【棺が埋葬された古墳の〝主丘径〟から被葬者の地位を探る!】
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(奈良県橿原市)で特別陳列「大和の豪族たちと藤ノ木古墳」展が開かれている(3月22日まで)。今年は1985年の藤ノ木古墳発掘調査の開始から丸30周年。被葬者2人については性別も含めなお論争が続く。同展では棺が埋葬された施設がある場所「主丘(しゅきゅう)」の径を、大和の他の首長墓と比較することで藤ノ木古墳の被葬者の地位を探る試みに挑戦。藤ノ木古墳と同時代の古墳8カ所の出土品も一堂に展示している。(写真㊧装身具復元品、㊨被葬者のそばに収められていたガラス製の小玉)
展示会場入り口に「6世紀前半~7世紀前半の大和の大型古墳被葬者所属階層一覧表」という大きなパネル。大和を中心に主な古墳49カ所の築造時期を、出土した須恵器や横穴式石室の型式を基に25年単位を1世代として525年から625年まで5つに分類。さらに各時期の中で主丘径の大きさから4つの階層に分類している。主丘径は前方後円墳なら後円部の直径、円墳は直径、方墳は一片の長さを基準とした。
藤ノ木古墳築造の中心年代は真ん中の575年。それまで大型古墳のなかった斑鳩地域に突如現れた直径50mの円墳で、その規模は4分類中、上から2番目の階層に当たる。展示企画を担当した小栗明彦学芸員は「墳丘や石室の規模などから、中央政権内で大王に次ぐ階層に属して活躍した斑鳩地域における首長の墓」とみる。斑鳩地域の他の主な古墳は次世代の方墳・仏塚古墳(1辺23m)だけ。こちらの規模は600年前後築造の古墳の中では4分類中最下位。
(上の写真は㊧藤ノ木古墳出土の鉄地金銅張り馬具の鐘形杏葉、㊨三里古墳出土の鐘形杏葉。形や材質は同じだが藤ノ木古墳埋葬品の方が格段に大きく、三里古墳被葬者との地位の違いを端的に物語る)
その藤ノ木古墳から仏塚古墳への動向は、馬見丘陵周辺の北葛城地域で1世代後の600年前後に築造された牧野(ばくや)古墳(直径48m)と625年前後に築造の平野1号墳(26m)の関係と通じる。いずれも突如2番目の規模として現れ、次世代の古墳は大幅に縮小し最下位の4番目に落ちる。主丘径もよく似ている。
小栗学芸員は藤ノ木古墳と牧野古墳の被葬者について「中央政権内での地位や担っていた役割が似ていたのだろう」と類推する。また藤ノ木古墳は「次世代の規格を先駆けて採用したことを示しており、被葬者を考える上で参考となる」とも指摘する。古墳の型式も6世紀後半から7世紀にかけ、それまで主力だった前方後円墳から円墳、方墳に移行していく。
「被葬者の地位が似ていた」という牧野古墳は、敏達天皇の皇子で舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子の成相墓(ならいのはか)に該当する可能性が高い。藤ノ木古墳の被葬者2人については諸説ある中で穴穂部皇子と宅部皇子が有力視されている。穴穂部皇子は欽明天皇の皇子で聖徳太子の叔父、宅部皇子は宣化天皇の皇子。仲が良かった2人は587年、皇位を巡る争いで蘇我馬子に相次いで暗殺された。
藤ノ木古墳の出土品展示コーナーには装身具やその復元品、馬具、埴輪、須恵器などが並ぶ。「藤ノ木古墳の被葬者と同時代を生きた豪族たちの墓」コーナーでは平林古墳、烏土塚古墳、牧野古墳、三里古墳など8カ所の出土品を展示し、それぞれの墳丘や石室の規模から藤ノ木古墳の被葬者の地位と比較している。
同博物館では特別展示に併せて「三次元で〝作る〟! 藤ノ木古墳の国宝・馬具」展も同時開催中(上の写真)。石室に収められていた馬具の鞍金具に表された「鬼神」と「象」と「鳳凰」の図案を抜き出き、石膏の粉末を使って3Dプリンターで精巧な複製品を作製した。ふだん触ることができない国宝を手に取ってもらおうと企画した。(写真は㊧3Dプリンターで印刷した複製品、㊨鞍金具後輪を飾る象の部分の拡大写真)