く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<福山市> バラの花が溢れる〝100万本のばらのまち〟

2019年07月30日 | 旅・想い出写真館

【出発点は市民有志が約60年前に植えた苗木1000本】

 広島県の南東部に位置する県下第二の拠点都市福山市。初めて1泊2日で訪ねた福山は駅前や目抜き通り、公園など至る所にバラが咲き乱れる花の町だった。終戦直前の1945年8月8日、福山は激しい空襲で市街地の約8割を焼失し、一面焼け野原となった。荒廃した町に潤いと安らぎを、と市民有志が立ち上がり、11年後の56年、南公園(現在のばら公園)に約1000本のバラの苗木を植えた。これがバラの町づくりの出発点になったそうだ。

 福山市は「ばらのまち条例」で5月21日を「ばらの日」とし、バラを市の花に制定するなど、市民とともに〝100万本のばらのまち〟づくりを推進してきた。『百万本のバラ』といえば加藤登紀子さんのヒット曲。その加藤さんが2014年から福山市の〝100万本のばらのまち福山応援大使〟を務め、16年には加藤さんと市民による「100万本達成記念音楽祭」が開かれた。応援大使は17年から歌手の手嶌葵さんがバトンを引き継いでいる。

 

 毎年5月にはばら公園を中心に「ばら祭」が開かれる。その公園に向かう途中、駅前の大通りにある花壇で「ローズふくやま」というピンクの大輪の花に出合った。花の名前の下には「市制施行70周年・命名」と記されていた。「ふくやま」と名の付くバラはこの花を含め現在10種もあるそうだ。ばら公園には日本、アメリカ、フランス、オーストラリアなど国別の栽培コーナーもあり、端境期の真夏にもかかわらず色とりどりの花が咲いていた。関係者が丹精込め日々お世話しているのだろう。2024年には福山で「世界バラ会議」が開かれるという。

 

 ばら公園の北西にある中央公園の一角に、福山空襲の悲惨さを伝える「追憶」と題した「戦災死没者慰霊の像(母子3人像)」と「原爆死没者慰霊碑」が立っていた。慰霊の像の後方には数多くの折鶴が吊るされ、慰霊碑の脇には広島市寄贈の被爆石も展示されていた。「平和への願い」と題した慰霊碑の説明文によると、福山市の被爆者も「およそ千人に及ぶ」という。

 

 ばら公園の見学後、本堂と五重塔が国宝に指定されている明王院へ。平安初期の807年の創建で、弘法大師の開基と伝わる。真言宗大覚寺派の寺院で、現在の本堂は鎌倉末期の1321年の建立。本堂左手に立つ朱塗りの五重塔は高さが約29m。南北朝時代の1348年築で、五重塔としては全国で5番目に古いそうだ。すぐ北側には明王院の鎮守のために祀られた草戸(くさど)稲荷神社がある。本殿、拝殿は昭和末期に建てられたコンクリート製の構造物の上にあり、階段をぐるぐる上りきると福山の市街地を一望することができた。明王院のそばを流れる芦田川の中州からは、鎌倉~室町時代に門前町として栄えた「草戸千軒」と呼ばれる遺跡が発掘されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ナツフジ(夏藤)> 夏の盛りに開花「土用藤」の別名も

2019年07月27日 | 花の四季

【長さ15~20cmの花序に淡黄緑色の蝶形花】

 マメ科フジ属(またはナツフジ属)のつる性落葉低木。フジの仲間はほとんどが春に咲くが、このナツフジは真夏の土用の丑の日を中心に7~8月に開花する。このため「土用藤」と呼ばれることも。葉の脇から長さ15~20cmほどの総状花序を下垂、マメ科特有の蝶形の小花をたくさん付ける。花色はうすい黄緑色。秋に長さ10~15cmの豆果ができる。

 日本固有種で、本州の関東以西、四国、九州の山林に自生する。花序や葉の形などは一見ノダフジやヤマフジに似るが、ナツフジは全体的に小ぶりで、盆栽用として栽培されることも多い。つるの巻き方はノダフジが右巻きなのに対し、ナツフジはヤマフジと同じ左巻き。変種に花色がうすいピンク色のものがあり、「アケボノナツフジ」と呼ばれているそうだ。

 万葉集の大伴家持の歌に登場する「ときじき藤」をナツフジとする説がある。「わが屋前(やど)のときじき藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを」(巻8-1627)。家持が妻になる坂上大嬢(おおいらつめ)に贈った歌で、「ときじき」は「時ならぬ」「時節外れの」を意味する。「夏藤の揺るる山門父の忌来る」(森あさえ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<龍野> 国の「伝建保存地区」目指す〝播磨の小京都〟

2019年07月25日 | 旅・想い出写真館

【童謡「赤とんぼ」や淡口醤油で有名な詩情豊かな城下町】

 兵庫県南西部に位置し〝播磨の小京都〟といわれるたつの市龍野。龍野藩5万3000石の城下町で、今も武家屋敷や町家など古い町並みが残る。龍野淡口(うすくち)醤油と童謡「赤とんぼ」の作詞者三木露風を生んだ〝童謡の里〟としても知られる。その龍野で国の重要伝統的建造物群保存地区への指定に向けた機運が盛り上がっている。

 たつの市は歴史的な景観を保全するため、今年6月「たつの市龍野伝統的建造物群保存地区」を決定・告示した。対象地域は揖保川西側の町並み約15.9ヘクタール。今後地区内で建物の新築や増改築、新しい看板の設置、樹木の伐採など現状を変更する際には市への許可が必要になってくる。市は地域住民の合意と保存地区決定をもとに今後県と一緒に国に働きかけていく。「めざそう重要伝統的建造物群保存地区~未来へ残したい龍野の町並み」。商店の店頭などにはこんな文言と町並みの写真が印刷されたポスターがあちこちに貼られていた。

 

 龍野のほぼ中心に位置し、シンボル的な存在となっているのが「うすくち龍野醤油資料館」。1932年に菊一醤油(のちのヒガシマル醤油)の本社事務所として建てられた洋風建築で、今は醤油に関する資料や醸造用具などの展示施設になっている。入館料はわずか10円。館内に直径40cmほどの〝合図太鼓〟が吊るされていた。明治初期のもので、仕事の開始などを告げるために打ち鳴らされたそうだ。モダンな洋風建築がもう一つ。1924年に龍野醤油同業組合が建てた組合事務所で、こちらは2年前に観光交流拠点「醤油の郷 大正ロマン館」として再オープンした。いずれの建物も国の登録有形文化財。

  

 大正ロマン館の西側、龍野城の南側には三木露風の生家があり、近くの如来寺には露風の歌碑や遺愛の筆を埋めた筆塚も立つ。生家からさらに西に進むと郷土出身の文化人4人の文献や遺品を集めた「霞城館(かじょうかん)」がある。その4人は三木露風と詩人の内海青湖、歌人の矢野勘治、哲学者の三木清。露風の「赤とんぼ」は最初発表されたとき、出だしは「夕焼小焼の山の空 負はれて見たのはまぼろしか」だったそうだ。旧制第一高等学校の寮歌「嗚呼玉杯に」の作詞者矢野勘治のコーナーでは、鳩山一郎(のちの内閣総理大臣)入学時(明治33年=1900年)の痛快なエピソードが紹介されていた。男勝りの鳩山一郎の母春子が校長と面会、寮生活の不潔・不摂生などを列挙して一郎の自宅通学を申し出た。これに対し、校長は言うだけ言わせて「入寮をお嫌いなら他の学校を選びなさい」とただ一言――。

 

 龍野城(別名霞城)は最初山城として鶏籠山(けいろうざん)の山頂に築かれ、その後山麓の平山城となった。現在の本丸御殿や隅櫓などは1970年代に再建された。周辺には建物自体が資料館になっている武家屋敷(主屋の築年は1837年頃)や家老門などがある。旧脇坂屋敷周辺には白壁の土塀が続き今も城下町の雰囲気が漂う。古い町並みの西側には県内有数の桜の名所で、文学の小径や童謡の小径などもある龍野公園が広がる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ナツツバキ(夏椿)> ツバキに似た清楚な白花を上向きに

2019年07月23日 | 花の四季

【別名「シャラノキ」はインド原産の沙羅双樹との混同から】

 ツバキ科ナツツバキ属の落葉高木。本州の東北中部以南と四国、九州、朝鮮半島の山地に自生し、高さは10~20mにもなる。初夏の6~7月頃、花の形がツバキに似た白い5弁花を上向きに付ける。花径は6cmほどで、朝咲いて夕方には落花する一日花。花びらは薄く、縁には細かいギザギザの鋸歯がある。別名「シャラノキ(沙羅の木)」。近縁種に花や葉が小さく、茶庭によく植えられるヒメシャラがある。

 別名は光沢のある木肌がよく似て白い花を咲かせるインド原産のサラノキ(フタバガキ科)と間違ったことによる。釈迦が2本のサラノキの下で入滅したという伝説から仏教の聖樹とされ、広く「沙羅双樹(さらそうじゅ)」の名前で知られる。ただサラノキは熱帯性で寒さに弱いため、日本では温室以外での栽培は難しい。各地の寺院などに植えられ沙羅双樹と呼ばれているものも、ほとんがナツツバキであるといわれる。

 沙羅双樹というと、平家物語の冒頭を思い浮かべる方も多いことだろう。「諸行無常の鐘の声 諸行無常の響あり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」。この沙羅双樹もナツツバキを指すといわれる。学名は「Stewartia pseudo‐camellia(ステワーティア・プセウドカメリア)。属名は18世紀の英国の政治家で植物研究家でもあった伯爵のジョン・スチュワート(1713~92)に因み、種小名は「ツバキ属に似た」を意味する。「踏むまじき沙羅の落花のひとつふたつ」(日野草城)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<福山城博物館> 「福山藩の誕生―初代勝成から五代勝岑まで」

2019年07月21日 | 考古・歴史

【大和郡山から福山入封400年を記念して特別展】

 山陽新幹線の福山駅のすぐ目の前に位置する福山城。これほど駅に近い城は他にないだろう。福山藩の初代藩主は徳川幕府から西国鎮護の命を受け、1619年に大和郡山から入封した譜代大名の水野勝成。今年はちょうど入封(にゅうほう)400年の節目に当たる。福山城博物館でそれを記念した特別展「福山藩の誕生―初代勝成から五代勝岑(かつみね)まで」が始まった。

 初代勝成は入封翌年の1620年に築城を開始、京都・伏見城などからの移築もあって僅か2年余りで5層6階建ての大城郭を築いた。その威容は全国8大名城の一つに数えられていたが、終戦直前の1945年8月8日の福山空襲で天守閣を焼失。その後、1966年に市制50周年事業として復元された。現在は博物館として利用されている。築城時の姿を今に残す「伏見櫓」と「筋鉄(すじがね)御門」は伏見城からの移築といわれ、いずれも重要文化財に指定されている。

 

 福山藩の歴代藩主は5代続いた水野家の後、廃藩置県まで松平家1代、阿部家10代と続いた。今回の特別展ではそのうち城郭や城下町を整備して現在の福山の基礎を築いた水野家5代の足跡を文書や絵図、工芸品などで辿るもの。館内に入ると、常設展示スペースに水野勝成が徳川家康と並んだ蝋人形2体が飾られていた。勝成の父忠重の姉は家康の生母。また勝成の妹は家康の養女として肥後熊本藩初代藩主加藤清正の継室となっている。

 

 勝成の遺愛品の中に「小尉(こじょう)」と呼ばれる能面があった。家康から拝領したもので、伏見城の能舞台で実際に使ったそうだ。『勝成事跡』と呼ばれるものの写しも展示中。1641年に徳川家光の命を受け水野家の勲功を自ら書き上げ献上したもので、桶狭間の戦いから大坂の陣に至る本人の活躍ぶりを詳細に記す。福山の城下町には早くから上水道が敷設された。それを物語る「福山町割水道図」や町人屋敷内から出土した水道木管なども展示している。

 書状の中に「生類憐みの令遵守の請書」があった。庄屋や村民が連名で遵守を誓った証文で、徳川綱吉が制定した生類憐みの令が末端まで行き渡っていたことを示す。また老中連署奉書「肥後船預かりのこと」(1632年)からは、熊本城2代城主加藤忠広の改易で領地没収となった加藤家が所有していた船を、福山藩が預かって管理していたことが分かる。水野勝成は熊本城受け取りに赴いた際、加藤清正没後清浄院と名乗っていた妹を福山に連れ帰ったという。勝成ゆかりの馬具や軍配、福山城の古地図、5代勝岑の子ども用甲冑「紺糸威童具足」、水野家が備後一ノ宮の吉備津神社に奉納した吊り灯篭や矢を入れる靱(うつぼ)なども展示されている。9月1日まで。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<尾道> 〝文学のこみち〟に不思議な自然の造形!

2019年07月20日 | 旅・想い出写真館

【〝海辺の美術館〟には原節子の「東京物語」も】

 久しぶりに広島県尾道市を訪ねた。今回で3回目。過去2回は眼下に尾道の町並みや尾道水道を一望できる千光寺公園を訪れておらず、それだけがずっと心残りだった。人気の尾道ラーメンで腹ごしらえした後、千光寺山ロープウェイで山頂に向かい360度の眺望を堪能。その後、尾道ゆかりの作家や詩人の作品が刻まれた文学碑が点在する〝文学のこみち〟を辿って下山。その途中、犬のような動物の形をした不思議な松の枯れ木に遭遇した。

 〝文学のこみち〟はロープウェイ山頂駅のすぐ脇から下り、千光寺の本堂を経て千日稲荷まで続く約1キロの遊歩道。その間に自然石に刻まれた徳富蘇峰や正岡子規、志賀直哉、林芙美子、山口誓子、柳原白蓮、吉井勇らの文学碑25基が立つ。頭上にロープウェイ、眼下に市街地と尾道水道を望む一等地には林芙美子の『放浪記』の一節が刻まれた石碑。「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る……」。江戸後期の医師・蘭学者の緒方洪庵や思想家・漢詩人の頼山陽の石碑もあった。

 

 松の不思議な形の幹は〝文学のこみち〟を下り始めてまもなく左手に突然現れた。長い鼻や目、脚などはまるで犬か狼のよう。ただ地元では「イノシシ松」と呼ばれているそうだ。尾道観光協会のHPによると、10年前の2009年に枯れて通行の妨げになっていた松の幹を伐採する際、根元側を少し残して切った結果、時間の経過とともに偶然こんな形になったという。今年の干支は亥年。昨年のHPには「来年の年賀状用に撮影してみてはいかがでしょうか」とあった。

 

 千光寺にお参りする前、JR尾道駅からすぐそばのシーサイド遊歩道を散策した。〝おのみち海辺の美術館〟と名付けられ、尾道の四季を描いたグランプリ作品のレプリカがタイルの壁面に展示されている。そこに原節子・笠智衆主演、小津安二郎監督の映画『東京物語』(1953年)の陶板も埋め込まれていた。今年4月、尾道ライオンズクラブの創立60周年記念事業として設置されたばかり。尾道に住む老夫婦が子どもを頼って上京する。しかし長男長女は多忙を理由にかまってやらない。そんな中、戦死した次男の嫁だけが2人を温かく迎える――。原節子の代表作の一つ、この『東京物語』は2012年、英国映画協会主催の映画監督が選ぶ「映画史上最高の作品ベストテン」で第1位に輝いた。

 

 『東京物語』は尾道のシーンで始まり、尾道のシーンで終わる。香川京子は21歳のとき大ファンだった原節子と『東京物語』で初めて共演した。香川は原節子の当時の人気ぶりをこう語っている。「原さんの人気はものすごくて、尾道にいらっしゃる日には尾道駅に人が殺到。ちょっと危ないというので、ひとつ先の駅まで行ってそこから自動車で旅館の裏口に向かったそうです」(週刊朝日2018年6月29日号)。尾道市出身で後に『時をかける少女』など〝尾道三部作〟を制作した映画監督大林宣彦も15歳のとき『東京物語』の尾道ロケを見学していたそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<耕三寺> 極彩色の伽藍と真っ白な大理石の丘

2019年07月18日 | 旅・想い出写真館

【実業家が母の菩提寺として瀬戸内海の生口島に建立】

 平等院鳳凰堂、日光東照宮の陽明門、室生寺の五重塔、石山寺の多宝塔……。耕三寺(広島県尾道市瀬戸田町)の境内には、これら全国各地の有名寺院の歴史的建造物をそっくり模した堂塔が所狭しと林立する。本堂裏手の小高い場所には大理石約3000トンを使ったという真っ白な石の庭園。そこには不思議な異空間が広がっていた。

 耕三寺は本州側から向かうと、しまなみ海道の生口島北インターを降りて車で約10分の距離、「平山郁夫美術館」のすぐそばにある。浄土真宗本願寺派の寺院だが、その歴史はそれほど古くはない。大正~昭和時代に大阪で特殊鋼管の製造会社を興して財を成した金本福松氏(のちに耕三寺耕三、1891~1970)が母の菩提を弔うため1935年に得度し、翌年から堂宇の建設に着手した。

 

 鮮やかな色彩の山門をくぐり、右手の受付で入場料金(大人1400円、65歳以上のシニア1200円)を払って石段を登る。高くそびえる五重塔は〝女人高野〟奈良・室生寺の国宝五重塔を模したという。さらに階段を上ると孝養門。日光東照宮の陽明門をそっくりそのまま再現したもので、その精緻な造りから耕三寺は〝西日光〟とも呼ばれる。本堂の左手には多宝塔、右手には八角円堂や救世観音大尊像(高さ約15m)が立つ。本堂は京都・宇治の平等院鳳凰堂、多宝塔は大津・石山寺の塔をモデルにしている。堂塔など15棟は国登録有形文化財。境内ではハスの花もちょうど見頃を迎えていた(8月18日まで「夏蓮祭」開催中)。

 

 本堂の裏手に広がる大理石の庭園は「未来心の丘」と名付けられている。広島県世羅町出身の彫刻家杭谷一東氏(くえたにいっとう、1942~)がイタリア中西部のトスカーナ州カッラーラ産の大理石約3000トンを使い12年の歳月をかけて築き上げた。開園は2000年秋。広さ約5000㎡の丘には大小様々なモニュメントが配置されており、最も高い所に立つ「光明の塔」からは眼下に瀬戸田の町並みや瀬戸内の海が広がる。インスタ映えスポットとして若者たちの人気を集めているそうだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<サカキ(榊)> 語源は神の領域と人間界の〝境の木〟?

2019年07月04日 | 花の四季

【代用の植物と区別するため「真榊」や「本榊」とも】

 モッコク科(またはサカキ科)サカキ属の常緑小高木。主に本州の関東南部以西と四国、九州の山地に自生し、大きくなると高さが10mを超える。日本のほか朝鮮半島や中国、台湾にも分布する。初夏に小枝の葉の基部に径1.5cmほどの白い5弁花を下向きに付け、秋に小さな黒い球形の実を結ぶ。「榊」は中国から渡ってきた漢字ではなく日本国内で作られた国字(和字)。その文字が示すように神木として紙垂を付け玉串や御幣として神事に使われ一般家庭でも神棚に捧げられてきた。

 ただサカキが育たない関東北部や東北などではよく似たヒサカキで代用されてきた。ヒサカキはサカキに比べ葉が小さく、縁にギザギザの鋸歯があるのが特徴。ヒサカキは「非榊」や「姫榊」とも呼ばれる。シキミやオガタマ、クスノキ、イチイ、ソヨゴ、ツバキなどを「さかき」として使ってきた地方も多い。サカキを「マサカキ(真榊)」や「ホンサカキ(本榊)」と呼ぶのはそれらと区別するときの呼び名。園芸品種に斑(ふ)入りの「フクリンサカキ」や「ノコギリバサカキ」などがある。

 サカキの語源は神の世界と人間の世界の境に植える「境木」とする説が有力。ほかに葉が年中青々と茂ることによる「栄え木」説や神聖な木を表す「賢木(さかき)」説などもある。学名は「Cleyera japonica(クレイエラ・ジャポニカ)」。属名は江戸時代末期に長崎・出島のオランダ商館長を二度務め、サカキをヨーロッパに紹介したドイツ人アンドレアス・クレイエルに因む。植物学者のカール・ツンベルクが献命した。万葉集でサカキを詠んだ歌は大伴坂上郎女の長歌「…奥山の賢木の枝に白香つく木綿(ゆふ)とりつけて…」(巻3-379)という1首がある。「立ちよりし結の社や花榊」(松尾いはほ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ヒメユリ(姫百合)> 初夏、朱赤色の6弁花を上向きに

2019年07月02日 | 花の四季

【絶滅危惧種、万葉集には「姫由理」として1首】

 ユリ科ユリ属の植物は世界に約100種が分布し、そのうち15種ほどが日本に自生する。ヒメユリは花を上向きに付けるスカシユリ系の1種で、6~7月頃、直立した細い茎の先に鮮やかな朱赤色の6弁花を数輪付ける。草丈は30~80cm、花径は5~8cm。ヤマユリやオニユリ、テッポウユリなどに比べると全体的に小ぶりで、可憐な花姿から姫百合と名付けられた。

 主な分布域は本州の近畿以西と四国、九州で、明るい山地や草原に自生する。別名に「緋百合(ヒユリ)」や「光草(ヒカリグサ)」など。環境省は近い将来絶滅の危険性が高いとして絶滅危惧ⅠB 類に分類、都道府県レベルでも愛知県では絶滅、多くの西日本の府県でも絶滅危惧種に指定されている。黄色の花を付けるものもあり「黄姫百合」と呼ばれている。名前がよく似た「キバナノヒメユリ(黄花野姫百合)」はユリの仲間では花が最も小さいノヒメユリ(別名スゲユリ=菅百合)の変種で沖縄に自生する。

 万葉集にはユリを詠んだ歌が11首ある。その万葉表記は大半が由理・由利・左由里など。ユリの種類の特定は難しく、ササユリまたはヤマユリではないかと推測されている。ただ「姫由理」と具体名を挙げて詠んだ歌が1首ある。「夏の野の繁みに咲けるひめゆりの知らえぬ恋は苦しきもの」(巻8-1500)。大伴坂上郎女が苦しい胸の内を野にひっそり咲くヒメユリにたとえて詠んだ(ただ、これもササユリではないかとする説も)。ヒメユリというと戦時中の「ひめゆり学徒隊」や沖縄県糸満市にある「ひめゆりの塔」を思い浮かべるかもしれない。その「ひめゆり」は学徒隊の母校2校の交友誌「乙」と「白百合」を組み合わせたもので、ヒメユリとは関係がない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする