く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ムジークフェストなら⑦> 「エディット・ピアフのホームパーティー」

2013年06月30日 | 音楽

【ピアノ・クラリネットの演奏+ピアフ代表曲の歌唱】

 「エディット・ピアフのホームパーティー with プーランク、ミヨー、オネゲル」と題したコンサートが29日、奈良県文化会館(奈良市)で開かれた。フランスの国民的シャンソン歌手、エディット・ピアフ(1915~63)と同時代にパリを中心に活躍したクラシック作曲家の作品と、「ばら色の人生」などピアフの代表曲を同時に楽しんでもらおうという趣向。(写真㊧から)パトリック・ジグマノフスキー(ピアノ)、フローラン・エオー(クラリネット)、スブリーム(歌)の3人が出演した。

   

 ピアフは大道芸人の子として生まれるが、母親に見捨てられ、売春宿を経営していた父方の祖母に預けられる。過酷な少女時代。その後、路上シンガーからクラブの歌い手を経て人気歌手に登り詰め、戦時中には反ナチのレジスタンスにも尽くした。だが、自動車事故や薬物中毒で苦しみ、がんを患って波瀾の人生を閉じた。享年47。今年はちょうど没後50年に当たる。ピアフの音楽は今も世界中で人気が高く、日本でも今春、2枚組みのベストアルバムが発売された。

 コンサート前半は20世紀前半に活躍した〝フランス6人組〟の作品など計7曲が演奏された。ミヨー「ブラジルの女」、オネゲル「クラリネットとピアノのためのソナチネ」、プーランク「愛の小道―ワルツの調べ」、ストラビンスキー「クラリネットのための3つの小品」……。クラリネットの暗く沈潜した低音や陽気な高音など、表現の幅の広さを再認識させられる名演奏だった。

 後半はワインや花束を載せたテーブルや真っ赤なソファ椅子がセットされ、タイトル通りホームパーティーのような雰囲気。ピアノとクラリネットの伴奏に乗せて、歌手スブリームがピアフの代表曲「パダム・パダム」「アコーディオン弾き」「パリの空の下」「ばら色の人生」などを披露した。スブリームは1985年から約10年間日本に滞在、この間、アコーディオンのcobaやトランペット奏者・作曲家の三宅純とも交流があったという。エオーはクラリネットを演奏しながら軽やかにタップダンスをする〝曲芸〟も見せてくれた。

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<ムジークフェストなら⑥> ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団

2013年06月29日 | 音楽

【ベートーベン「運命」、メンデルスゾーン「バイオリン協奏曲」】

 1870年創立のドイツの名門オーケストラ、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会が28日、奈良県文化会館国際ホールで開かれた。曲目はベートーベンの「エグモント序曲」、メンデルスゾーンの「バイオリン協奏曲」(ソリスト川久保賜紀)、ベートーベンの「交響曲第5番運命」。3曲とも深みのある重厚な演奏で、長い歴史と伝統の中で培われた、まさに〝いぶし銀の響き〟だった。

  

 ドレスデンフィルの来日は2008年以来。この間、2011年にも来日の予定だったが、東日本大震災の影響で中止になっていた。指揮はミヒャエル・ザンデルリンク(46)。ドイツ音楽の巨匠といわれたクルト・ザンデルリンクを父に持つ。もともとはチェリストだが、2001年に指揮活動を始めて徐々に頭角を現し、11年にドレスデンフィルの首席指揮者に就任した。

 弦楽器の配置が通常のオーケストラとは違っていて目を引いた。舞台に向かって左側から第1バイオリン、チェロ、ビオラ、第2バイオリンと並び、コントラバスは左手のチェロの後ろに位置していた。ザンデルリンクが就任してから配置替えしたのだろうか、それともこれがドレスデンフィルの伝統なのだろうか。

 1曲目「エグモント序曲」は約200年前の1810年の完成・初演。最後の曲目「運命」の2年後に作曲された。オーケストラの全奏に続いて力強い弦の響き、そして優しい木管の音色。長身のザンデルリンクがダイナミックな指揮で重厚な〝ドレスデン・サウンド〟を引き出す。オープニングにふさわしい渾身の名演奏だった。

 続くメンデルスゾーン協奏曲のソリスト・川久保賜紀は1979年、米ロサンゼルス生まれ。2001年パブロ・サラサーテ国際バイオリンコンクール1位、02年チャイコフスキー国際コンクール最高位(1位なしの2位)。この日もその実力を証明するように、高度な技巧と豊かな情感で3大バイオリン協奏曲の1つといわれる名曲を弾きこなした。とりわけカデンツァの切々とした繊細な響きにはため息が出た。

 休憩を挟んで「運命」。最初の「ダダダ・ダーン」のスピードが注目されたが、速く歯切れのいい出だしだった。激しく緊張感がみなぎる第1楽章に続いて、第2楽章では一転、弦がゆったりと豊かな響きを奏でる。第3楽章ではチェロとコントラバスの力強い演奏が印象的だった。第4楽章は「これぞ、まさしくドレスデン・サウンド」と思わせる深い響きで締めくくった。3曲を通して、ピアニッシモから一気にフォルテッシモに持っていく演奏技術とザンデルリンクの指揮ぶりも感動的だった。アンコール曲はベートーベンの「ロンド・カプリッチョ〝失われた小銭への怒り〟」。

 ドレスデンフィルはきょう29日、大阪のザ・シンフォニーホールでベートーベンの「交響曲第7番」とブラームスの「交響曲第1番」を演奏する。ザンデルリンクはすでに来年の来日も決まっており、読売日本交響楽団とNHK交響楽団を指揮する予定という

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<ムジークフェストなら⑤> 「DUO YKEDA ピアノ四手連弾」

2013年06月28日 | 音楽

【優しく、時に激しく〝ピアノとダンス〟】

 27日午後7時から奈良市の「なら100年会館」で「DUO YKEDA(デュオイケダ)ピアノ四手連弾 DANCING with PIANO!」があった。パリ国立高等音楽院在学中に知り合ったパトリック・ジグマノフスキーと池田珠代の男女デュオは今年ちょうど結成20周年。フランスで最も活躍する連弾デュオとして知られ、毎年、世界各地の音楽祭にも招待されている。この日はアンコール2曲も含め9曲を披露、時に優しく、時に激しく弾き手を交差させながら息の合ったところを見せた。

   

  ジグマノフスキーは世界的に活躍するピアニスト。2002年には音楽監督を務め自らも出演する「ボルドー音楽祭」を立ち上げた。12回目の今夏も世界各国から一流音楽家が集まるという。現在、パリのエコールノルマル音楽院教授、大阪音大客員教授を務める。池田は桐朋女子高ピアノ科を経て1989年に渡仏。プーランク国際ピアノコンクール大賞第一位など数々の国際コンクールで受賞し、ソロ奏者としても活動している。

 前半のプログラムはフランスの作曲家の作品で固めた。ラヴェル「スペイン狂詩曲」は静かに4音が反復する1曲目と激しく終わる4曲目が圧巻だった。シャブリエ「狂詩曲スペイン」も一糸の乱れもない力演だった。この他にサン=サーンス「英雄行進曲」とプーランク「ピアノ連弾ソナタ」。演奏が終わるたび、高音部を弾く池田が出来栄えを確かめるように相方に向かって微笑む姿が印象的だった。

 後半1曲目「スラブ舞曲」はドヴォルザークが親交のあったブラームスの「ハンガリー舞曲」を意識しながら作ったもので、まずピアノ連弾用として書き上げた。管弦楽用と同じく強打で始まる躍動的な舞曲の後、叙情的な美しい旋律が続く。スメタナの「モルダウ」もスメタナ本人が連弾のために書いた。雄大な川の流れが目に浮かぶような、呼吸の合った演奏だった。次いでラヴェルの「ラ・ヴァルス」。アンコールのハチャトリアン「剣の舞」では初めてジグマノフスキーが高音部を担当した。

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<ムジークフェストなら④> 「ハーモニーは蓮のはなびら~トリオとカルテット」

2013年06月28日 | 音楽

【フルート・バイオリン・ビオラ・チェロの三重奏と四重奏】

 27日午後1時半から奈良市の「東大寺 金鐘ホール」で開かれた。フルートの太田里子、バイオリンの伊左治道生、ビオラの坂本卓也、チェロの野田祐子の4人(写真㊧から)がベートーベン、モーツァルト、シューベルトの作品5曲(アンコール曲を含む)を演奏、楽器同士が〝対話〟する室内楽の楽しさを満喫させてくれた。

    

 特に印象に残ったのはモーツァルト「フルート四重奏曲第1番」。モーツァルトが作ったフルート四重奏曲4曲の中で最も華やかで有名な楽曲ということもあるが、演奏4曲目ということで4人の呼吸がうまくかみ合ったように感じた。とりわけ第2楽章の弦のピッチカートの歯切れの良さとフルートの優美な演奏は聴きごたえがあった。2曲目には同じモーツァルトの「フルート四重奏曲第3番」も披露した。

 1曲目はベートーベンの「フルート、バイオリンとビオラのためのセレナーデ ニ長調」、3曲目は「めったに演奏されることがない」というバイオリン・ビオラ・チェロによるシューベルトの「弦楽三重奏曲第1番」。第2番は1~4楽章が完全な形で残っているが、この第1番は第1楽章だけしかない未完の作品。未完といえば未完成交響曲が有名だが、シューベルトには途中で放棄した作品がこのほかにも結構あるそうだ。アンコールはモーツァルトの声楽曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だった。

 演奏前にはフルートの太田里子が曲目の解説をしてくれたが、モーツァルトのフルート四重奏曲にまつわる話は興味深かった。「マンハイム旅行中に富豪から依頼されて作曲に取り掛かったものの、なかなかはかどらず結局、報酬を半分に削られた。作曲が進まなかったのは当時、ウェーバーに対する恋の悩みがあったから」。ウェーバーは作曲家ウェーバーの従姉で、後に結婚するコンスタンツェの姉でもあった。

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<ムジークフェストなら③> 「奇跡のソプラノ アイリカ・クリシャール」

2013年06月27日 | 音楽

【抑揚の利いた豊かな声量、ピアニッシモの繊細な響き!】

 「奇跡のソプラノ アイリカ・クリシャールが古都で奏でるロマン派の調べ」と題したソプラノ演奏会が26日、奈良市の「なら100年会館」で開かれた。ロマン派後期のポーランドの作曲家シマノフスキの歌曲「12の歌」と、比較的よく知られたポピュラーな楽曲の2部構成。クリシャールはビロードのような軟らかい繊細さと張りのある力強さを織り交ぜて抑揚の利いた歌唱を披露、「奇跡のソプラノ」の形容が伊達ではないことを証明した。

 

 クリシャールは1983年、北ドイツ・東フリースラント生まれ。2002年、デトモルト国立音大声楽科に入るが、いったん音楽の道を断念して哲学専門大学に入学。しかし、05年にミュンヘンで指揮者やドイツ歌曲のピアノ伴奏者として活躍していた小林春仁氏との出会いを機に歌の世界に復帰した。以来、日本各地で約150回のコンサートを開いており、09年には福島で「クリシャール国際音楽祭」を始めた。11年の東日本大震災の際にはドイツ各地でチャリティー・コンサートを開くなど被災地支援に奔走した。

 ピアノ伴奏は1965年ドイツ・アウグスブルク生まれのベルンハルト・ヴュンシュ。ヨーロッパを中心に指揮者としても活躍しており、現在ミンスク放送管弦楽団首席客員指揮者を務める。昨年9月にはシマノフスキの「12の歌」(1907年作曲)全曲をクリシャールと共に世界で初めて録音し、その新作CDが評判を呼んだ。

 ヴュンシュは「12の歌」演奏に先立ち、作品の特徴についてこう解説した。「長調か短調か分からない不思議な楽曲。短い中に多様なリズムとハーモニーが凝縮している」。1曲目の「高き山に登りて」から、一気にクリシャールの世界に引き込まれた。艶やかな高音、広い音域。とりわけ7曲目「雨のあとで」や9曲目「雪が熱き胸をしずめて」は繊細なピアニッシモの響きが息をのむほどの美しさだった。

 第2部はシューベルトの「グレートヒェンのつむぎ歌」「セレナード」「魔王」からスタート。「セレナード」では切々たる思いを情感豊かに歌い上げた。次いで日本の「荒城の月」「ならやま」「ふるさと」、そして山田耕筰の「たゝえよ、しらべよ、歌ひつれよ」。もっと日本の唱歌などを聴いてみたいと思わせる胸に染みる歌唱だった。この後、リストの「夢に来よ」、シューマンの「献呈」「月の夜」「美しき異郷」、リヒャルト・シュトラウスの「万霊節」「チェチーリア」と続いた。アンコールはプッチーニ「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」。

 クリシャールは1曲歌い終わるたびに下を向いて精神を集中し、ピアノのヴュンシュは顔が上がるのを合図に、次の曲を弾き始めた。低音から高音まで広い音域を楽々と歌いこなすクリシャールの歌唱には最後まで品の良さが漂っていた。その音域はモーツァルト「魔笛」の中の難曲「夜の女王」の最高音域をはるかに超えるという。ぜひ「夜の女王」も聴いてみたいものだ。

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<奈良・菅原天満宮> 鷽替え神事 参拝者同士で鷽のお守りを交換

2013年06月26日 | 祭り

【凶事・災厄を〝嘘〟として福・幸運に転じる!】

 奈良市の菅原天満宮で25日「鷽(うそ)替え神事」が行われ、多くの参拝者でにぎわった。大宰府(福岡県)に流された菅原道真が蜂の大群に襲われた時、鳥の鷽が救ってくれたという故事にちなむ。太宰府天満宮では1100年も続く伝統の行事という。関西でも1月の初天神(25日)を中心に大阪天満宮、道明寺天満宮(藤井寺市)などで行われているが、この菅原天満宮では「菅公誕生祭」に合わせ毎年6月25日に行う。

 

 鷽替え神事は午後1時から宮司の祝詞奏上に続いて始まった。太鼓の音に合わせ、参拝者が「替えましょ」「替えましょ」と言い合いながら、箱入りの鷽のお守りを交換していく。お守り(上の写真㊨)は高さ10cmほどの一刀彫り(1体1000円)。数多く交換するほど、幸運を招くといわれる。しばらくして太鼓が鳴りやむと抽選会。抽選番号と箱の番号が一致したら、折り畳み傘や毛筆、奈良の特産・赤膚焼の花瓶などが当たる。

 

 鷽の交換と抽選会は7~8回も繰り返され、番号が読み上げられるたびにドッと歓声が湧いた。最後に抽選の特賞は高さ30cmほどの大きな鷽の木彫り。それが当たった女性は涙が止まらなかった。4年前に続いて2回目の大当たりという。涙の訳は――。4年前の時は高校生の孫娘が大きな交通事故に遭った直後。女性は早速、お守りを持って病室に駆けつけた。その孫娘も振袖を着て無事成人式を迎えることができた。それもこの鷽のお守りのお陰、ということだった。

 

 鷽替えに先駆け、午前11時からは雅楽が奏される中、約50人が参列して誕生祭が厳かに行われた(上の写真㊧)。菅原道真生誕の地として道真をおまつりする神社は吉祥院天満宮や菅原院天満宮など京都に数カ所あるが、この菅原天満宮が立地する菅原の里も生誕の地といわれてきた。道真の母が京都から帰参して、ここで出産したという。天満宮の東北100mの所には産湯の池と伝えられる遺跡もある(写真㊨)。

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<ハンゲショウ(半夏生)> 花期になると葉が白く変色 虫を誘う目印?

2013年06月25日 | 花の四季

【「半化粧」「片白草」「三白草」とも】

 半夏生は24節気72候の1つで、夏至から11日目の7月初めを指す(今年は7月2日)。ハンゲショウの名前はこの頃に花を付けることによる。水辺に自生するドクダミ科の多年草で、北海道を除く日本各地や中国、フィリピンなどに分布する。観賞用として日本庭園に植えられ、茶花としても用いられる。

 ハンゲショウには「半化粧」の漢字も当てられる。花期シーズンになると、花穂のすぐ下にある葉2~3枚が半分おしろいを塗ったように真っ白く染まっていくことによる。ハンゲショウは虫媒花で、長さ10~15cmの花穂に小花をたくさん付けるが、花びらを持たない。葉が真っ白に変化するのは、花びらに代わって目立つ色で虫たちに花の存在を知らせるためではないかとみられている。

 葉の変色から「カタシロクサ(片白草)」とも呼ばれる。今ではハンゲショウの名で広く知られるが、古くはこの別名のほうが長く使われてきた。平安時代の「本草和名」や「倭名類聚抄」には「加多之呂久佐」の名前で出ており、江戸時代になって「大和本草」に俗称として「半夏生草」が登場する。中国名は「三白草」。

 ハンゲショウは水辺環境の変化に伴って自生地が減り続けている。特に東北は深刻。岩手県ではすでに絶滅し、青森や山形、秋田、宮城、福島でも絶滅危惧種に指定されている。西日本でも準絶滅危惧種になっている府県が増えてきた。奈良県もその1つ。ただ、県東端の御杖村の通称「岡田の谷」では棚田だった所にハンゲショウが増殖、今では村が遊歩道を整備し「半夏生園」(広さ4ヘクタール)として開放している。7月14日には「伊勢本街道ウオークと半夏生園散策」イベントを開く。

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<吹奏楽A-Winds演奏会>40回記念委嘱作「SUKU-SUKU」熱演!

2013年06月24日 | 音楽

【前田恵実さん作曲、大和郡山のシンボル〝金魚〟をテーマに】

 奈良アマチュアウインドオーケストラ(A-Winds)の「第40回記念演奏会」が23日、やまと郡山城ホール(奈良県大和郡山市)で開かれた。今回の目玉は前田恵実さんが同吹奏楽団のために作曲した40回記念委嘱作品「SUKU-SUKU(スクスク)」。A-Windsの活動拠点になっている大和郡山の特産・金魚を題材にした作品で、従来の吹奏楽の枠に捉われない親しみやすい楽曲の〝世界初演〟に観客の拍手が鳴り止まなかった。

 作曲した前田さんは2007年、大阪音楽大学作曲学科を卒業し、同年の日本音楽コンクールで第3位。その後も日本交響楽振興財団作曲賞、武生作曲賞、JAF(日本作曲家協議会)作曲賞などで入選入賞を重ね、現代音楽からジャズまで幅広い分野の作編曲家として活動している。2011~12年はロームミュージックファンデーションの在外研究生としてパリに拠点を置いた。

 委嘱作品は今回の客演指揮者でもある井村誠貴氏の紹介で書き下ろしたもの。「ヤマト」と名付けた金魚を巡る物語を、美しく親しみやすい旋律と歯切れのいい旋律で組み立てている。ポイで掬(すく)われたヤマトは金魚鉢で飼われるが、飼い猫のしつこい攻撃を受け、ついには鉢ごと床に放り出される。だが、新しい水槽を与えられ、今は子どもたちと一緒にスクスク元気に――。「人生、何が幸いするか分からない。だから、どんなことでもプラスにしてやろうと前向きに生きてきた。金魚にもそんな思いを託した」。前田さんは演奏前、そう話していた。

 

 「SUKU-SUKU」は演奏会を締めくくる第2部の最後に演奏された。吹奏楽としては珍しくピアノの強打で始まった。続いて小鳥のさえずりのような水笛の音。木管・金管がゆったりした主旋律を奏でる。だが、次には一転、激しく速い演奏に。物語の筋に沿うように緩―急―緩―急……と続く。繰り返し出てくる優しい主旋律が印象に残る。吹奏楽にまさに新風を吹き込む感動的な作品だった。楽譜が出版されたら、多くの会場で繰り返し演奏されるに違いない。

 委嘱作の演奏に先立つプログラムは全曲、吹奏楽オリジナルで固めた。第1部は「ジュビリー序曲」(P.スパーク作曲)、「風紋」(保科洋)、「ロマネスク」(J.スウェアリンジェン)、そして「セント・アンソニー・ヴァリエーション」(W.ヒル)。最後の「セント・アンソニー……」は全日本吹奏楽コンクールの常連、奈良の天理高校が1980年に、作曲者の了解を得て編曲・演奏した〝天理バージョン〟が有名だが、この日もその天理版を採用した。

 第2部はジャズ風の要素を取り入れた「ウイークエンド・イン・ニューヨーク」(P.スパーク)、今夏のコンクール課題曲の1つ「エンターテインメント・マーチ」(川北栄樹)、次いで前田さんの「SUKU-SUKU」だった。アンコールは吹奏楽の人気曲「ディスコ・キッド」(東海林修)。A-Windsには8月のコンクールでもこの日のような伸びやかで軽快な演奏を披露し、ぜひ金賞を目指していただきたい。

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<BOOK> 「鉄条網の歴史」(石弘之・石紀美子共著、洋泉社発行)

2013年06月23日 | BOOK

【副題に「自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明」】

 鉄条網は19世紀の中頃、米国とフランスでほぼ同時期に開発されたという。米国発明学会の年代別大発明では1860年代の項に、鉄条網は大陸横断電信網、パスツールの殺菌法、ノーベルのダイナマイトなどと並んで挙げられている。筆者・石弘之氏がその鉄条網を初めて意識したのは十数年前のケニアでの出来事。茂みを歩いていたところ、突然、鉄条網が下半身に絡まり身動きが取れなくなったという。

   

 石弘之氏は朝日新聞でNY特派員や編集委員を務めた後、国連環境計画(UNEP)上級顧問、東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使などを歴任。主な著書に「地球環境報告」「森林破壊を追う」「地球クライシス」などがある。鉄条網との〝遭遇〟はケニアの首都ナイロビに本部を置く国連環境計画で、農業地帯を調査していた時の出来事。共著者・紀美子氏は長女で、NHKに勤務後、サラエボの国連機関で戦後復興プロジェクトに従事。現在は米サンフランシスコに在住し、米国最新事情を日本のメディアに連載中という。

 鉄条網といえば、何の変哲もないトゲ付きの鉄線が思い浮かぶ。だが、その種類は無数にあるらしい。米国にはいくつもの鉄条網の博物館があるそうだ。鉄条網の当初の目的は農牧場を囲うためだった。しかし〝人間の囲い込み〟にも利用されるようになり、アメリカ先住民(インディアン)は鉄条網で囲まれた居留地に追い出された。石弘之氏はブラジルのアマゾン各地で、先住民インディオが白人に先祖伝来の熱帯林を強奪され、焼き払われて牧場に変わっていく現場に遭遇した。「このときに、はじめて鉄条網のもつ暴力性に気がついた」。

 第2次世界大戦中には米国やカナダで多くの日系人が〝敵性人〟として拘束され、鉄条網に囲まれた強制収容所に送り込まれた。米国の収容所10カ所はいずれも辺境の乾燥地帯に造られ、収容者は11万人強に上った。カナダでも6カ所に約1万3000人が閉じ込められた。米政府は中南米にも日系人の抑留を要求し、ペルー、ボリビアなど12カ国の日系人2000人余が米国に移送されたという。

 第4章「人間を拘束するフェンス―鉄条網が可能にした強制収容所」ではナチスや旧ソ連の収容所の実態についても詳しく触れる。アウシュビッツでは「鉄条網を巻きつけた棍棒でなぐる、といった拷問は日常的に行われていた」。〝バラの庭園〟と呼ばれる身動きできない鉄条網の檻もあった。第5章「民族対立が生んだ強制収容所」、第6章「世界を分断する境界線」でも南アフリカのアパルトヘイト政策や東西ベルリンの壁、ボスニア戦争などを通して、抑圧する側とされる側、排除する側とされる側を分断した鉄条網の実相を紹介する。される側にとって鉄条網はまさに〝悪魔のロープ〟だった。

 鉄条網は戦場でも欠かせないものになっていく。戦争で最初に使われたのはキューバとフィリピンが舞台となった1889年の米国スペイン戦争。日露戦争(1904~05年)でも日本軍はロシアの鉄条網に阻まれ、身動きできなくなったところを機関銃で狙い撃ちされた。「敵の進撃や侵略を阻止する鉄条網の機能は、とくに2度の大戦の塹壕戦と結びついて大きく発達した」。鉄条網は軽いため短時間にどこにでも敷設できる。「発見から140年余も現役をつづける超ローテクの鉄条網は、人の『欲望』がつづくかぎり第一線を退くことはないだろう」。

 本書は日本人の多くが普段気にも留めない鉄条網について、世界各地の緻密な取材でまとめ上げた労作。鉄条網の歴史は発明以降1世紀半にわたる人類の〝抑圧の歴史〟でもあった。その点で副題が示すようにまさに〝負の大発明〟だった。文中には西部劇をはじめ映画の中で描かれた鉄条網も多く登場する。「シェーン」「戦場のアリア」「子鹿物語」「折れた矢」「小さな巨人」「サラエボの花」「ベルリンのウサギたち」……。数えたら20ほどあった。

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<奈良女子大学> アカデミー賞8部門受賞「スラムドッグ$ミリオネア」を上映

2013年06月22日 | メモ

【原作者のスワループ在大阪・神戸インド総領事の講演も】

 奈良女子大学で21日、地域公開講座が開かれ、映画「スラムドッグ$ミリオネア」の上映と、原作者で在大阪・神戸インド総領事のヴィカース・スワループ氏の講演があった。奈良女子大学社会連携センターと公益社団法人アジア協会アジア友の会の共催。映画はインドのスラム育ちの青年が主人公で、2009年の第81回アカデミー賞では作品賞など8部門を独占した。スワループ氏は講演の中で、原作に込めた思いや在任期間をまもなく終える日本の印象などを熱く語った。

     

 スワループ氏(写真㊧)は1986年インド外務省に入省し、米ワシントンやロンドン、南アフリカ・プレトリアなどで要職を歴任。外務省ではアフリカ南部、米国、パキスタン、ネパールなどを担当し、2009年8月に日本の総領事に着任した。この間の2005年に映画の原作となった「ぼくと1ルピーの神様」を出版、以来、これまでに44の言語に翻訳されている。

 これを英国のダニー・ボイル監督が映画化した(写真㊨)。スラム育ちの無学の青年ジャマールがテレビの人気クイズ番組に出演し、次々に難問に答えて大金2000万ルピーを獲得する。最後の1問となった直前、不正を疑われて警察に連行され、尋問の中でそれまでの過酷な人生が浮き彫りになっていく。クイズの答えはその生い立ちの中に隠されていた――。

 日本ではスワループ氏が着任する直前の2009年4月に公開となった。スラムに住む人もコンピューターを使いこなす時代になっていることが原作執筆の1つのヒントになったという。「スラムの子どもたちの情熱やたくましさを描きたかった。運・チャンスを生かして努力をした人は必ず栄光を手に入れることができる」。そんなメッセージを込めて書いたという。

 スワループ氏は「インド、その伝統と変貌」と題した講演の中で、インド成長の要因として低コスト、国内需要の増大、中間層の所得拡大、投資と貯蓄の増加、全人口の60%が25歳以下――の5点を挙げた。「ジュガード」という言葉に代表される起業家精神もインドの活力につながっていると指摘する。ジュガードは「限られた資源や手段を最大限活用して困難を乗り越えていく精神」。1つの例として世界で1番安い車といわれる「ナノ」(18万5000円)を挙げた。

 スワループ氏は今年6月で4年弱の任期を終えてインド外務省に戻る。「インドにとって日本は最大のパートナー。最も尊敬を集める国の1つ」。日本の印象として「おだやかさ」や「安全」「礼儀正しさ」「美意識」などを挙げた。「折り詰めの弁当にも芸術が詰まっている」「東日本大震災では災害時の行動のあり方を世界に示した」「財布を落としても、かなり高い確率で戻ってくるのは驚き」。四角いスイカ、服で着飾ったおしゃれな犬にも驚かされたという。

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<イトラン(糸蘭)> 颯爽とした花姿 青空に映えるベル状の白花

2013年06月21日 | 花の四季

【北米の乾燥地帯に自生、19世紀半ばに渡来】

 「ラン」と付くがラン科ではなく、通称「ユッカ」と総称されるキジカクシ科(旧リュウゼツラン科)イトラン属の常緑多年生植物。すくっと直立した花茎に、巨大なスズランのような釣鐘状の白い花を多数付ける。原産地は北米の乾燥地帯で、日本には江戸時代末期の19世紀半ばに渡来した。細長い葉の縁から白い繊維が剥がれ、ほつれて糸状に伸びる。そこから「糸蘭」の名が付いた。

 同じ仲間のユッカは米国南部からメキシコ、西インド諸島にかけて40種ほどが分布する。主なものにイトランより大型の「キミガヨラン」や「アツバキミガヨラン」、高さが4~6mにもなる「センジュラン」など。「キミガヨ(君が代)」は学名の「グロリオサ(栄光)」を「君が代」に関連づけて名付けられた。これらの多くはイトランよりやや遅れ、明治時代に入って渡ってきた。公園や欧風の庭園でよく見かけるが、最近は「メキシコチモラン」が観葉植物「青年の木」として流通するなど鉢物も多く出回る。

 イトランはユッカの中では小型で、幹がほとんどなく根元近くから葉を放射状に伸ばす。葉が剣状に尖っていることから、英名では「Adam's needle(アダムの針)」と呼ばれる。草丈は大きくなっても1mほど。6~8月、その中心部から高さ1~2mの花茎を伸ばす。ベル状の花は径5cmぐらいの6弁花。葉の両側に黄色の模様が入る〝斑(ふ)入りイトラン〟と呼ばれる園芸品種もある。

 イトランをはじめユッカの花は蛾(が)の1種ユッカガとの共生関係で知られる。花粉を体に付けた雌のユッカガは別のユッカの花に行って産卵し、同時にメシベに花粉を擦り付ける。受粉を手伝う代わりに、卵の成育場所として利用させてもらうわけだ。果実ができると、幼虫はその一部を餌として頂く。ただ、日本にはこのユッカガがいないため、果実を実らせるには人工授粉するしかないという。「ユッカ高し背高き乙女より高し」(赤城さかえ)。

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<ムジークフェストなら②> 「遙かなる悠久の響き 涂善祥 中国琵琶の世界」

2013年06月20日 | 音楽

【多彩な音色、透明感あふれるトレモノの響き】

 中国琵琶の名手、涂善祥(ト・ゼンショウ)さんの演奏会が19日、奈良市の奈良県文化会館で開かれた。題して「遙かなる悠久の響き 涂善祥 中国琵琶の世界」。琵琶を10指で自在に操って、自作の「さくら変奏曲」「白帝城追想」や「この道」「オ・ソレミオ」「アルハンブラ宮殿の思い出」など10曲余りを演奏した。中国琵琶の多彩な音色や音楽表現の幅の広さを存分に堪能させてくれる名演だった。

 

 涂さんは中国上海音楽学院を卒業後、1988年に来日し名古屋芸術大学作曲研究生を経て、東京芸術大学大学院で音楽学の修士号を取得。中国国家一級演奏家でもある。2005年の愛知万博では中国館の音楽顧問を務めた。阪神大震災や東日本大震災のチャリティーコンサート、日中国交正常化40周年記念公演(2012年)など内外で精力的な演奏活動を続けており、これまでに開いた演奏会は2700回に上るという。

 この日はチェロの松崎安里子さん、シンセサイザーの海老原真二さん、ピアノのマリ・リーさん、ソプラノ兼打楽器担当の矢野留美さんがバックを固めた。1曲目は自作の「バインゴリンの祭り―競馬」。軽快な琵琶の響きと涂さんの張りのある高い声に圧倒される。2曲目は世界的な作曲家・シンセサイザー奏者、喜多郎の代表曲「シルクロード」。琵琶のトレモノとチェロの深い音色がうまく絡み合って心地よい。喜多郎とは奈良・薬師寺をはじめ内外で度々共演してきたという。

 自作の「白帝城追想」は途中、漢詩の朗詠や大太鼓も加わり、最も印象に残った。2010年の上海万博では合唱団の100人も加え総勢180人で演奏したという。涂さんは演奏に先立って、世界的な切り絵作家だった宮田雅之さん(1926~97)の思い出話も披露した。宮田さんは上海での日中国交正常化25周年の記念展の帰途、機中で脳梗塞のために亡くなった。宮田さんの遺作となった切り絵もタイトルが「白帝城」だった。

 この曲に続いて、ベトナムの印象を基に作曲した「越南素描」を演奏。アンコールはバイオリン発表会などでよく耳にするモンティの「チャルダッシュ」と「荒城の月」「故郷」だった。演奏の合間には日本の琵琶との違いを説明してくれたり、津軽三味線やギター、マンドリンのような音色を出してくれたりした。まさに〝至芸〟といえる名演で、終了後、周りからも「良かったね」「感動した」といった話し声が聞かれた。

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<カリステモン> 鮮紅色の花がまるで瓶洗浄用ブラシ→和名「ブラシノキ」

2013年06月19日 | 花の四季

【オーストラリア原産、明治中期に渡来】

 フトモモ科の常緑低木。同じ仲間のブラシノキ属はオーストラリア、タスマニア、ニューカレドニアに約30種が分布する。真っ赤に見えるのは花びらではなく無数のオシベ。「カリステモン」はギリシャ語で「美しいオシベ」を意味する。長さが10cmほどある穂状の花姿がコップや瓶を洗うブラシのように見えることから「ブラシノキ」の和名を持つ。英名も「ボトル・ブラッシュ」。

 日本には明治中期に渡来してきた。樹高は2~5mのものが多いが、原産地オーストラリアでは10m前後まで育つ品種もある。オシベの赤い花糸の先端が金粉を付けたように黄色になることから、「キンポウジュ(金宝樹・錦宝樹)」という美しい別名もある。葉が細長く針葉樹のマキの葉に似ているため「ハナマキ(花槙)」とも呼ばれる。赤花のほか、白花やピンク、黄色の園芸品種も出回っており、日本生まれの「八房金宝」と名付けられたものもある。

 花穂の先から新しい芽が出て枝が伸びていくのがブラシノキの特徴。花が終わると丸い粒々の実が枝を取り巻くようにびっしり付く。その様はまるで虫の卵のようにも見え、少しグロテスクな感じ。しかも、それが数年間付いたままになっている。オーストラリアではユーカリと同様に、よくある森林火災で実がはじけ種子が風に乗って運ばれるという。

 ブラシノキは日本の切手の図案になったことがある。日豪友好協力基本条約の締結30年に当たる2006年の「日豪交流年」を記念した80円切手シート。オーストラリアの自然や動植物などを描いた図柄10枚のうち、植物ではこのブラシノキがオーストラリア国花のゴールデン・ワトル(アカシアの1種)とともに選ばれた。ブラシノキはまさにオーストラリアを代表する樹木というわけだ。

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<率川神社・三枝祭> 奈良に夏到来を告げる〝ゆりまつり〟

2013年06月18日 | 祭り

【ササユリ手に優雅な舞を奉納、稚児やゆり姫の行列も】

 奈良市内最古の神社といわれる率川(いさがわ)神社で17日、三枝祭(さいくさのまつり)が行われた。701年の大宝律令に国家の祭祀と記された伝統の祭り。ササユリで飾った2つの酒樽をお供えし、巫女がユリを手に神楽を舞うため、一般に「ゆりまつり」として親しまれている。

  

 同神社は桜井市にある大神神社の摂社で、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭神としてまつる。姫は大神神社がご神体とする三輪山の麓のササユリが咲き誇る地にお住まいだったという。三枝祭はその故事にちなむもので、毎年祭り前日の16日、大神神社境内のゆり園で丹精込めて育てられたユリの花が「ささゆり奉仕団」の方々によって届けられる。

 

 神事は午前10時半から始まった。普段は静かな境内もこの日ばかりは氏子や観光客であふれかえった。宮司の祝詞奏上、神饌のお供えなどに続いて、巫女4人による「うま酒みわの舞」の奉納。三島由紀夫をして「奔馬」(豊饒の海・第2巻)の中で「これほど美しい神事は見たことがなかった」と言わしめた優雅な舞である。大神神社の20人余の巫女の中から毎年4人が選ばれるという。1番のクライマックスの場面。だが、幾重もの人垣の隙間から垣間見るのがやっとで、うまく撮れなかったのが心残り。神事はほぼ1時間で終わった。

 

 

 午後には1時半から太鼓を先頭に行列が三条通りなどを練り歩いた。浴衣姿のお母さんに伴われたお稚児さんたちの可愛いこと。その後、花車や七媛女(ななおとめ)、ゆり姫が続く。海外からの留学生たちか、ゆり姫役の外国女性たちの姿がひときわ目を引いた。巡行の途中、見物客には厄除けの造花のユリが配られた。梅雨の晴れ間の猛暑の中。皆さん、ご苦労さまでした。

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<唐本御影> 最古の聖徳太子像 「江戸出開帳で評判、幽竹が精巧な模写図」

2013年06月17日 | メモ

【帝塚山大学市民講座で伊藤純・大阪歴史博物館学芸員】

 聖徳太子の最古の肖像画といわれる「唐本御影(とうほんみえい)」。法隆寺が長く所蔵していたが、約140年前、皇室に献納されて御物になった。法隆寺は現在、江戸時代に幽竹法眼が写した模写図(1763年)を所蔵する。法隆寺にとってこの唐本御影とはどんな存在だったのか。大阪歴史博物館の学芸員、伊藤純氏は15日開かれた帝塚山大学(奈良市)の市民大学講座で「〝聖徳太子像〟―御物『唐本御影』の伝来過程」と題して講演、「江戸時代には開帳(集客・集金)の目玉として、庶民に近い場所に存在し、その図柄は多くの人の目に触れたのではないか」と語った。

    幽竹法眼筆の模写図(1763年)

 唐本御影に描かれた聖徳太子のお顔は、長く1万円札の肖像のモデルとしておなじみだった。だが、この肖像画がいつ誰によって描かれたのかは不明。制作年代については奈良時代の8世紀ごろという説が有力という。史料には平安時代の学者・大江親通が書いた「七大寺巡礼私記」(1140年)に初めて登場した。「太子俗形御影一輔、件御影者唐人筆跡也。不可思議也」と記す。法隆寺側が大江に見せたのだろう。

 鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が寺伝や聖徳太子の秘伝などを集大成した「古今目録抄」(別名「聖徳太子伝私記」)の上巻(1238年)には、唐本御影の名の由来が記されている。それによると、唐人が2本を描いて1本を日本にとどめ、もう1本は本国に持ち帰ったとし「故言唐本御影と」としている。

 法隆寺は聖徳太子と推古天皇が用命天皇の病気平癒を祈願して建立し607年に完成したといわれる。当初の信仰の対象は太子が胎内から持ってきたという舎利。太子にまつわる有名な寺院にはほかに、太子が建立した最古の寺といわれる四天王寺(大阪市)、太子の墓所がある叡福寺(大阪府太子町)がある。

 平安時代以降、太子信仰が高まる中で、四天王寺では1007年に太子自身の言葉が記され手形も押された「御朱印縁起」が見つかった。さらに叡福寺では1054年、石に刻まれた「聖徳太子御記文」が発見された。ただ、いずれの〝発見〟も伊藤氏によれば「ウソ」。太子信仰の拠点として、より多くの参拝客を集めるために捏造されたというわけだ。

 一方「2寺に出遅れた法隆寺は正真正銘、聖徳太子の寺であることの証しとして唐本御影を利用した」。法隆寺の記録「嘉元記」(1305~64年)によると、1325年、法隆寺領だったという播磨の国の荘園「鵤庄(いかるがのしょう)」を巡る争論の際には「法隆寺の立場を通すため、幕府を威圧する道具として唐本御影を鎌倉まで持ち出した」。

 江戸時代に入ると、唐本御影は1694年(元禄7年)江戸での出開帳に出された。「それが評判を呼んで閲覧希望が殺到したため、寸分違わぬ精巧な写しが幽竹によって作られたのではないか」。それ以降、唐本御影の原本、または幽竹の写しを参考にしたとみられる肖像が次々に描かれ、芸能の世界でも聖徳太子が登場する演目が作られた。

 「江戸時代、唐本御影に描かれた太子像の絵柄はチラシなどにも使われ、随分活躍したに違いない。だが、明治時代に入って皇室に献上されると、それ以降、人々の目から次第に遠ざけられ秘匿されたのではないだろうか」。伊藤氏はこう推測している。

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