く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 『「あんたさん、どなたですか?」―世界初のアルツハイマー治療薬の開発に成功した杉本八郎物語―』

2018年08月27日 | BOOK

【大山勝男著、合同会社Amazing Adventure発行(オンデマンド版)】

 加齢による単なる物忘れと認知症による物忘れはどう違うのか。10年近く前「もの忘れ外来」を設けている大阪府下の病院の担当医に聞いたことがある。その時の答えは「認知症になると体験そのものを忘れ、今までできたことができなくなる。日常生活への支障の有無が大きな判断材料」。そして認知症の原因の約6割を占めるアルツハイマー病について、根治は難しいが薬物療法(塩酸ドネペジルの服用)にリハビリ、適切なケアを組み合わせることで進行を遅らせることは可能、と話していた。本書はそのドネペジル(商品名アリセプト)の開発を陣頭指揮した杉本八郎氏(1942年生まれ)の半生を追う。

     

 新薬の開発は長い研究期間と大きな投資を要する。臨床試験を経て発売に至る新薬は全体の6000分の1ともいわれる。そんな中で製薬会社エーザイの研究者だった杉本氏は在職中に2つの新薬の開発に成功した。その一つアリセプトは抗認知症の新薬として日本より先に米国や英国、ドイツで承認され、エーザイをグローバル企業に押し上げることに貢献した。今では世界95カ国以上で使われているそうだ。その新薬で〝薬のノーベル賞〟といわれる英国ガリアン賞特別賞や国内最高の発明表彰である恩賜発明賞も受賞した。定年退職後は京都大学や同志社大学で客員教授を務め、創薬ベンチャーの代表も兼ねる。

 新薬開発の裏には貧しい中で子ども9人を懸命に育ててくれた母親への深い思いがあった。その母が認知症を患って、訪ねるたびに「あんたさん、どなたでしたかね?」と尋ねられ衝撃を受ける。「私は母との対話を胸に秘め、この難病中の難病といわれているアルツハイマー型認知症に有効な新薬を開発することに、研究者としての使命感を鼓舞された」。ただ創薬の道のりは平坦ではなかった。杉本氏は「化合物の探索研究に4年、安全性を確認する開発研究に4年、動物やヒトでの臨床研究に7年近くの歳月が必要だった」と振り返る。この間、会社から2度も開発中止の厳命を受けたという。まさに苦節15年だった。

 アルツハイマー病患者は今世紀半ばに世界で1億人を突破するともいわれる。アリセプトはその治療薬として最も多く使われているが、あくまでも症状の進行を遅らせる対症療法の薬剤。いま世界の研究者や製薬企業は根本的な治療薬の開発にしのぎを削る。「3つの新薬を創るのが夢」という杉本氏にとっても今後の最大の目標が根治薬の開発。杉本氏はこれまでの体験から「創薬に成功するにはまず『志有りき』」とし、「挑戦はあきらめたら終わり、成功するまでやる! 成功者とはあきらめなかった人のこと」と語る。2017年2月には認知症の研究や啓蒙予防などに取り組むため、国内の認知症研究者らと共に一般社団法人「認知症対策推進研究所」を立ち上げ代表理事に就任した。

 本書は第1章「苦労の連続の母を見ながら育つ」~第5章「アルツハイマー根治の夢 新薬にかけ―」の5章+インタビュー記事で構成する。全編を通して杉本氏の新薬開発にかける執念にも似た一途の思いが伝わってきた。杉本氏は薬業剣道連盟の会長を務め、京都で単身赴任生活を送る。カラオケでは河島英五の『時代おくれ』や中島みゆきの『地上の星』をよく歌うという。人間味あふれるもう一つの素顔も親しみを感じさせてくれた。本書は認知症の根本治療薬の開発や新しい検査方法など世界の最前線の動きを知るうえでも大いに役立ちそうだ。膨大な医療・薬事関連の文献に当たって労作を書き上げた著者に敬意を表したい。

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<BOOK> 「聴導犬のなみだ 良きパートナーとの感動の物語」

2018年02月13日 | BOOK

【野中圭一郎著、プレジデント社発行】

 歩いていたら突然後ろから音もなくすぐ脇を車が通り過ぎてびっくり! エンジン音が小さいハイブリット車の登場で、同じような経験をした人は多いにちがいない。「耳が聞こえない人は日々、こんな怖い思いをしながら暮らしているのだ」。かつて出版社に勤めていた頃に聴導犬の訓練風景を目にしていた野中氏はふとそう思った。盲導犬に比べると聴導犬の認知度は低い。マイナーな存在の聴導犬のことをもっと多くの人に知ってほしい――そんな思いが本書の執筆に駆り立てた。

       

 聴導犬は耳が不自由な人たちのいわば耳代わり。訓練士が生後2カ月ほどの子犬を自宅で飼いながら訓練し、2歳前後になると希望するユーザーに引き合わせる。ユーザーがその犬と暮らす目途がついたところで、犬とユーザーが一緒に聴導犬の認定試験を受ける。著者は聴導犬と暮らすユーザーや訓練士への取材を重ねて「理想の聴導犬ブランカの大胆さ」「聴導犬になれなかったあづね」「鳥の鳴き声を教えてくれたあみのすけ」など9つの物語を紡ぎだした。

 そこに描かれているのは訓練士と聴導犬、ユーザーと聴導犬の強い絆と信頼感だ。ある訓練士はユーザーに渡すときの心境を「嫁に出す母親の気持ち」と表現し、ユーザーの一人は聴導犬を「天の恵み」「犬に姿を変えた如来」と形容する。ただ「聴導犬を持つということは、世話をしてもらうと同時に世話をすることも意味する」。聴導犬もやがて年老いて役割を果たせなくなってしまう。引退しペット扱いになると、ペット禁止のアパートにはもう住めない。そこであるユーザーは聴導犬の老後に備えペット可のマンションに引っ越したという。ユーザーが聴導犬より先に年老いたり病気で世話ができなくなったりすることも。やむなく訓練士が引き取りに行くと、聴導犬が「なんで(ユーザーも)一緒に来ないの?」といった表情で泣いていたそうだ。

 2002年施行の身体障害者補助犬法で、公共施設や乗り物、飲食店、病院、ホテルなどに聴導犬、盲導犬、介助犬を同伴できるようになった。外出するときには「聴導犬」と書かれたケープを身に付ける。ただ盲導犬に比べ聴導犬を目にする機会はまだ少ない。それもそのはず。実際にユーザーを手助けしている聴導犬は全国でまだ70頭にすぎず、盲導犬の950頭の十分の一にも満たない(2018年1月現在)。補助犬法の施行から既に約16年になるが、今でもなお「犬の同伴はだめ」と断られるケースも少なくないという。

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<BOOK> 「人生の気品」

2018年01月24日 | BOOK

【新日本出版社発行、著者=草笛光子、赤川次郎ら15氏】

 『しんぶん赤旗日曜版』の連載「この人に聞きたい」(2014~17年)に登場した著名人のインタビュー記事を加筆・修正したもので、16年に発行した『人生の流儀』の続編。今回も作家や俳優、映画監督、写真家、漫画家、物理学者など各界の一線で活躍する15人を取り上げている。女性が草笛光子、鳳蘭、渡辺えりら6人、男性が赤川次郎、宝田明、周防正行、梶田隆章ら9人。人生の転機や仕事にかける情熱、戦争や平和への思いなどを、苦労話やエピソードも交えながら率直に語っており、有名人の知られざる一面を垣間見ることもできる。

       

 長年、舞台・映画・テレビで活躍してきた草笛光子さんは「声量を自在に調節するには、背筋、腹筋が欠かせません。1に筋力、2に筋力です」と語る。「70代でも80代でも、いつまでたっても人生の〝新人〟なのではないでしょうか。いつだって転機。『新しく出発だわ』と思っています」とも。草笛さんは日本ミュージカル界の第一人者。本書の中で宝田明さんも草笛さんとブロードウェーで『マイ・フェア・レディー』を観劇した際のエピソードに触れている。草笛さんは人生の軌跡を日本経済新聞朝刊の「私の履歴書」でいま長期連載中。

 映画監督周防正行さんの代表作にあの『Shall we ダンス?』。「電車を降りてダンス教室という知らない場所に足を踏み入れたら、どういう世界が広がっていくか。そういうサラリーマンの冒険物語が、この映画のテーマだったんです」。作品の中には冤罪の痴漢事件を題材とした『それでもボクはやってない』もある。「裁判官や裁判員制度など、司法に関するテーマは今後もやりたい。僕のライフワークです」。『Shall we ダンス?』では本書に登場する渡辺えりさんもオバサンダンサー役で名演技を披露した。劇団「オフィス3○○(さんじゅうまる)」を主宰し演出家・劇作家としても活躍中の渡辺さんは「自分の演劇では、お客さんに『よし、明日もがんばろう』と思ってもらえるよう、連帯のエールを送りたい」と話す。

 前進座の看板役者で、2016~17年の創立85周年特別公演『怒る富士』で主役を演じた嵐圭史さんは「一に情熱、二に体力、三、四がなくて、五にいささかの知恵」をいつも自分に言い聞かせているそうだ。俳優・作家の高見のっぽさんは子どもを「小さいひと」と呼ぶ。幼少時に「私を悲しませたり痛めつけたり無作法で思い上がったりするようなおとなにはなりたくない」。だから子どもにも「言葉づかいも接し方も、自分の持っているうちの最高の礼儀正しさで敬意を表します」。ノーベル物理学者の梶田隆章さんは「国立大学法人化以降、多くの大学が急激に弱体化し、研究力が落ちています。手遅れになる前に、研究力回を打つことが必要」と、日本の研究環境への危機感を訴える。

 登場人物の中には出征したり幼少時を戦地で過ごしたりした人も多い。画家の野見山暁治さんは満州(中国東北部)の傷痍軍人療養所で終戦を迎えた。戦後、同郷の友人宅を訪ねると家族から「どうしてあなたは生き残っているんだ」と言われ、仏間で「なんでせがれも病気にならなかったんだ」と泣かれたという。野見山さんはその後、戦没画学生の遺作の収集に奔走し「無言館」(長野県上田市)開設に尽力した。宝田明さんも同じ満州で11歳の時侵攻してきたソ連兵の銃撃を受け、悲惨な引き揚げも体験した。渡辺えりさんには父の戦争体験を基に書いた『光る時間(とき)』という作品がある。戦後小学校の教師になったその父はよくこう口にしていたそうだ。「あの時、人を狂わせ、僕を軍国少年にした教育とは何か。その謎を解きたいんだ」。

 作家・精神科医の帚木蓬生さんの父は戦時中、香港駐在の憲兵で戦犯として巣鴨に収容された。「日本が外国を侵略した罪は消えません。前の世代がやったことだから、もう水に流そうというのは大間違いです」。渡辺美佐子さんの「戦後35年の『対面』」の話も印象深い。小学5年の時、転校してきた赤いほっぺの男児に淡い思いを寄せる。その男児に会いたい一心で、1980年にテレビのご対面番組で探してもらった。だが、カーテンの陰から登場したのは男児ではなく、そのご両親だった。男児は疎開先の広島で原爆に遭い12歳で亡くなっていた。遺体も遺品もなく、まだ墓も造れないと嘆くご両親は渡辺さんにこう声を掛けた。「あの子のことを覚えているのは家族だけと思っていたのに、35年も覚えていてくださり、ありがとうございます」。それをエッセーにした『りんごのほっぺ』は国語授業の教材にもなった。渡辺さんはその後、仲間の舞台女優たちと長年、原爆朗読劇に取り組んでいる。

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<BOOK> 朝日選書「髙田長老の法隆寺いま昔」

2018年01月15日 | BOOK

【髙田良信自伝、小滝ちひろ構成、朝日新聞出版発行】

 法隆寺の宝物や仏像を徹底的に調べ上げた『法隆寺昭和資財帳』(全15巻)の編纂など〝法隆寺学〟の確立に生涯を捧げた髙田良信長老(法隆寺第128世住職・聖徳宗第5代管長)。『私の法隆寺案内』『法隆寺の謎を解く』『法隆寺秘話』など一般向けの著作も多く、まさに学僧の名にふさわしい高僧だった。本書は小滝ちひろ氏(朝日新聞編集委員)が2016年の1月から年末まで計15回・約30時間にわたってインタビューしてまとめた髙田さんの半生の物語である。

       

 小僧として法隆寺に入ったのは1953年、12歳のとき。法隆寺ではその4年前の火災で焼損した金堂修理の真っ最中だった。地元の中学・高校に通いながら、境内で古い瓦を拾い集めたり天井裏に散在していた寺僧の位牌を調べたりした。〝瓦小僧〟という渾名を付けられ、後に自ら〝瓦礫法師〟と呼ぶように。こうした収集癖が後の昭和資財帳の編纂などにつながった。「私の『法隆寺学』は天井裏から始まった気がします」とも。天井裏から見つけたものの中に藤ノ木古墳の略図があった。髙田さんが「藤ノ木古墳=崇峻天皇陵説」を主張したのも、その図の中央に「崇峻天皇御廟」と記されていたことによる。

 昭和資財帳の編纂は1981年にスタートし、13年がかりで全15巻が完成した。その完成記念として全国5都市を巡回する「国宝法隆寺展」を開催、来場者は100万人を超えた。ただ「資財帳調査も単なる宝物調査ではなく、宝物類を法具として法会に生かすのが念願だった」。その言葉通り、中断していた様々な法会の復活に取り組んだ。慈恩大師(法相宗開祖)の遺徳を称える慈恩会、玄奘三蔵を偲ぶ三蔵会、お釈迦ざまの仏生会と涅槃会……。法要を復活するには趣旨を述べる「表白文」が必要だが、それらも全て自ら作った。法隆寺では過去にしていなかった仏様の〝お身ぬぐい〟も始めた。他にも百済観音堂の落成、寺紋の作製、『法隆寺史』の編纂、『法隆寺銘文集成』の刊行、法隆寺夏季講座の開催など、功績を数え上げるとまさに枚挙に暇がない。

 小滝氏によるインタビュー時、髙田さんは肺気腫のため酸素ボンベが手放せなくなっていた。書籍の出版計画を伝えると喜んでいたそうだが、2017年4月帰らぬ人に。享年76。本書が発行されたのはその半年後の10月だった。長女聖子(しょうこ)さんは「法隆寺の新たな資料や新事実を発見したときの、キラキラと少年のように目を輝かせて、喜びが身体から溢れでて止まらない様子は、娘の私も羨ましいほど輝いていました」と本書の「あとがきにかえて」に記す。棺の中で酸素チューブを外した髙田さんは「とても楽しそうで(略)生き生きとした立派な死顔」だったという。聖子さんは「劇団☆新感線」に所属する女優。髙田さんは俳優になることをなかなか認めなかったそうだが、今や劇団の看板として舞台・テレビ・映画で活躍中。2016年には優れた舞台人に贈られる「紀伊國屋演劇賞」個人賞を受賞した。

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<BOOK> 「伝説のコレクター 池長孟の蒐集家魂」

2017年12月20日 | BOOK

【大山勝男著、アテネ出版社発行】

 表紙の人物に見覚えがある人は多いに違いない、教科書にも載っていたから。そう、16世紀半ばにキリスト教を日本に初めて伝えたスペイン出身の宣教師フランシスコ・ザビエル。この肖像画が発見されたのは今から約100年前の1920年。かつて隠れキリシタンだった大阪府茨木市の旧家に伝わる〝開けずの櫃(ひつ)〟の中から見つかった。見つけたのが神戸の資産家で美術品収集家だった本書の主人公、池長孟(はじめ、1891~1955)だ。

       

 ノンフィクションライターの大山氏がその池長の存在を知ったのは、高知で牧野富太郎の植物記念館を訪ねたのがきっかけという。牧野の年譜で池長の経済支援を受けていたことや、池長が大山氏の母校である神戸の育英商業学校(現育英高校)の校長を長く務めていたことなどを知る。そして有名なザビエルの肖像が「池長の存在がなかったら陽の目をみることがなかった」(「あとがき」から)ことが分かり、以来、文献を渉猟し取材を重ねた。

 池長が幼少時に養子になった叔父の池長通は莫大な不動産を持つ資産家で、池長は養父の没後、受け継いだ資産の多くを社会に還元した。植物学者牧野への支援は膨大な植物標本が経済的な困窮のため散逸の危機に瀕していたことを新聞で知ったのがきっかけ。池長は標本を買い取って収蔵・公開する目的で神戸に「池長植物研究所」を開設した。

 だが牧野の標本整理は遅々として進まず、その中で京都大学への標本の寄贈案も浮上した。「学者ほど融通のきかぬものはなし」。池長は日記の中でこう本音を吐露したこともある。研究所は結局公開されることなく、標本類は牧野に返却することで決着した。この間、約25年の歳月を要した。牧野に関しては東京帝国大学時代の恩師松村任三との確執が有名だが、恩人池長との間でも深く長い溝が生まれていたわけだ。ただ池長が手を差し伸べていなかったら、貴重な牧野の標本類も散逸していたかもしれない。

 池長は安土桃山~江戸時代に約300年にわたり生まれた南蛮美術・工芸品を集中的に収集した。その中には「聖フランシスコ・ザビエル像」をはじめ「泰西王侯騎馬図屏風」「織田信長像」(いずれも重要文化財)など傑作も多い。ザビエル像の作者は不明だが、狩野派の絵師ともいわれる。池長は収集した5000点を超える作品群を系統的に分類・解説した労作『邦彩蛮華大宝鑑』を出版し、作品を展示する「池長美術館」も設けた。

 ところが終戦後、美術館はGHQ(連合国軍総司令部)に接収され、新設された財産税などで池長は一転経済破綻状態に。そのため池長は作品群の散逸を防ごうと収蔵品を美術館ごと神戸市に寄贈することを決断した。これに伴って池長美術館は1951年、市立神戸美術館となり、さらに没後の82年には〝池長コレクション〟を母体に神戸市立博物館が開館した。池長は晩年、東灘区の簡素な家で過ごしたという。池長自身はクリスチャンではなかったが、洗礼を受けた三男潤氏はカトリック大阪大司教区大司教を長く務め、日本カトリック司教協議会会長にもなっている。

 大阪・道頓堀の名物の一つにマラソンランナーが両手を広げゴールするグリコの看板がある。戦前の1935年に設置されたのが始まりで今の看板は5代目。ただ初代の看板はグリコ自体にも白黒写真しか残っていなかった。そのため色情報の提供を広く呼び掛けたところ、池長コレクションの中にカラー映像があることが分かった。映画好きの池長が米国製の十六ミリカラー映写機で京阪神の市街地を撮影していたもので、関係者を感激させたことは言うまでもない。池長にまつわる愉快なエピソードの一つだ。

 本書の副題は「身上潰して社会に還元」。池長も「身上潰して南蛮狂い」と自嘲するほど南蛮美術の収集に使命感を持ち資産をつぎ込んだ。「父は資財を投げ打って公共のために尽くした。この父の遺志が不知不識の間に私の心に乗り移っていた」「能力ある者は能力を、金ある者は金を、最大限に用いて世の中に役立ちたい」。池長は繰り返しこう述べ、こう書き残している。かつてバブル全盛期に芸術文化への支援活動を示す「メセナ」という言葉が持てはやされた。1990年には「企業メセナ協議会」も発足した(現在も活動中)。しかし巷からは「今やメセナは死語」という声も聞こえる。掛け声の「社会貢献」の裏で内部留保に血眼になっている企業の経営陣の方々にも手に取ってもらいたい一冊だ。

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<BOOK> 「写真民俗学 東西の神々」

2017年12月12日 | BOOK

【芳賀日出男著、角川書店発行】

 著者の芳賀氏は1921年、満州(中国東北部)生まれ、96歳。民俗写真家の草分けとして長年にわたり世界各地の祭りや民俗芸能を取材してきた。日本写真家協会創立者の一人でもある。1970年の大阪万博ではお祭り広場のプロデューサーを務め、73年には全日本郷土芸能協会を創立した。『日本の祭』『日本の民俗 祭りと芸能』『神さまたちの季節』『神の子 神の民』など多くの著書がある。

       

 本書はA5版312ページ。タイトルの「東西の神々」が示すように、世界各地の人と神々との多様な交わり・祭礼を「神を迎える」「神を纏(まと)う」「神が顕(あらわ)る」「神に供す」の4部14巻に分類して紹介する。掲載写真は400枚を超え、その大半を迫力のあるカラー写真が占める。「先輩や友人に恵まれたおかげでプロの写真家の一人に加わることができた。まさかこの年齢までカメラマンが続けられるとも、酒が呑めるとも思ってもいなかった。まあ、恵まれた人生なのだろう」。芳賀氏は巻末の「カメラを手にして九十年」の中でこう述懐する。本書は世界を旅してきた民俗写真家人生のまさに集大成ともいえる。

 民族や宗教が違っても、世界各地に日本とよく似た祭りがある――。本書を通読しての感想を一言で表現するとこうなる。例えば「来訪神」。日本では年の変わり目に様々な歳神が現れ子どもたちを諭す。秋田の「ナマハゲ」、能登の「アマメハギ」、下甑島(鹿児島県薩摩川内市)の「トシドン」……。一方、オーストリアの聖ニコラウスの祭りには全身を麦わらで覆ったり異様な鬼面を着けたりした魔物が登場し、スイスのクロイゼの祭りには体中に木の葉や岩苔を貼り付けた〝植物人間〟が出没する。

 「火」「仮面」「人形」「獅子」「巨人」などをキーワードとする祭りにも内外で類似点や共通点が多い。巨人の祭りは日本では鹿児島の「弥五郎どん」や三重県四日市市「大四日市まつり」の「大入道」などが有名。一方、海外ではスペイン・タラゴナの巨人の祭り、オーストリアのサムソンの祭りなど。1992年にスペイン・バルセロナで世界巨人博覧会が開かれ、日本からは「弥五郎どん」が参加したそうだ。「人々を魅了する巨人たち。姿は違えど、その大きな力に憧れ、縋(すが)り、崇める。巨人とは人類共通の『夢の現れ』ではなかろうか」(芳賀氏)。日本で法螺貝といえば山伏を連想するが、その法螺貝が祭りの楽器として広く東南アジア諸国やオセアニア、ハワイなど太平洋沿岸地域で使われていることも本書で初めて知ることができた。

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<BOOK> 「美宇は、みう。夢を育て自立を促す子育て日記」

2017年09月23日 | BOOK

【平野真理子著、健康ジャーナル社発行】

 女子卓球界のホープ平野美宇の活躍がめざましい。今年1月の全日本選手権シングルス決勝で石川佳純を破って史上最年少(16歳9カ月)優勝を飾ると、4月のアジア選手権(中国・無錫)も優勝、さらに6月の世界選手権(ドイツ・デュッセルドルフ)では日本人選手として48年ぶりのメダル(銅)を獲得した。とりわけ完全アウェーの中でのアジア選手権では準々決勝でリオ五輪の金メダリスト丁寧(世界ランク1位)を接戦の末に破ると、準決勝・決勝でも中国のトップ選手を次々に撃破した。「まさか」。そのニュースに接したときの感動と驚きは2年前のラグビーワールドカップで日本が強豪南アフリカを破ったときに優るとも劣らぬものだった。

       

 2000年4月14日生まれ。まだ17歳の高校生だ。3歳のとき卓球を始め、早くから「第二の愛ちゃん」と注目されていた。だが、昨年のリオ五輪では同学年のライバル伊藤美誠に先を越され日本代表落選の屈辱を味わった。その悔しさがその後の飛躍のバネの一つになっているのは間違いない。平野の夢は「オリンピックで金メダル」。強い精神力で目標に向かって進む平野はどんな家庭環境で育ったのだろうか。母で「平野卓球センター」(山梨県中央市)の監督を務める平野真理子さんは「親ばかと笑われるかも」と前置きしながら、平野には「努力する才能」が備わり「やると決めたらとことんのめり込む努力型」「ずば抜けた集中力が美宇の武器」と分析する。

 5歳のとき平野は記者から「第二の愛ちゃん」っていわれているけど、うれしいと聞かれた。そのときの返答が「美宇は、みう」。「そう、どんな時も美宇は美宇らしくあればいい。これ、私のお気に入りの言葉です」(真理子さん)。ということで、この言葉が本書のタイトルになった。平野は3姉妹の長女。副題が示すように、本書には子育てのノウハウがいっぱい詰まっている。「自分のことは自分で」「子の自立は親次第」「褒める・叱るのバランスは三対一」「前向きに物事を捉えるプラス思考」……。橋本聖子さん(参議院議員、日本スケート連盟会長)の言葉に「人間力なくして競技力の向上なし」があるが、真理子さんも「あいさつや返事、態度や言葉遣い、そして思いやりと感謝の気持ちを決して忘れないように」と口すっぱく言い聞かせてきたそうだ。

 平野のプレースタイルはこの1~2年、相手のミスを待つラリー志向の守備型から、攻撃的な速攻戦法に大きく変わってきた。平野は「今の壁を突き破って東京五輪に出場するためにはプレースタイルを変えるしかない」と自らの強い意志で決断したという。そのため強い足腰づくりへ体幹トレーニングを取り入れるとともに、メンタル面を鍛え直すため様々な分野や考え方の人と積極的にコミュニケーションするよう心掛けてきたそうだ。その努力が実を結び始めた。最新9月発表の世界ランキングは6位。日本人では5位の石川に次いで2番目(伊藤は7位)。ただ1~4位はなお中国の選手が独占しており、卓球王国中国の厚い壁が立ちはだかる。平野の当面の目標は年内の〝トップ3〟入りだ。

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<BOOK> 「全国の犬像をめぐる 忠犬物語45話」

2017年08月01日 | BOOK

【青柳健二著、青弓社発行】

 著者青柳氏は1958年山形県生まれの写真家。メコン川、中国雲南省、アジアのコメなどをテーマにアジア各地を飛び回った後、1999年から「日本の棚田百選」の撮影を始め各地の棚田を撮ってきた。主な著書に『棚田を歩けば』『アジアの棚田 日本の棚田―オリザを旅する』『メコン河―アジアの流れをゆく』など。2009年から1年かけ愛犬(ビーグル犬)と一緒に北海道から沖縄まで全都道府県を隈なく回った。その日本一周旅行で数多くの犬の像や墓、塚、碑などに出合ったのが本書出版のきっかけになった。

           

 忠犬で誰もがすぐ思い浮かべるのは東京・JR渋谷駅前の忠犬ハチ公像だろう。ハリウッド映画になったこともあって、その知名度は欧米人の間でも高い。本書では北から南へ45の忠犬物語を銅像の写真などとともに紹介しており、「忠犬ハチ公と上野英三郎博士像」は第24話に登場する。そこでは青山霊園にあるハチ公の墓や上野博士の出身地・三重県津市の近鉄久居駅そばに立つ像、2015年に東京大学農学部にできたばかりの上野博士に飛びつくハチ公の像なども取り上げている。その一つ前の第23話はタロとジロで有名な南極昭和基地に置き去りにされた樺太犬の話だ。

 忠犬像で多いのが主人を助けた犬。越後柴犬のタマは2回にわたって主人を雪崩から救い出し、盲導犬サーブは雪でスリップし突っ込んできた車から主人をかばって重傷を負い片足を失った。サーブの像は名古屋市の久屋大通公園や岐阜県郡上市などに立つ。江戸時代には飼い主に代わって伊勢神宮や金毘羅大権現(現在の金刀比羅宮)を参拝した〝代参犬〟がいたそうだ。福島県須賀川市には「市原家の代参犬シロの犬塚」、三重県伊勢市には「おかげ犬の像」、香川県琴平町には「こんぴら狗の像」がある。飼い主から旅人に託された犬は街道筋の人たちの世話になりながらお参りし、帰路も多くの旅人の世話になりながら飼い主の元に戻ったという。

 愛媛県松山市にある「目の見えないダンの像」の物語も感動的。ダンはダンボール箱で団地横の川に捨てられていた白い子犬。団地では動物は飼えない規約になっていたが、少女2人の熱い訴えから団地で飼うことになり、少女たちは目の見えないダンのことを紙芝居にした。それが紙芝居コンクールで最優秀に選ばれ、さらに小学校全校でダンの犬小屋づくりにも取り組んだ。その心温まる話は道徳の教材にもなったという。ほかに消防車に乗って1000回も〝出動〟した北海道小樽市の「消防犬ぶん公」、怪物から村人を救った長野県駒ケ根市の「光前寺の霊犬早太郎」や静岡県磐田市の「しっぺい太郎」、和歌山県九度山町の「高野山の案内犬ゴン」なども登場する。

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<BOOK> 「邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡」

2017年07月05日 | BOOK

【七田忠昭著、新泉社発行】

 「遺跡には感動がある」をキーワードに新泉社(東京都文京区)が2004年に刊行を開始したシリーズ「遺跡を学ぶ」の1冊。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は筑紫平野のほぼ中央部に位置する。その遺跡が一躍注目を集めたのは1989年1月。新聞やテレビで「邪馬台国時代のクニ」「魏志倭人伝に書かれている卑弥呼が住んでいた集落とそっくり同じつくり」と大々的に報じられた。それから約28年。邪馬台国論争は収束するどころか、激しさは増す一方。吉野ヶ里に関しては「邪馬台国とは無関係」「邪馬台国より時代が古い」といった声も聞こえる。こうした見立てに対し、著者七田氏は「はたしてそうか」と疑問を投げ掛け、「いまあらためて発掘成果と魏志倭人伝の記述を対照していくと数多くの共通点が浮かびあがってくる」と主張する。

       

 七田氏は1952年、佐賀県神埼市神埼町生まれ。まさに吉野ヶ里遺跡のすぐそばで幼少期を過ごし、遺物の収集に没頭したという。大学では考古学を専攻し、卒業後、佐賀県教育庁に入庁。1986~2008年の22年間、吉野ヶ里遺跡の発掘責任者を務めながら国営吉野ヶ里歴史公園の整備事業に携わってきた。吉野ヶ里への思い入れが人一倍強いのも当然のことだろう。遺跡の場所にはもともと佐賀県の工業団地が建設される予定だった。発掘調査が始まったのは86年5月。七田氏にとっては「自分の手で発掘できる期待感と、発掘が終了したら壊されるという遺跡の運命を感じながらの発掘調査となった」。

 調査が進むにつれ大規模な環壕跡や厖大な土器、甕棺(かめかん)、日本初の巴形銅器の鋳型などが次々に出土した。弥生時代(紀元前5世紀~紀元3世紀)の環壕集落が前期の2.5ha.から中期に20ha以上に、さらに後期には40ha超と、時代を下るにつれ「ムラ」から「クニ」に大きく発展する様子が明らかになっていく。後期の遺跡からは4基の物見櫓や弥生時代屈指の大きさを誇る大型建物、高床倉庫群などの遺構が出土した。こうした中で89年春、佐賀県知事が遺跡保存を表明。そのニュースを見て「これまでの精神的、肉体的な疲労も吹っ飛び、喜びがこみ上げてきた」。七田氏はその直前に佐賀を訪れ遺跡の重要性を強調した佐原眞氏(当時奈良国立文化財研究所指導部長)を〝吉野ヶ里の救世主〟として名を挙げる。吉野ヶ里遺跡は90年史跡に指定され、翌91年には特別史跡へ格上げされた。

 本書は5章構成で、1~4章では出土した遺構や遺物などから「ムラ」から「クニ」への変遷をたどり、最終5章で魏志倭人伝の記述と吉野ヶ里遺跡の発掘成果を比較検証する。その中で両者の共通点として、①弥生中期中ごろ前後に多くの戦闘の犠牲者が甕棺墓に埋葬された状態で出土する②卑弥呼が居住し祭事の場となった宮殿と邪馬台国の長官や次官たちが居住し政事を行った施設の両者がある構成は、まさに祭事の場である北内郭と高階層の人々のいる南内郭がある吉野ヶ里遺跡に極めて似ている③鉄製素環頭大刀や大型・中型の漢鏡などの出土は当地が長く対中国外交に深く関わっていたことを示す――などを挙げる。吉野ヶ里遺跡はいま国営吉野ヶ里歴史公園に姿を変え、年間70万人の観光客が訪れる。その中核の環壕集落ゾーンには集落が最も繁栄した弥生時代終末期(3世紀前半)の大規模集落が復元されている。その時期はちょうど卑弥呼が倭国の女王だった時代とも重なる。

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<BOOK> 「不滅の昭和歌謡 あの歌手にこの名曲あり」

2017年04月04日 | BOOK

【塩澤実信著、北辰堂出版発行】

 著者塩澤氏は昭和5年(1930年)長野県生まれ。双葉社取締役編集局長を経て東京大学新聞研究所講師などを歴任。元日本レコード大賞審査員。主な著書に「雑誌記者池島信平」「動物と話せる男」「昭和の流行歌物語」「昭和の歌手100列伝Part1~3」「昭和平成大相撲名力士100列伝」など。本書では昭和を代表する歌手100人を選び出して50音順に並べ、それぞれの名曲の誕生秘話や裏話を満載している。歌謡曲ファンならずとも昭和世代にとって興味の尽きない1冊になっている。

      

 名曲誕生秘話の一部を紹介すると――。梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』はわが子の誕生に立ち会った作曲家中村八大が「こんにちは、ぼくが君のパパだよ!」と話しかけたのを永六輔が見て感動し作詞した▽小椋佳の『愛燦燦』は味の素のCMソングとして作られた▽岸洋子の『夜明けのうた』は最初坂本九の吹き込みで発売されたが、全然売れなかった▽北島三郎の『函館の女』のタイトルは最初『東京の門』で、歌い出しも「はるばるきたぜ東京」だった。

 秘話はまだまだ続く。小林旭の『昔の名前で出ています』は星野哲郎が知り合いのホステスからもらった電話「遊びに来て。昔の名前で出ていますから」をヒントに作詞した▽小林ルミ子の『瀬戸の花嫁』は山上路夫が作詞した「瀬戸の夕焼け」と「峠の花嫁」の2作が1つになって生まれた▽吉幾三の『雪國』はもともと吉が温泉の宴会芸として即興で作った下ネタ満載の歌だった。

 後に大ヒットしたものの、歌手本人は当初乗り気ではなかったという曲も。ソプラノの渋谷のり子は『別れのブルース』について最初「低いアルトでは絶対歌えない」と反発、深酒と煙草で喉を荒らしてレコーディングに臨んだ▽伊東ゆかりは『小指の思い出』の発売直後、テレビで「あんな唄、私に合わないの」と言って作詞者(有馬三恵子)を絶句させた▽美川憲一は『柳ケ瀬ブルース』を最初「小節が利いたこんな歌、無理よ」と断ったが、レコード会社から「歌えないなら君は当社に必要がない」と言われ渋々レコーディングした▽八代亜紀は『舟唄』が男歌だったことから初めは気乗り薄だった。

 レコード会社の社内で評価が低かったが、大化けし大ヒットしたものも多い。ぴんからトリオの『女のみち』はもともとグループ結成10周年記念として300枚自主制作し無料配布したもので、全国発売には「お笑いグループのド演歌が売れるはずがない」と反対の声が圧倒的だった▽西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』は「こんなネクラな歌が売れるはずがない」と二度も却下された▽倍賞千恵子の『下町の太陽』は発売会議で「下町のイメージがよくない、タイトルも悪い」と指摘され、初プレスはわずか1500枚だった▽キャンディーズの『春一番』もアルバムからのシングルカットの提案に「こんなフォーク調の歌詞が売れるはずがない」と社長に一蹴されていた。

 『こんにちは赤ちゃん』も「子守唄もどきの歌が売れるだろうか」と社内に危惧する声があり、森昌子の『せんせい』も「今どきこんな歌が売れるはずがない」という声まであったという。本書には他にも、舟木一夫の芸名はもともと遠藤実が舟木の前の門下生、橋幸夫に付ける予定だった▽17歳で『潮来笠』でデビューした橋幸夫は「いたこがさ」と読めず「しおくるかさ」だと思ったと自著で告白――といったエピソードも紹介している。橋幸夫のヒット曲の一つに吉永小百合とのデュエット曲『いつでも夢を』がある。吉永小百合には他に『寒い朝』『勇気あるもの』といったヒット曲も。NHK紅白歌合戦には歌手として5回出場した。その吉永小百合が本書の100人に入らなかったのは、熱心なファン〝サユリスト〟にとって少々不満かもしれない。

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<BOOK> 「ヴォイセズ・オブ・アイルランド アイリッシュ・ミュージックとの出会い」

2017年03月22日 | BOOK

【五十嵐正著、シンコー・ミュージック・エンタテイメント発行】

 著者五十嵐氏は金沢出身で、輸入レコード店の店長などを務めた後、音楽評論家として活動、その分野はロックからフォーク、ワールドミュージックと幅広い。著書に『ジャクソン・ブラウンとカリフォルニアのシンガーソングライターたち』など。本書ではアイルランドや米国のアイルランド系の歌手・演奏家・バンドへのインタビュー記事とアルバムの紹介を中心に構成、伝統音楽(トラッド)とそれを元に新たな試みに挑戦するアイリッシュ・ミュージシャンの全貌に迫る。

       

 インタビュー記事で取り上げた演奏家は実に30人/グループ近くに上る。冒頭にアコーディオン奏者シャロン・シャノン、次いで女性バンドのチェリッシュ・レディース。いずれも2016年末の「ケルティック・クリスマス」出演のための来日前にインタビューまたはメール取材した。アイリッシュ・ミュージックを代表するグループやシンガーソングライターとして、エンヤ、メアリー・ブラック、カラン・ケイシー、リサ・ハニガン、ウォリス・バード、ウィ・バンジョー3なども取り上げている。

 かつてエンヤのCDを集中的に買い求めたことがあった。エンヤが一時属していたクラナドのCDも。クラナドはエンヤの兄や姉ら家族を中心にしたバンド。エンヤは2年ほどでマネジャーと共にグループを去るが、その際、兄姉から「彼らをとるか、家族をとるか」と迫られ、その後絶縁状態だったということを本書で初めて知った。アルバムの世界売り上げ枚数が7500万枚に上り〝エンヤノミクス〟とまでいわれた成功の裏にはそんな家族との抜き差しならない確執があったのだ。

 アイルランドから多くの移民がアメリカに押し寄せた。現在アイルランド系米国人は約4000万人ともいわれる。単純に米国の全人口で割ると、実に6人に1人がアイルランド系ということになる。それだけに政治や経済だけでなく音楽の分野でもその影響力は大きい。アイルランドの伝統音楽はアメリカ生まれのフォークやカントリーの源泉の1つといわれ、それが黒人音楽と結びついてロックンロールが生まれたともいう。

  両親がアイルランド出身で『リヴァーダンス』で有名なフィドル(バイオリン)奏者、アイリーン・アイヴァースは意欲的にアフリカや中米出身者など多国籍のメンバーとの演奏活動に取り組んできた。手元にも代表的なアルバム『クロッシング・ザ・ブリッジ』がある。そのアイリーンは「移民は常に合衆国の一部なの。その存在こそが文化を活気づけているのよ。(排斥されるどころか)ほめたたえられるべきものなのにね」とインタビューに答えている。9.11以降、米国パスポートを持たない音楽家の就労ビザ取得が難しくなっている現状を嘆いたものだが、いまアイリーンはその後誕生したトランプ政権の大統領令に怒り心頭状態なのではないだろうか。

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<BOOK> 「そこに音楽があった 楽都仙台と東日本大震災」

2017年01月14日 | BOOK

【梶山寿子著、文芸春秋発行】

 今年も「その日」が巡ってきた。1月17日の阪神大震災。あれから丸22年目に当たる。そして3月11日は東日本大震災から丸6年。「被災者が苦しんでいるときに音楽など不謹慎」。震災直後、神戸でも〝楽都〟を標榜する仙台でも歌舞音曲の自粛ムードが一時広がった。「音楽を自粛することは果たして被災者のためになったのか」。著者梶山寿子さん(ノンフィクション作家・放送作家)はそんな素朴な疑問から、被災者や音楽関係者に広く取材し、音楽が被災者の心に寄り添い、慰め励ましたいくつもの物語を掘り起こした。

       

 「♪大空を見上げてごらん あの枝を見上げてごらん…いっしょうけんめい生きること なんてなんてすばらしい あすという日があるかぎり しあわせを信じて」。東日本大震災から約1週間後の3月19日、被災者避難先の仙台市立八軒中学で『あすという日が』(山本瓔子作詞・八木澤教司作曲)の歌声が響いた。歌ったのは吹奏楽・合唱部の生徒たち。その模様をたまたま取材に訪れていたNHKが全国ニュースで流した。直後から中学には全国から励ましの手紙や演奏依頼が相次いだ。

 震災から約2カ月後、東京で南こうせつのコンサートにゲスト出演した。そのときの動画などがユーチューブで流れている。そのレベルの高さに驚いた。それもそのはず、八軒中の吹奏楽・合唱部は前年秋の全日本吹奏楽コンクール東北大会で優勝、合唱も全日本合唱コンクールで銀賞に輝いた実力校だった。その春も3月19日に吹奏楽全国大会(鹿児島)と合唱大会(福島)に部員を振り分けて出場する予定で、カレンダーに「全国大会まであと○○日」と書いて練習に励んでいた。 

 だが、震災で福島の大会は中止になり、鹿児島の大会への出場も無理に。それなら大会の日に合わせ練習の成果を保護者を前で披露しよう。避難所の人たちに配慮して音が漏れないよう音楽室でささやかに。3月19日の演奏会は最初こんなふうに企画された。ところが避難所の運営委員の中から「私たちも応援するからぜひ聴かせて」といった声が上がる。こうして「音楽の集い」が被災者を前に開かれた。生徒たちの『あすという日が』はCD化され、その収益による寄付の総額は1000万円を上回った。阪神大震災を体験した神戸市の市立玉津中学は八軒中の活動を知って、吹奏楽部を中心に繰り返しチャリティー演奏会を開いた。両中学の交流にも心が温まる。

 中学の吹奏楽部といえば、今年1月9日のNHK「おはよう日本」で、熊本県益城町の町立益城中学の吹奏楽部が紹介されていた。益城町は1年前の4月14日の熊本地震で2度震度7に直撃されたところ。益城中の吹奏楽部は2015年の「第1回全日本ブラスシンフォニーコンクール」中学の部の優勝校。昨年12月25日には復興への願いを込めて、町民ら約200人を前に恒例のクリスマスコンサートを開いた。NHKの放送の中で、音楽室から流れる練習中の生徒たちの演奏に、畑仕事中の男性が「元気づけられる」と話していたのが印象的だった。コンサートの直後、東京で開かれた第2回の全日本コンクールでは見事に優勝し2連覇を飾った。

 本書には八軒中のほか、仙台フィルハーモニー管弦楽団、地元の人気バンド「MONKEY MAJIK」、仙台出身のピアニスト・小山実稚恵さん、ドイツ在住の指揮者山田和樹さんの活動なども紹介している。仙台フィルは震災2週間後からお寺や街角、避難所、仮設住宅などで「つながれ心、つながれ力」をスローガンに無料コンサートを展開し、小山さんは悲しみの中で自問自答の末「自分にはピアノしかない」と、小学校を中心に30カ所以上で演奏してきた。山田さんは「復興とは未来を考えること。未来は子どもたちにつながる」と帰国のたびに子どもたちの指導に力を入れる。著者は取材を通じて確信した。「音楽の力は目に見えない。だが音楽は傷ついた被災者の心にやさしく寄り添い、生きるエネルギーを取り戻す助けになる」 

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<BOOK> 『北の富士流』

2017年01月08日 | BOOK

【村松友視著、文芸春秋発行】

 北の富士(勝昭さん)は幕内優勝回数10回を誇る第52代横綱。現役引退後は九重部屋の親方として名横綱千代の富士と北勝海(現日本相撲協会理事長)を育て上げた。2人の優勝回数は合計39回(千代の富士31回、北勝海8回)。1985~87年には九重部屋10連覇という黄金時代を築いた。まさに名伯楽である。日本相撲協会退職後の1998年からはNHK専属の相撲解説者としてお馴染み。テレビ中継での粋な着物姿と、歯に衣着せぬ辛口の解説が評判を呼ぶ。この3月28日には75歳の誕生日を迎えるが、歳を感じさせない若々しさだ。

       

 著者の村松氏は出版社勤務を経てフリーとなり『時代屋の女房』で直木賞を受賞。北の富士と初めて顔を合わせたのは同じ直木賞作家で作詞家の山口洋子さんが経営する銀座のクラブ「姫」だった。北の富士の人間味に魅せられた村松氏は店に行くたび、常連の北の富士向けにコースターに「北天祐は横綱になれますでしょうか」といった質問やメッセージを書いて店の人に託した。次回行くと必ず北の富士が返事を書いたコースターを店から渡された。それが数年続いた。初対面から30年後、知人を介して北の富士との初めての食事会が開かれた。床の間に白い紙が納まったガラス張りの額があった。その白い紙は村松氏が「姫」で北の富士宛てに書いたコースターだった!

 村松氏は北の富士を〝謎の生命体〟と形容する。北の富士が北海道から上京して入門したのは中学卒業直後。力士最高峰の横綱まで昇りつめ、2人の横綱を育て、今なお相撲解説者として人気を博す。「自身の魅力や努力もさることながら、その個性の輝きを評価する存在にも折々に恵まれなければ、かくも長く〝現役〟が持続するはずもない……〝魅力〟〝人気〟〝運〟というものをくるみ込んだ北の富士流が、いかなる絵柄の彩りによって構成され、どのようなものがたりを紡いできたのだろうか」(「前書のようなもの」から)。北の富士の友人、力士仲間、弟子などへの幅広い取材を通じて、「比類ない華、粋、男気、そして色気などをキーワードとして」(「後書のようなもの」から)北の富士流の〝謎〟を探った。

 入門後、同じ出羽海部屋の若手力士だった松前山(渡辺貞夫さん)によると、北の富士は「いつ横綱になっても困らないように」と、いつも土俵入りの真似をしていたという。「その真似事が現実化したというわけで、〝夢〟は〝見る〟ものではなく〝手にする〟ものであるという証しを身をもって示して見せた」。北の富士は歌がうまく、大関時代には『ネオン無情』というレコードも出している。マスコミからは〝夜の帝王〟というニックネームを献じられた。村松氏は「北の富士本来のセンスが、遊びの場で出会う人々によって、さらに肥やされ、磨かれ、洗練され、醸成されていった」とみる。2人の名横綱を育てた手腕については「他の名伯楽とのちがいは、その〝人間味満開の男道〟による指導スタイルの師匠というところにあるのではなかろうか」。そして「派手な〝求心力〟と、その裏側にある求心的な〝実〟との一体化によって、北の富士流は成り立っているにちがいない」。

【追記】1月8日から始まった2017年初場所、初日のテレビ解説者は北の富士とともにNHK専属解説者の舞の海秀平さんだった。ということは2日目の9日は北の富士? そう思いながら9日の朝刊スポーツ面を開いたところ片隅に「北の富士さんが心臓を手術」という小さな記事。それによると、12月末に心臓手術を受け現在療養中のため初場所の出演は見合わせることになったとのこと。今場所でも味のある名解説を期待していただけに残念。3月大阪場所ではまた元気な着物姿を見せてほしいものだ。

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<BOOK> 「外国人がムッとするヤバイしぐさ」

2016年12月29日 | BOOK

【ジャニカ・サウスウィック、晴山陽一共著、青春出版社発行】

 ジャニカ・サウスウィックさんは米国のユタ州出身。上智大学を卒業後、15年以上にわたってNHKの「基礎英語」「えいごリアン」などに出演する傍ら、タレント事務所、キッズ英会話教室なども経営。著書に『ジャニカの5秒で返信!英会話』などがある。共著者の晴山陽一氏は早稲田大学卒業後、出版社に入り英語教材の開発を手掛け、1997年に執筆活動のため独立。著書に『たった100単語の英会話』『英単語速習術』など。

       

 ジャニカさんは本書執筆の狙いを「はじめに」の中で「日本のよさを知らない外国人たちから、いわれのない誤解を受けないための『必要最小限のアドバイス』をしたいと思い」と記す。ジャニカさんが英語で書いたそれらのアドバイスを晴山氏が訳し編集した。誤解を招きやすい日本人の「ヤバイしぐさ」全73項目を、危険度別に「絶対ダメ!」レベルから「私なら許すけど!」レベルまで5段階に分けて紹介する。

 危険度レベル5の「絶対ダメ!」は全部で15項目。その一部を列挙すると――「中指使い」は見るのもイヤな危険なしぐさ▽鼻をすする日本人に、心の中で「オェ~」▽弱々しい握手は印象最悪…ホントに気持ち悪いんです▽ゲップをするくらいなら、オナラのほうがまし!▽日本人の「OKサイン」にドキッ!▽外国人の子どもの頭は、なでてはいけません!▽約束の時間より前にやってくるのは迷惑です!――など。危険度レベル4の「やめてください!」には▽なぜ、笑うとき口を手でふさぐの?▽写真を撮るときに、ピースサインって…▽声をかけずに、人の前をスッと横切る▽「すみません」「すみません」と言いすぎ!▽愚妻や愚息など、家族のことを悪く言う▽下ネタ連発もNG! まだまだ見かけるセクハラ行為――など。

 レベル3の「以外かもしれないけれど!」、レベル2の「気をつけて!」には▽プレゼントをもらっても、その場で開けないのはナゼ?▽ブランドものを見せびらかしすぎます▽パーティーなどに夫婦同伴で来ない▽「つまらないものですが」は日本人同士に限って▽音を消すためにトイレの水を2回流す▽なぜ日本人は、人前であんなに酔っ払うの?▽目が合ったのに、挨拶せずにスルーって…▽混んだ電車の中で人に触れてもダンマリ――などが並ぶ。「私なら許すけど!」のレベル1は、▽乾杯するとき、グラスをカチンッと合わせる▽会席のとき、座る位置に異常にこだわる▽食べるとき皿や器を持ち上げる――など。

 本書を通じて何気ない日本人の仕草や行動の中に、欧米人の目には奇異や不快に映るものが実に多いことに改めて気づかされた。日本人の美徳の一つとされてきた謙遜する態度も欧米人には分かりにくく、逆に自信のなさや弱々しさを感じさせているようだ。日本と欧米の文化や風習、生活習慣などの違いもあるけど、率直な指摘にはやはり謙虚に耳を傾けるべきだろう。

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<BOOK> 「江戸時代人物画帳 シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀の描いた庶民の姿」

2016年12月06日 | BOOK

【小林淳一編著、朝日新聞出版発行】

 江戸時代後期に長崎・出島のオランダ商館付き医師として来日したドイツ人医師・植物学者シーボルト(1796~1866)。在日中に多くの植物を採集し『日本植物誌』を著したが、その写生原画の多くを描いたのは川原慶賀(1786~没年不詳)らのお抱え絵師だった。川原は〝シーボルトの眼〟になって風俗画や風景画、肖像画なども描いた。本書は1826年にオランダ使節の江戸参府に同行した川原が描いた109点の人物画を、服飾史や民俗学の学者、シーボルト研究家たちの解説付きで1点ずつ詳しく紹介する。

       

 オランダ商館長らの江戸参府は11代将軍徳川家斉に拝謁するのが目的で、1826年2月15日に江戸に向けて長崎を出発した。総勢57人の日本人の随員も同行した。往路55日、江戸滞在37日、復路51日という全143日の旅程。この間に川原が描いた人物画109点は全て紙本着彩で1冊の画帳に閉じられていた。描かれたのは女房、花魁(おいらん)、花嫁、力士、農夫、猟師、獅子舞、人形遣い、大道芸、煙草売り、醤油売り、老若男女の旅姿など実に多彩。ただ武士は一人も登場しない。

 109人の中に大井川の「川越人足」の刺青(いれずみ)姿を描いたものが6点もある。刺青はシーボルト来日前後の文化・文政年間(1804~30)に最も隆盛を極めたという。シーボルトにとってもとりわけ興味深いものだったのだろう。描かれた刺青の絵柄は雲竜・雷神・桜など様々だが、中でも「幽霊と卒塔婆」の刺青は不気味でおどろおどろしい。右腕に墓石と卒塔婆、左腕に南無阿弥陀仏、尻に髑髏(どくろ)、背中に笑う幽霊が彫られている。熊の毛皮をまとって小熊を連れた行商の「熊の胆(くまのい)売り」や「鯨取り」「鳥刺し」「盲目の三味線弾き」などもシーボルトの目を引き付けたのだろう。

 女性の帯に蝙蝠(こうもり)の図柄が描かれたものが2点ある。「身づくろいをする遊女」と「長崎の髪結い」。蝙蝠は西洋では不吉な動物。ただ日本ではかつて蝙蝠の蝠の音が福に通じることから吉祥の意味を持つとして浴衣などの模様として好まれ、錦絵などにも描かれた。シーボルトはこの蝙蝠の模様を珍しく思って川原に描かせたのだろうか。シーボルト研究家の宮坂正英氏が「人物画帳」の中で出色の出来栄えと評するのが「長崎の芸者」。左手に三味線を持ち極上の着物を身に着けた芸者が優美に描かれている。江戸時代唯一貿易を許された長崎には高価な嗜好品や贅沢品が多く運び込まれ、特に織物は豊富で長崎の遊女や芸者の装いは流行の先端を行く豪華なものだったという。

  「川原慶賀は時として多分に想像を交えた絵をシーボルトのために描いた」(民俗学者の小林淳一氏)。画帳の中に着物を盗み出した黒覆面・黒装束姿の「泥棒」があるが、この絵についても「盗賊を見つけて写生したのではなく、(当時の人々に共有されていた)そのイメージを描いたと考えるべきである」(日本近世演劇研究者の武井協三氏)。裕福な商家の若い女性を描いた「娘」では晴れ着の裾から赤い蹴出しと素足がのぞき、美しい年増の女性を描いた「女房」では裾がはだけ不自然な形で赤い色が見える。「子守の娘」や「古着屋の女」には日傘が描かれているが、「この時代、贅沢をするのは禁止されていて、日傘もその例外ではなかったのだが」(民俗学者の近藤雅樹氏)。川原が描いた「109態」は190年前の庶民の姿を振り返るうえで貴重な資料だが、専門家の目にはちぐはぐな点が気にかかる〝研究者泣かせ〟の作品も多く含まれているようだ。

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