く~にゃん雑記帳

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<平城宮跡資料館> 「地下の正倉院展―木簡学ことはじめ」開催中

2013年10月28日 | 考古・歴史

【〝主役〟は50年前にゴミ捨て穴から大量に出土した木簡】

 奈良の秋の風物詩「正倉院展」が今年も26日に始まったが、奈良市の平城宮跡資料館でも「地下の正倉院展」が始まった。2007年から毎年開催しているもので今年で7回目。今回は「木簡学ことはじめ」と題し、ちょうど50年前の1963年に平城宮跡の北端から大量に出土した木簡に焦点を当てている。12月1日まで(無料)。(写真㊨は1963年の発掘調査風景)

   

 平城宮跡で最初の木簡は1961年の夏に朱雀門の真北から見つかった。「タクサン! ナンカ字ィ書イタルデー」。これが見つけた人の第一声。「タクサン」は後に奈良文化財研究所の所長に就いた田中琢(みがく)氏のこと。当時は古代の人々が木に文字を書いていたという認識自体が希薄だった。それだけに発掘現場の人々の驚きぶりが目に浮かぶ。後に「大膳職跡」(給食センター)と推定されるこの場所からは40点の木簡が出土した。今回はその第1号の木簡も「プロローグ はじまりの木簡たち」の1つとして展示されている(下の写真㊧)。

 展示会場はプロローグに続き「空前の大出土!SK820」「木簡学の基礎、確立」「広がる木簡学」の3部で構成する。「SK820」は2年後の1963年に大量の木簡が出土したゴミ捨て土坑の場所を示す。最初の木簡が見つかった場所の東側にあった「内裏北外郭官衙」の一角。穴は約4m四方、深さ約2.3mで、木簡は表面から1.5m以下から土器や瓦などとともに出土した。見つかった木簡はなんと1800点以上。全て国の重要文化財に指定されている。

     

(㊧は1961年平城宮跡から最初に見つかった木簡、それ以外の4枚は1963年に出土。左側2枚目から順に「門を守衛する兵士の配置記録の木簡」「フナ30匹の荷札」、右側2枚は文字の練習をしたとみられる木簡)=いずれも部分

 木簡の形や大きさなどは多種多様。割り箸のように細く裁断されたものや鰹節のような削り屑も多く含まれていた。中には断面が正方形に近い太いものや丸い栓のようなもの、2枚の板を重ねたものなどもあった。判読可能な木簡を詳細に検討した結果、その用途を大きく分けると①文書(もんじょ)②習書(しゅうしょ)③付け札に分類できることが分かった。

 文書は物品管理や人員配置の記録、他者に宛てた書状や呼び出し状など、習書は端材や不用品の木簡を使って文字の練習をしたもの。付け札は荷物に括りつける荷札などで、発送者の名前や住所が記され、紐をかけるための切り込みを持つものも多い、荷札には発送の年月日などを記した〝紀年銘木簡〟も含まれる。「SK820」から出土した荷札の年紀は奈良時代中期の天平17~19年(745~47年)に集中しており、木簡や土器類などが天平19年の後半頃に埋められたことが判明した。同展には木簡1つ1つについて記録した当時の貴重な〝記帳ノート〟も展示されている。

 

(写真㊧「形も大きさも様々な木簡」、㊨「年月日などを記した紀年銘木簡」) 

 木簡類は千数百年も地下の泥土の中で眠っていただけにデリケート。泥土が酸素と紫外線を遮断して劣化を防いでくれた。奈良文化財研究所では木簡の保存に万全を期すため、公開については「1点につき1年に2週間以内」というルールを作っているという。今回の展示会では合計83点の木簡が展示されるが、このルールに則って会期中に2回総入れ替えを行う。

 展示会を企画した奈文研都城発掘調査部史料研究室の山本祥隆さんは、展示された木簡について説明する際、木簡のことをしばしば「この子」や「この子たち」と呼んでいた。「じっくり見て、可愛がってくださいね」とも。約1300年前に古代の人々が実際に文字を書いて使っていた木簡の数々。眠りから覚めたそれらの木簡たちに、深い愛情を注いでいることが言葉の端々に表れていた。

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