く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「石牟礼道子全句集 泣きなが原」

2015年08月30日 | BOOK

【石牟礼道子作、藤原書店発行】

 水俣病の実態をあぶり出した『苦海浄土』で知られる石牟礼道子は詩人、俳人でもある。句作は北九州を拠点に活躍した現代俳句作家、穴井太(1926~97)との出会いが契機となった。句誌「天籟通信」を主宰する穴井は1971年、戸畑の自宅に文学学校「天籟塾」を開設、その講師陣の1人として石牟礼を招いた。これをきっかけに俳句への関心を高め自らも句作を始めた。

       

 その15年後の1986年、穴井の手によって石牟礼の作品を収めた句集『天』が刊行された。本書にはこの『天』掲載の初期の作品41句や、学芸総合誌『環』(季刊)に2000年7月から今年5月にかけて毎回2句ずつ投稿した『水村紀行』の118句など、40年余にわたる作品213句を網羅する。

 タイトルの「泣きなが原」は大分県九重町の草原の昔の呼び名で、地元に伝わる「朝日長者」伝説に因む。九重町は穴井の生まれ故郷。石牟礼は穴井と九重高原を訪れ、そのススキの草原の美しさに魅入られた。「祈るべき天とおもえど天の病む」「死におくれ死におくれして彼岸花」。その頃の作品について穴井は『天』の編集後記にこう記した。「ふかい溜息のように一句を紡ぎ、紡ぐことによってわずかに己を宥める、まるで己の遺書のごとくに」。「泣きなが原」を織り込んだ句もある。「おもかげや泣きなが原の夕茜」。

 全句集の出版を藤原書店に働きかけたのは俳人の黒田杏子(ももこ)。黒田は解説『一行の力』の中でお気に入りの作品として2句を挙げる。一つは「祈るべき天と……」、もう一つは「さくらさくらわが不知火はひかり凪」。「この一句をお守りとも杖ともして、そののちの約十年……俳句修行者として、沖縄から北海道までこの列島の満開の櫻にまみえる『行』を重ねることができた」。

 解説では社会学者上野千鶴子との対談などでの石牟礼の発言も紹介している。上野の「3・11のときに何を感じたか」という質問にこう答える。「あとが大変だ、水俣のようになっていくに違いないって、すぐそう思いました」。上野の「水俣と同じことが福島でも起こる、と」には「起こるでしょう。『また棄てるのか』と思いました。この国は塵芥のように人間を棄てる」。

 東日本大震災と原発事故が起きた2011年の作品に「列島の深傷(ふかで)あらわにうす月夜」「毒死列島身悶えしつつ野辺の花」。俳人としても評価が高い石牟礼だが、自身の句作は「もともと独り言、蟹の吐くあぶくのようなもので、自分のことを俳人などとは露思ったことがない」そうだ。

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<奈良大学博物館> 企画展「モンゴル国の遺跡調査とデジタルアーカイブ」

2015年08月27日 | 考古・歴史

【6年間の成果を360°パノラマVRや3Dプリンターのレプリカで】

 奈良大学博物館(奈良市)で企画展「モンゴル国の遺跡調査とデジタルアーカイブ」が開かれている(31日まで)。同大学は2009年から6年間、モンゴル科学アカデミー考古学研究所(現歴史考古学研究所)と共同で11世紀の契丹(遼)の城郭都市遺跡を調査するとともに、遺跡・遺物のデジタルアーカイブ化に取り組んできた。企画展はその成果を写真パネルや大型プロジェクター、3Dプリンターで作製したレプリカなどを通じて紹介する。

 

 発掘調査したのは契丹国が1004年に「鎮州城」として設置したとみられるチントルゴイ城郭都市遺跡と周辺の窯跡。この城郭都市は東西650m、南北1250mの規模で、南北に城壁と堀を隔てて接した四角い2つの城が並んでいた。仏塔の基壇跡から寺院が4~5カ所あったと推測される。また同遺跡には6つの城門が確認されており、そのうち北城東門を発掘調査した。(上の写真は発掘前㊧と発掘後の北城東門跡)

 北城東門は広場を挟んで内側に内門、外側に外門を構えていたとみられる。切石の基礎石列の上に直径約25cmのカラマツ属の木材が土台木として使われていたこと、内門の幅は6mだったことなどが明らかになった。モンゴルで契丹の城門の規模や構造が明らかになったのは初めてという。城郭都市周辺からは複数の窯跡を発見し、その窯の1つからは直径20cmの大型獣面文軒丸瓦が出土した。城内の宮殿や寺院などの大型建物に葺かれたものとみられる。

 

 2012~14年の後半3年間は3次元計測と高精細画像を利用して、遺跡や遺物のデジタルアーカイブ化に取り組んだ。モンゴルでは遺跡の保存や保護があまり進んでおらず、消失の危機に瀕している遺跡を正確に記録として残すのが狙い。企画展では「ヘルレンバルスホト1の仏塔」(写真㊧)を「パノラマVR(バーチャル・リアリティー)」で展示中。仏塔は高さ16.5m、直径9m。その仏塔をマウス操作によって360度の全方向から大画面で見渡せ、拡大・縮小もできる。

 モンゴルで出土した遺物は日本国内への持ち込みが制限されており、実物を展示することができない。このため企画展では3Dプリンターで作製したレプリカを実物の写真とともに展示している(写真㊨)。遺物の写真一覧から画面をクリックすると、その3次元レプリカが表示される「遺物のデジタル表示」も行っている。出土品の展示は今後、こうした考古学と情報工学が融合した新しい形の方法が増えてくるに違いない。

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<タカネグンナイフウロ(高嶺郡内風露)> 夏山を彩る日本固有の高山植物

2015年08月26日 | 花の四季

【フウロソウ属、グンナイフウロの高山型】

 フウロソウ科フウロソウ属の多年性高山植物。中部地方から関東地方北部の亜高山帯の草原に自生する。グンナイフウロの高山型ということで頭に「タカネ(高嶺)」が付いた。花期は7~8月ごろ。草丈は30~80cmほどで、青紫~紅紫色の5弁花をややうつむき加減に付ける。

 「グンナイ」は山梨県の都留市など県東部地域を指す「郡内」のこと。グンナイフウロが最初にこの地域で見つかったことに因む。ただし、この植物は北海道西部から本州の近畿地方まで広く分布する。タカネグンナイフウロの花はグンナイフウロよりやや大きく、花色も濃いめ。葉は掌状に深く裂け、茎や葉の表面に細かい毛がある。

 いずれにも白花があり、「シロバナグンナイフウロ」「シロバナタカネグンナイフウロ」と呼ばれている。「フウロソウ(風露草)」はフウロソウ属の植物の総称。それらの多くが「○○フウロ」と名付けられている。だが「風露」の名前の由来ははっきりしない。フウロソウの仲間は変異しやすく、花色や葉、茎の毛の付き方、葉の切れ込み方などが微妙に変化したものが多い。

 日本の山地に自生するものはハクサンフウロ、イブキフウロ、アサマフウロ、イヨフウロ(シコクフウロとも)、ビッチュウフウロ、チシマフウロなど。古くから下痢止めなどの薬草として知られ、道端などでも見かける「ゲンノショウコ(現の証拠)」も同じフウロソウ属の仲間。夏に小さなピンク色の5弁花を開く。(写真は愛知県のS・Eさん提供。木曽駒ケ岳千畳敷で撮影)

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<広陵町の地蔵盆「立山祭」> 「マッサン」「錦織圭」…地域住民合作の〝作り物〟

2015年08月25日 | 祭り

【江戸時代に流行した疫病の身代わりという説も!】

 奈良県広陵町三吉の大垣内地区で24日、専光寺(地蔵堂)を中心に地蔵盆の祭り「立山祭」が繰り広げられた。その年に話題になった出来事や活躍した人物などの〝作り物〟を地域住民が力を合わせて製作し、公民館や新築した家、婚礼のあった家などに飾る。今年はNHKの連続テレビ小説「マッサン」やテニス選手「錦織圭」などをテーマに趣向を凝らした作り物が登場した。

 

 立山祭は広陵町指定の無形民俗文化財。祭りの由来については諸説あるという。専光寺のそばに立つ説明板にはこう書かれていた。「江戸時代に流行した疫病の身代わりとして立て始めたとする説や、中世『見立山武士』と呼ばれた士豪細井戸氏が元禄年間に武士の名残を偲んで武者人形を立てたのが始まりとする説などがある」。一時存続が危ぶまれたが、5年前に祭りを継続し盛り上げていこうと地元住民による「大垣内立山保存会」が発足した。

  

 今年の主な作り物は他にNHK大河ドラマの「花燃ゆ」や「アナと雪の女王」「妖怪ウォッチ」「花咲かじいさん」、彦根城のキャラクター「ひこにゃん」など。「マッサン」では竹鶴政孝と妻リタが仲良く寄り添う。「花燃ゆ」では主人公で吉田松陰の妹、文を手前に、室内奥に吉田松陰と久坂玄瑞(文の夫)と高杉晋作を配置していた。「花咲か爺さん」は紙吹雪が舞うなど仕掛けにも工夫していた。

 

 テニスの「錦織圭」は外人選手と打ち合っている場面を再現したもので、モーターによるワイヤの回転によって2人の選手が前後に動く仕組み。電気店や大工などの本業や写真などの趣味を生かしたメンバーたちが寄り集まって、5月の連休明けから製作に取り組んだという。ネットは百均で入手し、観客席のパネル写真はテレビ映像の1カットを拝借して拡大したそうだ。作り物はいずれも手作りの温かさがこもっていた。 

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<西の京病院> 「世界の化石展」世界でも珍しい蝶の化石も

2015年08月23日 | メモ

【7回目、夏休みに合わせ1億年以上前の昆虫化石を展示】

 医療法人康仁会「西の京病院」(奈良市六条町)の4階多目的ホールで、22日から「第7回世界の化石展」が始まった。展示品は同医療法人理事長、比康臣さんのコレクションで、副題に「化石は太古の記憶、神の彫刻である」。例年12月に開いていたが、今回は「昆虫」をテーマとしたことから、大昔の昆虫の化石を子どもたちにも見てもらおうと夏休み中の開催となった。28日まで。(下の写真は昆虫化石を前に説明する比康臣さん)

 昆虫は今から3億年ほど前の古生代のデボン紀と石炭紀の間に現われたといわれる。展示化石はその後の中世代のジュラ紀(2億年前~1億5000万年前)と白亜紀(1億5000万年前~6500万年前)のもの。内骨格を持たず空中を飛び回る昆虫は化石になりにくい。とりわけ新生代ならともかく、1億年以上前の中生代の昆虫化石は見つかる地域が世界でも限られているという。その地域はドイツ・ゾルンホーフェン(ジュラ紀)、中国・遼寧省(ジュラ紀後期~白亜紀前期)、ブラジル・サンタナフォーメーション(白亜紀中期)――の3カ所。

 展示中の昆虫化石はトンボ、チョウ、ハチ、セミ、バッタ、ツユムシ、ハエ、カ、ゴキブリ、カゲロウ、アメンボ、ゲンゴロウなど。いずれも〝5体満足〟の貴重な化石で、中でも中国で見つかったタテハチョウとヤママユガの化石(下の写真2段目の右側2つ)は超希少で価値が高いという。比さんによると「ジュラ紀のチョウの化石は世界でもわずか20体ほどといわれている」そうだ。タテハチョウの前足や触覚、ヤママユガの翅(はね)の目玉模様なども鮮明に残っている。

 同じ中国で見つかったクツワムシ(3段目左から2つめ)も目や触覚から翅の縞模様まで完璧な状態。大きなバッタの化石は体長が16cm以上あり、翅を広げると優に30cmはあったとみられる。アメンボも体長が18cmと巨大(最下段の左端)。ジュラ紀のトンボの化石も多数展示されている。ジュラ紀といえば恐竜の時代。昆虫も全体的に大型だったようだ。比さんによると「ジュラ紀のトンボは大きく、翅の付き方や頭部の形、目の大きさも現在のトンボと違っていた。だが、白亜紀になると今のトンボと寸分変わらなくなってくる」。1億年以上前の昆虫化石を目にする機会はめったにない。それだけに来場者の多くが「すごい」「きれいね」と感嘆の声を上げながら化石に見入っていた。

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<レンブ(蓮霧)> 白い4弁花から無数の雄しべが放射状に

2015年08月22日 | 花の四季

【フトモモ科の熱帯果樹、東南アジアに広く分布】

 フトモモ科フトモモ属の常緑果樹。マレー半島を中心に東南アジアに広く分布し、タイやマレーシア、インドネシア、フィリピン、台湾などで古くから栽培されてきた。「ジャワフトモモ」とも呼ばれる。成長が早く樹高は10~15mにもなる。

 花径は3~4cmほど。うすい黄色がかった白色の4弁花で、無数の長い雄しべが放射状に伸びる。果実は洋梨のような釣鐘形で、枝に鈴なりになってぶら下がる。果皮は最初は白っぽく、熟すにつれて赤みを増す。果皮が白やピンク、緑、黒みがかった赤色などの品種もある。

 果肉は白い海綿質で、リンゴとナシを合わせたような淡白な風味。冷やして生食するほか、塩や砂糖をつけて食べることも多いそうだ。サラダにしたり、シチューに加えたり、果実酒にしたりすることも。果皮に光沢があることから、英名では「ワックス・アップル」と呼ばれる。近縁種にミズフトモモやマレーフトモモなど。

 レンブは沖縄で「デンブー」とも呼ばれて、随分前から栽培されてきた。1940年頃、沖縄県農業試験場が台湾から導入したのがきっかけという。収穫期は6~9月頃。ただレンブは日持ちしないこともあって、日本ではほとんど出回っておらず、果物としては馴染みが少ない。それだけ美味で果汁たっぷりのリンゴやナシに恵まれているということだろう。

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<高島市今津町> ここにもヴォーリズ設計の建築物が3棟!

2015年08月21日 | 旅・想い出写真館

【辻川通りの東側は〝ヴォーリズ通り〟】

 米国出身の宣教師・建築家のウィリアム・メリル・ヴォーリズ(1880~1964)。大同生命ビル、京都大丸、関西学院大学、同志社大学……。彼が設計した名建築は枚挙に暇がない。昨春には神戸女学院の校舎12棟が国内のヴォーリズ建築として初めて国の重要文化財に指定された。ヴォーリズは滋賀県近江八幡市に拠点を置いて活躍したが、湖西の高島市今津町にも彼の作品3棟が残る〝ヴォーリズ通り〟があった。

 

 場所はJR湖西線の近江今津駅北側の東西に伸びる辻川通り。その通りの琵琶湖側の東町商店街が通称ヴォーリズ通りと呼ばれている。通りに面してヴォーリズが設計した今津ヴォーリズ資料館(上の写真㊧)、今津教会会堂、旧今津郵便局(同㊨)が並ぶ。資料館は旧百三十三銀行今津支店で、1923年(大正12年)の建築。教会は1933年(昭和8年)、旧郵便局は1934年(昭和9年)に建てられた。

 ヴォーリズ通りはこれらの大正~昭和初期の洋風建築を生かした町並みとして整備していこうと名付けられた。資料館ではヴォーリズの作品や生涯をパネル年表などで紹介する。旧郵便局は昨年からコンサート会場などとして活用されている。9月5日にはそばのヴォーリズ公園で「ヴォーリズ・ジャズ・ナイト2015」が開かれる予定だ。

 

 今津教会は日本建築学会から「近代日本の名建築」の1つに選ばれている。面白いのはその玄関口上部の「今津基督教会館」の表記。戦前の古い建物なので右横書きについては納得するとしても、「今」の文字が左右逆の鏡文字になっていた。これは間違いではなくて、古代中国の篆書体(てんしょたい)ではこうなるそうだ。

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<BOOK> 「かわら版で読み解く 江戸の大事件」

2015年08月20日 | BOOK

【森田健司著、彩図社発行】

 著者森田氏は京都大学経済学部卒業後、大学院に進学し博士号(人間・環境学)取得。現在は大阪学院大学経済学部で准教授を務める。専攻は社会思想史、日本哲学。著書に「石田梅岩―峻厳なる町人道徳家の孤影」などがある。本書のテーマは江戸時代に大衆の間で人気を集めた安価な情報媒体のかわら版。「はじめに」の冒頭で「かわら版を知ることは、江戸時代の民衆の心を知ることである」と記す。

       

 「かわら版は江戸のタブロイド紙」「江戸の日本は怪異がいっぱい」「天災地変で大騒ぎ」「かわら版から読み解く江戸庶民の嗜好」「異国人と異国文化 そして崩れゆく幕府」の5章構成。29項目を立て50枚余のかわら版を紹介しながら、妖怪や化け物、大地震、庶民が熱狂した心中事件、敵討ちなど多彩な出来事の背景を読み解く。

 最も古いとされるかわら版は大坂夏の陣を報じた「大坂卯年図」と「大坂安部之合戦之図」の2枚という。天変地異を速報した最古のかわら版は1783年に起きた浅間山の大噴火に関するもの。「朝間山大やけの次第」のタイトルで、火口からもうもうと立ち上がる噴煙の様子を描く。最も多くの種類のかわら版が発行された出来事は1855年の安政江戸地震。なんと600種類以上もあったそうだ。

 かわら版全盛期の江戸後期に庶民の関心を集めたのは心中と敵討ちと歌舞伎俳優の話題。「読売心中ばなし」と題したかわら版(1847年)は若い女性3人の隅田川心中事件の経緯を上下2枚摺りで詳しく紹介する。江戸末期に発行された「忠孝仇討鏡」は87件の敵討ちを相撲の番付のようにランク分けしたもの。東は筆頭の大関が「伊賀越仇討」、関脇が「宮本武蔵仇討」、西は大関が「忠臣蔵仇討」、関脇が「天下茶屋住吉」となっている。

 「神田橋外二番原辺にて敵討一件の瓦版1」は父を斬殺された武家娘による敵討ちをイラストとともに紹介する。このうら若き女性による敵討ちは江戸で大評判となり、他にも多くのかわら版が出回ったそうだ。森鴎外はこれを題材に1913年、短編「護持院原の敵討」を発表した。「江戸浅草 御蔵前女仇討」と題したかわら版は父の敵討ちのため道場に通って北辰一刀流の剣客となって悲願を果たした女性を取り上げる。

 江戸末期になり黒船が現われ始めると、泰平の世も終わりが近づく。かわら版屋はそれまで役人の目を恐れ幕府批判と受け取られそうな政治的な話題を極力避けてきた。だが、その心配もなくなってくると、ありのままに書くように。季節の分かわれ目を指す「節分」というタイトルのかわら版は鳥羽伏見の戦いを風刺的に描く。添えられた絵には顔面が徳川家や薩摩藩、長州藩など様々な家紋になった人物が描かれている。

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<ネコノヒゲ(猫の髭)> 花から突出した長い雄しべと雌しべの形から

2015年08月19日 | 花の四季

【シソ科、別名「クミスクチン」、英名「キャッツウィスカー」】

 インドからマレー半島など東南アジアにかけて分布するシソ科オルトシフォン属の熱帯性植物。もともとは多年草だが、寒さに弱く日本では冬越しが難しいため1年草として扱われることも。開花期は6~10月ごろ。唇形の小花から長い雄しべ4本と雌しべ1本が突出し、やや上向きに反り返る。その姿をネコのヒゲに見立てた。

 草丈は40~80cm。花は穂状の総状花序で、下の方から咲き上がっていく。花色は白が一般的だが、うすい桃色や青色の品種も。マレーシアの呼び名は「クミスクチン」。マレー語で「クミス」はヒゲ、「クチン」はネコのこと。英名でもネコのヒゲを意味する「キャッツウィスパー」と呼ばれている。

 全草に各種ミネラルやカリウムなどを多く含む。乾燥させた葉や茎には利尿作用や血圧降下作用があり、「クミスクチン茶」はマレーシアやインドネシアで古くから「腎臓のお茶」として親しまれてきた。クミスクチン茶は日本や欧米では「ジャバ茶」とも呼ばれている。

 インドネシアでは大規模に栽培され、乾燥葉が大量にドイツなど欧州向けに輸出されている。硬水の欧米では尿路結石ができやすいため、主に結石の予防・治療薬として利用されているそうだ。ネコノヒゲが日本に渡ってきた時期ははっきりしないが、最初は薬用植物として入ってきたらしい。沖縄での栽培は長い歴史を持ち、今ではウコン、グァバと並んで3大薬草ともいわれている。

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<奥の細道むすびの地・大垣> 記念館で約5カ月・2400キロの足跡を辿る

2015年08月18日 | 旅・想い出写真館

【黛まどか名誉館長のナレーションによる3D映像も】

 久しぶりに岐阜県大垣市の『奥の細道』むすびの地を訪ねた。「蛤のふたみに別行秋ぞ」。約5カ月の漂白の旅を終え疲れを癒した松尾芭蕉は、ハマグリの蓋と身にたとえて親しい人々との別れを惜しむ句を詠んだ。むすびの地、水門川の船町湊跡(下の写真)は国指定の名勝。そのそばにいつの間にか「奥の細道むすびの地記念館」ができていた。3年前の2012年春に開館したという。

 芭蕉が門人曽良を従えて江戸・深川の草庵を発ったのは元禄2年(1689年)の春。東北、北陸地方を巡って秋に大垣で旅を終えた。総距離約2400km。芭蕉が最初に大垣を訪れたのは貞享元年(1684年)。『野ざらし紀行』の旅の途中に俳友の谷木因を訪ねたときで、これを皮切りに大垣を計4回訪れている。船町湊跡の川べりには芭蕉と木因の2人の銅像が立つ。

   

 記念館内の芭蕉館では『奥の細道』を旅路ごとに区切って関連資料や映像で紹介する。会場入り口には自筆本(中尾本)や曽良本など「奥の細道」の主要本(複製)を展示(下の写真㊧)。芭蕉が船町湊から舟で下っていく別れの情景を再現したジオラマ(㊨)などもあった。AVシアターでは大型スクリーンによる3D映像で『奥の細道』を追体験する。新作という「出羽路編」を観覧した。「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」。名誉館長の黛まどかさんがナレーターとして芭蕉が辿った出羽路の風景や代表作などを紹介する。新しく「北陸路編」も制作中という。

    

  門人たちへの書簡などから浮かび上がる芭蕉の生身の人物像も興味深い。「翁は菎蒻(こんにゃく)を好かれたり」(許六のことば)。「拙者下血痛候て、遠境あゆみがたく、伊賀にて正月初より引込み居り申し候」(杉風宛て書簡)。芭蕉は出血性の痔疾に悩まされていたようだ。造り酒屋で門人の宗七宛て書簡では「から口1升、乞食(こつじき)申したく候」と辛口の酒1升を無心している。「身のいやしきを思へば、官女もかたらひがたし。心の鈍きを思へば、傾城(けいせい)もなを交はりがたし。もし妹背をなさむに、このおなごをなむ」(門人凡兆の『柴売ノ説』に引く芭蕉のことば)。もしも男女の語らいをするのなら、自分の身分からこの柴売りの小原女(おはらめ)がふさわしいというわけだ。

 

 芭蕉は大垣で旅を終わる少し前、敦賀に立ち寄って気比神宮に参拝した。その境内には芭蕉にまつわる像や句碑が多い。銅像(上の写真㊧)は中鳥居を挟んでちょうど拝殿の正面に位置する。その台座には「月清し遊行のもてる砂の上」という句が刻まれる。その昔、時宗2代目遊行上人が参詣者のため白砂を運んでぬかるむ参道を整備したという故事を耳にして詠んだ。そのそばには「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」など敦賀で名月を詠んだ5句が刻まれた大きな句碑。四国の石鎚山産出の青石で、横幅が4mを超える巨石には圧倒されるばかり。その裏側に「芭蕉翁杖跡」と刻まれた石碑もあった。

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<フウセントウワタ(風船唐綿)> トゲトゲの丸い実、まるでハリセンボン

2015年08月15日 | 花の四季

【南アフリカ原産、ユニークな形から切り花やドライフラワーに】

 南アフリカ原産のキョウチクトウ科(旧分類ガガイモ科)の常緑低木。ただ日本では園芸上、春まき1年草として扱われることが多い。樹高は2~3mで、葉は柳のように細長い。花期は7~9月ごろ。小さな乳白色の花を下向きにたくさん付ける。その甘い蜜を求めてアリやハチなどが頻繁に訪ねてくる。

 花自体なかなか可愛らしいが、より注目されるのが花後の8~10月ごろに付ける淡い緑色の丸い実(径5~8cm)。1年草のフウセンカズラ(風船葛)の表面に無数のトゲトゲの毛を植え付けたような姿で、まるでフグの仲間ハリセンボン(針千本)を連想させる。そのユニークな形から切り花やドライフラワー、鉢物として人気を集める。毛は軟らかく触っても痛くない。

 名前の「フウセン」は風船のように膨らんだ実の形から。「トウワタ」の「トウ(唐)」は国外からやって来たことを意味する。渡来時期は1930年代とも。「ワタ」は実がはじけると、中から光沢のある絹糸状の長い綿毛(冠毛)を付けた種子が大量に出てくることから。原産地ではその綿毛を集めてクッションなどに活用していたそうだ。

 トウワタ(別名ツルワタ)と同様、枝や茎を傷つけると白い乳液を出す。その汁には毒性があるため、収穫したり活けたりする場合には注意が欠かせない。目に入ると角膜炎を引き起こす。ある眼科医はフウセントウワタを扱うときには保護用の眼鏡と手袋を身に着け、終わった後には必ず手をよく洗うよう注意を促している。

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<一乗谷朝倉氏遺跡> 戦国時代の城下町の跡がそっくりここに!

2015年08月14日 | 考古・歴史

【国の特別史跡、4つの庭園は特別名勝、出土品は重要文化財】

 一乗谷は福井市街の東南約10キロにある。戦国大名朝倉氏はここに整然とした城下町を築き、織田信長との戦いに敗れるまで5代103年間にわたって栄華を極めた。朝倉氏遺跡が国の特別史跡に指定されたのは1971年。それまで400年以上もそっくり埋もれて往時のまま残されていたのはまさに奇跡というしかない。

 一乗谷朝倉氏遺跡の中心は第5代当主義景の住まいだった義景館跡(上の写真)。その居館跡には唐門(下の写真㊧)から入る。この唐門は義景の菩提を弔うため江戸中期に建てられた松雲院の寺門。館跡の敷地の広さは約6500㎡で、17棟の建物が立っていた。それらの建物の柱を支えた多くの礎石が規則正しく並ぶ。『朝倉亭御成記』などの記述から、この館で1568年(永禄11年)、後の15代将軍足利義昭を招き盛大にもてなしたことが分かっている。

 

 館跡の南側の一角からは国内最古といわれる花壇(上の写真㊨中央)も出土した。東南隅に義景の墓所。毎年8月20日の命日に合わせ、朝倉氏遺跡保存協会が「朝倉氏五代追悼法要・地蔵盆」を行っているという。朝倉氏遺跡内の主要4庭園は1991年、国の特別名勝に指定された。義景館跡の一角にある「朝倉館庭園」(下の写真㊧)は庭石組が地上に露出していた他の3つの庭園と異なり、地中に完全に埋没していた。

 

 4つのうち最も古いのは「湯殿跡庭園」(上の写真㊨)で、4代孝景の頃につくられたとみられる回遊式林泉庭園。義景館跡を見下ろす高台にある。他の3つの庭園は5代義景時代の作庭。「諏訪館跡庭園」(下の写真㊧)は最も規模が大きく、上下2段の構成になっている。下段中央の滝添え石は高さが4m余りあり国内最大という。諏訪館は義景の夫人、小少将の屋敷跡と伝えられる。もう1つは「南陽寺跡庭園」。いずれも戦国時代の作庭を物語るように力強く豪壮な石組が印象的だった。

 

 一乗谷川を挟んで義景館跡の対岸には往時の武家屋敷や庶民の町屋などの街並み約200mが再現されている(上の写真㊨)。発掘された塀の石垣や礎石をそのまま使い、柱や壁、建具なども出土した遺物に基づき忠実に再現しているのが特徴。復元武家屋敷は東西、南北各30mの敷地を持つ。福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館では「朝倉氏 越流(えつりゅう)を治める」と題し特別公開展を開催中(9月1日まで)。一乗谷川河川改修事業に伴う昨年度の発掘調査で見つかった戦国時代の河川跡と護岸遺構、新たに出土した五輪塔、中国製とみられる白地鉄絵壺の破片などの遺物類を展示・紹介している。

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<ハクサンイチゲ(白山一華)> 夏山のお花畑を彩る代表的な高山植物

2015年08月13日 | 花の四季

【イチリンソウ属、花は1本の茎に3~5個ほど】

 キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草で、北半球の温帯の高山や亜寒帯に広く分布する。日本では本州中部以北と北海道の高山に自生し、7~8月ごろ、白花で一面を覆ってお花畑をつくり出す。田中澄江著『新・花の百名山』では浅間高原(群馬県)を代表する花としてハクサンイチゲをヒメシャジンとともに挙げている。

 草丈は20~40cmほど。茎の先に3~5本の花柄を伸ばして白い花を付ける。花径は3~4cm。花びらのように見えるのは実は萼片(がくへん)が変化したもの。キンポウゲ科の多くの植物と同様に花弁は退化して無い。萼片の枚数は5枚から7枚ぐらい。ハクサンは白山(石川県)に因み、この地で最初に発見されたことによる。

 イチゲは「一華」または「一花」で、1本の花茎に1つの花を付けるということ。イチリンソウ属のイチリンソウやヒメイチゲ、エゾイチゲ、アズマイチゲ、キクザキイチゲなどはいずれも「一花」。同属には1つの茎に2~3個の花を付けるニリンソウやサンリンソウもある。そしてハクサンイチゲは数個。ハクサンイチゲのイチゲはただイチリンソウ属の仲間であることを示すために付けられたのだろうか。

 中にはまれに花色が緑色がかったものも。「ミドリハクサンイチゲ」と呼ばれるもので、萼片の〝先祖返り〟ともいわれる。ハクサンイチゲの変種にシコク(四国)イチゲやエゾノ(蝦夷の)ハクサンイチゲ。大きな群落として知られるのは大雪山、焼石岳、鳥海山、飯豊山、月山、谷川岳、白馬岳、乗鞍岳など。「霧疾(はや)くはくさんいちげひた靡(なび)き」(水原秋櫻子)。(写真は愛知県のS・Eさん提供、木曽駒ケ岳千畳敷カールで)

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<郡上おどり> 城下町に響く川のせせらぎとお囃子とゲタの音

2015年08月12日 | 祭り

【あす13日から4日間〝徹夜おどり〟】

 奥美濃の城下町、郡上八幡(岐阜県郡上市八幡町)で繰り広げられる夏の風物詩「郡上おどり」。日本一のロングラン盆踊りも、お盆の13~16日の4日間の〝徹夜おどり〟で佳境を迎える。川のせせらぎに加え、お囃子に合わせ浴衣姿でゲタを打ち鳴らしながら軽快に踊る人たち。郡上おどりは日本の夏の風情をたっぷり味わわせてくれる。

 郡上おどりは江戸時代に城主が武士や町民の融和を図るため奨励したのが始まり。今では7月11日の「おどり発祥祭」から9月5日の「おどり納め」まで32夜にわたって踊り会場を移しながら行われる。時間は通常午後8時から10時半または11時だが、徹夜おどりの4日間だけは未明の午後4~5時まで続く。これまで徹夜おどりに合わせて数回訪ねたが、今年は「今町秋葉祭」の9日夜に訪ねた。火防の神様として祀られている「秋葉さま」の例祭に合わせて踊られる。

 

 郡上おどりには10種類の踊りがある。最も有名なのは「郡上のナァー八幡出てゆく時は~」の歌詞で始まる『かわさき』。この日もまずこの踊りから始まった。次いで『三百』、そして馬が飛び跳ねる様を表すリズミカルな『春駒』。ゲタの響きがなんとも心地いい。踊りの輪はお囃子の屋形を中心に二重三重となって長い通りを埋め尽くした。郡上おどりは〝見るおどり〟ではなく〝踊るおどり〟といわれる。誰でも気軽に参加できるのが売り物だ。

 

 踊りが上手な人には「郡上おどり保存会」から免許状が与えられる。この日の審査対象は『猫の子』という踊り。午後10時近くになって屋形に「審査を只今から始めます」という案内が掲げられた(写真㊨)。踊りが始まると保存会の会員が輪の中から踊り手の手元足元を真剣な表情で観察、うまいと判断した人に「免許皆伝」と書かれた木札を渡していた。木札をもらった人は保存会事務所に持参して免許状と交換してもらう。踊りの締めくくりは恒例の『まつさか』。踊りは約2時間半、途切れることもなく続いた。

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<国際女子ソフトボール大会> 日本、上野力投も延長の末米国に惜敗

2015年08月11日 | スポーツ

【米5連覇達成、熱戦に観客から惜しみない拍手】

 「2015JAPAN CUP国際女子ソフトボール大会」が7~9日、岐阜県大垣市の北公園野球場で開かれた。出場は日本、米国、オーストラリア、台湾の4カ国。日本は予選リーグ3戦全勝で決勝に進出し、4連覇中の米国(予選2勝1敗)と対戦したが、惜しくも延長の末1―2で敗れ5大会ぶり2回目の優勝はならなかった。

  日本は前日の予選リーグ2日目に米国を3―0で下していた。この日は温存していたエース上野が要所で三振を奪うなど米国の反撃を断ち切って7回まで零封。一方、日本は2回に2死満塁、3回は先頭河野が2塁打で出塁、さらに6回にも先頭中森がヒットで出塁するなど再三先取点のチャンスを迎えながら、ここ一番で1本が出なかった。肝心なところでのバント失敗も痛かった。(写真は上段㊧力投する上野㊨捕手の我妻と話す上野、下段㊧6回裏ヒットで出塁する中森㊨試合終了直後の日本チーム)

 

 

 最終回の7回を終わってヒット数は米国の5本に対し日本は6本、互いに失策ゼロと、がっぷり四つの手に汗握る展開だった。無死2塁から始まるタイブレーカーの8回表、米国は1死からヒットで2、3塁とした後レフトオーバーの2塁打で2点を先取。日本も1死3塁から外野ファール飛球による犠牲フライで1点を返したが、その直後、抜ければ長打という鋭いレフトライナーを好捕されてゲームセット。米国の再三の堅守が光った。

 

 日本の5大会ぶりの優勝はならなかったものの、スタンドを埋め尽くした観客からは両チームの選手に惜しみない拍手と歓声が送られた。3位決定戦はオーストラリアが3番ポーターの特大の3ランホームラン(上の写真㊧本塁上でナインに迎えられるポーター)などで台湾を4―0で下した。バックネットには「野球・ソフトボール2020年復帰を!」と大書された横断幕(写真㊨)。2020年東京五輪の追加種目は来月9月28日の大会組織委員会理事会で選ばれ、来年8月の国際オリンピック委員会(IOC)総会で正式決定する。

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