く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<君原健二「私の履歴書」> フルマラソン通算61回 誇りは「途中棄権ゼロ」

2012年08月31日 | スポーツ

【東京五輪銅メダリスト・円谷幸吉の秘話も】

 メキシコ五輪マラソンの銀メダリスト、君原健二の「私の履歴書」が日本経済新聞朝刊で8月1~31日、丸31回にわたって掲載された。「私はずっと、勉強も運動もできの悪いダメな人間だと思っていた」。そう謙遜する君原がなぜ陸上競技を始め、五輪マラソンに3回続けて出場するに至ったかが詳細に綴られていた。君原はわが郷里北九州が誇る偉大な先輩。若戸大橋、鞘ケ谷陸上競技場など懐かしい地名が次々に登場して、毎朝新聞を開くのが楽しみだった。一緒に出場した東京五輪で銅メダルを獲得したものの後に自ら命を絶つ円谷(つぶらや)幸吉の思い出話も強く印象に残った。

 君原は1941年3月20日、小倉市(現北九州市)生まれ。その後、戸畑で小中高校時代を過ごす。そのころの通知票の中身をさらけ出して、いかに「ダメ人間」だったかを告白する。小学1年の時の担任教師による人物評には「真面目であるが、あまり向上しない。内気にして意志弱し。積極的に発表することなし」と書かれていたそうだ。さらに5年時には「積極的に努力する気が少しもみられず、態度に明るさがない」。小さな子どもに対してそこまで書くか! そう言いたくなるほど手厳しい。

【内気にして意志弱し? 五輪3大会連続出場

 その君原が中学の持久走大会で上位に入り、友人が駅伝クラブに誘ってくれたことで一転する。「高校でも陸上競技を続けたのはほかにすることがなかったから」だが、陸上をやっていたことが八幡製鉄(現新日本製鉄)への就職につながった。そこでヘルシンキ五輪出場経験のある高橋進監督に出会ったことも大きい。1964年の東京五輪は8位に終わったが、4年後のメキシコでは堂々の銀メダル、さらに4年後のミュンヘンでは5位入賞。小学生時代、通知票で〝ダメ出し〟した先生方は五輪で活躍する教え子をどんな表情で見ていたのだろうか。

 東京五輪のマラソンには1940年5月生まれの円谷幸吉(自衛隊)も出場した。円谷は陸上競技初日の10000mにも出場、6位入賞を果たしていた。その円谷は同最終日のマラソンでも健闘、国立競技場に入って英国選手に抜かれたものの銅メダルを獲得する。8位でゴールし、そのことを知らない君原は憔悴しきって選手控え室に運ばれると、簡易ベッドに円谷が横たわっていた。「その顔はとても寂しげで、私は声を掛けることができなかった。途中棄権し、悲しんでいるのだと思った」。

【「競技に差し障る」結婚に反対された円谷】

 大観衆の前で恥をさらしたと思った円谷は、4年後のメキシコ五輪で日の丸を揚げることを誓う。だが、オーバーワークから持病の腰痛が徐々に悪化。走れないうちにオーストラリア選手が世界で初めて2時間10分の壁を破る。こうした中で円谷はメキシコ五輪開催年の68年1月9日、カミソリで頚動脈を切って自殺を図った。享年27歳。家族宛ての遺書にはこうあった。「父上様母上様 三日とろ々美味しうございました。干し柿もちも美味しうございました。……幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、後心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」。

 円谷は上司宛てにも「お約束守れず相済みません」という遺書を残していた。君原は東京五輪後、結婚し家庭を持つ。一方、円谷も同じように結婚直前までいっていたが、上司から「競技に差し障りがある」と強く反対され、破談になったという。「ぎりぎりまで自分を追い込むゆえに、競技者は人の支えなしでは生きていけない」(君原)。68年10月20日。メキシコでマラソンのスタートラインに立った君原は「『メキシコでもう一度メダルを取る。それが国民との約束だ』と誓っていた円谷さんの代わりに走るのだという気持ちだった」。そして君原は外国選手の猛追を振り切って銀メダルを獲得した。

【4年後、75歳でボストンマラソン完走を目指す】

 君原の今の目標は2016年の第120回ボストンマラソンで完走すること。このマラソンでは優勝者を50年後に招待する慣例がある。君原は1966年に優勝しており、その慣例から「招待状が届いているわけではないが、すでに私は招かれるものだと思い込んでいる」のだ。「何としても完走したい。年に1、2度、フルマラソンに出ているのは、その目標をクリアするためだ」。これまで一度も途中棄権がない君原なら、その言葉通り目標を達成できるに違いない。その時、君原は75歳になっている。

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<ダイアナ元妃命日> 蘇るエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」

2012年08月30日 | 音楽

【不慮の交通事故死から31日で早や15年】

 1997年8月31日。ダイアナ元英国皇太子妃の不慮の交通事故死は世界中に衝撃を与えた。享年36歳の若さだった。あれから早くも丸15年。だが、ダイアナのやや悲しげな優しい面影とともに、エイズ啓発や地雷撤去、福祉活動などに精力的に取り組んだ姿は今なお多くの人の心に刻まれている。命日のたびに思い出されるのがエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」。葬儀の中でピアノの弾き語りで熱唱したこの曲はその後、販売枚数3700万枚というシングル史上最大のヒット曲となった。

 ダイアナは92年にチャールズ皇太子と別居、事故前年の96年には正式に離婚していた。つまりロイヤルファミリーから外れていたわけだが、パリからロンドンに移送された棺は王族であることを示す紋章旗で覆われていた。しかも葬儀当日の9月6日、バッキンガム宮殿には半旗にしたユニオンジャックが掲げられ、エリザベス女王自ら宮殿外に出て葬列を出迎えた。極めて異例なことだった。葬儀は国葬に準じてウエストミンスター大聖堂で執り行われた。その模様はBBC制作のCD(写真㊧)で振り返ることができる。

 

 英国国歌の演奏や祈りに続いて、ホルスト作曲の「ジュピター」を編曲した賛歌「祖国に誓う」の合唱。この後、8行詩「もし私が死んで、あなたをしばし取り残すことになっても」が朗読された。ダイアナには姉2人と弟1人がいたが、朗読したのは長姉のセーラ・マッコーデイル。1字1句をかみしめるように読む姿が目の前に浮かぶようだ。ヴェルディのレクイエムから「リベラ・メ」(我らを許したまえ)の合唱などが続いた後、ダイアナの親友でもあったエルトン・ジョンが登場、「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」を独唱する。葬儀のまさにハイライトだった。

 「さようなら、英国のバラよ。これからは永遠に私たちの心の中に咲き続けますように……」。4分3秒のダイアナへの愛惜の情を込めた熱唱は多くの人々に深い感銘を与えた。この歌はもともとマリリン・モンローのために作詞・作曲されたもので、1973年発売のアルバム「グッバイ・イエロー・ブリックロード(黄昏のレンガ路)」に収められていた。その歌詞を書き直してダイアナへの追悼曲にしたという。

 エルトン・ジョンのほかにも世界の多くのスーパースターがダイアナの死を悼んだ。亡くなった翌年には英国や米国の大物歌手が追悼にふさわしい持ち歌を吹き込んだオムニバス「ダイアナに捧げるトリビュートアルバム」(写真㊨)が発売された。全36曲の中には新曲や未発表曲13曲が含まれ、このアルバムは日本でも大ヒットした。ポール・マッカートニー「リトル・ウィロー」、アレサ・フランクリン「アイル・フライ・アウェイ」、セリーヌ・ディオン「ビコーズ・ユー・ラヴド・ミー」、マイケル・ジャクソン「ゴーン・トゥー・スーン」、マライヤ・キャリー「ヒーロー」、ダイアナ・ロス「ミッシング・ユー」、マイケル・ボルトンとプラシド・ドミンゴ「アヴェ・マリア」……。

 ダイアナは存命中に3回来日した。初来日は1986年5月で、チャールズ皇太子と共に京都や大阪、東京などを訪れ〝ダイアナ旋風〟を巻き起こした。2回目は90年の今上天皇の即位の礼参列のため。3回目は別居中の95年2月、国立小児病院など福祉施設を訪ねる非公式の来日だった。「心底子ども好きなご様子で、難病の子を抱き上げるお姿は優しさにあふれ輝いていた」(同病院院長)。明日の命日、日本でも多くの人が改めてダイアナの優しい面影を思い浮かべることだろう。

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<兼六園の根上がり松> 奇観の〝根張り〟に生命の躍動美!

2012年08月29日 | アンビリバボー

【加賀金沢藩13代藩主お手植え、盛り土除いて人為的に】

 本来なら地中にあるべき松の根っこ四十数本が地上2mほど競り上がっている。その構図はまさに奇観そのもの。金沢・兼六園の園内には松の木が約800本もあるが、その中でも1、2を争う黒松の名木だ。加賀藩13代藩主の前田斉泰(なりやす)のお手植えと伝えられる。

   

 根上がりの松は全国各地にある。浜松市、静岡県牧之原市、福井県美浜町、和歌山市、香川県観音寺市、……。その多くは長年の風雪や波によって根元の土砂が浸食されて根上がりになった。一方、兼六園のこの松は人為的に仕立て上げられた。盛り土に若木を植え、根付くと少しずつ土を取り除いた結果、今のような壮観な立ち姿になった。

 大地をどっしり踏みしめた根上がり松は力感がみなぎり、生命のたくましさを物語る。京都・伏見稲荷大社にも根上がりの名松があったが、今は枯れてその根だけが「奇妙大明神」として大切に祭られている。2股になったその形から「膝松さん」とも呼ばれ、根元をくぐると足腰の病に霊験あらたかとか。根上がりは値上がりに通じ縁起がいいと株価や給料のアップなどを祈願する参拝者も多いそうだ。

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<フヨウ(芙蓉)> 雪舟も好んで描いた薄紅色の清楚な一日花

2012年08月28日 | 花の四季

【園芸品種スイフヨウは咲き始め真っ白、夕方には紅色へ】

 アオイ科フヨウ属で、同じ仲間にムクゲやハイビスカス、モミジアオイなどがある。直径が10cmを超える大きなピンク色の花をつけるが、朝開いて夕方にはしぼむ一日花。短命なことから薄命な美女にたとえられる。「芙蓉峰」は富士山の雅称。美しい山容をフヨウの美しさに重ねて、こう名付けたのだろう。フヨウは花鳥画の画材としてよく描かれてきた。とりわけ室町時代の画僧、雪舟はフヨウを好んで描いた。

 中国では唐の時代以前に芙蓉といえばハスの花を指した。唐の詩人・白居易は「長恨歌」の中で楊貴妃の美貌を「芙蓉如面柳以眉」と称えた。この「芙蓉」もハスのこと。フヨウそのものは唐代まで「木芙蓉」と呼ばれた。こうしたことから日本の国語辞書でも、フヨウを引くと「アオイ科の落葉低木」と並んで「ハスの花の別称。美人のたとえ」(広辞苑)、「ハスの花の古名」(大辞泉)といった説明が出てくる。美しい顔立ちの人を指して「芙蓉の顔(かんばせ)」という表現があるが、この「芙蓉」もハスを指すようだ。

 スイフヨウ(酔芙蓉)はフヨウの改良によって生まれた園芸品種。咲き始めは真っ白だが、午後になると淡紅色、そして紅色と酒に酔って顔が赤くなるように変化する。八重咲きが多いが一重もある。花期はフヨウより少し遅く9~10月ごろが見ごろ。アメリカフヨウは北米原産で、花がフヨウより一回り大きく直径20cmを超える。

 フヨウは福岡市の「市の花」。1979年、市制90周年の記念事業で市民公募によって夏の花としてフヨウ、冬の花としてサザンカが選ばれた。滋賀県長浜市の舎那院は7月から9月にかけ約500株のフヨウの花が咲き誇る。聖徳太子生誕の地といわれる奈良県明日香村の橘寺もフヨウの名所。京都市山科区の大乗寺は最近「酔芙蓉の寺」として人気を集め始めた。挿し木などで年々株数を増やしており、今では約1300株が本堂を囲む。毎年9月中旬から10月中旬にかけて「酔芙蓉祭」が開かれる。

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<孝田有禅・川路聖謨を讃える会会長> 「外交官は川路の巧みな交渉術を学べ」

2012年08月27日 | ひと模様

【プチャーチンと対峙、「北方四島=日本領」明記の日露和親条約を締結】

 川路聖謨(かわじ・としあきら、1801~68年)は幕末、奈良奉行を務めた役人。在任中、緑化運動や民主的な施策を展開するなど善政を行い、今なお〝奈良の恩人〟と慕われている。その川路が幕府の勘定奉行になった後、ロシアとの領土境界問題の交渉を担当した。「川路がいなかったら、北方四島はロシアのものになっていたに違いない。竹島や尖閣諸島も含め領有権問題で揺れている今こそ、日本の外交官は巧みな川路の交渉術を学んでほしい」――。「川路聖謨を讃える会」会長の孝田有禅さん(86)はこう力説する。

   

 孝田さんは1945年、奈良師範学校本科(現奈良教育大学)卒。約40年間の小中学校での教員生活の後、西吉野村教育長。現在は曹洞宗雲洞山禅龍寺(五條市西吉野町)の第28代住職を務める。奈良市立椿井小学校在任中に初めて「植桜楓之碑」(下の写真)を見て川路聖謨の存在を知ったという。この石碑は川路が展開した緑化運動を記念し嘉永3年(1850年)に建立されたもので、猿沢池から興福寺につながる石段(通称五十二段)を上がった左手にある。孝田さんが「五十二段のさくら」と題してまとめた一文は小学道徳の副読本「美しい心」に掲載され、大きな反響を呼んだ。その後、もっと多くの人に川路の功績を知ってもらいたいと「讃える会」を立ち上げた。

   

【集会所の設置、貧民救済、家内産業奨励、天皇陵の整備……】

 幕府の普請奉行だった川路が奈良奉行に任じられたのは1846年、45歳のころ。当時、奈良では百姓一揆や打ち壊しが続発して荒れ果て、奉行所内も腐敗・堕落していた。川路は「荒廃した古都にまず緑を取り戻そう」と緑化運動を進め、同時に思い切った施策を次々に打ち出した。孝田さんはその功績として①集会所づくり②病人・老人・貧民の救済制度の創設③墨作りや革製武具の製作など家内産業の奨励④天皇陵の整備や盗掘対策⑤河川の整備⑥拷問の廃止や罪人への思いやり⑦強盗・賭博の取り締まり強化――などを挙げる。「とりわけ庄屋での会合をやめ、自由にモノが言える集会所をつくった意義は大きい」という。

 川路は1851年、大坂町奉行を命じられ奈良を離れる。別れを惜しんだ人々は餞別として町々から奈良晒し2反ずつを贈ろうとしたが、川路は町名を記した熨斗紙だけを受け取って品物を返した。このため町民は春日社に川路の「武運長久」を祈る石灯篭を奉納したという。川路は大坂赴任の前にまず江戸に帰るが、その時にも何百人もが名残を惜しんで京都の木津川まで見送りに行ったそうだ。

【鋭い舌鋒。一方でユーモア精神も】

 川路はその後1853年、幕府の「露使応接掛」を命じられロシア全権プチャーチンとの領土境界問題の折衝を任される。53年といえばペリーの浦賀来航の年。この年の長崎での交渉は物別れに終わるが、翌年、下田で再会談がもたれた。川路は「択捉(えとろふ)は番所を設けて管理しており、我が国の領土であることに疑いはない」と粘り強く指摘。その結果、択捉島以南が日本領土であることが画定され、54年(安政元年)12月21日、日露和親条約が締結された。新暦に直すと2月7日。この日はいま「北方領土の日」になっている。

 領土交渉に当たった川路の印象を、プチャーチンに随行したゴンチャロフが「日本渡航記」に書き留めている。「川路は非常に聡明であった。その一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識とウイットと炯敏(けいびん)と練達を示していた」。川路はこんな話もしたそうだ。「我が妻は江戸でも一、二を争う美人である。今、妻を思うや切なるものがある。ましてや何年も故郷を離れているプチャーチン殿も同様の思いが強かろう。切りのいいところで妥結して愛する妻の元へ帰ろうではないか」。ユーモアを交えた話に双方笑って打ち解け合ったという。

 川路は奈良の恩人だが、「今の北方四島が日本領土であると必死に交渉に当たって、日本領土に決定させた大恩人でもある」と孝田さん。竹島や尖閣諸島を巡り日韓、日中がぎくしゃくしているが、孝田さんは「感情をぶつけていくやり方はどうにかならないものか。礼節をわきまえて、もう少し大人の対応をしてほしい」と苦言を呈する。経済だけでなく外交面でも閉塞感に覆われている時だけに〝第二の川路〟の登場を期待したいところだが……。(奈良市生涯学習センター26日開催の「奈良偉人伝」の講演から)

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<宮大工棟梁・瀧川昭雄さん> 朱雀門、大極殿に次いで興福寺中金堂復元へ

2012年08月26日 | ひと模様

【62年の宮大工人生の集大成。後進の育成にも全力】

 興福寺の中金堂復元工事が2018年秋完成を目指して進められている。宮大工としてその指揮を執るのが株式会社瀧川寺社建築(奈良県桜井市)の会長兼棟梁の瀧川昭雄さん(79)。その瀧川さんが25日、奈良市生涯学習センターの「天平の匠シリーズ~古都奈良の名工を訪ねて」の一環として「宮大工から見た古建築」をテーマに約2時間にわたって講演した。

  

 瀧川さんは桜井市出身で、中学卒業後に明治時代から続く宮大工の家系の3代目に。19歳の時、薬師寺東塔の解体修理に携わったのをはじめ、長谷寺五重塔、当麻寺本堂、室生寺五重塔など多くの古建築の修復を手掛けてきた。会社組織にしたのは20年前の1992年。その後、平城京の朱雀門、第一次大極殿を復元。この間3年にわたって、ユネスコの要請を受けモンゴルでラマ教寺院の修復を指導した。2007年には宮大工としての実績と後進の育成が認められ、第2回ものづくり日本大賞の内閣総理大臣賞を受賞している。

 瀧川さんは宮大工にとって最大の仕事は材料の調達という。「材木確保のめどがつけば、仕事の8割をこなしたも同然」。朱雀門では1000立方メートル、大極殿では2150立方メートルの材木全てを国産材で調達した。今回の興福寺中金堂復元ではそれらを上回る2320立方メートルが必要。だが、国内でヒノキの大木などを入手するのはもはや困難。このためカナダのバンクーバー島やアフリカのカメルーンなどで調達することになったという。バンクーバーでは飛行機で上空から森林を観察し、伐採する木材にめどをつけたそうだ。

 古建築に使われた木材(柱)を振り返ると、飛鳥・奈良時代はヒノキ、平安時代に入るとヒノキに加えスギ、鎌倉時代にはこの2種にケヤキが加わり、さらに室町・安土桃山・江戸時代にはこの3種のほか栂(ツガ)も使われた。植林といえば戦前・戦後と思われるが、実は平安時代から吉野ヒノキやスギが植林されていたという。瀧川さんは「種木まで切ってしまったので、国産材で巨大建築を造るには何百年も待たないとできなくなった」と嘆く。

 古建築の修理は約300年ごとの解体修理、200~300年ごとの半解体修理(柱を残して解体)、約100年ごとの部分修理(屋根替えなど)に分かれる。「解体修理の際には技術的に教えられることも多いが、さまざまな失敗の痕跡などが見つかれることも少なくない」。例えば、長谷寺ではケヤキの柱の長さが1尺分短かったため、礎石の上にさらに石をかませた部分があるそうだ。

 

 技術の継承方法には「一子相伝」と「多子相伝」がある。一子相伝は優秀な弟子1人だけに秘伝を伝えるもの。薬師寺西塔の再建で有名な棟梁の故西岡常一さんは小川三夫さんが唯一の内弟子だった。一方、瀧川さんの後継者育成法は多子相伝。ただ「宮大工の世界はきつい・汚い・危険の3K職場だけにどれだけ辛抱できるかがカギ」。これまでに約100人を採用したが、残っているのは30人ほどで、中には入社1週間で辞めた若者もいたそうだ。

 「社寺大工は2軒納めて半大工。塔・多宝塔を建てて一人前」。宮大工の世界にはこんな言葉があるという。棟梁になるには小工―大工―副棟梁というステップを踏む。大工の前は「小工」と呼ばれるというのを初めて知った。瀧川さんが経営する瀧川寺社建築では「主に規距(きく)術と修理方針・方法を5年間教え、その修業を完了した後、初めて職人として扱う」。

 規距術とは曲尺(かねじゃく)などを使って木材の継ぎ手や仕口など接合部分を加工する技術。古建築の修復や復元に欠かせないもので、講演会場にもその一部を展示していたが、まさに木材の立体パズル(写真㊨)。古墳時代や奈良時代の大工道具、ヤリガンナなども展示していた(写真㊧)。「〝国費〟で学んだ私の使命は技術の伝承。宮大工を志す若い人たちの育成に残りの人生を捧げたい」。瀧川さんにとって興福寺中金堂の復元は技術継承のためのこの上ない実地教育の場になりそうだ。 

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<玉桂寺のコウヤマキ> 「世界一の霊木」 2本の親株が65株にも!

2012年08月25日 | アンビリバボー

【弘法大師の御手植え? 樹齢は600年とも】

 コウヤマキ(高野槙)は日本と韓国・済州島に自生する1属1種の常緑針葉樹。名前の由来は高野山に多く生えていることによる。2006年にお生まれになった秋篠宮悠仁親王のお印になったことでも知られる。そのコウヤマキが圧倒的な存在感をもって群生しているお寺がある。滋賀県甲賀市信楽町の玉桂寺(ぎょっけいじ)。本堂に続く石段の両側に65株ものコウヤマキが密集して林立している。

 もともとは左右にそれぞれ1株植えた親株から繁殖したという。とりわけ本堂に向かって左手には43株(うち5株は枯れ死)が亭々とそびえ立ち、その様は壮観そのもの。最も高いものは31.5m、樹幹周囲は6.1mにも達する。玉桂寺は「世界一の霊木」と自負し、滋賀県は1974年、コウヤマキが繁殖する広さ425㎡を天然記念物に指定した。このため、その周りにロープを張って立ち入り禁止にしている。

 玉桂寺は奈良時代末期に、淳仁天皇が造営した離宮「保良宮」の跡に空海(弘法大師、774~835年)が一堂を建立したのが始まり。寺伝では空海は天皇供養のため、中国から持ち帰ったコウヤマキ2株を植えたという。ただ、現存するコウヤマキの樹齢は600年ほどともいわれる。同寺は「ぼけ封じ三十三観音第5番」で、毎月21日は「弘法さんの日」。とりわけ秋季大会式が行われる9月21日は毎年多くの参拝者でにぎわうそうだ。

 

 

 国内にはコウヤマキの老木・名木が各地の寺や神社などに存在する。愛知県新城市・甘泉寺と宮城県大崎市・祇劫寺のコウヤマキは国指定の天然記念物。福島県西会津町・鳥迫観音妙法寺のものは樹齢1200年ともいわれる。このほかにも京都・槙尾の西明寺、埼玉県新座市・平林寺、栃木県益子町の西明寺、日光・二荒山神社、北茨城市・花園神社などのコウヤマキも推定樹齢が600年を超える。ただ、そのほとんどは独立した大木。玉桂寺のように境内の狭い範囲に群生しているコウヤマキは珍しいようだ。

 では、どのようにして株が増えたのだろうか。境内の一角にあったコウヤマキの説明文には「もとは各1株を植えたものから、下枝がイチゴやユキノシタのように地について根を下ろして新株となり繁殖したもの」とあった。お寺が作成したものと思われるが、コウヤマキは果たしてそんなふうに増殖していくものだろうか。滋賀県教委が作った別の説明文には「親株から種により円状に繁殖し、第2世代、第3世代の新株が生まれた」とあった。いずれにしても玉桂寺のコウヤマキがこれからも風雪に耐え、落雷の被害に遭わないで豊かな緑を湛えてくれることを願うばかりだ。

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<切り絵作家・達富弘之さん> 親子で切磋琢磨、京の風景や祭りの一瞬を切り取る!

2012年08月24日 | ひと模様

【娘さんと2人で京都新聞に『切り絵エッセー』を丸10年連載】

 この数カ月の間に藤城清治さんや久保修さんら影絵、切り絵の第一人者の作品に触れ、切り絵はまさに創造力とともに集中力、忍耐力が問われる世界であるということを痛感させられた。その世界に親子で挑戦し続けている父と娘がいる。京都府亀岡市の達富(たつとみ)弘之さんと長女の睦さん。地元の風物や祭り、童話の世界などを切り取った2人の切り絵の作品には温かさがあふれ、描かれた人の息遣いまで伝わってくる。

  

 達富さんは1944年亀岡市生まれ。切り絵を始めたのは京都府立園部高校の数学の教諭をしていた約40年前の1971年。クラブ活動の一環として生徒と共に始めた。独学だったが、その後2000年には娘の睦さんと共にウクライナ青年芸術連合の招きでキエフ市内の画廊に出展するまでに。こうした実績から京都新聞から声が掛かり、翌01年11月から2人で毎週交互に「切り絵エッセー」の連載を始めた。題材は主に丹波や丹後、京都市内の風景や祭り、生活の一こまなど身近な話題を取り上げ、それにエッセーを添えた。

 親子交代の切り絵は男と女、親と子の見方が作品に反映されて、それぞれに味わいがあったのだろう。連載は好評で丸10年、昨年の11月まで続いた。この間、読者や知り合いからは「先生(達富さん)のもいいが、娘さんの作品はもっと素晴らしい」といった声も。「先生のはどんくさいけど、飽きない」と言ってくれる人もいた。そう言われるのがうれしかった。写真は「お月見」と「京北町の百年桜」。2枚とも弘之さんの最新作だが、いずれも「ほっ」とさせてくれる温かみがある。

  

 達富さんは2008年から毎年「切り絵 日本むかしばなし」をテーマとするカレンダーの製作を依頼されている。月めくりで12枚。取り上げる題材は全て任せてもらっているが、近畿発祥の昔話の後は関東もの、その後は中国地方と順番にも気を使うそうだ。今製作中のものは何と再来年の「2014年版」カレンダー。しかも8月末が締め切りという。「いつもギリギリになって気分が乗った時に一気に仕上げる」そうだ。

 その傍ら長年、地元亀岡市東竪町の切り絵サークルの指導にも当たっている。毎年秋の「亀岡祭」に合わせ色鮮やかな切り絵灯籠を製作、町内に並べてきた。過去5年間にサークルで製作した灯篭は全部で100基。今年は「宵山」をテーマに11種22基を新たに製作中という。それらの新しい灯篭は10月24日夜(亀岡祭宵宮)の「第3回あかりの祭典」に参加し、JR亀岡駅前から会場の南郷公園までを灯す予定だ。

 達富さんは現在68歳。8年前、府立桃山高校を最後に教員生活にピリオドを打ったが、その後も毎年年末には「PTA研修」と称して、翌年の干支の切り絵作りを指導してきた。チェス・オリンピアード(五輪)への2年連続参加、五目並べを競技化した「連珠」の海外普及、ボルネオなど海外での緑化活動……。これまで多方面で精力的に活動してきた。切り絵については「ここまで長く続くとは思っていなかったが、これからも楽しい切り絵を作っていきたい」。達富さんにとって切り絵は自己表現とともに地元の魅力再発見、住民同士の交流などの大切な手段にもなっているようだ。

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<ルリヤナギ(瑠璃柳)> 南米生まれ 薄紫の涼やかな小花

2012年08月23日 | 花の四季

【別名「琉球柳」、小泉八雲も愛した5弁花】

 ナス科の常緑低木で、原産地は南米のブラジル南部からウルグアイ、アルゼンチン北部にかけての地域。日本には江戸時代末期に南方から琉球を経て渡来した。このため「リュウキュウヤナギ(琉球柳)」とも呼ばれる。当時の琉球王朝が幕府に献上したともいわれる。「スズカケヤナギ(鈴懸け柳)」という別名もある。

 「瑠璃柳」という風流な名前は花の色と葉の形から。花はナス科というだけあってナスの花に少し似ている。葉は長さが10~15cm、幅が2~4cmと柳のように細長く先端が尖った形。茎の高さは1.5~2m。葉の両面や茎に蝋(ろう)質物を含むため、白みを帯びた緑色になっている。英名は「waxyleaf nightshade」。

 寒さにやや弱い半耐寒性で、暖かい地方では常緑だが、寒冷地では冬になると落葉する。このため寒い地方では鉢植えにするか、露地植えの場合は落ち葉などでマルチングする必要がある。秋になると紫黒色の球形の小さな実をつけるが、暖地でないと結実しない。

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はこの可憐な花をこよなく愛した。八雲が島根県松江市で結婚後半年近く過ごした旧居(小泉八雲記念館の隣)の玄関先には今も大株のルリヤナギが植えられている。倉敷紡績(現クラレ)の元社長で、実業家として文化人として名を馳せた大原総一郎もルリヤナギを愛した一人。岡山県倉敷市の大原美術館では今年も可憐な花をつけてくれたそうだ。

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<100年前の北欧アールヌーボー期の2大名窯> 自然のモチーフに〝ジャポニズム〟の影響も

2012年08月22日 | 美術

【細見美術館「ロイヤルコペンハーゲン ビングオーグレンダール展」】

 「ロイヤルコペンハーゲン」といえば、北欧デンマークを代表する陶磁器だが、かつて「ビングオーグレンダール」も並び称される名窯だった。技術を競ったこの2大名窯のアールヌーボー期の名品を一堂に集めた展覧会「ロイヤルコペンハーゲン ビングオーグレンダール展」が京都・細見美術館で開かれている。花や虫など自然をモチーフにした作品の中に、当時欧州でもてはやされたジャポニズムの影響を垣間見ることもできる。

   

 ロイヤルコペンハーゲンの開窯は1775年、その4年後の79年に王立となった。1885年に芸術主任に迎えられたアーノルド・クローは日本の浮世絵や工芸品など日本美術に高い関心を示し、アールヌーボー絶頂期の1900年のパリ万博ではクローデザインの「マーガレット・サービス」がグランプリを獲得した。一方、ビングオーグレンダールの創設は1853年。85年に芸術主任に就いたピエトロ・クローンも日本の芸術様式を参考に自然のモチーフを積極的に取り入れた。パリ万博にはロイヤルのシンプルでおとなしい造形に対抗し、曲線や渦巻き模様、透かし彫りなど彫塑的な作品を多く出品した。1895年にはロイヤルに先駆けクリスマスプレートの製造も開始。だが1987年、ビングはロイヤルに買収され、100年以上にわたる切磋琢磨の競争に終止符が打たれた。

 同展では第1会場でロイヤル、第2会場でビングの作品を展示。ロイヤルでは一般の量産品とは別に、作家の芸術作品として認めたものを「ユニカ」(英語のユニーク)と呼び作家のサインも入れている。ユニカの中では「カタツムリ文花瓶」「ロブスター文皿」「鳥に風景文皿」などが印象に残った。当初の青色中心の作品が年代を下ると多彩な色表現になっており、絵付け技術の進歩がうかがわれる。「フィギャリン」と呼ばれる動物や人物などをかたどった小さな彫像はどれもかわいらしい。ビングの会場ではクローンの「鷺(さぎ)」をモチーフにした一連の作品が目を引いた。

 両窯の作品の製作者の肩書きなどを眺めていると、実に様々な分野の専門家が技術や文様の開発に携わってきたかが分かる。ロイヤルの技術主任クローは元々建築家、ビングのクローンも王立劇場の画家兼衣装係。ロイヤルの「結晶釉」には歴代の化学者が製作に関わったという。結晶釉は釉薬の中にある金属などの成分が、窯変のように焼成後の冷却中に結晶となって現れるもの。

 第3会場にはその結晶釉の作品などのほか、2つのそっくりな「眠り猫置物」があった。1つは京焼の錦光山宗兵衛(7代目)の20世紀前期の作品。もう1つは1958年のロイヤル製で、2つは色が少し違うものの猫の姿は瓜二つ。ロイヤルは現在もその眠り猫を製作しているが、元々はエリック・ニールセンが1902年にデザインしたものらしい。錦光山宗兵衛は何度も渡欧しており、宗兵衛の作品は「それを参考として作られたことが想像される」という。ジャポニズムはデンマークでの陶磁器づくりに影響を与えたが、また日本も欧州のアールヌーボーから影響を受けていたということだろう。

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<安曇野わさび田湧水群> 郷愁誘う日本の原風景

2012年08月21日 | 旅・想い出写真館

【名水百選、北アルプスの雪解け水が1日70万トン】

 信州・安曇野は至る所から北アルプスの雪解け水が湧いて出る。1985年には環境省の「名水百選」、96年には国土交通省の「水の郷百選」に選ばれた。湧水量は1日に約70万トン。水温は真夏でも15度を超えることがないという。その豊富で清澄な水を使って特産のワサビの栽培やニジマスの養殖が行われている。観光名所の「大王わさび農場」は東京ドーム11個分と広大。ワサビは直射日光に弱いため、晩春から夏にかけては黒い寒冷紗で覆われる。農場のすぐそばを流れるのが万水川(よろずいがわ)と蓼川(たでがわ)。底まで透き通った水を満々とたたえ、早い速度で流れていく。黒澤明監督の映画「夢」で使われた水車が今も残って、日本の原風景に懐かしさが込み上げてくる。

 

 

 

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<モミジアオイ(紅葉葵)> 夏の盛りにハイビスカスに似た鮮やかな紅花

2012年08月20日 | 花の四季

【「紅蜀葵」とも。フヨウ・ムクゲ・ケナフも同じ仲間】

 アオイ科フヨウ属の宿根草。フロリダ、ジョージアなどの北米南東部原産で、日本には明治初期に観賞用として渡来した。暑さに強く強い日差しを好む。真夏に根元から3~4本の茎が立ち上がり、高さ1~2mにもなる。花は直径15~20cmの真っ赤な5弁花で、1枚1枚離れているのが特徴。葉がモミジに似ていることからこの名がついた。葉は落ちる前、モミジのように黄色く色づく。

 朝咲いて夕方にしぼむ一日花だが、次々と長い間花をつける。夏期は8~9月。同じ仲間にフヨウやスイフヨウ、ブッソウゲ(ハイビスカス)、ムクゲ、ケナフ、オクラなどがある。アオイ科植物はオシベとメシベが合着し花の中央から突き出る特徴を持つが、モミジアオイはその蕊柱(ずいちゅう)と呼ばれる赤いシベがとりわけ長い。先端でメシベが5つに分かれ、その下に無数のオシベが群がる。

 近縁種のアメリカフヨウとの交配種が次々に生まれており、花の色は赤のほか白や薄いピンク、濃いピンクなどもある。花びらの形も丸みを帯びて幅広いものや角ばったものなど様々。さらに白花で真ん中が赤く、ムクゲとほとんど見分けがつきにくいものまで出てきた。モミジアオイの葉は掌状で細長いが、交配によって葉の形も多彩になっている。

   

 モミジアオイは別名「紅蜀葵(こうしょっき)」。名前がよく似て同じ頃に咲く花に「黄蜀葵(おうしょっき)」(上の写真)がある。これは同じアオイ科だが1年草で中国原産。薄い黄色の大きな花をやや下向きにつける。根に粘液を多く含むため別名「トロロアオイ」。その粘液は胃腸病などの薬用となり、和紙漉き用の糊としても使われてきた。ただ、この2種類の花、どう見ても名前ほどには似ていない。「紅蜀葵」はもちろん夏の季語。「汝が為に鋏むや庭の紅蜀葵」(高浜虚子)。虚子が孫を亡くしたことを悲しんで詠んだといわれる。

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<丹波亀山藩城下町の「惣割勘定帳」>江戸中期の〝自治会史〟70年間分 京都の古文書研究家が発見!

2012年08月19日 | アンビリバボー

【大石内蔵助の石塔建立のため山科に寄付の記載も】

 江戸時代中期の丹波亀山藩城下町(京都府亀岡市)の古文書「惣割(そうわり)勘定帳」が約70年間分そっくり見つかった。厚さ10cm前後の勘定帳が2冊。これだけ長期にわたる江戸期の惣(自治組織)の活動内容を記した古文書が見つかったのは国内で初めてとみられる。草木染の染色家で古文書研究家の上田寿一さん(京都市左京区大原)が京都市内の古書店で発見した。上田さん本人が読み下しに取り組んでおり、18日、亀岡市東竪町の自治会会議所でその中間報告会があった。記載された町名の大半は今も現存しており、200年以上前の町衆の活動の様子がくっきりと現代に蘇ってきた。

  

【1764~1835年、戸数や活動内容などを詳細に記載】

 見つかった勘定帳は明和元年(1764年)から天保6年(1835年)までの72年間分。町名や戸数、活動内容、各種取り決め、収支報告書などが和紙1枚1枚に毛筆で詳細に書かれており、当時の町衆の生活の一端を浮き彫りにしている。中には山科に大石内蔵助の石塔建立のために寄付した金額を記載されたくだりもあった。毎年、町名ごとに軒数が記入されているが、明和元年は21町合わせて959軒になっている。呉服町・紺屋町・京町・本町などほとんどの町名は今と同じ。ただ当時の亀山藩の城下町は武家衆と町衆が混住しており、軒数が町衆のみか、あるいは町衆と武家衆の合計かは今のところ不明という。

 明和元年から約5年分の勘定帳を調べると、活動内容には①宗旨人別調べ②町人に課せられる夫役の夫銀集金③殿様の送迎④殿様や町惣代・町子頭への礼銭(盆・暮れの挨拶代)⑤行き倒れ者らの世話⑥会所の修理や惣割寄り合い――などがあった。それらの総費用を軒数で割って集金しており、明和元年は1軒につき1匁(もんめ、1匁は小判1両の60分の1)、翌年は1匁2分になっていた。

【戸籍調べには6年に1回寺社奉行も出席、費用は全て町側の負担】

 宗旨人別調べはいわば年1回の戸籍調べで、上田さんによると12年に2回(子午年)の大改(おおあらため)のほか、中改、小改があったという。大改の場合、藩から役人の手代、下手代のほか寺社奉行自ら出席し、現存する正誓寺や地蔵堂などに町衆が全員集められ帳面と照合し間違いがないかなどを4日間かけて点検したそうだ。奉行への謝礼などそれにかかる諸費用は全て自治組織持ち。町の財政が苦しい時には大改を中改に変えてもらった年があったことも分かった。

 勘定帳には「覚(おぼえ)」として詳細な取り決めも記していた。何か出費がある場合、有力者に立て替えてもらい、年度末の精算までの間の利息を払う。その仮払いを「控(ひかえ)」と呼び、「覚」は「控銀利息」として「月1分2厘とするが、小物の分は無利子とする」と定めている。上田さんは「江戸時代、幕府は年2割の利息を限度としていた。勘定帳の控銀利息からも金利は今とあまり変わらないことが分かる」という。

【1年間の主な出来事が分かる収支報告書】

 「覚」には「役人の御見分の時、昼食夕食は軽いものとし、その費用は15匁以内」「役人より無心があった時、正当なもので100~150匁であれば、名主相談の上、半分は惣割勘定に入れてもよい」といったことも明記していた。行き倒れ人があった場合は「すぐ役人に知らせ、もし死亡した時は差図(さしず)を受け、名主立ち会いの上処置する。費用の半分は惣割勘定へ入れること」。藩外から来て行き倒れで亡くなる人は多い年には約20人に上ったという。

 明和元年の収支報告書を見ると「殿様献上干し鯛50枚代 100匁」「殿様ご病気に付き矢田護摩代 3匁」「殿様御葬礼(11月20日没)道作り人足賃」などの項目があった。朝鮮通信使の接待に関する記述も見られる。報告書からは1年間の主な出来事なども分かるというわけだ

 

【都名所図会にも山科に内蔵助の古蹟】 

 忠臣蔵の大石内蔵助の石塔については、寛政8年(1796年)10月の項に「拾五匁五分 京山志奈 大石蔵之助 石塔勧化」(上の写真㊧)という記載が見つかった。勧化(かんげ)は堂塔を建立・修理するために寄付を募ること。内蔵助は討ち入りの前の1年余り山科に隠れ住んだ。討ち入りが1702年、切腹し果てたのが翌03年だから、寄付は90年余り後のことになる。「拾遺都名所図会」(写真㊨)にも「山科大石古蹟」として石碑が描かれている。ただ、この図会が作製されたのは寄付した年より前に遡る。上田さんは「もっと詳しく検証する必要があるが、石塔完成後に寄付のお願いがあったのかもしれない」と話す。

 上田さんは約10年前に自ら設立した「大原古文書研究会」の代表を務める。古文書を読みこなすのは素人にとって容易ではないが、「丹念に繰り返し目を通すと判読できようになる」という。「惣割勘定帳」は亀岡市東竪町の古文書解読講座の講師を務めていた縁もあって、古書店で目に止まって購入した。「古文書を読むということは現代にどうつながっているかということを探ること」と上田さん。これまでに勘定帳の半分強の40年分に目を通したという。解読が進むと、またサプライズの新事実が浮かび上がってくるかもしれない。

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<横山大観展> 初期の「小春日」「無我」から最晩年の「山川悠遠」まで

2012年08月18日 | 美術

【足立美術館の大観コレクションから41点を精選】

 ジェイアール京都伊勢丹の美術館「えき」で「横山大観展」(9月2日まで)が始まった。国内随一の足立美術館(島根県安来市)の大観コレクションの中から、出世作の「無我」から、大観芸術の集大成といわれる海・山二十題のうち「海潮四題・秋」と「霊峰四趣・夏」、最晩年の「山川悠遠」まで41点を展示、気品にあふれた大観の画歴を年代を追って展観できる構成になっている。

   

 最初に展示されていたのは「牧童」「無我」「小春日」など20~30歳代の作品。このうち「小春日」の雅号だけが「秀麿」(本名)になっていた。25歳の時の作品なので「大観」を使い始める前だったのだろう。「那智之瀧」は墨の濃淡で滝のしぶきを表現し、今にも滝の音が聞こえそうな感じ。京都・愛宕神社の秋の参道を俯瞰した「愛宕路」は楓の紅葉と緑の赤松があざやかなコントラストを織り成す。真ん中の少し下にはつがいの山鳥。「冬の夕(ゆうべ)」(上の写真)は雪をかぶった椿の花の赤と仲良く寄り添う雀の姿が印象的だ。

   

 二つ折れの屏風が対になった「春風秋雨」は、桜の花に金泥のぼかしで春の嵐を表し、楓の上に金泥を斜めにさっと刷いて秋雨を表していた。春図の下には愛らしいタンポポが3つ。「麗日」は砂浜に土筆やタンポポ、大きなハサミを持つカニを描いたもので、何とも微笑ましい構図。「霊峰四趣・夏」(上の写真)は72歳、昭和15年の作品で、雲の間から少し雪が残る青い富士が姿を見せる。この作品を含む山・海二十題は1点当たり2万5000円という当時としては破格の値が付き、大観はその全額50万円を陸・海軍省に寄付したという。陸軍省と海軍省はその恩に報いるため戦闘機など4機を「大観号」と命名したそうだ。

 大観は東京美術学校(現東京芸大)入学以来、岡倉天心を師と仰いだ。「国粋主義者」とも称された岡倉の影響もあってか、大観の作品には日本の象徴である富士山を描いたものが多い。「神国日本」は昭和17年、74歳の時の作品。悠然とそびえる富士の左奥から真っ赤な朝日が昇る。これに「不二霊峰」「海上日出」などの作品が続き、最後に89歳の時病床で描いた「山川悠遠」が展示されていた。岩に打ち寄せる波と群れ飛ぶカモメ(?)。この後描いた「不二」が大観の絶筆となり、翌年の1958年2月26日、89年3カ月余の生涯を閉じた。

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<BOOK> 「アジア実力派企業のカリスマ創業者」

2012年08月17日 | BOOK

【近藤伸二著、中央公論新社刊】

 帯のタイトルに「彼らが成長し、我らが衰退する理由」。彼らはアジアの元気あふれる企業経営者、我らは「失われた20年」の中ですっかり影が薄くなった日本の企業経営者を指す。今年2月、京セラの稲盛和夫名誉会長は講演「日本の経済社会の再生と国家のあり方」の中で、日本の経営者に必要なのは「『絶対に負けるものか』というガッツ、つまり『燃える闘魂』を持つことだ」と強調したという。本書からもバイタリティーあふれるアジアの企業創業者8人の奮闘ぶりを紹介することで、日本の経営者にカツを入れたいという熱い思いが伝わってくる。

   

 著者は1956年神戸市生まれ。神戸大学卒業後、毎日新聞に入社し、現在論説副委員長(大阪在勤)。この間、香港支局長、台北支局の初代支局長、経済部長などを務め、約20年間にわたりアジア経済を広く深く取材してきた。取材を重ねる中で、アジアの経営者が「欧米にはない柔軟性やしたたかさといった特性を備え、既成のルールや概念に縛られず、時には型破りとも思えるほど発想が自由」なことを痛感したそうだ。

 カリスマ創業者の一番手として取り上げたのは台湾の鴻海精密工業(ホンハイ)を率いる郭台銘(1950年生まれ)。ホンハイは世界最大のEMS(電子機器の製造受託サービス)企業で、日本のシャープにも出資する方向で基本合意したばかり。郭台銘は積極的なM&A(企業の合併・買収)の手法を駆使して業容を拡大してきた。「まさに現代チンギス・ハン」と評する同業者もいるそうだ。台湾企業の経営者が選んだ「最も敬服する経営者」ランキング(2005年)では、台湾プラスチックグループ創業者の王永慶(08年死去)に次いで2位に選ばれている。王はその経歴などから「台湾の松下幸之助」「経営の神様」と呼ばれていたという。

 中国・台湾の創業者では郭台銘のほかに、台湾のパソコンメーカー宏碁(エイサー)の施振栄(1944年生まれ)、世界最大のファウンドリー(半導体受託生産会社)台湾積体電路製造(TSMC)の張忠謀(1931年生まれ)、世界第2位の通信機器メーカー、中国の華為技術(ファーウェイ)の任正非(1944年生まれ)、リチウムイオン電池メーカーの比亜迪(BYD)の王伝福(1966年生まれ)の4人を取り上げている。

 このうち施振栄は父が3歳の時に亡くなり、母がアヒルの卵や文房具を売って家計を支えたという。台湾のパソコンメーカーでは数少ない自社ブランド戦略を進めたが、宣言通り60歳で第一線を退き、今はベンチャーキャピタルの会長を務める。張忠謀は中国浙江省生まれだが、少年時代、日本軍の戦火に追われ香港、上海、重慶などを転々としたという。今では「台湾半導体の父」と呼ばれている。

 任正非は人民解放軍出身という異色経営者。中国各省の中で最も貧しいといわれる貴州省安順で7人兄弟の長兄として生まれ、貧しさから高校を卒業するまでシャツを着たことがなかったという。王伝福は8人兄弟の下から2番目だったが、父は13歳の時に病死、母も中学卒業試験の日に亡くなった。20代で電池事業に乗り出した王は中国で「電池大王」の異名をとり、30代で自動車産業に参入した。

 本書では最終の第6章「東南・南西アジアのカリスマ創業者たち」で、アジア太平洋最大のLCC(格安航空会社)エアアジア(マレーシア)のトニー・フェルナンデス(1964年生まれ)、アジア版「水メジャー」のハイフラックス(シンガポール)のオリビア・ラム(1960年生まれ)、バイオ医薬品大手のバイオコン(インド)のキラン・マズムダル・ショウ(1953年生まれ)の3人を取り上げた。エアアジアは今年2月現在で日本を含め24カ国・地域の80都市に165路線を開設している。オリビア・ラムは「水の女王」、マズムダルは「バイオの女王」と呼ばれ、2人とも「日経アジア賞」(経済発展部門)を受賞するなど、経営者として高い評価を得ている。

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