く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<三枝祭> 2つの“ゆりまつり”今年も「関係者のみで」

2022年06月18日 | 祭り

 近鉄奈良駅そばにある2つの神社で、毎年6月17日には“ゆりまつり”が営まれる。漢国(かんごう)神社の「鎮華(はなしずめ)三枝祭(さきくさまつり)」と大神神社(桜井市)の摂社率川(いさがわ)神社の「三枝祭(さいくさのまつり)」。いずれも神前にササユリを供えて悪疫退散や五穀豊穣を祈願する。しかし今年も新型コロナの感染防止のため参列は神社関係者に限られ、奉納祭事も残念ながら中止や規模縮小に追い込まれた。

【漢国神社、包丁儀式も見送り】

 2つの神社の三枝祭は例年なら同じ時刻の午前10時半に始まる。だが漢国神社に行ってみると、開始は午前11時で「今回もまた神社関係者のみで執り行います」との張り紙。同神社では平安初期から伝わるという清和四条流の「式包丁儀式」が行われることで知られる。お供えの魚に手を触れず、包丁と真魚箸(まなばし)だけで3枚に下ろし、ササユリで飾り付ける。その儀式を一度目の前で見たいと勇んで出かけたのだが、神社関係者から「ありません」と聞いてがっくり。

 それでも神事の後、一般の参拝客がほとんどいない中で獅子舞や神楽が奉納された。奉納したのは「漢国神社韓園講(からそのこう)」の面々。太鼓と笛の演奏に合わせ、大盃で獅子や氏子ら参列者にお神酒を飲ませる「へべれけ」などの演目が披露された。これ、確か以前見たぞ! 調べてみると、2018年12月29日の獅子神楽の奉納の時だった。4年前のその日境内は参拝客で埋め尽くされ、笑いと拍手で大賑わいだった。獅子舞の奉納が終わると、獅子頭が邪気払いと招福のため参列者一人ひとりの元へ。後方にいた私も獅子に頭を噛んでもらった。

【率川神社、巫女の舞も境内の外からちらりと】

 率川神社は奈良市内最古の神社といわれる。その三枝祭は701年制定の「大宝令」に国の祭祀と規定されるほど由緒のあるお祭り。しかし同神社にもこの日入り口に「午前10時から正午まで、参列許可証をお持ちでない方は入場できません」との掲示板が立っていた。しかも「16、17日の行列、18日の奉納演芸は中止致します」とも。鳥居の前には一般の参拝者が20~30人集まっていたが、やむなく遠くから神事を垣間見る形に。最大の見どころ、巫女たちがユリを手に舞う「うま酒みわの舞」もちらっと少し見えるだけだった。事前チェックを怠ったことを反省。同時に来年こそコロナが収まって2つの三枝祭が通常の形で営まれることを願ってやまない。

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<月下美人> 例年より一足早く初開花

2022年06月17日 | 花の四季

【ほかに小さな蕾が21個も!】

 純白の大輪の花を開いて甘い香りを放つゲッカビジン(月下美人)。その神秘の花が6月16日の夜、1輪開花した。葉っぱ2枚から育て始めて約8年。2019年から花を付け始め、以来毎年10輪ほど開花し目を楽しませてくれてきた。しかし6月中の開花は今回が初めて。昨年の初開花は7月2日だったので2週間ほど早い。この株には小さな蕾が21個も付いている。古い株ほど花を多く付けるといわれるが、今年は何輪咲いてくれるだろうか。

 月下美人は中南米原産のサボテン科クジャクサボテン属の多年草。花径は花弁の外側のガク弁まで含めると20~25cmにもなる。花の内側手前には怪しげな形の雌しべ。まるでイソギンチャクの触手のようだ。その奥には絹糸状の無数の雄しべが林立する。今年もまたその不思議な姿にしばし見入ってしまった。翌17日早朝には花弁がほとんど閉じて筒状に。これは後で切り取って、いつものようにポン酢か胡麻和えにしよう。

 月下美人は生育条件さえ良ければ、10月ごろまで何度も花を付けてくれる。ただデリケートなため、栄養不足や水加減などによって蕾が赤くなって落下することもしばしば。鉢の場所を移動して日当たりなど生育環境が変わったときに落蕾することが多いような気がする。今ある21個の蕾のうち開花してくれるのはさて? この株以外にもこの親株の葉っぱから育てた鉢植えが3つほどある。2年前に1枚切り取ったものは1年後、水栽培の状態で葉のてっぺんに花を1輪付けてくれた。その後鉢植えにしたが、今年もいま蕾が3個付いている。

 ちなみに月下美人という優美な和名にはこんな逸話も。約100年前の1923年、皇太子時代に台湾を訪れた昭和天皇がこの花の名を聞いたところ、当時の台湾総督がとっさに「月下の美人です」と答えた。その後、月下美人の名前が国内で定着したという。

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<元興寺> 青空に映える“日本最古の瓦”

2022年06月15日 | 考古・歴史

【1400年の時を超えて今なお現役!】

 入梅直前の好天の日、久しぶりに日本最古の屋根瓦を見ようとふと思い立った。向かったのは世界遺産「古都奈良の文化財」の一つ元興寺(奈良市中院町)。お目当ては極楽坊本堂と禅堂(いずれも国宝)の屋根だ。そこには奈良時代以前の瓦がまだ多く残り、中には日本最初の仏教寺院・法興寺(飛鳥寺の前身)の創建当時の瓦も含まれる。茶や黒、灰色など様々な色彩の瓦が織り成す“行基葺き”の屋根が青空に映えて実に美しかった。

 法興寺(明日香村)は蘇我馬子が氏寺として約1400年前の6世紀末に創建した。その時、百済から渡ってきた瓦博士(職人)によって日本で初めて屋根に瓦が葺かれたといわれる。その後、法興寺は平城遷都に伴って718年、現在地に移築され寺の名も元興寺に改められた。移築に際して瓦や建築部材なども運び込まれ利用された。(下の写真は国宝「極楽坊本堂」を正面から)

 飛鳥~奈良時代の瓦がなお現役なのは本堂の西流れと禅堂の南流れの屋根。ちょうど二つの屋根が交叉するように葺かれている。法興寺の創建時の丸瓦や平瓦が200枚ほど残っているという。ほかに藤原京や東大寺の瓦、平安時代の瓦なども使われている。元興寺の屋根瓦こそ、まさにリサイクルの“原点”だろう。当時の瓦の耐久性には驚くほかない。軒丸瓦には奈良時代の文様を復元した新しい瓦が使われている。

 国宝の五重小塔(奈良時代)や重文の阿弥陀如来坐像(平安時代)などを安置する総合収蔵庫「法輪館」内の一角に、ユニークな瓦が展示されていた。鎌倉時代の平瓦には3行にわたって平仮名で和歌が刻まれている。「おくやまのこのしたかけのすす しさにおもいたかへて 志かやなくらん けんせんはう」。その隣の瓦には「請取申候れう足 合三千貫文 六月五日 まこ□郎(花押)」。瓦職人が3000貫の代金を受け取ったという領収書代わりか。ただ現在の貨幣価値に換算すると3億~4億円と破格なので「架空の領収書の可能性もある」という説明が加えられていた。

 境内には禅堂と法輪館の間を中心に無数の石仏や石塔が林立する。その数2500余基。稲が田んぼにずらりと並ぶような様から「浮図田(ふとでん)」と呼ばれている。石仏などを取り囲むように黄色いハルシャギク(ジャノメソウ)が今が盛りと咲き乱れ、そばでは紫色のキキョウもちらほら咲き始めていた。毎年8月の地蔵会で営まれる元興寺の万灯供養は、ならまちの夏の風物詩になっている。

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<スイバ(酸葉)> シュウ酸含む葉や茎に酸味

2022年06月14日 | 花の四季

【雌雄異株、英名「ソレル」サラダなど食用に】

 アジアやヨーロッパなどの温帯地域に広く分布するタデ科ギシギシ属(スイバ属とも)の多年草。。国内でも日当たりのいい野原や土手、畦道など至る所でよく見かける。春から初夏にかけ直立した茎(高さ50~80cm)を立ち上げ、穂状の円錐花序に小花をたくさん咲かせる。雌雄異株で、雌花をつける雌株の花色は朱紅色を帯び遠目にもよく目立つ。雄花は緑色から紅色まで幅が広い。

 葉や茎はホウレンソウやタケノコと同じくシュウ酸を多く含むため、口でかむと酸味がする。スイバの名前も文字通り「酸い葉」から。根生葉は先が尖った矢じり形の長楕円形で、上部の葉は基部で茎を抱くのが特徴。学名の「Rumex acetosa(ルメックス・アセトサ)」もラテン語で「槍(やり)」と「酸っぱい」を意味し、スイバの葉形や酸味などの特徴を表している。

 全国各地で様々な方言で呼ばれてきた。スカンポ、スイスイ、スグサ、スイドー、ギシギシ、ギシン……。中でも「スカンポ」はスイバの俗称として広く親しまれてきた。既に江戸中期の百科事典『和漢三才図会』(1713年)には「俗にスカンポと呼ぶ」との記述もある。「土手のすかんぽジャワ更紗 昼は蛍がねんねする……」。これは北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡「酸模(すかんぽ)の咲く頃」の歌い出し。この「すかんぽ」については同じタデ科のイタドリ(虎杖)を指すのではとの説も。ただ、九州の方言(白秋は福岡県柳川市出身)や白秋の文章に「虎杖とすかんぽばかりだな」と両者を明確に区別する表現が見られることなどからやはりスイバに違いない。紅色に染まって風に揺れるスイバの花穂を、ろうけつ染めのジャワ更紗(バティック)の模様にたとえたのだろう。

 古くから食用や薬用植物として利用されてきた。若い葉は和え物やおひたしにされ、根茎や葉は便秘や皮膚病などに効く民間薬として用いられた。生薬名は白秋の童謡の題名と同じ「酸模」と書いて「さんも」と読む。スイバの英名は「ソレル(sorrel)」。ヨーロッパでも若葉がサラダやスープなどに使われ、とりわけブランスでは栽培されて煮込み料理やソースなどにも欠かせない食材の一つになっているそうだ。「すかんぽをかんでまぶしき雲とあり」(吉岡禅寺洞)

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<ハルシャギク(波斯菊)> 「ジャノメソウ」の別名も

2022年06月12日 | 花の四季

【北米原産、明治初期に渡来】

 キク科ハルシャギク属(コレオプシス属)の1年草。原産地は北アメリカの中西部で、日本には明治初期に観賞用として入ってきた。こぼれ種でよく殖え、今では野生化して各地の空地や道端、野原、河川敷などでしばしば見られる。名前の「ハルシャ」や漢字の「波斯」は現在のイランを表すペルシャのこと。北米原産なのに「なぜ?」という疑問が湧くが、その由来はよく分かっていない。一説では北米からヨーロッパに伝わりペルシャ地方を経由して渡ってきたのでは、というのだが……。

 草丈は60~100cmで、6~7月ごろ茎の先に小花が集まった直径4cm前後の頭花を付ける。外側の舌状花は黄色やオレンジ色で、中心部の筒状花とその周りは濃い紅褐色のものが多い。それが蛇の目模様に見えるため「ジャノメソウ」や「ジャノメギク」という別名がある。草丈の低い矮性種や八重咲きの品種も出回っている。ハルシャギクは漢字で「春車菊」と表記されることも。ただ秋に咲くコスモスにも「オオハルシャギク(大春車菊)」という和名が付いている。

 学名は「Coreopsis tinctoria(コレオプシス・ティンクトリア)」。属名はギリシャ語で「南京虫(トコジラミの別名)に似た」を意味する。種子が小さな黒い長楕円形で、形が南京虫に似ていることによる。種小名は「染色の」。英国の動植物学者で、長年米国で植物の研究に励んだトーマス・ナトール(1786~1859)が命名した。ハルシャギクの仲間にキンケイギクやオオキンケイギク、ホソバハルシャギクなど。このうちオオキンケイギクは外来生物法で駆除すべき「特定外来生物」に指定され栽培や販売が禁止されている。ハルシャギクは「その他の総合対策外来種」として今のところ規制の対象にはなっていない。

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<伏見稲荷大社> 豊作を祈って神田で「田植祭」

2022年06月11日 | 祭り

【“御田舞”の中、菅笠姿の早乙女らが田植え】

 全国約3万社の稲荷神社の総本宮、伏見稲荷大社(京都市伏見区)で6月10日、神田に早苗を植えて豊作を祈る神事「田植祭」が営まれた。梅雨入り間近だが、この日の天候は幸い好天に。多くの見物客が早苗を植える茜襷(あかねだすき)に菅笠姿の早乙女たちの様子を見守った。順調に生育すれば10月25日の「抜穂祭(ぬきほさい)」で収穫される予定だ。

 田植祭はかなり古くから行われていたという記録もあるが、いつしか途絶えていた。それが復活したのは約90年前の1930年(昭和5年)。昭和天皇の即位記念事業の一つとして再開された。祭典は午後1時からの本殿での神事に続き、祭場を境内の一角にある神田に移して同2時から田植えが行われた。神田の広さは約330㎡。神田のお祓いに続いて、神職が田の安全と苗の順調な生育を祈って水口に斎串(いぐし)を立てた。

 この後、本殿から唐櫃(からびつ)で運び込まれた早苗が、早乙女ら一人ひとりに手渡された。この早苗は4月12日の「水口播種祭」で蒔かれた種籾から育てられたもの。田植えに奉仕するのは男性8人、女性6人の計14人。左右2手に分かれそれぞれ横1列になって一斉に田植えを始めた。神田を見下ろす場所には幾重にも見物の人々。しきりに携帯やカメラを向けてはシャッターを切っていた。

 まもなく神田を挟んで向かいの一段高い壇上で、4人の神楽女(かぐらめ)が優雅な「御田舞」を舞い始めた。身に着けているのは「汗衫(かざみ)」と呼ばれる平安朝の涼しげな装束。終始雅楽も奏され、その間、早乙女たちは黙々と苗を植え続けていた。田植祭は30分弱で全て終了した。この神田からは約150㎏(2俵半)の収穫が見込まれており、11月23日の新嘗祭で神前に供えられる。

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<旧大乗院庭園> 名勝日本庭園でカラス騒動!

2022年06月10日 | アンビリバボー

【あちこちに「カラスにご注意を」の掲示】

 国の名勝に指定されている日本庭園「旧大乗院庭園」(奈良市高畑町)が“カラス騒動”に見舞われている。6月9日に訪ねたところ、「大乗院庭園文化館館長」名で赤字の「注意」と題するこんな文面の掲示があちこちに。「カラスが背後から飛来接近してくることがありますのでご注意ください ※原因は現在調査中です」。日付は1週間ほど前の「6月2日」だった。中世の面影を残す数少ない名園だが、この注意書きもあって園路を巡る間、カラスの鳴き声が気になって仕方がなかった。

 大乗院は1087年創建の興福寺の門跡寺院。奈良ホテルの南側、古い町並みのならまちの東縁に位置する。元々は現在の奈良県庁の場所にあったが、1180年の平重衡による南都焼き討ち後この地に移った。作庭は足利将軍家に仕えた善阿弥によって始まり、完成後は「南都随一の名園」とまでうたわれた。だが明治時代に入ると、敷地は飛鳥小学校や奈良ホテルのテニスコートなどに。庭園修復整備の事業主体となったのは公益財団法人「日本ナショナルトラスト」。1995年から奈良文化財研究所の発掘調査や江戸時代後期の「大乗院四季真景図」などをもとに復元工事が進められた。

 一般公開されたのは平城遷都1300年に当たる2010年。南側にある「名勝大乗院庭園文化館」ではかつての大乗院に関する資料や復元模型を展示している。ここの入館は無料だが、庭園の見学は有料(大人200円)。早速入園料を払って時計回りに庭園を巡った。庭園の大部分を占める東大池には3つの島が浮かび、中島には反り橋が架かる。4年前に架け替えられたばかりとあって、欄干の朱色が目にも鮮やかだった。東大池の西側には複雑に入り組んだ水深の浅い西小池。発掘調査の結果、初めて詳細が判明したもので、遺構保護のため覆土し嵩上げした整備地盤面で復元する方法を採った。

 例の注意書きは園内への出入り口をはじめ園路の数カ所に掲示されていた。園路すぐそばの松の枝にハシブトガラスらしい1羽が止まっていた。少しずつ距離を縮め2~3mまで近づいたが、逃げる気配はなく威嚇するように「カーカー」と鳴いていた。文化館の男性職員によると、同園では作業員が背後から襲われそうになり、隣接する奈良ホテルでは実際に清掃作業をしていた人が後ろからつつかれたとのこと。その際、箒を振り回して追い払ったが、その後カラスはその人が現れると攻撃を仕掛けようとしたという。人を襲うのはもしかしたらその近くで子育ての最中だったからでは? しかし園内の全ての木を調べても巣はどこにも見当たらなかったそうだ。

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<生駒・長弓寺> 参道のアジサイ、まもなく見頃に

2022年06月08日 | 花の四季

【西洋アジサイやガクアジサイなど約800株】

 関東甲信地方が6日梅雨入りし、その他の地方でも入梅間近。梅雨空に映える草花といえば、やっぱりアジサイだろう。関西を代表するアジサイの名所の一つが奈良県大和郡山市の矢田寺。最盛期には60種1万株といわれるアジサイが咲き乱れる。だが奈良県内には他にも〝あじさい寺〟といわれるところがある。その一つが奈良市のすぐ隣に位置する生駒市上町の長弓寺(ちょうきゅうじ)だ。

 長弓寺は真弓山の山号を持つ真言律宗の古刹。寺に伝わる古文書によると、奈良時代の728年(神亀5年)に聖武天皇の命により僧の行基が開創した。天皇の狩りに随行した小野真弓長弓(たけゆみ)が息子の放った矢に誤って当たって亡くなり、天皇が菩提を弔うため建立したという。かつては20の塔頭(子院)を持つ大寺院だったが、今の塔頭は4つ。桧皮葺き入母屋造りの本堂は鎌倉時代を代表する寺院建築として国宝に指定されている。本尊の十一面観音立像は重要文化財。

 長弓寺は近鉄富雄駅のすぐ西側を流れる富雄川上流の右手にある。山門に通じる入り口には神仏習合のなごりを残す鳥居。その鳥居をくぐって先に進むと、参道沿いに色とりどりのアジサイが見えてくる。この時期に訪ねるのは隋分久しぶり。宝光院地蔵堂や薬師院のそばにあるガクアジサイやてまり型の西洋アジサイなども咲き始めていた。参道から境内にかけて約800株が植えられているそうだ。

 訪ねたとき花はまだ2~3部咲きといった感じで、開花前の蕾のものが多かった。それでも待ちかねたように時々参拝客がやって来ては写真に納めていた。本格的な見頃は6月の中頃以降か。ここの魅力は住宅街の富雄や学園前に程近いこと、それに自由に(無料で)境内を散策できること。7月に入ると、本堂に向かう坂道の左手にある池のハスの花も見頃を迎える。

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<ノキシノブ(軒忍)> 樹幹や岩に着生するシダ植物

2022年06月06日 | 花の四季

【葉の裏には2列に並ぶ胞子嚢群】

 東アジアに広く分布するウラボシ科ノキシノブ属の常緑シダ植物。苔むした樹の幹や岩、石垣などに着生し、胞子を飛ばして増えていく。ノキシノブの名は観賞用の「つりしのぶ」などに使われるシノブ(シノブ科シノブ属)と同じ着生植物で、古い民家の軒先などでよく見られたことによる。葉は光沢のある濃い緑色で、長さが10~20cmほどの先が尖った線形。葉の裏側には主脈に沿って左右2列に丸い胞子嚢(のう)が整然と並ぶ。科名のウラボシも「裏星」で、胞子嚢群(ソーラス)を星に見立てた。学名は「Lepisorus thunbergianus(レピソルス・ツンベルギアヌス)」。

 強健な植物で、明るい半日陰の環境を好み乾燥にも強い。日照りが続くと、葉をストロー状に丸めて耐え忍び次の降雨をじっと待つ。ノキシノブには丸い胞子嚢を目玉にたとえた「八目蘭(やつめらん)」という別名がある。葉がいつまでもずっと常緑なことから「何時迄草(いつまでぐさ)」、松の幹によく着生しフウランに似ることから「松風蘭(まつふうらん)」といった異名も。俳句などではシノブとともに「忍草(しのぶぐさ)」として詠まれることも多い。葉を乾燥したノキシノブには止血・解熱・消炎・利尿作用があるとされ、漢方では「瓦韋(がい)」という生薬名で呼ばれている。

 万葉集に「わが屋戸は甍しだ草生ひたれど 恋忘れ草見るにいまだ生ひず」(巻11-2475)という作者不詳の歌がある。この中の「しだ草」の万葉仮名は「子太草」で、「しだ草」を詠んだ歌はこの1首だけ。それが何を指すかはっきりしないが、有力植物の一つがこのノキシノブ。大正末期刊行の『萬葉古今動植正名』(山本章夫著)は「羊歯植物の中から万葉歌に合致するものは『のきしのぶ』をさすを知る」と記す。ただ江戸後期の僧侶で万葉学者だった春登は『万葉集名物考』の中でウラジロ説を採っている。このほかシダ植物の総称として詠まれているのではないかという説もある。

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<JNO> 室内楽の好演に万雷の拍手

2022年06月04日 | 音楽

【ゲストにベルリン・フィルのオーボエ奏者ら】

 奈良県文化会館国際ホールで6月3日「Japan National Orchestra & Friends~JNOメンバーと海外トップアーティストによる極上の室内楽」と銘打った演奏会が開かれた。ジャパン・ナショナル・オーケストラ(JNO)はピアニストの反田恭平が創設し、コンサートをプロジュースする実力派の若手演奏家集団。この日は所属メンバーのうち10人が参加し、ピアニストの務川慧悟やベルリン・フィルのオーボエ奏者クリストフ・ハルトマンら4人がゲストとして加わって5曲を披露した。室内楽の醍醐味を堪能させてくれる息の合った演奏に、満席の会場からは万雷の拍手が鳴り止まなかった。

 反田恭平は昨年秋のショパン国際ピアノコンクールで、日本人としては内田光子以来51年ぶりの2位に入賞し一躍世界の注目を集めた。JNOの前身「MLMダブル・カルテット」を立ち上げたのは4年前の2018年。昨年、JNOに改名するとともに会社組織化して奈良市に本社を設立した。奈良との縁は4年前、奈良を創業地とする工作機械メーカーDMG森精機がドイツで主催したコンサートに、反田が急遽日本から駆け付けて出演したのを機につながった。こうしたことから地元奈良でのJNOへの熱い思いは高まっており、この日のチケットも発売まもなく全席完売だった。

 コンサートは誰にでも馴染みのあるシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」から始まった。ピアノの務川慧悟は昨年、世界3大コンクールの一つ、エリザベート王妃国際音楽コンクールで3位入賞を果たしたばかり。切れがあると同時にまろやかで豊かな響きが印象的だった。この後、ヴィヴァルディの「室内協奏曲」、サン=サーンスの「七重奏曲」と続いた。七重奏曲は弦とピアノにトランペットが加わる室内楽曲としてはユニークな構成で、トランペットは日本フィルのソロトランペッター、オッタビアーノ・クリストーフォリが演奏した。ピアノが独特なリズムを刻む中、チェロ・ビオラ・バイオリン・トランペットと順々に音をつないでいく第3楽章の間奏曲は耳に心地良く聴き応えがあった。

 後半の1曲目はモーツァルトの「ピアノと管弦のための五重奏曲」。オーボエのクリストフ・ハルトマンは1992年からベルリン・フィルのオーボエ奏者を務める傍ら、「アンサンブル・ベルリン」「フィルハーモニー・オーボエ・カルテット」の創設メンバーとしても活躍中。クラリネットは名古屋フィル首席奏者のロバート・ボルショスが担当した。ピアノを挟んで両者が向かい合う形になったが、ハルトマンがほぼ直立したままで動きが少ないのに対し、ボルショスは膝を折り曲げたり上半身を前後に揺らしたり。2人の対照的な動きも見ていて愉快だった。

 続くルイ・シュポア作曲「九重奏」は4楽章の構成で演奏時間が30分を超える大作。弦楽4人・木管5人で、JNOのメンバー8人にクラリネットのボルショスが加わった。指揮者のいない室内楽の魅力は演奏者同士の呼吸や会話といわれるが、この演奏はまさにその魅力を堪能させてくれるものだった。例えば第3楽章のアダージョ。弦側が演奏するとき向かいの管側はじっと聴き入り、その後、管側がそれに応えて音を奏でる。それはまるで万葉集の相聞歌の世界だった。額田王が「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き…」と歌えば、大海人皇子が「紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあれば…」と返したように。室内楽の深い味わいを再確認できた至福の2時間だった。

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<オルレア> まるで純白のレース編み!

2022年06月03日 | 花の四季

【セリ科、「ホワイトレース」の別名も】

 近年人気が急上昇しているセリ科の園芸植物。原種は地中海沿岸地方などに自生する「Orlaya grandiflora(オルレア・グランディフローラ)」という学名を持つ植物で、これを改良したものが「ホワイトレース」(園芸品種名)や単に「オルレア」の名前で流通している。オルレアは「オルラヤ」と呼ばれることも。属名はロシアの医師・植物学者の名前に由来し、種小名は「大きな花の」を意味する。日本への渡来時期はよく分かっていない。

 元々は多年草だが、高温多湿を嫌うため日本では秋蒔きの1年草として扱われることが多い。タンポポのようにロゼット状で冬を越し、春になると細かく裂けた繊細な葉の間から細い茎を立ち上げ、直径が10~15cmもある花を付ける。先端が2つに裂けた純白の大きな花弁が内側の白い小花をぐるっと囲む。その花姿はまるでモンシロチョウが花の周りに群がっているかのよう。草丈は50~100cm。花期は主に5月から6月にかけて。夏には枯れるが、こぼれ種から翌年また開花することが多く、これもこの草花の魅力の一つになっている。

 花姿や名前がよく似た植物に「ホワイトレースフラワー」がある。原産地は地中海沿岸~西アジアで、傘状の散形花序に無数の白い小花を付ける。同じセリ科の植物のため、深い切れ込みのある葉の様子もそっくり。ただ、こちらはドクゼリモドキ属に分類されており、その属名のドクゼリモドキがこの草花の和名にもなっている。オルレアは人気の高まりから最近各地の公園などで栽培されることが増えてきた。大分県杵築市にある大分農業文化公園(愛称「るるパーク」)にはこの春初めてハーブガーデンにオルレアのお花畑が出現した。株数は約2500。見頃を迎えた5月中旬以降、花が一面を真っ白に染めて来園者でにぎわっており、週末の切り花体験(3輪100円)もまずまずの人気という。

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<大和文華館> 「朝鮮美術の精華―絵画と工芸」

2022年06月02日 | 美術

【関わりの深い日本、中国の作品を含め50点】

 大和文華館(奈良市学園南)で「朝鮮美術の精華―絵画と工芸」展が開かれている。「朝鮮半島の絵画と工芸」「朝鮮王朝の美術と東アジア」の2部構成で、仏画や山水画、花鳥画、民画、陶磁器などの朝鮮美術・工芸品に、関連する中国や日本の作品も加え50点(いずれも同館蔵)を展示している。庭園の「文華苑」では今ちょうどササユリが開花中。この淡いピンク色の清楚な花を一目見ようと訪れる人も多いようだ。会期は6月26日まで。

 陳列品のうち朝鮮王朝時代(1392~1910)前期の「漁村夕照・平沙落雁図」の2幅は15世紀の宮廷画家・安堅筆と伝わる水墨淡彩。細緻な筆遣いで夕暮れなどの景観が詩情豊かに描かれている。2年がかりの修復後、今回が初公開。同中期の文人画家李継祜筆「葡萄図」は躍動的な筆致で樹幹をS字型に描いたダイナミックな構図(写真は部分)。多くの実を付けるブドウは子孫繁栄のシンボルとして水墨画のテーマとしてよく取り上げられた。陶磁器では高麗時代(918~1392)盛んに制作された青磁に代わって、朝鮮王朝時代には白磁が多く焼かれた。展示中の白磁「鉄砂青花葡萄文大壷」もブドウが水墨画調に描かれている。

 江戸時代に朝鮮王朝から日本に派遣された朝鮮通信使に随行した画員(画家)の作品も並ぶ。その役割は目にした日本の景観を絵や図として記録すること、それに揮毫などを通じて文化交流することだった。画員の中でとりわけ人気を集めたのが金明国。1636年と43年の2回来日しており、展示作「寿老図」は来日2回目のとき宴席で即興的に描いたという。寿老は七福神の一人。韓時覚の「布袋図」も1655年に随行画員として来日した際に描いた作品。朝鮮通信使は1607~1811年に計12回来日している。

 中国作品では伝毛益筆の「蜀葵遊猫図」「萱草遊狗図」(いずれも重要文化財)などを展示中。毛益は南宋時代の宮廷画家として12世紀に活躍した。日本関係では室町時代の画僧祥啓筆「墨梅図」や雪村周継の六曲一双「花鳥図屏風」(重要文化財)をはじめ、狩野探幽筆「古画縮図(人物)」、池大雅の「七老戯楽図」、伊藤若冲の「釣瓶に鶏図」など。狩野派は朝鮮通信使とのつながりも深く、狩野探幽は来日した人物の肖像画を描き、狩野常信は朝鮮国王への贈答用として屏風を制作している。池大雅も随行した画員たちと交流を深めた。伊藤若冲は中国の古画のほか朝鮮絵画からも多くを学んで影響を受けた一人といわれている。

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