く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<マメヅタ(豆蔦)> 木の幹や岩に着生するシダの仲間

2019年11月28日 | 花の四季

【丸い〝栄養葉〟と細長い〝胞子葉〟で構成】

 ウラボシ科マメヅタ属の多年草。日本のほか朝鮮半島南部や中国、台湾などにも分布する。着生植物で、ツタのように細い茎を樹木の幹や岩、石垣などに張り付け覆うように広がる。ワラビやゼンマイなどと同じシダ類の仲間。丸い葉の形からマメゴケやマメシダ、マメヅル、イワマメといった別称もある。

 光沢のある丸い葉は〝栄養葉〟と呼ばれるもの。径は1~2cm。やや肉厚で、シダ植物には珍しく多肉性の質感を持つ。これとは別に細長い〝胞子葉〟がある。長さ2~4cmほどのへら形で、葉の裏側には「ソーラス」と呼ばれる胞子嚢群(ほうしのうぐん)が縦2列に並ぶ。成熟すると胞子嚢群は葉全面に広がっていく。シダ植物なので花は咲かず、この胞子を散布することで繁殖する。

 学名は「Lemmaphyllum microphyllum(レマフィルム・ミクロフィルム)」。属名は「皮質の葉」、種小名は「小さい葉」を意味する。暖地性の変種に「タイワンマメヅタ」や「リュウキュウマメヅタ」。全く別種のラン科にも「マメヅタラン」という植物がある。これは樹木などに張り付いて広がる様子がマメヅタによく似ていることから名付けられた。淡い黄色のかわいい小花を付けるが、環境省のレッドデータブックには準絶滅危惧種として掲載されている。

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<ナツハゼ(夏櫨・夏黄櫨)> 葉が初夏から鮮やかに紅葉

2019年11月27日 | 花の四季

【ブルーベリーの仲間、黒く熟した実はジャムなどに】

 日本から朝鮮半島南部、中国中部にかけて自生するツツジ科スノキ属(ヴァッキニウム属)の落葉低木。名前にハゼと付くが、分類上ウルシ科のハゼノキとは全く縁がない。その名は初夏から赤く染まる葉の様子を、秋に鮮やかに紅葉するハゼに因んで名付けられたという。紅葉の美しさや愛らしい小花などから庭木や盆栽、花材などとして人気を集めている。

 成長すると樹高は2~3mになる。花期は5~6月頃。総状花序を横向きに伸ばし、径7~8mmほどの鐘形の赤みを帯びた淡黄緑色の小花を下向きに鈴なりに付ける。10~11月頃、赤褐色だった果実が次第に黒くなって熟す。ナツハゼはブルーベリー(北米原産)の仲間で〝日本のブルーベリー〟や〝黒い真珠〟などと呼ばれることも。果実はブルーベリーより一回り小さいが、房状にたわわに実る。アントシアニンなど健康にいいポリフェノール類を多く含み、生食のほかジャムや果実酒などに用いられる。

 ナツハゼの変種に花序の長い「ホナガナツハゼ」(ナガホナツハゼとも)、関西以西に分布し葉に粗い毛が生える「アラゲナツハゼ」がある。属名のスノキは「酢の木」で、葉を噛むと酸っぱい味がすることによる。国内にはこの属の植物が19種自生する。主なものにウスノキ、コケモモ、クロマメノキなど。その多くがナツハゼ同様食用にもなる。

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<ケサラン・パサラン> 〝謎の物体〟に会いに姫路へ

2019年11月22日 | アンビリバボー

【あった!姫路城そばの市立動物園の猛禽類のそばに】

 〝謎の物体〟としてよく話題になる「ケサラン・パサラン」。果たしてその正体は何なのか。そもそも呪文のようなへんてこな名前はどこから来ているのか――。ずっと気に掛かっていた。関西でそのケサラン・パサランが展示されているのは姫路城そばの姫路市立動物園。久しぶりに「好古園」(姫路城西御屋敷跡庭園)を訪ねたのを機に動物園に会いに行った。

 初対面を楽しみに正面入り口からいざ園内へ。ところが受け取ったカラフルな動物展示の配置図をくまなく見回してもケサラン・パサランはどこにもない。あれ!ケサラン・パサランはこの動物園の売り物の一つのはずだけど……。場所を確認するため再び入り口へUターン。係員の女性によると、それは猛禽類の一角にあるという。言われた通りに赤い欄干の城見橋を渡って突き当たりを左折。しばらく進むと、フクロウやワシを展示する檻の前にあった。

 

 飼育箱のような木箱の中の落ち葉の上に真っ白い綿毛の物体が2つ。直径は5cmほどだろうか。化粧用道具のパフのようにフワフワな感じ。展示箱の下には第三者的なこんなコメントが添えられていた。「江戸時代より伝わる縁起物。正体はなぞに秘められていて、これを見るとよい事がある?と言われている。姫路ZOOでは猛禽類のエサの毛がケサラン・パサラン(毛玉)になった説が有力とか?」。その左には「ペリット(ペレット)」というウンチのような3つの塊も展示されていた。これは猛禽類がエサの鳥などを食べた後、消化できない羽や骨などが塊となって口から吐き戻されたものとのこと。塊の横に「1個のペリットの中にこんなに沢山の骨がありました」との説明もあった。

 

 ケサラン・パセランの正体について姫路市立動物園では毛玉説をとっているが、ほかにも牛や馬などの胆石や腸内の結石とする説、アザミやオキナグサなどの花の冠毛が集まったものとする植物由来説などもあるそうだ。さらに化粧の白粉(おしろい)をエサとする生物説や妖怪説も。名前についても梵語の「袈裟羅・婆裟羅」から▽スペイン語で「なるようになる」を意味する「ケ・セラセラ」から▽ポルトガル語の「ヘイサラバサラ」から▽「天から降ってくる」という東北地方の言葉「テンサラバサラ」から――など諸説あるという。

 国内では姫路のほかに山形県鶴岡市の市立加茂水族館や山形県立博物館などでも常時または期間限定で展示している。ケサラン・パサランの持ち主は一生幸運に恵まれる・金持ちになる・病気にかからず健康に暮らせる――など良いことがあるという。ただ、1年に2度以上見たり、他人に見せたりすると効果がなくなるとか。東北の庄内地方では門外不出の家宝として桐箱に収められ大切に受け継がれているところもあるそうだ。

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<嵯峨菊> 花は3段仕立て、下から7輪・5輪・3輪

2019年11月20日 | 花の四季

【京都・大覚寺で「嵯峨菊展」約700鉢を展示】

 嵯峨菊は真言宗大覚寺派の本山、大覚寺(京都市右京区)ゆかりの古典菊。大覚寺は平安時代初期に嵯峨天皇の「離宮嵯峨院」として建立されたのが始まりで、「旧嵯峨御所大本山大覚寺」を正式名としている。嵯峨菊はその嵯峨天皇の頃にそばの大沢池の菊ケ島に自生していた野菊を、長年にわたって改良し気品と風情のある菊に仕立て上げたもの。

 嵯峨菊には花色が白い「御所の雪」、ピンクの「御所の春」、黄色の「御所の秋」、朱色の「御所錦」の4種がある。花は3段の七五三仕立てが大きな特徴で、下から7輪、5輪、そして一番上に3輪が咲く。上段3輪が「天」、下段7輪が「地」、中断7輪が「人」を表し全体で「天地人」を表現しているそうだ。花弁はいずれも細長く線香花火が上向きになったように広がる。54弁で1弁の長さ約10cmが理想とされているという。

 

 嵯峨菊は花の配置だけでなく葉の色にもこだわる。最上部の葉色は淡い緑、中央が緑、下部が黄、一番下が茶で、上から「春夏秋冬」を表す。背丈は1.8~2.0mと普通の野菊に比べるとかなり高い。これは殿上、つまり建物の内部から観賞するのにちょうどいい高さに仕立てられることによる。

 大覚寺は華道「嵯峨御流」の総司所(家元)としても知られる。寺のHPによると、これも嵯峨天皇が大沢池の菊ケ島に咲いていた野菊を手折って器に生け「後生、花を賞ずるもの、宜しく之をもって範とすべし」と述べたのが始まりという。大覚寺は毎年11月に「嵯峨菊展」を開いており、今年も30日まで開催中。寺内では宸殿や御影堂などを囲むように丹精込めて育てた嵯峨菊約700鉢が展示されている。

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<津山散策㊦城西> 「城西浪漫館」など歴史的建築物も多く

2019年11月18日 | 旅・想い出写真館

<津山散策㊦城西> 「城西浪漫館」など歴史的建造物も

【西寺町界隈には様々な宗派の寺院が勢ぞろい】

 津山滞在2日目、向かったのは市中心部を南北に貫く鶴山通りの西側「城西」界隈。大正ロマンを漂わせる「城西浪漫館」、明治時代に建てられた津山高校・中学の本館や「作州民芸館」など歴史的な建築物が点在する。白壁沿いに様々な宗派の寺院が軒を連ねる旧出雲街道沿いの西寺町周辺の町並みも見応えがたっぷり。後で数えてみたらこの日お参りした神社仏閣はお寺だけでも12カ寺に達していた。

 「城西浪漫館」の元々の正式名称は「中島病院旧本館」。1917年(大正6年)建築の木造2階建てで、正面上部のドームや門柱、窓などの凝った装飾が目を引く。当時院長を務めたのが津山出身の中島琢之氏。東京帝国大学医科大学を卒業後、東京都内の病院で活躍していたが、郷土の熱望に応えて帰郷し私設病院を開いていた。しかし研究のため再度の上京を考え始める。これに対し地元の人たちは「せっかくの名医を失っては大変」と引き止めに動いた。そして、とりわけ熱心だった銀行家を中心に最新医療機器を備えたこの病院を造ったという。12年前に建物が市に寄贈され、現在は館内に喫茶室や病院の歴史を振り返る展示場、貸しギャラリーなどが設けられている。

 

 「作州民芸館」は旧出雲街道に架かる翁橋のすぐ西側に位置する。こちらは1909年(明治42年)に土居銀行津山支店(後に本店)として建てられた。玄関の両翼が張り出した左右対称の木造2階建てで、ルネサンス調の意匠を基本としている(正面写真を撮るときどうしても電線が入るのが残念)。国指定重要文化財「旧遷喬(せんきょう)尋常小学校校舎」(岡山県真庭市)などを手掛けた江川三郎八(1860~1939)が設計した。民芸館のすぐ前には「作州絣工芸館」、東側には「津山城下町歴史館」があった。歴史館は武家屋敷の旧田淵邸の長屋門(1840年頃建築)と新たに建てられた津山だんじり展示棟、ガイダンス棟からなる。ガイダンス棟には大名行列の絵図や津山だんじり28台のパネル、武家屋敷に使われていた鬼瓦などが展示されていた。

 

 翁橋の東南側に位置する徳守神社は1604年に初代津山藩主森忠政が城下の総鎮守として造営した。山門を入って左手に赤穂浪士の四十七士の一人神崎与五郎の歌碑があった。「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」。与五郎は元津山藩士だったが、その後赤穂浅野家に仕えていた。歌は討ち入り前の1702年(元禄15年)秋、故郷津山の徳守宮祭礼を偲んで詠んだという。与五郎は浅野家きっての俳人として知られていた。国の重要文化財に指定されている県立津山高校本館(旧津山尋常中学本館)は奴通りを北上し城西通りを右に折れた津山裁判所の北側にあった。1900年(明治33年)築で、ベージュ色を基調とした壁面に正面中央上部の時計台が印象的。校門左手のすぐ手前に「NHK朝の連続テレビ小説『あぐり』ロケ地」という木柱が立っていた。

  

 旧出雲街道の西側にある西寺町周辺はその名の通りお寺の町だった。津山藩は城下の東西の端に寺院を集めて寺町を形成した。東の寺町が北側の丘陵地に置かれたのに対し、西の寺町は出雲街道沿いを中心に配置された。そのため江戸時代の前半に建立された寺院が多い。中でも本源寺・泰安寺・妙法寺は津山三箇寺といわれた。本源寺は城主森家の菩提寺で、本堂や庫裏、霊屋などは国指定重要文化財。泰安寺は森家の後の松平家の菩提寺。本堂の創建は本源寺が1607年、泰安寺が1644年、妙法寺が1653年と推定されている。(上の写真は㊧本源寺、㊨妙法寺)

 

  西寺町には他にも珍しい鐘楼付きの仁王門を持つ愛染寺、通称赤門と呼ばれる寿光寺(上の写真2枚)など見所が多い。この西寺町には古い商家などの建物も多く残っており、城東地区に続いて国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を目指す動きも高まっているそうだ。城西には他にも津山出身の第35代内閣総理大臣平沼騏一郎(1867~1952)の別邸「知新館」などもあり見所が多い。ただ津山城の四脚門を移築した神門がある中山神社まで足を延ばせなかったのが少々心残りだった。

 

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<津山散策㊥城東> 出雲街道沿いは重伝建保存地区

2019年11月17日 | 旅・想い出写真館

【作州城東屋敷、箕作阮甫旧宅、洋学資料館…】

 岡山県内には国選定の重要伝統的建造物群保存地区が3カ所ある。倉敷市の倉敷川畔、高梁市の吹屋ベンガラの町、そしてこの城東地区だ。津山城を築いた初代津山城主森忠政は城下町づくりの際、城の周囲や北部を武家町、南側の東西に走る出雲街道沿いを商家町とした。商家町には作州(美作国)一円から商人を集めた。その城東の出雲街道沿い、東西約1050m(約8ヘクタール)が重伝建保存地区になっている。

 保存地区内には道路が折れ曲がる枡形が2カ所あり、江戸~明治時代に建てられた商家などが今も多く残る。特徴は二階部分が低く、左右に〝袖壁〟と呼ばれるうだつのような白い壁が立つ建物が多いこと。出格子や虫籠窓、なまこ壁も多く見られた。シンボル的な建物が町家の白壁と高い火の見櫓が目を引く「作州城東屋敷」。そばに「寅さんロケ地」という石碑が立ち、津山まつりに曳き出されるだんじり4台を飾る「だんじり展示館」もあった。

 

 東に進むと国指定史跡の「箕作阮甫(みのさくげんぽ)旧宅」がある。江戸後期の蘭方医・洋学者で、幕末の米使節ペリーやロシア使節プチャーチンの来航時に外交文書の翻訳などで活躍したことで知られる。その箕作が生まれ育った場所に家屋が忠実に再現されている。その隣には箕作をはじめ美作地域出身の洋学者の功績を紹介する洋風建物「津山洋学資料館」、その先には江戸時代の商家を保存した「城東むかし町家(旧梶村家住宅)」もあった。

   

 保存地区の西側を流れる宮川沿いの左岸を北上していると「十一面観世音菩薩像」と書かれた木柱が目に留まった。その菩薩像は慈恩寺の本尊で、大観音堂に祀られていた。高さ約4.6m。樹齢約2000年の木曽桧の一木造りという。脇仏の四天王像の高さも約3mある。いずれも仏師の竹内勝山氏(1865~1937)が大正時代初期に6年がかりで制作した。階段を上がって菩薩のお顔と対面できるようになっていた。

 

【旧津山藩別邸庭園「衆楽園」は国指定名勝】

 津山城から北側へ徒歩15分ほどの距離にある「衆楽園」は旧津山藩別邸の池泉回遊式庭園。国指定の名勝になっている。津山藩主森長継が1650年代に京都から小堀遠州流の作庭師を招いて築いた。当時の広さは今の3倍近い約2万4000坪もあったが、明治4年の廃藩後、大半の建物が取り壊された。津山藩では防衛の観点から城内に他藩の使者を入れず、この庭園内の御殿で対応したことから「御対面所」と呼ばれていたそうだ。

 

 庭園は京都の仙洞御所を模したもので、南北に長い池の中に蓬莱島など大小4つの島を配し、様々な形の橋で結ぶ。北側には幅2mほどの曲水が二つ並行し涼しげに流れるなど、あちこちに大名庭園の面影を残していた。真っ赤に映える紅葉も美しい。北西側の松の巨木が林立する下には「絲桜水にも地にも枝を垂れ」と刻まれた山口誓子の歌碑。その近くで七五三のお参りの帰途だろう、正装した家族に連れられた赤い晴れ着姿の女の子が記念写真に納まっていた。

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<津山散策㊤津山城跡> 往時の豪壮な城郭を物語る重厚な石垣

2019年11月15日 | 旅・想い出写真館

【ここにもあった! 天守台の石垣に幸せのハート石】

 岡山県の北部に位置する城下町津山。津山城は江戸時代の初期、美作津山藩の初代藩主森忠政(1570~1634、森蘭丸の弟)によって鶴山(つるやま)の古城跡に築かれた。築城に13年を要したという。しかし2半世紀後、廃城令で天守閣をはじめ全ての建物は取り壊される。残ったのは石垣だけだが、その高くて重厚な石垣が豪壮だった往時の城郭を偲ばせてくれた。

 城跡は1963年に国の史跡に指定され、いま鶴山(かくざん)公園として市民憩いの場になっている。2005年には築城開始400年を記念して、本丸から南側に張り出した石垣上に備中櫓(びっちゅうやぐら)が復元・公開された。古い絵図によると、この櫓内には御座之間、御茶席、御上段などがあった。通常の櫓にはまれな全室畳敷き、天井張りという構造で、天守閣に次ぐシンボル的な建物だったとみられる。絵図に基づき御殿建築として復元された備中櫓は遠くからも眺めることができる市民自慢の新しいシンボルだ。

 

 備中櫓の室内を見学させてもらった後、北側の天守台に向かった。天守は地下1階地上5階建てで、高さは約22mだったという。地下から地上に登る石段脇の石垣に大きなハート形の石があった。近くに「愛の奇石」と書かれた案内板。それによると「この奇石に触れたカップルは恋が成就すると密かな恋愛スポットになっています」。そういえば、9月に訪れた四国の丸亀城にも石垣の中に「幸運のハート石」があったなあ。

 

 石段を登り、上から地下部分を見下ろす。そこには天守の柱を支えた四角形の平らな礎石が並んでいた。柱は約38cm角という巨大なものだったという。案内板にまだ天守が現存していた頃の白黒写真が焼き付けられていた。その勇壮なこと。スマートな〝層塔型〟と呼ばれる構造で、下層から上層にいくに従って建物の幅が小さくなっていく。城跡は県内有数の桜の名所。「さくら名所100選」にも選ばれている。観光用のチラシに必ず登場するのも満開の桜の背後にそびえる備中櫓の写真。次は「津山さくらまつり」の頃に再訪したいものだ。

 

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<奈良県立美術館> 「吉川観方―日本文化へのまなざし」

2019年11月14日 | 美術

【生誕125年・没後40年を記念し特別展 17日まで】

 大正から昭和にかけ京都で活躍した日本画家吉川観方(1894~1979)の画業を辿る特別展「吉川観方―日本文化へのまなざし」(17日まで)が奈良県立美術館(奈良市登大路町)で開かれている。今年は観方の生誕125年・没後40年に当たる。それを記念すると同時に同美術館の開館300回記念特別展も兼ねており、観方と交流があった日本画家の作品や〝観方コレクション〟も多数展示されている。

 観方は京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)研究科修了後、時代風俗の研究や資料収集のため1923年「故実研究会」を立ち上げた。その後34年には自宅に写生場を設け、2年後には風俗博物館仮陳列場も完成させた。観方が収集した風俗資料は絵画や浮世絵の版画、服飾・装身具、調度品、玩具など実に幅広く、総計約3万点に上る。それらは現在、主に京都府(京都文化博物館管理)、福岡市博物館、奈良県立美術館などに収蔵されている。

 今展には観方渾身の一作といわれる『伊東マンショの像(天正遣欧使節)』も出ている。これは大分市美術館の所蔵作品。九州のキリシタン大名によってローマに派遣され帰国後豊臣秀吉の元を訪れた使節4人を描いた大作。4人はケープと裾のすぼまったズボンを着用し、十字架を身に付け2人は日本刀を手にしている。『加茂川舞妓夕涼図』は目元の優しい面長な舞妓さんを描いた作品で、竹久夢二の美人画を連想させる。20歳前後の頃の作品で「新発見の初期の名品」という。観方は幽霊画も得意とし「絵画にみえたる妖怪」などの著作もある。今展にも四谷怪談のお岩と皿屋敷のお菊を描いた『朝露・夕霧』などが出展されている。

 故実研究会の写生会は観方が収集した風俗資料を実際に芸舞妓らに着用させる形で行われた。上村松園は最も熱心な参加者の一人だったそうだ。展示作品『春宵』は料亭の縁側で酔いを醒ます芸妓に仲居がそっと耳打ちする一瞬を丁寧に優しく描いた。ほかにも甲斐庄楠音、中村大三郎、三木翠山、梶原緋佐子、菊池契月、中村貞似、伊藤小坡、児玉希望、伊東深水らの作品が前後期の2期に分けて出展された。〝観方コレクション〟のうち日本画の出展は菱川師房『見返り美人図』、葛飾北斎『瑞亀図』、長沢芦雪『幽魂の図』など30点余り。そのほか打掛、髷(まげ)、姿見、団扇、有職雛など多岐にわたっており、観方の交流と活動の幅の広さを改めて示すものだった。

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<ダルマギク(達磨菊)> 山口・角島に全国有数の群生地

2019年11月11日 | 花の四季

【中国地方の日本海側から九州にかけて分布】

 海岸の岩場に生えるキク科シオン属(アスター属)の多年草。主に日本海と東シナ海に面した中国地方から九州にかけて自生し、海外では朝鮮半島の東海岸や済州島、ロシアの沿海州などに分布する。草丈は20~30cmほど。乾燥や潮風に強く、岩にへばりつくように横に広がって群落を形成する。和名はダルマのようにずんぐりとした草姿からの命名といわれる。

 花期は10~11月頃。茎の先に径3~4cmの頭花を上向きに付ける。花は淡い紫色の舌状花と無数の黄色い管状花からなる。葉は細かい毛が密生したビロード状で、匙(さじ)のように先が丸まった倒卵形。学名「Aster spathulifolius(アスター・スパツリフォリウス)」の種小名も「匙形葉の」を意味する。属名アスターの語源はギリシャ語の「星」から。

 ダルマギクは山口、島根、福岡の3県で準絶滅危惧種になっている。国内有数の群生地として有名なのが山口県下関市の角島最北端に位置する「牧崎風の公園」。北長門海岸国定公園の〝指定植物〟として採取が厳しく規制されている。甑島(こしきじま)にダルマギクの白花が自生する鹿児島県では絶滅危惧Ⅰ類。「打たれ強いなどと悲しく人は言いダルマギク風に耐えつつ咲けり」(鳥海昭子)

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<春日大社万葉植物園> 浮舞台で文化の日恒例の「雅楽会」

2019年11月04日 | 祭り

【賀殿や還城楽…古くから伝わる管弦と舞楽を奉納】

 奈良市の春日大社神苑万葉植物園で3日「万葉雅楽会」(主催=春日古楽保存会、公益社団法人南都楽所)が開かれた。毎年春の「こどもの日」と秋の「文化の日」の年2回開かれる恒例行事。園内中央の池に設けられた浮舞台で、春日大社に古くから伝わる管弦と舞楽が約2時間にわたって古式ゆかしく披露された。

 浮舞台の背後には市指定文化財にもなっているイチイガシの巨樹。開演の午後1時前には池の周りに敷かれたゴザやイス席も多くの観客で埋め尽くされた。外国からの観光客もちらほら。雅楽会はまず管弦の部として「平調音取(ひょうぢょうねとり)」と「林歌(りんが)」の2曲が演奏され、次いで「舞楽の部」に移った。

 

 最初の演目は舞台を清めるために舞われる「振鉾(えんぶ)」。鉾を持った赤い装束の左方舞人、次に緑の装束の右方舞人が登場し笛の乱声(らんじょう)に合わせて舞った。この後、舞人4人による左舞(唐楽)の「賀殿(かてん)」と右舞(高麗楽)の「狛桙(こまぼこ)」。前者は遣唐使の藤原貞敏が中国・唐から持ち帰った琵琶の譜に基づいて林真倉という楽人が舞を振り付けたといわれる。後者の舞は朝鮮半島から高麗の使者が船で渡ってくる様子を模したもので、4人の舞人が船を操るように五色に彩られた棹を持って舞う。

 

 舞楽の最後の演目は一人舞の「還城楽(げんじょうらく)」。一説に蛇を好んで食する西域の胡国の人が蛇を見つけ喜ぶ様子を表現したものといわれる。このため別名「見蛇楽(けんじゃらく)」ともいわれる。赤い恐ろしげな面を着けた舞人が鎌首を持ち上げた蛇を見つけ、リズミカルな演奏に乗って蛇の周りを軽やかに舞う。そして左手でとぐろを巻いた蛇を持ち上げ、また喜び勇んで舞を続ける。その所作がなんともユーモラスだった。「還城楽」は左右両方にある舞楽だが、この日は右舞として演じられた。

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