く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<刈谷万燈祭> 3年ぶりに勇壮・華麗な舞姿

2022年07月31日 | 祭り

【2018年にふるさとイベント大賞・内閣総理大臣賞!】

 全国に“天下の奇祭”と呼ばれる祭りは多いが、この祭りもその一つ。インターネットや市民だよりなどの紹介記事にもこの5文字が躍る。名古屋市の南東に位置する愛知県刈谷市の「刈谷万燈祭(まんどまつり)」(県の無形民俗文化財)。“万燈”と呼ばれる高さ5m、重さ約60㎏の張子人形を、若衆が一人で担いで勇壮に舞う。日が落ち万燈に灯がともって宵闇にくっきり浮き上がると、祭り情緒も最高潮に。今年は7月30~31日に氏子の7町に3社の“企業万燈”も加わって3年ぶりに開かれた。

 万燈祭は刈谷市銀座にある地元の氏神・秋葉社の火難防止と町内安全を祈願する祭礼。1778年に万燈が登場したのが始まりといわれ、240年を超える長い伝統を誇る。万燈は竹でかたどった上に和紙を張ったもので、針金などは一切使っていないのが特徴。武者や歌舞伎絵、歴史上の人物などを色鮮やかにかたどったものが多い。開催初日を「新楽(しんがく)」、2日目を「本楽(ほんがく)」と呼ぶ。

 新楽の30日午後4時40分、名鉄刈谷市駅から程近い広小路通りに、笛や太鼓のお囃子に乗って万燈が集まってきた。氏子は銀座・司町・新栄町・寺横町・東陽町・広小路・広小路五組の7町。この他に刈谷市内に工場を持つ豊田自動織機・デンソー・アイシンの3社のグループも参加した。大万燈に中小の万燈を加えると優に20基を超える。

 7町ではそれぞれ数カ月がかりで新作の製作に取り組んだ。そのテーマは広小路「平将門」、広小路五組「本朝武者鏡 余呉将軍惟茂」、東陽町「いざ鎌倉」、司町「武蔵坊弁慶 衣川立往生」、銀座「近江常楽寺の大相撲会 鯰江又一郎と青地与右衛門」、寺横町「石川五右衛門」、新栄町「剛力白藤彦七郎」。集合後、一部の万燈がお囃子に合わせ舞を披露したが、中には重さに耐えかねバランスを崩して大きく傾くものも。観客からは「あっ!」「大丈夫?」と悲鳴に似た声も上がった。万燈の武者人形などは前面に大きく張り出す形で造られている。その裏側で若衆が肩に担いで舞い踊るが、当然重心が前側にあるため前傾しやすい。うまく操るには筋力⋅体力に加え集中力とバランス感覚が欠かせないようだ。

 その後、午後6時ごろから「万燈コンテスト」が始まった。各町にとっては日ごろの練習の成果を披露する晴れ舞台だ。審査会場は刈谷市駅北交差点。最初はゆっくり舞って、後半になると激しさを増す。途中から担ぎ手が次々に入れ替わるが、さすがにコンテストに登場する若衆たちはつわものぞろい。リズミカルに調子を取りながら舞い踊る姿は安心して見ることができた。舞が終わると、今度は太鼓台を囲んで「わっしょい」「わっしょい」とぐるぐる回りながら気勢を上げた。

 午後8時からはもう一つの見どころの“全町一斉舞”。観客で埋め尽くされた広小路通りは日中の余熱に祭りの熱気も加わってむせ返るほど。この後、祭り本部からコンテストの結果が発表された。最優秀賞に選ばれたのは広小路五組(上から2番目の写真)だった。本楽の31日には夕方再び広小路通りに集合した後、氏子各町が順番で秋葉社に神前舞を奉納。その後、9時すぎから全町一斉舞を行って熱い2日間の幕が閉じる。

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<奈良県立美術館> 企画展「美術・解体新書」

2022年07月29日 | 美術

【館蔵から選りすぐりの名品150点余】

 奈良県立美術館(奈良市登大路町)で企画展「美術・解体新書 名品展≪夏≫」(7月16日~8月28日)が開かれている。「はじめに―美術ってナニ?」と「基本編―『美術』以前」「応用編―『美術』以降」の2部構成で、所蔵する約4300点の日本の美術工芸品の中から選りすぐりの名品156点を展示(会期中に一部入れ替え)。“鑑賞の手引き”となるよう素材や技法、主題、ジャンル、形式などを分かりやすく解説している。

 「はじめに」では「今週のお宝」と銘打って週替わりの作品を展示中。第1週目の展示は伝雪舟作の『秋冬山水図屏風』(上の写真)だった。聳え立つ雪山などが繊細な筆致で描かれた6曲1隻の屏風だが、もとは春夏・秋冬を描いた1双の屏風の左隻だったとみられる。今は第2週分(7月27日~8月1日)として菱川師房の『見返り美人図』を展示中(のはず)。その後も曽我蕭白の『美人図』、『伝淀殿画像』、葛飾北斎の『瑞亀図』など、県美自慢のお宝作品が1週間ごとに展示される予定だ。

   

   

 「はじめに」には歌川芳藤の大判錦絵『唐(から)の子がよりかたまって人になる』と奈良出身の洋画家普門暁の針金作品『化粧』の2点も展示中。「唐の子が……」(上の写真㊤、部分)は多くの子どもが集まって顔や髪の毛、着物の柄などになった遊び心たっぷりの作品。「基本編」の中にも同様の寄せ絵の手法で描かれた歌川国芳の『人かたまって人になる』(上の写真㊦)があった。こちらも顔が坊主頭の人が集まって描かれ、目や髪は黒い褌(ふんどし)で表されている。普門暁の作品は後半の「応用編」にも『鹿・青春・光・交叉』が出品されている。

 「基本編」は日本美術と世界・宗教・文学・芸能・歴史・生活・社会の7分野の関わりを、それぞれの作品を通して覗く。『浮絵かるた遊び』(上の写真)は座敷の中央でかるた遊びに興じる女性を描いた江戸時代(18世紀)の作品。線遠近法(透視図法)により建物の広さや奥行きが表現されており、立体的に浮き出して見えることから「浮絵」と呼ばれた。『洛中洛外図屏風』は江戸時代(17世紀)の6曲1双(下の写真は左隻の部分)。洛中洛外図は室町時代から描かれてきたが、江戸時代に入って二条城が築城されると、二条城を屏風の左隻に中心的な建造物として描く定型が成立した。

 菱川友宣の『楠公父子決別図』、横山清暉の6曲屏風『大江山鬼退治図屏風』、伝円山応挙筆『村田珠光・武野紹鴎画像』、植中直斎の2曲屏風『賜豊御酒(しほうみしゅ)』なども展示中。植中直斎(1885~1977)は奈良出身で、有職故実の研究に基づく歴史画を得意とした。「基本編」の展示作品には他に葛飾北斎の『北斎漫画』、喜多川歌麿の『画本虫撰(むしえらび)』、豊臣秀吉の朱印状や徳川家康の書状、絞り染めの振袖、友禅染の小袖なども。

 「応用編」は「日本美術の誕生―絵画・彫刻」「日本美術の展開―平面・立体」「日本美術の軌跡―工芸」の3章で構成。上村松園の『春宵』(写真は部分)は料亭の中庭に面した廊下で2人の女性が内緒話の最中。京都の女性を題材に多くの美人画を残した松園の油の乗った60歳すぎの作品だ。そばには松園が師と仰いだ竹内栖鳳の6曲屏風『保津川図』も並ぶ。その他にも名品ぞろい。狩野芳崖の『竹林虎図』、川合玉堂の『小雨の軒』、小野竹喬の2曲屏風『松風』、梅原龍三郎の『姑娘(くーにゃん)』、須田国太郎の『大和般若寺近郊』、絹谷幸二の『チュスキーニ氏の肖像』、富本憲吉の磁器『色絵四弁花更紗模様六角飾筥』……。館内は原則「撮影不可」だが、うれしいことに「撮影可」の作品も結構多かった(ここに掲載したのもいずれも「撮影可」)。出口に向かうとき腕時計を見ると、入館からはや2時間半が過ぎていた。

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<祇園祭・鷹山> 196年ぶりの晴れ舞台!

2022年07月25日 | 祭り

【都大路を巡行する勇姿に温かい拍手】

 京都・祇園祭の後祭の山鉾巡行が7月24日都大路で繰り広げられた。この日の主役は約200年という長い時を越えて巡行に本格復帰した「鷹山(たかやま)」。高さは屋根まで7.6m、上の真松(しんまつ)を加えると約17mもあり、総重量は10トンを超える。その晴れ姿を一目見ようと多くの観客が沿道を埋め、「鷹山はまだ」「巡行は何番目」と待ちわびる声も多く聞かれた。「コンチキチン」の祇園囃子に乗って近づいてくると、観客からはひときわ大きな拍手が送られた。

 鷹山は応仁の乱(1467~)以前からあった由緒ある大型の曳山だが1826年の暴風雨で大破、以来“休み山”となっていた。山の再建と巡行への復帰の機運が急速に盛り上がってきたのは10年ほど前から。2014年に囃子方ができ、翌年には鷹山保存会も発足、19年には徒歩での「唐櫃(からびつ)巡行」を果たした。今回の曳山巡行には他の山鉾町の協力や支援も大きな後押しに。お囃子の練習では北観音山の協力を受け、曳山本体の再建では船鉾から車輪を、放下鉾からは曳山の重心を下げ車体を支える石持(いしもち)と呼ばれる部材などを譲り受け、修理して活用した。

 後祭では「くじ取らず」の橋弁慶山を先頭に11基の山鉾が巡行する。鷹山はしんがりを務める大船鉾の一つ手前、10番目の登場だ。午前9時半、橋弁慶山が烏丸御池を東へ進み始めた頃、注目の鷹山が新町通から御池通に姿を現した。屋根などはまだ白木のまま。金地の水引や赤地にペルシャ絨緞を配した胴懸(どうかけ)なども新鮮で瑞々しい。交差点で90度方向転換する“辻回し”が成功すると、大きな拍手が沸き起こった。この辻回しも他の山鉾町からやり方を学んだという。

 鷹山のモチーフは平安前期の中納言在原行平が光孝天皇の御幸で鷹狩りをする場面。ご神体は鷹を手に乗せた「鷹遣い」と猟犬を連れた「犬遣い」、従者の「樽負(たるおい)」の3体。1864年の蛤御門の変による大火の際、山本体に加えご神体なども焼損した。現在のご神体は幸い焼失を免れた頭や手などの遺留品をもとに復元したもの。そのご神体の鷹使いと犬遣いを、太鼓を打つ囃子方の背後に垣間見ることができた。曳山の進行を促す音頭取や、笛を吹き鉦(かね)を打つ囃子方の面々も、晴れやか表情で誇らしげにも見えた。

 遠くまでよく響く祇園囃子も印象的だった。帰宅後ネットで「鷹山 お囃子」と検索すると、「藤舎名生(とうしゃめいしょう)さんが作曲」という記事がヒットした。えっ! 彼のCDなら確かうちにもあったはず。断捨離でCDもかなり処分した。だが探すと、あった! 二世藤舎名生「日本の音 笛(FUE)」。藤舎さんは京都市北区在住の横笛奏者で作曲家としても活動している。鷹山のお囃子は藤舎さんが鷹山の門出を祝って、生まれて初めて飛び立つ鷹をイメージしながら作曲したという。「調(しらべ)」「序」「楽」「遊」「飛」の5曲から成る。手元のCDに収録されている10曲も全て自身の作曲だが、その中に偶然「鷹」という1曲も含まれていた。藤舎さんが2019年度重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されていたことも今回初めて知った。

 祇園祭の後祭は「手遅れ」や「時機を失し悔やむこと」を意味する「後の祭り」の語源ともいわれる。確かに後祭は23基もの山鉾が出る17日の前祭(さきまつり)に比べると、半分以下の11基とやや寂しい。見物客も前祭ほど多くない。ただ、その分移動しながら山鉾をじっくり堪能できる。しかも今年は祇園祭にとっては歴史的な鷹山の復活。後祭では8年前150年ぶりに大船鉾も復活している。その大船鉾の舳先を飾る龍頭(ヒノキの寄木造り)は2020年に金色に塗られたもので、山鉾巡行では今回が初のお披露目。金色の龍頭はまばゆいばかりの輝きを放っていた。満足・納得のいく「後の祭り」だった。

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<京都・祇園祭> 山鉾3年ぶりに都大路を巡行

2022年07月18日 | 祭り

【前祭の23基、豪快な“辻回し”に歓声】

 京都の夏を雅に彩る八坂神社の祭礼「祇園祭」。日本三大祭りの一つといわれ、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている。その前祭(さきまつり)の山鉾巡行が7月17日、都大路で繰り広げられた。山鉾の巡行は新型コロナ禍で2020年、21年と2年続け中止になっており、今年は3年ぶりの開催。四条通や御池通などの都大路には見物客で幾重もの人垣ができ、山鉾が交差点で90度回転する“辻回し”などに大きな拍手が送られていた。

 前祭で巡行する山鉾は計23基。その巡行順は例年7月2日のくじ取り式で決められる。ただ長刀鉾は「くじ取らず」の鉾として常に先頭を行く。このほか5番目の函谷鉾(かんこほこ)や最後尾の船鉾など4基も「くじ取らず」。先頭の長刀鉾には四条通に張られた結界を表す注連縄を、稚児が刀で断ち切るという役目を担う。午前9時すぎ、稚児が刀を振り上げ注連縄を切ると、沿道を埋め尽くした見物客からどっと歓声が沸き起こった。

 長刀鉾が「コンチキチン」のお囃子に乗って四条通を東に向け動き始めると、後に「山一番」のくじを引き当てた孟宗山、そして保昌山、郭巨山、函谷鉾などが続いた。大きな山鉾はてっぺんの鉾頭までの高さが地上から約25mもある。巡行時の重量は8.5~12トン。これを前面に乗った音頭取(おんどとり)の合図で40~50人の曳手が綱を引っ張って動かす。最大の見どころは四つ角で直角に曲がる辻回し。直径が2m近くある車輪の手前に割った竹を敷き詰め、水をかけ滑りやすくして山鉾の方向を変えていく。この辻回しの時だけは音頭取が2人から4人に増える。

 山鉾の豪華絢爛な懸装品も見応えたっぷり。古今東西の美術・工芸の粋を集めたもので“動く美術館”とも形容される。前懸(まえかけ)や見送りなどの織物には地元の西陣製も多いが、遠くペルシャやヨーロッパから伝来したものも。函谷鉾や鶏鉾、鯉山(24日の後祭に巡行)のタペストリーは約400年前にベルギーで製作されたゴブラン織といわれ、国の重要文化財に指定されている。ただ年代物だけに色落ちや傷みが激しい。このため各山鉾では復元新調の動きも進む。函谷鉾も2006年の巡行からは本物を忠実に再現した2代目を前懸として使用している(下の写真)。

 後祭では11基の山鉾が御池通→河原町通→四条通と、前祭とは逆に時計回りで巡行する。最大の見どころは何といっても196年ぶりの「鷹山」の巡行復帰だ。鷹山は大きな鉾と同じ形態の曳山だが、1826年の暴風雨で懸装品が損傷し、さらに1864年の「蛤御門(禁門)の変」による火災で焼損、以来「休み山」となっていた。だが同じように蛤御門の変で焼失し休み山だった大船鉾が2014年に復活すると、鷹山でも2015年に鷹山保存会が発足するなど復帰への取り組みが活発化。当初の目標は2026年の巡行だったが、関係者の努力と熱意が通じ4年も前倒しして実現することになった。鷹山は「くじ取らず」で、24日の後祭では最後尾の大船鉾の一つ手前10番目に登場する。

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<杭全神社夏祭> 3年ぶりに地車合同曳行と宮入り

2022年07月14日 | 祭り

【日中も鉦・太鼓を打ち鳴らしにぎやかに】

 大阪市内最大規模のだんじり祭りといわれるのが大阪市平野区にある杭全神社の「平野郷夏まつり」(毎年7月11~14日)。約300年という長い伝統を誇る。2020~21年は新型コロナ感染対策で2年続けて規模縮小を余儀なくされたが、今年は3年ぶりに「九町合同曳行」や地車(だんじり)9台の宮入りなどが復活した。まつりの本格開催で盛り上がる町の雰囲気を味わおうと13日の日中、平野の町を訪ねた。平野は十数年前に宮入り見物のため訪れて以来。

 杭全神社の参道には昼すぎにもかかわらず多くの屋台が既に営業を始めていた。中には金魚やスーパーボールすくいに興じる小さな子どもたちの姿も。拝殿には煌びやかな1基のお神輿が鎮座していた。夏まつりの期間中、この神輿にはいつもは第一本殿に祀られている素戔鳴尊(スサノオノミコト)のご神体が遷されている。拝殿に向かって右側手前には全国的にも珍しい「連歌所」(1708年再建)があり、大阪市指定文化財になっている。

 中央本通商店街など繁華街には七夕飾りとともに赤い提灯なども飾られて、祭り気分を盛り上げていた。地車は日中、それぞれの地区内を中心に曳き回される。ただ商店街の西側の入り口で待っていると、次々にやって来た。「流町」「野堂町南組」「西脇組」「市町」「馬場町」……。鉦と太鼓の音がにぎやかに鳴り響く。ご祝儀を頂いたお店などの前ではお礼に商売繁盛や家内安全を祈って一斉に“大阪手打ち”で応えていた。商店街を抜け平野公園の近くまで来ると、1台の地車が子どもたちの持つ1本の長い綱に曳かれて近づいてきた。この日は平日だが、まつりのため短縮授業だったのだろう。子どもたちもみんな楽しそうな表情だった。

 前日12日夜には幹線道路の南港通りで地車9台が集まって「九町合同曳行」。そしてこの日13日夜には宮入り1番町の「野堂東組」を先頭に20~30分おきに「馬場町」「泥堂町」「西脇組」と次々に国道25号線に面した大鳥居を潜って神社の境内に。3年ぶりの開催、しかも幸い雨にも降られずに多くの人出でにぎわったにちがいない。最終日の本宮14日には神輿のお渡りが行われる。神輿が1年に1度神社を出て平野郷の町中を巡って平野公園内のお旅所(三十歩神社)に向かう。夜神社に還御すると、4日間のまつりも終わりを告げる。

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<セイヨウヒキヨモギ(西洋引蓬)> 半寄生植物、世界各地に帰化

2022年07月12日 | 花の四季

【穂状花序に黄色の唇形花】

 ハマウツボ科セイヨウヒキヨモギ属の1年草。原産地はヨーロッパ南西部だが、世界各地に分布域を広げて帰化している。日本では約50年前の1973年に千葉県船橋市内で初めて確認された。帰化植物の中では比較的新しいが、その後、主に関東以西で急速に増殖中。日当たりいい場所を好み、各地の河川敷や土手、野原などでの報告例が相次いでいる。(写真は奈良市の平城宮跡で)

 名前はヨーロッパから渡来し、草姿が同じハマウツボ科の日本在来種ヒキヨモギに似ていることから。「引蓬」の「蓬」は深く裂けた葉の形がヨモギに似ることから。ただ「引」については諸説。一説によると、茎を折ると中の維管束が糸を引くように出てくることからという。花期は5~7月。草丈は30~50cmほどで、穂状花序に長さ2cm前後の黄色い唇形花を付ける。下唇が大きく、先が3つに裂けて張り出す。葉や茎などに腺毛が密生し、触るとべとつくのも特徴。学名「Parentucellia viscosa(パレンツセリア・ヴィスコサ)」の種小名も「粘質の」「ねばねばした」を意味する。

 ハマウツボ科の植物には寄生植物が多い。寄生根を他の植物の根に延ばして寄生し栄養分をもらう。例えばナンバンギセルはススキなどに寄生し養分の全てを宿主に依存する。このため“全寄生植物”と呼ばれている。これに対しセイヨウヒキヨモギは“半寄生植物”。葉緑体を持っており、他の宿主から栄養をもらう一方で自ら光合成も行う。寄生植物の中には「ハマウツボ=宿主ヨモギ類」というように特定の植物に寄生するものが少なくない。しかしセイヨウヒキヨモギはあまり宿主を選り好みしないといわれ、在来植物への影響が懸念されている。在来種のヒキヨモギは奈良、京都、石川、宮崎など各地で絶滅危惧種に指定されている。

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〈紙半豊田記念館〉 江戸時代の古美術や工芸品

2022年07月02日 | 美術

【今井町の豪商「紙半」歴代当主が収集】 

 奈良県橿原市の今井町はかつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど栄えた。今も古い町家が多く残っており、整然とした町並みには江戸時代の情緒と風情が漂う。約30年前の1993年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。広さは約17.4ha(東西600m南北310m)。その地区内に全国の重伝建地区では最も多い約500棟の伝統的建造物が密集する。

 そのうち9棟が国指定の重要文化財。「紙半(かみはん)」の屋号で肥料や綿、油などを手広く商い、両替や近隣大名への金貸しなども営んだ豪商「豊田家」もその一つ。創家は江戸前期の1666年といわれ、代々「紙屋半三郎」を襲名し12代目まで続いた。その間に歴代の当主が収集した美術工芸品に加え、江戸時代の商売道具や文献、生活用品なども大切に保管されてきた。その数約4000点。「紙半豊田記念館」(上の写真)はそれらを一般公開するために開設された。以前今井町を訪ねたとき素通りしていたため、入館するのは今回が初めて(入館料300円)。

 入り口のそばには推定樹齢250年というカイヅカイブキの巨木。館内には書画や骨董、当時の商いや生活を偲ばせる品々が、まさに所狭しと展示されていた。大きな屏風や掛け軸、陶磁器、千両箱、小判、天秤┄┄。なかでも目を引いたのが磁器「古伊万里」の充実した品揃え。藍色の染付や鮮やかな色絵の大皿などがずらりと並んでいた。「阿吽(あうん)の鯉」という双幅の掛け軸にも注目。口を大きく開けた鯉と、口をしっかり結んだ鯉が対に描かれている。言い伝えによると、江戸中期の絵師、伊藤若冲(1716~1800)の作という。同館では春と秋の年2回展示品を入れ替えているそうだ。

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