く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<マツムラソウ(松村草)> 可憐な黄花をずらっと 内側には赤茶色の斑紋

2013年10月31日 | 花の四季

【石垣島・西表島に自生、環境省は「絶滅危惧Ⅰ類」に指定】

 イワタバコ科の多年草。マツムラソウ属の1属1種で、日本の八重山諸島から台湾、中国南部にかけて分布する。日本では石垣島と西表島にだけ自生し、環境省のレッドデータリストには近い将来、絶滅の危険性が極めて高い「絶滅危惧Ⅰ類」として登録されている。

 マツムラソウは湿っぽい岩場や河原などを好む。写真は京都府立植物園(京都市左京区)内の植物生態園で咲いていたもの。せせらぎのそばに地植えして越冬栽培に成功した。花は長さが3cmほどの漏斗形で光沢のある黄色。内面には赤茶色の斑紋がある。葉は縁にギザギザがある長楕円形。開花後にできる小さなムカゴをばら撒いて繁殖する。

 名前は植物学者、松村任三氏(1856~1928年)に因む。松村氏は小石川植物園(東京)の初代園長で、「帝国植物名鑑」など植物学に関する多くの著作を残し、東京植物学会(現在の日本植物学会)の設立などにも尽力した。「日本の植物学の父」牧野富太郎博士は松村氏の門下生。

 マツムラソウと同じイワタバコ科にはイワタバコをはじめイワギリソウ、ツノギリソウ、シシンラン、ヤマビワソウなどがある。ツノギリソウは花の形が似た白花で同じく八重山諸島に自生する。イワギリソウとシシンランも環境省の「絶滅危惧Ⅱ類」に指定されている。

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<BOOK> 「歌は季につれ」(三田完著、幻戯書房発行)

2013年10月30日 | BOOK

【懐かしの唱歌や歌謡曲全36曲の誕生秘話、俳句も織り交ぜながら】

 筆者は慶応大学卒業後、NHKでディレクター、プロデューサーとして主に音楽番組を担当し、退職後もテレビ・ラジオ番組の制作などに携わる傍ら、執筆活動にも力を注いできた。2000年に「櫻川イワンの恋」でオール讀物新人賞、07年に「俳風三麗花」で直木賞候補。ペンネームの三田完の「三田」は母校慶応の所在地、「完」は松本清張作品の挿絵を描いた風間完画伯の名前から拝借したという。

   

 本書は俳誌「夏潮」の2010年1月号から12年12月号まで丸3年36カ月にわたって連載したものを訂正・加筆したもの。「ネタはおよそ四半世紀のあいだ歌謡曲を飯のタネにしていた時代の記憶が中心」で、ヒット曲の誕生秘話や歌手の苦労話など豊富な話題を歯切れのいい文章で綴っている。祖母は近代女流俳人の草分け、長谷川かな女(1887~1969年)。その影響もあってか、著者も40代半ばになって「俳句にハマッた」という。本書にも歌ごとに著名な俳人の句を添えている。

 取り上げた歌は戦前・戦中の「美しき天然」や「野崎小唄」「天竜下れば」「満州娘」などから、戦後の「津軽海峡・冬景色」「ペッパー警部」「黄色いさくらんぼ」「天城越え」「ひばりの佐渡情話」「春一番」など、さらに「冬の星座」「蛍の光」「蝶々」「赤とんぼ」などの唱歌まで幅広い。「ラジオ体操の歌」も入っている。

 「雪の降る街を」は1951年12月のNHKラジオ連続放送劇「えり子と共に」の中で生まれた。台本通りにやると放送時間が余ることがリハーサルで判明。そのためにドラマの作者・内村直也がその場で歌詞を書き、音楽担当の中田喜直が即座にメロディーをつけたという。とても即興でできた曲とは思えない名曲だ。

 美樹克彦のヒット曲「花はおそかった」は最後に入る「バカヤロー」という絶叫が物議を醸した。作詞したのは星野哲郎。その「バカヤロー」は太平洋ビキニ環礁での米国の水爆実験による第5福竜丸の被爆につながっているという。亡くなった久保山愛吉さんの遺骨が故郷焼津に戻った際、遺族が集まった小学校の黒板に誰が書いたのか「バカヤロー」という文字が大書されていた。それが作詞家になったばかりの星野の胸にずっと残っていて、「直接反核の歌にするのは生々しいので、恋人を喪った男の歌にしたのだという」。

 「青い山脈」は西条八十作詞、服部良一作曲。もともとは1947年に石坂洋次郎が書いた戦後初のベストセラー小説で、その2年後、今井正監督、原節子、池部良の主演で映画化された。主題歌を歌ったのは藤山一郎と奈良光枝。溌剌とした青春歌だが、作曲した服部は「大阪から京都に向かう京阪電車のなかで思いついたという」。車内が買い出しの人で超満員だったため、五線譜に書くことができず「とっさにハーモニカの譜面で用いる数字を書き留めた」そうだ。

 「野崎小唄」を歌った東海林太郎はいつも燕尾服と直立不動だったことで知られる。東京音楽学校(現東京芸大)を目指したが、望みかなわず早稲田大学に進学し、卒業後は南満州鉄道に就職した。だが音楽への道をあきらめきれず、30歳を過ぎて「赤城の子守唄」がヒット、流行歌手としての地位を不動のものにした。「燕尾服という時代がかったステージ衣裳には、クラシックを目指した東海林太郎の矜持と哀しみが込められていたのだと思われてならない」。

 スポーツジャーナリスト増田明美さんのカラオケの十八番は石川さゆりの「天城越え」。1989年の東京国際女子マラソンで増田さんは35キロ過ぎの苦しい上り坂に差し掛かったとき、「寝乱れて隠れ宿 九十九折り 浄蓮の滝……」という歌に合わせ、腕を大きく振って頑張ったそうだ。2008年にはこの「天城越え」が、大リーグ・マリナーズのイチロー選手が打席に立つときの登場曲にもなった。その年の1月、イチロー選手は兵庫県尼崎市で行われた石川さゆりコンサートを、自らチケットを買って聴きに行っていたという。

 山口百恵のヒット曲「秋桜(コスモス)」はさだまさしが作った名曲だが、もともとの原題は「小春日和」だった。これをレコード会社のプロデューサーが歌い手のイメージに合わせて改題したそうだ。山口百恵には他にも「横須賀ストーリー」や「イミテーション・ゴールド」をはじめ大ヒット曲が多い。だが、この「秋桜」を紹介した文中でレコード大賞を一度も獲得していなかったことを初めて知った。「北の宿から」や「UFO」といったヒット曲とことごとくバッティングしたようだ。

 最後に各歌に添えられた俳句の一部を――。「他郷にてのびし髭剃る桜桃忌」(寺山修司)、「生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉」(夏目漱石)、「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)、「鳥の恋峰より落つるこそ恋し」(清水径子)、「春一番武蔵野の池波あげて」(水原秋櫻子)、「こちら俳人蟹と並んで体操せん」(村井和一)。

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<アンビリバボー> 近代陶芸の巨匠・富本憲吉の〝殿堂〟がなくなる!

2013年10月29日 | アンビリバボー

【奈良県安堵町の記念館(現文化資料館)、来年2月末で閉館】

 奈良県が生んだ近代陶芸の巨匠で人間国宝の富本憲吉(1886~1963年)。その資料や作品を展示する奈良県安堵町の「富本憲吉文化資料館」が来年2月28日で閉館する。39年前の1974年に「富本憲吉記念館」として開館したが、創設者の死去や個人運営の限界もあって2012年5月にいったん閉館、その後は今年3月から文化資料館として週2日だけ(金曜と土曜)開館している。

  

 富本は安堵村(現安堵町)で生まれ、郡山中学(現郡山高校)を卒業後、東京美術学校(現東京芸大)図案科に進学。英国留学から帰国後、英国の陶芸家・バーナード・リーチとの交流がきっかけとなって陶芸の道に進んだ。その生涯は奈良に戻って窯を築いた「大和時代」、その後の「東京時代」と「京都時代」の3期に分かれる。1955年には色絵磁器で初の重要文化財保持者(人間国宝)の1人に選ばれた。

  

 記念館は富本と親交があった地元の実業家、辻本勇氏(1922~2008年)が生家を譲り受け、私費を投じて整備し開館した。辻本氏没後、遺族は奈良県や地元安堵町など各方面に運営の移管を打診したが、結局、受け入れ先は見つからなかった。所蔵していた主な陶磁器作品は現在、兵庫県陶芸美術館(篠山市)や大阪市立美術館に分蔵されている。

 記念館にはこれらの作品とは別に、リーチとの往復書簡や大和を代表する著名な文人で郡山中学時代の恩師・水木要太郎氏宛ての葉書をはじめ、多くの文書類や素描、図案などもあった。これらのうち約660点は富本が京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)に陶磁器専攻を創設し学長も務めた縁で、今年3月、京都芸大に寄贈された。

 

 文化資料館は古い土蔵を改造した陳列室に、長さ10mの「富本夫妻合作絵巻」、恩師や友人宛ての絵手紙、富本が愛用した茶碗や八角形の万年筆皿、リーチ作の菓子器などを展示している。夫婦合作絵巻は皿や壷、茶器、徳利、花瓶など30点の陶器が描かれたもの。妻一枝は平塚らいてうが創刊した「青鞜」の門人で、「尾竹紅吉」のペンネームで一時「新しい女」として注目を集めた。この他、輸出陶器図案集や婦人装身具、成城高等女学校の卒業記念ブローチなども並ぶ。

  

 本館入り口には富本が娘2人のために作ったという小さな机(上の写真㊧)。4本脚の下部には娘の成長に合わせて継ぎ足した跡があった。館内には衣装が展示され、富本の生涯をまとめたビデオが流れていた。廊下で結ぶ離れには自作の籐の椅子や屏風、絵皿などが飾られ、結婚式のパネル写真などもあった。

   

 辻本氏没後は義弟の山本茂雄氏が記念館・文化資料館の館長として支えながら、記念館継続のため引き受け先を求め奔走してきた。山本氏は富本研究の第一人者として執筆活動にも取り組んできた。ご夫婦で広い敷地(約3300㎡)の草むしりも「ボランティアのつもりでやってきた」。それだけに閉館に追い込まれてしまうのが残念でならないご様子だった。

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<平城宮跡資料館> 「地下の正倉院展―木簡学ことはじめ」開催中

2013年10月28日 | 考古・歴史

【〝主役〟は50年前にゴミ捨て穴から大量に出土した木簡】

 奈良の秋の風物詩「正倉院展」が今年も26日に始まったが、奈良市の平城宮跡資料館でも「地下の正倉院展」が始まった。2007年から毎年開催しているもので今年で7回目。今回は「木簡学ことはじめ」と題し、ちょうど50年前の1963年に平城宮跡の北端から大量に出土した木簡に焦点を当てている。12月1日まで(無料)。(写真㊨は1963年の発掘調査風景)

   

 平城宮跡で最初の木簡は1961年の夏に朱雀門の真北から見つかった。「タクサン! ナンカ字ィ書イタルデー」。これが見つけた人の第一声。「タクサン」は後に奈良文化財研究所の所長に就いた田中琢(みがく)氏のこと。当時は古代の人々が木に文字を書いていたという認識自体が希薄だった。それだけに発掘現場の人々の驚きぶりが目に浮かぶ。後に「大膳職跡」(給食センター)と推定されるこの場所からは40点の木簡が出土した。今回はその第1号の木簡も「プロローグ はじまりの木簡たち」の1つとして展示されている(下の写真㊧)。

 展示会場はプロローグに続き「空前の大出土!SK820」「木簡学の基礎、確立」「広がる木簡学」の3部で構成する。「SK820」は2年後の1963年に大量の木簡が出土したゴミ捨て土坑の場所を示す。最初の木簡が見つかった場所の東側にあった「内裏北外郭官衙」の一角。穴は約4m四方、深さ約2.3mで、木簡は表面から1.5m以下から土器や瓦などとともに出土した。見つかった木簡はなんと1800点以上。全て国の重要文化財に指定されている。

     

(㊧は1961年平城宮跡から最初に見つかった木簡、それ以外の4枚は1963年に出土。左側2枚目から順に「門を守衛する兵士の配置記録の木簡」「フナ30匹の荷札」、右側2枚は文字の練習をしたとみられる木簡)=いずれも部分

 木簡の形や大きさなどは多種多様。割り箸のように細く裁断されたものや鰹節のような削り屑も多く含まれていた。中には断面が正方形に近い太いものや丸い栓のようなもの、2枚の板を重ねたものなどもあった。判読可能な木簡を詳細に検討した結果、その用途を大きく分けると①文書(もんじょ)②習書(しゅうしょ)③付け札に分類できることが分かった。

 文書は物品管理や人員配置の記録、他者に宛てた書状や呼び出し状など、習書は端材や不用品の木簡を使って文字の練習をしたもの。付け札は荷物に括りつける荷札などで、発送者の名前や住所が記され、紐をかけるための切り込みを持つものも多い、荷札には発送の年月日などを記した〝紀年銘木簡〟も含まれる。「SK820」から出土した荷札の年紀は奈良時代中期の天平17~19年(745~47年)に集中しており、木簡や土器類などが天平19年の後半頃に埋められたことが判明した。同展には木簡1つ1つについて記録した当時の貴重な〝記帳ノート〟も展示されている。

 

(写真㊧「形も大きさも様々な木簡」、㊨「年月日などを記した紀年銘木簡」) 

 木簡類は千数百年も地下の泥土の中で眠っていただけにデリケート。泥土が酸素と紫外線を遮断して劣化を防いでくれた。奈良文化財研究所では木簡の保存に万全を期すため、公開については「1点につき1年に2週間以内」というルールを作っているという。今回の展示会では合計83点の木簡が展示されるが、このルールに則って会期中に2回総入れ替えを行う。

 展示会を企画した奈文研都城発掘調査部史料研究室の山本祥隆さんは、展示された木簡について説明する際、木簡のことをしばしば「この子」や「この子たち」と呼んでいた。「じっくり見て、可愛がってくださいね」とも。約1300年前に古代の人々が実際に文字を書いて使っていた木簡の数々。眠りから覚めたそれらの木簡たちに、深い愛情を注いでいることが言葉の端々に表れていた。

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<奈良県安堵町・飽波神社> 雨乞い祈願の「なもで踊り」を奉納

2013年10月27日 | 祭り

【絵馬など基に18年前、約100年ぶりに復活!】

 奈良県安堵町の飽波(あくなみ)神社で26日、雨乞いの「なもで踊り」が奉納された。詳しい起源は不明だが、神社には宝暦6年(1756年)銘の「なもで踊り図絵馬」が納められている。その頃の「南無天躍之日記」などによると、江戸時代には少なくとも19回踊りが奉納されたという。灌漑施設の整備などもあってか、明治半ばの1900年頃に途絶えたとみられるが、1995年に絵馬などを基に約100年ぶりに復活させた。

  

 飽波神社は斑鳩宮と飛鳥宮をつなぐ太子道沿いにあり、聖徳太子の飽波葦垣宮跡ともいわれる。境内には聖徳太子が休んだという伝承のある太子腰掛け石もある。祭神は素盞鳴命。鳥居に掲げられた額は安堵町出身で人間国宝だった陶芸家・富本憲吉の筆による。神社には「なもで踊り」用の衣装や鼓、歌詞本などが伝わっており、いずれも奈良県有形民俗文化財に指定されている。

 

 踊りは午後4時半から鳥居の前で始まった。踊り手は女性ばかり8人。黒尽くめの装束で、御幣を背負い腰には瓢箪。踊りの輪にはちびっ子3人も加わり、太鼓と雨乞い歌に合わせ拝むように手を合わせて踊り始めた。しばらくして善鬼が登場すると、踊り手は中央に集まって身を寄せ合う。鬼は長い棒で天を突くような仕草を繰り返し、その後、棒を振り回しながら踊り手の周りをひと回りして退場した。

 

 踊り手は再び輪になって踊り始め、「早馬(はやうま)」と呼ばれる鼓を持った女性4人も加わった。鉢巻きをし、陣羽織のようなきらびやかな衣装姿で飛び跳ねるように踊った。どうも、この「なもで踊り」は雨乞いの踊り、雨を降らせる鬼の登場、恵みの雨に感謝する踊り――という〝3部構成〟のようだ。

  

 約20分で踊りは終わり、その直後に小さなお神輿が子どもたちに引っ張られてやって来た。さほど広くない神社の境内はボールすくいなどに興じるちびっ子たちであふれた。ところで「なもで」とは? 踊りの復活を提案した福井保夫さんによると「なもで」は漢字で「南無天」または「南無手」。地元では「なむで踊り」ともいうそうだ。福井さんは「南無阿弥陀仏と拝むところから来ているのではないでしょうか」と話していた。

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<三田崇博・世界遺産写真展> 80日間の北米ツアー、渾身の作品32点!

2013年10月26日 | 美術

【京都・精華町「ギャラリー月の庭」と大阪・河南町「近つ飛鳥博物館」で開催中】

 奈良県生駒市在住の写真家、三田崇博(さんだ・たかひろ)さんの世界遺産写真展「NORTH AMERICA2013~ラストフロンティア」が25日、京都府精華町のけいはんな記念公園の水景園内「ギャラリー月の庭」で始まった。今回は今夏に訪ねたアメリカ、カナダの世界遺産などの写真32点を展示している。27日まで。大阪府河南町の大阪府立近つ飛鳥博物館でも同時開催中。こちらは11月16日まで続く。いずれも入場無料。

 

 三田さんは2008年に「世界一周世界遺産の旅」を始めた。今回の北米旅行はその第9弾。6~8月に約80日間をかけ〝ラストフロンティア(最後の辺境)〟ともいわれるアラスカも含め北米の世界遺産や国立公園などを回って「一瞬一瞬に出合う美しさを撮ってきた」。これで訪ねた国々は62カ国・地域、世界遺産は276カ所に達した。

 展示作の中でひときわ目を引いたのが「BIG HEART(ビッグハート)」と名づけた作品(上の写真㊧)。メサ・ヴェルデ国立公園(米コロラド州)の一こまで、先住民が断崖を刳り抜いて造ったという集落遺跡群の1つから撮影した。「魚眼レンズを使ったら偶然に(横向きの)ハート形になった」という。カナディアン・ロッキー(カナダ)の写真は深い青色のモレーン湖に灰色のロッキーの山並みが逆さに映し出された構図(写真㊨)。自然の雄大さと空気の清涼感が伝わってくる。

   

 アンテロープ・キャニオン(米アリゾナ州)で撮った作品「正午の芸術」(写真㊧)は、太陽の光線が狭い渓谷内に滝のように降り注ぐ。まさに光の〝降臨〟。画面全体に神々しさが漂う。「地中の芸術」(写真㊨)は世界最大級の鍾乳洞、カールズバット洞窟群国立公園(ニューメキシコ州)での1場面。自然の造形美には言葉を失ってしまう。夕陽に染まるグランド・キャニオンの景観やイエローストンの間欠泉、じっとこちらを凝視するグリズリー(ヒグマの1種)、「赤毛のアン」の舞台・プリンスエドワード島の美しい景色などを切り取った作品も印象に残る。

 北米の世界遺産写真展はこの後、11月1~4日に横浜市の「あ~すぷらざ」(神奈川県立地球市民かながわプラザ)、11月9~24日に滋賀県大津市のスーパーセンター「イズミヤ堅田店」でも開かれる。三田さんの「世界一周世界遺産の旅」も残すは中米とオセアニアだけ。そのうち中米を今年12月から来年1月にかけて回る計画を立てている。

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<織田作之助生誕100年> 大阪・ミナミの〝オダサクワールド〟を探索!

2013年10月25日 | メモ

【明日26日に誕生日、生國魂神社に銅像建立】

 小説『夫婦善哉』で知られる作家・織田作之助は1913年(大正2年)10月26日、大阪市天王寺区の生國魂神社の近くで生まれた。今年でちょうど生誕100年。33年ほどの短い生涯。しかも作家活動は僅か8年ほどだったが、「東の太宰(治)、西のオダサク」「無頼派の旗手」といわれ、大阪を舞台にした小説を書きまくった。その足跡をちょっとばかりたどってみた。

 

 オダサクといえば、まず法善寺のぜんざい屋さん「夫婦善哉」だろう。小説『夫婦善哉』の最後の場面で、どもり癖のある柳吉が「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘った店だ。苔むした水掛不動(写真㊧)のすぐ南側にある。入り口には赤い大きな提灯。店内の壁面には有名人の色紙や小説の初版本などがずらりと飾られていた。その中に映画「夫婦善哉」に主演した森繁久弥の書や淡島千景の色紙もあった。

 注文すると小説そのままに1人前がお椀2つに分けて運ばれてきた(写真㊨)。口直しの塩昆布付きで800円。なかなか上品な甘さだ。最高級の「丹波大納言」という小豆を使っているという。店を出て1筋北側の法善寺横丁にある「正弁丹吾亭」へ。柳吉・蝶子が関東煮(かんとだき)の店を始める前に、暖簾をくぐって味加減などを調べた店だ。店の前に「行き暮れてここが思案の善哉かな」というオダサクの句碑が立っていた。

 

 オダサクは千日前の洋食店「自由軒」(写真㊧)にもよく通った。小説でも柳吉に「自由軒のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、まむしてあるよって、うまい」と言わせている。店頭には店を取り仕切る若女将・吉田純子さんの等身大の写真パネル。名物カレーのメニュー見本(写真㊨)には「織田作之助好み」と書き添えられていた。

 中に入ると、左手のレジに〝看板娘〟の吉田さんが座り、正面に「虎は死んで皮をのこす 織田作死んでカレーライスをのこす」と書いたオダサクの写真が飾られていた。普通のカレーライスもあるが、ここは勿論、名物カレー(680円)を注文。まずそのままに、次にウスターソースをかけて、最後に生卵をかき混ぜて食べる。スパイスが利いたなかなか濃厚な味だ。吉田さんの父親が考案したという。名物カレーを持つ吉田さんの写真が台湾のガイドブックに載ったことなどもあって、最近は海外からの観光客も多いそうだ。

  

 地下鉄谷町9丁目駅のすぐ南西側にある生國魂神社は幼い頃のオダサクにとって大切な遊び場だった。この神社は『木の都』『放浪』『雨』などオダサクの作品にもしばしば登場する。バイオリニスト辻久子をモデルにした『道なき道』や6年前に見つかった未発表の『続夫婦善哉』にも。『木の都』には「幼時の記憶は不思議にも木と結びついている。それは、生國魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり……」と書いた。

 神社の権禰宜・中村文隆さんに尋ねてみると、そのクスノキ(写真㊧)は境内の一角にまだあった。残念ながら落雷に遭って焼け焦げ枯れていたが……。今は御神木として注連縄が飾られている。不思議なことに、その枯れた大木に今も「巳さん」が棲んでいるという。中村さんも緑色がかった蛇を見たことがあるそうだ。若い女性が願掛けのために放したらしい。

 オダサクは東京を中心とする文壇から「作品に品がない」などと激しく攻撃された。その反発もあって大阪の人情や風情にこだわった作品を多く残した。『夫婦善哉後日』には「万葉以来、源氏でも西鶴でも芭蕉でも近松でも秋成でも、文学は関西のもんだ」と書いている。

 オダサクは生前「井原西鶴の再来」ともいわれた。自身も志賀直哉の勧めもあって西鶴の作品を読み漁り、『西鶴新論』など評論も残した。誕生日の26日、生國魂神社の境内にある井原西鶴像(写真㊨)のすぐそばで、オダサクの銅像の除幕式が行われる。オダサク文学のファンでつくる「オダサク倶楽部」が同神社での「生誕100年記念祭」に向けて準備を進めてきた。

 西鶴は1680年、生國魂神社の境内にあった南坊で「矢数俳諧」の興行を行い一昼夜に4000句を独吟した。その後、住吉神社ではなんと2万3500句を達成! 高浜虚子が生涯に詠んだ俳句は20万句を超えるといわれるが、それにしても西鶴の一昼夜で2万句とは……。オダサクの永眠(1947年)から約66年。心酔していた西鶴のすぐそばに銅像が立てられることになってオダサクも本望に違いない。

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<洋画家・絹谷幸二氏> 「料理下手は絵描きに不向き」「絵は〝心眼〟で見よ」

2013年10月24日 | 美術

【故郷・奈良で「人生ほろよい気分」と題して講演】

 奈良県新公会堂能楽ホール(奈良公園内)で23日、洋画家・絹谷幸二氏の講演会があった。地元の奈良豊澤酒造が主催する「豊祝会」の一環で、演題は「人生ほろよい気分」。絹谷氏は奈良市出身で猿沢池のすぐそばに生家がある。それだけに故郷への思いは深い。この日の講演も「奈良ほど自然条件に恵まれた所はない。(春日)原始林から最高の水が流れて肥沃・豊穣。要害の地でもある」と〝奈良賛歌〟から始まった。

  

 絹谷氏は今年1月で満70歳。昨年11~12月には奈良県立美術館で古希を記念した展覧会が開かれた。奈良学芸大学付属小学校1年生の頃、油絵を習い始めたが、当時の先生からは「絵はウソ(つき)の始まり」と言われたそうだ。県立奈良高校を卒業し東京芸術大学に入るまでずっと奈良で過ごした。

 絹谷氏は代表作を大画面に投影しながら解説した。最初の作品は1997年の長野冬季五輪公式ポスターの原画「銀嶺の女神」(写真㊥)。モデルについてしばしば「奥さんですか」と問われたそうだが、「実は私の若い時の顔」とのこと。(どう見ても女性にしか見えないけどなあ)当時のサマランチIOC(国際オリンピック委員会)会長からは「いくら出してもいいから譲ってほしい」と言われたが、お断りしたという。

    

 この後、文化庁買い上げ作品「アンジェラと蒼い空Ⅱ」や「アンセルモ氏の肖像」(安井賞受賞)、「風神雷神」「明王夢譚」「波乗り七福神」(写真㊨=部分)などを次々に紹介しながら、同時に美術への思いを熱く語った。「僕は賞を取りたいと思って描いたことはない」「絵描きは(一般受けする)好かれる絵ばかり描いていてはだめ」「絵を見る時、モノとして見てはいけない。〝心眼〟で絵が語るメッセージを読み取ることが大切」――。

 作品の1つに「生命・花」。「花はなぜ美しいのか。それはすぐ枯れる。だから枯れる前に蝶を呼ぶため、自分をキャンバスに見立てて絵を描く。花も芸術家であることに30代半ばになって気づいた」という。「料理を作れない人は絵描きになれない」とも話す。「色を作るのは料理と同じ。甘いゼンザイを作るには砂糖に塩も必要。辛いカレーにはリンゴやハチミツを入れる。味覚がない人が描く絵はトンチンカンなものになる」。(下の写真㊧「蒼天富嶽双龍飛翔」、㊨「画室の自画像」)

  

 題材として富士山を度々取り上げてきた。今年6月に世界文化遺産として登録されると、早速「祝・飛龍 不二法門(ふにほうもん)」と題した大作を描き上げた。「不二法門」は仏教の経典「維摩経(ゆいまきょう)」の教義。「維摩さんは相反する概念は別々のものではなく、もともとは1つのものの部分であると説いた。例えば水と油、天国と地獄。絵描きも部分にこだわっていてはだめ」。絹谷氏は発泡スチロールを使った立体作品づくりにも意欲を示す。自分のことを「まるで子どもですわ」と形容していた。

 話題は時々美術から外れ「光明皇后はえらかった」と奈良時代のことなどに及んだ。「東大寺に大仏を造っている時、(万一に備え)奈良に地形がよく似た山形に慈恩寺という拠点を造らせた。当時の人たちは鳥の目を持ち、距離的にも時間的にも大きな視点を持っていた」。

 絹谷氏は長島茂樹氏の絵の師匠でもある。一緒に写った写真が映し出されると「僕は絵の先生と同時に野球の先生だった。長嶋さんをコーチする人がいないから僕が指導してきた」という。大リーガーだった松井秀喜選手から揺れてくるローボールをどう打ったらいいか相談されたこともあった。

 絹谷氏は「絵描きも真ん中より下の絵は描きにくい。その時、イーゼルを上げて描きやすくする。それと同じで、目の位置を3センチ下げて構えなさい」と助言したそうだ。その甲斐あってか「翌年には30本のホームランを打った」という。調べてみると、松井選手がNYヤンキースに入って2年目の2004年に31本(前年16本)のホームランを打っていた。

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<京都・時代祭> 都大路に華やかな時代絵巻、2000人・全長約2キロの大行列!

2013年10月23日 | 祭り

【109回目、京都御所から平安神宮まで練り歩く】

 葵祭、祇園祭と並ぶ京都の3大祭りの1つ「時代祭」が22日行われ、都大路を舞台に華やかな時代絵巻が繰り広げられた。平安遷都1100年を記念して1895年にスタートし今年で109回目。明治維新から江戸、室町、鎌倉、平安と時代を遡る大行列は正午すぎに京都御所を出発し、3時間近くかけて平安神宮まで練り歩いた。(下の写真は女性でただ1人馬にまたがった女武将の巴御前)

 

 行列の先頭は維新勤王隊列。鼓笛隊の「ピーヒャラ、ドンドンドン」が先導する。次いで幕末志士列。桂小五郎(木戸考允)、西郷吉之助(隆盛)、坂本龍馬、高杉晋作、吉田松陰、橋本左内らが続く。江戸時代婦人列は14代将軍徳川家茂の正室・皇女和宮を先頭に、女流歌人・大田垣蓮月や吉野太夫、出雲阿国たちが続いた。(下の写真は左から和宮、吉野太夫、常磐御前)

   

 次いで豊臣家の朝廷参上の模様を再現した豊公参朝列、織田公上洛列、室町幕府執政列、楠公上洛列。この後の中世婦人列には淀君や静御前、大原女(おはらめ)、桂女(かつらめ)、平安時代婦人列は巴御前を先頭に横笛、常磐御前、清少納言、紫式部、小野小町、和気広虫たちが続いて行列に彩りを添えた。(下の写真は上段㊧羽柴秀吉、㊨織田信長、下段㊧滝川一益、㊨柴田勝家)

 

 

 時代祭の特徴は綿密な時代考証を基に往時の衣装などを可能な限り忠実に再現していること。当時の女性のファッションや髪型などもそのまま今に伝えているわけだ。その中で今年注目を集めたのが歌舞伎の創始者ともいわれる出雲阿国(いずものおくに)。60年前に行列に加わって以来、巫女姿だったが、今年初めて華やかな舞台衣装に衣替えした。約400年前に描かれた「歌舞伎図巻」を基に再現したという。(下の写真は左から静御前、出雲阿国、桂女)

   

 各婦人列の著名な人物には花街の芸舞妓が扮した。行列には多くの武将が馬に乗って登場したが、その中にただ1人、馬に乗った女性がいた。女武将として木曽義仲と共に戦った巴御前。太刀を手にきらびやかな衣装を身に着けた馬上の姿はひときわ目を引いた。その衣装には金襴や手描き友禅など京都の伝統技術が詰まっているという。

 行列の途中で披露されたパフォーマンスも喝采を集めた。江戸城使上洛列では毛槍を高く投げ合い、室町洛中風流列は風流踊りを見せてくれた。風流踊りは後の盆踊りの原型ともいわれる。(下の写真は㊧豊公参朝列、㊨室町洛中風流列)

 

 行列は烏丸通、御池通、三条通と目抜き通りを進んだが、沿道は天候に恵まれたこともあって多くの観客であふれた。行列の末尾は神幸列と白川女(しらかわめ)献花列。神幸列の御鳳輦(ごほうれん)には平安神宮の祭神、桓武天皇と孝明天皇(平安京で過ごされた最後の天皇)の御霊代が祀られている。桓武天皇も今日の時代祭の隆盛を喜ばれているに違いない。

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<BOOK> 「生まれ変わる動物園 その新しい役割と楽しみ方」

2013年10月22日 | BOOK

【田中正之著、化学同人発行】

 動物の〝行動展示〟で人気を集める旭山動物園(北海道旭川市)やパンダブームなどもあって動物園がにぎわっている。だが、動物園にはなお〝子どものための娯楽施設〟というイメージが強い。筆者の田中正之氏は京都大学野生動物研究センターの准教授。大学の研究者でありながら、5年ほど前から京都市動物園に常駐している。国内では他に例がないという。本書はこれまでの体験を基に動物園はどうあるべきかを改めて問う。

   

 田中氏の任務は類人猿舎の改修に伴ってできるチンパンジーの学習室で「お勉強」の面倒を見ること。タッチパネルに「1」から順番に数字を表示し、その数字を正しく触ったらリンゴ片が出てくる。田中氏はチンパンジーやゴリラを「◎人」と数える。「分類学上は人間と同じ『ヒト科』に属する進化の隣人」だから。学習室では4人のチンパンジーに教えてきたが、覚えの速さや性格の違いなどが分かっておもしろい。

 動物園では飼育員さんや大学院生の協力も得て、ゴリラやアジアゾウの行動、ブラジルバク、ヤブイヌ、アムールトラ、アミメキリンなどの出産と育児なども観察してきた。アジアゾウは冬の季節、「1晩にせいぜい1回、1時間以下しか横にならなかった」。これを「立位睡眠」と名づけた。こうしたゾウの観察記録を「全国ゾウ会議」で発表すると、それをきっかけにゾウの夜間観察の輪が各地の動物園に広がった。

 飼育下のゴリラには野生ゴリラにない「吐き戻し」という異常行動がよく見られるそうだ。京都市動物園で飼育中のゲンキ(雌)も食べては吐き出し、戻したものをまた食べた。野生ゴリラは1日の大半を食べることに費やすが、動物園では食事の時間が決まっている。「吐き戻し癖も本来は食べるために費やす時間を埋めるための補償的な行動なのだろう」。

 京都市動物園では給餌品目を変えたり、食べ物と牧草をワラに混ぜたりして一気食いができないようにした。そうした工夫で吐き戻しは一時なくなったが、夏場にはまた復活した。暑さでワラの傷みが激しく大量に使えないことなどによる。いずれにしろ吐き戻しを防ぐにはゆっくり食べてもらうしかない。時間的・経済的(コスト)な制約もある中で、それをどう実現していくか。

 動物園がにぎわう中、動物飼育員はいま人気職の1つになっている。そこで本書は全5章のうち第4章「動物園の飼育員はどんな仕事をしている?」で、通常の飼育業務の傍ら動物の行動研究に取り組む飼育員を紹介。さらに第5章「動物園はどんなところ?」では本来目指すべき動物園の姿と現実とのギャップについて触れる。

 日本動物園水族館協会は動物園の目的として①種の保全②教育・環境教育③調査・研究④レクリエーション――の4つを掲げる。こうした動物園の取り組みを広く知ってもらおうと、田中氏が属する京都大学野生動物研究センターは2011年にシンポジウム「ず~どすぇ。動物園大学in京都」を開いた。「ず~どすぇ」の「ず~」は「Zoo (動物園)」をかけたもの。「ず~どすぇ」に続き昨年は名古屋で「ず~だがや」、今春には熊本で「ず~ばってん」を開催した。

 田中氏は飼育員を希望する人たちに対し、「動物園で働くということは、動物園が果たすべき役割を担う職員の1人となるということ。願わくば動物園という存在に、より深い理解をしたうえで将来を考えてもらいたい」と呼び掛けている。

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<ラスコー洞窟壁画> 「入り口側は〝生〟を謳歌、奥の壁画は〝死〟を意識」

2013年10月21日 | 美術

【木津川市文化協会の講演で、東京芸大の五十嵐ジャンヌさん】

 京都府の木津川市中央交流会館(いずみホール)で20日、「ラスコーの洞窟壁画の世界」と題した講演会(同市文化協会主催)が開かれた。ラスコーはフランス南部にある旧石器時代後期の洞窟壁画。生き生きとした動物表現で知られる。講師の五十嵐ジャンヌさん(東京芸術大学大学院美術研究科リサーチセンター非常勤講師)は「洞窟の入り口側には〝生〟を謳歌する躍動感あふれた壁画が多い。だが、奥に向かって〝死〟を意識させる画像が増えてくる。この洞窟壁画は『生と死』をテーマに描かれたのではないか」と指摘した。

 

 五十嵐さんは1992年東京芸大美術学部を卒業後、大阪大学大学院を経て、2003年、フランス国立自然史博物館で先史学の博士号を取得した。両親はともに日本人だが、2人とも大のフランス好きなことから「ジャンヌ」と名づけられたそうだ。ヨーロッパには旧石器時代の洞窟壁画がフランスとスペインを中心に300カ所もあるという。五十嵐さんはそのうち最大のルフィニャック洞窟やラスコー洞窟も含め50カ所以上に入って調査してきた。

 ラスコーの洞窟は約70年前の1940年、近くで遊んでいた少年たちによって発見された。内部は人の手足のように約250mにわたって伸び、側壁や天井に600に上るともいわれる馬や牛、鹿などの壁画が描かれている。氷河期の1万7000~1万5000年ぐらい前にクロマニヨン人によって描かれたという。五十嵐さんはそれらの色鮮やかな壁画を、スライドを使いながら紹介した。

 

 洞窟内は大きく分けて7つの空間に分かれる。入り口に近い「ウシの部屋」や「軸状奥洞」には巨大な牛や駆ける馬が写実的に描かれている。いずれも顔料の濃淡によって立体感豊か。線刻や筆で輪郭線を描いたりワタ状のものでポンポンたたいたり、技法も様々という。ラスコーの壁画は黒や赤、茶、黄、紫などカラフルな色彩も特徴の1つ。中には黒の材料、酸化マンガンのように、近くで取れないため遠方から運んだと推測されるものもあるという。

 中ほどの「井の部屋」から奥の「身廊」「ネコ科の動物の奥洞」にかけては、矢に当たった馬やバイソン、ヤリが突き刺さったネコ科の動物、倒れた人たちなどが多く描かれている(上の写真)。「井の部屋」からは小動物の骨が多数見つかり、「身廊」からは石製のランプが26個も出土した。「地面にランプを並べ、明るくして描いたのではないだろうか」。

 壁画を描いた理由については①呪術説②余暇を利用した「芸術のための芸術」説③トーテミズム④シャーマニズム⑤生態システム反映説――などがあるという。生態システムは比較的新しい説で、描かれた動物の組み合わせから自然の生態系をそのまま描いたというもの。このほか狩猟の成功を願ったという説や狩猟対象の動物の繁殖を願って描いたといった説もあるそうだ。

 五十嵐さんは洞窟壁画全体の配置や表現方法などから「生と死」をテーマに描かれたとみる。「前半の躍動感にあふれた画像が、奥に行くにしたがって死を連想させる。この洞窟壁画は〝生〟とともに、やがて訪れる〝死〟への意識を共有するために描かれたのではないか。(これらの壁画を前に)儀式を行うことで、若い世代に死について教えたかもしれない」。

  (白いシミに覆われた壁画)

 世界遺産にもなっているラスコーの洞窟壁画はかつて押し寄せた観光客が吐く二酸化炭素とずさんな保存管理によって状態が悪化、ユネスコは2009年、このままでは危機遺産リストに登録されかねないとの警告を発した。現在は非公開だが、五十嵐さんは1日5人という人数制限が行われていた1994年に運よく見ることができたという。「今はいい結果になってほしいと願うばかりです」。

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<橋本関雪展> 代表作「木蘭」「南国」「玄猿」「唐犬図」など70点が一堂に

2013年10月20日 | 美術

【生誕130年記念、兵庫県立美術館できょう20日まで】

 新南画や動物画などの大作を多く残した日本画家、橋本関雪(1883~1945)。京都画壇を代表する竹内栖鳳主宰の画塾で学び、文展や帝展で活躍した。その生誕130年を記念して先月から兵庫県立美術館(神戸市)で開かれていた「橋本関雪展」もきょう20日まで。代表作の「木蘭」「南国」「猟」「意馬心猿」「玄猿」「唐犬図」などをはじめとする作品70点には、いずれも気品と深い精神性が漂う。

 

 関雪は1913年を皮切りに中国旅行に度々出かけた。1910年代の文展への出品作も中国の風景や古典・故事に題材を求めたものが目立つ。6曲1双の「木蘭」(写真㊤)もその1つで、中国の長詩「木蘭詩」に登場するヒロインを描いた。木蘭は国王の命で徴兵された年老いた父の代わりに男装して出征、数々の手柄を立てる。左隻で木の根元に腰掛け物思いにふける木蘭、右隻に乗ってきた白馬を描く。画面全体を静寂が支配する。

  

 一方「南国」(写真㊧左隻)は画面いっぱいを使って揚子江を行き交う船と船上の人々の姿を描く。関雪の作品には全体に色調を抑えたものが多いが、この作品では金や赤など鮮やかな色彩で活気に満ちた人々の暮らしの一端をあぶり出した。人馬一体となり疾走しながらシカに弓を構える「猟」(写真㊨左隻=部分)も躍動美にあふれる。「林和靖」は右隻に梅の枝に身を委ねる老人、左隻に竹の下で休むツル1羽を描く。林は宋代の詩人で「梅が妻、鶴が子」として世間に交えず、詩と書画を愛して風流三昧の生活を送ったという。

 関雪は1921年、約8カ月間にわたって欧州各地を旅行した。この旅行を通じヨーロッパ絵画に感銘し刺激を受けた関雪は、改めて日本画の将来に思いを致し、新南画という新しい領域を切り開く。「諸葛孔明」はしんしんと雪が降るモノクロの大きな画面の中で、視線は左隻の下に小さく描かれた馬上3人の赤や緑の色彩に引き寄せられる。「漁樵問答図」は漁師と樵(きこり)が会話を交わす姿を描く。俗塵を離れて生きる漁師と樵は文人にとって理想の姿として好まれた題材という。

  

 関雪は動物画にも逸品が多い。動物画を得意とした師・栖鳳の影響もあるのだろうか。2匹のテナガザルを描いた「玄猿」(写真㊧)は文部省買い上げとなり、動物画家としての地位を不動なものにした。「唐犬図」(写真㊨=右面)は改組第1回帝展出品作。画題に「唐」とあるが、左面がグレーハウンド、右面がポルゾイという大型の西洋犬で、右面にはさりげなく緋牡丹を配している。牡丹は〝花の王〟として中国で古くから愛されてきた。その花を置くことで〝中洋折衷〟の雰囲気を漂わせている。

 その他では――。躍動的な白馬と樹上の猿を描いた「意馬心猿」、中国の故事「邯鄲の夢」に題材を取った「邯鄲炊夢図」、コイを巧みに乗りこなした中国・周代の仙人を描いた「琴高騎鯉図」、中国服を着た上品な女性が瓜を摘む「摘瓜図」、画面全体に桃色の霞がかかったような6曲1双の「武陵桃源図」、鈴なりの桃の枝に鶴が1羽止まる「海鶴蟠桃図」、タヌキが小さなコオロギをじっとにらむ「薄暮」なども並ぶ。

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<ムラサキシキブ(紫式部)> 小枝に美しい紫色の実がびっしり

2013年10月19日 | 花の四季

【古名「ムラサキシキミ」が紫式部にちなんで転訛?】

 クマツヅラ科の落葉低木で、全国の山野に自生し、庭木としてもよく植えられる。高さ1.5~3mで、6~7月頃、薄紫色の小花を付け、10~11月に直径3~5ミリほどの紫色の実がびっしりできる。別名に「ミムラサキ」「タマムラサキ」。学名は「カリカルパ・ジャポニカ」。カリカルパはギリシャ語で「美しい果実」を意味する。野鳥がその実を好んで食べることから「トリムラサキ」や「トリノミ」などとも呼ばれる。

 「ムラサキシキブ」は貝原益軒著の「大和本草」(1709年刊行)に「玉ムラサキ」として登場、「京ニテ紫シキミと云、筑紫ニテ小紫と云」と紹介されている。さらに越谷吾山が江戸中期に著した日本初の方言辞書「物類称呼」(1775年刊行)にも「玉紫」として「京にてむらさきしきみといふ」と掲載されている。

 それらからムラサキシキブはもともと「タマムラサキ」や「ムラサキシキミ」と呼ばれていたことが分かる。ムラサキシキミの「シキミ」は枝にびっしり実が付いた様を表す「敷実」または「重実」から。そのムラサキシキミが「源氏物語」を書いた紫式部に語呂合わせのように結び付いて「ムラサキシキブ」と呼ばれるようになったらしい。

 

 まれに花と実が白いものがあり「シロシキブ」と呼ばれる。このほか近縁種に小ぶりの「コムラサキ(別名コシキブ)」、大型の「オオムラサキシキブ」、四国や九州に分布する「トサムラサキ」「ビロードムラサキ(別名オニヤブムラサキ)」などがある。ムラサキシキブとコムラサキは混同されやすく、ムラサキシキブとして園芸店などで出回っているものの多くはコムラサキといわれる。区別する1つの方法は葉の縁のギザギザ。ムラサキシキブにはこの鋸歯がほぼ葉全体にある。

 「トサムラサキ」は環境省の絶滅危惧Ⅱ類に分類されている。「コムラサキ」も岩手県で絶滅したとみられ、長野や千葉、山形、大阪、三重など8府県で絶滅危惧種(Ⅰ類またはⅡ類)に指定されている。ムラサキシキブの季語は秋。「むらさきしきぶ熟れて野仏やさしかり」(河野南畦)。

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<アンビリバボー> 大阪市立大付属植物園でナラ枯れ被害が発生!

2013年10月18日 | アンビリバボー

【犯人は「カシノナガキクイムシ」。防除のためネットでぐるぐる巻きに】

 大阪府交野市私市にある大阪市立大学理学部付属植物園。最初は満蒙開拓団として満州(中国東北部)に渡る人たちの訓練施設として昭和16年(1941年)に開設された。以来約70年という長い歴史を持つだけに園内には巨大な樹木も多い。ところが、それらの巨木の一部がいま白いネットでぐるぐる巻きにされている。4カ月前に訪ねた時には見かけなかった光景。そのネットは近年各地で〝ナラ枯れ〟を引き起こしている「カシノナガキクイムシ」から樹木を守るためだった。

 

 この植物園では2011年からコナラを中心にナラ枯れ被害が発生しているという。原因はキクイムシが運ぶ「ラファエレア・クエルキボーラ」(通称「ナラ菌」)という病原菌。この虫は円筒状で体長4~5ミリと小さいが、6月頃、羽化し樹木を飛び出して元気な木の幹に潜入、トンネルを掘って繁殖する。一夫一妻制でまず雄が穿孔した後に、雄よりやや大きい雌が入るそうだ。この虫の媒介によってナラ菌に感染した樹木は、樹液の流れがストップして急激に枯れ死してしまう。

 

(写真㊧は「ネットを巻かれているのはなぜ?」の説明書き、㊨は犯人「カシノナガキクイムシ」の雌と被害材の断面=森林総研のHPから)

 感染被害はコナラやクヌギ、ミズナラなど落葉樹のナラ類に多い。同園では昨年春、ナラ菌の繁殖を防ぐため殺菌剤を注入、その結果、一定の成果を上げた。ところが今年になって常緑樹(アラカシ、マテバシイなど)にも被害が及んだため、目の細かい防虫ネットで二重に覆ったという。ネットには虫の侵入を防ぐとともに、羽化した虫の脱出を防ぐ役割がある。

 樹木の集団枯れ死では古くからマツクイムシによる松枯れが有名。一方、ナラ枯れは近年になって目立ってきた。当初の被害地域は主に日本海側だったが、それが徐々に拡大しているようだ。数年前には京都・東山でのナラ枯れが話題になった。被害は高齢のナラ林ほど激しい。独立行政法人「森林総合研究所」では、その原因について気候変動による温暖化というよりも、「里山の放置等による樹木の大径木化などが原因ではないか」とみている。

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<ツリガネニンジン(釣鐘人参)> 秋風にそよぐ可憐な薄紫の小花

2013年10月17日 | 花の四季

【若葉は古くから山菜に、別名「トトキ」「ツリガネソウ」】

 キキョウ科の多年草で、日本各地の日当たりのいい山野でごく普通に見かける。9~10月頃、まっすぐ伸びた茎に釣鐘状の小さな薄紫色の花を下向きに付ける。その花の形と朝鮮人参に似た太く白い根から「ツリガネニンジン」の名付けられた。草丈は40~100cmほどで、秋風に身を任せ心地よさそうに揺れる。

 別名「トトキ」。朝鮮語の「トトク」に由来するという。漢名は「シャジン(沙参)」。「ツリガネソウ」や「チョウチンバナ」とも呼ばれる。ただツリガネソウは釣鐘やベルの形をした花の総称で、同じキキョウ科の多年草「ホタルブクロ」やヨーロッパ南部原産の「カンパニュラ」もツリガネソウと呼ばれている。ツリガネソウは宮沢賢治が愛した植物の1つ。作品中にも「釣鐘人参」をはじめ「つりがねさう」「釣鐘草」「釣鐘(ブリューベル)」などとして頻繁に登場する。

 ツリガネソウは変異しやすく、花の付き方や葉の形などが様々で、多くの変種がある。代表的なものに花冠が細く花柱(雌しべ)の突出が目立つ「サイヨウ(細葉)シャジン」、本州中部以北の高山に自生する「ハクサンシャジン」(別名タカネツリガネニンジン)、小型の「ヒメシャジン」など。この他、南アルプスの鳳凰三山に由来する「ホウオウシャジン」、愛媛県東赤石山に自生する「オトメシャジン」などもある。

 若葉は古くから山菜として利用されてきた。俗謡に「山でうまいはオケラにトトキ、里でうまいはウリ、ナスビ……」。トトキ(ツリガネソウ)の若葉はあくがなく軟らかいため、おひたしや和え物、てんぷら、汁の実などに広く使われる。根は乾燥させて咳止めや去痰薬に。ちなみにオケラはキク科の多年草で、京都・八坂神社では毎年元旦、神前でオケラを焚いて1年の安泰を祈る白朮祭(をけらさい)が行われる。「ひよ渡る釣鐘人参揺れどほし」(豊島美代)。

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