く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ショウジョウバカマ(猩々袴)> 中国の伝説上の霊獣「猩々」から

2016年03月27日 | 花の四季

【古い葉の先に若芽!「かんざしばな」「ちゃせんばな」の地方名も】

 ユリ科の常緑多年草。全国各地の山地の少し湿った樹陰や渓流沿いに生える。早春、地面に放射状に広がった葉の中央から花茎を伸ばし、紅紫色の10~15輪の花を付ける。変種に九州地方に多いツクシショウジョウバカマや白花のシロバナショウジョウバカマがある。

 紅紫の花を中国の伝説上の霊獣で大酒飲みの「猩々」に、ロゼット状に広がる幅広の葉を「袴」に見立ててショウジョウバカマの名が付いたといわれる。猩々は人の言葉を理解し全身を朱紅色の長い毛で覆われる。夢のお告げで酒売りになった親孝行の男が、その猩々からいくら酌んでも尽きることのない酒壷を贈られて富み栄える――。この伝説を基に祝言能「猩々」や長唄「二人猩々」が生まれた。

 花後、花茎は伸び続けて40~50cmにも。そして6月頃に果実が裂開し糸くず状の種子が風で飛ばされる。ショウジョウバカマには古い葉の先に若芽を付けるという特性もある。葉が枯れて落ちると若芽は地面から根を出す。この〝不定芽(ふていが)〟と呼ばれる繁殖で有名なのがセイロンベンケイソウ。一般に「マザーリーフ」として知られ、すばり「ハカラメ(葉から芽)」とも呼ばれる。

 ショウジョウバカマはその花姿から各地で古くから様々な名前で呼ばれた。「かんざしばな」「ちゃせんばな」「きせるばな」「かごめばな」」「ゆきわりばな」……。信州の一部地域では「はぬけばばあ」と呼ばれ、子どもたちはこの花のそばに差し掛かると手で口を覆って走り抜けたそうだ。「雪間より猩々袴に招かれる」(赤座典子)。

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<シメ(鴲)> 羽毛の色合いが美しいアトリ科の渡り鳥

2016年03月26日 | 小鳥たち

【名前は地鳴きの声から? ずんぐりした体形に太い嘴】

 25日午前、梅の小枝から地面に降り立って何か黒い実をくわえ食べていた。庭で見かけたのは今回が初めて(多分これまでも来ていたが気付かなかっただけだろう)。アトリ科の渡り鳥で、ヨーロッパ~アジアの中緯度の温帯・亜寒帯域に広く分布する。日本でも北海道や本州の山地で繁殖し、秋になると本州中部以南に移動するが、中国東北部やサハリンなどからの渡来・越冬も確認されているという。

 集団で渡来するが、その後は主に単独で行動する。体長18~20cmでスズメより大きくムクドリより小さい。ずんぐりした体形で、嘴(くちばし)は文鳥のように太くて短い。好物はエノキ、ムクノキ、カエデ、ヒマワリ、ヒエ、アワなどの木や草の実や種子。どんなに堅い実でもその頑丈な嘴で噛み砕く。繁殖期には昆虫も餌とする。雄は雌に比べ全身の色彩が豊かで、白・黒・褐色・灰色などのコントラストが美しい。

 奈良時代には主に「ひめ」と呼ばれた。万葉集には2カ所に登場する。巻1―0006に「宮の前に二つの樹木あり この二つの樹に斑鳩(いかるが)と比米(ひめ)と二つの鳥 大(いた)く集れり」、巻13―3239に「末枝にもち引き懸け 中つ枝に鵤(いかるが)懸け 下枝に比米を懸け……」。いかるがは奈良・斑鳩の里で多く見られた同じアトリ科のイカルのこととみられる。後者の歌は囮(おとり)を使って鳥黐(とりもち)でシメ、イカルを捕まえるように、という比喩的な内容。

 「ひめ」の呼び名は一説に、よく似たイカルより少し小さいことからともいわれる。平安時代には「ひめ」と「しめ」が併用され、江戸時代になって「しめ」に統一された。シメの語源は「シ」が地鳴きの「シッ」から、「メ」はスズメやツバメ、カモメなどと同様、小鳥や群れを表す接尾語の「め」から、という説が有力視されている。

【追記】27日朝9時すぎ、ふと小宅の庭を見ると、来ていた、来ていた、またシメが! やっぱり、これまで気付づかなかっただけだったようだ。

 

 

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<アンビリバボー> 室内の窓際に羽化直後(?)のアゲハチョウ!

2016年03月25日 | アンビリバボー

【キアゲハ? 昨年9月庭のミツバの葉に大量の幼虫がいたけど……】

 居間のガラス戸の外側に吊り下げた餌入れにヒマワリの種を放り込む。これが朝の日課。ヒマワリの種は野鳥のシジュウカラやヤマガラの大好物だ。25日朝もいつものように一握りの種を入れてすぐに戸を閉めた。そこで床の上の色鮮やかなものが目に入った。ガラス戸から50cmほど内側。作り物のようなアゲハチョウだ。えっ?どういうこと。開閉の一瞬に入ってきたのか、それとも――。

 

 キアゲハか。発見直後に撮ったのが左側の写真。じっとして動かないが、羽はどこも傷んでいない様子。羽化してあまり時間が経っていないのか。指を近づけると、ゆっくりと乗ってきた。そして手のひらに移動。しばし観察した後、窓際外側のノースポールの花の上に乗せてやった。そこでもじっとしたまま(下の写真)。大丈夫だろうか。見守っていると、急に2mほど離れたミモザの小枝に飛び移った。そして一呼吸置いて空中高く舞い上がった。それまでの緩慢な動きがまるでうそのような素早さ。一瞬あっけにとられるほどだった。

  

 そこで頭に浮かんだのが昨年9月の出来事。庭のミツバにアゲハが卵を産み、鳥の糞のような黒い幼虫がたくさん姿を見せたことがあった(下の写真)。驚いたのはその大食漢ぶり。葉という葉は茎を残して全て食べ尽くした。幼虫を他の場所のミツバに移してやったことも度々。ミカンの葉も与えたが、それにはほとんど見向きもしなかった。それでも多くが体長3~4cmの緑色の5齢幼虫まで育った。ところがその後、みんな姿を消してしまった。蛹になった形跡もない。多分スズメなどの餌食になったのだろう。

  

 アゲハの羽化率は1%に満たないともいう。100個の卵があっても、その中で天敵に襲われることもなく無事羽化できるのは1匹以下というわけだ。この日現れたアゲハは幸いにもその1匹に選ばれた。もしかしたら、あのアゲハ、幼虫が昨秋室内に紛れ込んで蛹として越冬し羽化したのかも――。アゲハが飛んでいった直後、蛹の痕跡があるかもしれないと天井などをつい見回した。 

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<ヒアシンス(ヒヤシンス)> その名はギリシャ神話に登場する美少年から

2016年03月23日 | 花の四季

【原産地は地中海沿岸地方、多彩な花色と甘い芳香で人気】

 原産地はギリシャからトルコ、シリアなどにかけての地中海沿岸地方。野生種の花は青紫だが、オランダやフランスを中心に品種改良が重ねられ、白・黄・ピンク・青・赤など多彩な花色が生み出された。オランダ育ちのダッチヒアシンスとフランス育ちのローマンヒアシンスの2系統のうち、花が多く見栄えがするダッチヒアシンスが広く栽培されている。

 キジカクシ科(またはユリ科)の秋植え球根植物。早春に長い剣状の葉の間から花茎を伸ばし、漏斗状の径2~3cmほどの小花を総状にたくさん付ける。花は「フェニルアセトアルデヒド」と呼ばれる芳香成分を含む。その癒し系の甘い香りもあって室内での水栽培や鉢植え植物としても人気が高い。

 ヒアシンスの属名「Hyacinthus」はギリシャ神話に登場する美少年ヒアキントスに因むといわれる。太陽の神アポロンと円盤投げ遊びをしていたところ、アポロンが投じた円盤が突風のためヒアキントスの額を直撃し死んでしまう。突風は2人の中を妬む西風の神ゼフィロスが起こしたもの。ヒアキントスの血で染まった所からは紫色のヒアシンスの花が咲いた――。

 日本に渡ってきたのは江戸時代末期の1860年代。漢字には「風信子」や「飛信子」の字が当てられた。「夜香蘭(やこうらん)」「錦百合(にしきゆり)」という優美な別名も。ヒアシンスはふつう1つの球根から1本の花茎が伸びるが、最近では数本の花茎が出て多くの花を付けるマルチフローラ系の品種も登場している。「ヒヤシンス高きを渡る風に和す」(有馬朗人)。

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<月ケ瀬梅渓> 「梅まつり」に合わせ文人墨客の「墨跡展」を開催中

2016年03月20日 | メモ

【富岡鉄斎や頼山陽、斎藤拙堂らが残した書画や紀行文、扁額、和歌など】

 奈良県内有数の梅の名所、月ケ瀬梅渓(国の名勝、県立自然公園)でいま「梅まつり」が開かれている。これに合わせて「月ケ瀬梅の資料館」(奈良市月ケ瀬)では「名勝月ケ瀬梅渓墨跡展」(月ケ瀬梅渓保勝会主催)を開催中。明治時代から大正、昭和の初めにかけて訪れた文人墨客の作品を一堂に集めている。31日まで。

 

 富岡鉄斎(1836~1924)は月ケ瀬の自然をこよなく愛し度々訪れては山水画などの作品を残した。展示中の作品は「梅渓放棹図」や「名士観梅図」(下の作品)など。後者の画幅は鉄斎81歳の頃の作品で、頼山陽(1780~1832)が友人を誘って月ケ瀬で観梅したときの様子を描いたもの。鉄斎は梅渓保護活動のため1891年(明治24年)に設立された「月瀬(つきがせ)保勝会」に基金100円を寄付、新しく建設される拠点事務所を「聞禽亭(ぶんきんてい)」と名付け、自ら看板の木額に揮毫した。頼山陽の「萬玉亭」という扁額も展示されている。

   

   

 紀行文「月瀬記勝(きしょう)」で月ケ瀬の名を広く全国に知らしめたのが江戸後期の儒学者斎藤拙堂(1797~1865)。明治になってからも版を重ね、携帯に便利なボケット版まで出たという。その書籍や拙堂が書いた書幅「七言律詩書」なども展示中。他に明治半ばに出版された案内図「月瀬楳渓躑躅川(さつきがわ)真景」(岡本八谷編)、南画家村田香谷(1831~1912)の「月瀬探梅図巻」、京都府画学校初代校長・田能村直入(1814~1907)の書画、資料館の画帖に書き残された著名人14人の和歌、漢詩、書画などもある。

 

 

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<オオミスミソウ(大三角草)> 可憐! 主に日本海側の多雪地域に分布 

2016年03月19日 | 花の四季

【ミスミソウより大型で花色も多彩、「雪割草」の1つ】

 キンポウゲ科ミスミソウ属の常緑多年草。名前の「大」はミスミソウより花や葉がやや大きいことによる。「三角草」は葉が浅く3つに裂け三角のような形をしていることに由来する。ミスミソウが主に本州中部以西と四国、九州に分布するのに対し、オオミスミソウは北陸など本州の日本海側の多雪地域に多く分布する。

 草丈は10~20cmほどで、花径は2~3cm。早春、花茎を伸ばし可憐な花を1つずつ付ける。ミスミソウの花色は白またはうすいピンクだが、オオミスミソウは白、紫、青、桃色、紅色など変化に富む。花弁のように見えるのは萼(がく)片が色変わりしたもので、花弁は退化してない。その萼片の枚数も6枚から10枚と幅がある。一重だけでなく八重の品種も。

 同じミスミソウ属の仲間でよく似たものにスハマソウ(州浜草)がある。葉の先が尖らず丸みを帯び、3つに裂けた葉の形が州浜を連想させることから名付けられた。主な分布地域は東日本の太平洋側。その近縁種に葉の両側に産毛のような白い毛が生えたケスハマソウ(毛州浜草)もある。これは本州の近畿以西と四国に分布する。ミスミソウ属は葉の形などが変異によって中間的なものもあり、区別がなかなか容易でない場合も少なくない。

 これらミスミソウ属の植物は総称して「ユキワリソウ(雪割草)」とも呼ばれる。春まだ浅く雪が残っているような所でも力強く芽吹いて花を咲かせるため。花が終わると越冬した古い葉は枯れて、代わって若葉が出てくる。ただサクラソウ科に〝正真正銘〟の「ユキワリソウ」という和名を持つ高山植物があるから少々ややこしい。オオミスミソウは岩手県で絶滅危惧Ⅱ類、富山県で準絶滅危惧種。「みんな夢雪割草が咲いたのね」(三橋鷹女)。

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<BOOK> 「大大阪」時代を築いた男 評伝・関一(第7代目大阪市長)

2016年03月17日 | BOOK

【大山勝男著、公人の友社発行】

 大阪市がかつて「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれた栄光の時代があった。大正後期から昭和初期にかけて。市域の拡張で人口は日本一、商工業でも国内随一の隆盛を誇った。昭和初めの人口約225万人はニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次いで世界第6位。工業生産額も全国の14%弱を占め東京を凌いでいた。

        

 その「大大阪」づくりを牽引したのが第7代市長の関一(せき・はじめ、1873~1935)。東京高等商業学校(現一橋大学)教授から大阪市の助役、市長に転進し、約20年を市勢発展に尽くした。功績としてよく挙がるのが御堂筋の拡幅整備や地下鉄梅田―心斎橋間の開通だが、そのほかにも関が成し遂げたものは多い。中央市場の開設、大阪港の拡張整備、大阪商科大学(現大阪市立大学)の開校、大阪城天守閣の再建、橋梁・上下水道の整備……。まさに今の大阪の礎を築いた第一人者である。

 御堂筋の整備は当時6mほどだった道幅を7倍以上に広げ、その下に地下鉄を走らせるという大事業。まだ車が少ない時代。市議会では「飛行場でもつくる気か」というヤジが飛んだ。用地買収の前には船場など沿線の地主や商人たちの頑強な抵抗が立ちはだかった。その壮大な事業が実現したのはなぜか。昭和天皇の大阪行幸が大きな転機になったという。「天子さまのお通りになる道路も造れなくては商都大阪の中心たる船場の恥」。誰からともなくこんな声が沸き上がったそうだ。そして全長4キロの御堂筋は難産の末、昭和12年(1937年)に開通する。着工から約11年、関が没して2年後のことだった。

 本書を通じて関の先見の明には改めて驚かされた。「東の後藤新平、西の関一」。後藤は東京市長で、関東大震災直後には「帝都復興院」の総裁として東京復興に尽力した。関はその後藤と並び称された。著者は多くの文献や学者へのインタビューを通して、関の都市政策の底辺に流れる思想・信念を探り求めた。「関一研究会」代表の宮本憲一氏(大阪市大名誉教授)は関を「日本都市史上、理論と実践を統一した最高の市長」と評する。

 「上を見て煙突を数えるだけでなく、下を見て労働者の状態を見よ」。本書には関の口癖だったというこの言葉が度々登場する。著者が関の評伝をまとめたいと思ったのもこの言葉を知ったのがきっかけという。関はハード(社会資本)の整備とともに住環境の改善や福祉、緑化、文化振興などソフトにも力を注いだ。「アメニティ」。この言葉を国内で最初に使ったのも関だったという。著者は関の都市政策の目的を「一口で言えば『住み心地よき都市』つまり現代の市民が理想とする『アメニティのある街』をつくることであった」とみる。病に倒れ志半ばで没して80年。関がもし大阪の現状を知ったら、どんなふうに評するのだろうか。

   

 著者大山勝男氏は大阪日日新聞記者の傍ら、ノンフィクションライターとして活躍中。友人や記者仲間からは「勝ちゃん」と慕われている。主に「人権」や「差別問題」をテーマとし、著書に孤高の棋士坂田三吉の素顔を追った『反骨の棋譜 坂田三吉』、戦後8年間アメリカ占領下に置かれた奄美諸島の祖国復帰運動を描いた『愛しのきょら島よ―悲劇の北緯29度線』、庶民史として父の行きざまを綴った『あるシマンチュウの肖像 奄美から神戸へ、そして阪神大震災』などがある。

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<奈良の鹿> 穏やかな表情で人気集める雄鹿「ミミ」と「クルリン」

2016年03月16日 | メモ

【興福寺の東金堂脇、その2匹の間で観光客が次々に記念写真】

 3月1日から2週間にわたって東大寺二月堂で行われた修二会「お水取り」も15日未明で満行。古都奈良にもいよいよ本格的な春がやって来る。この日は子どもの健やかな成長を願う恒例行事「達陀帽(だったんぼう)いただかせ」。その見学も兼ねて二月堂に向かっていると――。興福寺五重塔の東側にある国宝東金堂のそばで、春の日差しを浴びながら2匹の雄鹿がまどろんでいた。いずれも実に穏やかな表情。ドングリを1つ差し出すと、横座りしたままお辞儀してボリボリ食べ始めた。

 

 そこにやって来たのが自転車のおじさん。この2匹は天気がいいと、よくこの場所で一緒にくつろいでいるという。そして名前は「クルリン」(写真㊧)と「ミミ」(㊨)と教えてくれた。クルリンは事故で前脚を痛めているのか、それとも平衡感覚の不具合からか、立ち上がるとクルクル回るそうだ。またミミは両耳がだらりと下がっている。だから勝手にこう名付けて、時々2匹の様子を見に来ているという。いずれにしろ動物でも植物でも名前を知ると、より身近な存在となって親しみもわくというもの。

 

 2匹とも角は落ちたばかりか、まだ生えていない。ただミミは右側の角の付け根が赤黒く腫れているように見えて少々痛々しい。それとも新しい袋角が生える兆候なのだろうか。ミミは細面のクルリンより顔がだいぶ大きくて風格もある。それでもクルリンより弱くて、観光客が鹿せんべいを差し出すとクルリンに取られてしまうそうだ。2匹の間には微妙な間隔。そこで通りがかった観光客たちは次々と2匹の間に入って腰を屈め記念写真に収まっていた。

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<奈良市埋文センター> 速報展「上ノ山古墳と西大寺跡の調査」

2016年03月11日 | 考古・歴史

【狩猟の場面(?)を描いた絵画埴輪、井戸枠に転用された扉板……】

 奈良市埋蔵文化財調査センターで平成27年度春季発掘調査速報展「上ノ山古墳と西大寺跡の調査」が開かれている(31日まで)。上ノ山古墳から出土した埴輪の破片には狩猟のような場面が刻まれており、このような絵画埴輪の出土は全国でも初めてという。西大寺寺地の調査では井戸枠に転用されていた扉板が見つかった。

 

 上ノ山古墳は奈良市と天理市にまたがる古墳で、開発によって既に消滅したものと考えられていたが、最近の調査で天理市側に部分的に残存していることが判明した(写真㊧)。発掘の結果、全長34m以上の前方後円墳だったとみられ、周溝からは墳丘に並べられていたとみられる蓋(きぬがさ)、靫(ゆぎ)、馬、鳥、巫女など多種多様な埴輪が出土した(写真㊨)。築造時期は出土した土器から古墳時代後期の6世紀前半~中頃と推定される。

 

 出土した埴輪の中で特に注目されるのは家形埴輪とみられる破片に描かれた図柄。動物と矢を射る人物が描かれており、狩猟の場面、あるいは騎射を行う人物を表現したものとみられる。また須恵器の巨大な甕(写真㊨)や器台が5個分も出土したことから、同センターは被葬者について有力な首長など地域を代表する権力の持ち主だったのではないかと推測している。

 一方、平城京の西に位置する西大寺跡の寺地部分の発掘では、奈良~室町時代の掘っ立て柱の建物や溝とともに各時代の須恵器、土師器、黒色土器などが多数出土した(下の写真㊧)。奈良時代の井戸からは井戸枠の最下段部分が良好な保存状態で見つかった。この井戸枠は扉板を転用したもので、2枚の板を2カ所の太枘(だぼ、木製の棒)でつなぎ合わせ、さらに釘で固定していた。片隅には扉を開閉するための軸(赤の矢印部分)も付けられていた。

 

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<ノースポール> 一面を白く埋め尽くす様から銀世界の「北極」の名前に!

2016年03月10日 | 花の四季

【地中海沿岸地方原産、正式名は「レウカンセマム・パルドーサム」】

 原産地はアルジェリアなどの北アフリカやスペイン、ポルトガルなどの南欧で、地中海沿岸地方に広く分布する。正式な学名は「レウカンセマム・パルドーサム」(和名キク科フランスギク属)。ノースポールはその園芸品種で、種苗会社の「サカタのタネ」が品種改良して生み出した。

 日本に入ってきたのは1970年頃。もともとは半耐寒性多年草だが、高温多湿に弱いため日本では秋蒔き1年草として扱われることが多い。草丈は20cm前後で、盛んに枝分かれしノジギクに似た小花をたくさん付ける。直径3cmほどの白い舌状花で、中心の管状花(目の部分)は黄色。花期は1月頃から5月頃までとかなり長い。日光を好んで、夜や雨・曇りのときには花が少し閉じる。

 寒さに比較的強く育てやすいこともあって人気があり、パンジーやプリムラなどとともにこの時期に欠かせない草花になっている。最盛期には花壇やプランターなどを一面白く埋め尽くす。その様が北極の白い世界を連想させることから「ノースポール(北極)」と名付けられたそうだ。一度育てると、そのこぼれ種で翌年また芽を出すことも多い。

 「パルドーサム」はレウカンセマム属に細かく分かれる前、クリサンセマム属(キク属)に分類されていた。そのため、この「パルドーサム」は同属だった黄花の「ムルチコーレ」とともに園芸上「クリサンセマム」と呼ばれていた。その名残からノースポールなどは今でもクリサンセマムと呼ばれることもある。

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<シジュウカラ(四十雀)> 名前の由来は鳴き声説から雀40羽分の価値説まで!

2016年03月09日 | 小鳥たち

【主食は昆虫、ヒマワリの種やピーナッツも】

 ヤマガラ(山雀)やコガラ(小雀)などと同じシジュウカラ科で、緑の多い地域なら市街地でもごく普通に見かけるかわいい留鳥。文献では平安時代初期の仏教説話集『日本霊異記』に「しじうからめ」として出てくるのが最初で、室町時代になって「しじうから」と略されて呼ばれるようになったという。

 雄鳥のさえずりは「ツツピー・ツツピー」。地鳴きは「ジュク・ジュク」と濁る。黒い頭に白いほっぺと白い胸の真ん中に伸びる黒いネクタイ模様がトレードマーク。主食は昆虫で、ドイツでの調査によると1羽が1年間に食べる虫の量をガの幼虫に換算すると12万5000匹にもなるそうだ。ヒマワリの種やピーナッツも大好物。庭の餌台に入れておくと毎日やって来る。番(つがい)とみられる2羽のことが多い。幅広ネクタイのほうが雄で、幅の狭いのが雌だろう。

 名前の「シジュウ(四十)」の由来には諸説がある。地鳴きの音に由来するという説をはじめ、よく群れることから数が多いことを表すという説、さらには1羽でスズメ40羽分の価値があるという説まで(スズメには少々かわいそうな気もするが……)。似た名前の小鳥に「ゴジュウカラ(五十雀)」があるが、こちらの名の謂れもはっきりしない。全く別のゴジュウカラ科に属し、目の左右に黒いラインが伸びて見た目も異なる。「四十雀」「五十雀」があるなら「三十雀」や「六十雀」があってもよさそうだが、そんな名前の鳥は存在しない。

 シジュウカラにまつわる民話に『一休さんの引導』。一休和尚がある寺の小僧だったとき、檀家の人が「飼っていた四十雀が死んだのでお経をあげてほしい」とやって来た。あいにく和尚は法事で留守中。一休はお経といっても「なむなむなむ」しか知らない。そこで思案を巡らせた一休はこうお経をあげた。「なむなむなむ。人生わずか50年、お前は小鳥であれども四十雀とはよく生きた。喝!なむなむなむ」。檀家は満足してお布施を包み家路へ。そこへ和尚が戻ってきて「何か変わったことなかったか?」。一休はありのままにこんな文句で四十雀に引導を渡したと報告。すると和尚は「俺でも思いつかない文句」と一休を褒めた……。「老の名のありとも知らで四十雀」(松尾芭蕉)。

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<立命文華会公開講座> 「会津八一」~奈良に遊び、奈良を詠う

2016年03月08日 | メモ

【講師の浅田隆氏「会津は奈良に〝幻視の古代〟を見ていた!」】

 立命館大学奈良県北部校友会主催の「立命文華会」公開講座がこのほど奈良市生涯学習センターで開かれ、浅田隆・奈良大学名誉教授が「『会津八一』~奈良に遊び、奈良を詠う」と題して講演した。35回も奈良を訪れ多くの歌を残した会津八一はなぜそれほどまで奈良を愛したのか。浅田氏は「古代への憧れが強かった八一は奈良を通じて〝幻視の古代〟を思い描いていたのではないか」などと話した。

 八一が奈良を詠んだ歌は歌集『南京(なんきょう)新唱』などに収められている。「あおによし奈良の都にありとある御寺御仏ゆきてはやみむ」。1908年(明治41年)初めて奈良に向けて旅立つときのはやる気持ちをこう詠んだ。そして奈良を去って東京に戻ってからも奈良をしきりに思い起こす。「ならやまを さかりしひより あさにけに みてらみほとけ おもかげにたつ」。

 

 八一には奈良で詠んだ古代思慕の歌も多い。「かすがのに ふれるしらゆき あすのごと けぬべくわれは いにしへおもほゆ」。浅田氏によると、八一にはもともと古代ギリシャへの憧れが強かった。「いにしへの ヘラスのくにの おほがみを あふぐがごとき くものまはしら」。巨大な入道雲からもギリシャの神を連想するほどだった。1920年(大正9年)には「日本希臘学会」を創立、そして3年後には同学会を解消して「奈良美術研究会」を旗揚げした。

 八一は知人への書簡に、もし欧州を訪ねるなら多くの人々が行くドイツ、フランス、イギリスではなくギリシャとイタリアだけを目指すと記した。末尾には「今の希臘人は品格なき俗物のみときゝ居れども、そは奈良に於て同断と存じ候」とも付け加えている。浅田氏は「八一が奈良に憧れたのは古代の痕跡を感じさせるからで、歴史のかけらを媒介にして古代を復元的に思い描いていたのだろう」と指摘した。

 八一は「歌人」と呼ばれることを嫌ったという。八一は短歌だけでなく俳句、随筆、書、東洋美術史など多方面に造詣が深かった。全国に60基ほどある歌碑のうち3分の1の20基を奈良県内で占める。いずれも自筆。「1人の歌碑が1つの県に20基もあるのはまさに稀有なこと」。最も新しい歌碑は法隆寺西院伽藍の一角に立つもので2014年秋に建立された(写真㊧)。その2年前には法隆寺参道脇の「斑鳩の里観光案内所」のそばにも建てられた(写真㊨は除幕式のときのもの)。前者の歌碑には「ちとせあまり みたびめぐれる ももとせを ひとひのごとく たてるこのたふ」、後者には「うまやとの みこのまつりも ちかつきぬ まつみとりなる いかるかのさと」の歌が刻まれている。

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<橿考研付属博物館> 特別陳列「長福寺(生駒市)の古瓦」展

2016年03月04日 | 考古・歴史

【重文・本堂に鎌倉時代の瓦、内陣の柱には来迎図などの彩色仏画】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で特別陳列「長福寺の古瓦」展が開かれている(3月21日まで)。長福寺は近鉄生駒駅の北方にある真言律宗の寺院。寺伝によると奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開創した。本堂は国指定の重要文化財だが、柱の沈下や内部の破損などに伴って4年前から解体修理中。その過程でこれまで不明だった長福寺の実態が徐々に明らかになってきた。

    

 本堂は寺伝などから鎌倉時代の13世紀前半に建立され、同後半に改築されて現在の規模になったとみられる。これを裏付けるように13世紀前半の鬼瓦1枚(上の写真㊨)が伝わる。その鬼瓦は興福寺北円堂、新薬師寺本堂の鬼瓦と同じ笵(はん、=型)で作られたもの。また13世紀後半の鬼瓦5枚はいずれも手作りだが、軒丸瓦や軒平瓦は元興寺極楽坊などの同笵瓦だった。

  

 同じ笵で製作された瓦が長福寺や大和の諸寺院で用いられた背景について、奈良県文化財保存事務所は「中世大和の瓦作りが東大寺、興福寺の復興に始まって、次第に中小寺院の復興へ移行していったことを物語る」と指摘する。本堂は以前に解体2回を含め計6回修理が行われているが、明治時代の解体修理前まで使用されていた旧大棟鬼瓦には「延宝六年」「西京尻枝住人瓦大工北岡五良右衛門」と箆(へら)書きされていた(上の写真)。延宝6年は江戸前期の1678年、西京(西ノ京)は法隆寺の瓦大工として活躍した橘氏以来の瓦生産地。

   

 本堂内部の柱や天井、壁には彩色が施されているが、剥落に加え煤で黒く覆われて肉眼ではよく観察できない状態だった。このため赤外線写真を基に輪郭線を描き起こし、さらに蛍光X線分析などで色料調査を行って復元図を製作中。内陣の柱には上から弥勒来迎図、菩薩2体、迦陵頻伽(かりょうびんが、極楽浄土にすみ美声で法を説くという想像上の鳥)が描かれ、内陣小壁板には三千仏、内陣を巡る長押(なげし)には宝相華文や条帯文、天井にも花などが描かれている。会場には色鮮やかな迦陵頻伽の復元図や大日如来の復元途中の試作品などを展示しており、今後も順次復元図作りを進めていく。(上の写真は㊧弥勒来迎図の赤外線写真、㊨金剛索菩薩)

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<桜井市立埋文センター> 企画展「かわいい遺物たち~桜井市内出土遺物から」

2016年03月01日 | 考古・歴史

【ミニチュア製品大集合! 壷・竈・舟・犬・土馬・鏡・銅鐸……】

 奈良県桜井市の市立埋蔵文化財センターで、市内の遺跡から出土した遺物の中からごく小さいミニチュア製品ばかりを集めた「かわいい遺物たち」展が開かれている。大半が粘土製で、土器など日常の生活道具や身近にいた動物を模したものが多い。その用途は祭祀などの儀式や死者の副葬品という説が有力だが、子どもの玩具ではないかという説もあるという。4月17日まで。

    

 日常用のものに比べ極端に小さい土器のうち、文様がなく粘土で形を作っただけのものを「手づくね土器」、土器の形や文様を忠実に模倣したものを「ミニチュア土器」と呼ぶ。弥生中期の芝遺跡から出土したミニチュア壷(上の写真㊧)は高さが9.4cmで、手のひらにすっぽり納まる大きさ。桜井市南部にある高田古墳群の植松東4号墳からは高さ13cmのミニチュア竈(かまど)が出土した(写真㊥)。竈形土器は須恵器とともに朝鮮半島から渡ってきたことから、ミニチュア竈が出土する古墳は渡来人と関係の深い人物が埋葬されている可能性が高い。(上の写真㊨は纏向遺跡出土の弥生後期のミニチュア甕)

  

 三輪山の辺津(へつ)磐座(いわくら)エリアにある山ノ神遺跡からは勾玉や管玉などとともに高坏・臼・杵・匙などのミニチュア製品が大量に出土した。4世紀後半~6世紀前半の遺物が含まれることから、この場所で祭祀が繰り返し行われていたとみられる。脇本遺跡からは飛鳥時代の長さが5cmほどの小さな靴状土製品(上の写真㊧)が出土した。市内の遺跡3カ所からは計7点の銅鐸型土製品も出土している。そのうち芝遺跡出土の高さ7.5cmのもの(写真㊥)には斜格子の模様が施され、吊り下げるための鈕(ちゅう)も付けられている。纏向遺跡からは全長25cm余の舟形木製品(写真㊨)が出土した。古墳時代前期のもので、舟を神霊の乗り物として収穫した農作物を盛り、神に捧げるための祭祀道具ではないかと考えられる。

  

 馬の形をしたミニチュアの土馬(写真㊧は桜井公園遺跡群出土)はまじないの道具とみられ、神社に奉納する絵馬のルーツといわれる。磐余(いわれ)遺跡群御屋敷地区からは全長6cmの犬形土製品(写真㊥)が出土した。犬は多産でお産も軽いことから、昔から安産の守り神として信仰された。安倍寺跡からは祭祀用とみられる直径5.6cmの海獣葡萄鏡(写真㊨)が出土した。

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