く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<弘仁寺> 境内をうす紫色に彩る満開のシオン

2017年09月30日 | 花の四季

【ピンク色の大輪フヨウの花と〝競演〟】

 奈良市虚空蔵町にある弘仁寺で淡紫色のシオン(紫苑)の花が満開になり見頃を迎えている。平安時代初期創建の高野山真言宗の寺院。「山の辺の道」北コースの円照寺と石上(いそのかみ)神宮の中間に位置し、本尊虚空蔵菩薩から知恵を授かる〝十三参り〟の寺として知られる。

 シオンは山門を入って左手の寺務所の周りに群生する。先々代の住職の奥様が好きだったシオンを植えたのが始まりという。草丈は2m前後もあり、散形状に広がった花のてっぺんに陣取ったカマキリがこちらをじっとにらんでいた。シオンのそばではうすいピンク色のフヨウ(芙蓉)も咲き誇り、境内の一角にはムラサキシキブ(紫式部)が小さな紫色の実をたくさん付けていた。

 

 弘仁寺は中世、華厳宗(総本山東大寺)の寺院だった時期があり、その当時は多くの堂宇が立ち並ぶ修行道場だったと伝わる。戦国時代、松永久秀の兵火で1572年に伽藍の大半を焼失したが、江戸初期の1629年、僧宗全によって再興された。本堂前に立つ常夜灯は江戸中期に建立されたもので、「享保」の文字が刻まれている。

 

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<ハマアザミ(浜薊)> 関東以西の太平洋側に分布する海浜植物

2017年09月28日 | 花の四季

【根や葉は食用に、「ハマゴボウ」の別名も】

 関東から九州までの温暖な太平洋側に分布するキク科アザミ属の多年草。アザミの仲間は北半球に約300種あり、日本にはそのうち3分の1の100種ほどがあるという。ノアザミをはじめその多くが日本だけに自生しているが、このハマアザミも日本固有種。強い潮風など厳しい環境に適応するため身を屈めるように横に広がる。そのため草丈は20~50cmほどで、ノアザミなどに比べるとかなり低い。

 花期は7~11月と長く、直径3~4cmほどの紅紫色の頭状花序を上向きに付ける。厚い葉には光沢があり、縁に鋭い棘を持つ。学名は「キルシウム・マリティムム」で、植物学者の牧野富太郎博士が命名した。種小名マリティムムは海を意味するマリンに由来する。変種に花色が白いものがあり「シロバナハマアザミ」と呼ばれる。

 ハマアザミの根は地中深く伸び、香りや歯ごたえがゴボウに似て食用になることから「ハマゴボウ(浜牛蒡)」の別名を持つ。根や葉はてんぷらやきんぴら、おひたしなどにして食される。牧野博士の出身地、高知県内では土佐料理に欠かせない食材の一つにもなっているそうだ。今年2月には室戸市内の飲食店8店が共同でハマアザミの若葉など旬の食材を使った季節限定メニューを〝春つげ御膳〟として提供した。「黒潮の怒々と崩るる浜薊」(石原義輝)。(写真は和歌山市加太で)

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<仏隆寺> 石段脇のヒガンバナ、食害からここまで再生!

2017年09月26日 | 花の四季

【3年間で球根6万余を植栽、シカ・イノシシの防護柵も】

 奈良県宇陀市榛原赤埴(あかばね)にある古刹、仏隆寺(鈴木隆明住職)で、本堂山門に至る石段沿いのヒガンバナが見頃を迎えている。この寺は樹齢900年を超える県内最大最古の〝千年桜〟(モチヅキザクラ、県天然記念物)とともに、石段脇を真っ赤に染めるヒガンバナの寺として有名。ところが4年前にシカとイノシシの食害に遭ってほぼ全滅。その後、県や市、ボランティアの支援を受け高さ約2mの防護柵を設け、3年間で約6万5000個の球根を植栽して再生に取り組んできた。

 かつて石段の周囲にはこの時期、約10万本のヒガンバナが咲き誇っていたという。全滅したのはシカに新芽を食べられたうえ、イノシシに球根を掘り起こされたのが原因。このためシカやイノシシが入れないように石段周辺にぐるっと網柵を張り巡らした。約200段の石段の上下入り口には「柵を開けた方は必ず閉めてください」と書かれていた。ヒガンバナは石段沿いを中心に開花中だが、かつての写真の一面を赤く染めていた全盛期に比べると、まだ再生途上といった感じ。住職の奥様は「ここまで復活できてありがたい。今年6月に植えた球根も来年には咲いてくれるはず」と話していた。(下の写真㊧の左上は千年桜)

 

 仏隆寺は真言宗室生寺派末寺で、〝女人高野〟室生寺の南門として麻尼山光明が岳の麓に位置する。850年(嘉承3年)に空海(弘法大師)の高弟堅恵が創建したと伝えられ、本堂脇には「大和茶発祥伝承地」と刻まれた石柱が立つ。ヒガンバナの再生は軌道に乗り始めたが、同寺は檀家が少ないこともあって草刈り(年4回程度)など管理費の工面には苦慮しているとのこと。そのため石段下にはご芳志のお願いも張り出されていた。

 

 仏隆寺からの帰途、程近い「赤埴の千体仏」に立ち寄った。子授けに霊験あらたかな地蔵菩薩群が小高い所にあるお堂に納められている。お堂の前面に記された由来によると、16世紀前半に赤埴家の養子となった越中守安正が生地の美濃から仏像を背負ってきたのが始まりという。内陣中央の厨子上部に高さ46cmの美しく彩色された地蔵が安置され、その下の3段の木箱に約24cmの地蔵が計6体納められている。左右両側の6段の棚には木製無彩色の無数の小地蔵が並ぶ。子を授かりたい人は願をかけて一体持ち帰り、子どもが生まれたら新たに一体を刻んで二体を一緒に納めることになっているそうだ。

 

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<BOOK> 「美宇は、みう。夢を育て自立を促す子育て日記」

2017年09月23日 | BOOK

【平野真理子著、健康ジャーナル社発行】

 女子卓球界のホープ平野美宇の活躍がめざましい。今年1月の全日本選手権シングルス決勝で石川佳純を破って史上最年少(16歳9カ月)優勝を飾ると、4月のアジア選手権(中国・無錫)も優勝、さらに6月の世界選手権(ドイツ・デュッセルドルフ)では日本人選手として48年ぶりのメダル(銅)を獲得した。とりわけ完全アウェーの中でのアジア選手権では準々決勝でリオ五輪の金メダリスト丁寧(世界ランク1位)を接戦の末に破ると、準決勝・決勝でも中国のトップ選手を次々に撃破した。「まさか」。そのニュースに接したときの感動と驚きは2年前のラグビーワールドカップで日本が強豪南アフリカを破ったときに優るとも劣らぬものだった。

       

 2000年4月14日生まれ。まだ17歳の高校生だ。3歳のとき卓球を始め、早くから「第二の愛ちゃん」と注目されていた。だが、昨年のリオ五輪では同学年のライバル伊藤美誠に先を越され日本代表落選の屈辱を味わった。その悔しさがその後の飛躍のバネの一つになっているのは間違いない。平野の夢は「オリンピックで金メダル」。強い精神力で目標に向かって進む平野はどんな家庭環境で育ったのだろうか。母で「平野卓球センター」(山梨県中央市)の監督を務める平野真理子さんは「親ばかと笑われるかも」と前置きしながら、平野には「努力する才能」が備わり「やると決めたらとことんのめり込む努力型」「ずば抜けた集中力が美宇の武器」と分析する。

 5歳のとき平野は記者から「第二の愛ちゃん」っていわれているけど、うれしいと聞かれた。そのときの返答が「美宇は、みう」。「そう、どんな時も美宇は美宇らしくあればいい。これ、私のお気に入りの言葉です」(真理子さん)。ということで、この言葉が本書のタイトルになった。平野は3姉妹の長女。副題が示すように、本書には子育てのノウハウがいっぱい詰まっている。「自分のことは自分で」「子の自立は親次第」「褒める・叱るのバランスは三対一」「前向きに物事を捉えるプラス思考」……。橋本聖子さん(参議院議員、日本スケート連盟会長)の言葉に「人間力なくして競技力の向上なし」があるが、真理子さんも「あいさつや返事、態度や言葉遣い、そして思いやりと感謝の気持ちを決して忘れないように」と口すっぱく言い聞かせてきたそうだ。

 平野のプレースタイルはこの1~2年、相手のミスを待つラリー志向の守備型から、攻撃的な速攻戦法に大きく変わってきた。平野は「今の壁を突き破って東京五輪に出場するためにはプレースタイルを変えるしかない」と自らの強い意志で決断したという。そのため強い足腰づくりへ体幹トレーニングを取り入れるとともに、メンタル面を鍛え直すため様々な分野や考え方の人と積極的にコミュニケーションするよう心掛けてきたそうだ。その努力が実を結び始めた。最新9月発表の世界ランキングは6位。日本人では5位の石川に次いで2番目(伊藤は7位)。ただ1~4位はなお中国の選手が独占しており、卓球王国中国の厚い壁が立ちはだかる。平野の当面の目標は年内の〝トップ3〟入りだ。

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<中津城> 初代城主は戦国時代の名軍師黒田官兵衛

2017年09月22日 | 旅・想い出写真館

【今春には〝続日本100名城〟の一つに】

 別府の温泉に一泊した翌日はレンタカーで小倉へ。JRに乗る予定だったが、台風18号の九州直撃で始発から運休。やむなくレンタカーを借りて雨の中、国道10号を北上したが、そのおかげで途中、初めて中津城(大分県中津市)に立ち寄ることができた。中津城は名軍師と謳われた黒田孝高(官兵衛・如水)が築城を始め、後に入城した細川忠興が完成させた。中津川(山国川の派川)の河口に位置し、今治城(愛媛県)、高松城(香川県)とともに〝三大水城〟の一つに数えられている。

 中津城は1871年、廃藩置県で御殿のみ残して廃城となり、御殿は中津県の県庁、小倉県の中津支庁舎として使われた。だが、その支庁舎も1877年の西南戦争で焼失。現天主は5階建ての鉄筋コンクリート造りで、約50年前の1964年に江戸中期以降居城とした旧藩主奥平家が中心になり、市民の寄付も合わせて建造されたという。中津城は今年4月6日(城の日)、公益財団法人日本城郭協会より〝続日本100名城〟の一つに選ばれた。

 

 築造当時の遺構は石垣と堀が残る。石垣は黒田時代のものと細川時代のものがあり、黒田時代の石垣には山国川上流の福岡県上毛町(こうげまち)にある古代の山城「唐原(とうばる)山城」(国指定史跡)から運び出された石が多く使われた。堀の脇には官兵衛、嫡男長政とともに、勇猛果敢な家臣団「黒田二十四騎」の名前が一人ずつ立て札として掲げられていた。キリシタンだった官兵衛は当時一般的だった側室を置かず、一夫一妻の仲睦まじい夫婦だったことでも知られる。その2人の像も並んで設置されており、官兵衛の像にはモットーとした言葉「我、人に媚びず富貴を望まず」、正室光姫の像には「才徳兼備」の文字が刻まれていた。

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<別府地獄巡り> 海→坊主→かまど→鬼山→白池→血の池→龍巻

2017年09月21日 | 旅・想い出写真館

【若いバスガイドさんの名調子で愉快な2時間半】

 3年ぶりの別府旅行。前回は湯布院からの帰途、単独で4カ所の地獄を回ったが、今回は別府地獄組合加盟の全7カ所を巡るJR別府駅前発の亀の井バスの定期観光バス「別府地獄巡りコース」を利用した。所要時間は約2時間半。台風18号の接近で断続的に小雨が降るあいにくの天候だったが、バスガイドさんの爽やかな語り口と案内で愉快な時間を過ごすことができた。(写真は間欠泉の龍巻地獄)

 地獄巡りは鉄輪(かんなわ)温泉地区にある海地獄からスタート。ここは鮮やかなコバルトブルーが売り物だが、この日は湿度が高いせいか、白い湯気がもうもうと立ち上って水面を覆っていた(下の写真㊧)。この後、徒歩で鬼石坊主、かまど、鬼山、白池地獄へ。各地獄では温泉の熱を利用し様々な動植物を飼育・栽培している。かまど地獄では亜熱帯性のスイレンやオオオニバスを栽培し、ワニを飼育する鬼山地獄は別名ワニ地獄とも呼ばれる。ワニはほとんどじっとしたままで、エサやりの光景を見ることができなかったのが少し心残り。(下の写真㊨はかまど地獄の六丁目)

 

 白池地獄はピラニアや巨大魚のピラルクなどを飼育する熱帯魚館を併設する。この園内には大分県の重要文化財に指定されている石塔「向原石幢(むかいがはらせきとう)」と「国東塔(にくさきとう)」があった。前者は永禄3年(1560年)の制作で、後者は約600年前の南北朝時代に造られたという。この後、バスで柴石温泉地区にある血の池と龍巻地獄に向かったが、血の池地獄も海地獄同様、一面白い湯気に覆われていた。間欠泉の龍巻地獄はタイミングよく、少し待っただけで熱湯が勢いよく噴き出した。安全面から噴出口の上部に天井が設けられているが、この天井がもう少し高ければ迫力も一段と増すに違いない。(上段㊧は別名ワニ地獄とも呼ばれる鬼山地獄)

 

 

 バスによる地獄巡りは亀の井バスの前身、亀の井自動車を設立して〝別府観光の父〟とも呼ばれた油屋熊八の発案で始まった。定期観光バスとしては国内で最も長い歴史を持つ。バスガイドの導入も同社が最も早く、リズムのいい七五調の観光案内で大きな評判をとったという。この日のバスガイド松本結香さんもこの名調子の七五調を交えながら、別府温泉や各地獄についてよどみなく紹介していた。笑顔の絶えない松本さんの名ガイドぶりが何にも増して最高の別府土産になった。

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<角島大橋> エメラルドグリーンの海に架かる人気スポット

2017年09月20日 | 旅・想い出写真館

【全長1780m・通行無料、島のシンボルは円筒形の角島灯台】

 山口県下関市豊北町(ほうほくちょう)にある離島角島と本土を結ぶ角島大橋。全長1780mで、17年前の2000年に完成した。通行料無料の離島架橋としては沖縄の伊良部大橋(3540m)、古宇利大橋(1960m)に次ぐ長さ。エメラルドグリーンの海に架かるこの長大橋は山口県内有数の観光スポットとして人気を集めている。かねて一度訪ねたいと思っていたが、別府~小倉への旅行を機にようやくその願いがかなった。

 訪れたのは台風18号が過ぎ去った直後の9月18日。台風一過の好天に恵まれ、祝日(敬老の日)ということもあって、角島大橋を遠くに望む国道191号沿いの道の駅「北浦街道豊北」はマイカーやツーリングの観光客でにぎわっていた。角島大橋は緩やかに弧を描きながら、響灘と日本海の海流が出合う海士ケ瀬(あまがせ)を跨ぐ。一帯は北長門海岸国定公園の景勝地の一つで、大橋は自動車のテレビCMのロケ地にもなっている。角島に向かう橋の中ほど左手には鳩島という無人の小島が浮かぶ。

 

 

 角島の名は2つの岬、牧崎と夢崎が牛の角のように突き出している地形に由来するという。この島は2005年公開の映画『四日間の奇蹟』(佐々部清監督)の舞台になったことでも知られる。西北端には島のシンボル、総御影石造りの角島灯台が立つ。明治政府のお雇い外国人リチャード・ヘンリー・ブライトン(1841~1901)が設計し、約140年前の1876年(明治9年)に初点灯した。レンズの直径は259cmもあり、国内の灯台で使用されているレンズでは最大規模。このレンズを使っている灯台は「第1等灯台」と呼ばれ、全国に5カ所しかないそうだ。角島のほかは犬吠崎(千葉県銚子市)、経ケ岬(京都府京丹後市)、出雲日御碕(島根県出雲市)、室戸岬(高知県室戸市)。

 

 角島大橋を様々な角度から堪能し、角島灯台も訪ねた後は海岸そばの懐石・海鮮料理店「齋座 わ田(さいざ わだ)」で腹ごしらえ。この日のメニューは台風でしけた影響だろう、イカやサザエ、イクラなどがピラミッド状に積まれた「海鮮丼」の一品のみ。まず頂上部を土佐醤油で刺身として頂き、次いで細かく刻んだ山積みの刺身を崩し、たれと卵黄をかけてどんぶりとして頂く。そして最後はレンゲの胡麻だれに出汁を加え茶漬けに。一杯で三度の味わい方が楽しめる海鮮丼はなかなか美味で食べやすく、これも角島の忘れがたい思い出の一つになった。

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<奥能登探訪㊦> 朝日も夕日も望める最北端の岬・禄剛埼

2017年09月14日 | 旅・想い出写真館

【揚げ浜式塩田、見附島、恋路海岸……】

 能登半島最北端の岬、禄剛埼(ろっこうざき)。外浦と内裏の分岐点にあり、古くは狼煙(のろし)をたく要所として知られた。その名残が今も「珠洲市狼煙町」という地名に残っている。そばには「道の駅狼煙」もある。その道の駅から急坂を登ること10分弱で、芝生広場の禄剛埼台地に着いた。青い日本海が遥か彼方まで果てしなく広がる。ここは同じ地点から朝日も夕日も望むことができる全国でも数少ない場所という。

 岬の突端にある白亜の灯台「禄剛埼灯台」はイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブライトン(1841~1901)が設計し、1883年(明治16年)に完成した。ブライトンは明治政府のお雇い外国人として来日し、多くの灯台を設計したことから〝日本の灯台の父〟と呼ばれる。正面には菊の紋章が輝く記念額が飾られていた。菊の紋章が掲げられた灯台は全国でもここだけとのこと。今は無人灯台だが現役で光は約35キロ先の沖合まで届く。「日本の灯台50選」の一つ。2008年には経済産業省から「近代化産業遺産」に認定された。この灯台は2年前のNHK連続テレビ小説『まれ』のオープニングに空撮が登場したことでも知られる。

 

 珠洲市北部の仁江海岸などでは「揚げ浜式」という製塩技術が連綿と受け継がれてきた。沿岸部の領民に米を前貸しし、塩で返納させる加賀藩の「塩手米(しおてまい)制度」によって江戸初期以降、急速に広まった。瀬戸内地方の「入浜式」は潮の干満を利用して海水を塩田に引き込む。一方、潮の干満の少ない能登地方の「揚げ浜式」では海水を汲んできて塩田に撒く作業を繰り返す。

 国道24号沿いには今もその揚げ浜式の塩田が点在する。「道の駅すず塩田村」のそばにある角花家の塩田(写真㊧)には「国指定重要無形民俗文化財 能登の揚浜式製塩の技術」と「『まれ』ロケ地」という看板が立っていた。『まれ』収録の際、この塩田を営む角花豊さんが塩田作業指導を務めたという。国道をしばらく進むと「株式会社奥能登塩田村」(写真㊨)があった。真っ黒に日焼けした男性が炎天下、海水を撒いた塩田で黙々と砂の乾燥作業に取り組んでいた。〝潮汲み3年、潮撒き10年〟。この言葉が揚げ浜式の過酷な製塩作業を物語る。

 

 能登のシンボルといわれる見附島はその形から軍艦島とも呼ばれる。高さは約28m。「飯塚珪藻泥岩」という堆積岩でできているそうだ。海岸そばの道路を南下し能登町に入ると、すぐの所に恋路海岸が弧を描く。ここにはこんな悲恋物語が伝わる。美しい娘の鍋乃と助三郎は人目を忍び逢瀬を重ねていたが、助三郎は二人の仲をねたむ男に騙され溺れ死ぬ。その直後、男は鍋乃に言い寄るが、鍋乃は拒んで海に身投げし助三郎の後を追う――。いま、見附海岸~恋路海岸の一帯は「えんむすびーち」「恋人たちの聖地」と呼ばれてカップルに人気があるそうだ。

 

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<奥能登探訪㊥> 壮観!日本海になだれ込む幾何学模様の棚田

2017年09月13日 | 旅・想い出写真館

【輪島名物の朝市、名舟御陣乗太鼓、黒島伝建保存地区…】

 輪島市街地から車で国道249号を東進すると15分ほどで白米(しろよね)千枚田に着く。奥能登を代表する観光名所だ。「千枚田ポケットパーク」から眼下を望むと、黄金色に輝く階段状の棚田が青い日本海の波打ち際まで続いていた。全国棚田100選の一つで、国指定の名勝でもある。2011年にはこの千枚田を含む「能登の里山里海」が国連食糧農業機関(FAO)から世界農業遺産に認定された。

 棚田は全部で1004枚あるという。山裾の急斜面の地形をそのまま生かしているため、水田は形も広さも様々。中には下の写真㊧のような小さな箇所もあった。これだけの棚田を地元の農家だけで耕作し管理していくのはなかなか容易ではない。そこで棚田オーナー制度を設けたり多くのボランティアの支援を受けたりしている。訪ねたのは刈り取り直前の絶好のタイミングで、棚田の上の方では既に一部刈り入れが始まっていた。10月8日~来年3月11日にはライトアップ「あぜのきらめき」と銘打ち、日没後、畦道に設置した約2万個のLED電球を自動点灯させるそうだ。

 

 輪島といえば朝市も有名。高山、呼子(佐賀県)とともに日本三大朝市ともいわれる。中心商店街の本町通り(約350m)に、多いときには200店を超える露店が並ぶ。開店時間は午前8時から正午まで。新鮮な鮮魚や野菜のほか手作りの草履や民芸品などを扱う店も多い。通りの一角には「炭火コーナー」があり、買ったばかりの魚貝類を早速自ら焼いて味わう観光客の姿も目立った。

 

 かつて輪島への公共交通機関はのと鉄道輪島線だったが、2001年に廃線となった。旧輪島駅の駅舎跡は「輪島ふらっと訪夢」としてバス・タクシーの交通ターミナルや交流施設、道の駅輪島として活用されている。プラットホームや線路の一部が保存されており、行き先案内では次が「シベリア」となっていた。朝市からこの駅舎跡に向かう途中、河井小学校の運動場脇にある桜の木の下の「日本海と太平洋をさくらでつなごう」と文字が目を引いた。もしかしたら桜の植樹に生涯を捧げたバスの車掌佐藤さんゆかりの桜では……。そばに寄って確かめるとやっぱりそうだった。「佐藤良二さん(岐阜県)から贈られたさくら(左右の二本)」「昭和49年十月二十九日植樹」と書かれていた。佐藤さんが植樹に努めたのは乗務していたバスの沿線、名古屋~金沢間とばかり思っていたが、奥能登の輪島まで足を運んでいたのだ。

 

 輪島近辺では御陣乗太鼓の発祥地名舟や重要伝統的建造物群保存地区の黒島地区(船主集落)、1枚岩の真ん中に直径2mほどの穴が開いた窓岩なども巡った。御陣乗太鼓の起こりは約440年前、攻め入ってきた越後の上杉謙信勢を、村人が樹の皮で作った仮面と海藻を被った異様な姿で太鼓を打ち鳴らし退散させたこと。以来「名舟大祭」では神輿渡御の先導役を務めている。黒島地区(下の写真㊨)は江戸時代、北前船の回船業で栄え、板張りの外壁や格子、黒い釉薬瓦などが往時の繁栄ぶりをしのばせる。能登半島地震で大きな被害を受けたが、地元住民が団結して町並み再生に取り組み、地震から2年後の2009年に伝建地区に選定された。

  

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<奥能登探訪㊤> にぎわう珠洲市の「国際芸術祭2017」

2017年09月12日 | 旅・想い出写真館

【11カ国・地域から39組の現代美術作家が参加】

 能登半島の先端に位置する石川県珠洲市で「奥能登国際芸術祭2017」が始まった。会期は9月3日から10月22日までの50日間。11カ国・地域から39組のアーティストが参加し、市内10地区の会場に力作を出品している。会期中初の日曜日となった10日には、全ての作品を鑑賞できるパスポート(一般2500円)を手に会場を巡る観客らでにぎわっていた(一部屋外展示作品などは無料)。下の写真は小山真徳さんの『最涯(さいはて)の漂着神』

 この芸術祭の総合ディレクターは「瀬戸内国際芸術祭」などでも手腕を発揮している北川フラム氏。「国内外から参加するアーティストと奥能登珠洲に眠るポテンシャルを掘り起こし、日本の〝最涯(さいはて)〟から〝最先端〟の文化を創造する試み」として企画した。2005年に廃船になった「のと鉄道能登線」の旧駅舎や人口減で廃校や廃館になった小中学校、公民館、保育所、映画館、銭湯、市内各地の海岸、バス停などが会場になっている。

 

 能登半島の海岸線には朝鮮半島や中国など内外から様々な漂着物が流れ着く。海岸の展示作品にはそんな漂着物をテーマや素材に選んだ作品が目立つ。小山真徳さんの作品『最涯の漂着神』は難破船と鯨の骨を組み合わせたような作品。珠洲では鯨や難破船などの漂着物を、漁村に幸いをもたらす「エビス」として祀る神社が多く残ることにヒントを得たという。深澤孝史さんの『神話の続き』(上の写真㊧)は漂着したポリ容器などを素材とし砂浜に大きな白塗りの鳥居を築いた。リュウ・ジャンファさん(中国)の『Drifting Landscape』(写真㊨)は景徳鎮と珠洲焼の陶器の破片を、景勝地の見附島(軍艦島)を望む波打ち際にずらりと並べた。

 

 トビアス・レーベルガーさん(ドイツ)の『なにか他にできる』(上の写真2枚)は旧蛸島駅に近い小高い場所に置かれた鋼鉄製のカラフルな作品。その奥に設置された望遠鏡を覗くと、廃線となった線路の先に「Something  Else  is  Possible」という派手なネオンサインのようなものが見えた。廃線などで置き去りにされたこの地域への励ましと将来への明るい可能性を示唆しているように思えた。レーベルガーさんは2009年ヴェネチア・ビエンナーレの金獅子賞受賞者。

 

 村尾かずこさんの『サザエハウス』(上の写真㊧)は浜辺の船小屋の壁に無数のサザエの殻を張り付け、中に入ると真っ白で殻の内部を模して螺旋状になっていた。村尾さんはフレスコ画を通じて左官の仕事を学んだという。使った殻はおよそ2万個に上るそうだ。アレクサンドル・コンスタンチーノフさん(ロシア)の作品『珠洲海道五十三次』(写真㊨)は市内4カ所のバス停の待合所をアルミパイプなどで包み込んだ。

 

 古い銭湯を会場として使った麻生祥子さんの『信心のかたち』(上の写真㊧)は高い所から5分おきに泡があふれ出しては消えながら大きな泡の山を築く。泡を通して能登の人々の目に見えない信心の形を表現したという。その隣にある井上唯さんの作品『into the rain』(写真㊨)はあらゆる生命の源である水のしずくが滴り落ち、波紋となって広がる様を表現した。自ら染色したとのこと。涼しげな大きな蚊帳のようで、中に入って寝転び見上げることもできた。

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<クズ(葛)> 葛粉・葛根湯・葛布などの原料に

2017年09月07日 | 花の四季

【有用植物だが今や「世界の侵略的外来種」にも】

 各地の山野に広く自生するマメ科クズ属の多年生つる性植物で、日本をはじめ中国、朝鮮半島、フィリピンなど東アジアに広く分布する。繁殖力はすこぶる旺盛。つるは長さが10m以上に伸び、周りの樹木や電柱に絡み付いてよじ登り草地や荒地を覆う。花期は8~9月ごろ。長さ10~20cmほどの総状花序を立ち上げ、濃い紅紫色の蝶形の小花が下から順に咲き上がる。

 塊根はでんぷんを多く含み葛粉にして高級和菓子の葛餅や葛湯の原料になり、漢方では風邪薬の葛根湯(かっこんとう)などに利用される。クズの名は古くから葛粉の産地として有名だった奈良県吉野地方の国栖(くず)の地名に由来するといわれる。葉やつるはかつて牛や馬の飼料とされ、つるの繊維を織ったものは葛布(くずふ)と呼ばれ狩衣や袴などに仕立てられた。葛布は芭蕉布、科布(しなふ)とともに日本三大古布。静岡県掛川市の「掛川手織葛布」は県の郷土工芸品に指定され、壁紙や掛け軸、手提げバッグ、日傘、草履などに加工されている。京都の伝統行事「蹴鞠(けまり)」の装束「鞠袴」には今も葛布が使われているそうだ。

 万葉歌人山上憶良はクズの花を秋の七草の一つに挙げた。万葉集にはクズを詠んだ歌が20首ほど登場するが、花そのものを詠んだ歌は憶良の1首だけで、その他は旺盛な生命力を持つつるや葉を詠んだものばかり。クズの葉は裏が白く、葉裏を見せながら風にそよぐ様から「裏見草(うらみぐさ)」とも呼ばれる。浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」の中に出てくる「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌は、狐の「葛の葉」が裏見に恨みを重ねて詠んだもの。

 クズは有用植物として食用や薬用、衣料などに幅広く活用されてきたが、いったんはびこると駆除が困難なため今や内外で〝強害雑草〟として厄介者扱いされている。米国では1900年代前半、南部の酪農家の間で手間が要らず荒地でも育つため家畜用飼料として注目を集め、政府も堤防や高速道路の法面の土壌流出防止用としてクズの植栽を奨励した。その結果、クズは帰化植物となって北米に広がり、1970年になって米農務省は「クズは雑草」と宣言したという。国際自然保護連合の種の保全委員会からクズは「世界の侵略的外来種ワースト100」の烙印を押されている。「葛咲くやいたるところに切通」(下村槐太)

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