く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<カラテア> 熱帯アメリカ原産の観葉植物、花の美しいものも

2016年08月31日 | 花の四季

【代表種に矢羽根模様の「マコヤナ」、夜には葉を立てて〝睡眠運動〟】

 ブラジルを中心とする中南米原産のクズウコン科の多年草。同属の植物は高温多湿を好み、熱帯アメリカに100種以上分布する。花が美しいものもあるが、多くは多彩な葉の模様や形、質感などを楽しむ観葉植物として人気が高い。(写真は園芸品種の「Gekko(月光)」)

 カラテアの名はギリシャ語で「籠(かご)」を意味する「カラトス」に由来するという。理由ははっきりしないが、苞葉(ほうば)に包まれて花弁が立ち上がる花穂を籠に見立てたともいわれる。カラテアを代表するのが「マコヤナ」。葉に矢羽根状の模様が入ることから「ゴシキヤバネショウ(五色矢羽根蕉)」の和名を持つ。英名では「ピーコックプラント」と呼ばれるそうだ。

 「ランキフォリア」も人気種の1つ。葉は細長い線形で縁が波打つことから「ヤバネシワヒメバショウ(矢羽根皺姫芭蕉)」という和名が付いている。葉の裏側の色は「マコヤナ」同様に赤紫色。他に葉の長さが60cmにもなる大型で「シマウマのような縞」を意味する「セブリナ」、小型で鮮やかなオレンジ色の花を咲かせる「クロカータ」などがある。

 カラテアの仲間は日中横に広げていた葉を、夜になると直立させるものが多い。〝睡眠運動〟と呼ばれる性質で、光の加減だけでなく、土の乾き具合や強風などによっても葉を立てるという。葉からの水分の蒸散を防ぐためといわれる。このユニークな性質によって「マコヤナ」や「ランキフォリア」などでは葉の両側で緑と紫のコントラストを楽しめる。

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<吹石一恵> おめでとう! 「新しい生命を授かった」と公式サイトに

2016年08月30日 | メモ

【大阪・藤井寺の道明寺で見かけた〝吹石一恵〟名の柄杓】

 女優吹石一恵(33)が俳優・歌手の福山雅治(47)と昨年9月28日(吹石の誕生日)に結婚し大きな話題を集めてから約11カ月。吹石がこのほど公式サイトで「新しい生命を授かることができた」と第一子妊娠を明らかにし、福山も「新しい家族を迎えることになった」とHPで報告した。既に安定期に入っているとしており、妊娠5カ月を過ぎているものとみられる。

 1カ月半ほど前の7月11日、菅原道真ゆかりの道明寺(大阪府藤井寺市)へお参りに行ったときのこと。手水舎(ちょうずしゃ)で柄杓(ひしゃく)を取ろうとしたところ、柄に「吹石一恵」とあった。そばの柄杓を見ると「吹石裕子」「吹石智勇」「吹石泰隆」という名前も。吹石は確か大阪の出身。吹石本人とその家族の名前に違いない。そう半ば確信しながら、帰宅後、早速調べてみた。

 

 吹石は大阪府羽曳野市生まれで、3才の頃、奈良県香芝市に引っ越している。父は近鉄バファローズで活躍した元プロ野球選手の吹石徳一氏。一恵には2人の弟がいる。上の弟は2歳年下で、智弁学園高校時代に甲子園出場経験もある知勇(ともお)さん。下の弟は4歳年下の泰隆さんで、社会人野球ドットコムによると御所工業高、京都産業大を卒業し、現在は航空自衛隊千歳に在籍し社会人野球選手として頑張っているとのこと。これで柄杓4つのうち3つは確認できた。残る裕子さんは吹石の母親とみて間違いないだろう。

 4つの柄杓は筆跡がほぼ同じだった。ということは、母親が娘・息子たちの健康と幸福を祈ってお寺に納めたということか。さらに調べるうち、吹石の母は道明寺でお茶の稽古を始めてまもなく近鉄の選手だった父との結婚が決まり、娘が生まれたときには住職に「一恵」と命名してもらった――というネット情報があった。以来、母親は毎年柄杓を奉納しているという。世間がうらやむような福山雅治との結婚と今回のお目出度も、信心深い母親の願掛けが通じたということだろう。

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<忍者修行の森> 忍者装束で手裏剣、歩法、登り術、飛び術、隠れ術……

2016年08月27日 | メモ

【三重県名張市、赤目四十八滝渓谷保勝会が運営】

 涼を取ろうと久しぶりに三重県名張市の「赤目四十八滝」へ。以前訪れてから10年余り経つだろうか。「日本さんしょううおセンター」を抜けると行者滝、不動滝、布曳滝と渓谷の涼やかな光景が続く。前回の記憶が蘇ってくる。ただ以前と違ったのは四十八滝入り口近くの「延寿院」の裏山に「忍者修行の森」ができていたこと。6年前の2010年7月に生まれ、NPO法人「赤目四十八滝渓谷保勝会」が運営しているという。

 延寿院は天台宗山門派で、不動明王を本尊としていることから「赤目不動尊」と親しまれている。修験道の開祖・役行者の開基との伝承があり、伊賀忍者の祖・百地丹波は赤目の滝で修行し伊賀流赤目忍術を確立したといわれる。戦国時代の「第二次天正伊賀の乱」(1581年)で、伊賀忍者の修錬場だった青黄竜寺(延寿院の前身)の堂塔伽藍は織田勢によって全て灰燼に帰した。唯一残った建造物の石燈籠(鎌倉時代)は旧国宝で現在は国の重要文化財に指定されている。

 

 「忍者修行の森」はそんな歴史を持つこの地に伝わる忍術を体験してもらおうと誕生した。森の中には長い丸太やピンと張られた綱、木製の高い塀、縄ばしご、木の枝から吊るされた縄、ボルダリングなどが設置されており、忍者の歩法術や登り術、飛び猿の術、侵入術などを体験する。手裏剣と吹き矢のコーナーも。色とりどりの忍者装束に身を包んだちびっ子たちは、敵に見立てた木の人形を目がけ鉄製の手裏剣を真剣な表情で投げていた。そばには「手裏剣術の心得」の貼り紙。「一まよわず打つべし 一目をはなさず打つべし 一はずせば死ぬだけ」

 

  最後に子どもたちは「忍者体験の館」で1人ずつ「どんでん返し」に挑戦、板戸がくるっと180度回転して裏の抜け穴から出てきた。渓谷を流れる滝川にも「水ぐもの術」の体験コーナーが設けられていた。木製の輪状の履き物でアメンボのようにロープを伝って水の上を歩く。忍者修行体験は所要時間1時間半で、料金は忍者衣装と四十八滝入山料込みで幼児1550円、子ども(中学生以下)1750円、大人2000円(忍者衣装不要の場合はいずれも700円引き)。修行終了者には「伊賀赤目流免許皆伝の書」が贈られる。

 ちなみに忍者が生まれたのは応仁の乱(1467~77年)の頃といわれる。伊賀、甲賀の忍者は江戸時代に入ると幕府に召し抱えられて隠密活動に従事し、一揆鎮圧などのため各地に派遣されたという。8代将軍徳川吉宗は享保元年(1716年)、将軍直属の「御庭番」を設置した。今からちょうど300年前。御庭番の役目は主に将軍の命を受けて秘密裡に諸大名の動静などを探ることだった。

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<宇陀市室生深野> 「にほんの里100選」、日本ユネスコの「未来遺産」にも

2016年08月25日 | メモ

【地域を挙げてササユリの保護活動、道路脇の斜面にはタカサゴユリが群生】

 眼下に三重県名張市の市街を望む奈良県宇陀市室生の山里、深野地区。日本固有種のササユリが咲く田舎の原風景を守ろうと10年前に「深野ササユリ保存会」を結成、地域を挙げてササユリの保存・増殖活動に取り組んできた。ササユリの開花シーズン(見頃6月)はとっくに過ぎていたが、清楚な白いタカサゴユリが道路脇の斜面を覆い尽くし今が盛りと咲き誇っていた。

 深野は「ささゆりといやしの里」を標榜している。2009年には朝日新聞社の創刊130周年記念「にほんの里100選」に選ばれた。応募があった全国約4500カ所の中から、「景観・生物多様性・人の営み」を基準とした現地調査を経て選定委員会(委員長・山田洋次映画監督)が100地区を選定した。さらに2013年にはササユリの保存・増殖といやしの里活動が認められ、日本ユネスコ協会連盟主催の「プロジェクト未来遺産」に登録された。この未来遺産は100年後の子どもたちに地域の文化・自然遺産を伝えようという運動。

 

 深野地区は標高約450mにあり、遠くに青山高原や台高山脈を望む。棚田が広がる長閑な集落だ。深野は古く奈良時代から斎王が伊勢神宮に向かう経路として重要な役割を果たしてきたという。集落の中心には室町時代創建と伝わる神明神社が鎮座する。そこから少し道路を上がっていくと、1日1組限定という貸し切り別荘宿「ささゆり庵」があった。築150年の伝統的な茅葺き古民家を改造して2014年9月に開業した。それからまた少し上がると「ささゆりといやしの里」の石碑と「ササユリ保護地区」と大書した横長の案内板が立っていた。保存会の活動紹介に続いて左下に「ササユリ保護活動を一緒に行いませんか‼」。

  

 目を通して深野に別れを告げようと車に乗り込み走り始めてすぐのことだった。道路左側に群生するテッポウユリのような花が目に飛び込んできた。壮観! 白い花が斜面全体を覆い尽くす。地元の方によると「タカサゴユリ」とのこと。台湾原産で、日本には大正時代に観賞用として導入され、今では帰化植物として各地で野生化している。ただ帰宅後調べたところ、写真を見る限りタカサゴユリの特徴とされる花弁外側の紫色の筋が確認できなかった。もしかしたら、急速に分布域を拡大している在来種のテッポウユリとタカサゴユリの雑種「シン(新)テッポウユリ」が混在しているのかもしれない。

 

 

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<パキスタキス> 鮮やかな黄色い部分は葉が変形した苞(ほう)

2016年08月25日 | 花の四季

【ペルーなど中南米原産、主な種に「ルテア」や「コッキネア」】

 キツネノマゴ科パキスタキス属(ベニサンゴバナ属)の熱帯性常緑小低木。この属の植物はメキシコ、ペルーなど中南米や西インド諸島に数種分布するが、最も多く栽培されているのは花穂が鮮やかな黄色の「パキスタキス・ルテア」と呼ばれるもの。パキスタキスといえば、このルテアを指すことが多い。

 パキスタキスの名前はギリシャ語の「太い・厚い」を意味する「パキス」と「穂」を意味する「スタキス」に由来する。つぼみを包む葉が変形した苞片(ほうへん)が規則正しく4列に重なり合って太い花穂を作る。実際の花は長さ5cm前後の唇形花で、苞葉の間から飛び出すようにして咲く。

 ルテアは背丈が1m前後で、初夏から秋にかけて直立する10cm前後の穂状花序に白い花を付ける。花の寿命は短いが、黄色い苞は長持ちするため長い間観賞できる。和名は「ウコンサンゴバナ(鬱金珊瑚花)」。苞葉ごとに淡黄色の唇形花を付けるウコンの花に似ているところからか。英名では「ゴールデン・キャンドル」「ゴールデン・シュリンプ・プラント」「ロリポップ・プラント」などと呼ばれる。

 ルテアのほかに代表的なものに「パキスタキス・コッキネア」がある。こちらは樹高が1~3mにもなりルテアよりやや大型。苞葉は緑色で、その間から鮮やかな紅色の花を咲かせる。種小名の「コッキネア」も「深紅色の」を意味する。和名では属名にもなっている「ベニサンゴバナ(紅珊瑚花)」と呼ばれている。

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<奈良大学博物館> 「好奇の人・北村信昭の世界『奈良いまは昔』展」

2016年08月24日 | メモ

【多彩な生涯を辿る…写真業、文芸、エスペラント、パラオ、民俗学】

 奈良大学博物館(奈良市)で企画展「好奇の人・北村信昭の世界『奈良いまは昔』展」が開かれている(9月2日まで)。北村信昭(1906~99)は奈良が生んだ文化人。写真家、文芸家として活躍する一方、エスペラント語や民俗学にも高い関心を抱き、交友範囲は国際的な広がりを持った。本展では遺族から寄贈された蔵書や遺品などを基に、好奇心の塊だった北村の生涯の足跡を辿る。

 

 北村の実家は奈良市の猿沢池畔にあった北村写真館。祖父北村太一は近代写真業の草分け的存在といわれる。地元新聞社で文芸欄などを担当していた北村は、当時奈良市高畑に住んでいた志賀直哉邸を度々訪ね、武者小路実篤の「新しき村」の奈良支部を自宅に置くなど、著名文学者とも交流を重ねた。タイトルの『奈良いまは昔』は北村が1976~78年に奈良新聞に連載した記事をまとめて出版したもの。「奈良ホテル」「春日山の狼」「おん祭余聞」など50項目から成る。

 北村は「奈良エスペラント会」で出会った南洋のパラオ出身の青年を通じて、当時日本の委任統治領だったパラオ諸島の民俗に高い関心を寄せる。現地の民俗伝承をまとめた『南洋パラオ諸島の民俗』を出版し、『パラオ島童話集 お月さまに昇った話』なども書いた(上の写真㊨はその原稿)。この童話集の挿絵を描いたのは洋画家の赤松俊子。夫の丸木位里と共に戦後「原爆の図」を描き続けたことで知られる。会場にはパラオの木皿や貝類、伝説画、ヤップ島の石貨など珍しい民俗資料も並ぶ。

  

 北村は家業である写真の技術を生かして、奈良の風景からパラオの民俗まで多くの写真を残した。「写真師として被写体に真摯に向き合うことにのみ傾注……いたずらに高性能なカメラを追い求めるよりは、写真館を開いた北村太一の撮影技法と意志を淡々と引き継いだ」。その祖父の手作り写真機(下の写真㊧)は圧倒的な存在感を示す。用材は黒柿、蛇腹は手織り木綿の墨染め。ただ、この写真機、初めネズミ捕りの装置と間違えられたそうだ。

 

 北村が戦時中の1941年に奈良ホテルで撮影したものに、スマトラから同ホテルに疎開していたドイツ人家族30人や元林院の芸者さんたちの集合写真がある(写真㊨=部分)。今年4月、当時7歳だったスイス在住のドイツ人(80)=写真の○印=が来日し、70余年ぶりに奈良ホテルを訪ねてきた。そして撮影者が写真家の北村だったことを知る。帰国後、そのドイツ人から本企画展に長文のメッセージが寄せられた。

 その人Eike.O.Tillnerさんは末尾をこう結ぶ。「『奈良の都』を再び訪ねてみると、『奈良いまは昔』となっていますが、この半世紀以上の間に作られた『新しいモノ』と、作り直された『元のモノ』や全く変わらない『そのままのモノ』なども多くありました。しかし、それらは昔からの『古いモノ』に隠されて在り、『むかしの奈良』は『いまの奈良』の後ろにいつまでもおとなしく控えて居るというのが『奈良の都』について新しく得た私の印象です」

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<平城宮跡資料館> 「ナント!おいしい⁉平城京‼―奈良の都の食事情」展

2016年08月23日 | 考古・歴史

【平城宮の役人たちは毎日朝夕2回、給食を食べていた!】

 奈良文化財研究所の平城宮跡資料館(奈良市)で夏休み企画展「ナント!おいしい⁉平城京‼―奈良の都の食事情」が開かれている。これまでの発掘調査を基に奈良時代の役人の給食メニューや調味料の種類、〝珍味番付〟など、当時の食事情を分かりやすく紹介している。8月31日まで。

 

 平城宮内では約7000人の役人が働いていた。発掘調査ではごみ捨て穴から同じような土器や箸(はし)が大量に見つかっており、役人たちは毎日朝・夕の2回、職場で給食を食べていたとみられる。長さが60cmほどもある巨大な杓子(しゃくし)なども出土している。給食の平均的な献立は「白ご飯・野菜や魚のおかず2品・お汁・塩」だったらしい。ちなみに飛鳥時代の宮殿や藤原京では箸はほとんど出土しておらず、箸が盛んに使われ始めたのは奈良時代になってからとみられる。

   

 塩は役人にとっても欠かせない調味料。塩加減を自分好みに調えながら食べたとみられる。塩をもらえない場合があったのか、「此无塩如何不可須如常」となぜ塩をもらえないのか不満を訴える木簡も見つかった。「塩」「酢」「酒」(写真㊧)「味物料理」(写真㊥)などと書かれた土器や「醤」「糖」「末醤(ミソ?)」などと書かれた木簡も出土している。長屋王の邸宅跡からは「加須津毛瓜」と書かれた木簡が見つかった。酒粕に漬けたトウガンの漬物とみられ、奈良名物・奈良漬の〝元祖〟かもしれない。

 会場内には「平城京珍味番付」も(上の写真㊨)。木簡に書かれた食品の中から特に珍しい逸品を大相撲の番付風に序列化した。横綱は牛乳を煮詰めた乳製品の「蘇(そ)」と「氷」、大関は韓国・済州島特産のアワビ「耽羅鮑(たんらあわび)」とカキの干物「蠣腊(かきのきたい)」。関脇以下には今のキイチゴやヤマブドウのような「伊知比古(いちびこ)」や「蒲萄(ぶどう)」、イガイ(ムール貝に似た二枚貝)とホヤの和え物「胎貝富也交作(いがいほやのまぜづくり)」などが続く。

 

 常設展示場にも出土した土師器や須恵器などの食器類、皇族・貴族の食事風景などが展示されている(上の写真)。皇族・貴族の献立には鴨とセリの汁、ハスの実入りご飯、鹿肉の塩辛、生牡蠣(なまがき)、干し蛸、車エビの塩焼き、焼きアワビなどが並ぶ。全国各地から一級の食材が平城宮に集まっていたことを物語るもので、1300年前の貴族たちの豪華な食事メニューにはつい溜め息も出てしまう。

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<桜島> 大正噴火のすさまじさ、「黒神埋没鳥居」で実感!

2016年08月19日 | 旅・想い出写真館

【一面に広がる溶岩原とたくましく根を張るクロマツの林】

 世界有数の活火山・桜島。有史以来17回の大噴火を繰り返し、大正噴火(1914年1月12日)では流出した大量の溶岩によって大隅半島と陸続きになった。今年は噴火の回数は減っているものの、1月から8月15日までで合計153回に上る。つい1カ月近く前の7月26日にも昭和火口で爆発的噴火が起き、噴煙の高さは約3年ぶりに火口上5000mに達した。その桜島を間近で見ようと、フェリーが発着する西側の桜島港から周回道路(国道224号)を反時計回りした。(下の写真は大正噴火で埋まった「黒神埋没鳥居」)

 桜島は北岳と南岳という2つの主峰を持つ複合火山。そのふもとには草原ならぬ「溶岩原(ようがんげん)」を見渡せる展望所が数箇所ある。そのうち南岳のふもとにある「有村溶岩展望所」に立ち寄った。ごつごつした黒っぽい溶岩が折り重なるように広がる。中には「ライオン岩」と呼ばれる溶岩も。西に南岳、東に錦江湾を望む。ここから見る火山の山容は鹿児島市内やフェリーの船上から望む横長の台形とは違って、きれいな円錐形だった。

 

 無数の溶岩の間を縫って遊歩道(約1キロ)が整備されていた。所々に桜島を詠んだ歌碑が立つ。「わが前に桜島あり西郷も大久保も見し火を噴く山ぞ」(作家の海音寺潮五郎)、「わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」(幕末の尊王攘夷の志士、平野国臣)」……。目を引いたのは溶岩の上にたくましく根を張るクロマツたち。この展望所だけでなく道路沿いにも松林が広がっていた。クロマツは日当たりがいい乾燥した裸地に最初に入り込む〝パイオニア(先駆)植物〟の1つといわれる。

 大正噴火は大量の噴石や火山灰で桜島東側の黒神集落を埋め尽くした。たった1日で2mも降り積もり、高さ3mの腹五社(はらごしゃ)神社の鳥居も笠木部分だけ残して埋もれてしまった。被災後、掘り起こそうとした住民に対し、当時の村長は「噴火の記憶を後世に残そう」と中止させたという。この「黒神埋没鳥居」は〝猛威を語り継ぐ鳥居〟として鹿児島県の天然記念物に指定され、地域住民や中学生たちによって大事に守られているそうだ。

 

 鹿児島では毎春、桜島の降灰が予想される地域の家庭に灰を回収する専用の袋を配布しているという。その名は「克灰袋」(写真㊨は鹿児島市の名勝「仙巌園(磯庭園)」で)。25年前に呼び名を「降灰袋」から変更した。そこには「降灰に強い快適な都市を目指し、積極的に降灰を克服しよう」という強い思いが込められている。桜島には今も約5000人が暮らす。度重なる火山災害の一方で、火山は特産の「桜島大根」「桜島小みかん」や温泉、観光客の誘致など多くの恵みももたらしてくれる。桜島を周回する国道224号は別名「溶岩道路」として親しまれているという。桜島を訪ねて、火山と共生する地域の姿をほんの少し垣間見ることができた。

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<斑(ふ)入りパイナップル> 観賞用のパイナップルの変種

2016年08月18日 | 花の四季

【葉に白や黄の縁取り、果実が赤みを増すと斑の一部も鮮紅色に】

 パイナップルの原産地はブラジル、アルゼンチン、パラグアイなどの熱帯アメリカ地方といわれる。パイナップルは松かさを表す「パイン」と果物を表す「アップル」の合成語。新大陸に渡ったスペイン人によって世界中にその呼び名が広まった。一方、パイナップルは「アナナス」とも呼ばれる。この呼称はポルトガル人によって広められたもので、南米で香りのいい果実を指す「nana」に冠詞の「a」を付したそうだ。

 ただ日本の園芸界で「アナナス」という場合、パイナップル科の植物のうち葉や果実が美しく観葉植物として栽培されているものを指すことが多い。この斑入りパイナップルもその一つ。その名の通り、剣状で先端が鋭く尖る緑色の葉の縁に、白やクリーム色の斑が縦じま状に入る。花穂は円筒形で螺旋状に白っぽい小花が密生する。果実は成熟するにつれて赤みを増し、同時に葉の縁の一部がピンク色から鮮紅色に変化していく。

 パイナップルは熱帯果実としてバナナに次いで多く栽培されている。そのうち生産量が圧倒的に多いのが「カイエン系」と呼ばれる品種。19世紀前半にフランス領ギアナのカイエン地方で発見されたもので、果実が大きいうえ葉の縁に棘(とげ)がなく栽培管理上扱いやすいことから「スムース・カイエン」と呼ばれる。一方、「クイーン系」や「レッド・スパニッシュ系」と呼ばれるものには鋭い棘があるものが多い。

 斑入りパイナップルにもこの写真のように葉の縁に棘があるものが多い。ただ、ほとんどないものもあるそうだ。この斑入りは植物の一部分が突然変異で他とは異なる遺伝形質を示す〝枝代わり〟によって生まれた。よく似た観葉植物に「五色パイナップル」と呼ばれるものがある。斑入りパイナップルより大型で、葉や果実が多彩な色模様を見せてくれる。(写真は宮崎市の宮崎県立青島亜熱帯植物園で)

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<ホザキノボタン(穂咲き野牡丹)> 長い花穂に鮮やかな赤紫色の小花が次々と

2016年08月17日 | 花の四季

【シコンノボタン属の常緑低木、分類上はノボタンとは別の種類】

 ノボタン科の常緑低木で、ノボタンとは近縁。ただし分類上は全くの別物。ノボタンが日本、東南アジア、インドなどに約70種分布するメラストマ属(和名ノボタン属)なのに対し、本種は熱帯アメリカや南米に300種ほど分布するティボウキナ属(和名シコンノボタン属)に属す。

 ティボウキナ属で最も多く栽培されているのがブラジル原産のシコンノボタン。園芸店などで単に「ノボタン」として出回ることも少なくない。その名前はノボタンに似て、花色がノボタンより濃い紫紺色であることに由来する。ノボタンの樹高がせいぜい1~1.5mなのに対し3~5mにもなる。また雄しべの形がクモの足のように見えることから「ブラジリアン・スパイダー・フラワー」の異名を持つ。

 ホザキノボタンはそのシコンノボタンの園芸種の1つで、名前の通り、花が長い穂にたくさん付くのが特徴。花穂は長さ20cmほどで、赤紫の鮮やかな5弁花が次々と咲き続ける。花径は3cmほどで、シコンノボタン(5~10cm)より一回り小さい。花弁の中央は紅白のものが入り混じる。よく似た「オオバ(大葉)ノボタン」は直立する長い集散花序に紫紺色の花を多数付ける。葉が大きく厚みがあることから「アツバノボタン」とも呼ばれる。

 シコンノボタンには「コート・ダジュール」や「リトル・エンジェル」といった園芸種もある。「コート・ダジュール」は鉢物向きの矮性種で、葉や花弁がシコンノボタンよりやや細め。「リトル・エンジェル」は咲き始め花弁の中心が白く外側は紫色だが、咲き進むにつれて花全体がピンク色に変化する。そのため「三色野牡丹」とも呼ばれている。

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<モンステラ> 中米原産、その名の語源はラテン語の「怪物」!

2016年08月13日 | 花の四季

【深い切れ込みや穴が開いた奇怪な葉の形状から?】

 中央アメリカ原産のサトイモ科モンステラ属の多年生つる性植物。葉は艶がある大きな楕円形で、長さ・幅が1m近くになることもある。その葉の縁から真ん中に向かって深い切れ込みが入り所々に穴が開く。葉の切れ込みは株がまだ小さいときには全くないか少ないが、株が成長し大きくなるにつれて葉にその特徴が現れてくる。個性的な葉の形状から室内を飾る観葉植物として人気があり、大きな生け花やアレンジメントフラワーに使われることも多い。

  モンステラの名前はラテン語で「怪物」や「異常」を意味する「monstrum(モンストルム)」に因む。巨大で奇怪な葉の形状から付けられたのだろう。モンステラのもう一つの特徴は木質化した茎から多くの気根を垂らすこと。その気根が岩など周りのものに張り付いたり巻き付いたりして株を支える。モンステラは「デンシンラン(電信蘭)」の異称を持つが、これは何本も垂れ下がる気根を電線に見立てたとみられる。

 花期は7~8月ごろ。一見ミズバショウの花に似て、長さ20cmほどの棒状の肉穂花序が直立し、その周りを白い仏炎苞(ぶつえんほう)が包み込む。花序は1年ほどで完熟してトウモロコシのような実をたくさん付ける。食用となり、その味はパイナップルとバナナを混ぜ合わせたようなものという。モンステラには「ホウライショウ(鳳莱蕉)」という和名もある。一説にこの名もパイナップルを表す「鳳梨」とバナナを表す「香蕉」に由来するといわれる。

 ちなみにモンステラの学名は「モンステラ・デリシオサ」。この種小名デリシオサは「デリシャス」つまり「美味」を意味するそうだ。同じ仲間に「モンステラ・アダンソニー」があり、和名では「ヒメ(姫)モンステラ」と呼ばれている。その名の通り葉は小さく、切れ込みは左右非対称といった特徴を持つ。観葉植物としてよく育てられることが多く、園芸上でモンステラといえば、この品種を指すことが多い。

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<日南市「油津」点景> 市民の保存運動で蘇った石積みの「堀川運河護岸」

2016年08月12日 | 旅・想い出写真館

【飫肥杉とマグロ基地として栄えた港町、歴史的建造物が点在】

 かつて特産の飫肥杉と東洋一のマグロ基地として栄えた港町、宮崎県日南市油津(あぶらつ)。その街には今も往時の繁栄ぶりを物語る人工の運河をはじめ歴史的建造物が点在する。石積みの堀川運河護岸やアーチ型の堀川橋、油津赤レンガ館などは国登録有形文化財にもなっている。

 堀川運河は今から330年前の1686年(貞享3年)、飫肥藩の財政を支える飫肥杉の集積・積み出しのため、第5代藩主伊東祐実(すけざね)の命により開削された。2年半近くに及ぶ難工事だったという。運河は延長約900m、平均幅員27m、深さ3m。飫肥杉は木造船の船材として多くの需要があった。両岸の石積み護岸は明治後期から昭和初期にかけて、貯木場となった運河の護岸を補強するため築造された。戦後になると、石積み護岸は補強のため多くがコンクリートで覆われ、次第に姿を消していった。一時は運河の埋め立て構想も浮上した。これに対し市民たちが歴史的資産として保存・再生すべきだと立ち上がった。そうした声を受け、宮崎県は1990年代以降、石積み護岸の修復や遊歩道の整備など親水空間づくりを進めてきた。

 

 運河にはアーチ型の石橋「堀川橋」が架かる。運河の開削によって分断された油津の町をつなぐもので、1903年(明治36年)、明治時代中頃まであった木橋に代わって架け替えられた。吾平津神社(通称乙姫神社、上の写真㊧)の参道橋を兼ねるため「乙姫橋」とも呼ばれる。1992年にはここが映画『男はつらいよ 寅次郎の青春(第45作)』のロケ地になった。橋のたもとにその案内板が立つ(写真㊨)。運河沿いの「堀川資料館」にも映画の写真やポスターなどが展示されている。2007年、運河の新しいシンボルとして屋根付きの「夢見橋」が造られた。こちらは樹齢120年の飫肥杉と飫肥石を使い、ボルトなど金属を一切使わない伝統的な木組み工法による。こうした環境整備への取り組みが評価され、堀川運河は2010年「土木学会デザイン賞」最優秀賞に輝いた。

 

 油津港に通じる幹線の国道220号周辺には歴史的建造物が異彩を放つ。「油津赤レンガ館」(上の写真㊧)は1921年(大正10年)頃に建てられた倉庫で、中央通路部分はしゃれたアーチ型。約22万個の赤レンガを使用しているという。近くの国道沿いにある木造3階建ての「杉村金物本店」(写真㊨)は1932年(昭和7年)築で、2~3階部分の洋風な銅板張りの外壁が目を引く。「宮崎県建築百景」に選ばれているそうだ。油津のメーンストリートには街路樹としては珍しいシマトネリコが延々と植えられていた。(下の写真㊧は油津港、㊨は油津駅。駅前には大きなマグロのモニュメントが立っていた)

  

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<小京都「飫肥」点景> 江戸時代の名残そこここに、落ち着いた佇まいの城下町

2016年08月11日 | 旅・想い出写真館

【九州で最初に重要伝統的建造物群保存地区に指定】

 この町に一目惚れした。九州の〝小京都〟といわれる宮崎県日南市の飫肥(おび)城下町。今から40年ほど前の1977年、九州で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。かねて一度訪ねてみたい場所の一つだったが、そこは今も江戸時代の伝統と文化がそこここに息づく閑静で落ち着いた町並みだった。景観を壊す電線や電柱は全て地中化。けばけばしい看板類などを目にすることも一切なかった。

 飫肥城は1588年、豊臣秀吉に仕えた伊東義祐(よしすけ)の子、祐兵(すけたか)が九州平定の功績により与えられ、以後、約280年にわたって飫肥藩主伊東氏14代の居城だった。明治維新の廃藩置県後、城の館(やかた)や櫓(やぐら)などは全て取り壊されたが、飫肥城跡南側の武家屋敷通り(上の写真)は往時の姿を今に留める。屋敷の規模は1戸平均900坪(約3000㎡)もあったそうだ。

 

 再建された飫肥城の大手門(上の写真㊧)をくぐって本丸跡に向かう。その途中、右手に飫肥小学校の運動場があり、夏休み中の子どもたちが元気に駆け回っていた。そこを過ぎて間もなく、四隅に1本ずつスギが立つパワースポット「しあわせ杉」があった。対角線の中心に立つと幸せのパワーをもらえるという。階段を登りつめた先の本丸跡には樹齢100年を超えるスギの巨木が林立し、緑色のコケがじゅうたんのように一面を覆っていた(写真㊨)。「癒しの森」と名付けられたこの場所もパワースポットとして人気を集めているそうだ。

  

 城跡の一角に江戸初期の書院造りの御殿を再現した「松尾の丸」がある。屋内に御座の間、御寝所(上の写真㊧)、茶室、湯殿、台所などが設けられていた。周辺にも見どころが多い。「豫章館(よしょうかん)」(上の写真㊨)は旧藩主伊東家が明治維新後に居を移した屋敷で、母屋は本丸奥御殿の書院を解体・移築したもの。母屋の周りは広い枯山水式の庭園になっている。

 

 武家屋敷通りの北側にあるのは旧藩校「振徳堂(しんとくどう)」(下の写真㊧)。その名前は孟子の教えにある「又従而振徳之」に由来し、江戸後期の1831年(天保2年)に開校した。日本の近代外交の礎を築いた明治の外交官、小村寿太郎も門下生だったという。伝建保存地区内には小村の生家や「国際交流センター小村記念館」も。保存地区東側の八幡馬場通りの突き当たりにある田ノ上八幡神社のクスノキの巨木(写真㊨)には圧倒された。初代藩主の伊東祐兵が入城した記念に自ら植樹したという。樹高30m、幹周9.2m。日南市の天然記念物で、「みやざきの巨樹百選」にも選ばれている。

 帰りに「四半的射場(しはんまといば)」に立ち寄った。四半的は飫肥藩に伝わる独特な弓術で、的までの距離が四間半(約8.2m)、弓・矢の長さがともに四尺五寸(約1.4m)、的の直径が四寸五分(約14cm)と、全て四半であることからその名が付いた。日南市の無形民俗文化財にもなっており、地元の人たちは焼酎を飲みながら、この四半的に興じるそうだ。10射で300円。少なくとも1回ぐらい的中するだろう。そう思って挑戦してみたものの甘かった。  

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<ソテツ(蘇鉄)> 弱った株に肥料として鉄屑を与えると蘇る!

2016年08月09日 | 花の四季

【雌雄異株、九州南部~沖縄の海辺の崖などに自生】

  ソテツ科ソテツ属の常緑低木。宮崎県以南の九州南部から沖縄にかけて、海辺の崖や岩場に自生する。観賞用として栽培され、暖地の庭や公園などに植樹されることも多い。「幹高一尺10年」といわれるように成長は遅い。太い円柱状の幹は通常高さが2~3m、時に5mほどにも。幹の先から鳥の羽根のような長い濃緑色の葉を四方に広げる。裸子植物の中でイチョウとともに最も原始的な植物といわれる。

  花期は6~8月。雌雄異株で、雄株は直立し、長さ50~70cm、直径15cmほどの円柱形。多数の鱗片状の雄しべからなり、裏一面に花粉の入る葯(やく)が付く。一方、雌株は綿毛が密生した葉状心皮の集まりで、キャベツのような直径40cmほどの球形。心皮の基部には3~6個の胚珠があり、赤く熟して種子になる。

 「蘇鉄」の名前は樹勢が弱まってきたとき肥料として根元に鉄屑を与えたり、鉄釘を刺したりすると、再び蘇って元気になるというところから。幹からデンプンが取れることから古くから救荒食として利用されてきた。ただ、サイカシンという有毒成分を含むことが分かって、近年は食用にされることは少ない。奄美大島などの特産「蘇鉄味噌」の原料はソテツの種子、玄米、大豆などだが、微生物の働きでソテツの毒素を取り除く〝解毒発酵〟という独特の製法で作られるそうだ。

 都井岬のソテツ自生地(宮崎県串間市)は自生の北限として、鹿児島県のソテツ自生地(薩摩半島の指宿市・南さつま市、大隈半島の南大隅町・肝付町)とともに、国の「特別天然記念物」に指定されている。静岡市の龍華寺、堺市の妙国寺、香川県小豆島町の誓願寺などのソテツも国指定の天然記念物。このうち堺市・妙国寺のソテツにはこんな伝説も。織田信長がこのソテツを安土城に移植させたところ、ソテツが毎晩「妙国寺に帰ろう」と泣き叫ぶ。激怒した信長が切り倒しを命じるが、斧を振り上げた者が次々と血を吐いて死んだ。そのため信長はソテツをもとの妙国寺に返した――。「朝寒や蘇鉄見に行く妙國寺」(正岡子規)。(写真は鹿児島市の名勝庭園・史跡「仙巌園」で)

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<大神神社> 旧暦の古式に則り、ひと月遅れの「七夕祭」

2016年08月08日 | 祭り

【子どもたちの学業向上や諸芸の上達などを祈願】

 奈良県の古社、大神(おおみわ)神社で7日、旧暦の古式に則ってひと月遅れの「七夕祭」が開かれた。拝殿に向かって左側に設けられたテントの短冊記入所では、親子連れなど多くの参拝者が健康や家内安全、学業向上、諸芸上達、商売繁盛など思い思いの願い事を五色の短冊に綴って笹竹に吊るしていた。

 牽牛星と織女星が年に一度出会う七夕は中国から奈良時代に伝わったといわれる。万葉集にも七夕に関連する歌は多く130首余に上る。その多くが男女の恋物語を詠んだもの。「霞立つ天の川原に君待つとい行き帰るに裳(も)の裾濡れぬ」(巻8-1528)、「一年(ひととせ)に七日の夜のみ逢ふ人の恋も過ぎねば夜は更けゆくも」(巻10ー2032)。今のように短冊に願い事や和歌を書いて笹竹に吊るすようになったのは江戸時代になってからという。

 

 短冊記入所では数組の家族が願い事と住所・氏名・年齢を書き込んでいた。風に揺れる短冊を眺めていると、関西だけでなくかなり遠方からの参拝者も多いことが分かった。中には広島市や東京都小金井市、千葉県柏市なども。旧暦での七夕祭の開催には、夏休み中の子どもたちも多く参加できるように、との配慮もある。願い事で多いのはやはり健康や家内安全などだが、子どもたちの短冊にはこんなものもあった。「ラグビーせんしゅになってせかい一になれますように」(8歳)、「ゴルフ大会で優勝できますように」(11歳)、「おいしゃになれますように」(8歳)。午後2時から拝殿で執り行われた祭典後には子ども向けにアニメ映画の上映会や金魚すくいなどもあった。

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