く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<飛鳥資料館> 秋期特別展「祈りをこめた小塔」4日まで

2016年11月30日 | 考古・歴史

【中国の「銭弘俶八万四千塔」や法隆寺所蔵の「百万塔」など】

 奈良文化財研究所飛鳥資料館(奈良県明日香村奥山)で秋期特別展「祈りをこめた小塔」が開かれている。日本では奈良時代、称徳天皇が国家鎮護や滅罪の祈りを込めて「百万塔」の造立を発願し、中国では10世紀に「銭弘俶(せんこうしゅく)八万四千塔」と呼ばれる小塔が大量に造られた。土製素焼きの「泥塔」も含め国内に伝わる小塔類を集めて展示し、それぞれに込められた当時の祈り・願いを振り返る。12月4日まで。

 中国の「銭弘俶八万四千塔」は唐滅亡後の五大十国時代に、江南の呉越国最後の王(第5代)銭弘俶(在位948~978年)が955年頃から約10年かけて造らせた青銅製の法舎利塔(仏教の経典を納めた仏塔)。この王は仏教への信仰が篤く、八万四千塔はインドのアショカ王(阿育王)が8万4000塔を造立したという故事にならったといわれる。これまでに中国と日本で50基ほどが確認されており、日本には12点が伝わっている。今展ではそのうち一部分も含め9点が展示された。

 京都・金胎寺所蔵のものは国の重要文化財。舎利龕(がん)などが江戸時代に追加荘厳されたとされ、塔を納めた箱にはその舎利が「弘法大師御請来」とする墨書銘文が入っている。大阪・来迎寺所蔵のものは塔の形が金胎寺と極めて似ており、明治期の文書によるとこの塔も元は金胎寺にあったらしい。塔身部の4面には釈迦が前世に飢えた虎に自らの体を捧げたという「捨身飼虎(しゃしんしこ)」などの場面が彫られている。他に奈良、京都両国立博物館や大阪・金剛寺所蔵のものなども展示中。

 一方、日本の「百万塔」は奈良時代後半に称徳天皇(孝謙上皇が重祚)の発願によって造られたもので、高さ20cm余りの木製の三重塔。塔身部と相輪部に分かれ、内部に「陀羅尼」の写経が納められた。この小塔には764年に天皇が寵愛する僧の道鏡を巡って起きた「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」の犠牲者を弔う意味も込められていたといわれ、東大寺や興福寺など奈良の十大寺に10万基ずつ安置された。250人ぐらいの工人が僅か6年で造ったという。ただ現在では法隆寺だけに塔身部約4万6000点と相輪部約2万6000点が伝わるのみ。平城宮跡からは塔身部や笠の破片など失敗作とみられるものも出土している。

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<画家島本芳伸> 没後3年の回顧展、奔放な筆致で自然の輝きを描く!

2016年11月28日 | 美術

【奈良を拠点に海外にも、晩年までエネルギッシュに創作】

 奈良県橿原昆虫館(橿原市)で「自然を感じる・命を見つける―画家・島本芳伸の世界」が開かれている。島本は1937年和歌山県生まれで、7歳のとき奈良へ。元一陽会委員・日本美術家連盟会員で、現場主義をモットーに画材を求めてキャンピングカーで走り回り、3年前の2013年秋に病没するまで創作活動に精力的に取り組んだ。多作で知られ、テーマも風景、人物、寺院、仏像と多岐にわたった。30日まで。

 

 会場の入り口に飾られた作品は色鮮やかな『朝日を受ける畝傍山』(上の作品)。季節は秋だろう。朝日が田園や紅葉を照らし、中央奥の畝傍山をひときわまぶしく染め上げる。その左背後には二上山。平和な朝の風景を明るく自在な筆致で描き上げた。橿原市に居を構えていた島本は畝傍山と二上山がお気に入りだったようだ。会場には『青い風』(下の作品㊧)や絶筆『二上山と畝傍山』も展示されている。絶筆は亡くなる4日前の作品。飛鳥路を車椅子で散歩していたとき「二上山がきれいね」と声を掛けると、島本は「畝傍山と合わせて描くのがいいんや」と答え、自宅に戻るとベッドの上で描き始めたという。だが翌朝には意識を失ったそうだ。

 

 島本の作品には独特なタッチの個性豊かなものが多い。『赤の気配』(上の作品㊨=部分)は150号変形の縦長の大作。滝を激しく下り落ちる白い水しぶきがユニークに表現されている。別の滝を描いた『虹の気』は勢いのある筆運びでほとばしる水のすさまじさを表した。一方、病没2年前の作品『はちすのゆめ』(下の作品)はメルヘンチックな作品で、月光に照らされて咲くハスの花を幻想的に描いた。

 

 『余呉郷湖』(下の作品)は横長の和紙に描いた作品。『はちすのゆめ』と同様、静寂が画面全体を支配するが、手前の親子(?)のカモが厳しい冬の自然の中で一服の温かさを感じさせてくれる。なかなか味わい深い。会場にはヨーロッパを訪ねたときの作品『トレドの太陽』(スペイン)や『オンフルールの雨』(フランス)、1978~84年に30冊分の挿絵を描いた『全国の昔話シリーズ』なども並ぶ。島本は東大寺学園の夜間高校を卒業後、自然と真摯に向き合いながら多くの作品を残してきた。晩年は病魔に襲われ76歳で病没したが、全力疾走の人生に悔いはなかったのではないだろうか。

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<根来寺> 秋晴れの下、「かくばん祭り」にぎやかに

2016年11月27日 | 祭り

【国宝大塔前などで和太鼓や「根来の子守唄」、火縄銃の発砲など】

 雲ひとつない秋晴れに恵まれた26日、和歌山県岩出市で「第19回紀州根来寺かくばん祭り」が開かれた。「かくばん」は新義真言宗総本山根来寺の開祖「覚鑁上人」(1095~1143)のこと。上人は真言宗中興の祖ともいわれ、西行法師は「高野の御山に覚鑁上人とて、やんごとなき聖者おわしけり」と褒め称えたという。祭りは市観光協会などが根来寺や上人のことをもっと知ってもらおうと1998年にスタート、今では紀州の秋を彩る市民参加の祭りとしてすっかり定着した。

 主会場は国宝の大塔前広場に設えられた特設舞台。獅子舞や和太鼓の演奏、「根来の子守唄」の歌と踊り、詩舞、二胡や琴の演奏などが次々に披露された。中でも観客の大きな拍手を集めていたのがかわいい女の子たちによる「根来の子守唄」。「♪ねんね根来の ようなる鐘はヨ 一里聞こえて 二里ひびくよ」。長く歌い継がれてきたこの子守唄に合わせて、女の子4人が背負った人形の乳飲み子をあやすように風車を揺らしながら踊った。舞台を下りた女の子たちは緊張から開放されたように笑顔を見せてカメラに収まっていた。

 

 祭りのもう一つの人気イベントは不動堂前広場で行われた「根来鉄砲隊」の演舞。古式火縄銃の一斉射撃や連射のすざまじい轟音が境内にとどろき白煙がもうもうと立ち上った。戦国時代に武装集団として活躍した根来衆は鉄砲との関わりが深い。鉄砲は1543年にポルトガル人によって種子島に初めて伝来したというのが通説だが、その翌年には根来寺につながりを持つ津田監物という人物が根来に持ち帰ったといわれる。

 

 この日はほかにも根来塗の体験、ねごろ山散策ウオーク、お餅投げ大会、ミニSL乗車体験など様々なイベントが繰り広げられた。また「ねごろ歴史資料館」前の広場では「ねごろ歴史の丘音楽祭」が開かれ、13組の音楽グループが約6時間にわたって次々と熱唱・熱演した。

 

 

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<奈良県立万葉文化館> 特別展「古代への憧憬―近代に花開いた古典の美」

2016年11月24日 | 美術

【「記紀」や「万葉集」などに題材を求めた作品70点余り】

 奈良県立万葉文化館(明日香村飛鳥)で開館15周年を記念した特別展「古代への憧憬―近代に花開いた古典の美」が開かれている。明治時代は西洋の制度や文物を積極的に導入する一方で、美術界では古事記や日本書紀の神話などを題材とした作品が多く発表され、万葉集が広く読まれるようになる大正時代以降は「素朴な古代生活」への憧れを滲ませた作品も多く描かれた。これらの作品70点余を江戸時代から近年の平成まで時代を追って展示中。11月27日まで。

 会場を入ると2体の江戸時代の『柿本人麻呂像』。1体は「伝安井門跡賛、法眼泰晋画」、もう1体は「伝賀茂真淵賛」と伝わる。菊池容斎の『前賢故実』(全10巻、各上下冊)は上古から南北朝時代の皇族や忠臣の姿を描いたもので、漢文による解説付き。冨田渓仙の『万葉春秋』(上の作品)は万葉集に詠まれた椿や山吹などの草花が描かれた屏風絵。神宮徴古館(三重県伊勢市)から『仁徳天皇』『舎人親王』『和気清麻呂』など〝国史絵画〟5点も出展されている。国史絵画は昭和の初め、皇太子(今上天皇)誕生の記念行事として東京府が「養生館」の建設を計画し、そこに展示する歴史画として制作された。全部で78点あり、約60年前に東京都から伊勢神宮に譲渡された。

 

 展示中の国史絵画には『聖徳太子』も含まれるが、他にも聖徳太子に因む作品は多い。堂本印象の『太子降誕』(上の作品㊧=部分)は厩戸皇子誕生の場面を描いた作品。聖徳太子は厩(馬屋)で生まれたという逸話も伝わるが、ここでは穏やかな誕生まもない瞬間が明るく描かれている。吉村忠夫の『多至波奈大郎女』(作品㊨=部分)は聖徳太子妃で太子没後「天寿国曼荼羅繍帳」を作ったという橘大郎女を描いた作品。「第1回聖徳太子奉賛美術展覧会」(大正15年=1926年)に出品する予定だったが、時代考証などに時間がかかったため出品を諦め、後に帝展に応募し特選に輝いた。

 他に吉田白嶺の『土人形 武装した人』2体、大亦観風の『萬葉集畫撰』20点、菊池契月の『光明皇后』、上村松篁が井上靖の歴史小説『額田女王』のために描いた挿絵原画6点、小倉遊亀の『大津皇子』や『天武天皇』、大森運夫の『貧窮問答歌』なども並ぶ。

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<橿考研付属博物館> 秋季特別展「蘇我氏を掘る」

2016年11月23日 | 考古・歴史

【書紀や出土品から権勢を誇った蘇我氏の全体像を浮き彫りに】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で10月8日から開かれていた秋季特別展「蘇我氏を掘る」もきょう11月23日が最終日。蘇我氏は飛鳥時代、稲目―馬子―蝦夷―入鹿の4代にわたって大臣(おおおみ)を輩出するなど権勢を誇った。「乙巳の変」で蘇我本宗家は断絶するが、代わって傍系の蘇我倉家を中心に権力を保持し続ける。企画展は日本書紀の記事や出土品などを基に蘇我氏の系譜と全体像を浮き彫りにするもので、橿考研ならではの好企画だった。(写真は蘇我馬子の墓とみられる石舞台古墳)

 蘇我氏の本拠地は橿原市曽我の地とされる。もともとの出自には河内国石川郡説、渡来人説など諸説あるが、葛城地域の勢力から派生したとの見方が有力。日本書紀には馬子が推古天皇に「葛城県は蘇我の本拠」として割譲を要求したことなどが記されている。蘇我氏は娘たちを天皇の妃として送り込み天皇の外戚となることで、政治的な立場を不動のものにした。稲目は3人の娘を欽明、用明天皇の妃とし、馬子は娘の刀自子郎女を厩戸皇子(聖徳太子)の妃とした。

 

 蘇我氏は仏教を受容し積極的に寺院を建立した。馬子は日本最初の本格的な寺院・法興寺(飛鳥寺)を造営。その塔心楚付近からは勾玉や管玉、トンボ玉、金銅製鈴など多くの埋納物が出土した(上の写真㊧)。「仏教的なものと古墳的なものとが融合し、蘇我氏の権勢や時代性をよく表す」という。法隆寺蔵の「釈迦如来及脇侍像」(重文、写真㊨)の後背裏側には「戊子年…為嗽加大臣誓願敬造…」と刻まれる。「嗽加大臣」は2年前に没した馬子を指すとみられ、馬子のためにこの金銅仏が造られたと考えられている。蘇我倉山田石川麻呂が創建した山田寺跡からは平安時代の地崩れによって倒壊した東回廊がそのまま埋没した状態で発見された。(下の写真㊧は山田寺跡、㊨は飛鳥資料館で復元・展示されている山田寺の東回廊)

 

 蘇我氏の墓については石舞台古墳が馬子の「桃原墓」であるとみられている。横穴式石室内からは須恵器・土師器・鉄鏃などが出土した。父稲目の墓はその南東約400mにある都塚古墳や五条野丸山古墳が候補に挙げられている。ただ丸山古墳の被葬者については欽明天皇とする説も。蝦夷・入鹿の墓は日本書紀に「双墓を今来(大和国高市郡)に造り、一つを大陵といい蝦夷大臣の墓とし、もう一つを小陵といい入鹿の墓とした」という記事が見えるものの、双墓に該当する古墳がどれかまだ結論が出ていない。候補として挙がるのは橿原市五条野町の五条野宮ケ原1号墳・2号墳と菖蒲池古墳。

 企画展では「蘇我氏に排除された人々の墓を掘る」として、皇位継承などで対立し蘇我氏が殺害した穴穂部皇子や崇峻天皇、山背大兄皇子の墓についても触れた。これらの殺害された人物も蘇我氏の血を引く身内の人々だった。法隆寺の西側にある大型の円墳、藤ノ木古墳の被葬者として有力視されているのが馬子の命により殺害された穴穂部皇子と宅部皇子。その後、穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位するが、その崇峻天皇も4年後に暗殺される。崇峻天皇陵には赤坂天王山1号墳が有力視されている。

 入鹿が暗殺され蝦夷も自害した「乙巳の変」後も蘇我氏は朝廷内で有力な地位を保ち続け、蘇我倉山田石川麻呂は右大臣に任命される。その石川麻呂も謀反の罪で自害に追い込まれるが、兄弟の蘇我連子や赤兄らは大臣、左大臣などとして地位を継承し、連子の娘・蘇我娼子は藤原不比等に嫁いで武智麻呂・房前・宇合をもうける。こうして蘇我氏系皇族は奈良時代の聖武天皇まで続いた(聖武天皇の父、文武天皇は石川麻呂の娘・蘇我姪娘の孫)。奈良時代以降、藤原氏は蘇我氏の〝伝統〟を受け継ぐように娘を天皇の妃として勢力を拡大していった。

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<錦秋の有馬温泉> 関西屈指の紅葉の名所「瑞宝寺公園」

2016年11月22日 | 旅・想い出写真館

【秀吉お気に入りの〝日暮らしの庭〟、愛用の「石の碁盤」も】

 国内最古の温泉ともいわれる有馬温泉(神戸市北区)で1泊2日の同窓会。関東や九州方面から懐かしい面々が2年ぶりに集う。20日早めに有馬入りし、下見のため関西屈指の紅葉の名所といわれる瑞宝寺公園へ。モミジは盛りをやや過ぎていたが、それでも多くの観光客でにぎわっていた。湯治のため度々有馬を訪れた豊臣秀吉は、ここの紅葉を「いくら見ていても飽きない」と褒めたたえて終日を過ごしたとか。そこから〝日暮らしの庭〟とも呼ばれている。

 瑞宝寺公園には太閤秀吉が愛用したといわれる「石の碁盤」(下の写真㊧)や伏見城から移築したという旧瑞宝寺の山門も残る(瑞宝寺は1873年に廃寺)。茶頭の千利休を引き連れて度々茶会も催したそうだ。この公園など温泉街では有馬をこよなく愛した秀吉を偲んで毎秋11月2~3日「豊公を偲ぶ有馬大茶会」が開かれ、多くの茶道愛好家が集う。1950年に始まって今年で67回目。さらに、公園を訪ねた20日も野点を気軽に楽しんでもらおうと「もみじ茶会」を開催中で、和装の女性たちがお茶をたてていた。

 

 有馬の湯が広く世に知られるようになったのは奈良時代に僧行基が温泉寺を建立したのがきっかけ。温泉街の一角にその行基像が立つ(下の写真㊧)。鎌倉時代に入ると仁西上人が12の宿坊を設けたことから湯治場としての名声が一気に広まり、その後、秀吉は有馬に「湯山御殿」を建てた。その御殿も徳川時代になると取り壊されて、跡地に浄土宗の念仏寺、極楽寺(下の写真㊨)が建てられた。念仏寺がある場所には秀吉の正室ねねの別邸があったと伝えられている。

 

 

 「湯山御殿」の存在が再び脚光を浴びるのは1995年の阪神大震災後。震災で壊れた極楽寺の庫裏を再建するため発掘調査を行ったところ遺構の一部が見つかった。その場所にはいま「神戸市立太閤の湯殿館」がある(上の写真㊧)。岩風呂(㊨)や半地下式の蒸し風呂の遺構、出土した瓦や茶器などの陶磁器類(下の写真㊧)が展示されている。温泉街には他にも秀吉に因むものが多い。有馬川には赤い欄干の「太閤橋」と「ねね橋」が架かり、その間の親水公園の中には秀吉の馬印「千成瓢箪」のような模様も。ねね橋のそばには「ねね像」が立つ。真っ赤なモミジが映えるその像の前は絶好の紅葉撮影ポイントにもなっていた。

 

 

 同窓会は半年前に予約しておいたホテル側(兵衛向陽閣)の見事な会場設営や美味な料理、瑞宝寺公園への送迎などきめの細かい配慮もあって無事に終了。参加者は翌日、一緒にロープウエー・バス・ケーブルカーを乗り継ぎながら六甲の紅葉を堪能した後、それぞれ帰途に就いた。その翌日、参加者の一人から「同窓会も有馬も六甲もみんな良かったです」とのメールをもらった。遠路各地から集まってくれた参加者に満足してもらえたのがなによりも嬉しかった。

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<いろは歌> ひらがな手習いの歌の作者は空海(弘法大師)?

2016年11月17日 | メモ

【中に「咎なくて死す」の暗号? 作者に柿本人麻呂説も】

 「いろはにほへと ちりぬるを……」。47のかな文字を一度も繰り返さずに詠み込んだ「いろは歌」は、かなを学ぶときの手習い歌として平安時代の頃から日本人の間で親しまれてきた。ただ、その歌を誰がいつ作ったのかは今もってはっきり分からない。有力視されてきたのが高野山に金剛峯寺を開いた真言宗の開祖、弘法大師空海(774~835)だ。ただ、最近では空海より後の時代に作られたとの説が支配的になっている。一方で、最古の「いろは歌」が万葉がなで書かれていることなどから奈良時代に遡り、作者は悲劇の歌人柿本人麻呂と主張する研究者もいる。

 高野山(和歌山県高野町)の大師教会本部。その大講堂前に空海の真筆という「いろは歌」が刻まれた大きな石碑が立つ。「弘法大師御誕生一千二百年記念」とあるから、40年ほど前に奉納されたのだろうか。「弘法大師御真筆」に続いて七五調の「いろは歌」が8行にわたって刻まれている。大講堂は100年ほど前に高野山開創1100年の記念事業として建てられた。その大講堂の堂内三方の壁には空海の一代記を描いた「弘法大師行状図絵」26枚が掲げられている。 その21枚目は「いろは歌と綜芸(しゅげい)種智院」(上の写真㊨)。朱色の袈裟を身に着けた空海が子どもたちに何か教えている様子が描かれている。その絵の下にこんな説明が。「貴族の子弟でないと読み書きを学ぶことができなかった当時、庶民の子弟教育の為に、天長9年(832)12月、東寺の境内に『綜芸種智院』という学校を創設された。そして幼い子供にも解るようにと、仏さまの教えを仮名文字で示した『いろは歌』を作られた。御年59歳」

  

 「いろは歌」は釈迦の教えである「四句の偈(しくのげ)」が盛り込まれたものとよくいわれる。最初の「いろはにほへと ちりぬるを」が「諸行無常」、次の句が「是生滅法」、次が「生滅滅已(めつい)」、最後の句が「寂滅為楽(いらく)」。この教えを空海が誰でも分かるように「いろは歌」に訳した、というのが空海作者説だ。奈良県葛城市の当麻寺には空海が籠って瞑想したという曼荼羅堂があり、その堂内の「参籠の間」で「いろは歌」を作ったという伝承も。島根県出雲市の神門寺(かんどじ)は空海真筆の「いろは歌」を寺宝とし「いろは寺」として親しまれている。この寺にも空海がここで「いろは歌」を考案したという伝承があるそうだ。

 ただ、国語学の大家の大矢透博士(1851~1928)が約100年前に『音図及手習詞歌考』(1918年刊)で空海説を否定したのをはじめ、国語学界では空海説を支持する声は少なく、「いろは歌」が作られたのは10世紀末~11世紀中頃とみる研究者が多い。4年前の2012年、三重県明和町の斎宮跡から「いろは歌」が書かれた土器片が見つかった。斎宮は伊勢神宮に仕える斎王が過ごした場所で、土器片は11世紀末~12世紀前半のものだった。土器に書かれた「いろは歌」としては最古。「いろは歌」が書かれた最も古い文献は仏教の教義を解説した『金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)』(1079年)。その巻頭(下の写真㊧)に7字区切りで7行にわたって万葉がなで書かれている。古いものはほとんどが7行書きという。当麻寺や神門寺に伝わる空海真蹟といわれるものも7行で書かれているそうだ。

     

 『金光…音義』の7行の末尾を横に並べると「止加那久天之須(とかなくてしす)」。これは「咎なくて死す」と読めなくもない。そこに着目して「いろは歌」には無実の罪で死に追いやられる人の悲痛な叫びが暗号として組み込まれているとみる研究者も。篠原央憲(ひさのり)氏もその一人で、日本上代の悲劇的運命を辿った人物を探索する中で万葉の歌人、柿本人麻呂に行き着いた。人麻呂は藤原不比等の政争に巻き込まれて都から追放されたとみる。哲学者の梅原猛氏も『水底の歌』で人麻呂刑死説を唱えた。篠原氏はさらに万葉集の巻1、巻2について人麻呂自身が原本を編んだ当事者とみる。そして「いろは歌」にはもう一つの暗号もあると指摘する。上から5字目を横に読んだ「本乎津能己女(ほをつのこめ)」。これは万葉集の原本を石見国の妻、依羅娘子(よさみのおとめ)に届けてくれるよう頼んだものと推測する。篠原氏は『柿本人麻呂 いろは歌の謎』(上の写真㊨)や『柿本人麻呂の謎 古代暗号学明かす歌聖の恐るべき生涯』などでその暗号説を詳しく展開している。

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<高野山霊宝館> 秋期企画展「『真田丸』の時代と高野山」

2016年11月16日 | 考古・歴史

【九度山蟄居中の幸村が知人に宛てた焼酎無心の書状も】

 高野山霊宝館(和歌山県高野町)で秋期企画展「『真田丸』の時代と高野山」が開かれている。関ケ原の戦いで西軍側についた真田昌幸・幸村(信繁)親子は高野山・蓮華定院へ配流され、その後、九度山で蟄居生活を送った。この企画展では高野山に伝わる真田家ゆかりの品や真田家が仕えた戦国武将に関連する文化財などを一堂に展示中。来年1月15日まで(前期~11月23日、後期11月25日~)。

  

 真田父子が流された蓮華定院は高野山の塔頭寺院の一つ。室町時代から長野の豪族と宿坊関係があった縁から真田家の菩提寺にもなっていた。そのため蓮華定院には真田家ゆかりの品々が多く伝わっており、この企画展に出品されている絵画や書跡、工芸品にも蓮華定院所蔵のものが多く含まれる。「真田信綱像[真田幸村(信繁)像]」(上の写真㊧=部分)もその一つ。幸村を描いたものとして伝わる人物像の祖本とみなされるが、旧箱書によると、この像は幸村ではなく父昌幸の兄(幸村の伯父)である真田信綱を描いたものという。

 幸村が所持していたと伝わる「頭形兜(ずなりかぶと)」(上の写真㊨)や「太刀(銘正宗)」も展示されている。「頭形兜」は鉄製で黒漆塗り、「太刀」は全長102cm。蓮華定院には幸村の書状が2つ残っており、そのうち「焼酎の文」(下の写真㊧=部分)といわれる書状は2つの壷に焼酎を入れて送ってほしいとし、そのお礼に湯帷子(ゆかたびら)を差し上げる旨、流麗な筆致でしたためている。九度山での生活は苦しく、家計の足しにするため〝真田紐〟を作ったことは有名な話だが、この書状にもそうした生活の一端が垣間見える。また、この書状には壷の口をよく締めたうえ目張りするよう注文しており、幸村の細かく几帳面な性格をうかがうこともできる。

 

 「武田二十四将図」(上の写真㊨=部分)は武田家菩提寺の成慶院所蔵で、武田信玄と常勝武田軍団を支えた猛将二十四人を描いたもの。真田家では真田幸嗣の3人の息子、信綱・昌輝・昌幸が画面の中央付近に描かれている。信玄の弟で画家としても知られる武田逍遥軒信廉(のぶかど)の作品「十王図」「十二天像」(いずれも前後期で作品入れ替え)も本館紫雲殿に展示している(下の写真㊧は「十王図」のうち閻魔王=部分)。武田家ゆかりのものとして「武田信玄禁制書」(下の写真㊨)や信玄所用とされる「梨地金銀蒔絵采配串」なども展示中。禁制書は持明院蔵で、寺院と寺領の安全を保証するため軍勢の乱入狼藉、竹木の伐採、農作物の刈り取りなどを禁じている。

 

 真田家は武田家の滅亡後、臣従する大名を織田、上杉、北条、徳川、豊臣と次々に変える。蓮華定院蔵の「太閤秀吉像」(下の写真㊧=部分)は左上に「真田安房守昌幸」という署名と花押が入っている。金剛峯寺所蔵の国宝「金銀字一切経」や重要文化財の「法華一品経」「高麗版一切経」(下の写真㊨=部分)も同時に展示している。「法華一品経」(全28巻)は豊臣秀吉が高野山に奉納し、「高麗版一切経」(全6285帖)は石田三成が関ケ原の戦いの前年、奥之院に経蔵を建てて奉納したという。

 

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<高野山> 壇上伽藍を彩るモミジ 息をのむ美しさ! 

2016年11月15日 | 旅・想い出写真館

【金剛峯寺に至る〝蛇腹路〟はモミジのトンネルに】

 半年ぶりに高野山へ。900mの山上に広がる一大宗教都市の高野山は紅葉狩りの人気スポットでもある。例年、見頃の最盛期は10月下旬~11月上旬とのこと。だけど間に合った! 11月中旬に入ってイチョウの黄色い葉はかなり落ちていたが、紅や赤、橙色のモミジはまだ見頃で壇上伽藍に華やかな彩りを添えていた。

 壇上伽藍は奥之院とともに弘法大師(空海)が開いた真言密教の聖地。金堂や根本大塔などが威容を誇り、開創1200年に当たる2015年には中門が172年ぶりに再建された。色とりどりのモミジがこれらの壮麗な建造物や静かな佇まいの六角経蔵などを一層美しく引き立てていた。秋季企画展「『真田丸』の時代と高野山」を開催中の高野山霊宝館の周辺もモミジで明るく彩られていた。

 

 最大の見どころは壇上伽藍から高野山真言宗の総本山・金剛峯寺に向かって東に伸びる〝蛇腹路〟と呼ばれる参道。半年前の5月には瑞々しいモミジの若葉に覆われていたが、今は燃えるような赤いトンネルになっていた。空海は高野山の地形を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容したという。壇上伽藍を龍の頭とすれば、この参道が龍の腹の部分に当たるとして蛇腹路と名付けられたのだろう。11月30日まで夕方5時以降ライトアップされているそうだ。まさに幻想的な光景に違いない。

 

 

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<キバナノホトトギス(黄花の杜鵑草)> 宮崎県特産、鮮やかな黄花を上向きに

2016年11月11日 | 花の四季

【ユリ科ホトトギス属、環境省は絶滅危惧Ⅱ類に指定】

 ユリ科ホトトギス属の植物は東アジアからインドにかけて20種ほどが分布し、そのうち日本国内に12種が自生するという。このキバナノホトトギスはその1つ。ただ野生種の分布域は非常に狭く、ほぼ宮崎県内に限られている。ホトトギスの名は花被の紫色の斑点が小鳥のホトトギスの胸の模様に似ていることに因むが、この野の花にも花びらの内側に赤紫色の細かい斑点が入る。

 草丈は20~30cmほど。花期は9月から11月ごろで、その名の通り、鮮やかな黄色の花を上向きに付ける。花柱は先端が3つに裂ける。姿がよく似たものに鹿児島県に分布するタカクマホトトギスがある。その名は大隅半島中央部に位置する高隈山の名前から。同じ黄花だが、キバナノホトトギスのほうが花色が濃く、葉は幅が狭い。キバナが平地の林縁や林床を好むのに対し、タカクマは主に岩場に自生するといった違いもある。

 ホトトギス属の中で同じように黄花を上向きに付けるものにチャボホトトギスやキバナノツキヌキホトトギス、タマガワホトトギスがある。このうちチャボホトトギスは全体的に小さいことをチャボ(矮鶏)に見立てたもので、キバナノホトトギスの矮小型とも考えられるそうだ。キバナノツキヌキホトトギスは茎が葉の下部を貫通する(突き抜ける)ことから。このホトトギスはキバナノホトトギスよりさらに分布域が限られ、宮崎県の尾鈴山の岩場だけに生える固有種といわれる。

 ホトトギス属には下向きに鐘形の黄花を付けるものもある。ジョウロウホトトギスやキイ(紀伊)ジョウロウホトトギス、サガミ(相模)ジョウロウホトトギス。ジョウロウは気品のある花を「上臈」(身分の高い女官)にたとえた。ホトトギスの仲間には最もポピュラーなホトトギスやヤマホトトギス、ヤマジホトトギスなど白花も多い。ただ、黄花のものに自生地の減少から絶滅が懸念されているものが目立つ。キバナツキヌキホトトギスやサガミジョウロウホトトギスは絶滅危惧Ⅰ類、このキバナノホトトギスやジョウロウホトトギス、キイジョウロウホトトギスなどは絶滅危惧Ⅱ類に指定されている。

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<綾の照葉樹林> 4年前 「ユネスコエコパーク」に、国内5カ所目の登録

2016年11月10日 | 旅・想い出写真館

【宮崎県中央部に位置、官民五者が保護・復元へ連携】

 宮崎県の中央部に位置する「綾の照葉樹林」は日本に残された最後の広大な照葉樹林といわれる。中心部の600haに周辺部も含め約2000ha(東京ドーム428個分)。綾川流域に光沢のある深緑色の常緑広葉樹の樹林帯が広がる。4年前の2012年には「綾ユネスコエコパーク」として登録された。国内でユネスコのエコパートに登録されたのは屋久島、大台ケ原・大峰山、白山、志賀高原に続いて5カ所目だ。 

 綾の照葉樹林は九州中央山地国定公園内にあり、林野庁の「水源の森百選」や「森林浴の森百選」に選ばれている。さらに「綾川湧水群」として環境省の「名水百選」にも。かつて各地にあった照葉樹林は開発やスギ・ヒノキの人工林の増加などで多くが失われた。しかし、ここではコナラ属やマテバシイ属などのブナ科をはじめクスノキ科、ハイノキ科、ヤブコウジ科などの多様な樹木が生え、原生的な景観を残している。綾の照葉樹林を構成する植物は実に263種に上り、このうち高木だけでも24種あるそうだ。綾の森には絶滅危惧種のイヌワシやクマタカ、特別天然記念物のニホンカモシカなど貴重な動物も生息する。

   

 シンボル的な存在が綾川渓谷に架かる全長250mの「綾の照葉大吊橋」。この橋の上からは照葉樹林を360度眺めることができる。橋のたもとには新しい石碑の横に「歩く吊橋 世界一」と刻まれた石碑もあった。今の吊橋は5年前の完成だが、それまであった吊橋は1984~2006年の間、人道吊橋として世界一の規模を誇ったという。古い石碑はその名残で、「架橋に込めた当時の意志を後世に伝えるため『世界一』の碑をそのまま残しています」という説明が添えられていた。 

 

 綾の照葉樹林は官民の連携によって保護されてきた。その核となっているのが九州森林管理局、宮崎県、綾町、日本自然保護協会、「てるはの森の会」の五者。この五者で連携会議を構成し、人工林から照葉樹林への復元や森林環境教育など「綾の照葉樹林プロジェクト」に取り組む。事務局を置く「てるはの森の会」(2005年設立、会員約170人)は観光客を案内するガイドボランティアも行っている。照葉樹林の復元は植栽するのではなく、スギやヒノキの間伐などによって林内に光を取り入れて照葉樹木の生育を促し、大きく育ったところで人工林を伐採するという。50年後、100年後を見据えた息の長い活動だ。ユネスコのエコパークとして登録されたのも、そうした地道な保護・復元への取り組みが評価されたという。

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<西都原古墳群> 丘陵地に大小の古墳が300基あまりも点在!

2016年11月09日 | 考古・歴史

【天孫ニニギや妃コノハナサクヤヒメの陵墓と伝わる巨大な古墳も】

 丘陵地の芝生の中に様々な大きさの古墳がまるでバッチワークのようにあっちにもこっちにも! ここは全国最大規模の古墳群として知られる宮崎県西都市の「西都原(さいとばる)古墳群」。国指定の特別史跡だ。東西2.6キロ、南北4.2キロの広い範囲に300基あまりの古墳が点在する。3世紀から7世紀前半にわたって築造されたもので、そのほとんどが円墳だが前方後円墳や方墳もある。他に南九州特有の地下式横穴墓も。ただ古墳の大部分はまだ発掘されておらず、この一帯になぜこれほど大規模な古墳群が形成されたのかなど謎も多い。  

 これまでに確認された古墳は円墳286、前方後円墳31、方墳2の計319基。円墳は小規模のものが大半を占めるが、「飯盛塚」は直径50m、高さも7mある。5世紀前半の築造とみられる「女狭穂塚(めさほづか)」は九州最大の前方後円墳で、長さ180m、高さ15m。その西側に方墳が接するように位置する。「女狭穂塚」の陪塚(ばいちょう)として同時期に築造されたとみられる。

 

 女狭穂塚の北側にあるのは「男狭穂塚(おさほづか)」。これは長さ175m、高さ19mで、帆立貝形古墳としては国内最大。その陪塚とみられるのが西都原最大の円墳「飯盛塚」だ。「男狭穂塚」は記紀の「日向神話」に登場する天孫ニニギノミコトの御陵と伝わる。ニニギは祖父の天照大神の命を受け、高天原から三種の神器を携えて高千穂に降臨した。隣接する「女狭穂塚」はニニギの妻、コノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)のお墓といわれ、これら2つの古墳は陵墓参考地として宮内庁の管轄化にあり立ち入り禁止になっている。

 

 2つの古墳の南東側に位置する「鬼の窟(いわや)古墳」(上の写真)は6世紀後半の築造とみられ、横穴式の石室を持つ。その名は鬼が一夜にして造り上げたという伝承から。かつて石室入り口にクスノキが生え、その根によって崩壊の恐れが高まっていた。そのため壁面などの石を解体して根を除去したうえで元の姿に復元した。現在はその内部を自由に見学できる。両側の壁面が内側に緩く傾斜し、巨大な天上石が重しとなっている感じ。古墳の周囲は奈良県明日香村の石舞台古墳(被葬者蘇我馬子?)と同じように土塁でぐるっと囲まれている。この古墳の被葬者もこの地の有力な権力者だったに違いない。 

 

 古墳群の北側には多くの出土品を展示した「宮崎県立西都原考古博物館」がある。12年前の2004年に開館した。館内では2016年度国際交流展として「馬韓・百済と南九州」展も開かれていた(12月4日まで)。韓国南西部に位置する栄山江流域の古墳から出土した副葬品を中心に、南九州との交流をうかがわせる資料なども展示中。3階の展望テラスからは眼下に広がる西都原古墳群を一望することができた。(下の写真は㊧韓国三国時代=3世紀後半~7世紀中ごろ=の「金銅冠」レプリカ=原品は韓国国宝、㊨同じく三国時代の「三葉環頭大刀・刀子」) 

 

 

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<BOOK> 「愛の讃歌 エディット・ピアフの生きた時代」

2016年11月08日 | BOOK

【加藤登紀子著、東京ニュース通信社発行】

 今年はフランスの国民的歌手、エディット・ピアフの生誕100年に当たる(正確には2015年12月19日からの1年)。パリの路上で生まれたピアフは売春宿を経営していた父方の祖母に引き取られ、赤貧の中、10代半ばで街頭で歌い始める。その境遇は同じ年の1915年に生まれた米国のジャズシンガー、ビリー・ホリディと重なる。薬物中毒、結婚・離婚の繰り返し、4度の自動車事故、ナチスドイツのパリ侵攻……。ピアフは数々の苦しみを乗り越えて力強い魂の歌声を残し、1963年10月11日短い生涯を閉じた。享年47。

     

 そのピアフを加藤登紀子心から敬愛する。1965年に日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝。以来、歌手活動は半世紀にわたるが「ピアフに魅せられた50年」と振り返る。ピアフは加藤が20歳になる直前に亡くなった。「繰り返し流れたピアフの『愛の讃歌』、ステージ上で倒れながらも歌う姿…。刺激された私は大あわてで恋をし、一気にその恋にのめりこんだ」と激白する。今年はピアフ生誕100年の記念公演「ピアフ物語」を6~7月に山形、大阪、高崎、東京で開催、さらについ最近11月3日にはパリでも21年ぶりに公演を行った。加藤自ら脚本、演出、日本語訳の全てを手掛け、ピアフに捧げるオリジナル曲『名前を知らないあの人へ』なども披露。パリ公演では『私は後悔しない』などピアフの代表曲を作ったシャルル・デュモンも駆け付けたそうだ。

 本書は「ピアフの誕生」「ヒトラーの時代」「戦後のピアフ」など5章構成で、ピアフの激動の生涯を辿る。読み進む中で、ピアフがいかに多くの名高い音楽家を掘り起こし世に送り出したかを知った。イブ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジョルジュ・ムスタキ、ジルベール・ベコー…。加藤はそこに「不思議な共通点」があると指摘する。その共通点とは「みんな異国の人、移民の子供」ということ。「彼らのシャンソンはその異民族の血の素晴らしい開花と言えます」。ピアフ自身の中にもベルベル族の血が8分の1入っていたという。

 ピアフの代表曲として有名なのが『愛の讃歌』や『バラ色の人生』。これらの名曲が生まれたときの秘話も興味深い。『愛の讃歌』(作詞ピアフ、作曲マルグリット・モノー)は最初イヴェット・ジローに進呈していた。だが当時の恋人でボクサーのマルセル・セルダン(元世界ミドル級王者)が飛行機事故で突然亡くなった後、自らレコーディングすることを決めイヴェットに発売の延期を求めたという。ピアフ作詞・作曲の『バラ色の人生』はイブ・モンタンとの恋を歌ったものといわれるが、レコーディングしたのはモンタンと別れた後だった。この歌も周りからピアフが歌うには平凡で陳腐と言われ、最初は別の女性歌手にあげてしまっていたそうだ。

 ピアフが亡くなったとき、200万人もの人たちが霊柩車を見送ろうとパリの沿道を埋め尽くしたという。最も棺の近くにいたのがハリウッドスターのマレーネ・デートリヒ。14歳年下のピアフと、ヒトラーの帰国命令を拒否し連合軍の兵士としてナチスに立ち向かったマレーネは生涯深い友情で結ばれていた。「戦争と破壊の20世紀を果敢に生き抜いた二人の人生と歌。マレーネの生き方が、ピアフの歌が、人々をどれだけ励まし、力づけてきたのか」。

 ピアフが亡くなった1963年の秋には米国公演が控え、ホワイトハウスでJ.F.ケネディの前でも歌う予定だったという。そのケネディもピアフの死から約1カ月に暗殺されてしまう。加藤は「ピアフの人生を歌うことは、悲しみの中から生きる気力が燃え上がる、その炎を体の中に感じること」という。(わが家唯一のピアフのCDは「EDITH PIAF SPECIAL COLLECTION」。ヒット曲14曲入りで、1曲目が『愛の讃歌』、最後の14曲目が『バラ色の人生』。そのCDを聴きながら)

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<アダン(阿檀)> パイナップルに似た果実を付けるタコノキ科の常緑樹

2016年11月07日 | 花の四季

【沖縄など亜熱帯~熱帯に広く分布、葉は敷物やかごなどの材料に】

 タコノキ科タコノキ属(パンダヌス属)の常緑樹。奄美大島~沖縄から台湾、東南アジア、太平洋諸島まで亜熱帯~熱帯地域に広く分布する。タノノキ属は「蛸の木属」。海岸のそばで群落をつくることが多く、横に伸びた枝からタコの足のように支柱根を垂らす。樹高は3~6mほど。幹にはリング状に落葉痕が並ぶ。

 雌雄異株で、夏に開花する。雄株は長さ20~30cmの太い肉穂花序を垂れ気味に伸ばし、芳香のある白い小花を密に付ける。雌株は松かさ状の球形の頭状花序。果実は数十個の核果からなる集合果で、直径は20cmほど。一見パイナップルに似て、初めは緑色だが熟すと黄色くなる。かつては食べる習慣もあったらしいが、ほとんどが繊維質のため食用にはあまり向かないという。完熟すると核果はバラバラになって落ち、これをヤシガニが好んで食べるそうだ。

 葉は細長い剣状で長さが1mから1.5mにもなる。硬い革質で、縁と裏側真ん中の葉脈上には鋭い棘。中には棘のない種類もあり「トゲナシアダン」と呼ばれる。アダンをはじめタコノキ属の植物はその葉が屋根葺きや敷物、籠、パナマ帽などの材料として利用されてきた。沖縄諸島でもアダンの葉を編んでござやぞうりなどが作られていたという。

 同属の仲間には小笠原諸島固有種の「タコノキ」をはじめ、沖縄や南洋諸島に広く分布する「シマタコノキ」、高さが30mにもなる「オオタコノキ」、葉の幅・長さが短めの「イトバタコノキ」や「ヒメタコノキ」などがある。つる状の低木で崖や樹木をよじ登る「ツルアダン」はアダンとは別属のツルアダン属。

 中島みゆき作詞・作曲の歌に『阿檀の木の下で』がある。以下はその一部。「♪陽は焼きつける 阿檀は生きる 大地を抱いて阿檀は生きる 山の形は雨風まかせ 島の行方は波風まかせ 遠い昔にこの島は 戦軍(いくさ)に負けて貢がれた だれもだれも知らない日に決まった だれも知らない木の根の下は 主(ぬし)の見捨てた貝殻ばかり」。(写真は沖縄県恩納村の「万座毛」で)

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<アメリカハマグルマ(浜車)> 沖縄では周年開花するキク科の地被植物

2016年11月04日 | 花の四季

【「ウェデリア」とも、今では「世界の侵略的外来種」の一つに】

 キク科ハマグルマ属(スファグネティコラ属)の常緑多年草。原産地は米国フロリダ州、西インド諸島など中米から南米にかけての熱帯アメリカ。草丈は15~20cmぐらいで、花茎の先に直径4cmほどのかわいらしいキクの花に似た黄花を付ける。旧属名から園芸界では「ウェデリア」とも呼ばれている。葉の形から「ミツバ(三葉)ハマグルマ」とも。

 つる性で繁殖力は旺盛。茎は地面を這うように伸び、接地した茎の節から根を出して周辺を覆っていく。日本には1970年代に入って沖縄県にグランドカバープランツ(地被植物)として導入された。成長が早いうえ乾燥に強く潮風にも耐えることなどから、沖縄自動車道をはじめ県内各地の道路の法面などに広く植えられた。沖縄ではほぼ周年開花するという。

 ただ、最近では世界各地の亜熱帯で野生化が進んで生態系への影響が懸念されており、国際自然保護連合(IUCN)の「種の保委員会」は、この植物を「世界の侵略的外来種ワースト100」の一つに指定している。また日本国内でも沖縄諸島や小笠原諸島などで野生化し、宮崎や香川などの暖地でも分布が確認されている。懸念されるのはハマグルマなど在来種との交雑。繁茂によって在来の植物が生育できなくなる恐れも出ている。

 このため外来生物法に基づいてこれまでの「要注意外来生物」に指定していたが、制度の変更に伴って2015年3月「生態系被害防止外来種(緊急対策外来種)」に改めて指定した。特に問題となる地域として環境省は「隆起珊瑚礁など海岸砂地や岩場、林縁」を挙げており、「生物多様性の保全上重要な地域に侵入する恐れがある場合には持ち込まない」よう注意を喚起している。(写真は沖縄県の「沖縄美ら海水族館」などがある海洋博公園で)

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