く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ラナンキュラス> 地中海性気候地域に分布するキンポウゲの仲間

2017年03月27日 | 花の四季

【豪華な花姿と豊富な花色、和名は美名の「花金鳳花」だが…】

 キンポウゲ科キンポウゲ属(ラナンキュラス属)の秋植え塊根植物。造花のような鮮やかな花弁が幾重にも重なり合う豪華な花姿から初春の鉢花として人気が高い。ラナンキュラスは本来、北半球に400種ほど分布するラナンキュラス属の植物の総称だが、ヨーロッパ東南部から西南アジアにかけた地中海性気候地域に分布する一種を園芸界で一般にラナンキュラスと呼んでいる。

 その一種とは「ラヌンクルス・アシアティクス」。ラナンキュラスはその学名の英語読みで、語源はラテン語で「カエル」を意味する「ラナ」から。ラナンキュラス属にカエルが生息するような湿地を好む仲間が多いことに由来する。和名は「ハナキンポウゲ(花金鳳花)」。なかなかの美名だが、残念ながらこの名前で呼ばれることはほとんどない。

 ラナンキュラスには大きく分けてペルシャ系、トルコ系、フレンチ系などがある。日本には明治時代の半ばに渡来したが、花径が小さく花びらの枚数も少なかったため、あまり注目を集めなかった。一躍脚光を浴びるようになるのは50年ほど前に、日本で改良された「ビクトリア・ストレイン」という八重咲き大輪種が登場してから。中でも「ハマノニジ(浜の虹)」と名付けられた園芸品種は、花径が15cmにもなり白地にピンクの覆輪が入る珍しさもあって高い人気を集めた。

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<BOOK> 「ヴォイセズ・オブ・アイルランド アイリッシュ・ミュージックとの出会い」

2017年03月22日 | BOOK

【五十嵐正著、シンコー・ミュージック・エンタテイメント発行】

 著者五十嵐氏は金沢出身で、輸入レコード店の店長などを務めた後、音楽評論家として活動、その分野はロックからフォーク、ワールドミュージックと幅広い。著書に『ジャクソン・ブラウンとカリフォルニアのシンガーソングライターたち』など。本書ではアイルランドや米国のアイルランド系の歌手・演奏家・バンドへのインタビュー記事とアルバムの紹介を中心に構成、伝統音楽(トラッド)とそれを元に新たな試みに挑戦するアイリッシュ・ミュージシャンの全貌に迫る。

       

 インタビュー記事で取り上げた演奏家は実に30人/グループ近くに上る。冒頭にアコーディオン奏者シャロン・シャノン、次いで女性バンドのチェリッシュ・レディース。いずれも2016年末の「ケルティック・クリスマス」出演のための来日前にインタビューまたはメール取材した。アイリッシュ・ミュージックを代表するグループやシンガーソングライターとして、エンヤ、メアリー・ブラック、カラン・ケイシー、リサ・ハニガン、ウォリス・バード、ウィ・バンジョー3なども取り上げている。

 かつてエンヤのCDを集中的に買い求めたことがあった。エンヤが一時属していたクラナドのCDも。クラナドはエンヤの兄や姉ら家族を中心にしたバンド。エンヤは2年ほどでマネジャーと共にグループを去るが、その際、兄姉から「彼らをとるか、家族をとるか」と迫られ、その後絶縁状態だったということを本書で初めて知った。アルバムの世界売り上げ枚数が7500万枚に上り〝エンヤノミクス〟とまでいわれた成功の裏にはそんな家族との抜き差しならない確執があったのだ。

 アイルランドから多くの移民がアメリカに押し寄せた。現在アイルランド系米国人は約4000万人ともいわれる。単純に米国の全人口で割ると、実に6人に1人がアイルランド系ということになる。それだけに政治や経済だけでなく音楽の分野でもその影響力は大きい。アイルランドの伝統音楽はアメリカ生まれのフォークやカントリーの源泉の1つといわれ、それが黒人音楽と結びついてロックンロールが生まれたともいう。

  両親がアイルランド出身で『リヴァーダンス』で有名なフィドル(バイオリン)奏者、アイリーン・アイヴァースは意欲的にアフリカや中米出身者など多国籍のメンバーとの演奏活動に取り組んできた。手元にも代表的なアルバム『クロッシング・ザ・ブリッジ』がある。そのアイリーンは「移民は常に合衆国の一部なの。その存在こそが文化を活気づけているのよ。(排斥されるどころか)ほめたたえられるべきものなのにね」とインタビューに答えている。9.11以降、米国パスポートを持たない音楽家の就労ビザ取得が難しくなっている現状を嘆いたものだが、いまアイリーンはその後誕生したトランプ政権の大統領令に怒り心頭状態なのではないだろうか。

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<ヤマシャクヤク(山芍薬)> 明るい落葉樹林内でひっそりと清楚に

2017年03月21日 | 花の四季

【山野草として高い人気、盗掘などで絶滅の危機に】

 ボタン科の多年草。本州の中部以西、四国、九州のブナ、ミズナラなどの落葉広葉樹林の明るい林床に自生する。草丈は30~40cm。4~6月頃、すっくと立ち上がった茎の先端に、真っ白い半開きの花を1つ上向きに付ける。その名「山芍薬」も山地に生え、葉や花が園芸種のシャクヤクによく似ているところから。

 花の命は短く3日間ほど。近似種に花が淡紅色の「ベニバナヤマシャクヤク」がある。北海道を含む全国各地の山地に自生し、花の時期はヤマシャクヤクより1カ月ほど遅い。いずれも清楚なたたずまいから名花として人気が高く、山野草としても栽培されている。ただ自生種は盗掘や森林開発などで減少傾向にあり、ヤマシャクヤクは環境省のレッドデータブックで準絶滅危惧、ベニバナヤマシャクヤクは絶滅の危険が増大しているとして絶滅危惧Ⅱ類に分類されている。

 ヤマシャクヤクは葉の裏が白っぽくて無毛。これに対し毛があるものを「ケヤマシャクヤク」と呼ぶ。またベニバナシャクヤクには一般に毛があるが、宮崎県小林市に自生するものには毛がない。このため「ケナシベニバナヤマシャクヤク」と呼ばれて市の天然記念物になっている。京都府南丹市美山町には「ベニバナヤマシャクナゲの里」がある。ベニバナが約8000本も群生し、保護活動に取り組む地元の「内久保環境・史跡保存会」は毎年開花期の5月末から6月初めにかけ観賞会を開いている。

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<シロハラ(白腹)> アムール川流域からの渡り鳥、まもなく北帰行?

2017年03月20日 | 小鳥たち

【名前通りに白っぽい腹部、大きさ・習性はツグミそっくり】

 日曜日の19日朝、ふと庭を見ると見慣れない野鳥が1羽。「えっ、ツグミ?」。大きさはツグミとほぼ同じ、地面に降りて落ち葉をくちばしで跳ね除けながら昆虫やミミズなどの餌を探す仕草もよく似ている。ただ背中が茶褐色、腹が白っぽくて、ツグミに比べると色合いが全体的に地味な感じ。早速、手元の野鳥ハンドブックで調べた結果、渡り鳥のシロハラと分かった。

 シロハラの繁殖地はロシア極東域のアムール・ウスリー川流域から中国東北部にかけて。冬鳥として日本や朝鮮半島などに渡来して越冬、春になるとまた北方に戻っていく。シロハラはツグミやアカハラなどとともにツグミ科に分類されていたが、日本鳥学会発表の最新の分類(2012年の日本鳥類目録改訂第7版)ではツグミ科の100種以上がヒタキ科に組み入れられたそうだ。

 ハンドブックによると、雄鳥は頭・顔・喉が灰色なのに対し、雌は喉が白く頭も背中と同じ淡褐色という。写真のシロハラはどうも雄の成鳥のようだ。シロハラは10月下旬に数百羽の大群で飛来し、その後は単独でやや薄暗い森林の茂みなどで暮らすことが多いという。明るい開けた場所でしばしば見かけるツグミに比べて、あまり馴染みがないのもそれが一因だろう。

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<フッキソウ(富貴草)> 日陰・寒さに強くグランドカバーとして人気

2017年03月19日 | 花の四季

【年中青々とした常緑葉から「吉祥草」や「吉字草」の異名も】

 全国の山地の樹林内に自生するツゲ科の常緑小低木(高さ20~30cmほど)。雌雄異花で、3~5月頃、短い穂状花序の上部に白くて太い4本の雄しべから成る雄花を多数付ける。属名の「パキサンドラ属(フッキソウ属)」の語源も「太い」と「雄しべ」を意味するギリシャ語の「パキス」と「アンドロス」から。花序の基部に数個付く雌花は小さなうす緑色であまり目立たない。

 フッキソウはやや地味な花よりも、年中青々とした常緑の葉っぱの方に重きを置かれる。日陰や乾燥、寒さに強く、地下茎が旺盛に広がることから、公園や庭園の地被(グランドカバー)植物として使われることが多い。日本原産で、英名では「ジャパニーズ・パキサンドラ」と呼ばれる。艶のある葉の縁にはギザギザの切れ込みが入る。クリーム色の明るい斑(ふ)が入るものは「フイリフッキソウ」として人気が高い。

 「富貴草」の和名は常緑の葉が逞しく生い茂る様子を「繁栄」や「繁殖」のイメージに重ね合わせて名付けられたという。「吉祥草(きっしょうそう)」や「吉字草(きちじそう)」という縁起のいい別名も。ただし、同じ「吉祥草」の漢字で「きちじょうそう」と読む全く別種の植物があるから要注意。こちらはユリ科(またはキジカクシ科)の常緑多年草で、ヤブランのような赤紫色の花を穂状に付ける。フッキソウの仲間には台湾~中国中南部に自生する「タイワンフッキソウ」や、冬になると葉が銅色に色づく北米産の「プロクンベンス」などがある。「富貴草雨にも茎を立てて咲く」(上村占魚)

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<建具職人・和田奈良一さん> 吉野町「三奇楼」で一周忌の回顧展

2017年03月18日 | 美術

【和風照明器具や三重七宝文様のランチョンマット・コースターなど】

 奈良県吉野町上市のゲストハウス「三奇楼」で、17日から「和田奈良一(わだ・ならかず)展~建具職人の精緻な世界」が始まった。和田さんは〝三重七宝組子〟の欄間で高い評価を受けた建具職人。その文様を生かした身近な生活用品でも人気を集めたが、昨年4月に急逝した。享年71。今展はその一周忌を前にした回顧展で、22日まで開かれる。(下の写真は「グッドデザイン賞2012」を受賞した照明器具『吉野山夜桜』)

 和田さんは中学卒業後に建具職人だった父親に弟子入りした。得意とした七宝文様は直線と緩やかなカーブを組み合わせたもの。そのカーブも曲げ加工ではなく、親指ほどの小さな鉋(かんな)と刃厚0.2ミリの鋸(のこ)を使って1つずつ削り出して作ったという。技術と忍耐を要する、まさに職人芸だ。生前「ティッシュ1枚の薄さでもずれたら組めない」と話していたそうだ。60歳の頃から身近に使える生活用品づくりにも取り組んだ。

 

 2012年には『吉野山夜桜』と名付けた和風の照明器具が伝統工芸を生かした作品としてグッドデザイン賞に選ばれた。東京から7年ほど前、吉野に移り住んだデザイナー平野湟太郎さんがデザインを提案し、和田さんが制作した。会場の「三奇楼」蔵ギャラリー2階にはその作品を中心に、和田さんが作った三重七宝模様のランチョンマットやコースターなどを展示中(一部作品は販売も)。壁面には和田さんの仕事場での写真や親交のあった人たちが思い出を綴ったパネルも飾られている。

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<大和郡山市> 「第6回大和な雛まつり」にぎやかに開催中

2017年03月02日 | 祭り

【町中が雛飾り一色! 商店の店頭や古民家など138カ所に】

 奈良県大和郡山市で「第6回大和な雛まつり」(2月25日~3月5日)が開かれており、城下町一帯は展示場所を示すマップを手にした見物客でにぎわっている。町を挙げた県内の雛祭りとしては高取町が有名だが、ここ大和郡山でも年々参加する店や民家が増えており、今年は138カ所に雅な雛飾りが展示されている。

 今年のメイン会場は道路中央に水路が流れる紺屋町の「箱本館・紺屋」(上の写真)。本館の各部屋には様々な豪華な雛壇や吊るし飾りが展示され、館内全体が華やいだ空気に包まれていた。郡山八幡神社にはいくつもの家庭から寄せられた雛人形が大集合(下の写真上段㊧)。「各御家庭で眠っていた人形たちがお祓いを受けて再び皆様の前に」という説明が添えられていた。中には小学6年以来、飾ってなかったが、このまつりを機に押し入れから出すことができたという方も。雛人形たちも久しぶりに日の目を見たせいか晴れ晴れとした表情に映った。

 

 

 米澤酒店では江戸末期の「古今雛」(上の写真上段㊨)などとともに約160年前の市松人形を展示中。長く蔵の中で保管されたままだったが、偶然見つかったとのこと。旧遊郭のそばにある源九郎稲荷神社に飾られた雛人形(上の写真下段㊧)の一つには「大正時代のお雛様で、遊郭のいとちゃんやこいさんが飾っていた人形たちです」との説明が添えられていた。「鮮魚成駒」の店頭に飾られた雛人形(上の写真下段㊨)は1984年に九州・小倉の祖父母から初節句のお祝いとして贈られ、その後、横浜を経て嫁入りとともに大和郡山にやって来た。 

 葉本家(ハモトプチミュージアム)に飾られた「御殿雛」(上の写真)は明治前半のもの。葉本家は元両替商(後に肥料商)で、切り妻造りの2階建て建物は登録有形文化財に指定されている。邸内では婚礼籠や古い簪(かんざし)など代々伝わる調度品や生活用具、肥料商時代の古い看板なども展示中。町の中心部の一角には大人も子どもも雛装束を身に着け記念写真を撮ることができる「成りきり会場」も設けられている。今年の雛まつりで最も古いのは江戸中期の鈴木家の「享保雛」という。ただ展示期間が3月3~5日限定で、訪ねた日に拝見できなかったのが少し心残りだった。(下の写真は㊧瀬川邸、㊨本家菊屋「竹の國」)

 

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<飛鳥寺西方遺跡> 3棟目の建物跡発掘!東西3間・南北2間超の柱穴跡

2017年03月01日 | 考古・歴史

【中大兄皇子と中臣鎌足が出会った〝槻の樹の広場〟の一角】

 奈良県明日香村にある飛鳥時代の「飛鳥寺西方遺跡」で、高床式の建物があったとみられる大きな柱の穴跡や東西に延びる石組みの溝などが見つかり、2月26日明日香村教育委員会文化財課による現地説明会が開かれた。同遺跡は飛鳥寺旧境内の西側にあり、発掘場所は日本書紀に出てくる〝槻の樹(つきのき)の広場〟の一角とみられる。ここは大化の改新前に中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蹴鞠を通じて出会い、壬申の乱(672年)の舞台にもなった。また蝦夷(えみし)や隼人(はやと)など辺境の人々を招いて饗宴を開いたともいわれる。(写真の後方左奥がわが国初の本格的な仏教寺院の飛鳥寺)

 同遺跡の発掘は10年計画で2016年度が9年目。今回の発掘地域は飛鳥寺西門跡から南西へ約120mの遺跡南西端部分で、東西47.5m・南北10mの範囲を調査した。5年前に発掘した東側からは石組み溝や木樋暗渠(もくひあんきょ)、砂利敷などが確認されたが、今回も南北と東西に延びる2本の石組み溝が見つかった。南北の溝(下の写真㊧)は幅1.15m、深さ約40cm。側石は2段積みで底石はなかったが、東西の溝(写真㊨)からは底石だけが確認された。東西溝の長さは5年前の調査と合わせ約75mにわたることが判明した。

 

 東西溝の西端は調査区域の中央付近で北側に向けて折れ曲がっているように見える。大きな柱の穴跡9個が見つかったのはそのすぐ西側。建物跡は黄色いテープでかたどられていた。穴跡は直径約1.2m、深さ約90cmで、抜き取り穴には黄色の山土が充填されていた。穴跡の平面配置は東西3間、南北2間ほどだが、調査担当者は「穴跡は(調査区域外の)南側にも延びて、建物は3間×3間の正方形の高床式だったと推測される。飛鳥京や甘樫の丘など周辺一帯を望む物見櫓のような建物だったのではないか」と話していた。一部考古学者の中には辺境の人々や外国の使節を招いて宴を催した施設の可能性を指摘する声も出ている。

 

 今回の調査区域からは土師器、須恵器、黒色土器、緑釉陶器、瓦なども出土した。一連の発掘調査は飛鳥時代の重要な舞台となった〝槻の樹の広場〟の規模や構造を明らかにすることが目的。最終年度に当たる2017年度は今回の北側、飛鳥寺西側での発掘を予定している。これまでに3棟分の建物跡が確認されたことから、砂利敷き空間と考えられてきた飛鳥寺西の広場にも建物が数棟立っていた可能性が出てきた。担当者は「ぜひ槻(つき=ケヤキ)の木の根っこを見つけたい」と今後の発掘調査に期待を寄せていた。

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