く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<中津・寺町通り> ひときわ目を引く赤壁の合元寺

2018年08月12日 | 旅・想い出写真館

【黒田官兵衛ゆかりの地、石畳の両側に12カ寺】

 大分県中津市のメインストリート福沢通り。その西側にある石畳風の寺町通りには戦国~江戸時代開創の寺院を中心に12カ寺が立ち並ぶ。この町は中津城の総曲輪(そうぐるわ)内の東側に位置し、城下の防衛を目的に造られたといわれる。寺院の中でひときわ目を引くのが黒田孝高(如水)ゆかりの合元寺(ごうがんじ)。外壁などが色鮮やかに赤く塗られており「赤壁寺」とも呼ばれる。

 豊臣秀吉から豊前国を与えられた〝軍師官兵衛〟黒田孝高は中津入部の際、播磨国姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移し、空誉上人を開山に迎えて合元寺を建立した。ただ、地元の武将の宇都宮鎮房(しげふさ)は孝高の入部に反旗を翻す。鎮房は中津城内で誘殺され、合元寺に待機していた家臣たちも黒田勢の急襲で全員斬り伏せられた。

 

 その血で寺の壁は真っ赤に染まった。その後、壁は何度白く塗っても血が染み出してくるので、やむなく赤く塗ったという。赤壁の背後にはそんな血なまぐさい伝説があった。山門をくぐって左手には「お願い地蔵」が祀られていた。3つの願い事を聞き届けてくれると評判で〝三願成就の地蔵尊〟と親しまれている。あの福沢諭吉も祈願したそうだ。そばには健康や家内安全、商売繁盛、受験合格などを祈願する絵馬が所狭しと掛けられていた。

 

 中津城の城主は黒田氏から細川氏、小笠原氏、そして奥平氏と移り変わる。黒田藩時代には合元寺のほか大法寺、円応寺、西蓮寺も造られた。大法寺には加藤清正を祀る浄池宮や「慶安の変」で有名な由井正雪が植えたという塩釜桜、大石良雄(内蔵助)奉納という2基の石灯籠などがある。円応寺の境内にある〝河童の墓〟と呼ばれる五輪塔は、中津城内で誘殺された宇都宮鎮房に一の太刀を浴びせた野村祐勝(黒田二十四騎の一人)の墓といわれている。西蓮寺は黒田孝高の末弟で兄に従って中津に来た光心師(俗名黒田市右衛門)によって1588年に開かれた。

 

 孝高入部以前からある寺院は地蔵院と安随寺。黒田藩以降では細川藩時代の普門院、宝蓮坊、本伝寺、小笠原藩時代の円龍寺と浄安寺、奥平藩時代の松巌寺がある。円龍寺には閻魔大王像を安置した焔魔堂があり〝えんまさまのお寺〟として知られる。山門を入ってすぐ左手には戦国大名で茶人の古田織部が考案したという「織部灯籠」(県指定有形民俗文化財)が立つ。竿の上部が膨らむ形が十字架を、下部に彫られた人物像が聖人をイメージさせることから隠れキリシタン礼拝用とみる説もあり〝キリシタン灯籠〟と呼ばれている。寺町通りを抜けた所には福沢諭吉が長崎遊学までの幼少・青年期を過ごした茅葺きの旧居と、西南の役の中津隊隊長増田宋太郎の生誕の地の石碑があった。

 

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<唐戸市場> 新鮮・格安! 寿司、海鮮丼、ふく汁…

2018年08月05日 | 旅・想い出写真館

【観光客の人気集める週末の「活きいき馬関街」】

 〝関門の台所〟といわれる山口県下関市の地方卸売市場「唐戸(からと)市場」。食のプロだけでなく一般向けにも小売りをする全国でも珍しい市場として知られるが、ここで週末に開かれる「活きいき馬関街(ばかんがい)」が観光客の人気を集めている。とれとれのネタを使った新鮮なにぎりや海鮮丼などをその場で味わえるとあって、大勢の観光客で毎回大賑わい。外国人観光客の姿も目立ち、今や関門観光の目玉の一つになっている。

 「活きいき馬関街」(馬関は昔の下関の呼び名)は新鮮な魚介をリーズナブルな価格で味わってもらおうと2002年にスタートした。原則として金~土曜は午前10時~午後3時、日曜と祝日は午前8時~午後3時に開いている。開催日には市場内の中央通路を挟んで左右に20店舗ほどが出店し、各店自慢のにぎり寿司や海鮮丼、揚げ物などが並ぶ。

 

 寿司ネタは多種多彩。もちろん下関を代表する味覚フグのにぎりも。下関ではフグは「不遇」に通じるとして福を招くように「フク」と呼ぶ。ほとんどの店が1貫単位で販売している。単価は100円から。客は受け取ったトレイに好みの寿司を載せて精算してもらう。別の店で気に入った寿司があれば同じトレイに載せることもできる。まさに寿司バイキング。鮮度抜群のカラフル寿司が並ぶ様子は圧巻そのものでまるで〝寿司のテーマパーク〟のようだった。

 

 市場内の1階と2階に飲食スペースが設けられているほか、屋上の芝生広場や海側で関門海峡を眺めながら買った寿司などを味わうことができる。市場を訪ねてからちょうど1週間。その時食べたのは海鮮丼にウナギ2貫とフグの唐揚げ、それにビール2缶。だけど今もずらりと並ぶ新鮮な寿司ネタの数々が目に焼きついて離れない。また行きたい! その時にはトレイで寿司を1貫ずつ選んで、食べ忘れた〝ふく汁〟もぜひ食してみたい。

 

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<杵築> 全国唯一の〝サンドイッチ型城下町〟!

2018年08月03日 | 旅・想い出写真館

【谷間の商人の町を挟んで南北の台地に武家屋敷】

 大分県杵築市は豊後路の小京都といわれる。国東半島南部の付け根に位置し、江戸時代には杵築城を中心に南北の台地に武家屋敷群、その間の谷あいに商人の町が築かれていた。今も往時の面影を色濃く残す町並みは、日本唯一の〝サンドイッチ型城下町〟と形容される。高台と谷間を結ぶ数々の坂道が独特な景観をつくり、町並みに味わい深い風情を醸し出していた。

 杵築の坂道を代表するのが商人の町と〝北台〟の武家屋敷をつなぐ「酢屋(すや)の坂」。その名前は坂を下りた所に酢を扱う商店があったことから。坂道の上と中ほどには黒塗りの燈籠。この坂道は度々映画やテレビのロケ地になっているそうだ。坂は直線だが、下側の道幅が狭く、上に行くと広くなる。このユニークな構造は敵が坂の下から攻めにくくするための工夫だったのではないかといわれる。

 

 商人の町を挟んで「酢屋の坂」の向かいには「塩屋(志保屋)の坂」が〝南台〟の武家屋敷に上っていく。それぞれの坂の上から望むと、この城下町がまさにサンドイッチ型であることを実感することができた。南台につながる「飴屋の坂」は数少ない〝く〟の字形に折れ曲がった坂道。雨が降る暗い夜でも石畳が光ってよく見えることから「雨夜の坂」とも書き表される。北台の東の端にある「勘定場の坂」は傾斜が緩く階段の踏み幅もかなり広め。これは馬や籠かきの歩幅に合うように配慮したものといわれる。

 

 杵築城は八坂川の河口にある台山(だいやま)の上にそびえる。1970年に歴史資料館を兼ねて建てられた小規模な模擬天守だが、眼下に海や川、杵築の市街地などを望む360度の見晴らしは絶景そのものだった。ここからの眺めでも南北の高台とその間に挟まれた商人の町のサンドイッチ型の町並みをはっきり確認することができた。また南台の展望台からは杵築城や八坂川、杵築大橋などを遠望することができた。

 

 北台の武家屋敷は長い土塀や白壁、石畳が続き、江戸時代の面影を多く残していた(下の写真㊧)。酢屋の坂を上りきってすぐ右手にある大原邸は家老を務めた武家屋敷で、中島付きの池などを配した回遊式庭園を持つ(同㊨)。茅葺きで、4年前に26年ぶりに約4600万円を投じて葺き替えたそうだ。近隣には能見邸や磯矢邸、杵築藩の藩校「学習館」の門なども残る。商人の町には市役所や新しい商店が立ち並ぶが、その間に「綾部みそ」など江戸時代から続くという商家も点在していた。杵築は〝きものが似合う歴史的町並み〟として、和服で訪れた人に公共観光施設の入館無料、飲食代の割引などのサービスを提供しているそうだ。

 

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<徳川園> 尾張徳川家邸宅跡に池泉回遊式庭園

2018年06月06日 | 旅・想い出写真館

【2004年に開園、江戸下屋敷跡から出土の滝も再現】

 「徳川園」は名古屋城本丸の東約3キロに位置する池泉回遊式の日本庭園。元々は尾張藩第2代藩主徳川光友(1625~1700)が1695年(元禄8年)に隠居所として造営した大曽根下屋敷の跡地で、1931年に名古屋市が尾張徳川家から邸宅と庭園の寄付を受けた。戦時の空襲で表門を残して焼失してしまい、戦後は葵公園(一般の都市公園)として市民に開放していたが、これを日本庭園として再整備し14年前の2004年に徳川園として再オープンした。

 庭園の中心的存在は地下水を水源とする広大な「龍仙湖」。その南側から東側にかけて、鯉が滝を登って龍になるという登竜門伝説に基づく「龍門の瀧」、新緑のもみじの木々が渓谷を覆う「虎の尾」、落差6mの三段の滝「大曽根の瀧」、中国杭州の西湖の湖面を直線的に分ける堤防を縮景したという「西湖堤」、花菖蒲がちょうど見頃の「菖蒲田」などがある。「龍仙湖」の西側には2代藩主光友の諡号(しごう)瑞龍院から名付けられた茶室「瑞龍亭」が佇む。

 

 「龍門の瀧」は東京・新宿の尾張家江戸下屋敷跡から出土した大規模な滝の石組みの遺構を元に徳川園で再現したもの。遺構は1998年に現在の早稲田大学戸山キャンパス内で見つかった。出土した石材は伊豆石と呼ばれる安山岩で、総数360個、総重量250トンに上る。江戸城築城の余り石と推定されているそうだ。これらの石材を名古屋市が同大学から譲り受け江戸下屋敷の庭園にあった滝を蘇らせた。

 

 2代藩主光友を巡っては花菖蒲を愛し、江戸屋敷に菖蒲園を造って観賞したという記録も残っている。花菖蒲は大きく分け江戸系、肥後系、伊勢系に分類されるが、そのうち江戸系は光友が各地の野生の花菖蒲を栽培し交配させたのが始まりともいわれる。徳川園の菖蒲田にはその江戸系を中心に約1700株が植えられており、来園者たちが咲き誇る色とりどりの花をカメラに収めていた。

 

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<草津宿> 本陣は往時の面影を色濃く残す国の史跡

2018年04月25日 | 旅・想い出写真館

【29日開催の「宿場まつり」は今年50回目の節目】

 草津宿(滋賀県草津市)は東海道五十三次の江戸から数えて52番目の宿場町。しかも中山道の合流地点とあって、江戸時代には本陣・脇本陣各2軒をはじめ多くの旅籠が軒を連ねてにぎわった。草津宿本陣は往時の面影を残す東海道筋で唯一の本陣といわれ、国の史跡に指定されている。4月29日には「第50回草津宿場まつり」が開かれ、街道筋を中心に時代行列など多彩なイベントが繰り広げられる。

 JR草津駅側から草津川跡地公園の下のトンネルをくぐると、すぐ左手に燈籠を載せた追分道標が立つ。東海道と中山道の分岐点を示すもので、約200年前の1816年(文化13年)に建立された。街道筋を直進した所に鎮座する立木神社の境内には、その前身とみられる石造道標がある。こちらの建立時期は1680年(延宝8年)で、県内に現存する道標としても最も古いとのこと。2つとも市文化財に指定されている。

 

 本陣の利用は大名や旗本、勅使、公家などに限られ、参勤交代などでの宿泊は1年近く前から準備が進められたという。ただ草津宿にあった本陣は2軒とも同じ田中姓だったため、本陣間違いなどのトラブルが結構あったそうだ。現存する本陣は田中七左衛門家のもので、追分道標から程近い所にある。主人は裃を着用して玄関口で主客を出迎えた。その玄関広間の正面には宿泊する大名などの名前を大書して掲げた当時の宿札(関札)がずらりと並ぶ。本陣内で最も格式が高く主客が使った部屋は「上段の間」と呼ばれ、長い畳廊下の一番奥に位置する。

 

 本陣には元禄年間から約180年分の大福帳(宿帳)が残されている。その中には1699年(元禄12年)7月に浅野内匠頭と吉良上野介が9日違いで宿泊したことを示すものもあった。江戸城内での刃傷事件の2年前に当たる。宿泊者の中には後に15代将軍になる徳川慶喜や新撰組副長の土方歳三なども。竈(かまど)が並ぶ台所では皇女和宮が1861年(文久元年)に本陣で取った昼食の献立が再現されていた。

 

 街道筋の建物では重厚な造りの太田酒造道潅蔵なども目を引いた。太田家は江戸城を築城した太田道潅を祖とするという。その近くには街道や宿場町の歴史を紹介する草津宿街道交流館もある。ただ街道筋では高層のマンションが目立ち、今も新しく14階建てマンションの建設が進む。このまま進むと、かつて栄えた宿場町という面影はいずれ本陣や道標、そして宿場まつりなどだけになるかもしれない。その様子は同じ宿場町でも妻籠宿(長野県)などのように「(家や土地を)売らない・貸さない・壊さない」を3原則に江戸時代の町並み保存に取り組む宿場町とはまさに好対照だ。

 それはそれぞれの立地によるのかもしれない。草津は大津や京都に近く交通の便がいいこともあって住宅需要が旺盛。一方、妻籠宿や奈良井宿、海野宿、関宿などは観光資源として町並み保存の方向を選択した。これらの宿場町は国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。長い歴史を誇る同じ宿場町だが、それぞれの往き方をどう評価すべきかという判断は実に難しい。草津宿では今年、宿場まつり50回目を記念し、時代行列で宝塚歌劇団のOG8人が篤姫や和宮など主要な役柄を務めるそうだ。前夜祭では宿場まつりサミット、草津能の夕べなども予定されている。

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<中津城> 初代城主は戦国時代の名軍師黒田官兵衛

2017年09月22日 | 旅・想い出写真館

【今春には〝続日本100名城〟の一つに】

 別府の温泉に一泊した翌日はレンタカーで小倉へ。JRに乗る予定だったが、台風18号の九州直撃で始発から運休。やむなくレンタカーを借りて雨の中、国道10号を北上したが、そのおかげで途中、初めて中津城(大分県中津市)に立ち寄ることができた。中津城は名軍師と謳われた黒田孝高(官兵衛・如水)が築城を始め、後に入城した細川忠興が完成させた。中津川(山国川の派川)の河口に位置し、今治城(愛媛県)、高松城(香川県)とともに〝三大水城〟の一つに数えられている。

 中津城は1871年、廃藩置県で御殿のみ残して廃城となり、御殿は中津県の県庁、小倉県の中津支庁舎として使われた。だが、その支庁舎も1877年の西南戦争で焼失。現天主は5階建ての鉄筋コンクリート造りで、約50年前の1964年に江戸中期以降居城とした旧藩主奥平家が中心になり、市民の寄付も合わせて建造されたという。中津城は今年4月6日(城の日)、公益財団法人日本城郭協会より〝続日本100名城〟の一つに選ばれた。

 

 築造当時の遺構は石垣と堀が残る。石垣は黒田時代のものと細川時代のものがあり、黒田時代の石垣には山国川上流の福岡県上毛町(こうげまち)にある古代の山城「唐原(とうばる)山城」(国指定史跡)から運び出された石が多く使われた。堀の脇には官兵衛、嫡男長政とともに、勇猛果敢な家臣団「黒田二十四騎」の名前が一人ずつ立て札として掲げられていた。キリシタンだった官兵衛は当時一般的だった側室を置かず、一夫一妻の仲睦まじい夫婦だったことでも知られる。その2人の像も並んで設置されており、官兵衛の像にはモットーとした言葉「我、人に媚びず富貴を望まず」、正室光姫の像には「才徳兼備」の文字が刻まれていた。

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<別府地獄巡り> 海→坊主→かまど→鬼山→白池→血の池→龍巻

2017年09月21日 | 旅・想い出写真館

【若いバスガイドさんの名調子で愉快な2時間半】

 3年ぶりの別府旅行。前回は湯布院からの帰途、単独で4カ所の地獄を回ったが、今回は別府地獄組合加盟の全7カ所を巡るJR別府駅前発の亀の井バスの定期観光バス「別府地獄巡りコース」を利用した。所要時間は約2時間半。台風18号の接近で断続的に小雨が降るあいにくの天候だったが、バスガイドさんの爽やかな語り口と案内で愉快な時間を過ごすことができた。(写真は間欠泉の龍巻地獄)

 地獄巡りは鉄輪(かんなわ)温泉地区にある海地獄からスタート。ここは鮮やかなコバルトブルーが売り物だが、この日は湿度が高いせいか、白い湯気がもうもうと立ち上って水面を覆っていた(下の写真㊧)。この後、徒歩で鬼石坊主、かまど、鬼山、白池地獄へ。各地獄では温泉の熱を利用し様々な動植物を飼育・栽培している。かまど地獄では亜熱帯性のスイレンやオオオニバスを栽培し、ワニを飼育する鬼山地獄は別名ワニ地獄とも呼ばれる。ワニはほとんどじっとしたままで、エサやりの光景を見ることができなかったのが少し心残り。(下の写真㊨はかまど地獄の六丁目)

 

 白池地獄はピラニアや巨大魚のピラルクなどを飼育する熱帯魚館を併設する。この園内には大分県の重要文化財に指定されている石塔「向原石幢(むかいがはらせきとう)」と「国東塔(にくさきとう)」があった。前者は永禄3年(1560年)の制作で、後者は約600年前の南北朝時代に造られたという。この後、バスで柴石温泉地区にある血の池と龍巻地獄に向かったが、血の池地獄も海地獄同様、一面白い湯気に覆われていた。間欠泉の龍巻地獄はタイミングよく、少し待っただけで熱湯が勢いよく噴き出した。安全面から噴出口の上部に天井が設けられているが、この天井がもう少し高ければ迫力も一段と増すに違いない。(上段㊧は別名ワニ地獄とも呼ばれる鬼山地獄)

 

 

 バスによる地獄巡りは亀の井バスの前身、亀の井自動車を設立して〝別府観光の父〟とも呼ばれた油屋熊八の発案で始まった。定期観光バスとしては国内で最も長い歴史を持つ。バスガイドの導入も同社が最も早く、リズムのいい七五調の観光案内で大きな評判をとったという。この日のバスガイド松本結香さんもこの名調子の七五調を交えながら、別府温泉や各地獄についてよどみなく紹介していた。笑顔の絶えない松本さんの名ガイドぶりが何にも増して最高の別府土産になった。

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<角島大橋> エメラルドグリーンの海に架かる人気スポット

2017年09月20日 | 旅・想い出写真館

【全長1780m・通行無料、島のシンボルは円筒形の角島灯台】

 山口県下関市豊北町(ほうほくちょう)にある離島角島と本土を結ぶ角島大橋。全長1780mで、17年前の2000年に完成した。通行料無料の離島架橋としては沖縄の伊良部大橋(3540m)、古宇利大橋(1960m)に次ぐ長さ。エメラルドグリーンの海に架かるこの長大橋は山口県内有数の観光スポットとして人気を集めている。かねて一度訪ねたいと思っていたが、別府~小倉への旅行を機にようやくその願いがかなった。

 訪れたのは台風18号が過ぎ去った直後の9月18日。台風一過の好天に恵まれ、祝日(敬老の日)ということもあって、角島大橋を遠くに望む国道191号沿いの道の駅「北浦街道豊北」はマイカーやツーリングの観光客でにぎわっていた。角島大橋は緩やかに弧を描きながら、響灘と日本海の海流が出合う海士ケ瀬(あまがせ)を跨ぐ。一帯は北長門海岸国定公園の景勝地の一つで、大橋は自動車のテレビCMのロケ地にもなっている。角島に向かう橋の中ほど左手には鳩島という無人の小島が浮かぶ。

 

 

 角島の名は2つの岬、牧崎と夢崎が牛の角のように突き出している地形に由来するという。この島は2005年公開の映画『四日間の奇蹟』(佐々部清監督)の舞台になったことでも知られる。西北端には島のシンボル、総御影石造りの角島灯台が立つ。明治政府のお雇い外国人リチャード・ヘンリー・ブライトン(1841~1901)が設計し、約140年前の1876年(明治9年)に初点灯した。レンズの直径は259cmもあり、国内の灯台で使用されているレンズでは最大規模。このレンズを使っている灯台は「第1等灯台」と呼ばれ、全国に5カ所しかないそうだ。角島のほかは犬吠崎(千葉県銚子市)、経ケ岬(京都府京丹後市)、出雲日御碕(島根県出雲市)、室戸岬(高知県室戸市)。

 

 角島大橋を様々な角度から堪能し、角島灯台も訪ねた後は海岸そばの懐石・海鮮料理店「齋座 わ田(さいざ わだ)」で腹ごしらえ。この日のメニューは台風でしけた影響だろう、イカやサザエ、イクラなどがピラミッド状に積まれた「海鮮丼」の一品のみ。まず頂上部を土佐醤油で刺身として頂き、次いで細かく刻んだ山積みの刺身を崩し、たれと卵黄をかけてどんぶりとして頂く。そして最後はレンゲの胡麻だれに出汁を加え茶漬けに。一杯で三度の味わい方が楽しめる海鮮丼はなかなか美味で食べやすく、これも角島の忘れがたい思い出の一つになった。

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<奥能登探訪㊦> 朝日も夕日も望める最北端の岬・禄剛埼

2017年09月14日 | 旅・想い出写真館

【揚げ浜式塩田、見附島、恋路海岸……】

 能登半島最北端の岬、禄剛埼(ろっこうざき)。外浦と内裏の分岐点にあり、古くは狼煙(のろし)をたく要所として知られた。その名残が今も「珠洲市狼煙町」という地名に残っている。そばには「道の駅狼煙」もある。その道の駅から急坂を登ること10分弱で、芝生広場の禄剛埼台地に着いた。青い日本海が遥か彼方まで果てしなく広がる。ここは同じ地点から朝日も夕日も望むことができる全国でも数少ない場所という。

 岬の突端にある白亜の灯台「禄剛埼灯台」はイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブライトン(1841~1901)が設計し、1883年(明治16年)に完成した。ブライトンは明治政府のお雇い外国人として来日し、多くの灯台を設計したことから〝日本の灯台の父〟と呼ばれる。正面には菊の紋章が輝く記念額が飾られていた。菊の紋章が掲げられた灯台は全国でもここだけとのこと。今は無人灯台だが現役で光は約35キロ先の沖合まで届く。「日本の灯台50選」の一つ。2008年には経済産業省から「近代化産業遺産」に認定された。この灯台は2年前のNHK連続テレビ小説『まれ』のオープニングに空撮が登場したことでも知られる。

 

 珠洲市北部の仁江海岸などでは「揚げ浜式」という製塩技術が連綿と受け継がれてきた。沿岸部の領民に米を前貸しし、塩で返納させる加賀藩の「塩手米(しおてまい)制度」によって江戸初期以降、急速に広まった。瀬戸内地方の「入浜式」は潮の干満を利用して海水を塩田に引き込む。一方、潮の干満の少ない能登地方の「揚げ浜式」では海水を汲んできて塩田に撒く作業を繰り返す。

 国道24号沿いには今もその揚げ浜式の塩田が点在する。「道の駅すず塩田村」のそばにある角花家の塩田(写真㊧)には「国指定重要無形民俗文化財 能登の揚浜式製塩の技術」と「『まれ』ロケ地」という看板が立っていた。『まれ』収録の際、この塩田を営む角花豊さんが塩田作業指導を務めたという。国道をしばらく進むと「株式会社奥能登塩田村」(写真㊨)があった。真っ黒に日焼けした男性が炎天下、海水を撒いた塩田で黙々と砂の乾燥作業に取り組んでいた。〝潮汲み3年、潮撒き10年〟。この言葉が揚げ浜式の過酷な製塩作業を物語る。

 

 能登のシンボルといわれる見附島はその形から軍艦島とも呼ばれる。高さは約28m。「飯塚珪藻泥岩」という堆積岩でできているそうだ。海岸そばの道路を南下し能登町に入ると、すぐの所に恋路海岸が弧を描く。ここにはこんな悲恋物語が伝わる。美しい娘の鍋乃と助三郎は人目を忍び逢瀬を重ねていたが、助三郎は二人の仲をねたむ男に騙され溺れ死ぬ。その直後、男は鍋乃に言い寄るが、鍋乃は拒んで海に身投げし助三郎の後を追う――。いま、見附海岸~恋路海岸の一帯は「えんむすびーち」「恋人たちの聖地」と呼ばれてカップルに人気があるそうだ。

 

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<奥能登探訪㊥> 壮観!日本海になだれ込む幾何学模様の棚田

2017年09月13日 | 旅・想い出写真館

【輪島名物の朝市、名舟御陣乗太鼓、黒島伝建保存地区…】

 輪島市街地から車で国道249号を東進すると15分ほどで白米(しろよね)千枚田に着く。奥能登を代表する観光名所だ。「千枚田ポケットパーク」から眼下を望むと、黄金色に輝く階段状の棚田が青い日本海の波打ち際まで続いていた。全国棚田100選の一つで、国指定の名勝でもある。2011年にはこの千枚田を含む「能登の里山里海」が国連食糧農業機関(FAO)から世界農業遺産に認定された。

 棚田は全部で1004枚あるという。山裾の急斜面の地形をそのまま生かしているため、水田は形も広さも様々。中には下の写真㊧のような小さな箇所もあった。これだけの棚田を地元の農家だけで耕作し管理していくのはなかなか容易ではない。そこで棚田オーナー制度を設けたり多くのボランティアの支援を受けたりしている。訪ねたのは刈り取り直前の絶好のタイミングで、棚田の上の方では既に一部刈り入れが始まっていた。10月8日~来年3月11日にはライトアップ「あぜのきらめき」と銘打ち、日没後、畦道に設置した約2万個のLED電球を自動点灯させるそうだ。

 

 輪島といえば朝市も有名。高山、呼子(佐賀県)とともに日本三大朝市ともいわれる。中心商店街の本町通り(約350m)に、多いときには200店を超える露店が並ぶ。開店時間は午前8時から正午まで。新鮮な鮮魚や野菜のほか手作りの草履や民芸品などを扱う店も多い。通りの一角には「炭火コーナー」があり、買ったばかりの魚貝類を早速自ら焼いて味わう観光客の姿も目立った。

 

 かつて輪島への公共交通機関はのと鉄道輪島線だったが、2001年に廃線となった。旧輪島駅の駅舎跡は「輪島ふらっと訪夢」としてバス・タクシーの交通ターミナルや交流施設、道の駅輪島として活用されている。プラットホームや線路の一部が保存されており、行き先案内では次が「シベリア」となっていた。朝市からこの駅舎跡に向かう途中、河井小学校の運動場脇にある桜の木の下の「日本海と太平洋をさくらでつなごう」と文字が目を引いた。もしかしたら桜の植樹に生涯を捧げたバスの車掌佐藤さんゆかりの桜では……。そばに寄って確かめるとやっぱりそうだった。「佐藤良二さん(岐阜県)から贈られたさくら(左右の二本)」「昭和49年十月二十九日植樹」と書かれていた。佐藤さんが植樹に努めたのは乗務していたバスの沿線、名古屋~金沢間とばかり思っていたが、奥能登の輪島まで足を運んでいたのだ。

 

 輪島近辺では御陣乗太鼓の発祥地名舟や重要伝統的建造物群保存地区の黒島地区(船主集落)、1枚岩の真ん中に直径2mほどの穴が開いた窓岩なども巡った。御陣乗太鼓の起こりは約440年前、攻め入ってきた越後の上杉謙信勢を、村人が樹の皮で作った仮面と海藻を被った異様な姿で太鼓を打ち鳴らし退散させたこと。以来「名舟大祭」では神輿渡御の先導役を務めている。黒島地区(下の写真㊨)は江戸時代、北前船の回船業で栄え、板張りの外壁や格子、黒い釉薬瓦などが往時の繁栄ぶりをしのばせる。能登半島地震で大きな被害を受けたが、地元住民が団結して町並み再生に取り組み、地震から2年後の2009年に伝建地区に選定された。

  

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<奥能登探訪㊤> にぎわう珠洲市の「国際芸術祭2017」

2017年09月12日 | 旅・想い出写真館

【11カ国・地域から39組の現代美術作家が参加】

 能登半島の先端に位置する石川県珠洲市で「奥能登国際芸術祭2017」が始まった。会期は9月3日から10月22日までの50日間。11カ国・地域から39組のアーティストが参加し、市内10地区の会場に力作を出品している。会期中初の日曜日となった10日には、全ての作品を鑑賞できるパスポート(一般2500円)を手に会場を巡る観客らでにぎわっていた(一部屋外展示作品などは無料)。下の写真は小山真徳さんの『最涯(さいはて)の漂着神』

 この芸術祭の総合ディレクターは「瀬戸内国際芸術祭」などでも手腕を発揮している北川フラム氏。「国内外から参加するアーティストと奥能登珠洲に眠るポテンシャルを掘り起こし、日本の〝最涯(さいはて)〟から〝最先端〟の文化を創造する試み」として企画した。2005年に廃船になった「のと鉄道能登線」の旧駅舎や人口減で廃校や廃館になった小中学校、公民館、保育所、映画館、銭湯、市内各地の海岸、バス停などが会場になっている。

 

 能登半島の海岸線には朝鮮半島や中国など内外から様々な漂着物が流れ着く。海岸の展示作品にはそんな漂着物をテーマや素材に選んだ作品が目立つ。小山真徳さんの作品『最涯の漂着神』は難破船と鯨の骨を組み合わせたような作品。珠洲では鯨や難破船などの漂着物を、漁村に幸いをもたらす「エビス」として祀る神社が多く残ることにヒントを得たという。深澤孝史さんの『神話の続き』(上の写真㊧)は漂着したポリ容器などを素材とし砂浜に大きな白塗りの鳥居を築いた。リュウ・ジャンファさん(中国)の『Drifting Landscape』(写真㊨)は景徳鎮と珠洲焼の陶器の破片を、景勝地の見附島(軍艦島)を望む波打ち際にずらりと並べた。

 

 トビアス・レーベルガーさん(ドイツ)の『なにか他にできる』(上の写真2枚)は旧蛸島駅に近い小高い場所に置かれた鋼鉄製のカラフルな作品。その奥に設置された望遠鏡を覗くと、廃線となった線路の先に「Something  Else  is  Possible」という派手なネオンサインのようなものが見えた。廃線などで置き去りにされたこの地域への励ましと将来への明るい可能性を示唆しているように思えた。レーベルガーさんは2009年ヴェネチア・ビエンナーレの金獅子賞受賞者。

 

 村尾かずこさんの『サザエハウス』(上の写真㊧)は浜辺の船小屋の壁に無数のサザエの殻を張り付け、中に入ると真っ白で殻の内部を模して螺旋状になっていた。村尾さんはフレスコ画を通じて左官の仕事を学んだという。使った殻はおよそ2万個に上るそうだ。アレクサンドル・コンスタンチーノフさん(ロシア)の作品『珠洲海道五十三次』(写真㊨)は市内4カ所のバス停の待合所をアルミパイプなどで包み込んだ。

 

 古い銭湯を会場として使った麻生祥子さんの『信心のかたち』(上の写真㊧)は高い所から5分おきに泡があふれ出しては消えながら大きな泡の山を築く。泡を通して能登の人々の目に見えない信心の形を表現したという。その隣にある井上唯さんの作品『into the rain』(写真㊨)はあらゆる生命の源である水のしずくが滴り落ち、波紋となって広がる様を表現した。自ら染色したとのこと。涼しげな大きな蚊帳のようで、中に入って寝転び見上げることもできた。

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<安芸の小京都・竹原> 重厚な町家の中にモダンな洋館

2017年08月15日 | 旅・想い出写真館

 白壁の町柳井を後に、周防大島、宮島を経由して竹原へ。周防大島は瀬戸内海にある島では淡路島、小豆島に次ぐ大きさで〝瀬戸内のハワイ〟を標榜している。柳井には歌謡歌手松島詩子の記念館があったが、この島には作詞家星野哲郎の記念館があった。〝安芸の小京都〟といわれる竹原は江戸前期に播州赤穂から製塩技術を導入し製塩業で栄えた。風格のある商家の町並みが往時の繁栄ぶりを物語る。その本町通り一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区。

 竹原はNHK連続テレビ小説「マッサン」のモデル、竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)の生まれ故郷。生家の「小笹屋 竹鶴酒造」(写真㊧)は江戸中期から塩造りに加え酒造りも始め、今も奥の酒蔵で酒を造っているそうだ。近くの広場には「竹鶴政孝&リタ像」もあった。竹原は儒学者頼山陽(1780~1832)の故郷でもあり、頼一族の建物が今も多く残る。重厚な構えの頼惟清(これすが)旧宅は県指定の史跡。惟清は山陽の祖父で紺屋を営んでいた。叔父の屋敷「春風館」などもある。本川に架かる新港橋のたもとには山陽の大きな座像も立っていた。

 

 重厚な建物が多い中でひときわ目立つレトロな洋館があった。竹原市歴史民俗資料館(旧竹原町立竹原書院図書館)。訪ねたときには入り口に「台風接近に伴い臨時休館致します」というお知らせが掲げられていた。竹鶴邸と資料館の中ほどにある石段を上った所にあるのが西方寺の普明閣。小早川隆景が京都の清水寺を模して創建したといわれ、眼下に竹原の市街地を一望できた。(写真㊧は頼惟清旧宅)

 

【〝潮待ちの港〟として栄えた鞆の浦】

 沼隈半島の先端に位置する広島県福山市の鞆の浦。ここは瀬戸内海のほぼ中央に位置し、潮の干満の分岐点に当たる。潮流は6時間流れて3時間止まり、その後6時間逆に流れるという。このため鞆の浦は〝潮待ちの港〟として栄え、江戸時代には北前船が入港し、朝鮮通信使も毎回寄港したという。シンボルになっている常夜灯は花崗岩製で約160年前の1859年(安政6年)に造られた。

 

 常夜灯に通じる石畳の路地の両側には、江戸時代や明治時代に建てられた白壁や虫籠窓の町家が軒を連ねる。その一つに「重要文化財 太田家住宅」「広島県史跡 鞆七卿落遺跡」という木製看板が掲げられていた(写真㊧)。幕末動乱期の1863年、公武合体派に追われ都落ちした三条実美(さねとみ)ら公卿7人が長州に下る途中に立ち寄った旧「保命酒屋」。保命酒は鞆の浦特産の滋養薬味酒で、醸造元や販売店をあちこちで見掛けた。古い町並みを歩きながら、景観保護と交通渋滞解消の両立の難しさも痛感した。

 

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<柳井市古市・金屋> 約200mにわたって白壁の商家の家並み

2017年08月14日 | 旅・想い出写真館

 JR柳井駅(山口県柳井市)前の麗都路(レトロ)通りを北に進み柳井川を越えると、東西に白壁の町並みが広がる。国選定重要伝統的建造物群保存地区の「古市・金屋地区」だ。港町柳井は江戸時代、商業地として栄え岩国藩の御納戸(おなんど)と呼ばれた。この白壁通りを、産物を満載した大八車が行きかいにぎわったという。通りを散策していると、往時の繁栄ぶりが目に浮かぶようだった。

 白壁通りには「甘露醤油」を扱う店があり、製造過程を見学できる資料館(写真㊧)まであった。柳井名物という甘露醤油とは? 案内板によると、1780年代に当地の醸造家が造った芳香・美味な醤油を時の藩主に献上したところ「甘露、甘露」と賞賛されたのがその名の由来とか。1本買い求めようとある店に入ると、店内に「金魚ちょうちん」が泳いでいた。聞けば、8月13日の「第26回金魚ちょうちん祭り」を前に通りに飾っていたが、台風5号の接近で急遽〝避難〟させるよう連絡があったという。祭りでは約2000個の金魚ちょうちんが灯され、巨大な金魚ねぶたの総回しや金魚ちょうちん踊りなどもあるとのこと。昨日はさぞにぎわったことだろう。

 

 通りを歩いていてもう一つ目に飛び込んできたのが「かにが路上を横切ります 人も車もご注意を」という立て看板。2カ所に立っていた。えっ、本当に? 足元を注意していると、車に引かれたのか、ぺちゃんこになって成仏したカニがいた。そして、その先の狭い水路を覗き込んでいると……。いた! 石の隙間から顔を出したのはなんと、立派な赤い手を持つ「アカテガニ」だった。

 

【防府天満宮、春風楼、周防国分寺……】

 白壁の町柳井を訪れる前に、防府天満宮や周防国分寺を訪ねた。菅原道真を祀った神社は全国に約1万2000社あるそうだが、日本で最初に創建された天神さまがこの防府天満宮という。日本三大天神の一つ。「裸坊祭」として有名な御神幸祭(11月第4土曜日)は1004年、防府に遣わされた勅使が道真の御霊に一条天皇からの「無実の知らせ」を奏上したのに由来する。境内の一角にある「春風楼」(写真㊨)は1873年(明治6年)に完成した二層の楼閣洋式の建物。元々は1822年に五重塔として建設が始まったが藩の財政難により中断、後に五重塔の一層部分の組み物を床下に組み入れる形で建設した。石段を上ると、眼下に防府の市街地を一望できた。

 

 天満宮の参道脇にある防府市観光協会に「世界お笑い協会」という大きな看板が掲げられていた。なんともユニークな名前。立ち止まって見ていると、職員が資料を持って来てくれた。市内の小俣地区には鎌倉時代から天下の奇祭と有名な「笑い講」が伝わる。この笑いの文化を広げようと5年前に協会を設立したという。以来、地元の高校などと連携し「お笑い講世界選手権大会」、健康のための「お笑い体操」などに取り組んでいるそうだ。周防国分寺は創建時の寺域をほぼ維持しており国の史跡になっている。金堂(写真㊨)は萩藩7代藩主毛利重就(しげたか)によって再建された。国分寺の中で大規模な金堂が残っているのも珍しい。

 

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<津和野~萩> 掘割を泳ぐ錦鯉に心が和む津和野・殿町

2017年08月13日 | 旅・想い出写真館

 島根県西部の山あいにある〝山陰の小京都〟津和野町。最後に訪ねたのはもう二十年以上前になるが、落ち着いた佇まいの町並みは以前と変わらず、今回も殿町通りの掘割を泳ぐ色とりどりの錦鯉が出迎えてくれた。殿町には家老多胡家や大岡家の武家屋敷門、藩校養老館、津和野カトリック教会など味わいのある建物が並ぶ。

 養老館(県史跡)は1786年の創設。1853年の大火で焼失したが、55年に現在地で再建され、廃校となる72年(明治5年)まで続いた。この間、森鷗外や西周(近代日本哲学の祖)、山辺丈夫(日本近代紡績業の父)らが学んだ。ただ、建物の老朽化に伴って今は全面解体工事で休館中だった。津和野の町並みを望む高台に「日本五大稲荷」の一つに数えられる太鼓谷稲成神社が鎮座する。1773年に時の藩主が京都の伏見稲荷を勧請したのが始まりで、島根県内では出雲大社に次いで初詣客が多いという。朱色の社殿が目にまぶしい。表参道には奉納された鳥居約1000本が林立する。(下の写真㊧筆頭家老多胡家表門、㊨大岡家老門)

 

 今年は津和野に亀井氏が入城してちょうど400年目の節目。これに合わせ様々な記念イベントが開かれる。稲成神社宝物殿・亀井温故館・津和野町郷土館の3館連携特別展「津和野藩主亀井家の400年」(~11月12日)や津和野踊り伝来400年記念盆踊り(8月15日)をはじめ、記念式典・講演会、亀井氏入城ウォーク、3団体共演の津和野奴道中などを予定している。(下の写真㊧太鼓谷稲成神社、㊨神社境内から望む津和野の町並み)

 

【萩市の伝建地区は4カ所、京都、金沢と並んで全国最多】

 山口県萩市には国選定重要伝統的建造物群保存地区が4カ所ある。武家町の堀内と平安古(ひやこ)、港町の浜崎、そして6年前に選定されたばかりの佐々並市(ささなみいち)。伝建地区4カ所は京都市、金沢市と並んで全国で最も多い。堀内地区には以前訪れたときにはなかった「萩城跡外堀 北の総門」が復元されていた(写真㊨)。北の総門は3カ所あった三の丸(堀内)に入る総門の一つ。

 

 佐々並市地区は萩市街の南東約15キロに位置する。1604年萩に入府した毛利輝元が整備した瀬戸内側と結ぶ萩往還(約53キロ)の沿線上にあり、かつては宿場町として栄えた。写真㊧は人馬やかごの調達などをする「目代所」があった場所に、明治時代に建てられた町家「旧小林家住宅」。萩市街の吉田松陰の誕生地・墓に程近い東光寺(写真㊨)は1691年創建の黄檗宗の名刹で、毛利家の菩提寺。総門には1693年の開山慧極(えごく)筆「護国山」の扁額が掲げられている。8月15日の「萩・万灯会」では約500基の石灯籠に灯が入る。

 

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<松江城> 国宝指定から2年余、年間登閣者50万人突破!

2017年08月12日 | 旅・想い出写真館

【出雲大社から日御碕灯台、ゆうひライン石見へ】

 松江城の天守閣が重要文化財から国宝になったのは2年前の2015年7月。その〝格上げ効果〟は絶大で、15年の登閣者数は前年を3割以上も上回り、16年には約52万人と初めて50万人を突破した。松江城は1611年に松江開府の祖、堀尾吉晴と孫の2代藩主忠晴によって築かれた。石垣にもその堀尾家の家紋である分銅の形が刻まれた巨石があった。白壁の姫路城が白鷺城と呼ばれるのに対し、木造黒塗りの松江城は千鳥城の別称を持つ。

 しゃちほこは高さ2.08mの木彫銅張り。現存する木造のものでは最大という。5層のうち3層の中央に寺院洋式の「華頭窓(かとうまど)」が設けられ、天守入り口の防備を強固にするため「附櫓(つけやぐら)」があることなども松江城の特徴。城内にある洋風建築「興雲閣」は1903年に松江市工芸品陳列所として建てられたが、本来の目的は明治天皇行幸の行在所として使うことだった。行幸は実現しなかったが、4年後、皇太子(後の大正天皇)と乃木希典学習院院長一行が宿泊されたという。

  

 城の堀のそばにある「松江歴史館」は松江藩政下の文化や暮らしを紹介する観光拠点として2011年春にオープンした。来場者の目を引くのが館内の一角にある「喫茶きはる」の店頭を飾る華麗な工芸菓子2点。店主で「現代の名工」でもある和菓子職人、伊丹二夫(つぎお)さん(下の写真㊨)が2年がかりで作ったそうだ。今まさに飛び立ちそうな白鷲、ボタンやツバキなど色艶やかな花……。使った材料は和菓子づくりに使う砂糖だけという。本物と見まがうような質感に、しばし見入ってしまった。

  

 出雲大社では2013年に「平成の大遷宮」の主要行事が執り行われた。大国主命が祀られる本殿はもちろん国宝。現在の高さは約24mだが、かつては今の2倍の約48m、あるいはその倍の約98mあったという言い伝えも。平安時代の貴族子弟向けの教科書『口遊(くちずさみ)』は大きな建物の順に「雲太、和二、三京(うんた、わに、きょうさん)」と記す。1位出雲大社、2位東大寺大仏殿、3位平安京大極殿というわけだ。2000年には境内の地下から直径1.35mの杉の巨木を3本束ねた柱が見つかった。今後の調査が注目される。

 

 島根半島の西端に立つ白亜の日御碕灯台は「世界灯台100選」の1つに選ばれている。高さは日本一の43.65m、夜間に光は約39キロ先まで届くという。そばにある日御碕神社は徳川3代将軍家光の命により造営された。朱塗りの社殿は国の重要文化財。島根県西部を走る国道9号などは夕日が美しいことから「ゆうひライン石見」と呼ばれる。8月5日にはちょうど浜田漁港周辺で「石州浜っ子夏まつり」が開かれていた。高台にある道の駅「ゆうひパーク浜田」から、日本海に沈む夕日と打ち上げ花火を楽しむことができた。

 

 

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