く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<チガヤ(茅/茅萱)> 茅の輪、茅葺き、止血・消炎…

2022年05月31日 | 花の四季

【旺盛な繁殖力、〝世界最強の雑草〟とも】

 アジアやアフリカなど世界の暖帯に広く分布するイネ科チガヤ属の多年草。日当たりのいい野原や土手、道端などでごく普通に見られる。草丈は30~80cmで、5~6月ごろ茎の先に円柱状の花穂(長さは10~20cm)を立てる。初めは赤紫色を帯びるが、やがて白く光沢のある毛が密生した小穂が開き尾状になる。若い花穂を「茅花(つばな)」と呼び、群生し一面を覆う様子を「茅花野」という。草丈の低いチガヤで覆われた野原は「浅茅原(あさじはら)」。

 チガヤは分類学的にはサトウキビに近く、若い穂にはほのかな甘味がある。最古の歌集万葉集にはチガヤを詠み込んだ歌が20首以上あるが、中には紀郎女が大伴家持に贈ったこんな歌も。「戯奴(わけ)がためわが手もすまに春の野に 抜ける茅花ぞ食(め)して肥えませ」(巻8-1460)。チガヤは古来その繁殖力の強さから呪力を持ち厄除け効果があると信じられてきた。今も続く風習の一つが夏越の祓(6月30日)での「茅の輪くぐり」。チガヤやススキで編んだ輪をくぐって半年間の罪穢れを除き今後の無病息災を願う。ササの葉で包む粽(ちまき)も元々はチガヤでくるんだ「茅巻き」に由来するという。根茎は生薬「茅根(ぼうこん)」として利尿薬や消炎薬などに使われてきた。若い花穂には止血作用も。家畜飼料や縄・草履などの材料としても用いられた。

 一方で旺盛な繁殖力を持ち分布域を広げてきたチガヤは〝世界最強の雑草〟としても恐れられている。国際自然保護連合は「世界の侵略的外来種ワースト100」をリストアップしているが、チガヤは日本在来のクズやイタドリなどとともにそこに掲載されているのだ。このリストには意外にも海産物のワカメも含まれている。ワカメを食べる習慣があるのは日本と朝鮮半島に限られ、海外では海の生態系を壊すものとして警戒されている。チガヤには葉先が鮮やかな赤紫色で盆栽や山野草の寄せ植えなどに用いられる「ベニチガヤ(紅茅)」という園芸品種もある。「三日月のほのかに白し茅花の穂」(正岡子規)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ソプラノ藤井玲南> ギター大萩康司と初共演

2022年05月29日 | 音楽

【イタリア古典歌曲やバッハ・グノーのアヴェ・マリアなど】

 ソプラノの藤井玲南とギター大萩康司のデュオリサイタルが5月28日、奈良県コンベンションセンター(奈良市)の天平ホールで開かれた。今年で10回目を迎えた音楽の祭典「ムジークフェストなら2022」の一環。「奈良は修学旅行以来」という藤井は、大萩の洗練されたギター伴奏に乗せて透明感あふれる歌唱を披露した。初共演とは思えない息の合った名演で、ピアノ伴奏とはまた違った味わいがあった。

 藤井は東京芸大卒業後渡欧して研鑽を積み、ドヴォルザーク国際声楽コンクール、日本音楽コンクールなど内外で入賞を重ねてきた。三大テノールの一人ホセ・カレーラスと共演したこともあるという。一方、大萩も高校卒業後に渡欧し、フランスやイタリアの音楽院で学んだ。中世音楽から現代曲までレパートリーの広さに定評があり、NHKの「ららら♪クラシック」などテレビの音楽番組にも多数出演している。

 リサイタルはまずイタリアの古典歌曲「私の偶像のそばに」「カーロ・ミオ・ベン」など3曲から始まった。抑制の利いた伸びやかな高音が印象的だった。この後、大萩が持参した名器プーシェなど3本のギターを取り替えながらソロ演奏。中世の「アリア」「白い花」など4曲(作曲者不詳)とヴィンチェンツォ・ガリレイ作曲「歌と舞曲」を披露した。この人物は天文学者ガリレオ・ガリレイの父親に当たるとのこと。この後、藤井が再び登場し、マウロ・ジュリアーニ作曲「6つのアリエッタ」から4曲を熱唱した。バッハ・グノーの「アヴェ・マリア」とプーランク「愛の小径」のアンコール2曲も秀逸。わずか1時間ほどだったが、心に残る爽やかなコンサートだった。

【沖縄DAY りんけんバンドも登場】

 奈良県コンベンションセンターではこの日「沖縄DAY 命薬(ヌチグスイ)・唄薬(ウタグスイ)~音楽は生きる力」と銘打つコンサートもあった。会場は天平ホールより広いコンベンションホール。第1部には新良幸人やゆいゆいシスターズなど、第2部には琉球國祭り太鼓奈良支部とりんけんバンドが登場した。

 りんけんバンドの演奏を聴くのは2016年6月の春日野園地でのイベント「沖縄音楽とエイサー」以来。ボーカルの上原知子の透き通った歌声はなお健在だった。まさに希代の歌姫。とても60歳代には思えなかった。その秘訣は? ネットのインタビュー記事には「とにかく毎日声を出すこと。それに尽きます」とあった。夫でリーダーの照屋林賢については「夫婦というより同志というほうが近い」とのこと。人気曲「ポンポンポン」「乾杯さびら~ありがとう」などリズミカルで力強い演奏が続いた。ただ掛け声や指笛はご法度。もちろん立ち上がっての手踊りカチャーシーも。コロナのせいで会場の盛り上がりがいまひとつだったのが少し残念だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ジャーマンアイリス> 和名ドイツアヤメ、原産地は不詳

2022年05月28日 | 花の四季

【カラフルで豪華な花姿、米国中心に続々と新品種】

 アヤメ科アヤメ属の多年草で、学名は「Iris germanica(イリス・ゲルマニカ)L.」。属名のイリスは「虹」のことで、ギリシャ神話の虹の女神イリスに因む。ゲルマニカは「ドイツの」。この種小名からドイツ原産と思われがちだが、原種や原産地ははっきりしていない。地中海沿岸などヨーロッパのいくつもの野生種が交雑する中で生まれた。学名後尾の「L.」は命名者が〝分類学の父〟といわれるスウェーデンの生物学者カール・フォン・リンネ(1707~78)であることを示す。たまたまドイツから持ち込まれたためリンネがドイツ産と勘違いして命名した結果、後にジャーマンアイリスの名前で世界に広がったといわれる。

 日本には明治時代の1900年前後に米国から渡ってきたらしい。和名のドイツアヤメは学名や英名の直訳。ただ今では国内でもジャーマンアイリスの名前が広く定着している。ハナショウブ(花菖蒲)が湿地に生えるのに対し、ジャーマンアイリスは逆に加湿を嫌い乾燥した環境を好む。和風でやや控えめなハナショウブに対し、ジャーマンアイリスは花が大ぶりで派手な印象。花弁6枚のうち内側の花被片3枚は立ち上がり、外側の3枚は垂れ下がる。その中央付け根近くにヒゲやブラシ状に毛が密生するのが大きな特徴。そのため「ビアデッド(ヒゲ)アイリス」とも呼ばれている。

 花の色は白・黄・紫・青・茶・橙・ピンクなど多彩。加えて学名イリスの語源からか、ジャーマンアイリスは「レインボーフラワー(虹の花)」とも称されている。内と外の花弁の色も単色のほか、上下で異なってコントラストが美しい品種も多い。花びらにフリルが付いたものなどもあって花姿は変化に富む。品種改良の主体は初めドイツやフランス、英国などヨーロッパ勢だったが、1900年代以降は栽培熱の高い米国に移っていく。今では年間300~400もの新品種が作出されているという。米アイリス協会は約100年前の1927年「DM賞(ダイクスメダル)」を創設、最優秀の1品種に毎年このメダルを授与している。アイリスの分類と品種改良に貢献したウィリアム・ダイクス氏の功績を讃えて設けられた賞で、ハナショウブも含め根茎アイリスの育種家たちにとって最大の目標になっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<アシスタシア> 総状花序に可憐な筒状花

2022年05月26日 | 花の四季

【熱帯地域に約70種、別名に「赤道桜草」など】

 アシスタシアはキツネノマゴ科アシスタシア属の植物の総称。東南アジアやアフリカ、太平洋諸島などの熱帯地域に70種ほどが分布する。ツル性の常緑多年草で、草丈は60~150cm。総状花序に直径2~4cmの紫やピンク、白などの可憐な筒状花を付ける。花冠は星型に5裂する。熱帯植物のため暑さに強いが、寒さには弱い。このため日本では温室で栽培され、屋外栽培の場合は寒くなる頃室内に取り込む必要がある。1年草扱いされることも多い。(写真はアシスタシア・イントルサ)

 属名のアシスタシアは「a(否)」と「systasia(一致する)」の合成語で、「一致しない」や「矛盾する」などを意味する。これはキツネノマゴ科の植物の中でアシスタシア属の花姿が異なっていることからの命名。キツネノマゴ科でよく知られた植物には日本に自生するキツネノマゴやスズムシバナのほか、アカンサス、コエビソウ、ヤハズカズラなどがある。アシスタシアの別名は「セキドウサクラソウ(赤道桜草)」。園芸業界では「タイノオモイデ(タイの思い出)」の名前でも流通している。

 アシスタシアの代表種が「intrusa(イントルサ)」。単に「アシスタシア」と呼ぶ場合この種を指すことも多く、英名では「コモン・アシスタシア」と呼ばれる。コモン(common)は「普通の/共通の」の意。タイやマレーシアなどの一部では若葉や茎、根が食用や民間薬として利用されているという。「gangetica(ガンゲティカ)」種も人気。この種小名は「ガンジス川の」を意味する。沖縄では野生化して帰化状態にあるそうだ。「scandens(スカンデンス)」種はリビア、ギアナなどアフリカ西部原産。こちらの種小名は「よじ登る性質の」を意味している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<平城宮跡資料館> 春期特別展「保存運動のあけぼの」

2022年05月23日 | 考古・歴史

 【史跡指定100周年・奈文研発足70周年を記念し】

 奈良時代が終わって都が京都に遷って以降、平城宮跡は長く田畑になって見る影もなくなっていた。その宮跡の保存運動が急速に高まるのは1900年代の初め。当時の都跡(みあと)村の有志が1901年(明治34年)第二次大極殿の土壇跡に標木(ひょうぼく)を建てたことが運動の魁(さけがけ)となった。今年は平城宮跡の史跡指定から節目の100周年。発掘調査を担う奈良文化財研究所も発足70周年を迎えた。奈文研はそれを記念して平城宮跡資料館で春期特別展「未来につなぐ平城宮跡-保存運動のあけぼの」を開いている(会期は6月12日まで)。

 会場には2本の標木や当時の運動の様子を物語る関係資料が多数展示されている。それらは既に失われていたとみられていた貴重なものばかり。近年地元の旧家に保存されていることが分かり、奈文研に昨年寄贈された。標木2本は1901年設置のものと、1910年の「平城奠都(てんと)1200年祭」の時に立てられたもの。いずれも上下2つに切断され一部が欠けていた。材質はどちらもヒノキ材。前者は「(平城)宮大極」「殿舊址」、後者は「平城宮址記」「(念)碑建設地」という文字が刻まれている(カッコ内は欠損部分)。

 1901年の標木関係では建設の経緯や見取り図を記した「平城宮大極殿旧址建標録」や「建標趣旨書」「建標式挙行案内状」などの書類も展示中。「建標計画書」によると標木の高さは2間(約3.6m)。「地ならし人夫記」には延べ150人の参加者の名が記され、「建標寄付金量収帳」には村の各大字から寄せられた寄付額が書かれている。建標式の招待者は知事をはじめ約200人だったが、当時の新聞記事によると、参観者も合わせると700~800人に上ったという。地元の人々の熱気が伝わってくる。招待者の中には後に保存運動に奔走した棚田嘉十郎の名前も。棚田はこの時、平城宮跡に植える楓と桜を寄付していた。

 標木を建てるため大極殿の土壇に穴を掘った際、天平年間(729~745年)製作の軒平瓦が出土した。その瓦は保存運動の関係資料とともに木箱に納められ保存されていた。箱の蓋の裏面には出土の経過などに続き「後世大切ニ保存スヘキモノナリ」という墨書。建標後、地元では平城宮跡に「平城神宮」を建設する計画が持ち上がった。尊王思想が盛り上がりを見せる中、1890年に橿原神宮、1895年には平安神宮が創建されており、そうした時流の中での構想浮上だった。展示資料の中には「平城神宮建設会会則」もあった。しかし田畑をつぶしての大規模な神社の創建には反対の声もあって、建設会の活動は数年で行き詰ってしまった。

 その後、私財を投げ打って平城宮趾の保存・顕彰運動の先頭に立ったのが植木職人の棚田嘉十郎。「平城奠都1200年記念祭」の開催や2本目の標木設置も彼の尽力によるところが大きい。標木の文面「平城宮址記念碑建設地」には、いずれは石製の記念碑を建てるという強い思いが込められていた。その標木設置から3年後の1913年には東京で「奈良大極殿趾保存会」も発足した。だが、生涯を保存活動に注いできた棚田は1921年、突然自ら命を絶つ。用地買収に伴う人間関係のトラブルが原因といわれる。平城宮跡が国の史跡に指定されたのはその翌年の22年。さらに1952年には特別史跡へ格上げされ、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)も発足した。いま朱雀門そばの平城宮いざない館の前には棚田の銅像が立つ。左手に持つのは出土した瓦、右手が指差すのは標木を立てた大極殿の方向だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<国史跡「頭塔」> 破石町バス停から〝丸見え〟

2022年05月21日 | 考古・歴史

【ホテル撤去で駐車場に 「見学の方はご自由に」の掲示も】

 奈良市高畑町の住宅街の一角に〝奈良のピラミッド〟と呼ばれる方形7段の土塔がある。その名は「頭塔」。大きさは基壇の一辺が約32m、高さは約10m。ちょうど100年前の1922年(大正11年)に国の史跡に指定された。先日、市内循環バスに乗るため破石町バス停へ。そこで背後の西側に目を向けると、広い更地の先に頭塔が丸々姿を見せていた。以前は大きなホテルの陰に隠れ、バス通りからはほとんど見えなかった。ところが新型コロナの直撃を受けたホテルが休業の末、昨年の夏に解体されたとのこと。以来、市民や観光客が立ち寄っては写真に収めているそうだ。

 頭塔があるのは東大寺の南大門から南へ約1キロ。奈良公園の観光名所の一つ、浮見堂からも程近い。バス停前の更地はロープなどで囲まれていた。ただ、ありがたいことに入り口に「無料駐車場 史跡『頭塔』見学の方はご自由にお入りください」という不動産会社名の掲示があった。頭塔には十数年前一度訪れたことがある。その時は管理する近くの方に声を掛け保存協力金300円を払って鍵を開けてもらい見学デッキを巡った。その際もらったパンフレットをスクラップブックに挟んでいたはず。だけど断捨離で他のパンフ類と一緒に処分したかも。そう思いながら今朝探すと、あった!

 頭塔には奈良時代の僧玄昉の頭を埋めたという伝説がある。それが名前の由来になっているとも。だがパンフの記述は〝玄昉首塚説〟をこう否定していた。「本来の土塔(どとう)がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれるようになったものと思われます」。東大寺の古文書から二月堂の修二会「お水取り」を始めた僧の実忠が767年に築いたとみられ、その役割については「五重塔などと同じように仏舎利を納める仏塔と考えられます」とのこと。

 奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)は1986年から十数年がかりで発掘調査を行った。その結果、第1~7の奇数段の土壇4面にそれぞれ11基ずつ(下から5・3・2・1基)、計44基の如来坐像などの石仏が配置されていた可能性が高いことが分かった。これまでに確認された石仏のうち22基が国の重要文化財に指定されている。失われた石仏の1基は郡山城の石垣に転用されていたことも分かった。奈良県教育委員会は北側の半分を復元整備し見学デッキや解説板などを設けて公開中。原則事前予約制だが、春と秋の特別公開中は予約なしで見学できる。南側半分は現状保存ということで樹木が生い茂ったままになっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ブタナ(豚菜)> ヨーロッパ原産の帰化植物

2022年05月19日 | 花の四季

【別名「タンポポモドキ」細長い花茎に黄花】

 キク科エゾコウゾリナ属の多年草。原産地はヨーロッパで、日本には昭和初期に牧草や穀物飼料に混入して渡ってきたといわれる。今では世界各地に帰化植物として広がっており、国内でも空地や公園、野原、河川敷などでごく普通に見られる。花期は5~9月頃。高さ30~60cmの細長い花茎を立ち上げ、途中で2~3本に分岐してそれぞれの茎頂に直径3~4cmのタンポポに似た黄花を1つずつ付ける。根出葉はロゼット状に地面に広がり、踏み付けや刈り取りに耐え寒さにも強い。白い綿毛が付いた種を風で飛ばして仲間を増やす。

 ブタナ(豚菜)の名前はフランスの俗名「Salada de pore(豚のサラダ)」をそのまま訳したもの。約90年前の1933年に北海道の札幌で最初に見つかった時はその花姿から「タンポポモドキ」という名で報告された。しかし神戸の六甲山で翌年見つかった際にはブタナに。それがこの植物の標準和名になっている。ただ風にそよぐ可憐な花を見ていると、ブタナという名前は少々気の毒にも思えてくる。よく似たタンポポに比べると、草丈が高い、花茎が分岐、花期が遅いといった違いがある。若葉はサラダなどとして食用に、乾燥した根はタンポポ同様コーヒーとして飲用できるそうだ。

 ブタナが属するエゾコウゾリナ属には世界の温帯に50種ほど分布するが、日本の在来植物は北海道・日高地方のアポイ岳など生息域が限られるエゾコウゾリナの1種だけ。近い将来の絶滅が懸念されており、環境省は絶滅危惧ⅠB類としてレッドリストに掲載している。それにしてもエゾコウゾリナというややこしい名前はどこから? エゾの「蝦夷」はともかく、分かりにくいのはその後ろのコウゾリナ。この植物は茎などに黒い剛毛が密生するのが特徴。その様子が髭剃り跡のようにザラザラしていることから初め「顔剃菜(カオソリナ)」と呼ばれ、それがやがて「コウゾリナ」に変化したという。ちなみに学名(属名)は「Hypochaeris(ピポカエリス)」。その属名は「hypo(-のため)」+「choeros(子豚)」から来ているそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<平城宮いざない館> 万葉植物画展~アートと万葉歌の出逢い

2022年05月18日 | 絵暦

【77作品+山中麻須美「奇跡の一本松」特別出展】

 最古の歌集「万葉集」には約4500首のうち3分の1に当たる約1500首に植物が詠み込まれている。その種類は海藻類を含めると160種。それらのほぼ半数の77種を描いた〝ボタニカルアート〟の展示会が3月26日~5月18日、平城宮跡歴史公園(奈良市)の平城宮いざない館で開かれた。題して「万葉植物画展~アートと万葉歌の出逢い」。77作品に加え英国キュー王立植物園の専属ボタニカルアーティスト山中麻須美さんが描いた「奇跡の一本松」も特別出展されていた。同展は今後、長野や東京など各地を巡回する。

 作品制作の中心となったのは「日本植物画倶楽部」の会員たち。同倶楽部は植物画の愛好者が集まり1991年に発足した。これまでに『日本の帰化植物図譜』や『日本の固有植物図譜』なども刊行している。会員が描いた万葉植物画はフジ、ハス、ネムノキ、ヒメユリ、オミナエシ、サネカズラなど75点。これにキュー植物園の主席画家クリスタベル・キングさんに描いてもらったカラタチと山中麻須美さんが描いたカツラの2点を加えて展示した。

 それぞれの作品の下にはその植物が登場する万葉歌と解説文。例えばヤブツバキには「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を」(坂門人足)、アシビには「磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといはなくに」(大伯皇女)の歌が添えられていた。いずれの作品もリアルで細密な描写は目を瞠るばかり。中でもキュー植物園の2人の作品はさすが一級のプロ、としばし見入ってしまった。主席画家のキングさんは世界で最も権威のある植物画雑誌『カーティス・ボタニカル・マガジン』(1787年創刊)に40年以上執筆を続けているそうだ。

 山中さんは2007年に日本人として初めてキュー植物園の公認画家となった。19年には英国王立園芸協会主催の植物画コンクールで審査員も務めている。いつだったか、山中さんの活躍ぶりを紹介するテレビ番組を見たことがあった。「奇跡の1本松」は2人の万葉植物画の左側に展示されていた。東日本大震災の復興のシンボルとなっていたこの1本松を描いたのは6年前の2016年3月。その後、キュー植物園から「高田松原津波復興祈念公園」内の国営追悼・祈念施設に寄贈された。今回はそれを借りての特別展示。無数の松葉の一つひとつに山中さんの思いが込められているのを感じながら、顔を近づけては離れを繰り返しながら何度も拝見させていただいた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<関西フィル> ラフマニノフ「ピアノ協奏曲2番」

2022年05月16日 | 音楽

【奈良出身の原田莉奈、渾身の名演奏】

 関西フィルハーモニー管弦楽団の演奏会が5月15日、奈良県文化会館(奈良市)で開かれた。この日は県内各地で音楽イベントが22日間にわたって展開される「ムジークフェストなら2022」の開幕日。関西フィルのコンサートは東大寺大仏殿でのオープニングコンサートに続いて行われた。会場の国際ホール(約1300席)は満席の盛況。演奏会は映画音楽2曲から始まった。行進曲風のバリー・グレイ作曲「サンダーバードのテーマ」と、弦楽器だけによる哀愁を帯びたミシェル・ルグラン作曲の「シェルブールの雨傘」(いずれも川上肇編曲)。

 観客が最も楽しみにしていたのは続くラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」だろう。この曲も映画ファンにはお馴染み。「逢びき」「旅愁」「七年目の浮気」などで使われ、さらにアニメ「のだめカンタービレ」でも。フィギュアースケートでもしばしば使用されてきた。2009年ヴァン・クライバーン国際コンクールのファイナルで辻井伸行が弾いた優勝曲でもある。しかも今回ピアノを演奏するのが地元奈良市出身の原田莉奈さん(25)。東京芸大の大学院3年生だ。第15回ローゼンストック国際ピアノコンクール2位(1位なし)など受賞歴も豊富。既にベルリン芸術大学ソロピアノ科修士課程に合格しており、9月からはドイツへの留学が決まっている。

 その演奏を間近で聴きたいとチケット発売初日に最前列の席を確保した。しかも鍵盤を操る手の動きがよく見える中央の少し左側の席。舞台の前面に置かれたピアノのスタインウェイまで5mもない至近距離だった。指揮の藤岡幸夫が演奏前「安定して揺るぎない技術。今後さらに進化していくだろう」と原田さんを評していた。その言葉通り難曲を難曲と思わせない高度な技巧で、強弱・緩急のメリハリが利いた名演奏だった。特に第2楽章の甘くせつない響きと第3楽章終盤の壮大で力強い演奏は圧巻。満場の客席から温かい拍手が鳴り止まなかった。

 原田さんが公演でこの2番を弾いたのは4年ぶりとのこと。「曲の解釈や体力的に変わってくるが、今後もその時々のベストを尽くして勉強を重ねていきたい」。その真摯な姿勢が自信にあふれた演奏にも表れていた。この国際ホールの舞台に上がったのは中学時代以来とも話していた。会場には家族や知人らも多く駆け付けていたに違いない。アンコールはリストの「ラ・カンパネラ」。来年1月8日にはドイツから一時帰国して京都でリサイタルを開くそうだ。休憩を挟んで後半の演奏曲はベートーベン「交響曲第7番」。こちらも藤岡の躍動的な指揮に加えコンサートマスター岩谷祐之(奈良県天理市出身)の統率力もあって、一糸の乱れもない素晴らしい演奏だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<奈良市写真美術館> 没後30年入江泰吉「文楽」展

2022年05月15日 | 美術

【約80年前に撮影した入江の出世作】

 奈良市写真美術館(高畑町)は冠に「入江泰吉記念」と付くのが正式名。奈良市出身の写真家入江泰吉(1905~92)の没後、全作品約8万点が寄贈されたのを機に1992年に開館した。入江は戦後、大和路の風景や草花、仏像などを撮り続けたが、終戦前までは大阪で写真店を営んでいた。近くに「人形浄瑠璃文楽座」があった。知人の紹介でそこに通い続けて撮った「文楽」シリーズは彼の出世作となった。その「文楽」の代表作を一堂に紹介する〝回顧展〟が開かれている(6月26日まで)。

 入江が初めて文楽に興味を抱いたのは、知人の洋画家から文楽人形の撮影を頼まれたのがきっかけ。それを機に1939年から約5年間、四ツ橋にあった文楽座に足繁く通った。そこで入江が精魂を傾けて撮った写真が館内の壁面を埋め尽くしていた。『壷坂霊験記』のお里、『鬼一法眼三略巻』の武蔵坊弁慶、『伊達娘恋緋鹿子』の櫓のお七……。原寸大の人形のかしらのほか「文楽座」の外観や楽屋、人形部屋、練習中の人形遣いを撮った写真なども。展示作は総数400点以上に上る。文楽座は1945年3月の大阪大空襲で焼失した。それだけに入江の作品は当時を伝える歴史的資料としての価値も高い。

 作品の中には人形と遣い手を収めたものも少なくない。吉田文五郎が操る『妹背山婦女庭訓』のお三輪(写真㊧)や『艶容(あですがた)女舞衣』のお園、吉田栄三が操る『冥途の飛脚』の忠兵衛など。それらの愛憎の表情は人形遣いによってまさに息を吹き込まれたかのよう。文五郎は女形遣いの名手として人気を集め、戦後芸術院会員に推挙され文化功労者にも選ばれた。一方、栄三も座頭として長く活躍したが、終戦の年、疎開先の奈良で亡くなっている。「私が文楽に熱中していたころは三業(さんぎょう=太夫・三味線弾き・人形遣い)の名人がそろっていて、昭和の全盛時代であった」(『入江泰吉写真全集6 文楽回想』)。入江はそう振り返っている。

【ピアソンコレクション展「須田一政」同時開催】

 奈良市写真美術館では「禅フォトギャラリー」(東京・渋谷)代表マーク・ピアソン氏(英国出身)のフォト・コレクション展の第2弾として「須田一政」展を同時開催中。須田一政(1940~2019)は寺山修司主宰の劇団「天井桟敷」の専属カメラマンとして活躍した後、フリーランスとなり国内各地を巡って庶民の日常風景をスナップ写真に収めた。土門拳賞、日本写真協会賞作家賞・国際賞など数々の賞を受賞している。

 今回は初期の作品『風姿花伝』をはじめ『民謡山河』『物草拾遺』『わが東京100』などの作品約220点を展示中。『風姿花伝』や『民謡山河』シリーズには山形・花笠まつり、浅草・三社祭、埼玉・秩父の夜祭り、富山・八尾のおわら風の盆など、各地の祭りの一こまを切り取った作品を多く含む。そこに登場するのはごく普通の人々の柔らかな表情。須田は「歌舞伎や謡曲とは異なり、祭りを伝承する人はまったくの一般人だ……祭りは生と死が織り成す汗にまみれた襷(たすき)によって過去と未来をつないでいる」と書き残している。寺山修司の若き日の写真も。「天井桟敷」を立ち上げて間もない頃だろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ムギ(麦)> 古く大陸から渡来した五穀の一つ

2022年05月12日 | 花の四季

【奈良時代には各地で栽培、万葉集にも2首】

 イネ科の1年草または越年草で、米・稗(ヒエ)・粟(アワ)・豆とともに「五穀」の一つに数えられている。麦は大麦、小麦、燕麦、ライ麦などの総称。原産地は中央アジア~西アジアの高原地帯で、乾燥や寒さに強い。日本には弥生時代に中国から朝鮮半島を経てまず大麦が伝わり、少し遅れて小麦が入ってきた。登呂遺跡(静岡市)など弥生時代の遺跡からは炭化した麦の粒が見つかっている。鎌倉時代以降、麦は稲の裏作物として国内各地で広く栽培されるように。かつては麦といえば利用範囲が広い大麦を指した。一説によると、大麦の「大」にも小麦より「価値が大きい/上等」といった意味が込められているという。大麦には実が6列に並ぶ六条大麦(小粒大麦)と2列の二条大麦(大粒大麦)があり、六条は主に北陸や関東以北、二条は九州など西日本で多く栽培されている。(写真は六条大麦)

 麦という言葉は日本最古の書物『古事記』の穀物起源神話の中に登場する。奈良時代前期の女帝元正天皇(在位715~24)は722年、大干ばつに備え晩稲・蕎麦(ソバ)とともに大麦・小麦を栽培するよう詔(みことのり)を発した。平城宮・京跡からは「小麦五斗」と記された荷札木簡や「麦埦」(むぎまり)と書かれた墨書土器などが出土している。万葉集にも麦を詠み込んだ歌が2首(いずれも作者不詳)。その一つ「馬柵(うませ)越しに麦食む駒の罵(の)らゆれど なほし恋しく思ひかねつも」(巻12-3096)。これらから奈良時代には小麦や大麦が各地で広く栽培されていたことが分かる。

 小麦はたんぱく質のグルテンを多く含み粘り気があるのが特徴。その特性から主にパンや麺類などに用いられる。一方、大麦のたんぱく質ホルデインは吸水性に富み、麦飯やビール、焼酎、醤油、味噌、麦茶などの原料として幅広く活用される。大麦や秋蒔き小麦は秋に発芽して越冬し、翌年の春には青々として穂先に花を付け、5月末~6月に収穫期を迎える。麦畑を黄金色に染める「麦秋(ばくしゅう/むぎあき)」は初夏の季語。麦にはそのほかにも「麦蒔」から始まって「麦踏」「青麦」、そして「麦刈」「麦打」「麦藁」「新麦」……と季節の移ろいを表す季語が多い。中島みゆき作詞・作曲の『麦の唄』はかつてNHK連続テレビ小説『マッサン』の主題歌になった。「なつかしい人々 なつかしい風景……」。映画のオールドファンにとって思い浮かぶのは原節子主演の映画『麦秋』(1951年、小津安二郎監督)かもしれない。「うれしけに犬の走るや麦の秋」(正岡子規)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ヤドリギ(宿木/寄生木)> 半寄生植物、脅威の生存戦略!

2022年05月08日 | 花の四季

【鳥が排泄したネバネバの種子が枝に着生】

 ビャクダン科ヤドリギ属の常緑小低木。その名の通り、ケヤキやエノキ、サクラ、コナラ、ブナなどの落葉樹に寄生する。宿主から栄養や水分を吸い取るが、ヤドリギ自身も光合成を行っているため〝半寄生植物〟と呼ばれる。枝の固まりが樹上でこんもりとした丸い茂みを作って、遠目にはまるで鳥の巣や造り酒屋の杉玉のよう。雌雄異株。2~3月ごろ黄色い小花を付け、初冬に球形の果実を結ぶ。(写真は4月下旬、奈良市の平城宮跡で)

 学名は「Viscum album subsp.coloratum(ビスクム・アルブム(サブスピーシーズ)コロラツム)」。属名はラテン語で「鳥黐(とりもち)」、種小名は「白い」を意味する。その属名が表すようにヤドリギの果実には強い粘り気があり、小鳥などを捕獲するための鳥黐として用いられてきた。亜種名は「色の付いた」。セイヨウヤドリギの果実が白いのに対し、亜種の日本のヤドリギは淡黄色の実を付けることによる。古くから霊力が宿る縁起木とされ、ヨーロッパではクリスマスにヤドリギを玄関などに飾る風習も残っている。仲間に赤っぽい果実を付ける「アカミヤドリギ」と呼ばれる品種もある。

 ヤドリギは種子で増殖するが、寄生植物のため種を地面に蒔いても発芽しない。では高い樹上にどうして根を張ることができるのか。それを手助けするのがヤドリギの実が大好物な野鳥たちだ。中でもシベリア方面から渡ってくる冬鳥のヒレンジャクやキレンジャクの果たす役割が大きい。鳥が食べた実はネバネバして糸状につながって排泄される。その一部が運良く枝や幹にくっ付くと、そこから寄生根を差し込んで発芽する。ヤドリギはスギやヒノキなど針葉樹には寄生しない。その点、落葉樹なら実が熟す時期に葉が落ちよく目立って鳥を呼び寄せやすい。樹上で日の光をたっぷり浴びることもできる。その生存戦略には驚くほかない。

 古名は「ほよ」。万葉集には大伴家持の歌1首が残されている。「あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りて 挿頭(かざ)しつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとそ」(巻18-4136)。越中国の国司だった家持が正月の宴で長寿を祈って詠んだ。京都府はヤドリギを絶滅危惧種に指定、自然環境保全課は「寄生した落葉樹は伐採せず残すよう」注意喚起している。最近はヤドリギ探しが静かなブームに。「ヤドリギハンティング」(略してヤドハン)なる言葉も生まれている。「宿木を見つけしこゑの高弾み」(高澤良一)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<橿考研付属博物館> 春季特別展「八雲立つ出雲の至宝」

2022年05月06日 | 考古・歴史

【荒神谷の銅剣・銅矛、平所遺跡の「見返りの鹿」…】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で春季特別展「八雲立つ出雲の至宝」が始まった。同博物館は施設改修中の2021年春、島根県立古代出雲歴史博物館(出雲市)で奈良県内の主な出土品を展示する「しきしまの大和」展を開催した。今回の特別展はいわばその〝返礼〟。国宝に指定されている荒神谷遺跡の銅剣・銅矛・銅鐸や加茂岩倉遺跡の銅鐸など、島根県出土の第一級考古資料が一堂に展示されている。会期は6月19日まで。

 荒神谷遺跡の発見は38年前の1984年の夏。出雲市の農道工事に伴う発掘調査で358本もの銅剣が発見された。さらに翌年にはすぐそばで銅矛16本と銅鐸6個が見つかった。遺跡名は近くに「三宝荒神」が祀られていたことから。その11年後の1996年、今度は雲南市加茂町の農道工事現場で史上最多の39点の銅鐸が出土した。2つの遺跡は直線距離で約3kmと程近い。それまで青銅製祭器のうち銅剣・銅矛は北部九州を中心に分布し、一方銅鐸は近畿が中心と考えられてきた。島根県の両遺跡の発見はその常識を覆す大発見となった。

 2つの遺跡はいずれも弥生時代中期の前2~前1世紀のもの。出土品の鑑定から当時の活発な地域間交流も分かってきた。荒神谷遺跡出土の銅鐸6個のうち3個がそれぞれ京都、兵庫、徳島出土の銅鐸と同じ鋳型で作られた同范(どうはん)銅鐸だった。また加茂岩倉の銅鐸も39点のうち同范銅鐸が16組27点確認された。その範囲は中国地方だけでなく四国や近畿と広範囲に及ぶ。その中には奈良県上牧町出土の銅鐸と同范のものもあった。

 古墳時代後期の平所(ひらどころ)遺跡(松江市)からは埴輪の「見返りの鹿」「飾り馬」「家」の3点(いずれも重要文化財)が展示中。後ろを振り返る「見返りの鹿」はこの埴輪を含め国内で3点が確認されている。あとの2つは奈良県橿原市の四条1号墳と静岡県浜松市の辺田平(へたびら)1号墳から出土した。平所遺跡の鹿は下半身が欠けているものの角がしっかり残っており、雄鹿の表情には凛とした雰囲気が漂う。

 出雲地方では古墳時代の前期から中期にかけ大型の方墳が造られ、後期になると前方後方墳が主体となった。その代表格が全長94mの出雲最大の山代二子塚古墳(松江市)。国の史跡にもなっている。その墳丘には埴輪とともに〝出雲型子持壷〟(写真㊤)が並べられていた。親壷の上部に5つの小さい壷を取り付けたもので、そのユニークな形状が目を引く。

 直径46mの大型円墳、上塩冶築山(かみえんやつきやま)古墳(出雲市)から出土した子持壷も展示中。この子持壷は副葬品とともに重要文化財になっている。金銅製の冠や馬具、金銀装の円頭大刀などの副葬品(写真㊤)は畿内の王権との関係をうかがわせる。岡田山古墳(松江市)1号墳の副葬品も重文。全長24mの小型の前方後方墳で、小さな石棺が納められていた。出土した円頭大刀には「額田部臣」(ぬかたべおみ)という銀象嵌銘。1983年に元興寺文化財研究所(奈良市)のX線検査で判明した。銘文入りのこの大刀はこの古墳の被葬者が「大和に本拠を持つ額田部連氏とも深い関わりを持っていたことを直接的に示す」(岡林孝作・橿考研付属博物館長)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ショウブ(菖蒲)> 端午の節句に不可欠な植物

2022年05月04日 | 花の四季

【全草に独特な香気、邪気払いや薬用に】

 ショウブ科(サトイモ科とも)ショウブ属の多年草。北半球の水辺や湿地に広く分布する。葉は細長い剣状で長さ50~150cm。中央部分には太い葉脈の中肋(ちゅうろく)が走る。5~7月ごろ、毛筆のような肉穂花序(長さ5~6cm)に無数の淡い黄緑色の小花を付ける。漢字表記は花が美しいハナショウブ(花菖蒲)やアヤメ(菖蒲)と同じ。しかも葉の形がよく似て、ショウブが古く「あやめ」や「あやめぐさ」と呼ばれていたこともあって混同しやすい。だが分類上は全く関係がない。

 ショウブの葉や茎は精油成分を多く含み、揉んだり傷つけたりすると独特な香りを漂わせる。その香気が邪気を払い疫病を除くと信じられてきた。またショウブの読みが「尚武」や「勝負」につながることから、子どもの武運長久を願う端午の節句(5月5日)に欠かせないものとされてきた。端午の節句には「菖蒲の節句」の別名も。奈良の春日大社では毎年この日「菖蒲祭」を執り行う。神前にショウブとヨモギを添えた粽(ちまき)を供えて、五穀豊穣や子どもの健やかな成長を祈る。ショウブは菖蒲湯や菖蒲酒、菖蒲枕などに利用され、乾燥した根茎は生薬「菖蒲根」として健胃や強壮剤として用いられる。

 万葉集には「あやめぐさ」として12首詠まれている。万葉仮名は「菖蒲草」「安夜女具佐」など。うち9首を大伴家持が詠んだ。その一つ「ほととぎす今来鳴き始(そ)むあやめぐさ かづらくまでに離(か)るる日あらめや」(巻19-4175)。万葉人は既にショウブが邪気を払うものと信じ、髪飾りの鬘(かづら)にしたり薬玉の材料として使ったりしていたという。「六日の菖蒲十日の菊」は手遅れで役に立たないことを表す常套句。この菖蒲の読みは「あやめ」だが、もちろん今のショウブを指す。「あやめ草足に結(むすば)ん草鞋(わらじ)の緒」(松尾芭蕉)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<東大寺> 「聖武天皇祭」遺徳を偲んで

2022年05月03日 | 祭り

【練り行列は規模縮小、舞楽奉納は屋内で】

 華厳宗大本山東大寺(奈良市)で5月2日「聖武天皇祭」が営まれた。大仏(廬舎那仏)の造立を発願した聖武天皇(701~756)の命日に遺徳を偲ぶもので、天皇殿での御忌法要に続いて、大仏殿内で大勢の参拝客が見守る中「慶讃法要」が執り行われた。ただ最大の見どころの一つでもある練り供養は、新型コロナ感染防止のため今年も規模が縮小され、人気の煎茶振る舞いは中止、鏡池での舞楽・能の奉納も会場を屋内に移し人数制限の中で行われた。

 聖武天皇を祀る天皇殿は巨大な金剛力士像で知られる南大門そばの参道東側にある。入り口の勅使門には十六八重菊紋の幕が張られ、正面の天皇殿には華やかな五色幕。この敷地内はいつもは立ち入りできないが、この日は法要の間だけ開放されており参拝客が次々に訪れていた。午前中に「御忌最勝十講」という法要が営まれた後、午後1時すぎに東大寺本山や奈良県内の末寺僧侶ら約25人が列を整えて大仏殿に向かった。8人に担がれた輿(こし)に乗るのはこの4月1日に第224世別当(住職)に就任したばかりの橋村公英師。新しく華厳宗管長も務める。

 この練り行列は例年なら奈良公園の新公会堂(奈良春日野国際フォーラム甍)を出発し、南大門、中門を越えて大仏殿に向かう。参加者も愛らしいお稚児さんや平安装束の女性たち、僧兵、傘もちなども加わって総勢250人にもなる。それに比べると〝式衆〟と呼ばれる僧侶に限られた今回の行列はその10分の1ほどと少なく、やや華やかさに欠けたのは確か。ただ参道両脇に飾られたのぼり幕の幡(ばん)や南大門に掛けられた几帳などが、東大寺にとって最も大切な法要の日であることを表していた。

 僧侶や来賓が大仏殿に入堂すると「慶讃法要」が始まった。惣礼、唄(ばい)、散華に続いて橋村別当が天皇の遺徳を讃える表白を読誦。この後、聖武講・講社長の掛樋時数氏が慶讃文を読み上げた。堂内には朗々とした読経が響き渡り、参拝者たちも僧侶とともに本尊の大仏に手を合わせて、国家鎮護や世界平和、厄病退散、家内安全などを祈った。式衆らは翌3日には聖武天皇の佐保山御陵を参拝して「山陵祭(さんりょうさい)」を営む。新別当橋村師の任期は4月1日から4年間。来年には東大寺初代別当、良弁(ろうべん)僧正の1250回忌という節目の重要な法要が控えている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする