く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ノゲイトウ(野鶏頭)> ロウソクの火のような形の花穂に淡いピンクの花

2017年08月28日 | 花の四季

【インド原産、濃い赤紫色のものも】

 インド~熱帯アジア原産のヒユ科ケイトウ属(セロシア属)の1年草。ケイトウは花の形がニワトリの鶏冠(とさか)に似ることから「鶏頭」の漢字が当てられているが、このノゲイトウは花穂がローソクの炎のように伸びて、すらりとした草姿が特徴。ケイトウの中でより原種に近い形態ともいわれている。学名は「セロシア・アルゲンテア」。属名のセロシアはギリシャ語の「keleos(燃やした)」に由来するという。種小名アルゲンテアは「銀白色の」の意。

 開花期は7~10月ごろ。長い茎の先に太い穂状花序を出し、少し光沢のある白や淡紅色の小花を密に付ける。燃えるような鮮やかな赤紫色の花を付ける品種もある。花は下から上に徐々に咲き上がる。草丈は通常30~80cmだが、中には1~1.5mにもなるものもあり、ドライフラワーや切り花としても人気。関東以西の暖地では河川敷などで野生化している。目にしたノゲイトウの花の周りにはイチモンジセセリなどの小さな蝶が飛び交っていた。

 ノゲイトウの仲間のような名前のナガエツルノゲイトウ(長柄蔓野鶏頭)は同じヒユ科だが、別属のツルノゲイトウ属。こちらは南米原産の水生多年生植物で、シロツメグサのような白い小花を付ける。すさまじい繁殖力で水面を覆い尽くすため、琵琶湖や印旛沼など各地で問題になっており、外来生物法で「特定外来生物」に指定され栽培や販売が厳しく禁止されている。なおハゲイトウ(葉鶏頭)もヒユ属(アマランサス属)で、ケイトウ属の仲間ではない。ハゲイトウは葉が美しく「雁来紅(がんらいこう)」の別名を持つ。

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<明日香・小山田古墳> 被葬者は舒明天皇か、蘇我蝦夷か

2017年08月27日 | 考古・歴史

【石室内の羨道発見で現地説明会】

 この夏、横穴式石室内の羨道が見つかって飛鳥時代最大級の方墳の可能性が高まった奈良県明日香村の小山田古墳(7世紀中頃)で、26日発掘を担当している奈良県立橿原考古学研究所による現地説明会が開かれた。石室は古代の中央豪族、蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳に匹敵する規模とみられ、被葬者には天智天皇の父の舒明天皇(593~641)や、馬子の子の蘇我蝦夷(?~645)などの名前が挙がっている。

 小山田古墳は蘇我蝦夷・入鹿の邸宅があった甘樫丘の南側に位置し、県立明日香養護学校の敷地内にある。3年前の発掘調査で貼り石のある掘割と、板石を階段状に積み上げた墳丘の裾部分が見つかり、その後の調査で一辺が約70mに達する大規模な方墳であることがほぼ判明した。さらに今年7~8月に実施した第9次調査の南調査区から、石室内部の通路である羨道(せんどう)跡が見つかった。

 

 羨道は幅2.6m、長さ8.7mで、北側に隣接する校舎の地下に延びているとみられる。羨道の両側に側壁の巨石を抜き取った穴が4カ所ずつ計8カ所あったほか、築造時の基底石の据え付け穴2カ所や、羨道の中央部分を通る排水溝(長さ10.5m、深さ0.3m)も確認された。一部の抜き取り穴からはくさびを打ち込んだ矢穴がある巨石の破片も見つかった。その矢穴の大きさと形状から石が割られたのは江戸時代後半と推測されるという。

 今回の調査では校舎を挟み北調査区でも同時に発掘が行われた。方墳のほぼ中心部と推定され、石棺を納めた玄室発見も期待されたが、残念ながら石室に関わる遺構見つからなかった。この点について橿考研では「もともと石室が北調査区まで及んでいなかったか、あるいは既に失われたか、二つの可能性が考えられる」としている。(下の写真は㊧2014年11月~15年3月の第5次調査で見つかった掘割と階段状の墳丘裾部分、㊨小山田古墳のすぐそばにある菖蒲池古墳の玄室内)

 

 石舞台古墳は一辺が約50mの方形で、石室は全長19.1m。小山田古墳は一辺の長さがこの石舞台を上回り、羨道の幅はほぼ同じだった。有力被葬者の1人、舒明天皇は蘇我蝦夷の推挙で天皇に擁立され、崩御後には滑谷岡に埋葬され、翌年押坂(桜井市忍阪)に改葬されたとされる。その初葬墓が小山田古墳ではないかというわけだ。一方「日本書紀」皇極元年(642年)の記事に見える蝦夷・入鹿親子の双墓(生前に並べて造った墓)のうち、蝦夷の〝大陵〟をこの小山田古墳とする見方もある。これはすぐ近くにある菖蒲池古墳(一辺約30mの方墳)を入鹿の〝小陵〟とみて二つをセットで双墓ととらえたもの。墳丘範囲の確定や校舎下の遺構確認など小山田古墳の今後の調査が注目される。

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<トラデスカンティア・シラモンタナ> 白い毛に覆われた葉に紅紫の小花

2017年08月24日 | 花の四季

【メキシコ原産、「ホワイト・ベルベット」や「白雪姫」とも】

 ツユクサ科ムラサキツユクサ属(トラデスカンティア属)の多年草。草丈は20~40cmほどで、夏から初秋にかけて茎の頂に紅紫色の小花を付ける。朝方開いて昼ごろには閉じる一日花。その花は同属で一般に「ムラサキゴテン(紫御殿)」の名前で知られる「トラデスカンティア・パリダ‘プルプレア’」によく似る。原産地はムラサキゴテンと同じくメキシコ。

 学名は「トラデスカンティア・シラモンタナ」で、属名は17世紀のイギリス国王チャールズ1世の庭師で著名な植物学者でもあったジョン・トラデスカント(1608~62)に因む。種小名は「メキシコのシラ(シーヤ)山脈の」を意味する。葉はやや肉厚で、絹糸のような白くて長い軟毛が密生する。そのため観葉植物や多肉植物として扱われることも。その葉の様子から英名では「ホワイト・ベルベット」と呼ばれ、日本の園芸界では「シラユキヒメ(白雪姫)」や「シラゲ(白毛)ツユクサ」といった名前で流通している。白い毛は直射日光や水分の蒸発を防ぐ役割を持つそうだ。

 日当たりが良く、やや乾燥した栽培環境を好む。水をやり過ぎると、茎が徒長して節と節の間が間延びし、毛も少なくなるという。日本では冬になると地上の茎は枯れるが、株元から先がまん丸い白い毛に覆われた冬芽が顔を出す。同属の仲間にムラサキツユクサ、ムラサキゴテンのほか、セブリナ(ハカタカラクサ=博多唐草)やシロフ(白斑)ハカタカラクサ、トキワツユクサ(常盤露草)とも呼ばれるノ(野)ハカタカラクサ、ハツユキ(初雪)ツユクサなどがある。

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<センジュラン(千寿蘭)> 直立した茎に白い釣鐘形の花

2017年08月22日 | 花の四季

【ユッカの仲間、原産地は北米南部~中米】

 「ユッカ」と総称されるキジカクシ科(旧リュウゼツラン科)イトラン属の常緑樹で、米国南部からメキシコ、西インド諸島のジャマイカなどにかけて分布する。日本には明治中期に渡来した。幹は直立し、その頂上部に先端が鋭く尖った剣状の葉が放射状に密生する。和名の語源は不明だが、葉数が多いことからの命名ともいわれる。学名は「ユッカ・アロイフォリア」。種小名アロイフォリアは「アロエのような葉」を意味する。英名は「スパニッシュ・バヨネット(銃剣)」。

 花期は6~8月ごろで、葉の中央から高さ30~60cmの花茎を立て、白い釣鐘状の花を下向きに付ける。樹高は4~6mにもなるが、幹が高くなりすぎると自然に倒れることが多いという。葉に黄色い縁取りが入る園芸品種は「キンポウラン(金宝蘭)」と呼ばれ人気が高い。さらに葉に白い斑(ふ)が入るものは「サンシキ(三色)センジュラン」と呼ばれるそうだ。暑さや乾燥に強く、比較的耐寒性もあることから、関西以西では露地植えでも越冬できる。

 よく似たものにキミガヨラン(君が代蘭)やアツバ(厚葉)キミガヨラン、イトランなど。キミガヨランの名付け親は植物学者の牧野富太郎。小石川植物園にあったユッカの一種を「グロリオサ種」と固定し、その語源「栄光」から「君が代は栄える」と関連付け「キミガヨラン」と命名したが、後にこのユッカはアツバキミガヨランだったことが判明したという。アメリカ先住民はユッカの根を石鹸に、果実を食用に、葉や茎の繊維を糸や紐の材料に利用した。ユッカの花は米国ニューメキシコ州の州花。「雨あしの広場にしぶきユッカ咲く」(飯田蛇笏)

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<ハマゴウ(浜拷、浜香)> 海岸の砂地に根を張る海浜植物の代表格

2017年08月18日 | 花の四季

【真夏、円錐花序に爽やかな青紫の唇形花】

 シソ科ハマゴウ属の落葉小低木。北海道を除く日本各地の海岸の砂地に自生する海浜植物の代表格。砂の上を茎が這って伸び、7~9月頃、枝先の円錐花序に青紫色の唇形花を多数付ける。花冠の上唇は2つに、下唇は3つに裂け、雄しべ4本と先端が2つに分かれた雌しべ1本が花冠から突き出す。葉は楕円形で微細毛が密生し灰緑色。花後に黒い球形(径5~7mm)の果実ができる。

 学名は「ヴィテックス・ロツンディフォリア」。それぞれ「結ぶ」「円形の葉の」を意味する。属名はこの植物のつるでかごを編んだことによるという。花や葉、果実は爽やかな芳香を発し、乾燥したものは「蔓荊子(まんけいし)」と呼ばれて漢方薬に配合される。安眠にも効果があるとして実はかつて枕の詰め物にもされた。和名は茎が砂地を這う様から「ハマハウ」「ハマホウ」からの転訛とする説、葉を乾燥させ抹香を作ったことによる「浜香」からとする説がある。

 ハマゴウは砂地で根を張って群落をつくり、強風などで砂が流されるのを防ぐ役割を果たす。鳥取砂丘をはじめ石川県加賀市の加賀海岸、香川県観音寺市の有明浜など各地の砂浜に大きな群落がある。内陸では滋賀県近江八幡市佐波江町の琵琶湖畔に群落があり、地元では約10年前から保全のため柵の設置や下草刈りなどに取り組んでいる。2013年には県の「ふるさと滋賀の野生動植物との共生に関する条例」に基づき保護区に指定された。

 三好達治の詩集『砂の砦』(1946年刊)に「馬鹿の花」と題した詩がある。「花の名を馬鹿の花よと 童べの問へばこたへし 紫の花 八月の火の砂に咲く馬鹿の花」と始まる。この「馬鹿の花」はハマゴウといわれる。達治は大阪生まれだが、一時期、福井県の港町三国町(現坂井市)で暮らした。『日本植物方言集成』の中には見えないが、能登地方ではハマゴウを「馬鹿の花」と呼ぶのだろうか。それとも達治本人が真夏の焼けた砂地で花を付けながら誰も見向きもしないハマゴウをこう呼んだのか。いずれにしろ、この詩には厳しい環境の中で健気に生きるハマゴウへの温かい眼ざしがあふれている。(写真は鳥取県の浦富海水浴場で)

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<ミズカンナ(水カンナ)> 葉がカンナに似た大型水生植物

2017年08月17日 | 花の四季

【米南東部原産、円錐状花序に白い苞と紫色の花】

 クズウコン科ミズカンナ属(タリア属)の水生宿根草。米国南東部の池沼周辺の湿地に自生する。日本には昭和初期に観賞と水質改善を目的に導入されたという。花茎は2m前後にも達し、7~9月頃、長さ10~20cmほどの円錐花序に、白い粉をかぶったような苞(ほう)の間から紫色の花をのぞかせる。


 

 根際から生える根出葉は長い葉柄を持ち、その先に長さが30~50cmにもなるカンナに似た大きな葉が付ける。和名ミズカンナも水辺に生え草姿がカンナに似ることから。英名も「ウオーター・カンナ」。ただカンナはカンナ科カンナ属で全く無縁。学名は「タリア・デアルバータ」。属名のタリアはドイツの医師・植物学者名に由来するという。種小名デアルバータは「白くなった」「漂白された」を意味する。苞や花茎、葉の裏など株全体が白色を帯びることからの命名だろう。

 クズウコン科の植物は熱帯~亜熱帯に多いが、ミズカンナは比較的耐寒性があることから、寒さが厳しい寒冷地を除き世界各地の湖沼や公園内の水辺などに植栽されている。ミズカンナは花に昆虫が近寄って頭を花に入れるやいなや、花柱が飛び出して昆虫を押さえつけ花粉を付ける。クズウコン科にはこんなユニークな花柱運動をする植物が多いそうだ。

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<安芸の小京都・竹原> 重厚な町家の中にモダンな洋館

2017年08月15日 | 旅・想い出写真館

 白壁の町柳井を後に、周防大島、宮島を経由して竹原へ。周防大島は瀬戸内海にある島では淡路島、小豆島に次ぐ大きさで〝瀬戸内のハワイ〟を標榜している。柳井には歌謡歌手松島詩子の記念館があったが、この島には作詞家星野哲郎の記念館があった。〝安芸の小京都〟といわれる竹原は江戸前期に播州赤穂から製塩技術を導入し製塩業で栄えた。風格のある商家の町並みが往時の繁栄ぶりを物語る。その本町通り一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区。

 竹原はNHK連続テレビ小説「マッサン」のモデル、竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)の生まれ故郷。生家の「小笹屋 竹鶴酒造」(写真㊧)は江戸中期から塩造りに加え酒造りも始め、今も奥の酒蔵で酒を造っているそうだ。近くの広場には「竹鶴政孝&リタ像」もあった。竹原は儒学者頼山陽(1780~1832)の故郷でもあり、頼一族の建物が今も多く残る。重厚な構えの頼惟清(これすが)旧宅は県指定の史跡。惟清は山陽の祖父で紺屋を営んでいた。叔父の屋敷「春風館」などもある。本川に架かる新港橋のたもとには山陽の大きな座像も立っていた。

 

 重厚な建物が多い中でひときわ目立つレトロな洋館があった。竹原市歴史民俗資料館(旧竹原町立竹原書院図書館)。訪ねたときには入り口に「台風接近に伴い臨時休館致します」というお知らせが掲げられていた。竹鶴邸と資料館の中ほどにある石段を上った所にあるのが西方寺の普明閣。小早川隆景が京都の清水寺を模して創建したといわれ、眼下に竹原の市街地を一望できた。(写真㊧は頼惟清旧宅)

 

【〝潮待ちの港〟として栄えた鞆の浦】

 沼隈半島の先端に位置する広島県福山市の鞆の浦。ここは瀬戸内海のほぼ中央に位置し、潮の干満の分岐点に当たる。潮流は6時間流れて3時間止まり、その後6時間逆に流れるという。このため鞆の浦は〝潮待ちの港〟として栄え、江戸時代には北前船が入港し、朝鮮通信使も毎回寄港したという。シンボルになっている常夜灯は花崗岩製で約160年前の1859年(安政6年)に造られた。

 

 常夜灯に通じる石畳の路地の両側には、江戸時代や明治時代に建てられた白壁や虫籠窓の町家が軒を連ねる。その一つに「重要文化財 太田家住宅」「広島県史跡 鞆七卿落遺跡」という木製看板が掲げられていた(写真㊧)。幕末動乱期の1863年、公武合体派に追われ都落ちした三条実美(さねとみ)ら公卿7人が長州に下る途中に立ち寄った旧「保命酒屋」。保命酒は鞆の浦特産の滋養薬味酒で、醸造元や販売店をあちこちで見掛けた。古い町並みを歩きながら、景観保護と交通渋滞解消の両立の難しさも痛感した。

 

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<柳井市古市・金屋> 約200mにわたって白壁の商家の家並み

2017年08月14日 | 旅・想い出写真館

 JR柳井駅(山口県柳井市)前の麗都路(レトロ)通りを北に進み柳井川を越えると、東西に白壁の町並みが広がる。国選定重要伝統的建造物群保存地区の「古市・金屋地区」だ。港町柳井は江戸時代、商業地として栄え岩国藩の御納戸(おなんど)と呼ばれた。この白壁通りを、産物を満載した大八車が行きかいにぎわったという。通りを散策していると、往時の繁栄ぶりが目に浮かぶようだった。

 白壁通りには「甘露醤油」を扱う店があり、製造過程を見学できる資料館(写真㊧)まであった。柳井名物という甘露醤油とは? 案内板によると、1780年代に当地の醸造家が造った芳香・美味な醤油を時の藩主に献上したところ「甘露、甘露」と賞賛されたのがその名の由来とか。1本買い求めようとある店に入ると、店内に「金魚ちょうちん」が泳いでいた。聞けば、8月13日の「第26回金魚ちょうちん祭り」を前に通りに飾っていたが、台風5号の接近で急遽〝避難〟させるよう連絡があったという。祭りでは約2000個の金魚ちょうちんが灯され、巨大な金魚ねぶたの総回しや金魚ちょうちん踊りなどもあるとのこと。昨日はさぞにぎわったことだろう。

 

 通りを歩いていてもう一つ目に飛び込んできたのが「かにが路上を横切ります 人も車もご注意を」という立て看板。2カ所に立っていた。えっ、本当に? 足元を注意していると、車に引かれたのか、ぺちゃんこになって成仏したカニがいた。そして、その先の狭い水路を覗き込んでいると……。いた! 石の隙間から顔を出したのはなんと、立派な赤い手を持つ「アカテガニ」だった。

 

【防府天満宮、春風楼、周防国分寺……】

 白壁の町柳井を訪れる前に、防府天満宮や周防国分寺を訪ねた。菅原道真を祀った神社は全国に約1万2000社あるそうだが、日本で最初に創建された天神さまがこの防府天満宮という。日本三大天神の一つ。「裸坊祭」として有名な御神幸祭(11月第4土曜日)は1004年、防府に遣わされた勅使が道真の御霊に一条天皇からの「無実の知らせ」を奏上したのに由来する。境内の一角にある「春風楼」(写真㊨)は1873年(明治6年)に完成した二層の楼閣洋式の建物。元々は1822年に五重塔として建設が始まったが藩の財政難により中断、後に五重塔の一層部分の組み物を床下に組み入れる形で建設した。石段を上ると、眼下に防府の市街地を一望できた。

 

 天満宮の参道脇にある防府市観光協会に「世界お笑い協会」という大きな看板が掲げられていた。なんともユニークな名前。立ち止まって見ていると、職員が資料を持って来てくれた。市内の小俣地区には鎌倉時代から天下の奇祭と有名な「笑い講」が伝わる。この笑いの文化を広げようと5年前に協会を設立したという。以来、地元の高校などと連携し「お笑い講世界選手権大会」、健康のための「お笑い体操」などに取り組んでいるそうだ。周防国分寺は創建時の寺域をほぼ維持しており国の史跡になっている。金堂(写真㊨)は萩藩7代藩主毛利重就(しげたか)によって再建された。国分寺の中で大規模な金堂が残っているのも珍しい。

 

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<津和野~萩> 掘割を泳ぐ錦鯉に心が和む津和野・殿町

2017年08月13日 | 旅・想い出写真館

 島根県西部の山あいにある〝山陰の小京都〟津和野町。最後に訪ねたのはもう二十年以上前になるが、落ち着いた佇まいの町並みは以前と変わらず、今回も殿町通りの掘割を泳ぐ色とりどりの錦鯉が出迎えてくれた。殿町には家老多胡家や大岡家の武家屋敷門、藩校養老館、津和野カトリック教会など味わいのある建物が並ぶ。

 養老館(県史跡)は1786年の創設。1853年の大火で焼失したが、55年に現在地で再建され、廃校となる72年(明治5年)まで続いた。この間、森鷗外や西周(近代日本哲学の祖)、山辺丈夫(日本近代紡績業の父)らが学んだ。ただ、建物の老朽化に伴って今は全面解体工事で休館中だった。津和野の町並みを望む高台に「日本五大稲荷」の一つに数えられる太鼓谷稲成神社が鎮座する。1773年に時の藩主が京都の伏見稲荷を勧請したのが始まりで、島根県内では出雲大社に次いで初詣客が多いという。朱色の社殿が目にまぶしい。表参道には奉納された鳥居約1000本が林立する。(下の写真㊧筆頭家老多胡家表門、㊨大岡家老門)

 

 今年は津和野に亀井氏が入城してちょうど400年目の節目。これに合わせ様々な記念イベントが開かれる。稲成神社宝物殿・亀井温故館・津和野町郷土館の3館連携特別展「津和野藩主亀井家の400年」(~11月12日)や津和野踊り伝来400年記念盆踊り(8月15日)をはじめ、記念式典・講演会、亀井氏入城ウォーク、3団体共演の津和野奴道中などを予定している。(下の写真㊧太鼓谷稲成神社、㊨神社境内から望む津和野の町並み)

 

【萩市の伝建地区は4カ所、京都、金沢と並んで全国最多】

 山口県萩市には国選定重要伝統的建造物群保存地区が4カ所ある。武家町の堀内と平安古(ひやこ)、港町の浜崎、そして6年前に選定されたばかりの佐々並市(ささなみいち)。伝建地区4カ所は京都市、金沢市と並んで全国で最も多い。堀内地区には以前訪れたときにはなかった「萩城跡外堀 北の総門」が復元されていた(写真㊨)。北の総門は3カ所あった三の丸(堀内)に入る総門の一つ。

 

 佐々並市地区は萩市街の南東約15キロに位置する。1604年萩に入府した毛利輝元が整備した瀬戸内側と結ぶ萩往還(約53キロ)の沿線上にあり、かつては宿場町として栄えた。写真㊧は人馬やかごの調達などをする「目代所」があった場所に、明治時代に建てられた町家「旧小林家住宅」。萩市街の吉田松陰の誕生地・墓に程近い東光寺(写真㊨)は1691年創建の黄檗宗の名刹で、毛利家の菩提寺。総門には1693年の開山慧極(えごく)筆「護国山」の扁額が掲げられている。8月15日の「萩・万灯会」では約500基の石灯籠に灯が入る。

 

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<松江城> 国宝指定から2年余、年間登閣者50万人突破!

2017年08月12日 | 旅・想い出写真館

【出雲大社から日御碕灯台、ゆうひライン石見へ】

 松江城の天守閣が重要文化財から国宝になったのは2年前の2015年7月。その〝格上げ効果〟は絶大で、15年の登閣者数は前年を3割以上も上回り、16年には約52万人と初めて50万人を突破した。松江城は1611年に松江開府の祖、堀尾吉晴と孫の2代藩主忠晴によって築かれた。石垣にもその堀尾家の家紋である分銅の形が刻まれた巨石があった。白壁の姫路城が白鷺城と呼ばれるのに対し、木造黒塗りの松江城は千鳥城の別称を持つ。

 しゃちほこは高さ2.08mの木彫銅張り。現存する木造のものでは最大という。5層のうち3層の中央に寺院洋式の「華頭窓(かとうまど)」が設けられ、天守入り口の防備を強固にするため「附櫓(つけやぐら)」があることなども松江城の特徴。城内にある洋風建築「興雲閣」は1903年に松江市工芸品陳列所として建てられたが、本来の目的は明治天皇行幸の行在所として使うことだった。行幸は実現しなかったが、4年後、皇太子(後の大正天皇)と乃木希典学習院院長一行が宿泊されたという。

  

 城の堀のそばにある「松江歴史館」は松江藩政下の文化や暮らしを紹介する観光拠点として2011年春にオープンした。来場者の目を引くのが館内の一角にある「喫茶きはる」の店頭を飾る華麗な工芸菓子2点。店主で「現代の名工」でもある和菓子職人、伊丹二夫(つぎお)さん(下の写真㊨)が2年がかりで作ったそうだ。今まさに飛び立ちそうな白鷲、ボタンやツバキなど色艶やかな花……。使った材料は和菓子づくりに使う砂糖だけという。本物と見まがうような質感に、しばし見入ってしまった。

  

 出雲大社では2013年に「平成の大遷宮」の主要行事が執り行われた。大国主命が祀られる本殿はもちろん国宝。現在の高さは約24mだが、かつては今の2倍の約48m、あるいはその倍の約98mあったという言い伝えも。平安時代の貴族子弟向けの教科書『口遊(くちずさみ)』は大きな建物の順に「雲太、和二、三京(うんた、わに、きょうさん)」と記す。1位出雲大社、2位東大寺大仏殿、3位平安京大極殿というわけだ。2000年には境内の地下から直径1.35mの杉の巨木を3本束ねた柱が見つかった。今後の調査が注目される。

 

 島根半島の西端に立つ白亜の日御碕灯台は「世界灯台100選」の1つに選ばれている。高さは日本一の43.65m、夜間に光は約39キロ先まで届くという。そばにある日御碕神社は徳川3代将軍家光の命により造営された。朱塗りの社殿は国の重要文化財。島根県西部を走る国道9号などは夕日が美しいことから「ゆうひライン石見」と呼ばれる。8月5日にはちょうど浜田漁港周辺で「石州浜っ子夏まつり」が開かれていた。高台にある道の駅「ゆうひパーク浜田」から、日本海に沈む夕日と打ち上げ花火を楽しむことができた。

 

 

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<倉吉白壁土蔵のまち> 風情あふれる土蔵と石橋と石州瓦

2017年08月11日 | 旅・想い出写真館

【地元出身の英雄、横綱琴櫻の銅像も】

 「山口ちょうちんまつり」見物を機に、車で中国地方を5泊6日で1周した。京都で国道9号に入って鳥取、島根、山口を巡り、帰りは国道2号や188号、250号などを使って広島、岡山、神戸と時計回りに。初日は鳥取の浦富海岸や砂丘、伯耆(ほうき)一ノ宮倭文(しとり)神社などを回った後、倉吉市打吹(うつぶき)玉川地区の白壁土蔵群を訪ねた。

 鳥取県のほぼ中央に位置する倉吉は打吹城の城下町で、江戸時代には商都としても栄えた。今も旧市街地の本町通りと玉川周辺には江戸末期から明治時代にかけて建てられた土蔵群が残る。一帯は国選定の伝統的建造物群保存地区。玉川には鯉が泳ぎ、いくつもの石橋が架かる。屋根は赤褐色の石州瓦。造り酒屋や醤油屋、町家などを改造した建物は「赤瓦○号館」と命名され、1号館から16号館まである。京風建築の6号館「桑田醤油醸造場」(明治9年創業)は県指定保護文化財。

  

 倉吉市は「緑の彫刻プロムナード」と銘打って市民の散歩道に個性豊かな彫刻を配置している。伝建保存地区の一角にある「ひとまちひろば」にも犬の彫刻がベンチにねそべっていた。制作者は奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の作者としても知られる籔内佐斗司氏。白壁土蔵群を南に下ると、倉吉市役所前の県道38号に出る。その交差点に「琴櫻顕彰碑」が立っていた。琴櫻(1940~2007)は地元出身の第53代横綱。押し相撲を得意として「猛牛」の異名を取り、現役引退後は佐渡ケ嶽親方として琴風や琴ノ若、琴欧洲ら多くの関取を育てた。幕内最高優勝5回。白壁土蔵群の一角には化粧回しや優勝額などゆかりの品々を展示した「琴櫻記念館」もある。

  

 倉吉を訪ねる前に鳥取県で最初に向かったのは山陰海岸ジオパークの浦富海岸(岩美町)。海水浴場には「全国ベスト5認定 環境省・水質調査」という案内板が立っていた。鳥取砂丘ではラクダのライド体験に家族連れが列を作っていた。砂丘を出て西に行くと、神話「因幡の白うさぎ」で有名な白兎海岸。その近くに国指定天然記念物の「ハマナス自生南限地帯」があった。ハマナスは高さ1mほどのバラ科の落葉低木。花期は5~6月頃で、この時期には色鮮やかな橙色の果実をたくさん付けていた。

  

 伯耆一ノ宮倭文(しとり)神社(湯梨浜町)は東郷湖に近く、御冠山の中腹に鎮座する。この地の主産業が日本古来の織物「倭文織(しずおり)」だったことから、倭文部(しとりべ)の祖神建葉槌命(たてはづちのみこと)を主神として祀る。平安後期に銅経筒や金銅観音菩薩立像(白鳳時代)などが埋納された経塚は国指定史跡。東郷湖は汽水湖で、湖畔には東郷温泉、はわい温泉がある。湖の中央付近の湖底からも温泉が湧いているそうだ。

 

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<山口ちょうちんまつり> 中心商店街に幻想的な光のトンネル

2017年08月10日 | 祭り

【600年続く夏の風物詩、台風の接近で2日目は中止に】

 山口市の夏を彩る風物詩「山口七夕ちょうちんまつり」が8月6日、中心商店街などを舞台に繰り広げられた。室町時代に山口を拠点とした守護大名、大内盛見(もりはる、1377~1431年)が祖先の冥福を祈るため笹竹の高灯籠を灯したのが始まりといわれる。約600年の伝統を誇る盆行事として受け継がれ、地元では青森のねぶた、秋田の竿灯と並ぶ〝日本三大火祭り〟とPRしている。

 まつりの開催日は毎年8月6~7日の2日間。例年なら中心商店街や湯田温泉街などに無数の「ちょうちん笹飾り」や「ミニちょうちんツリー」が飾られるほか、高さ8mの「ちょうちんツリー」の点灯、「提灯山笠」や「提灯神輿」3基の巡行などが行われる。だが、今年は台風5号の接近から初日の6日のみの開催となり、見どころの「ちょうちんツリー」なども残念ながら中止に追い込まれた。

 

 このまつりの特徴は提灯の明かりが電球ではなくろうそくであること。「紅ちょうちん」と呼ばれており、笹飾りには約40個、背丈ほどのミニツリーには約20個の紅ちょうちんと願いを込めた短冊が飾られる。日没に合わせて灯が入ると、東西に伸びる中心商店街はまさに幻想的な光のトンネルに。ろうそくの灯が柔らかく温かい。アーケード内でのろうそくの提灯は全国的にも珍しいという。商店街北側の亀山公園ふれあい広場の特設ステージなどでは、よさこいやダンス、勇壮な太鼓の演奏なども行われ、浴衣姿の女性など大勢の観客が1日限りのちょうちんまつりを堪能していた。

 

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<BOOK> 「全国の犬像をめぐる 忠犬物語45話」

2017年08月01日 | BOOK

【青柳健二著、青弓社発行】

 著者青柳氏は1958年山形県生まれの写真家。メコン川、中国雲南省、アジアのコメなどをテーマにアジア各地を飛び回った後、1999年から「日本の棚田百選」の撮影を始め各地の棚田を撮ってきた。主な著書に『棚田を歩けば』『アジアの棚田 日本の棚田―オリザを旅する』『メコン河―アジアの流れをゆく』など。2009年から1年かけ愛犬(ビーグル犬)と一緒に北海道から沖縄まで全都道府県を隈なく回った。その日本一周旅行で数多くの犬の像や墓、塚、碑などに出合ったのが本書出版のきっかけになった。

           

 忠犬で誰もがすぐ思い浮かべるのは東京・JR渋谷駅前の忠犬ハチ公像だろう。ハリウッド映画になったこともあって、その知名度は欧米人の間でも高い。本書では北から南へ45の忠犬物語を銅像の写真などとともに紹介しており、「忠犬ハチ公と上野英三郎博士像」は第24話に登場する。そこでは青山霊園にあるハチ公の墓や上野博士の出身地・三重県津市の近鉄久居駅そばに立つ像、2015年に東京大学農学部にできたばかりの上野博士に飛びつくハチ公の像なども取り上げている。その一つ前の第23話はタロとジロで有名な南極昭和基地に置き去りにされた樺太犬の話だ。

 忠犬像で多いのが主人を助けた犬。越後柴犬のタマは2回にわたって主人を雪崩から救い出し、盲導犬サーブは雪でスリップし突っ込んできた車から主人をかばって重傷を負い片足を失った。サーブの像は名古屋市の久屋大通公園や岐阜県郡上市などに立つ。江戸時代には飼い主に代わって伊勢神宮や金毘羅大権現(現在の金刀比羅宮)を参拝した〝代参犬〟がいたそうだ。福島県須賀川市には「市原家の代参犬シロの犬塚」、三重県伊勢市には「おかげ犬の像」、香川県琴平町には「こんぴら狗の像」がある。飼い主から旅人に託された犬は街道筋の人たちの世話になりながらお参りし、帰路も多くの旅人の世話になりながら飼い主の元に戻ったという。

 愛媛県松山市にある「目の見えないダンの像」の物語も感動的。ダンはダンボール箱で団地横の川に捨てられていた白い子犬。団地では動物は飼えない規約になっていたが、少女2人の熱い訴えから団地で飼うことになり、少女たちは目の見えないダンのことを紙芝居にした。それが紙芝居コンクールで最優秀に選ばれ、さらに小学校全校でダンの犬小屋づくりにも取り組んだ。その心温まる話は道徳の教材にもなったという。ほかに消防車に乗って1000回も〝出動〟した北海道小樽市の「消防犬ぶん公」、怪物から村人を救った長野県駒ケ根市の「光前寺の霊犬早太郎」や静岡県磐田市の「しっぺい太郎」、和歌山県九度山町の「高野山の案内犬ゴン」なども登場する。

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