く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良市美術館> 「名勝・月ケ瀬梅林」展

2022年01月13日 | 美術

【名勝指定100周年を記念し】

 関西屈指の梅の名所「月ケ瀬梅林」(月ケ瀬梅渓とも)。奈良市の北東部に位置するこの梅林は毎年2月から3月にかけ1万本といわれる紅白の梅が咲き誇って多くの観光客でにぎわう。今年も2月13日~3月27日に恒例の梅まつりが開かれる。月ケ瀬梅林は1922年(大正11年)に奈良公園、兼六園(金沢)とともに国内初の名勝に指定された。今年はそれから100周年の節目。それを記念した展示会「名勝・月ケ瀬梅林」展が奈良市美術館で1月12日から始まった。(下の作品は富岡鉄斎の「名士観梅図」)

 月ケ瀬の梅栽培は700年ほど前まで遡る。元々は観賞や食用ではなく、「烏梅(うばい)」作りが目的だった。烏梅は完熟した梅の実を煙で燻したもので、京都や大阪に出荷され紅花染の発色剤として使われた。最盛期の江戸時代には400軒もの烏梅農家があり、梅の木も10万本を数えたという。だが欧米から安価な科学染料の輸入が始まると烏梅の需要は激減(現在烏梅農家は1軒のみ)。その一方で月ケ瀬は江戸末期以降、紀行文で紹介されたり文人墨客が次々に訪れたりしたことで全国に広く知れ渡り、次第に多くの観梅客が訪れるようになった。

 月ケ瀬の〝恩人〟ともいえるのが津藩の儒学者斎藤拙堂(1797~1865)。彼の紀行文「月瀬記勝」は1852年の出版以来版を重ねて、携帯用の豆本も人気を集めた。今展でも最初にこの「月瀬記勝」と豆本を紹介しており、彼の「七言律詩」や共作の「月瀬詩画図巻」も展示中。文人画家富岡鉄斎(1837~1924)も度々月ケ瀬を訪れ多くの作品を残した。「名士観梅図」は1916年、鉄斎81歳のときの作品。旧月ケ瀬村が1992年に鉄斎展を開催した際、清荒神清澄寺の鉄斎美術館(兵庫県宝塚市)から鉄斎作「月瀬図巻」「梅渓放棹図」とともに寄贈された。これらの3点に加え、1891年に「月ケ瀬梅渓保勝会」の事務所に掲げるため鉄斎が自ら命名し制作した額「聞禽亭」なども展示されている。

 ほかにも梅の墨画や梅を讃えた書などが数多く並ぶ。南画家田能村直入(1814~1907)、漢学者草場船山(1819~87)、日本画家菊池芳文(1862~1918)、中国清朝の画家王冶梅(生没年不詳)らの「墨梅図」に、江戸後期の女流画家吉田袖蘭(1796~1866)の「七言絶句・墨梅図」、日本画・南画の小室翠雲(1874~1945)の「五言絶句・墨梅図」……。東郷平八郎(1848~1934)の「梅経寒/苦生盛/華」という三行書や東大寺203世管長狭川明俊師(1891~1988)の「梅花無盡蔵」という一行書なども。狭川師の書は94歳のときのものだが、全く年齢を感じさせない太くて力強い筆致。父親が月ケ瀬の小学校に勤めていたこともあり、しばしば月ケ瀬を訪ねていたそうだ。展示作品の中には以前「月ケ瀬梅の資料館」で拝見したものもかなり含まれていたが、期待以上の名品ぞろいで見応えがあった。会期は1月23日まで。

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<京都国立博物館> 新春特集「寅づくし―干支を愛でる」

2022年01月10日 | 美術

【絵画、香炉、印籠、鉢、墨書、陣羽織…】

 京都国立博物館で今年の干支「寅(とら)」に因む新春特集展示「寅づくし―干支を愛でる」が開かれている。日本に生きた虎が海を渡って連れてこられたのは江戸時代の終わり頃という。ただ、それ以前にも中国や朝鮮半島から伝わる美術品などを通じて美しく逞しい虎は注目を集め、絵画や工芸品などの題材として盛んに取り上げられた。この新春特集では虎にまつわる内外の作品36点を一堂に集めて紹介している。2月13日まで。

 展示会場は平成知新館の2階。展示の筆頭は尾形光琳(1658~1716)筆の「竹虎図」。前足を行儀よくそろえ丸い大きな顔をこちらに向ける表情がなんとも愛らしい。この博物館の公式キャラクターは「トラりん」いう。このキャラクター、実はこの虎の絵がモデルになっているそうだ。室町時代の水墨画家雪村(1504~89)の「鍾馗図」は厄病を祓う大陸渡来の神様鍾馗がじゃれつく虎の前足をつかんで遊ぶ様子を描く。江戸後期の絵師岸駒(1749または56~1839)の「虎図」は1匹の虎が川べりで水を飲む様子を描いた作品。生きた虎を目にできない岸駒は虎の頭蓋骨に虎皮を被せてスケッチしたり、虎の足の剥製をもとに関節の位置や仕組みを調べたりしたそうだ。ただ目の瞳は丸ではなく昼間の猫のように縦長に描かれている。

 昔の日本では体に丸い模様がある豹は虎の雌と誤解されていた。このため安土桃山時代の絵師狩野松栄(1519~92)作「龍虎豹図」の豹の掛け軸も、母親の虎が描かれていると思った人もいたのではないかという。江戸時代の鹿背山焼の陶工井上松兵衛作「染付山水丸紋鉢」も内側の見込み部分に2匹の虎のような動物が描かれているが、このうち1匹は水玉模様になっている。ただ、中国にもこんな言い伝えがあったそうだ。「虎が3匹の子を産むと、その中には必ず1匹の豹がいる」。中国・明時代の展示作品「子連虎図」(京都・東海庵蔵)にも水玉模様の子どもの虎が描かれている。

 江戸後期の絵師横山華山(1784~1837)作「虎図押絵貼屏風」は12カ月の虎の姿を月毎に描いた六曲一双の作品。そこには虎の姿がかなりリアルに描かれている。華山作では「四睡図」も展示中。中国・唐時代の禅僧豊干と弟子の寒山・拾得、それに1匹の虎が目覚めたばかりの様子をユーモラスに描く。「暤虎図(こうこず)」(京都・両足院蔵)は朝鮮通信使に画員として随行した李義養の作品。桃山時代の後陽成天皇宸翰「龍虎・梅竹大字」(京都・法金剛院蔵)、伝徳川家康所要の「虎艾(とらよもぎ)に五毒文様陣羽織裂」、明時代の「青花虎形香炉」(京都・霊洞院蔵)、江戸時代の虎の蒔絵の印籠なども並んでいる。

 平成知新館の1階では「新収品展」も開催中。同博物館が新たに購入したり寄贈されたりした新収蔵品の数々で、画面いっぱいに数十匹の子犬を描いた伊藤若冲の「百犬図」をはじめ、徳川家光筆「梟図」、鶴沢探索筆「山水図屏風」、長沢芦雪筆「関羽図」、池大雅筆「竹石図」、重要文化財の「短刀 銘長谷部国重」なども含まれる。こちらの会期は2月6日まで。

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<京都御所> 六曲一双の屏風「龍虎」公開中

2022年01月08日 | メモ

【歴史上の舞台の数々、久しぶりに参観】

 京都御所を久しぶりに訪ねた。多分十数年ぶり。西側の清所門で体温測定と手の消毒、持ち物検査をすませ、「283」という番号が書かれた入門証を首に掛けて御所の内側へ。順路に従ってしばらく進むと、右手に六曲一双の屏風「墨画龍虎」が展示されていた。右隻には渦巻く雲間から姿を現した龍の姿、左隻には竹林で警戒する2頭の虎が金地に描かれている。作者は江戸時代中期の狩野派の絵師鶴澤探鯨(1687~1769)。新年の干支寅(とら)に因んだ展示だが、左右の屏風の同時公開は今回が初めてという。展示は1月5~10日の期間限定とのこと。

 この後、宮内庁の職員の案内で御車寄→諸大夫の間→新御車寄→紫宸殿→清涼殿→小御所→御学問所→御常御殿と、主な建物を反時計回りに一周した。諸大夫の間(写真㊦)は参内した公家や大名たちの控えの間。襖の絵に因んで「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれる。最も格式が高いのは正殿の紫宸殿に近い右奥の「虎の間」。各部屋で畳縁の色が異なり、入り方にも身分の違いが反映されていた。虎と鶴の間を使う者は正式な玄関の御車寄からの出入りが許されたが、桜の間を使う者は建物左手の沓脱石(くつぬぎいし)から出入りしたという。

 新御車寄は諸大夫の間の南側に位置し、南向きに建てられている。大正天皇の即位の礼に際し、馬車による行幸に対応するため新設された。紫宸殿(写真㊦)は高床式の入母屋造りで、現在の建物は1855年(安政2年)の造営。明治・大正・昭和天皇の即位の礼はここで執り行われた。屋根は桧皮葺きで、上部の切妻部分と下部の寄棟部分に段差があるのが特徴。殿内には天皇の御座「高御座(たかみくら)」と皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」がある。東京の皇居で行われた平成の即位の礼の際には分解してヘリコプターで運ばれ、今上天皇の即位の礼に際しては陸上輸送されたそうだ。

 清涼殿は10世紀頃から天皇の日常のお住まいとして使われていたが、大正時代にお住まいが御常御殿に移ってからは儀式や執務の場として使われた。小御所は将軍や大名との対面などに使われ、明治維新の際には将軍の処遇を定めた「小御所会議」の場となった。御学問所は1867年(慶応3年)に明治天皇が「王政復古の大号令」を発せられたことで有名。御常御殿(写真㊦)は15室から成り御所内の建物としては最大。公開中の墨画屏風は明治天皇のお気に入りで、御常御殿の寝室「御寝の間」に飾られていたという。

 小御所と御学問所の間は「蹴鞠の庭」と名付けられており、その東側には緑豊かな池泉回遊式の庭園「御池庭」が広がる。戦国武将の前田玄以が作庭し、後に小堀遠州が改修したという。池の右手に緩やかにカーブを描いた「欅橋」が架かる。案内役の宮内庁職員が「その橋の上からエリザベス女王がコイに餌をあげていました」と教えてくれた。ずっと昔、来日した英国のエリザベス女王の車列を京都の沿道で目にしたことがあった。御池通り、あるいは烏丸通りだったか。車列は京都御所に向かわれていたのだろう。調べてみると1975年5月10日のことだった。ということはあれからもう半世紀近い。光陰矢のごとしを改めて実感する御所巡りとなった。

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