く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

〈淡路島㊦〉 国史跡洲本城跡、淡路人形浄瑠璃┄

2024年06月09日 | 旅・想い出写真館

【国内最古の模擬天守、重厚な野面積みの石垣】

 初めて国の史跡洲本城跡を訪れた。馬屋(月見台)からの紀淡海峡の眺望を堪能した後、三熊山(標高133m)山頂に築かれた天守台へ。途中、自然石を積み上げた野面(のづら)積みの石垣が続く。

 本丸大石段を上ると、ほどなく正面に天守が姿を現した。天守台の上に築かれたコンクリート製の4脚の上に3層の天守が立つ。建設は約100年前の1928年(昭和3年)。昭和天皇の即位式(御大典)を記念して建てられた。古図などに基づかない“模擬天守”としては国内最古とのこと。石垣の多くは野面積みだが、この天守台の隅石など要所には加工した長方形の石を組み合わせた算木積みが採用されていた。

 ここからの眺めも絶景。そばに「洲本八景1 大浜を大観」と刻まれた石碑が立っていた。洲本商工会議所青年部が8カ所のビューポイントを選定。その1番目に選ばれた。

【500年の伝統を誇る淡路人形浄瑠璃】

 淡路人形浄瑠璃は文楽のルーツともいわれる。全盛期の江戸時代前半には島内に40を超える人形座があり、全国を巡業していたそうだ。1976年には国の重要無形民俗文化財に指定された。

 しかし娯楽の多様化などもあって次々に廃業に追い込まれ、今では1964年に旗揚げした「淡路人形座」が島内唯一の座元となってしまった。福良港(南あわじ市)のそばにある専用劇場の受付には「おかげさまで60周年を迎えました」と大きく掲示されていた。

 淡路人形浄瑠璃は文楽同様、人形を3人で操る。ただ文楽の人形遣いが男性だけなのに対し、ここでは男女を問わないのが特徴。淡路からは人間国宝(重要無形文化財保持者)も出ている。女流三味線方の故鶴澤友路さん(1913~2016)だ。その鶴澤さんの現役当時の写真が今も掲げられていた(上段左から4人目)。その右側のベテラン太夫竹本友喜美さんは4年前、文化庁長官表彰に輝いた。

 その日の演目は「戎舞」と「伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段」。商売の神様戎さまは元々海の神様で、淡路島では昔から浜芝居で大漁や航海の安全を祈って舞われたという。「伊達娘┄」では3人で操っていた人形の娘お七が手を借りず櫓のはしごを上る場面が一番の見どころだった。舞台背景が次々に変わる「大道具返し」も見応え十分。幕間には主遣いなどの座員が人形の操り方を分かりやすく説明してくれた。

【さすが「タマネギ王国」巨大オブジェ⋅蛇口からスープ】

 淡路島南端の丘の上にある「うずの丘大鳴門橋記念館」。訪ねた日はあいにく定休日だったが、建物の裏手に回るとタマネギの巨大オブジェが出迎えてくれた。その名も「おっ玉葱!」(高さ2.5m、直径2.8m)。観光客は順番待ちで橋と鳴門海峡をバックに写真を撮っていた。

 大鳴門橋を望む「道の駅うずしお」にもタマネギ形のベンチが。こちらの名前は「おっ玉チェア」(高さ1.8m、直径1.5m)で、ここも絶好の撮影スポットとして人気を集めていた。

 淡路島北側の観光施設「淡路ハイウェイオアシス」。その館内には蛇口からタマネギのコンソメスープが出てくる無料コーナーもあった。ゆるキャラ「淡路タマ子さん」をかたどったスタンドには蛇口が2つ、上部には大きく「世界初!」と書かれていた。2018年に設置したが、新型コロナのため長い間休止。昨年1月に再開したという。

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〈淡路島㊥〉 24年ぶり「北淡震災記念公園」に

2024年06月08日 | 旅・想い出写真館

【野島断層「地質遺産100選」に、保存館裏手には「神戸の壁」】

 久しぶりに淡路市の「北淡震災記念公園」を訪れた。ここには阪神大震災の断層変動を生々しく物語る野島断層が当時のまま保存されている。開園は震災3年後の1998年春。最初に訪ねたのが2000年の夏だから、もう24年前、ほぼ四半世紀ぶりになる。

 「世界の『地質遺産100選』に野島断層が選ばれました」。館内に入ると左手の壁面に、赤地に白抜きの大きな文字でこう掲示されていた。国際地質科学連合(IUGS)によって2022年秋に選定されたという。日本ではここと、同じ兵庫県の玄武洞(豊岡市)の2カ所だけ。海外ではグランドキャニオン(米国)やエアーズロック(オーストラリア)なども含まれているそうだ。

 その向かい側には以前同様、修学旅行などで訪れた生徒たち手作りの千羽鶴がずらりと並ぶ。そばに奉納団体名の一覧も。眺めていると、北海道の高校や熊本の中学など遠方の学校名も含まれていた。

 断層保存館はドーム状の屋根で覆われる。そこに破壊された道路や地割れ、大きく横ズレした畦道や生け垣などが、そっくりそのまま残されている。地形の変化を赤と青のマークで分かりやすく標示した場所もあった。

 保存館の南側には「神戸の壁」が立つ。元々は約100年前の1927年ごろ、防火壁として神戸市長田区の公設市場に建設されたもの。1945年に神戸大空襲、95年には阪神大震災に遭遇しながら倒壊せず耐えてきた。いわば戦争と震災の“語り部”だ。壁は保存活動の結果、1999年に旧津名町のホール隣接地に移設され、さらに2008年、断層保存館のそばに再移設された。

 保存館北西側には「べっちゃないロック」と名付けられた鎮魂の碑がある。3つのビラミッド型が印象的なこのモニュメントを制作したのは世界的な彫刻家⋅作庭家として高松を拠点に活躍した流政之さん(1923~2018)。「べっちゃない」は淡路弁で「大丈夫」「たいしたことない」を意味するそうだ。震災に負けないぞ。モニュメントにはそんな思いがこもる。そばの慰霊碑には犠牲となった町民40人の名が刻まれていた。

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〈淡路島㊤〉 鳴門の渦潮、圧倒的な迫力!

2024年06月05日 | 旅・想い出写真館

【激しい潮流⋅渦巻く波の轟音┄自然の力を体感】

 その迫力は観光ポスターやテレビの動画なとでは決して味わえない圧倒的なスケールだった。初めて船上から目にした鳴門海峡の渦潮。潮の干満によって起きるその現象を前に、改めて自然のエネルギーの大きさ、激しさを思い知らされた。

 乗船したのは淡路島南端の福良港を発着する「うずしおクルーズ」の咸臨丸。船名は約160年前に勝海舟らを乗せアメリカに向かった蒸気帆船に因む。3年前に2代目咸臨丸として就航した。全長約59m、定員は500人。

 この日は新月で大潮。乗船する午前9時半出航予定の第1便案内の横には渦潮期待度「大」を示す二重丸がついていた。クルーズ船は職員が振る大きな旗と4本の放水に見送られて出航した。(上の写真左側のクルーズ船は臨時便の日本丸)

 船は遠く左側の山頂に立つ戦没学徒の慰霊塔などを望みながら西に進む。出航して約20分。大鳴門橋の手前側に白波が見えてきた。

 ほどなく眼下に幾つもの渦巻きが現れ始めた。波音を立てながら激しくうねり、回転を繰り返す。渦は短い間にできては消え、またできていた。

 鳴門海峡は“世界三大潮流”の1つ(あとの2つはイタリアのメッシーナ海峡とカナダのセイモア海峡)。海峡の幅は約1.3㎞と狭く、潮流は時速15~20㎞にもなるという。

 この時、潮流は南流。満潮の瀬戸内海側の播磨灘から紀伊水道側へ、北から南に激しく流れ込んでいた。その干満の段差が黒くくっきり見えた。徳島側から出航した観潮船も、ここが船長の腕の見せどころとばかりに渦潮の縁ぎりぎりを巡っていた。

 豪快な渦潮の躍動を見ること20分余り。その間、頭上の大鳴門橋を見上げると、橋上から渦潮を眺める人たちが手を振っていた。クルーズ船は大潮と好天に恵まれ渦潮の迫力を堪能した乗船客を乗せて出航した港へ。

 帰路、臨時便のクルーズ船日本丸とすれ違うときには互いに汽笛を鳴らし合図を交わしていた。鳴門海峡を挟む兵庫県南あわじ市や徳島県鳴門市などは渦潮の世界自然遺産登録を目指している。

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<森本慶三記念館> 2階「歴史民俗館」で豪商の暮らしや文化を紹介

2023年10月30日 | 旅・想い出写真館

【内村鑑三や趙子昴の書、探幽の掛け軸…】

 岡山県津山市の自然史博物館「つやま自然のふしぎ館」の向かいに、重厚な洋風建築「森本慶三記念館」が立つ。約100年前の1926年に森本慶三(1875~1964)が国内唯一のキリスト教関連の図書館「津山基督教図書館」として建てた。図書館業務は2001年に終了。現在は講堂・研修室だった2階部分を江戸時代の豪商の暮らしぶりや文化などを紹介する「歴史民俗館」として公開している。

 記念館の建物は国指定の登録有形文化財。中の歴史民俗館は「津山商人(錦屋)の商い風景とその調度品」「津山商人の所蔵品」「創設者森本慶三の足跡」の3つのコーナーで構成する。まず目に止まったのが縦3文字の力強い長尺の書「大字赤壁之賦(せきへきのふ)」。中国の“書聖”王羲之以来の名筆家といわれる元代の書家趙子昴(趙孟頫、1254~1323)の真筆という。

 全長は前後2巻合わせて約40mもあり、肉筆で894字が綴られている。赤壁は曹操軍と孫権・劉備の連合軍が戦った古戦場。この戦いを題材に宋代の文豪蘇軾(1036~1101)が詩文「赤壁之賦」を作った。この書は「錦屋」が津山藩の佐久間家老から拝領したものという。

 「錦屋」は森本家の屋号で、江戸時代から明治末期まで約300年にわたって呉服業や金融業などを営んだ。趙子昴の書の上部には江戸前期の絵師狩野探幽の龍などを描いた軸装「三幅對(さんぷくつい」も展示(写真は部分)。これも佐久間家老からの拝領品とのこと。津山で探幽の作品に巡り合えると思っていなかったこともあって、しばし見入ってしまった。

 津山基督教図書館の創設者森本慶三は内村鑑三を師と仰いだ。内村は津山を3回訪れており、3回目は1926年のこの図書館の開館式だった。館内の森本慶三記念コーナーには内村の「禁酒非戦」と大書した横書きの額も展示中。内村は日露戦争に反対し、民衆に非戦を説いていた。

 森本家は一時時計店も営んでいた。それもあって「だるま時計」など珍しい時計も展示されている。英国のグラハム社製で約150年前の1877年製。その左側には大阪の天文道具師が18世紀前半に製作したという木製の天体望遠鏡。長崎・大村藩の天文方で実際に使われていたそうだ。

 「蒙古兵と戦う日本武士の彫刻」も目を引いた。蒙古兵とは1274年と1281年に博多湾に襲来した元寇。当時、全国各地の神社は「敵国降伏」を願って祈祷を行った。このケヤキの彫刻像はもと岡山県真庭郡の神社が所蔵していたもので、鎌倉時代の作と推定されている。

 館内には呉服商「錦屋」の店構えを再現した一角があり、特産の「作州かすり」などの展示も。京都の人形師が作った煌びやかな内裏雛や全国各地から集められた陶磁器類も見応えがあった。

(追記)津山を訪ねたのは2019年11月以来ほぼ4年ぶり。懐かしい城東地区の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)を散策し、ほぼ中央に差し掛かると――。少し折れ曲がった通りの正面の建物が火災に遭ったように無残な姿をさらしていた。内部をのぞくと、被災からまだあまり時間が過ぎていない様子。

 近くの男性に伺ってみると、半年ほど前の4月上旬に材木店の倉庫から出火し、この家屋やアパートなど7棟ほどに燃え広がったという。男性は「熱風が押し寄せてきた」など当時の情景を語っていた。写真のこの家屋は空き家だったという。景観が重視される重伝建地区。今後どんな形で再建・整備されるのだろうか。

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<つやま自然のふしぎ館> 開館からまもなく60年!

2023年10月26日 | 旅・想い出写真館

【展示総数2万点、珍しい動物の剥製なども約800体】

 岡山県津山市の観光スポットの一つ、自然史博物館の「つやま自然のふしぎ館」がまもなく開館60周年を迎える。展示物は動物の剥製をはじめ昆虫、貝類、化石・鉱石類など約2万点。動物の剥製約800体には希少動物の取引を規制するワシントン条約で今では入手が困難なものも多く含まれる。展示品の中には人体の実物標本も。「津山まつり」を機に初めて訪ねたが、想像以上の自然史コレクションの“宝庫”だった。

 ふしぎ館は津山城跡(鶴山公園)の入り口に位置する。オープンしたのは1963年11月3日。「津山基督教図書館」創立者の故森本慶三氏(1875~1964)が構想から30年余の準備期間を経て開館した。本来の館名は「津山科学教育博物館」だったが、より親しみやすいようにと2004年に今の名前に改めた。

 建物はかつての「津山基督教図書館高等学校夜間部」の校舎を移築・改装したもの。3階建てで、広さは約1500㎡。展示室は全部で15室ある。館内に入ると左手には「絶滅の危機にある世界の貴重野生動物」の展示コーナー。それぞれの剥製の前には「EN」や「VU」といった表示があった。それぞれ「絶滅危惧種」や「危急種」であることを示す。キンシコウなどとともにユキヒョウやクロヒョウも展示されていた。

 1階の第2室「人体の神秘と動物の骨格」には、初代館長で開館翌年死去した森本慶三氏本人のホルマリン漬けの臓器も並ぶ。遺言によるもので、岡山大学解剖学教室で執刀・処理されたもの。心臓や肺、腎臓などとともに脳も展示中。館内はほとんど撮影可だが、このコーナーだけは撮影禁止になっていた。動物の骨格標本の中にはキングコブラもあった。

 1階の第3室は「世界と日本の珍しい貝」、第4室は「昆虫の世界」。オオシャコガイは二枚貝の仲間で最大。展示中の標本は長さが45㎝、重さが45kgもあるという。昆虫コーナーには世界各地で採集された蝶とカブトムシなど甲虫の標本箱が所狭しと並ぶ。

 動物の剥製が多く展示されているのは2階と3階。日本とアジア・北米大陸・極地・オーストラリア・西アジアとアフリカなど地域別に展示。ただ第12室「世界の珍鳥」は改装中で閉じられていた。インドライオンは子どもを真ん中に親子3頭の剥製が並ぶ。森林伐採などで数が急速に減少しており、絶滅危惧種としてレッドリストに掲載されている。

 現在飼育されているヤギ・ヒツジの原種(野生種)といわれる動物4種も。インド南部に生息するニルギリタールやアフリカ北部の山岳地帯にいるバーバリーシープ(別名タテガミヒツジ)などで、これらも絶滅の恐れがあり「EN」や「VU」に指定されている。

 館内では動物の剥製の多くが自然に近い表情や動きのままに展示されている。口を大きく開けたナイルワニも迫力満点。数々の剥製を間近にして、その大きさにも圧倒された。クマタカをはじめ世界のタカ類もその一つ。羽を広げた姿の大きくて勇猛なこと!

 トラの仲間で最大のアムールトラは最も小型のスマトラトラとともに隣り合わせで並ぶ。いずれも「EN」絶滅危惧種。極地のコーナーでは巨大なホッキョクグマとゾウアザラシが向かい合わせの形で立ち上がって展示されていた。

 第10室「は虫類・両生類」にはワニやカメのほかオオサンショウウオも展示中。ホルマリン漬けのオオサンショウウオの中にコイをくわえたものがあった(写真の右下手前)。その説明文「冬眠後でお腹が空いていてコイを食べようとしたけど、大きすぎて窒息死したオオサンショウウオ。逆からもコイを食べようとした固体がいたようで、コイのしっぽがちぎれている」。

 このコーナーではオオサンショウウオの交雑についても触れている。在来種のオオサンショウウオは中国原産のチュウゴクオオサンショウウオとの間で交雑が起きており、京都の鴨川に生息するオオサンショウウオの多くもその交雑種という。2022年にも広島で交雑種が見つかったそうだ。

 ヒゲクジラの全身化石は1962年に地元の津山市内を流れる吉井川で中学生が発見した。全長は6mほど。約2000万年前のものと推定されている。

 日本関連では「EX」(絶滅種)のニホンカワウソや特別天然記念物になっている絶滅危惧種アマミノクロウサギの剥製も。ニホンカワウソは1970年代まで高知と愛媛でわずかに生息していたが、最後に確認されたのが1979年で、2012年に環境省が絶滅を宣言した。

 総展示数は約2万点だが、ほかに整理中のものも約4万点あるという。それにしてもよくこれだけ収集したものだ。多くは終戦後、各方面の学者や研究者、大学、研究機関などに広く呼び掛けて集めたという。ただ開館から半世紀を越え、建物の老朽化も進む。展示スペースには余裕がなく、歩くたび床はギシギシ。施設の新設も含め再考の時期を迎えているのかもしれない。

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〈唐戸市場〉 にぎわい取り戻す「活きいき馬関街」

2023年06月09日 | 旅・想い出写真館

【客取り方式から店側がパック詰めに!】

 “関門の台所”といわれる山口県下関市の地方卸売市場「唐戸(からと)市場」。ここで観光客の人気を集めるのが鮮度抜群の寿司や海鮮丼をその場で味わうことができる「活きいき馬関街(ばかんがい)」(馬関は下関の古称)。その客寄せイベントも新型コロナの感染防止対策として一時営業自粛を余儀なくされた。しかし久しぶりに訪れると、多くの観光客でにぎわい以前の活気を取り戻していた。

 馬関街がスタートしたのは約20年前の2002年。金⋅土曜は午前10時から午後3時まで、日曜⋅祝日は午前8時から午後3時まで開いている。今回行ったのは6月9日の午前11時前。2018年以来5年ぶりだか、市場内の中央通路は観光客で溢れかえり、人気店には横の狭い通路に長蛇の列もできていた。たぶん事前に高い人気の店を調べて来た人が多いのだろう。

 ただ販売方法は様変わり。以前は客が店から受け取ったプラスチック容器やトレーに、好みの寿司をトングで入れて精算してもらっていた。それが今はほとんどの店で、客の注文を聞きながら店側が詰めていく方式に改まっていた。店頭に並べた寿司や揚げ物なども、飛沫防止のためブラスチックの透明板などで囲っている店が目立った。

 販売はどの店も1貫単位。これは前と変わらなかった。このため好みの寿司が入った容器を持ち歩き、他の店でまた入れてもらうといった光景があちこちで見られた。まさに“寿司バイキング”。市場周辺のベンチなどにずらりと並んで関門海峡を眺めながら舌鼓を打つ。その光景も以前と同じだった。

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〈御崎馬〉 春駒10頭加わり合計101頭に!

2023年06月08日 | 旅・想い出写真館

【在来馬8種のうち唯一の国天然記念物】

 日本には野間馬、木曽馬、対州馬など在来の野生馬が8種類いる。そのうち唯一国の天然記念物に指定されているのが御崎馬(みさきうま)。宮崎県最南端に位置し日向灘に突き出した都井岬(串間市)に棲息する。

 御崎馬の始まりは約300年前に遡る。江戸時代元禄年間の1697年に高鍋藩秋月家が藩営の岬牧場を設けた。以来ほとんど人手を加えられずに野生の状態で世代を重ねてきた。大きさは体高が約130㎝、体重が約300㎏。競走馬のサラブレッドに比べると小柄で、全体的にずんぐりとした体型が特徴だ。

 御崎馬のいる都井岬は広さが約550ヘクタール。唯一の出入口「駒止の門」で協力金400円を納め車を進めると、間もなく丘の上の草原に数頭の馬が見えてきた。その後も車道や沿道の草地などあちこちで草を食む馬たちと出合った。

 背丈は低いものの首も胴回りも太く、近くで見ると存在感に圧倒されるほど。優しげな目元も印象的だった。人馴れしているのだろう、近づいても一心に草を食み続けていた。突然馬のほうから歩み寄って目前を通り過ぎ、驚かされたことも。

 御崎馬は雄馬1頭に雌馬数頭、その子馬たちで一緒に行動することが多いという。“ハーレム”と呼ぶ家族群だ。目にした群れの中にも小さな子馬がいた。「駒止の門」によると、今年はこれまでに雄3頭⋅雌7頭が生まれた。その結果、現在の総頭数は101頭とのことだった。

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〈宮崎県〉 「ジャカランダまつり」南郷町で開催中

2023年06月07日 | 旅・想い出写真館

【18日まで、今年の花付きは台風や寒波で┄┄】

 宮崎県南部の日南市南郷町で「ジャカランダまつり」が開かれている。ジャカランダは中南米原産の熱帯性花木。「キリモドキ(桐擬き)」という和名を持つ。花の最盛期には森全体が青紫色に染まることから「紫雲木」とも呼ばれる。ホウオウボク(鳳凰木)、カエンボク(火焔木)とともに「世界三大花木」「熱帯三大花樹」の一つにもなっているそうだ。

 まつり会場は日南海岸国定公園のほぼ中央に位置する「道の駅なんごう」と周辺の「ジャカランダの森」など。一帯には約1000本のジャカランダが群生する。半世紀以上前の1964年ブラジルの宮崎県人会から種子を贈られたことが栽培のきっかけとなった。まつり期間中は夜間のライトアップやフォトコンテストのほか、土日曜には苗木が当たる抽選会、ステージイベントなども開催中。まつりもほぼ折り返し点。例年ならちょうど見ごろかもと期待を膨らませて展望広場や「ジャカランダの森」に向かった。

 ところが満開の花を付けたものは思ったほどでもなかった。案内してくれた日南在住者も「以前はこの辺りからの眺めが最高だったのに┄┄」と不思議そう。展望台の脇に立っていた「ご来場の皆様へ」という看板で初めて原因が分かった。そこにはこう書かれていた。「今年は昨年9月の台風14号や寒波によりダメージを受け、例年に比べると花が少なくなっています」。帰りに「道の駅なんごう」に寄った。そこには満開中の大きな鉢植えなどがずらりと並んでいた。眼下に広がる日南海岸の絶景も堪能することができた。

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<三国・雄島> 越前海岸最大の“神の島”

2023年05月26日 | 旅・想い出写真館

【神秘的な原生林と海食崖の景観】

 雄島は福井県坂井市三国町の観光地東尋坊の北約1.5kmの沖合に浮かぶ。周囲約2km。越前海岸最大のこの島には手付かずの原生林が残り、海岸には柱状節理や板状節理などの幾何学的な景観が広がる。約1300年の歴史を誇る大湊神社が鎮座する雄島は“神の島”としても崇められてきた。

 雄島と本土は鮮やかな朱塗りの雄島橋がつなぐ。全長224m。橋の正面には大湊神社の大鳥居。その左手には無数の柱を並べたような柱状節理の断崖が切り立っていた。雄島を形作るのは流紋岩という火山岩で、1200~1300万年前に噴出した溶岩が日本海の波浪によって侵食され現在の地形ができたという。その過程で島の南側と東側で柱状節理、北側と西側で板を重ねたような板状節理の景観が形成された。

 大湊神社の社殿は長い石段を登って左側に進んだ所、社務所の奥に鎮座していた。この神社にはその昔、源義経や朝倉義景、明智光秀など著名な武将が訪れ、北前船の船主や船乗りたちからも篤い信仰を集めてきた。毎年4月20日には海の安全や豊漁を祈願する「雄島祭」が行われ、船神輿と乙女神輿が繰り出すという。社殿の正面、海を見下ろす場所すれすれに赤い鳥居が立ち、その間から向こう岸にそびえる東尋坊タワー(高さ55m)などを望むことができた。

 雄島は全長約1.5 kmの遊歩道がぐるっと1周している。島の西側には白亜の雄島灯台が立つ。高さ約10.7mの小型灯台で、約70年前の1954年に初点灯した。そこから少し進むと“瓜割の水”の案内板が立っていた。雨水が地中に浸み込み地下水となって岩の割れ目から湧き出す。夏でも涸れることがなく、小鳥たちの貴重な水飲み場になっているという。地形図を参考に海岸の岩場に下りていき「多分この辺り?」と見回す。だが残念ながら“瓜割の水”を結局見つけることができなかった。

 残念といえば、もう一つ残念なことが。案内板によると、島の北東側の海岸には方位磁石を近づけると磁針を大きく狂わす“磁石岩”がある。「流紋岩の中の磁鉄鉱が何らかの原因で異常に強く磁化されたものと思われる」とのこと。しかし海岸を埋め尽くした板状節理などの雄大な景観に圧倒されるうち、磁石を試すことをすっかり失念し遊歩道を回り終わっていた。

 無人のこの島には手付かずの自然が残っており、タブノキやスダジイ、モチノキ、ヤブニッケイなど照葉樹林の森が広がる。林床にはヤブランやヤツデ、ウラシマソウなど。ゆっくり1時間半ほどかけて島を一周、再び雄島橋を渡って本土側へ。橋の上空には数羽の小鳥が猛スピードで飛び回っていた。イワツバメだ。海食崖や海食洞が続く東尋坊から雄島にかけよく見られ、近年は橋の下などコンクリート製の建造物に営巣することも多いという。3~5月に南方から飛来し、9月下旬までに帰っていくそうだ。

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<福井・三国> 江戸後期~明治初期、北前船交易で隆盛

2023年05月25日 | 旅・想い出写真館

【往時が偲ばれるレトロな町並み】

 九頭竜川の河口に位置する福井県坂井市三国町は古くから「越前三国湊」と呼ばれ、日本の十大港湾“三津七湊(さんしんしちそう)”の一つとして栄えた。とりわけ江戸後期~明治初期には北前船の寄港地として隆盛を極め、廻船問屋や豪商の商家が軒を連ねた。旧市街地の三国湊きたまえ通りには今も商家「旧岸名家住宅」や「坂井家住宅」、県内最古の鉄筋コンクリートの建物「旧森田銀行本店」などが立ち並んで、往時の栄華を偲ばせてくれる。

 岸名家は北前船交易で代々材木商を営んでいた三国湊を代表する商家の一つ。旧岸名家住宅は国登録有形文化財で、観光拠点「三国湊町家館」に隣接する(上の写真=手前が町家館、奥が旧岸名家)。坂井家住宅も三国の典型的な商家建築で、主屋と土蔵に九頭竜川に面した荷倉まで含めて国登録有形文化財。いずれも主屋の妻入り屋根の前面道路側に平入りの表屋を付けた“かぐら建て”という独特な建築様式が特徴だ。

 旧森田銀行本店は約100年前の1920年竣工で、西洋風のしゃれた外観を持つ。森田家は長く廻船業を営んでいた豪商だが、その後、海運業の衰退を予想し金融業に転換した。この近代的な建物の近くに樹齢300年ともいわれるタブノキの巨樹が立つ。廻船業で財を成した内田本家の庭に植えられていたというこのタブノキは三国湊の栄枯盛衰を見守り続けてきた。今では三国旧市街地のシンボルツリーになっている。

 三国にはかつて格式の高い2つの花街、「出村」(丸岡藩領)と「上八町(うわまち)」(福井藩領)があり、井原西鶴も「北国にまれな色里あり」と称した。福井を代表する民謡「三国節」の歌詞にも「三国女郎衆」「三国小女郎」「唄は上八町 情は出村」などが織り込まれている。出村界隈には今も見返り橋(写真㊦)、地蔵坂、思案橋など当時の遊里に因む地名が残っている。

 その近くに詩人三好達治(1900~64)が愛したという元料亭「たかだや」があった。達治は1944年から約5年間三国に滞在、その間に「花筐(はなかたみ)」「故郷の花」などを発表した。滞在中、頻繁に通ったのがこの料亭。達治は三国を去った後も三国を「心のふるさと」と懐かしんでいたそうだ。

 えちぜん鉄道三国駅を挟んで旧市街の反対側の高台に三国町のシンボル「みくに龍翔館」が立つ。五層八角の白亜の建物は北前船交易で繁盛した豪商たちが1879年に建てた龍翔小学校がモデル。1981年に旧三国町の郷土資料館として開館した。三国を訪れたのを機に館内を見学したかったが、あいにく改装のため休館中。坂井市全域を対象に歴史や文化を紹介する「坂井市龍翔博物館」として6月3日にリニューアルオープンするという。

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<鯖江・西山公園㊦> 無数の雪吊りが林立!

2021年11月27日 | 旅・想い出写真館

【公園のシンボル・ツツジの保護へ2500本も】

 北陸の冬支度で欠かせないのが樹木の枝を雪の重みから守る「雪吊り」。本格的な冬の到来を告げる風物詩にもなっている。有名なのが金沢の兼六園。松の木に高い竹から縄が傘状に張られた光景は情緒があり芸術的でもある。これまでこの兼六園のほか高岡古城公園や富山城址公園など各地の雪吊りを目にしてきた。だが、福井県鯖江市の西山公園の雪吊りは本数といい密集度といい異次元の光景だった。広い芝生広場をぐるっと囲むツツジの植え込みに林立する雪吊りは、背丈が低いものが多いものの数え切れないほど。圧巻!というほか言葉がなかった。

 西山公園は秋の紅葉が美しいが、日本海側屈指のツツジの名所としても名高い。公園全体のツツジの株数はなんと5万株に上るそうだ。ヒラドツツジが最も多く3万株を占めるが、ほかにもクルメツツジやオオムラサキなど様々な品種が植樹されている。色とりどりの花が咲き乱れる5月上旬の連休の頃には毎年「つつじまつり」が開かれてきた。約60年という長い歴史を誇る。雪吊りはツツジが冬を乗り切って春に美しい花をたくさん付けてもらうためにも欠かすことができない。

 それにしてもすごい数だ。公園管理事務所に問い合わせたら「2500本。それでも以前よりかなり減っています」とのこと。「なぜ?」と問うと「予算の関係もあって」と正直な答えが返ってきた。雪吊りは例年、降雪の心配がなくなる3月に取り外される。今年開催予定だった「第61回つつじまつり」は新型コロナのため昨年に続き2年連続で中止に追い込まれた。壮観な雪吊りを見たからには、満開のツツジが咲き誇る半年後にぜひもう一度訪ねたいものだ。

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<鯖江・西山公園㊤> 越前随一のモミジの名所

2021年11月26日 | 旅・想い出写真館

【〝祈りの道〟には微笑ましい石仏など約420体】

 北陸有数のモミジの名所として名高い福井県鯖江市の西山公園。11月24日訪ねると、ちょうど鮮やかに色づき、とりわけ〝祈りの道〟の光景は見応え十分だった。木々の間には石仏や石碑などがずらりと並ぶ。中にはモミジの葉っぱを頭に乗せて温かい表情で出迎えてくれたお地蔵さんも。四角形の木の柱には「『西山公園』日本の歴史公園百選選定五周年 もみじ千六百本達成記念植樹」と書かれていた。

 西山公園は祈りの道や西山動物園、芝生の広場、冒険の森、道の駅などがある西側の園地と、東側の日本庭園「嚮陽(きょうよう)庭園」などから成る。嚮陽庭園は江戸時代末期に幕府の老中も務めた越前鯖江藩第7代藩主間部詮勝(まなべあきかつ、1804~84)が「嚮陽渓」として造成した。祈りの道は山頂近くまで脇道も含め約900mにわたって続く。その間、木々を見上げては目を落とし石仏や句碑などを覗き込むことの繰り返し。モミジ狩りに加え石仏などの表情にも癒されるひと時だった。

 祈りの道づくりは1970年代に文化人たちの市民グループが「心の潤いと安らぎの場」として発案したのが発端。市民はもとより全国から賛同者が集まり、プロの指導を受けながら思い思いの石造物を造り上げた。1988年から97年までの10年間に設置された石仏などは420体にも上る。それから20~30年余り。風雨にさらされた石造物は古色蒼然とした味わいも備わってすっかり風景に溶け込んでいた。他のモミジの名所では味わえない雰囲気を堪能しているうちに展望台に到着。赤く染まったモミジの向こう側には鯖江市や越前市、越前町などの広大なパノラマが広がっていた。

 この後、国道417号を跨ぐ陸橋を渡って嚮陽庭園側へ。丘陵地に築かれたこの庭園には上段、中段、下段の3つの庭がある。嚮陽とはあまり耳慣れないが、自然に親しみ陽に嚮(むか)って常に明るくいつも隣人を愛することを意味するという。池泉回遊式の上段の庭(下の写真)の「初代の嚮陽渓碑」の案内板にこう書いていた。間部詮勝といえば思い浮かぶのは井伊直弼と共に尊皇攘夷派を弾圧した安政の大獄。「井伊の赤鬼」「間部の青鬼」として恐れられ、吉田松陰は間部の暗殺まで企てた。しかし鯖江藩主としては領民の憩いの場として嚮陽渓を造るなど藩のために尽くし名君として慕われたという。上段の庭には間部の胸像も飾られていた。その像の前や鯖江藩ゆかりの松阜神社では毎年顕彰祭が開かれてきたそうだ。

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<揚輝荘> ベンガラ色が映える山荘風の聴松閣

2021年11月09日 | 旅・想い出写真館

【2階では「和色の世界―Kimono」展開催中】

 百貨店松坂屋の初代社長伊藤次郎左衛門祐民(1878~1940)が覚王山(名古屋市千種区)の高台に構築した別邸「揚輝荘(ようきそう)」。2016年に一度周辺を散策したが、このときはシンボル的な建物「聴松閣」の外観をカメラに収めただけで素通りしていた。それが心残りだったので名古屋で一泊したのを機に改めて訪ねた。2階展示室では松坂屋美術館との連携による特別展「揚輝荘が織りなす和色(わのいろ)の世界~KIMONO」が開かれていた。

 揚輝荘が整備されたのは大正から昭和初期にかけて。約1万坪(3万3000㎡)の広大な敷地に30棟を超える建物が建てられた。「迎賓館として多くの財界人や文化人をお迎えしました。テニス場や弓道場などもありました」。ロッジ風の聴松閣に入ると、担当者が昭和初期の揚輝荘を俯瞰した模型を前に詳しく説明してくれた。ただ現在の敷地面積はその後のマンション開発などでかつての3分の1ほどに。南北に分断されており、南園(約2700㎡)と北園(約6500㎡)が狭い通路で結ばれている。

 聴松閣の玄関前には祐民が中国で購入したという南北朝時代(5~6世紀)の虎の石像。館内は趣向を凝らした暖炉や重厚なインテリアで落ち着いた雰囲気を醸し出していた。とりわけ目を引いたのが階段の手摺に波模様のように刻まれた手斧(ちょうな)の跡。手斧による透かし彫りもあって、往時の匠の技を味わうことができた。2階の旧応接室や書斎などは展示室に充てられている。開催中のKIMONO展では重要文化財指定の小袖「染分綸子地御所車花鳥模様」のレプリカをはじめ豪華な意匠の振袖や小袖などが、園内の四季の写真や絵画とともに展示されていた。会期は11月21日まで。

 北園は池泉回遊式の庭園で、シンボルになっているのが京都の修学院離宮の千歳橋を模したといわれる廊橋「白雲橋」(市指定有形文化財)。以前訪れたときにはその橋を借景として艶やかな着物姿と紋付姿の若い男女が写真に収まっていた。橋の天井には墨で描かれた龍図。絵心があった祐民が池の名「浴龍池」に因んで描いたのだろうと伝えられている。その龍の絵が「祐民の隠し絵?」と一時話題になった。地元の新聞記事によると、鼻や口ひげなどの部分が見る角度によって冠を被った女性の横顔に見えるという。そう言われれば女性の顔に見えなくもない。ユーモアに富んでいたという祐民が意識的に描いたのだろうか。

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<大須観音> にぎわう毎月2回の骨董市

2021年10月30日 | 旅・想い出写真館

【8~9月は新型コロナ感染拡大で中止に】

 関西で骨董市といえば、京都の東寺弘法市(毎月21日)や北野天満宮の天神市(25日)が有名だが、中部地方では名古屋の「大須観音骨董市」が人気を集めている。こちらの開催日は毎月18日と28日の2回。新型コロナウイルスが猛威を振るった8月と9月は中止に追い込まれたが、10月からはまた元通りに開催され、参拝客や骨董ファンでにぎわっている。

 大須観音は家内安全・商売繁盛・合格祈願などにご利益があるとされ、浅草観音(東京)、津観音(三重)とともに日本三大観音に数えられている。本堂は戦災で焼失し、50年ほど前の1970年に再建された。周辺の大須商店街は一時期シャッター通りと揶揄されるほど衰退していた。だが、その後多彩なイベントの展開などで再生を遂げ、2006年には「がんばる商店街77選」(中小企業庁選定)にも。この骨董市も大須復興に一役買ってきた。

 10月28日境内に入ると、レトロな飲食器や着物、アクセサリー、玩具、雑貨などを扱う店がずらり。年配客のほか若い男女も結構多く、熱心に品定めしていた。ブローチを手にした女性が店主に声を掛けた。「これ、いくら?」。店主は初め「1500円」と答えるが、女性が思案するのを見ると「1300円」に値下げ。すると今後は女性から「1000円」。店主は苦笑しながら千円札を受け取っていた。店主は最初から値切られることを前提にし、女性もそれを見越していたに違いない。両者とも値切り・値切られる掛け合いを楽しんでいる様子だった。

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<和歌山城> 西の丸と二の丸をつなぐ御橋廊下

2021年09月30日 | 旅・想い出写真館

【石垣では自衛隊員が命綱着け草刈り】

 久しぶりに和歌山を訪ねた。目的は他の城では余り目にすることがない和歌山城の傾斜した“御橋廊下”と、城のすぐ南に位置する和歌山県立博物館・近代美術館。城の石垣では命綱のロープを着けた自衛隊員が鎌で草を刈るなど清掃活動中だった。数十年ぶりに中心商店街ぶらくり丁にも立ち寄った。橋のたもとの歌碑に近づくと突然懐かしい演歌「和歌山ブルース」が流れてきた。

 和歌山城は紀州徳川家の居城。天守閣はかつて国宝に指定されていたが、1945年の空襲で焼失、その8年後にコンクリート造りで元の姿に復元された。御橋廊下は西の丸と二の丸大奥をつなぐ屋根と白壁で覆われた通路。当時の図面や発掘調査を基に2006年に復元された。長さは約27m。江戸時代には殿様やお付きの人だけが通行できたが、今では履物を脱ぎさえすれば自由に通れる。両側の地盤の高低差から、斜めに架けられているのが特徴だ(勾配角度約11%)。そのため床板は滑らないよう段違いに組まれているが、段差がかなりあるため歩くたびに足の裏が痛くなるほどだった。西の丸側には堀から出土した巨大な礎石などが展示されていた。

 城を訪れた日、城内には自衛隊員の姿が目立った。大阪府和泉市の陸上自衛隊信太山駐屯地所属の隊員たちで、毎年この時期になると石垣などを覆う草や蔓の刈り取り作業に取り組んでいるという。高くて急な石垣での活動は足場の悪い場所での訓練も兼ねているそうだ。その活動が地元の人々からも感謝されているのだろう、多くの人が「ご苦労さまです」と声を掛けていた。ある場所には団体や企業からの差し入れとみられる飲料水などが入ったダンボール箱が積まれていた。

 城内北西角にある「わかやま歴史館」に立ち寄った。まずシアタールームで映像「よみがえる和歌山城」を見た後「和歌山城の歴史文化」の展示コーナーへ。紀州徳川家伝来という金印はまばゆいばかりの輝きを放っていた。「わかやま人物探訪」コーナーでは陸奥宗光、南方熊楠、川端龍子、松下幸之助、有吉佐和子の5人が紹介されていた。博物・生物学者の南方熊楠(1867~1941)は神社林(鎮守の森)の保護活動で広く知られるが、ここでは和歌山城の堀の埋め立て・宅地化計画への反対運動にも詳しく触れていた。熊楠の生誕地は南海和歌山駅から程近い所にある。そこには胸像が乗った立派な石碑が立てられていた。県立博物館では企画展「きのくにの宗教美術」、県立近代美術館では企画展「コミュニケーションの部屋」が開かれていた。

 ぶらくり丁は「和歌山ブルース」の中で「逢いたい見たいすがりたい そんな気持ちにさせるのは ぶらくり丁の恋灯り……」と歌われている。吉川静夫作詞・吉田正作曲で50年ほど前、古都清乃が歌って大ヒットした。雑賀橋のたもとに歌碑が造られたのは17年前の2004年。レコード盤を模した台座の上に高さ1mあまりの円筒の照明器具が立ち、台座には歌詞や五線譜などが刻まれていた。そばに寄ると感知し歌が流れ始める仕掛けだ。今も長く歌い継がれており、古都清乃は地元で絶大な人気を保っており、2012年には和歌山県文化功労賞を受賞した。川べりには古都清乃や三田明らをゲストに迎え10月31日に開かれる「ニューレトロ!ぶらくり歌謡音楽祭」のポスターが貼られていた。

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