く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<京都市考古資料館「ひょうげた器」展> 桃山時代の「茶陶」大量出土 ひずんだ形や自由闊達な絵付け!

2012年10月31日 | 考古・歴史

【独創的な桃山文化を反映、市有形文化財に指定】

 京都市中京区の中之町など三条通沿いから桃山時代の茶陶(茶事・茶会で使用される陶磁器)が大量に出土した。美濃・瀬戸を中心に全国各地の産地のもので、非対称にひずんだ器や自由闊達な絵付けが特徴。京都市はこれらの桃山茶陶970点を市有形文化財に指定した。それを記念した展示会「ひょうげた器―三条せともの屋出土茶陶」(12月2日まで)がいま京都市考古資料館で開かれている。

 茶陶が大量に出土したのは中之町と東側の弁慶石町、下白山町、福長町にかけての一帯。三条通り沿いの東西わずか約200mに集中している。三条通の御幸町通から柳馬場通の間には、洛中洛外図屏風などから茶陶を扱う「せともの屋」があったことが分かっており、古地図にも中之町の位置に「せと物や町」の記載もある。

 中之町からの出土品は美濃・瀬戸のほか信楽、備前、唐津・高取など日本各地の産地のもので、京都産はごく僅かだった。特に多かったのが瀬戸産。志野、鼠志野、青織部、黒織部など多彩で、器形も茶碗や皿、鉢、向付、水指、建水、茶入、徳利、花生、香炉などさまざまだった。これらの茶陶には産地を問わず、非対称にひずんだ器「ひょうげた器」が多数含まれていた。(下の写真㊧は大きくひずんだ形の黒織部・織部黒の沓茶碗、㊨は織部の向付)

  

 桃山時代は茶の湯が隆盛をきわめ、千利休や古田織部ら著名な茶人が活躍した。この時代には陶工のひらめきや茶人の好みを反映した多様な形態や意匠の茶陶が作られ、全国から文化の中心地京都にもたらされた。慶長4年(1599年)、織部が茶会にひずんだ瀬戸茶碗を使用した際、博多の豪商、神谷宗湛が「ヘウケモノ」(ひょうげもの)と呼んだという逸話が残っている。

 出土した茶陶の多くは使用された痕跡が認められないことから、実際に使用されたものではなく、商品として店舗で保管・陳列されていたものだったと推測される。「完成品をそのまま廃棄したのは流行遅れになったためか。古田織部の切腹の影響もあったかもしれない」。資料館担当者がこう解説してくれた。織部焼を生み出した古田織部は織田信長、豊臣秀吉に仕えるが、大坂冬の陣で豊臣方への内通の嫌疑をかけられ切腹に追い込まれた。それに伴って織部焼や織部風建築など〝織部好み〟も否定されたという。

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<ひらかたパーク菊人形祭> 人形31体で源平の盛衰を華やかに彩る!

2012年10月30日 | ひと模様

【菊の衣を巧みな技で着せ替える菊師2人】

 源平の盛衰を描いた菊人形展が大阪府枚方市のひらかたパークで開かれている。タイトルは「ひらかたの秋 菊人形祭―時代を変えた男 平清盛と源頼朝」(11月25日まで)。菊人形30体と衣装人形1体で「平家の栄華」「源氏再興の道」「一の谷合戦」など13場面を表現している。同園の菊人形展は1912年(大正元年)に開園とともにスタート、「枚方菊人形」は秋の風物詩として長年呼び物の1つになっていた。しかし、職人(菊師)の後継者不足などもあって2005年に終了したが、今年は開園100周年の節目ということで復活した。

 

 今回の菊人形づくりは男女2人の菊師が担当している。安井恵子さん(写真㊧)と福田実さん(写真㊨)。安井さんは同園初の女性菊師で「大々的に取り組むのは今回が初めて」、福田さんは菊師として約17年の経験を持つ。菊人形1体の寿命は7~10日間。2人は花が傷んでくると新しい菊で丁寧に着替えをさせる。

 「胴殻」と呼ぶ人形の胴体に、根の付いた生菊を2~3株ずつまとめ水ゴケで巻いた「玉」を差し込み、茎が折れないように気遣いながらイグサで縛っていく。この作業を「菊付け」と呼ぶ。1体に40玉から80玉程度の菊の玉を使う。「1体仕上げるのに大体1日から1日半かかります」と福田さん。鳥羽院の着せ替え作業中だった福田さんは時々手を止め、少し離れて人形全体の仕上がり具合を確認していた。

(左上から時計回りに「平清盛」「平敦盛と熊谷直実」「武蔵坊弁慶」「源義経」)

 

    

 安井さんはちょうど主役の1人、源頼朝の菊付け中だった。手際よく玉を胴体に差し込み固定していく。「教えてもらうというよりも、見て覚えろという感じだった」とこれまでを振り返る。長く修業を積んできたが、それでも菊付けはなかなか大変という。「中でも襟元や肩の緩やかな線をきちっと出すのが難しいですね」。着替えが完成してもこれで終わりではない。毎日1~2回、玉の1つ1つに水やりを行う。

 鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝、平清盛の嫡男重盛と義弟の時忠、一の谷合戦での平敦盛と熊谷直実、頼朝の従兄弟に当たる木曽義仲と愛妾の巴御前、悲運の武将源義経と家臣の弁慶、尼将軍北条政子、幼い頼朝の助命を清盛に懇願した池禅尼……。いずれの菊人形も色とりどりの菊で飾られ、表情が生き生きしていた。そこには菊師の安井さん、福田さんの人形1体1体への熱い思いが込められている。

(写真左上から時計回りに「木曽義仲と巴御前」「白河院」「平知盛と二位尼・安徳天皇」「池禅尼」)

 

 

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<千住真理子・長谷川陽子・仲道郁代> ミューズたちがトリオ誕生の地に戻ってきた!

2012年10月29日 | 音楽

 【気品のあるベートーベンのピアノ三重奏「大公」】

 バイオリンの千住真理子、チェロの長谷川陽子、ピアノの仲道郁代。日本を代表する各分野の演奏家が一堂に会する贅沢なコンサートが28日、大阪市のザ・シンフォニーホールで開かれた。トリオが最初に結成されたのは2010年2月。この同じ会場だった。今回のプログラムは一般に馴染みのある独奏曲や二重奏に続いてベートーベンのピアノ三重奏曲第7番「大公」。各楽器の多彩な表現力や息の合った演奏を堪能させてくれた。

  

 最初に登場した長谷川はバッハの無伴奏バイオリンのためのパルティータ第2番「シャコンヌ」。難曲のバイオリン曲として有名だが、長谷川はチェロを巧みな指使いで弾きこなし、バイオリンとは一味違った深みのある演奏に仕上げた。続いて仲道がドビュッシーの「月の光」とショパンの「バラード第1番」。「月の光」は優しくきらめく音の光がまさに天上から舞い降りてくるようだった。

 千住は仲道との二重奏でバッハ/グノーの「アヴェ・マリア」、続いて兄の明編曲の「夕焼け小焼け」を演奏した。千住の演奏ではついバイオリンそのものに注目してしまう。ストラディヴァリウスの最高傑作といわれる「デュランティ」(1716年製)。ローマ法王からフランスの貴族デュランティ家、さらにスイスの富豪を経て千住の元にたどり着いた。その運命的な出会いについては母、文子の著書「千住家にストラディヴァリウスが来た日」に詳しい。

 このバイオリンが製作された約300年前の1716年というと、ヴィヴァルディやバッハが活躍していた頃。ベートーベンやモーツァルトはまだ生まれてもいない。千住は演奏前、この楽器について「非常にデリケートで朝から晩まで一日中気がかり。このバイオリンのために生きているようなもの」と話していた。二重奏に続いて第2部の最初にクライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ・カプリス」を独奏した。高音はどこまでも伸びやかで、低音は温かく包み込んでくれるような響きだった。

 この日の目玉は「大公トリオ」。ベートーベンはすでに耳が聞こえず過酷な運命を乗り越えて次々に作曲をしていた円熟期の1811年、41歳の時の作品。交響曲ではちょうど第7番の作曲時期とほぼ重なる。ベートーベンは経済的な支援者ルドルフ大公にこの曲やピアノ協奏曲「皇帝」など14曲を献呈している。仲道、千住、長谷川の3人は40分にも及ぶこの大曲を、気品を保ちながら繊細かつ力強く演奏した。第1楽章はチェロとバイオリンのピチカートが心地よい。第3楽章は美しく、第4楽章は快活な演奏で、各楽章ともめりはりが利いていた。

 アンコールはメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番第2楽章。演奏の合間には3人がマイクを持ち「演奏家に必要なのは体力と集中力」「今日はトンカツ」「私は卵パワー」と愉快なおしゃべり。中でも千住が毎日生卵を3個以上丸飲みするという話には会場爆笑。千住が兄編曲の「夕焼け小焼け」を弾く際には、仲道が「そんな時便利ね、近くに(作曲家の)お兄ちゃまがいて」と振ると、千住は「ところがなかなか書いてくれなくて大変なの。持ち上げたり下げたりして……」と話し、また会場の笑いを誘っていた。

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<全国高校駅伝女子・福岡県大会> 筑紫女学園2連覇、北九州市立及ばず2位!

2012年10月29日 | スポーツ

【3区の1年楢崎が健闘、流れを引き寄せる】

 全国高校駅伝(12月23日)の福岡県大会は28日、嘉穂陸上競技場発着で行われ、女子は筑紫女学園が昨年に続いて2連覇、20回目の全国大会出場を決めた。雪辱を狙った北九州市立高は思い描いた先行逃げ切り策が実を結ばず、今年も2位に終わった。1~3位の学校とタイムは①筑紫女1:09:28②北九州市立1:10:24③柳川1:12:02。

 筑紫女は1区由水沙季が北九州市立のエース矢野栞理の背後にぴたりと付け、最後に逆転して区間賞の見事な走り。矢野は1秒の遅れを取った。2区は筑紫女が山下未来、市立は金平裕希といずれも準エース級。2人とも同タイムの区間賞だった。ここまでは接戦だったが、3区に入ると、筑紫女の1年生、楢崎夏美が市立の2年河口恵を相手に一気に37秒差をつける快走を見せ、市立を突き放した。

 筑紫女は4区にこのところ不振が伝えられていたエースの木村友香を起用。この区間では市立の3年田中真実が区間賞を取るが、木村もわずか2秒差の区間2位の走りで期待に応えた。この時点で1位筑紫女と2位市立の差は36秒。ほぼ勝負ありだった。最終5区のアンカーは筑紫女が園田聖子、市立が高橋かるなの3年生対決だったが、園田が区間賞、高橋は園田の走りに20秒遅れ、結局、筑紫女が市立に56秒と1分近い大差をつける完勝だった。

 

 

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<川路聖謨を讃える会> 日露和親条約の交渉で、川路を支えた洋学者・箕作阮甫

2012年10月28日 | ひと模様

【儒学・医術・蘭学を習得、津山藩医から幕府の外交交渉翻訳係に】

 最後の奈良奉行として善政を行い、奈良の恩人として今なお親しまれている川路聖謨(としあきら)。その後、幕府の勘定奉行となった川路はロシアとの粘り強い交渉で、北方四島を日本の領土と定めた日露和親条約を締結する。「その交渉の裏で箕作阮甫という1人の男が深い教養と語学力で川路を支えた」。歴史学者で大和郡山市・川西町文化財審議会会長、長田(おさだ)光男氏は27日行われた「川路聖謨を讃える会」(孝田有禅会長)主催の歴史講演会(会場・奈良県経済倶楽部)で、箕作阮甫(みつくり・げんぽ、1799~1863年)の功績をこう讃えた。

    

 阮甫は今の岡山県津山市生まれ。父の後を継いで藩医となり、殿様お付きの御匙代(おさじだい)として参勤交代のたびに江戸に行く。当時、幕府は飢饉や悪疫の蔓延に加え、外国船の出没という内憂外患に悩まされ、対応に苦慮していた。阮甫は医学の傍ら、儒学や蘭学を学んでいたが、「こうした外国からの圧力がもっと洋学を究めなくてはと阮甫を刺激した」。

 阮甫は「医療正始」を皮切りに外国の医学や地理、天文、造船、兵学、歴史、宗教、語学など、ありとあらゆる分野の書物を次々に翻訳し出版する。その語学力が幕府にも伝わり、海外の文献を翻訳する「蕃書和解(ばんしょわげ)御用」を命じられる。最初の大仕事は嘉永6年(1853年)のペリー来航の時。開港や太平洋で操業する捕鯨船への水・食糧などの補給を要求する米大統領親書の翻訳を担当した。

        箕作阮甫肖像 

 続いてロシア使節のプチャーチンが長崎に来航する。阮甫は幕府使節の1人、川路聖謨から「翻訳随一」として選ばれ、随行して江戸から長崎に赴く。「学者や医者などの随行者をすべて合わせると300人にも上った。東海道では宿場が対応できないため、遠回りになる中山道を選んだため、長崎まで37日を要した」。阮甫の先祖の出身地は近江国箕作城(現在の滋賀県五箇荘町)。駕籠に乗っていた阮甫は関ケ原の辺りで居眠りして付近の様子を見過ごしたことが非常に残念だったと日記「西征紀行」で振り返っているそうだ。

 長崎で阮甫は要求文書の翻訳とともに川路から交渉のやり方などの相談を受けた。「いわば顧問役のような仕事もこなした」。ロシアとは6回交渉したが最終決着までいかず、翌年の下田での交渉に持ち込まれる。ところがちょうど「安政の大地震」が発生、下田の町は地震と大津波に襲われ壊滅状態、プチャーチンが乗ってきた艦船も沈没したという。

 そのため日露交渉は下田の山の上にある長楽寺で行われた。そして9か条から成る日露和親条約が結ばれた。それを翻訳したのはもちろん阮甫。その第2条にはこう記されている。「今より後、日本国と魯西亜(ロシア)国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫れより北クリル諸島は魯西亜に属す」。

 阮甫はもともと体が弱く、喘息の持病もあった。このため大仕事を終えた後、安政2年(1855年)いったん隠居するが、幕府の状況はこれを許さなかった。翌年には「蕃書調所教授職」に登用される。その中には勝海舟もいて、一緒に翻訳の仕事に携わったという。この蕃書調所は洋書調所、開成学校と変わり、後の東京大学となる。一方、ロシア使節応接掛だった川路はその後、西丸留守居という閑職になったのを機に蘭学の学習を始める。蕃書調所の教授らに出前講義をしてもらったが、その中には阮甫もいた。「阮甫は川路の師匠となり、勉学を通じて師弟関係が結ばれた」わけだ。

 阮甫はその後、文久2年(1862年)に洋学者としては初めて幕府直参に取り立てられる。しかし翌年、65歳で没した。阮甫には4人の娘がいたが、孫の多くが理学博士や医学博士、人類学者、統計学者など著名な学者になっている。長田氏は阮甫の功績として3つ挙げる。「1つ目は深い教養と語学力で外交交渉を支えたこと。2つ目は膨大な外国の書物を翻訳し、洋学の発展に貢献したこと。そして3つ目は一族一門から多くの学者を輩出し、明治以降の学問・教育に尽くしたこと」。阮甫はいま多磨霊園に眠る。

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<伊勢神宮式年遷宮> 耐久性・技術の伝承に加え「常若」のために!

2012年10月27日 | 考古・歴史

【来秋で62回目、遷宮費用555億円、「遷御の日」は天皇がご決定】

 伊勢神宮(正式名は単に「神宮」)で20年に1度の式年遷宮の諸神事が行われている。すでに宇治橋の架け替えも完了、いよいよ来年秋には御神体を新しい社殿に遷(うつ)す「遷御の儀」が執り行われる。だが、そもそも式年遷宮はいつ、誰が、何のために始めたのだろうか。大阪国際会議場(大阪・中之島)で25日開かれた「三重県観光情報提供会」の中で、皇學館大学非常勤講師の千種清美さんがそんな疑問について詳しく解説してくれた。千種さんは大学で「伊勢学」を担当、著書に「永遠の聖地 伊勢神宮」などがある。

   

 式年遷宮は壬申の乱で勝利した天武天皇が発案し、次の持統天皇によって始められた。第1回は内宮(「ないくうで、ないぐうと濁りません」と千種さん)が690年、外宮が692年。今回で62回目を迎える。遷宮のための総費用は555億円。「遷御の儀」は天皇陛下がご決定するが、前回1993年の例から来年10月になるとみられる。伊勢神宮には別宮・摂社・末社なども含め125社が年間1500回のお祭り(神事)を行うが、「遷御の儀」はその中で最も重要なお祭りという。

 では、なぜ20年に1度遷宮を行うのか? 千種さんによると、その理由について触れた記述は残っていない。そこで考えられる理由としてまず挙げるのが、①ヒノキの素木社殿の耐久年限②宮大工や神宝調製者の技術の伝承③毎年行われる神嘗祭を20年に1度盛大に行う大神嘗祭として――の3点。耐久性という面では法隆寺や東大寺のように柱を礎石で支えるほうが優れているのに、伊勢神宮の社殿は地面の穴に差し込んだだけの掘っ立て柱。塗料も塗らない。屋根は萱葺き。

 次に挙げたのが「常若(とこわか)」という神道の考え。「常に若々しく瑞々しくありたいという日本人の常若の精神が、遷宮を行う根底にあるのではないか」。遷宮は東西に隣接する旧社殿の隣に新社殿を造営する。千種さんは「西洋では決して見られない方法で、東西で遷宮を繰り返すことが日本式の永遠の形、永遠のスタイルといえるのではないか」と話す。

 遷宮で解体された社殿や鳥居などは全国各地の神社などで再利用される。千種さんのお話を伺いながら、数年前、愛媛県西条市の伊曽乃神社を訪ねた時のことを思い出した。神職の方が社殿を囲む御垣(みかき)を指差しながら「これは伊勢神宮から頂いたものです」と実にありがたそうに話されていた。三重県桑名市では「七里の渡し跡」に「一の鳥居」が建っていたが、これも遷宮ごとに伊勢神宮の社殿の柱を使って建て替えるという。伊勢神宮では遠い昔から「もったいない精神」を実践し、リサイクル活動に取り組んできたというわけだ。

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<高校駅伝女子・福岡県大会> 筑紫女学園連覇か? 急追の北九州市立が雪辱か?

2012年10月26日 | スポーツ

【28日号砲、全国屈指の激戦区で今年も接戦必死】

 年末恒例の全国高校駅伝(京都市、12月23日)に向け、都道府県の予選大会が本格化してきた。女子で全国屈指の最激戦区として毎年注目を集めるのが福岡県。過去3回全国制覇という名門の筑紫女学園と、成長著しい北九州市立高校(前戸畑商業)が激しくしのぎを削る。2007年長く2位に甘んじてきた市立が初制覇すると4連覇。だが、昨年は筑女が再び首位を奪回した。今年は夏場ごろまで筑女が先行していたが、ここに来て市立が調子を上げてきた。28日の福岡県大会はまた手に汗握る激戦が繰り広げられそうだ。

2000年以降の福岡県大会での両校の順位とタイム

         筑女      戸畑商    全国大会

 2000年 ①1:09:51 ②1:10:00  筑女7位

   01年 ①1:09:13 ②1:09:22  筑女2位 

   02年 ①1:09:55 ③1:10:38  筑女優勝

   03年 ①1:08:26 ②1:08:40  筑女5位、戸畑6位

   04年 ①1:09:17 ②1:09:25  筑女5位

   05年 ①1:09:19 ②1:10:03  筑女9位 

   06年 ①1:09:21 ②1:09:39  筑女10位

         筑女      北九州市立  

   07年  ②1:09:39 ①1:09:22  市立10位

   08年  ②1:10:15 ①1:09:36  筑女6位、市立12位

   09年  ②1:10:53 ①1:09:10  市立11位

   10年  ②1:09:08 ①1:08:34  市立5位

   11年  ①1:08:21  ②1:09:37  筑女10位

 福岡県大会は長く筑紫女学園の独壇場だった。ところが戸畑商業(現北九州市立)が15年前に初参戦して様相が変わってきた。2001年は僅か9秒差、04年は8秒差と激しい競り合い。その間の03年(全国大会は第15回記念大会)は県大会を制した筑女と九州大会上位だった戸畑商が全国大会に駒を進め、それぞれ5位、6位と健闘した。戸畑商から校名を変更した北九州市立が07年、遂に県大会を初制覇、それから10年まで4連覇した。(下の写真は2003年の第15回全国大会で京都・西京極陸上競技場をスタートした直後。筑女が5位、北九州市立が6位と両校とも入賞を果たした)

   

【2010年は市立が最終区で大逆転、11年は筑女が大会新V】

 おととし10年の大会では筑女の1年生エース木村友香が最長の1区を区間新で走り、2位市立に41秒の大差をつけた。だが、市立は2~4区で徐々に差を詰め、最終5区で3年のエース日高侑紀(三井住友海上)が大逆転。しかし、昨年は筑女が1区から1度も首位を譲らず1時間8秒21の大会新で久しぶりに優勝、19回目の全国大会出場を果たした。

 全国の有力チームは都道府県予選を控え、チームの仕上がり具合やライバルチームの状況を見るため例年「くらよし女子駅伝」(鳥取県倉吉市)や「九州瀬戸内高校駅伝」(大分県国東市)などに出場する。今年はこの両駅伝が同じ9月30日に重なり、くらよしでは豊川、立命館宇治、神村学園、興譲館などの強豪高が上位を占めた。一方、瀬戸内駅伝には筑女や北九州市立、小林、田村など13県33校が出場予定だったが、台風の接近で中止に。このためライバル2校の力量を測るのがますます難しくなっている。

 一歩先行といわれてきた筑女は10月14日の佐賀長距離記録会3000mで、エース格の由水沙季(2年)が9:19:31の自己ベストを出し、園田聖子(3年)も9:25:68と順調。楢崎夏美(1年)も9:33:58の自己ベストだった。また同日の全九州新人大会で山下未来(2年)が9:36:32でまずまずの走りを見せた。ただ、高校長距離界のホープで筑女の絶対的エースだった木村友香(3年)はこのところ振るわず実戦にも出ていない。山下希望(2年)が全九州新人で本来の走りを見せることができなかったのも気がかりな材料。

【矢野で先行逃げ切りを狙う市立、追い上げ逆転を目指す筑女】 

 一方、北九州市立は一時不調が伝えられたエース矢野栞理(3年)が10月13日の鞘ケ谷記録会5000mで15:49:14と復調ぶりを見せた。筑女の園田は9月8日の博多の森長距離記録会5000mで16:38:02だった。条件が違うため比較は難しいが、単純計算では50秒近い大差になっている。矢野は10月9日のぎふ国体3000mでも9:12:91で日本人トップの3位になっている。

 矢野に続く準エースと目されている金平裕希(2年)も9月の福岡県高校新人大会3000mを9:38:20で制し勝負強さを印象づけた。市立の弱点はこの2人に続く選手の駒不足と指摘されてきた。だが9~10月の記録会3000mで高橋かるな(3年)、田中真実(3年)、河口恵(2年)、松川涼子(1年)らが相次いで9分30~40秒台をマーク、県大会を前に著しい成長を見せている。

  北九州市立は最長区間1区(6km)の矢野で大きな貯金をつくり、さらに2区(4.0975km)の金平(?)で差を広げ、逃げ切り体制に持ち込みたいところ。最終5区(5km)は高橋または田中か。事情は不明だが筑女から北九州市立に入り直した高橋にとっては様々な思いが交錯する大会になりそう。悔いのない走りを見せてほしい。一方、筑女としては1区の差を最小限に抑え、徐々に追い上げていきたいところだろう。接戦になるとアンカー勝負に持ち込まれる可能性が大きい。筑女のアンカーは由水か。福岡県大会の女子は28日午前10時30分、嘉穂陸上競技場をスタートする。

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<ツワブキ(石蕗)> キクに似た鮮やかな黄花、光沢のある深緑の葉っぱ

2012年10月25日 | 花の四季

【葉は腫れ物などの民間薬に、茎は佃煮などの食用に】

 キク科ツワブキ属。常緑の葉に艶がありフキに似ていることから、その名がついた。「艶葉蕗(つやばふき)」から転訛したものともいわれる。花期は10~12月。福島県以西の太平洋側や石川県以西の日本海側の海岸に自生し、沖縄、朝鮮半島、中国東部にも分布する。半日陰でもよく育ち花の少ない時期に咲くため、庭植え用としても人気が高い。園芸品種には葉に黄色の斑点が入ったものや葉の縁が波状になったものなどもある。野菜のフキはキク科フキ属で別の仲間。花期も3~5月と異なる。

 葉には強い抗菌作用があり、古くから身近な民間薬として利用されてきた。もんだり火であぶって軟らかくし、腫れ物や湿疹、やけど、しもやけなどの患部に貼る。茎はフキと同じように食用になる。ゆでてアク抜きしたものを煮物や炒め物、胡麻あえ、酢味噌あえなどに。花やつぼみも天ぷらや酢の物になる。

 四国最西端の佐多岬半島にある愛媛県伊方町はツワブキを「町の花」に制定、地元の味噌製造業者が半島自生のツワブキで味噌漬けや粕漬けを作っている。広島県沖の瀬戸内海に浮かぶ生野島(大崎上島町)でも地元商工会が群生するツワブキを使って、2年前から佃煮の製造・販売を始めた。

 静岡県の伊豆半島ではツワブキを「イソブキ」と呼ぶ。東伊豆町はそのイソブキが町の花になっている。下田市の寝姿山や沼津市戸田の御浜海岸も群生地として有名。日本三景天橋立に近い京都府宮津市の山王宮日吉神社では毎年、名物の「赤ちゃん初土俵入」(体育の日)に合わせるかのようにツワブキが一斉に咲き始める。愛媛県今治市の大角鼻では黄色のツワブキが白いノジギクとともに斜面を埋め尽くす。

 島根県津和野町の町名は「ツワブキの野」が転訛したという。ツワブキは単に「ツワ」とも呼ばれる。出雲風土記(733年完成)には「都波(ツハ)」として登場する。俳句の季語としては初冬の花だが、そこでも「石蕗(つわ)」や「つは」などとして詠まれたものが多い。「淋しさの眼の行く方やつはの花」(大島寥太)、「静かなる月日の庭や石蕗の花」(高浜虚子)。

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<講演会「日中韓古代都城文化の潮流」> 平城京遷都 背景に再開された遣唐使による中国の生情報!

2012年10月24日 | 考古・歴史

 奈良文化財研究所の創立60周年を記念する日中韓国際講演会がこのほど奈良市のなら100年会館で開かれた。タイトルは「古代都城文化の潮流 奈文研60年都城の発掘と国際共同研究」。各国で調査・発掘に携わる3カ国4人がこれまでの研究成果を報告した。その中で奈文研埋蔵文化財センターの遺跡・調査技術研究室長、小澤毅氏は「飛鳥から藤原京そして平城京へ」の演題で遷都の背景について、都城発掘調査部史料研究室長の渡辺晃宏氏は「出土文字資料からみた平城京の役所と暮らし」のテーマで大量の木簡から分かったことについて発表した。

      

    小澤 毅氏      渡辺晃宏氏

【藤原京は机上の知識に基づいて建設された!】

 小澤氏は飛鳥時代後半の後飛鳥岡本宮(656~672年)や飛鳥浄御原宮(672~694年)について「防衛体制の整備では百済の王宮である泗(しひ)などがモデルとされ、亡命百済人が大きな役割を果たしたとみられる」と指摘。だが、律令国家の建設を目指す当時の朝廷にとって飛鳥浄御原宮は十分なものとはいえず、早い段階から新都の候補地探しが行われた。そして694年、日本最初の条坊制都城として建設された藤原京に遷都する。

   

 藤原京(上の地図は小澤氏作製)は10坊×10坊(10里=約5.3km=四方)の正方形で、藤原宮はその中央に配置されていたと推定される。その形態は中国の都城にも類例がなく、モデルは中国の書物「周礼(しゅらい)」に記された都城の理想型ではないかという。当時、遣唐使の派遣は669年から中断し、中国の直接情報が途絶えていた。そのため「藤原京は『周礼』や唐の永徽(えいき)律令など机上の知識に基づいて建設された可能性が高い」。

 701年大宝律令が完成し、翌年、三十数年ぶりに遣唐使が派遣された。704年に帰国した遣唐使から最新の中国情報がもたらされるが、藤原京と長安城のあまりにも大きな隔たりに衝撃を受ける。藤原京はもともと南東が高く北西が低く、南面する天皇にとってふさわしくないという地形状の問題もあった。こうした中で長安城をモデルとした新しい都の建設が始まり、710年遷都する。

 朱雀大路は藤原京の3倍になり、南端には巨大な羅城門。都の中枢の平城宮は長安城と同じく京域の北端に置いた。ただ藤原宮の大極殿など建物の多くは解体され平城宮に運ばれ再利用された。「平城京は当時の国力と政治的・社会的諸条件による制約の中で、長安城と藤原京をわが国なりに〝止揚〟した都城だった」(小澤氏)。

【平城京は〝地下の正倉院〟木簡で判明した役所や長屋王邸】

 続いて講演した渡辺氏は「奈良時代はまさに木簡の世紀であり、奈良の都平城京は木簡の都だった」と話す。最初の木簡の発見はほぼ半世紀前の1961年。以来、平城宮跡から10万点近い木簡が、その周辺の平城京からも12万点に及ぶ木簡が出土している。そのうち約2300点が重要文化財に指定されている。これまでに発掘が終わったのは全体の37%とまだ3分の1程度。今後さらに多くの木簡が出てくるに違いない。

 出土したものの中には1万3000点に及ぶ役人の勤務評定の木簡の削り屑があった。それらの木簡や平安京の役所配置図などから、平城宮の東南に奈良時代後半、律令制の8省のうち式部省と兵部省があったことが明らかになった。さらに式部省の東側から発掘された礎石や新たな勤務評定の削り屑から、そこに奈良時代前半の式部省という下層の遺構と、基壇建物を持つ上層の遺構の2つが重複して存在していることが分かった。

      

 では上層の役所は何だったのか。この建物は北向きに建てられていた。平安京で北が正面である役所は全国の神社行政と宮中の神祇祭祀を司る神祇官だけ。改めて勤務評定木簡を洗いなおす中で「大神宮」「水主社」といった神社名が書かれたものが見つかった。さらに「神」や「少祐」(神祇官の第三等官)と書かれた墨書土器も出土した(上の写真)。その結果「奈良時代前半の式部省がその後、西隣の敷地に移転し、その跡地に神祇官が移ってくるというダイナミックな役所の変遷が明らかになった」。

 これらの発見は木簡が単に文字資料としてだけでなく、遺構・遺跡の解明に大きな役割を持つ考古資料であることを示す。奈良時代前半の式部省の斜め向かいに、左大臣長屋王の邸宅があったことは今では定説だが、それもそこから発掘された3万5000点に及ぶ木簡によって判明した。「長屋王邸は発掘調査成果そのものによって住人を特定できた唯一の幸運な事例。その要因はひとえに木簡の発見にあった」(渡辺氏)。

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<アンビリバボー> あっちにも包丁、こっちにも包丁 どうしてこんな所に?

2012年10月23日 | アンビリバボー

【初めての110番、「事件性はないですね」とお巡りさん】

 1日中家から一歩も出ていないことに気づき、運動がてらに夕方になって散歩に出かけた。昨日22日のこと。しばらく歩くと、右手にスーバー銭湯の駐車場、左側は幅2mほどの用水路。その水路の向こうの土手をふと見ると、何か光るものが……。包丁だ! 周りを見回すと、その下にも、あっちにも。少なくとも3本あった。車がすれ違うのもやっとという狭い道路だが、結構人も車もよく通る所。そのそばになんで包丁が散らばっているの? それこそ「アンビリバボー!」。

 

   

 物騒~。写真を撮った後、携帯に登録している最寄りの交番に電話した。が、呼び出し音が長く続いた後、ファクス案内のような音。切ると通話料20円の表示。(えっ、有料なの~)。仕方なしに110番。119番は何回か掛けたことがあるが110番は初体験。「緊急通報電話です。何がありました?」。「包丁がいくつも落ちているんです。場所はスーパー銭湯の……」「そばに2階建ての△△マンションがありますね。すぐ向かいますので、気づいたら手を振って知らせてください」(さっすが~。携帯でかけると、その場所をすぐ特定できるんだ!)

 110番したのは午後5時半。目の前を何台もの車が通りすぎるが、パトカーはなかなかやって来ない。(こんな時、パトカーはサイレンを鳴らして来るのかなあ? いや、そんな大げさなことはしないだろう) 時計を見ると5時45分すぎ。すでに15分たっている。念のためにもう1回110番すると「××署からまだ来てませんか」。そこにちょうどやって来た。優に100キロはありそうな恰幅のいいお巡りさん。しかもパトカーじゃなく、銀行員や郵便局員が乗るのと同じような2輪車だった。

 辺りはもうすっかり暗くなっていた。お巡りさんは私が指さす方向に懐中電灯を向けながら周りを見渡す。「草を刈り取ったら(誰かが捨てた包丁が)出てきたんでしょう。そばの草を刈るともっと出てくるかもしれないですね。事件性はないようですが、危ないので回収しておきます」。

 そう言えば、周りには背丈の高いススキなどが生い茂っていたが、その場所は刈り取られていた。(さっすが~、お巡りさんは判断が速い!)「ではお願いします」と散歩の続き。だが、しばらく歩いたところで「あれっ」と気づいた。草刈りをした時に見つかった包丁を、そのままにしておく人が果たしているだろうか。

 用水路は幅が2mほどあるうえ壁面の高さも1.5mほどある。しかも土手はかなりの急勾配。お相撲さんのようなあのお巡りさんは、どんなふうにして包丁を回収するのだろうか。そんなことを考えながら、30分後の6時15分ごろ、再び現場近くを通りかかった。お巡りさんと2輪車の姿はもうなかった。(さっすが~、手際がいいなあ!)

 と、水路の向こう側を目を凝らして見ると、鈍く光るものがあった! 包丁は3本とも最初に見つけた時と寸分も移動していなかった。お巡りさんは多分、水路を渡る道具を調達するため警察署にいったん戻ったのだろう。それとも夜が明け明るくなってから、取りに来ることにしたのだろうか。いや、凶器にもなる物騒なものをやりっ放しにしておくはずがない。つい最近にもJR博多駅で包丁通り魔事件が起きたばかりだし……。昨晩は遅くまで包丁の〝その後〟が気になって落ち着かなかった。

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<男性デュオ「HAMORI‐BE」(はもりべ)> 「日本の美しいうたを後世に歌い継ぎたい」

2012年10月22日 | 音楽

【けいはんな記念公園・水景園で秋風コンサート】

 男性テノールデュオ「HAMORI‐BE」(はもりべ)のコンサートが21日、けいはんな記念公園・水景園(京都府精華町)で行われた。題して「秋風コンサート~男性デュオのハーモニー」。「日本の美しいうたを後世に歌い継ぎたい」との思いから活動を始めて今年で9年目。2人の伸びのある歌声で懐かしい唱歌や童謡が披露されると、会場はゆったりとした温かい空気で満たされた。

  

 「はもりべ」はハーモニーと語り部の合成語。中川公志と小原有貴の2人のユニットで、大阪教育大学大学院(音楽教育専攻声楽専修)時代の2003年、由紀さおり・安田祥子姉妹のようなデュエットを目指して活動を開始した。昨年4月東京を皮切りにスタートしたその姉妹の25年目の童謡コンサートツアーにゲスト出演、それを機に活動の幅を広げている。昨年11月と12月にはCD「あしたの空」「あしたの空Ⅱ」を相次いで発売した。

 「♪歌はぼくたちの心の中に 友達のようにやさしく いつでもそばにいるよ~」。この日の演奏はピアノの伴奏(古谷優子)で合唱曲「歌よありがとう」から始まった。この後「まっかな秋」「野菊」「里の秋」など懐かしい唱歌が続く。「紅葉」では「♪秋の夕日に照る山紅葉~」と観客も一緒に合唱。時まさに秋真っ盛りで舞台背景の木々も黄色く染まっていた。「旅愁」「みかんの花咲く丘」「赤とんぼ」……。24曲目は日韓共同開催の2002年サッカーW杯のテーマ曲「U&I」。アンコールは「じゃあね」(谷川俊太郎作詞)で締めくくった。

    

 「古くから歌われてきた唱歌や童謡などには日本人が大切にしてきた思いやりや季節の移ろいなど、子どもの豊かな感性を育もうという先人たちの情熱が込められています。だから世代を超えてもっと多くの人に歌ってもらいたいですね」(中川)。会場では中高年の方が多く、歌に合わせくちずさむ人や手足で調子を取る人もいた。ただ若いお父さんやお母さん、お子さんたちが少ないのがちょっと残念だった。

 「はもりべ」は今後、11月16日の奈良(百年会館)を皮切りにコンサートツアーをスタート、来年1月まで兵庫・伊丹、名古屋、滋賀・東近江、東京、大阪・柏原を巡る。

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<戦中戦後の奈良の文化財>宝物疎開へ関係者奔走 供出で失われた多くの文化財!

2012年10月21日 | 美術

【唐招提寺の鑑真和上像、運命を共にと疎開を拒否】

 「戦中戦後の奈良の文化財」をテーマにした天理大学の公開講座が20日、奈良県中小企業会館(奈良市)で行われた。講師は文学部歴史文化学科の吉井敏幸教授。奈良は京都とともにほとんど空襲がなかったが、吉井教授の調査・研究で戦火から文化財を守るため多くの仏像などが疎開を余儀なくされ、また金属仏具や刀剣などが供出によって多く失われていた実態が明らかになった。

   

 国内で文化財の疎開が始まったのは昭和16年(1941年)8月から。東京帝室博物館(現東京国立博物館)に収蔵されていた最優秀御物(法隆寺献納御物108点と美術品27点)が奈良に移送され、正倉院と奈良帝室博物館(現奈良国立博物館)に分置された。その他の御物も武蔵陵などへ。昭和18年秋と終戦直前の20年7月には正倉院の宝物も奈良博の収蔵庫に移された。

 国宝や重要美術品の疎開は御物より大幅に遅れ、昭和19年の初めから奈良市、京都市を対象に始まった。まず3月に東大寺の国宝66点が第一国宝収蔵庫に指定された円照寺へ、興福寺の阿修羅像や乾漆八部衆など仏像や工芸品など28点が円照寺と第二収蔵庫の大蔵寺に運ばれた。国の直轄事業で伽藍修理中だった法隆寺は昭和20年5月になって梱包作業が始まり、西円堂十二神将が松尾寺に、飛鳥仏の観世音菩薩像6体が長久寺に運ばれた。

 疎開を拒否した寺院もあった。唐招提寺は鑑真和上像と運命を共にするとして、像の疎開を拒否、また法華寺も本尊十一面観音像については担架を用意し、万一の際には防空壕に運ぶとして疎開を拒否した。国宝などの分散疎開と同時に、文部省からは寺院の一部解体や擬装、防護壁や防火池づくりなどが指示された。東大寺は大仏殿袖廊、二月堂登廊など、法隆寺は五重塔の解体を余儀なくされた。東大寺大仏殿などは網で上部を覆って「山」のように擬装したという。

  

 疎開した奈良の文化財は終戦後、元の寺院などに戻り幸い紛失・焼失は1件もなかった。だが、金属供出命令によって失われたものは多い。昭和17年3月、法隆寺は西円堂青銅大香炉など60余貫の金属を供出。同年11月には東大寺が知足院梵鐘、大仏殿の蝋燭献灯台などを供出している。供出を免れたのは国宝・重要美術品や慶長年間以前のものなどに限られた。(上の写真は戦後、疎開先から東大寺三月堂に帰る仁王像)

 軍刀として刀剣の供出も求められた。昔から多くの刀剣が奉納されていた法隆寺西円堂からは昭和13年6000本が陸軍に供出され、その後も佐世保海軍や警察などからの要請に従って供出を余儀なくされた。供出は刀剣にとどまらず、境内の樹木や布団などにも及んだ。昭和19年、法隆寺は並木の松樹の供出を求められたが、拒否した。この時断らなかったら、南大門から南に延びる参道の松並木もなくなっていたというわけだ。刀剣の受難は戦後も続く。終戦直後の9月2日、GHQ(連合国軍総司令部)から「民間武器類の引渡準備命令」が出され、多くの刀剣が没収された。

 講座を受講された方の中に国の重要文化財「片岡家住宅」(宇陀市)の20代目当主、片岡彦左衛門さんがおられ、終戦間際の文化財疎開にまつわるお話をしてくれた。「8月12日に役人やお寺の方たちがやって来て、法隆寺の文化財を8月24~25日に持ってくるという話があったと、父から生前聞いたことがある」という。終戦後、刀剣を提出したが、結局戻ってこなかったとも話されていた。

 戦後、奈良・京都が空襲を免れたのはウォーナー博士が爆撃回避を米軍に進言したためとして、長く日本の文化財を守った恩人として称賛されてきた。法隆寺をはじめ各地に博士の顕彰碑まで建てられている。だが、この「ウォーナー伝説」は米機密文書の公開や吉田守男氏の著書でGHQのCIE(民間情報教育局)によって作り上げられたものとして、今では否定されている。

 ただ吉井教授は「敗戦国ドイツの文化財は大量にソ連(現ロシア)によって略奪され今も戻っていないが、日本ではそんなことは起きなかった。日本の文化財を守ったという点で占領軍の文化財政策は肯定していいのではないか」と話す。その背景にはCIEのメンバーの中にウォーナー博士の下で学んだ日本美術史家らが多く含まれていたことがあるようだと指摘する。

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<ホトトギス(杜鵑草)> 白に紫の斑点 野鳥ホトトギスの胸の模様にちなみ

2012年10月20日 | 花の四季

【日本には10種余自生、多くが絶滅危惧種に】 

 ユリ科ホトトギス科の多年草。花は白地に紅紫色の斑点が入り、野鳥のホトトギスの胸毛の模様に似ていることから、鳥と同じホトトギスの名がついた。ただ「杜鵑」とすると鳥か植物か紛らわしいことから漢字表記は「杜鵑草」に。ちなみに「杜鵑花(とけんか)」はツツジ科のサツキのこと。ホトトギスが鳴く頃に咲くことから、この字が当てられている。

 ホトトギス科は東アジアからインドにかけ約20種が分布するが、そのうち10種余りが日本に自生している。ヤマジノホトトギスは花姿が最もホトトギスに似ており、ヤマホトトギスは花片が反り返って咲くのが特徴。タイワンホトトギスは沖縄・西表島と台湾に自生する。タマガワホトトギスは夏咲きの黄花、チャボホトトギスは草丈が低い矮性種。キバナノツキヌキホトトギスは宮崎県・尾鈴山、タカクマホトトギスは鹿児島県・高隈山に自生する。ホトトギスの仲間の多くは花を上向きにつけるが、ジョウロウホトトギスは半開の黄花を懸崖状に下向きにつける。タイワン、キバナノツキヌキ、ジョウロウはいずれも環境省のレッドリストに絶滅危惧種として掲載されている。

 タマガワホトトギスは京都府井手町の玉川の地名にちなむ。玉川はヤマブキの名所。奈良時代に活躍した左大臣、橘諸兄が玉川の堤にヤマブキを植樹したという。タマガワホトトギスの花の黄色をそのヤマブキに重ね合わせて玉川の名を借用した。ジョウロウホトトギスは1887年に高知県横倉山で発見され、牧野富太郎博士が上品な美しさから上臈(宮中の女官)にたとえて命名した。ジョウロウホトトギスには頭にキイ(紀伊)、スルガ(駿河)、サガミ(相模)の地名を冠したものもあるが、これらも絶滅危惧種。

 キイジョウロウホトトギスは主に和歌山県の熊野地方に自生する。乱獲などで野生種が激減していたが、住民の手による長年の保護・栽培活動が実り、今ではすさみ町佐本では集落の至る所で目にすることができるまでに。住民の1人が40年ほど前、道路脇に捨てられていた数本の苗を持ち帰って、自宅の石垣に植えたのが始まりという。佐本は「キイジョウロウホトトギスの里」として売り出し中で、花の最盛期にはホトトギス祭りも開かれる。昨年は台風の影響で中止になったが、今年は今月6~7日に行われ多くの草花愛好家でにぎわった。

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<特別展「宸翰 天皇の書」> 聖武天皇から昭和天皇まで その時々の〝歴史〟を物語る!

2012年10月19日 | 美術

【強引な信長への無念さがにじむ書、秀吉の朝鮮出陣を諫める書……】

 京都国立博物館で特別展覧会「宸翰(しんかん)天皇の書 御手が織りなす至高の美」(11月25日まで)が開催されている。聖武天皇から昭和天皇まで歴代の天皇の書など100点余。いずれも高い品格と風格を備えているが、その書の美しさとともに、書き記された歴史の一こま、一こまが強く印象に残った。正親町天皇は天下第一といわれる香木を切り取って織田信長に下賜せざるを得なかった無念さを記し、後陽成天皇は豊臣秀吉の朝鮮出陣を諌める書を残していた。

 正親町天皇(1517~93年)が信長に下賜した香木は東大寺三倉(正倉院)に収められていた中国伝来の「蘭奢侍(らんじゃたい)」の一部。下賜に当たって関白の九条稙通(たねみち)に宛てた散らし書き(1575年)が展示されているが、文面に強引ともいえる信長の要請に応じざるを得なかった無念さがにじむ。その思いが「ふりよに」の言葉に表れていると説明にあったが、これは「不慮に」のことか? 後陽成天皇(1571~1617年)の書(1592年)は朝鮮半島へ自ら出陣しようとする秀吉に対して思いとどまるよう諭すような文句をちりばめ、最後に「太閣とのへ」と結んでいる。

   

 展示された天皇の書の中には自ら朱の手形を押したものが3点あった。後鳥羽天皇(1180~1239年)の「御手印置文」と後宇多天皇(1267~1324年)の「御手印遺告」、そして後白河天皇(1127~92年)の奥書がある「文覚四十五箇条起請文」(写真)。いずれも天皇の強い意志が手印に表れている。このうち後鳥羽天皇の書は承久の乱で敗れ隠岐に流された天皇が近臣の水無瀬親成に宛てて書き残したもの。天皇はその13日後に崩御しており、まさに絶筆になった。

 高倉天皇(1161~81年)は兄に当たる仁和寺の守覚法親王に宛てた「宸翰消息」(1178年)の中で、守覚の孔雀経法の霊験によって中宮・徳子が無事に皇子(のちの安徳天皇)を出産したお礼を述べている。これは現存する高倉天皇唯一の遺墨。このほか嵯峨天皇(786~842年)の「光定戒牒」(823年)や後嵯峨天皇(1220~72年)の「宸翰消息」(1246年)も唯一の遺墨で、いずれも国宝に指定されている。

   

 聖武天皇(701~756年)のものは「御画勅書」(749年)が出展されていた。某寺(東大寺?興福寺?)に一切経を転読・講説するための財源として、綿などのほか墾田地を施入(奉納)した際の勅書で、年月日の上に自ら大きく「勅」と書き入れている。実に力強い筆致。11月中旬からは期間限定で正倉院にある「聖武天皇宸翰雑集」(731年)も展示される予定だ。

 後陽成天皇の揮毫「龍虎」と「梅竹」(上の写真)は迫力に富む大字が印象的。伏見天皇(1265~1317年)は書の達人と知られる書聖。「三蹟」の1人、小野道風が書いた「屏風土代」(928年)と、それを臨書した伏見天皇の書が並んで展示されているが、字の形から墨の濃淡まで驚くほど忠実に再現していた。花園天皇(1297~1348年)の風格のある筆致、大正天皇(1879~1926年)の柔らかな書体の一行書「仁智明達」、昭和天皇(1901~89年)の堂々とした大字の「無相」も印象的だった。

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<奈良大学地理学講座> 朝鮮時代の地図、日本は逆さまに描かれていた!

2012年10月18日 | 考古・歴史

【対馬は朝鮮半島のすぐそば南東側、「⊃」の形に】

 「朝鮮時代の地図に描かれた日本」をテーマに、奈良大学地理学講座がこのほど奈良市北部会館市民文化ホールで開かれた。講師は文学部地理学科の山田正浩教授。朝鮮(李朝)時代(1392~1910年)には朝鮮全図や地方図、つながりが深かった中国を中心とする世界地図など様々な地図が作製された。では日本はどのように描かれていたのだろうか。地図の中には対馬が「⊃」の形に描かれたものが多く、日本が逆さまに描かれたものもあったという。

   

 上下逆転の地図は李朝時代初期の1402年作製の「混一疆理歴代国都之図」(上の地図)。朝鮮で作製された地図のうち現存する最古のもので、版本に描かれた日本図としても最も古い。伝来の経緯は不明だが、京都の龍谷大学が所有している。写真はその東アジアの部分。半島の右下に隣接して「⊃」の形で描かれているのが対馬、そのはるか南に日本が九州を上に向けて描かれている。

 日本で作製された古い地図を「行基図」と呼ぶが、その中には西を上に、東を下に描いたものがあった。この地図も当時流布していた行基図を利用したことが明らかという。では日本が中国南端に並ぶ位置に描かれているのはなぜ? 山田教授は当時の中国で作製された地図に、日本をかなり南方に単純な塊状に描いたものが多いことから、「中国の伝統的な日本の空間認識を反映したものかもしれない」と推測する。

 対馬が半島のすぐそばに描かれている地図が多い理由は、政治的・経済的に近い関係にあったためではないかという。高麗時代から朝鮮時代前期にかけ、対馬を拠点とした倭寇対策は朝鮮側の長年の課題でもあった。一方、交易が進むうちに対馬人の中には朝鮮側から官位を受ける者(受職人)なども現れ、「こうした歴史的経緯から対馬が朝鮮と宗属関係にあるという朝鮮側の意識が地図に反映しているのではないか」とみる。

 では対馬が「⊃」のような形に描かれることが多いのは? こうした傾向は日本の行基図にも見られず、朝鮮時代の地図の特徴。山田教授は「対馬中央部の西海岸、浅茅湾が強く意識されたことの反映だろう」という。古い時代、朝鮮から対馬、さらに日本に向かう場合、まず目指すのが浅茅湾だった。1419年、李朝世宗の時、倭寇対策として対馬を攻撃しているが、その時の目標も浅茅湾一帯だった。そうしたことから湾を強調して「⊃」の形に描かれるようになったと推測する。

   

 朝鮮時代後期に入っても18世紀後半作製の「日本国図(天下図)」(上の地図)のように方位を逆にして描いた地図が多く作製された。これは「朝鮮に身を置いて南、東の日本を見て描くということで、朝鮮独特の空間表現法といえる」。地図の中には九州を四角形に描いたり、前代の地図に示されていた室町時代の古い情報をそのまま利用したりしたものも。記載事項に誤りも目立ち、「一種の退化現象」が見られる。

 山田教授はその背景をこう分析する。「朝鮮時代前期は倭寇対策が国家の大きな課題で、そのために収集した情報から正確で詳細な日本図が作製された。だが後期になると両国の関係は安定し、かえって新しい情報に不足した地図が作製されるようになった」。

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