く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<松田理奈> バイオリンリサイタル 名演「ツィゴイネルワイゼン」

2013年09月30日 | 音楽

【27歳最後の日に奈良県橿原文化会館で】

 若手バイオリニスト、松田理奈のバイオリンリサイタルが29日、奈良県橿原文化会館で開かれた。前半はブラームスのバイオリンソナタなど2曲、後半はクライスラー、サラサーテなど名バイオリニストとしても活躍した作曲家の作品で固めた構成。翌30日が28歳の誕生日とあって、アンコールの合間にピアノ伴奏に合わせ会場から「パッピバースデーツゥーユー」の歌が湧き上がるなど、温かいリサイタルとなった。

    松田理奈

 松田は東京芸大付属音楽高校卒業後、桐朋学園大ソリスト・ディプロマコースを経てドイツ・ニュルンベルク音大に留学。2007年に同大学、10年に同大学院をいずれも首席で卒業。その間の04年の日本音楽コンクールで第1位に輝き、さらに07年のサラサーテ国際コンクールに入賞と、実力は折り紙つき。今年1月には第23回新日鉄住金音楽賞も受賞している。

 リサイタル前半はフランスの作曲家ルクレールとブラームスの各バイオリンソナタ第3番。ブラームスの第3番では第1、第2楽章の消え入る最後の繊細な響きが美しい。第3楽章の歯切れのいいピチカート、第4楽章の力強い演奏も印象的だった。ピアノ伴奏の江口玲(あきら)=東京芸大ピアノ科准教授=のバイオリンを引き立てる抑制の利いた演奏も光った。

 後半は発表会などでもよく耳にするクライスラーの作品から始まった。「ブニャーニの様式による前奏曲とアレグロ」に次いで「ロンドンデリーの歌」「美しきロスマリン」「シンコペーション」。緩急のメリハリが利いた演奏に加え、松田の豊かな表情にも引き付けられた。バイオリニストとしては珍しくリサイタルの時にはいつも素足という。この日も華やかなドレス姿に素足というスタイルだった。

 クライスラーの5曲目「プニャーニの様式によるテンポ・ディ・メヌエット」の後は、ブラームスの原曲を基にハイフェッツが作曲した「コンテンプレーション」。〝瞑想〟を意味するとあって優しい音色に癒やされた。結びはサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」。松田の技術の高さを改めて証明する名演奏で、滑らかな指使いや終盤のピチカートも聴きごたえがあった。

 アンコールはラフマニノフの「ヴォカリーズ」とマスネの「タイスの瞑想曲」。いずれも1つ1つの音に神経が行き届いた抒情性にあふれた演奏。自身も「リハーサルの時より本番のほうがよく響いていると感じながら演奏できた」と満足げな様子だった。演奏が終わるたびに、会場の拍手に笑顔で応える姿にも好感が持てた。

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<唐招提寺> 鑑真和上1250年御遠忌記念シンポジウム

2013年09月29日 | メモ

【パネラーに東洋文化研究者アレックス・カーや舞踏家の麿赤兒ら】

 奈良市の唐招提寺僧房(重要文化財)で28日「鑑真和上1250年御遠忌記念シンポジウム」が開かれた。第2回奈良古典芸能フェスティバルの一環。パネラー(写真㊧から)の唐招提寺律宗宗務長の西山明彦氏、東洋文化研究者のアレックス・カー氏、舞踏家・俳優の麿赤兒氏、初代観光庁長官で首都大学東京教授の本保芳明氏の4人が、「日本の基層~奈良から学ぶこと、伝えること」をテーマに1時間半にわたって熱い討論を繰り広げた。

   

 まず西山氏は鑑真の伝えたかったこととして①不殺生=殺さない②不偸盗(ふちゅうとう)=盗まない③不邪淫=不倫をしない④不妄語=嘘をつかない⑤不飲酒=飲みすぎない――の〝五戒〟を挙げた。「鑑真は日本人に、世界に共通する倫理観を教えてくれ、同時に日本人の心の中に奈良という第二のふるさとをつくってくれた」。

 カー氏は京都を拠点に、NPO法人「篪庵(ちいおり)トラスト」理事長として日本伝統家屋の修築保存活動などに取り組む。「奈良には田園風景の中に1200年前の世界に誇る寺院が残っており、〝奈良では〟の深い神秘性がある。京都から奈良に来るたびに開放された思いがする」と話す。

 麿赤兒氏は舞踏カンパニー「大駱駝艦(だいらくだかん)」を主宰し、海外公演も積極的行って「BUTOH」を世界に売り込む。生まれは金沢だが、小学生の頃から奈良県桜井市で育ったこともあって「奈良をずっと〝体感〟してきた。奈良は1日中歩いていても飽きることがない」。最近のテクノロジーの進歩の中で「五感が摩滅していく恐怖をひしひしと感じている」という。

 本保氏は奈良時代の日本の推計人口約550万人を基に1人当たりGDP(国内総生産)を500~600ドルと推測する。「1人1日当たり1ドル以下の国が世界の最貧国といわれるが、奈良時代はそれに近い水準だった。それでも渡来人から真剣に学んで国造りに励んだ」。では現状は? 「経済水準は上がったものの、幸せを感じにくくなっている。その一因に謙虚に海外から学ぶという姿勢が乏しくなっていることもあるのではないか」。

 アレックス・カー氏も「鑑真の時代、日本は海外の知恵を積極的に取り入れた。まさに国際的な時代だった」と話す。奈良びいきのカー氏だが、奈良に来るたびに懸念していることもある。田園の中にプレハブの建物ができたり、目立つ看板が立ったり……。「奈良の田園風景や寺院・家並みのたたずまいは大きな財産。だが、環境はもろいもの。財産を積極的に守っていく体制をつくる必要がある」と指摘した。

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<奈良市美術館> 開館10周年記念「奈良の学校」展

2013年09月28日 | 美術

【小・中学校に寄贈された書・絵画・彫刻や古写真など約150点】

 奈良市美術館(イトーヨーカドー奈良店5階)で27日、開館10周年を記念した「奈良の学校~古写真・美術品からみる学び舎のあゆみ」展が始まった。奈良市内の小・中学校に寄贈された書・絵画・彫刻や戦前の教科書、古い学校の白黒写真など合わせて約150点が並ぶ。10月6日まで。

   

  絵画の出品作は24点。森下喜文(よしふみ)の「雪後塔映」(写真㊧)は雪をかぶった三重塔を真ん中に据えたどっしりした構図。森下は1916年奈良市生まれで、東大寺や薬師寺、法隆寺などを中心に大和路の四季をテーマに描き続け、64年には第7回日展で特選を受賞している。他に雪が降りしきる「雪の社頭」と「夢殿」の2点も出品されている。

 出品作「佐保川」(写真㊨)を描いた辰巳文一は1928年奈良市生まれで、85年ごろから毎年渡欧し、冬から早春にかけての自然風景を詩情豊かに描き続けてきた。この緑豊かな「佐保川」も早春の景色だろうか。「鹿」など2点が出品されている西岡義一(1922~2010年)も奈良市生まれ。親鹿6頭のそばに小さな子鹿が1頭。その姿が愛らしい。

    

 京都で京都府画学校―京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)の出身者が京都画壇で重みを持つように、奈良では奈良師範学校(現奈良教育大学)出身の画家が多い。上記の森下も辰巳も西岡も奈良師範の卒業生。書道家で「漢詩富士山」(上の写真㊧)や「和敬」など4点が出品されている辻本史邑(1895~1957年)も同じ奈良師範の出身だ。

 辻本は多くの書家を育て、関西書壇の興隆に尽くした。「漢詩富士山」は江戸初期の漢詩人・石川丈山の作で、「白扇倒懸東海天(はくせんさかしまにかかるとうかいのてん)」と、富士山の雄大な姿を逆さまの白い扇にたとえた。書では元薬師寺管主・高田好胤(1924~98年)の「和敬」や元東大寺別当・平岡定海(1923~2011年)の「道」も出品されている。

 彫刻は全部で10点。その中には一刀彫奈良人形の中興の祖、森川杜園(1820~94年)の作といわれる「鹿」もある。悠然と座る雄鹿を刻んだ作品。2本の角は本物のようだ。太田昭夫(1930~88年)の「鹿」(上の写真㊨)も同じような作品だが、太い首が安定感と存在感を与えている。太田は雄鹿をテーマに多くの作品を残した。同じく「鹿」が出品されている竹林薫風(1903~84年)には「奈良の一刀彫」という著書もある。静的な鹿が多い中で、雄鹿が前脚を畳んでジャンプする一瞬を作品にした竹林信雄の「飛躍」も印象に残った。

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<アイ(藍)> 紅色の小花を穂状に、葉は貴重な藍染め原料

2013年09月27日 | 花の四季

【別名「タデアイ」、原産地は中国~インドシナ半島】

 タデ科の1年草で、原産地は中国南部~インドシナ半島。日本には6世紀ごろ、中国から渡来したという。葉から藍染めの染料インディゴを取るために古くから栽培されてきた。インディゴを取る植物には他にマメ科のインドアイ、キツネノマゴ科のリュウキュウアイ、アブラナ科のウォード(タイセイ)などがある。これらと区別するため「タデアイ(蓼藍)」と呼ばれることもある。

 9~10月ごろ、紅色または白の小花を穂状に付ける。染料にするには花が咲く前に葉を刈り取って藍玉に加工。これに灰汁などを混入し繊維を漬けて染色する。師匠より弟子のほうが優れているたとえに「青は藍より出でて藍よりも青し」。この諺のように、藍で染めると元の染料の藍よりも濃い青に染め上がっていく。

 アイは古くからベニハナやアカネなどとともに貴重な染料として使われてきた。正倉院にも御物として藍染めの「縹縷(はなだのる)」や布類などが納められている。縹縷は東大寺の大仏開眼(752年)のために用いた筆に結び付けられた長いロープ状のもの。参列者が大仏の功徳にあずかろうと手に持った。

 平安時代の延喜式(927年)にも藍に関する記述が見られ、武蔵や相模、信濃などの国は藍染めの布を「調」として納めたという。江戸中期には木綿の導入とともにアイの需要が急増。中でも阿波徳島では藩が栽培を奨励したこともあって一大産地となり、最盛期の栽培面積は約2万ヘクタールにも達した。藍染めは武士の裃(かみしも)から庶民の衣類、店の暖簾まで幅広く普及し、明治初めに来日した外国人からは「ジャパンブルー」とも呼ばれた。

 だがインドからの藍玉の輸入やドイツで開発された人工藍の流入によって、天然藍の需要はその後、急速に減少していく。アイの花はかつて徳島の県花にもなっていたが、1974年には特産のスダチに取って代わられた。ただ、最近では天然藍が合成藍に比べ色が美しく耐水性にも優れていることなどから再び見直されている。「嶋原の外も染るや藍畠」(服部嵐雪)。

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<大和文華館> 特別企画展「水墨画名品展」 国宝2点含む50点

2013年09月26日 | 美術

【中国・朝鮮・日本の逸品一堂に、雪村や鉄斎も】

 奈良市の大和文華館で「水墨画名品展」(10月6日まで)が開かれている。同館所蔵の名品に加え九州国立博物館蔵の3点も加え計50点。その中には国宝2点、重要文化財8点も含まれる。中国・朝鮮の水墨画に、日本の初期水墨画を代表する可翁、室町時代に活躍した雪村周継、江戸時代の尾形乾山、円山応挙、渡辺南岳、そして明治・大正の富岡鉄斎……。同館の水墨画コレクションの厚みを改めて実感させる企画展になっている。

 

 国宝の1つ、李迪筆「雪中帰牧図」(上の写真㊧)は会場に入ってすぐ右手に飾られている。李迪は中国・南宋時代(12世紀)の宮廷画家。雪の中、牧童がキジを杖の先にぶら下げて牛に乗って帰る姿を描く。もう1つは九博蔵の狩野正信筆「周茂叔愛蓮図」(写真㊨=部分)。正信は狩野派の祖で、室町8代将軍足利義政の御用絵師を務めた。湖面に張り出した柳の下に1艘の小舟が浮かぶ。

 小舟に乗っているのは中国・北宋時代の儒学者で宋学の開祖といわれる周茂叔。「愛蓮説」を著し蓮をこよなく愛したという。この「周茂叔愛蓮図」は中国で「四愛図」の1つといわれ、「陶淵明愛菊図」「林和靖愛梅図」「黄山谷愛蘭図」とともによく描かれるそうだ。狩野正信の長男、元信筆と伝わる「奔湍図」と「瀑布図」も出品されている。

   

 雪村の「呂洞賓図」(写真㊧=部分)は仙人が龍に乗り両手を広げて、龍が舞う天空を見上げる構図。衣装などの太くて濃い輪郭と顔の眉やあごひげの繊細な線の対照が際立つ。雪村は武家出身の画僧で、雪舟に私淑し、神仙図や花鳥、山水図を得意とした。「花鳥図屏風」は右隻に早春の朝、左隻に夏の夜景を描いた。動きのある水鳥を配したダイナミックな構図が目を引く。雪村のこれら作品2点はいずれも重要文化財。

 朝鮮王朝時代中期の士人画家、李継祜の「葡萄図」(写真㊥)は墨の濃淡でブドウの実の立体感を表した。画面いっぱいを使った躍動的な枝ぶりにも生命感がみなぎる。可翁の「竹雀図」(写真㊨=部分)は1羽の雀が右斜め上の笹の葉を見上げる構図。右半分はその笹以外に何も描かれておらず、その空白によって一層静寂感が漂う。

 円山応挙の「鱈図」はあんぐり口を開いたタラの全身を描いた横長の絵。応挙の高弟、長沢芦雪はこの図を縦位置にした「鱈図」を描いた(和歌山県串本町の無量寺所蔵)。渡辺南岳の「殿様蛙行列図屏風」はトノサマガエルにちなむもので、なんとも愉快な屏風絵だ。南岳も応門十哲の1人。

 俵屋宗達の「桜図」、尾形光琳の「雪舟写山水図」、光琳の弟・尾形乾山の「春柳図」「武蔵野隅田川図乱箱」「光琳筆銹絵菊図角皿」、伊藤若冲の「釣瓶に鶏図」、富岡鉄斎の「観音菩薩図」「山荘風雨図」、菱田春草の「晩秋図」なども並ぶ。

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<カリガネソウ(雁金草)> 清楚な花の前に湾曲した長いオシベとメシベが!

2013年09月25日 | 花の四季

【別名「帆掛草」、葉や茎には独特な臭気】

 クマツヅラ科の多年草で、日本から朝鮮半島、中国にかけて分布する。花の形をカモの仲間の水鳥、雁(ガン)が飛ぶ姿に見立てて「雁金草」の名が付いた。家紋の「結び雁金紋」にちなんだともいわれる。雁金は雁の古名。雁の鳴き声「雁が音」が転じて雁そのものを指すようになった。

 花期は8~10月頃で、草丈は0.6~1mほど。青紫色の清楚な5弁花だが、その花姿は実に個性的。5つに裂けた花びらのうち中央の下片は唇状で大きくて紋様が入る。上の方からは長いオシベ4本とメシベが弓なりに湾曲して、下片の花びらの前まで伸びる。ハチなどの虫が花に留まると、背中に花粉が付き、その花粉が雌しべの柱頭にも付いて受粉するという仕掛けだ。カリガネソウにはシベを小舟の帆に見立てた「ホカケソウ(帆掛草)」の別名もある。

 カリガネソウのもう1つの特徴は独特な臭気。クマツヅラ科の植物には芳香、あるいは悪臭を放つものが多い。例えばクサギやランタナ、ムラサキシキブ、ハマゴウなど。カリガネソウはその楚々とした花姿には似つかわしくないような不快な臭いを発散する。だが、涼しげなかわいい花姿の人気は根強く、最近では葉の周りなどに白い模様が入った「斑入りカリガネソウ」も出回っている。

 このカリガネソウも全国的には自生地は減少傾向。環境省のレッドデータブックには未掲載だが、都道府県段階では東京で既に絶滅したとみられ、秋田、埼玉、神奈川、石川、愛媛、福岡、熊本など12県で絶滅の危険性が極めて高い絶滅危惧Ⅰ類に分類されている。絶滅したと思われていた秋田県では2001年に秋田市内で50年ぶりに発見されたという。準絶滅危惧種になっている京都府では15年前、カリガネソウの保全を目的に「久保川と天王山の森を守る会」が結成され、環境保全活動に取り組んでいる。

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<黒井健・絵本原画展> 「ごんぎつね」「手ぶくろを買いに」など約150点

2013年09月24日 | 美術

【画業40周年記念、阪急うめだギャラリーで30日まで】

 「ごんぎつね」や「ころわんシリーズ」などで知られる絵本画家、黒井健(1949年、新潟市生まれ)。その画業40年を記念する「黒井健 絵本原画の世界展」が大阪市北区の阪急うめだギャラリーで開かれている。色鉛筆やパステルを使って描いた原画が約150点。繊細で柔らかいタッチの作品1つ1つにじっと見入る女性客の姿が目立つ。30日まで。

  

 これまでに出版された絵本や画集は200冊を超える。新美南吉作の「ごんぎつね」(上の写真㊧)や「手ぶくろを買いに」(写真㊨=部分)、宮沢賢治作品、1983年からほぼ毎年1作ずつ出してきた間所ひさこ作「ころわんシリーズ」、脚本家・山田太一の「リリアン」、みなみらんぼうの「月からきたうさぎ」……。新井満の詩を絵本にした「この街で」や武田鉄矢が実話を基に書いた戦争童話「二十六夜まいり」、新潟中越地震後に故郷を訪れ描いた「ふる里へ」(文・星野知子)=下の写真2点=などもある。

   

 画業40年の中で一大転機だったというのが1986年の「ごんぎつね」。黒井氏は「この物語との出会いがなかったら今の私は考えられない。絵本への考え方を根底から変えてくれた」という。「私の迷走していた心ははっきりとした意志を持ったような気がする」とも。会場の一角では大滝秀治の語りで「ごんぎつね」が上映されていた。

 児童文学作家・あまんきみこ作の「おかあさんの目」や「天の町やなぎ通り」の原画も並ぶ。「おかあさんの目」に出てくる女の子は娘をモデルに描いたという。絵本から飛び出てきたような立体フェルトの作家として活躍している凪(なぎ)さんのことだろう。母の瞳の中に自分がいるのに気づいた女の子に、母は美しいものに出会ったら、一生懸命見つめなさい、心にすみつくのよと教える。

   

 原画に添えられたコメントから、絵が完成するまでの大変なご苦労もしのばれる。「天の町やなぎ通り」では「幻想的な文からイメージを損なわない絵を描き上げるのには時間がかかってしまった」。殺意をテーマにした「だれかがぼくを」(内田麟太郎作)では「描き終えるのに5年近くを要した」。さらに世界中の灯台が集まるお祭りヒカリンピックの物語「よるのふね」(山下明生作)は「原稿をもらって十数年の歳月が過ぎての出版になった」。このファンタジーな世界を表現する画法として、試行錯誤の末にオイルパステルにたどり着いたという。

 海外作家コーナーにはパール・バックの物語を基にした「つなみ」の原画も並ぶ。大きな津波が押し寄せてくる様が大迫力で描かれている。2005年に出版された。その横には「時が経って2011年、津波の悲劇が現実になったことに強い衝撃を受けています」との一文が添えられていた。

 このほか、森山京・作の「ぶたのモモコシリーズ」や「バスがくるまで」、深山さくら作「かかしのじいさん」、にしもとよう作「うまれてきてくれてありがとう」、宮沢賢治作「猫の事務所」、自作絵本の「でんぐり でんぐり」「12月24日」などの原画も展示されている。会場の一角のテーブルには多くの絵本や画集。誰でも自由に手に取って読むことができる。ひらがなを覚えたてなのか、小さな女の子が声を出して一生懸命に読む姿が印象的だった。

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<サワギキョウ(沢桔梗)> 直立した花穂に青紫色の鮮やかな花

2013年09月23日 | 花の四季

【キキョウ科の多年草だが、花姿はキキョウとは全く別】

 キキョウ科ミゾカクシ属(ロベリア属)の多年草。北海道から九州にかけて全国の日当たりのいい湿原や山間の湿った草原などに自生する。沢に生えるキキョウの仲間ということから「沢桔梗」の名が付いたが、キキョウ属の秋の七草キキョウとは花も葉の形も似ていない。

 晩夏~初秋に花穂を0.5~1mほどに伸ばし、下から順番に花を咲かせる。花びらは深く切れ込んだ5弁花で、上の2つは細く左右に伸び、下は3つに裂ける。キキョウと同じく〝雄性先熟〟。自家受粉を裂けるため、まず雄しべが花粉を出し、それが終わった後に雌しべが発達する。

 花色は青紫が一般的だが、長野県北部には花冠の内側だけが白い「トガクシ(戸隠)サワギキョウ」が分布する。海外産の洋種サワギキョウは赤や紫、白など多彩で、米国生まれの「ベニハナ(紅花)サワギキョウ」は鮮やかな深紅色で人気を集める。国内では八甲田山や尾瀬、入笠湿原(長野県富士見町)などの群生地が有名。ただ全国的には湿原の減少に伴って自生地も減っており、埼玉、石川、徳島など17都県で絶滅危惧種に指定されている。

 茎は中空で、折ったり傷つけたりすると白い乳液を分泌する。ロベリンという有毒成分を含み、口にすると頭痛や嘔吐、下痢などの症状を引き起こすことも。一方でロベリンは喘息など呼吸困難時の回復薬や鎮痰、禁煙補助剤などとしても利用される。サワギキョウは有毒植物であるとともに薬用植物でもあるわけだ。「秋を呼ぶ風のひびきの沢桔梗」(小松崎爽青)。

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<最初の遣隋使> 「600年が始まり。604年に派遣した可能性も」

2013年09月22日 | 考古・歴史

【横大路1400年記念国際シンポで、王勇・北京大学客員教授】

 日本書紀の推古21年(西暦613年)に日本最初の官道「横大路」について記されてから今年でちょうど1400年目。これを記念した国際シンポジウム「道~その遥かなる記憶」が21日、奈良県橿原文化会館で開かれた。遣隋使の始まりは600年と607年に学説が分かれているが、講師の王勇・北京大学客員教授(浙江工商大学日本文化研究所長、中国日本史学会副会長、写真㊥)は多くの文献や当時の国際情勢から「600年から始まった」と明言、さらに604年に遣隋使が送り込まれた可能性にも触れた。

   

 遣隋使の派遣回数は3回説から6回説まで諸説ある。最も多いのは4回説。では最初の派遣はいつだったのか。日本書記では600年の記載がなく、607年の遣使を最初とする。それを基に2007年には遣隋使1400年の記念イベントが繰り広げられた。「謎めく推古十二年の遣隋使」の演題で講演した王氏はそれ以来「疑問が膨らんでいた」と話し始めた。

 王氏が遣隋使の始まりを600年とする根拠の1つは様々な文献の収録記事。中国の「随書・倭国伝」をはじめ「通典」「冊府元亀」「新唐書」「宋史」に記され、さらに日本の「釈日本紀」にも記録されている。さらに「異国牒状記」の中の「推古天皇2年(594年)正月、随国之牒状到来」の記事や「隋書・百済伝」、隋朝の開皇20年(600年)の倭国朝貢記事などの分析からも「600年に日本の使者が中国に行ったことは間違いない」という。

 また604年の遣隋使の可能性も指摘した。「経籍後伝記」には「この時(推古12年=604年)正月、国家に書籍いまだに多からず。ここに小野妹子を隋国に遣わして、書籍を買い求めしむ」と記され、「随書・音楽志」には「始開皇初定令……倭国等伎」と記す。このほか、604年に日本で初めて暦日を用いたこと、朝礼作法が中国式に改められたことなど傍証として挙げた。ただ「まだ謎が残り、立証のためにはもっと多くの史料が必要」とも述べた。

 王氏は中国と西域の東西を結ぶ交易ルートがシルクロードと呼ばれるのに対し、中国、朝鮮半島、日本の東アジアのルートを〝ブックロード〟と呼ぶ。「日本はシルクが目当てではなく、最初から書物を求めて遣隋使を派遣した」。その根拠として「経籍後伝記」のほかに607年の遣隋使について触れた「異本上宮太子伝」の「奉請『法華経』将来」の記述などを挙げる。聖徳太子の著作とされるものに「三経義疏」(法華・維摩経・勝鬘経)がある。それらを著すためにも多くの経典などが必要だったのだろう。

 王氏の講演の前には東アジアの古代史に詳しい作家、豊田有恒氏(写真㊨)が「中国・韓国から、推古大道に至る古代ルート」と題して講演した。「漢字にしても仏教にしても朝鮮半島伝来の記録が記紀にあるが、中国文化は単に半島を経由しただけでなく、いったん咀嚼されたものが日本に伝わってきた」。日本への文化の窓口として重要な役割を果たしたのが半島の南にあった古代国家「弁韓」と後の「加羅(カラ)」(後に新羅と百済に併合)という。

 文化の伝播ルートについては「弁韓・加羅が倭人の〝前進基地〟だったことは間違いない。そこから対馬―壱岐―東松浦半島(佐賀)という順路だったとみられる」と話した。豊田氏は約30年前、復原した古代船でそのルートの一部をたどった。その際、風待ち、潮待ちのため港で3日間の逗留を余儀なくされた。その経験から「邪馬台国論争でしばしば距離が争点になるが、魏志東夷伝の倭人条に書かれている日数から距離を割り出す方法はあまり意味がないことが分かった」そうだ。

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<けいはんな学研都市・市民公開講座> 「アジアの世界遺産をめぐる諸問題」

2013年09月21日 | メモ

【同志社女子大の大西氏「景観保護には地域住民の合意が不可欠」】

 国立国会図書館関西館(京都府精華町)で20日、「アジアの世界遺産をめぐる諸問題」と題した講演会が開かれた。3回シリーズの「関西文化学術研究都市6大学連携市民公開講座」の最終回。講師の大西秀之・同志社女子大学准教授は景観保全対策の遅れなどから危機遺産リストに登録された世界遺産を例に挙げ「景観保護には地域住民を中核とする合意形成が不可欠」などと話した。

 

 大西氏はまず世界遺産の選考基準に触れ、「世界の全ての人々にとって顕著な価値があり、最上の代表(主に文化遺産)または最上の最上(主に自然遺産)のもので重複しないことが原則」と指摘した。では、日本人が雄大な自然景観を誇りとする富士山はなぜ自然遺産ではなく文化遺産として登録されたのか。

 大西氏はごみなどの環境問題に加え、富士山型の雄大な火山は既に登録ずみなことや富士山に景観がよく似たニュージーランドのトロンガリロが文化・自然の複合遺産として登録されていることなどを挙げる。そのため、富士山を描いた浮世絵が西洋の画家に大きな影響を与えたことなどを理由に文化遺産として登録された。

 世界遺産は7月現在で981件(文化遺産759件、自然遺産193件、複合遺産29件)。国別にみると、最も多いのはイタリアの49件、次いで中国45件、スペイン44件、ドイツ、フランス各38件と西洋諸国が上位を占める。米国は21件で10位、日本は17件で13位。ユネスコの世界遺産センターは事務局をパリに置く。

 大西氏は「世界遺産は普遍的価値を最も重視するとしながら、西洋的な基準で選ばれているといわれても仕方がない。富士山が仮に西洋絵画ではなくアフリカ美術に影響を与えていたらどうなのか」と疑問を呈する。米国が意外に少ないのは米国がユネスコにほとんど資金を拠出していないことも影響しているのではないかという。

 アジアの世界遺産が抱える問題としてフィリピン・ルソン島の「コルディリエラの棚田群」(写真㊨)を例に挙げた。〝天国への階段〟ともいわれる世界最大規模の棚田で、1995年に世界遺産に登録された。だが、その6年後、危機遺産リストに登録された。その理由は①管理体制の不備による棚田の崩壊②不法開発による景観破壊③地域住民の村離れに伴う耕作放棄と水利システムの荒廃――などによる。

 大西氏は「現地の経済開発の促進によって、景観破壊が進むという悪循環に陥っている。外部者の視点による世界遺産登録の決定というトップダウン型の仕組みが限界に来ているのではないか。景観保護には主体となる地域住民の合意が欠かせない。同時にヨーロッパ中心の考え方も見直す必要があるのではないか」などと指摘した。(「コルディリエラの棚田群」はその後、日本ユネスコ協会連盟の支援活動などが実を結び、2012年に危機遺産の登録が解除された)

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<采女祭> 中秋の名月の下、猿沢池で雅な〝管弦船の儀〟

2013年09月20日 | 祭り

【稚児や天平衣装姿約200人の〝花扇奉納行列〟も】

 中秋の名月の19日、奈良市の采女(うねめ)神社で「采女祭」が行われた。花扇奉納行列、神社での神事に続いて、午後7時から満月の下、管弦船が流し灯籠の間を縫って猿沢池を巡った。「采女」の縁で姉妹都市になっている福島県郡山市から、今年も市長や「ミスうねめ」たちが参加した。

  

 采女祭は奈良時代、帝の寵愛が衰えたのを嘆き猿沢池に身を投げた采女(女官の職名)の霊を慰める祭り。入水後、池のほとりに社が建てられたが、采女はわが身を投じた池を見るにしのびないと、一夜のうちに社を後ろ向きにしたという。普段はあまり存在感がない狭い神社だが、この日ばかりは多くの見物客やカメラマンで周辺はごった返した。

 

 行列は稚児や天平衣装をまとったミス奈良、郡山市のミスうねめら総勢約200人。秋の七草で飾られた高さ2mの花扇や御所車に乗った十二単姿の花扇使が彩りを添えた。行列は午後5時、JR奈良駅を出発、三条通りやもちいどの商店街などを経て、ほぼ1時間がかりで采女神社に到着した。神社では午後6時から春日大社の神官によって厳かに神事が行われ、花扇が奉納された。

 

 続いてメーン行事の管弦船の儀。満月が東の空に昇り始めてまもなく、花扇使やミス奈良、ミスうねめたちが2隻の船に乗り込み、雅楽が流れる中、右回りでゆっくりと2周巡った。池の周りにはぐるっと幾重もの人垣。最後に花扇を載せた管弦船が池の中央まで進み、采女の霊を慰めるため花扇を池の中に投じた。

 采女の出身地は陸奥の国安積の里(現在の郡山市)といわれる。奈良時代、巡察使の葛城王に冷害による窮状を訴え、朝廷への貢物の免除をお願いするが、聞き入れられない。その夜の宴で王は春姫の心からのもてなしぶりに感激、春姫を帝の采女として献上することを条件に貢物を免除する。

 

 都に上った春姫は帝の寵愛を受けるが、奈良と郡山の伝説では「その後」が違う。奈良では寵愛がなくなったことを嘆いて猿沢池に入水したことになっている。だが、郡山の伝説によると、春姫にはもともと相思相愛の許婚がおり、悲しみをこらえ都に上ったものの許婚が恋しくて忘れられない。そこで中秋の名月の日、春姫は猿沢池のほとりの柳に衣を掛け、入水したように見せかけて郷里に向かう。だが、許婚は既に亡くなっていた。それを知った春姫は後を追って清水に身を投じる――。

 この伝説を基に、郡山市は1965年「郡山うねめまつり」を始め、49回目の今年も8月1~3日にうねめ踊り流しなど多彩な催しが繰り広げられた。そのうねめまつりと奈良市の采女祭の縁から1971年に両市は姉妹都市として提携、最近では交流の一環として、それぞれの祭りに親善使節団を送り込んでいる。

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<大阪島屋> 大阪出店115周年記念「暮らしと美術と島屋」展開幕

2013年09月19日 | 美術

【絵画・工芸・美術染織・歴史史料など約650点】

 大阪島屋で18日「暮らしと美術と島屋」展(30日まで)が開幕した。京都で呉服商として創業した島屋が大阪に進出したのは115年前の1898年(明治31年)。最初、心斎橋に出店し、その後、長堀、さらに現在の難波に移った。同展は4~6月に東京・世田谷美術館で「企業と文化」をテーマに開いたのに続くもので、美術作品や史料など約650点で創業以来の変遷をたどる。

   

 絵画の中で注目を集めそうなのが「世界三景 雪月花」と題したビロード友禅のための下絵三部作。山元春挙「ロッキーの雪」(写真㊧)、竹内栖鳳「ベニスの月」、都路華香「吉野の桜」の壮大な3点だ。1910年にロンドンで開かれた「日英博覧会」に島屋が出品し名誉大賞を受賞した。3点の友禅壁掛けのうち「ロッキーの雪」と「ベニスの月」は大英博物館に収蔵されている。

 竹内栖鳳と都路華香は菊池芳文、谷口香嶠とともに〝楳嶺門の四天王〟といわれた。彼らの師、幸野楳嶺の友禅下絵「紅葉渓図」も出品されている。真っ赤な紅葉の下で親子の鹿たちが群れ遊ぶ秋の静穏な光景を描いた。そのそばには谷口香嶠の友禅下絵「牡丹図」も並ぶ。

 浅井忠の「大原女」(上の写真㊨)も大胆な構図で目を引いた。手前左側に柴をどっさり背負った白馬、中央奥に2人の大原女を置いた画面構成。浅井は1906年に関西美術院を創設するなど後進の育成に努めた。門下に浅井曽太郎や梅原龍三郎らがいる。この2人は後に〝日本洋画壇の双璧〟と称された。その梅原龍三郎の油彩「桜島」も出品されている。錦江湾を挟んで手前に家並み、画面上半分に赤く染まる桜島を配置し、梅原らしい豪放なタッチで描かれている。

     

 竹内栖鳳は明治20年代前半、島屋の画工室(デザイン室)で美術染織品の下絵を描いていた。島屋が栖鳳の作品を多く所蔵しているのもそのためだろう。「ベニスの月」の下絵以外にも代表作の1つ「アレ夕立に」や「富士」「国瑞」も展示されている。「アレ夕立に」(上の写真㊧)は清元「山姥(やまんば)」に題材を取った京舞を踊る舞妓の一瞬の姿を切り取った作品。これも1910年の日英博覧会に出品された。顔を扇で隠すことによって、より艶っぽい作品になっている。

 北野恒富の「婦人図」(上の写真㊨)は1928年(昭和4年)に大阪長堀店で開かれた着物展のポスターの原画。北野は明治末期から大正にかけてデカダン的な美人画を描いた。ポスターには島屋の呉服催事「百選会」の顧問をしていた与謝野晶子の一文も添えられた。このポスターは大きな反響を呼んで、駅に掲示されるや、その多くがすぐに持ち去られたという。

 この他にも明治~昭和期の画壇を代表する画家の逸品がずらりと並ぶ。岡田三郎助「支那絹の前」、中川一政「福浦湾風景」、小出楢重「六月の郊外風景」、児島善三郎「薔薇」、東郷青児「裸婦」、島崎鶏二(藤村の次男)「竹林」、前田青邨「みやまの四季」、土田麦僊「鮎」、小野竹喬「秋」、池田遥邨「高雄錦秋」、奥田元宋「霧晴るる湖」、棟方志功「弘前参禅寺長勝寺山門」、岡本太郎「創生」……。さらに宮本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司の焼き物も。島屋コレクションの豊富さと質の高さに改めて感心させられた。

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<昼夜逆転室> 幻想的なサガリバナやイエライシャンなど開花

2013年09月18日 | 花の四季

【京都府立植物園、夜咲き植物が日中に】

 京都府立植物園が観覧温室内に新設した国内初の「昼夜逆転室(ナイトフラワーガーデン)」で、いまサガリバナやイエライシャンなど変わった植物が開花している。逆転室は広さ80㎡ほどで、8月にオープンした。夜咲き植物をこの中に入れて夜に照明をつけ、昼に暗くすると夜と勘違いして開花する。植物の種類にもよるが、大体2~4日程度で昼夜が逆転して昼間に咲くようになるという。

 サガリバナ(写真㊤と下の写真㊧)は高さが15mにもなる常緑樹で、原産地は東南アジア~太平洋諸島の熱帯・亜熱帯地域。マングローブや川沿いの湿地を好み、日本でも奄美大島以南の南西諸島に分布する。花は房状に垂れ下がり、1本に15~20個の花を順番につける。無数の長い雄しべが印象的。花の1つ1つは夜に開花して翌朝には落下する。スポットライトに浮かび上がる少し赤みを帯びた花姿には幻想的な雰囲気が漂う。別名「サワフジ」。

   

 イエライシャン(上の写真㊨)はキョウチクトウ科のつる性常緑多年草。インドから東南アジアにかけて分布する。8~10月頃、星形をした小さな花の固まりを下向きにつける。咲き始めは淡緑色で、咲き進むと橙色に変化していく。和名は中国での呼び名「夜来香」の中国語読み。その名前は夜になると特に強い芳香を放つことによる。女優・歌手の山口淑子(李香蘭)のヒット曲で、後にテレサ・テンも歌った「夜来香」の花として知られる。他に月下美人やマツヨイグサなども展示していた。

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<京都文化博物館> 「京都・美のタイムカプセル」展 府のコレクション一堂に

2013年09月17日 | 美術

【開館25周年記念、絵画・工芸品・郷土玩具・楽器・振袖……】

 京都文化博物館(京都市中京区)で「京都・美のタイムカプセル」展が始まった。同博物館開館25周年と京都府立総合資料館の開館50周年を記念した催し。絵画から全国の郷土玩具まで幅広い京都府のコレクションを一堂に展示している。会期は12月1日まで。

 

 府所蔵作品の主なものは京都ゆかりの著名画家による絵画シリーズや観方コレクション、池大雅美術館コレクション、佐竹コレクション、朏(みかづき)コレクションなど。これらを通期、または1~3期に分けて展示する。絵画シリーズは「京の百景」「京の四季」「いのち賛歌」といったテーマに沿って多くの日本画家に描いてもらったもの。

 絵画ではいま小野竹喬「曇り日の海」、堂本印象「時の秘鍵」、池田遥邨「山の灯」、須田国太郎「戸外(の)静物」、向井潤吉「残雪の村」、上村淳之「長旅のはざまで」などが展示されている。動物画を得意とした山口華楊の「白鷺」(上の写真㊧)は「黒豹」や「虎」などの作品同様、生命の輝きにあふれ画面全体に品格が漂う。

 秋野不矩の「深山の春」(上の写真㊨=部分)はツツジの花の間からイタチ(それともテン?)がこちらをじっと見つめる構図。その表情はどこかユーモラスで、つい見入ってしまう。月岡雪鼎の「衣通姫図」(下の写真㊧=部分)は柳の下に佇む衣通姫(そとおりひめ)を描いたもので、禁断の愛を育んだという古事記の中の伝説による。月岡は美人画師として18世紀後半、大坂を中心に上方で活躍した。

   

 観方コレクションは日本画家・吉川観方氏から寄贈されたもので、日本画のほか染織、人形、調度品など約1万5000点に上る。展示中の「妓女図」(上の写真㊨=部分)は江戸末期~明治初期に活躍した日本画家・幸野楳嶺の代表作の1つ。幸野は竹内栖鳳や菊池芳文など多くの画家を育てた。円山応挙の高弟だった源の「富貴佳境・貴妃文楽図」、山口素絢の「太夫雪見図」、森徹山の「蘇武図」も出品されている。森徹山の養父・森祖仙は森派の祖。猿の絵を得意とし「猿祖仙」とも呼ばれた。

 池大雅コレクションは1995年に池大雅美術館から寄贈されたもので、今展では9作品を3期に分け3点ずつ展示する。朏コレクションは郷土玩具収集家・朏健之助氏が全国各地を回って集めたもので、1万点を超える府立総合資料館収蔵の郷土玩具の大半を占める。現在、全47都道府県の玩具が数点ずつ展示されている。

 佐竹コレクションは佐竹藤三郎氏が集めた古典楽器で、楽琵琶、龍笛、笙、鉦鼓などが並ぶ。このほか、江戸時代の小袖や振袖などの丸紅コレクションも展示されている。丸紅商店時代に京都支店が呉服デザインの研究目的のために収集したもので、2011年に約300点が府に寄託された。

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<スズムシバナ(鈴虫花)> 秋の訪れを告げる青紫色の一日花

2013年09月16日 | 花の四季

【近畿以西の林地に自生、滋賀や京都、兵庫などでは絶滅危惧種に】

 日本から朝鮮半島、中国にかけて分布し、国内では近畿以西の林地の樹陰に自生する。キツネノマゴ科イセハナビ属の多年草。スズムシが鳴く頃に花が咲くことから、この名が付いたといわれる。同じように秋の虫にちなんで名づけられたものにマツムシソウ(松虫草)があるが、このスズムシバナは分布が西日本に偏っていることもあって、マツムシソウほど広く知られていない。

 草丈は30~60cmほどで、四角形の茎が直立する。9~10月頃、茎の先に直径3cmぐらいの青紫色の花を横向きに付ける。花の先は5つに分かれラッパ状に開く。朝開いて夕方までに散ってしまう一日花。葉は幅の広い卵形で縁にはギザギザ。虫には軟らかくておいしいのか、虫食い状態の葉っぱが目立つ。滋賀や徳島、京都、兵庫など西日本8府県では絶滅危惧種に指定されている。

 スズムシバナはかつてスズムシソウと呼ばれていた。だが、ラン科に同じ名前の植物があることから、混同を避けるためにスズムシバナに改められたという。ラン科のスズムシソウは5~6月頃、暗い紫色がかった褐色の花を付ける。名前はその花姿がスズムシの羽根のように見えることに由来し、スズムシランとも呼ばれる。

 このスズムシソウの学名は植物学者・牧野富太郎博士にちなむ「リパリス・マキノアナ」。和名スズムシソウの名付け親も牧野博士といわれるが、スズムシバナもあって紛らわしい。そこでラン科のスズムシソウは別称のスズムシランを一般の呼び名とし、スズムシバナはマツムシソウとの連想から元のスズムシソウに戻したほうがすっきりすると思うのだが……。

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