

 第2~第6室は寄贈者別とともに、奈良ゆかりの作家の作品を工芸編、絵画彫刻編に分けて展示。吉川観方のコレクションには100点を超える浮世絵が含まれる。葛飾北斎の『瑞亀図』は庭の井戸から現れた大きな亀に老夫婦がお酒を飲ませる構図で長寿の祝いを表現した。竹内栖鳳の六曲一隻『保津川之図屏風』、橋本雅邦の六曲一双『烏鷺図屏風』、太田垣蓮月の『和歌短冊帖』などもありコレクションの幅の広さを表す。白髪一雄の作品は実業家・化学者大橋嘉一(1896~1978)のコレクションの中でも2点紹介されている。奈良・柳生出身の哲学者由良哲次(1897~1979)のコレクションでは雪村の『山水図屏風』、池大雅の『夏山水図』、大雅の妻池玉瀾の『墨梅図扇面』など。曽我蕭白の代表作の一つ『美人図』は前期に展示されていた。

 第3室には富本憲吉の作品を15点ほどまとめて展示中。皿や壷、茶碗、鉢など様々な形と意匠の作品が並び、〝大和時代〟から〝東京時代〟にかけての作品をじっくり堪能できる。ここには北村大通、北村昭斎父子の漆芸作品も1点ずつ展示中。北村家は代々、正倉院など奈良の社寺の宝物修理を手掛けてきた。昭斎は螺鈿の重要無形文化財保持者(人間国宝)。第5室には奈良県ゆかりの作家の絵画彫刻編として、浜田葆光の『水辺の鹿』、不染鉄の『奈良風景』、平山郁夫の大作『長安の残輝』、絹谷幸二の『チェスキーニ氏の肖像』などが展示されている。充実した展示内容に時間を忘れるほどだった。会期は3月27日まで。

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<カラー映画の日> 国産初「カルメン故郷に帰る」公開

2022年03月22日 | メモ

【1951年、主演高峰秀子と助監督松山善三の出会い】

 終戦間もない1951年3月21日、〝日本初の総天然色映画〟と銘打ったカラー映画「カルメン故郷に帰る」が公開された。松竹映画30周年を記念した1時間26分のコメディー調の娯楽映画。監督は木下恵介で、高峰秀子が主演を務め、ほぼ全編が浅間山麓の大自然の中で撮影された。国内初とあって万一に備えモノクロ映画も用意されたが、無事に完成しカラフルな映像が人気を集めた。これを記念して公開日の3月21日は「カラー映画の日」になっている。

  

 高峰の役は都会でストリッパーをするリリィ・カルメン役。カルメンは同僚の踊り子を連れて浅間山麓の村に里帰りし、母校の小学校の校長先生をはじめ村人たちに村出身の〝芸術家〟として歓迎される。しかし素朴な村の佇まいにそぐわないカルメンたちの立ち居振る舞いが大騒動を引き起こすことに――。浅間山の山頂からは絶えず白い噴煙。当時の火山活動の活発な様子を表しており、大自然の雄大さに彩りを添えていた。久しぶりにDVDを借りてきて観賞したが、高峰秀子の溌剌とした歌と踊り、脇を固める笠智衆・佐野周二・望月優子らの名演技を改めて堪能できた。

 この映画に一人の若い男性が助監督6人の中に名を連ねる。後に高峰秀子と結ばれる松山善三だ。高峰より一つ年下。「カルメン」の撮影時、木下監督が逗留先の旅館で高峰と打ち合わせしていると、襖の向こうから「先生お客様がお見えになりました」と声が掛かる。男性は廊下で手をついていた。高峰は礼儀正しい人との印象を持ち、監督に「あの人、だあれ?」と聞く。それが松山だった。助監督といっても名ばかりで、ロケ地の浅間草原では牛を追うなど雑務に振り回されていた。以来、高峰と松山は徐々に親しくなっていく。

 1953年秋、木下監督の「二十四の瞳」の撮影は小豆島で佳境に入っていた。松山は引き続き木下組の下で助監督を務めていた。ある日、松山は意を決し木下に「高峰秀子さんと付き合わせてください」と話す。この言葉に木下は驚き「身の程をわきまえなさい!」と諭したという。それはそうだろう、映画1本の出演料が100万円の大スターに対し月給1万円余の助監督。だが木下は後日「松山君が秀ちゃんと付き合ってみたいですって。人物は僕が保証します」と高峰に伝える。その経緯は高峰が半生を綴った著書『わたしの渡世人生』や、後に松山家の養女となる斎藤明美の『高峰秀子の流儀』『最後の日本人』などにも詳しい。

 挙式は1955年3月26日。高峰は結婚した時、松山にこう言ったという。「私はいま、人気スターとやらで映画会社がたくさんの出演料をくれていますが、くれるお金はありがたくいただいて、二人でドンドン使っちゃいましょう。でも、女優商売なんてしょせんは浮草稼業。やがて私が単なるお婆さんになったときは、あなたが働いて私を養ってください」。結婚から6年目、松山は自身の脚本による「名もなく貧しく美しく」で監督デビューを果たす。主演は高峰秀子と小林桂樹。その後も「典子は、今」「人間の條件」「人間の証明」「恍惚の人」など数多くの脚本を手掛けた。広島の原爆を題材とする「一本の鉛筆」(歌美空ひばり)の作詞者としても知られる。

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<牽牛子塚古墳> 復元整備事業が完了し公開

2022年03月20日 | 考古・歴史

【八角墳、女帝斉明天皇と娘間人皇女の合葬墓?】

 奈良県明日香村が2017年度から取り組んでいた飛鳥時代を代表する終末期古墳「牽牛子塚(けんごしづか)古墳・越塚御門(こしつかごもん)古墳」の復元整備事業が完成し一般公開が始まった。近鉄飛鳥駅から西へ1キロほど(徒歩で約15分)。牽牛子塚古墳は丘の上にまるで白亜のピラミッドのように聳える。そのすぐそば、南東側の裾の部分には小さな方墳の越塚御門古墳。この二つの古墳を巡る回遊路のほか模型広場や展望広場なども整備した。

 牽牛子塚古墳は墳丘の姿がアサガオの花の形に似ることから「あさがお塚」とも呼ばれてきた。築造時期は7世紀の後半。大きさは対辺長が22mで、墳丘の最下段を築造当時の大きさに合わせて復元した。内部の発掘調査では二上山の凝灰岩の巨石を刳り抜いた埋葬施設の墓室が二つあり、副葬品の玉類や人骨などが出土した。この古墳は立地や形態などから斉明天皇と娘で孝徳天皇の后の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬した「小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)」ではないかといわれている。

 八角形の古墳は畿内に5つある。そのうち3つは宮内庁により天皇陵に治定されている。段ノ塚古墳(奈良県桜井市)は舒明天皇陵、御廟野古墳(京都市山科区)は天智天皇陵、野口王墓古墳(明日香村)は天武・持統天皇陵。牽牛子塚古墳は国指定史跡になっている。同じ明日香村にあるもう一つの八角墳、中尾山古墳も国の史跡で、文武天皇陵とする説が有力になっている。

 越塚御門古墳は発見からまだ日が浅い。2010年に牽牛子塚古墳の発掘調査で埋め戻す際に偶然見つかった。一辺約10mの方墳。日本書紀の天智天皇6年(667年)の条に、「小市岡上陵」の前に大田皇女を埋葬したとの記述があることから、被葬者は大田皇女である可能性が高い。大田皇女は斉明天皇の孫で、天智天皇の娘に当たる。この古墳の新たな発見で、この地に斉明天皇が娘と孫娘と共に眠っている可能性がますます大きくなってきた。国は2014年、史跡名を「牽牛子塚古墳」から「牽牛子塚古墳・越塚御門古墳」に変更した。明日香村は4月1日から5月末まで事前予約制で石室の特別公開を予定している。

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<橿考研付属博物館> 「よみがえる極彩色壁画」展

2022年03月17日 | 考古・歴史

【高松塚古墳の壁画発見50周年記念展】

 奈良県明日香村の高松塚古墳で国内初の極彩色の壁画が見つかったのは今からちょうど50年前の1972年(昭和47年)のこと。3月6日の慰霊祭の翌日から奈良県立橿原考古学研究所と明日香村による発掘調査が始まり、15日目の21日正午すぎ、石槨南壁に開けられた盗掘孔から内部を覗いて壁画が発見された。橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)では壁画発見50周年を記念し「よみがえる極彩色壁画」と題した記念展を開いている。

 館内に入ると右側の壁面で「報道で振り返る高松塚古墳」として朝日新聞の記事をもとに壁画発見当時の様子を紹介。壁画発見の公表は5日後の3月26日で、翌27日以降、新聞の一面や社会面などに「戦後最大の発見」「法隆寺壁画に匹敵」「考古学史に新ページ」などの見出しが躍った。改めて当時の興奮ぶりが紙面からも伝わってくる。ただ4月4日付には「壁画に黒カビ 急速に繁殖のおそれ」という記事も。残念ながらその危惧は的中。壁画の劣化が進んで、その後、石室の解体や壁画の取り出し修理につながっていく。

 特別展示室に通じる通路左側の壁面は発見当初の色彩や質感を忠実に再現した複製陶板が飾る。特別展示室では原寸大の壁画のパネル写真や副葬品の海獣葡萄鏡、ガラス製の小玉、木棺の飾り金具などを展示中。その一角には被葬者とみられる人骨の一部も。鑑定の結果、熟年の男性のものとみられるという。発掘調査時の測量図や壁画発見当日の詳細な日誌なども並んでいる。記念展の会期は3月21日まで。残り僅かだ。

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