く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<柳沢文庫歴史講座> 「徳川将軍家の大奥 大名家の奥向」

2014年11月30日 | 考古・歴史

【畑尚子さん講演、「強い発言力で、政治的交渉の一翼を担っていた」

 柳沢文庫(大和郡山市)主催の歴史講座が29日、やまと郡山城ホールで開かれ、日本近世史研究家の畑尚子(ひさこ)さんが「徳川将軍家の大奥 大名家の奥向」と題して講演した。大奥といえば将軍以外の男子禁制。時代劇などの影響もあって嫉妬や敵愾心が渦巻く所という印象が強いが、畑さんは「決して〝籠の鳥〟のような所ではなかった」「強い発言力を持ち、難しい政治的交渉の一翼も担っていた」と指摘する。

      

 畑さんは江戸東京博物館・江戸東京たてもの園の学芸員。大奥・奥向に関心を抱いたのは、大和郡山藩の第2代藩主・柳沢信鴻(のぶとき)の『宴遊日記』で奥女中を召し抱える際、歌舞音曲の面接試験をしていたことを知ったのがきっかけという。著書に『徳川政権下の大奥と奥女中』『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』などがある。

 「江戸時代には将軍家や大名家に限らず、商家・名主などに至るまで、ハード(屋敷の構造)・ソフト(運営)の両面で、奥と表という二重構造で構成されていた」。江戸城だけでなく、御三家や加賀前田家、薩摩島津家などの大大名家の奥向も大奥と呼ばれた。江戸城には本丸と二丸、西丸の3カ所に大奥があったが、単に大奥といえば本丸を指す。そこには大奥を取り仕切る老女を筆頭に多くの奥女中が置かれた。

 畑さんは大奥・奥向の役割として以下の4つを挙げる。①世継ぎを産み養育する②贈答儀礼を中心とする交際③法事・祈祷など寺社に関すること④表だけで達成することが難しい、その家の政治的交渉の一翼を担う。このうち②は幕府によって諸大名に参勤交代などの際、御台所(将軍の正室)と老女・表使(おもてづかい)に白銀を献上するよう義務付けられたもの。「すべての藩の表向から大奥へなされた行為で、賄賂性はなかった」。

 献上する白銀の枚数は大名の石高によって決められていた。30万石なら老女に3枚、表使に2枚、10万石以上なら老女2枚、表使1枚、10万石以下なら老女1枚、表使に金200疋――。15万石だった郡山藩の第3代藩主柳沢保光は文化2年の参勤交代の際、この取り決めに従って御台所に白銀5枚、老女5人に各2枚、表使6人に各1枚を献上している(写真㊨「柳沢史料」参照)。柳沢家からは将軍の代替わり、官位昇進、家督相続・隠居の際にも白銀が献上された。

 御三家・御三卿と将軍の姫君が嫁いだ大名家など姻戚関係のある特別な藩は、年中行事や将軍家の儀礼の際に女使(御城使)と呼ばれる使者を大奥に遣わし、祝いの言上や献上を行うこともできた。これらの大名家には大奥からも贈り物があり、相互交流が行われた。「金銭的負担は大きいが、江戸城大奥という一つの政治勢力と結び付くことができた」。

 大奥にはこのほか大名・役人から商人まで、多方面から様々な働き掛けが行われた。「家格の向上や役職の就任、御用獲得などの目的のための贈答行為で、いわば賄賂である」。表立ってお願いできないので、ぜひおとりなししてくだされというわけだ。老女たちにはもちろん幕府から給金も支給されていた。加えて参勤交代などのたびに銀貨をもらったり袖の下まで受け取ったり! 講演を通して、大奥の財力と権力の一端を覗かせてもらった。  

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<天理参考館> 企画展「台湾平埔族のものがたり」

2014年11月29日 | メモ

【「漢民族化」の中で失われた文化遺産の数々】

 天理大学付属天理参考館(天理市)で企画展「台湾平埔族のものがたり―歴史の流れと生活文化の記憶」が開かれている。平埔族(へいほぞく)は漢民族が中国大陸から大挙移住してくる前に、台湾西部で暮らしていた先住民。この企画展では同館が過去に収集した先住民の生活用具や民族衣装、古文書などを展示するとともに、先住民の現状をパネル写真などで紹介している。12月8日まで。

  

 台湾の先住民は東側の山地で暮らしていた先住民も含めると30ほどのグループがあり、そのうち西部の平野部で暮らしていた平埔族は約5万人と推定されている。オランダ撤退後、清朝の時代になって1700年頃から大陸から漢民族が押し寄せてきた。19世紀の記録ではその数、200万~300万人といわれる。「漢民族化」の中で言葉は中国語に変わり、独自の文化や習慣もほとんどが失われてしまった。

 企画展では平埔族のうち台湾中部で暮らすパゼッヘ族と南部のシラヤ族のものを中心に紹介している。祭壇に安置されていた17世紀頃の壷をはじめ、祭祀用や女子礼装用の前掛け(上の写真)、首飾り、口琴(下の写真㊧)、かご類、財布、パイプ、臼(うす)、矢……。2人で仲良くお酒を飲み干すための酒器「連杯」やベッドに吊るす飾りの「剣帯」、新年を祝うかけっこの競走で入賞者に渡す「冠軍旗」なども展示されている。

   

 台湾でも先住民を「原住民族」として法律で保護する制度が作られているという。ただ、平埔族のほとんどは漢民族化がほとんど進まなかった山地の先住民と違って、独自の言語、文化が残っていない。このため、先住民として認めてもらうため、言葉の伝承や儀礼・お祭りの復活、衣装の復元などに取り組んでいるそうだ。パネル写真の中には「熟番は原住民族である」と訴えるものもあった(写真㊨)。「熟番(じゅくばん)」は平埔族を指すかつての呼び名。

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<ハナセンナ(花旃那)> 南米原産の鮮やかな黄花

2014年11月27日 | 花の四季

【流通名「アンデスの乙女」として人気集める】

 マメ科センナ属の常緑低木。9月から11月頃にかけて径3cmほどの鮮やかな黄色の5弁花を多く付ける。学名「カッシア・コリムボーサ」。属名「センナ(旃那)」の語源はラテン語の「Senna」で、生薬として葉や豆果が下剤に用いられたり健康茶に含まれたりする薬用植物。ハナセンナの名前はセンナの仲間で花を観賞用として楽しむことからの命名とみられる。

 原産地は南米のアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルなど。日本には昭和初期に渡ってきたといわれる。国内では「アルプスの少女」ならぬ「アンデスの乙女」という商品名で出回っている。南米を南北に貫くアンデス山脈と爽やかな花色と花姿からの連想から付いた名前だろう。

 センナ属の植物は花が少なくなる時期に次々と咲き続けることもあって人気が高まっている。主な仲間にコバノセンナ(小葉の旃那)、ハネセンナ(羽旃那)、モクセンナ(木旃那)、フタホセンナ(二穂旃那)など。寒さにやや弱いものが多いが、九州や沖縄など暖地ではモクセンナ(下の写真㊧)やコバノセンナが庭園や公園にも植栽されている。

 

 大分・別府で地獄めぐり中、黄花が満開の木に出会った(写真㊨)。てっきりハナセンナと思い、京都で10日ほど前に撮った上段の写真の代わりに使うつもりだった。ところが、帰宅後調べると花のシベや葉の形から別物と判明。2本の雄しべが湾曲したユニークな形で、葉も先端が尖るハナセンナに対し卵形に丸まっていた。こうした特徴からこの花はコバノセンナの可能性が高そう。ただ、コバノセンナは樹高が高くても3m止まりという。この木が結構大きかったのが少々気がかりだが……。

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<「別府」点景> 温泉の源泉数、湧出量はともに日本一

2014年11月26日 | 旅・想い出写真館

【市内に100カ所超の共同浴場、無料の足湯・足蒸し施設も】

 通称〝別府八湯〟と呼ばれる一大温泉地の別府。源泉数も湧出量も国内ではダントツの1位といわれる。泉質の種類も地球上に存在する11種類のうち放射能泉を除く10種類があり、これまた日本1位という。ちなみに別府に次いで源泉数、湧出量が多いのは同じ大分県内の湯布院。源泉数の3位以下は伊東、熱海、指宿と続く。(写真は国の名勝になっている「血の池地獄」)

 JR別府駅前で出迎えてくれたのが〝別府観光の父〟と呼ばれる油屋熊八翁(1863~1935)の銅像。亀の井ホテル、亀の井バスなどの創業者で、ユニークな銅像の形は熊八が天国から「やあ!」と舞い降りてきた姿をイメージしているとか。熊八は「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」という名キャッチフレーズを作ったことでも知られる。この言葉を造形化したというモニュメントが、商店街の中の「別府市まちなか交流館」の前に立っていた(下の写真㊨)。

 

 市内には100カ所を超える温泉の共同浴場があり、そのほとんどが誰でも100円で入浴できるという。そのシンボル的な施設が駅前の中心街にある市営の「竹瓦温泉」(下の写真㊧)。1879年(明治12年)創業で、その名は竹屋根葺きを瓦葺きに建て替えたことに由来する。地獄めぐりの観光客でにぎわう鉄輪(かんなわ)温泉にも、目抜き通りなどに足湯や足蒸しの施設があった(㊨)。こちらは無料で誰でも利用できる。

 

 「鬼石坊主地獄」は灰色の熱泥が坊主頭のようにブクブクと沸騰する(下の写真㊧)。その一画に敷き詰められた大きな石の間からゴーゴーという大音響とともに噴気が上がる場所があった。「鬼の高鼾(たかいびき)」と名付けられていた。一瞬、御嶽山の噴火が頭をよぎった。「血の池地獄」は明治8年、13年、21年、38年、44年、大正元年、昭和元年、2年と爆発を繰り返してきたという。池の一角に昭和2年の爆発を記念した大きな柱が立っていた。そこには「爆発ケ所 高サ約二百二十米」と記されていた。

 

 明礬(みょうばん)温泉(上の写真㊨)の「薬用湯の花」づくりは江戸時代から約280年の伝統を持つ。「湯の花小屋」と呼ばれるわら葺きの小屋の床に青粘土を敷き詰め、噴気の強さを調整しながら湯の花の結晶をつくる。小屋の周辺から白い湯煙が立ち上り、独特な硫黄の香りが漂っていた。この湯の花の製造技術は8年前の2006年、国の重要無形民俗文化財に指定された。(下の写真2枚は「かまど地獄」)

  

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<「湯平温泉」点景> 石畳の温泉街で放浪の俳人「山頭火展」

2014年11月25日 | 旅・想い出写真館

【戦前は別府に次いで九州第2位の入湯客!】

 湯平(ゆのひら)温泉の開湯は鎌倉時代に遡り、湯布院より古い歴史を誇るという。豊後の名湯といわれる良質の温泉は全国から多くの湯治客を集めた。シンボルの石畳が敷かれたのは約300年前の江戸時代。放浪の俳人・種田山頭火(1882~1940)はここが気に入って「しぐるゝや人のなさけに涙ぐむ」などの名句を残した。いま温泉街では11月恒例の「ゆのひらと山頭火展」が開かれている(30日まで)。

 

 山頭火が湯平に泊まったのは1930年(昭和5年)の11月。「大分屋」という宿に2泊した。河原で洗濯し干した後、ざっと時雨が来た。山頭火は読書中で、川の流れの音もあって気づかなかったが、宿の娘さんが走って干し物を取ってきてくれた。それがよほど嬉しかったのだろう、日記の『行乞記(ぎょうこつき)』にこう記した。「じっさいありがたかった……今夜は飲まなかった、財政難もあるけど飲まないでも寝られるほど、気持ちが良かった」。温泉街の横を流れる花合野川(かごのがわ)は今もゴーゴーと激しい音を立てながら流れる。

 

 『行乞記』には湯平について繰り返し「気に入った」と書いている。「いかにも山の湯の町らしい、石だゝみ、宿屋、万屋(よろづや)、湯坪、料理屋、等々々、おもしろいね」。湯平の温泉水はかつて飲用としても全国に出荷されていた。山頭火は「私もよく飲んだが、これが酒だったら!と思ふのも上戸の卑しさだらう」とも書いた。酒好きの山頭火らしい素直さがにじむ。湯平には多くの文人墨客も訪れた。詩人野口雨情は「わたしゃ湯平湯治の帰り 肌にほんのり湯の香り」、作家の菊池幽芳は「山峡は霧立ち込めて水の音 いよいよ高し雨の湯平」と詠んだ。

 

 温泉街の一角、空色の橋を渡った川のほとりに「山頭火ミュージアム時雨館」があった。無人で入館料は100円。山頭火にちなむ作品の展示ギャラリー兼旅人の創作の場になっており、2つの文机の上に半紙と筆・墨・硯が置かれていた。部屋の片隅に「どうしようもない わたしがあるいている」という山頭火の句と編み笠に僧衣姿が描かれた壺があった。「ゆのひらと山頭火展」は今年で22回目。温泉街のあちこちに由布市在住の画家、武石憲太郎さんが縦長の大きな布に描いた作品などが展示されている。

   

 温泉街には5つの共同浴場があった。いずれも源泉掛け流しで、入浴料200円。そのうちの1つ「中の湯」に入った。この浴場だけは浴室が1つしかないため、奇数日が女性、偶数日が男性の専用。足を少し入れてみると、とにかく熱くて入れそうにない。冷水の蛇口をひねって、しばらくしてどうにか漬かることができた。帰りに気づいたのだが、入り口内側の「お知らせ」の貼り紙に「本浴場は源泉温度が高いため加水しています」と書かれ、その下には「源泉81.9℃ 使用位置47.9℃」とあった。

 

 湯平は約30年前「男はつらいよ」の撮影ロケ地になったことでも知られる。シリーズ30作目の「花も嵐も寅次郎」。マドンナは田中裕子さんだった。温泉街の中ほどにある「みんなの休憩所・石畳の駅」には湯平の全盛期、大正~昭和初期の〝いにしえの写真〟とともにロケの写真も飾られていた。JR湯平駅のホームには「寅さん思い出の待合所」まで造られていた。ただ、駅正面の大きな看板「湯平温泉御宿泊案内」には旅館名が空白になった箇所も多かった。それを眺めていると少し物寂しい思いもしてきた。

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<「湯布院」点景> 冬の風物詩! 盆地をすっぽり包む幻想的な朝霧

2014年11月24日 | 旅・想い出写真館

【観光スポット金鱗湖も紅葉真っ盛り】

 目を覚ますと、窓の外は靄(もや)がかかったような生憎の天候。これじゃ、冬の風物詩の朝霧も期待薄か。そこへ友人が感激の面持ちで戻ってきた。「上は快晴。絶景だったぞ」。えっ、まさか! 朝食を早めにすませ、登山姿に着替えた彼とタクシーで展望スポット、狭霧台(さぎりだい)へ。間に合った。湯布院の町並みが朝霧ですっぽり包み込まれていた。後ろを振り返ると、すぐそこには朝日を浴びる由布岳(1584m)。友人はタクシーでそのまま登山口に向かった。

 湯布院を最後に訪れたのはもうふた昔以上前のことか。前回は車だったが、今回は電車。だから前日、JR由布院駅の駅頭から望む由布岳の存在感には圧倒された。「由布見通り」の名の通り、由布岳はその通りの奥に借景のように悠然と聳えていた。まさに秀峰。金鱗湖はちょうど紅葉真っ盛り。真っ赤に燃えるモミジを背にした橋の上が絶好の撮影ポイントとあって、観光客が順番待ちしていた。

  

 大杵社(おおごしゃ)の大杉(写真㊧)は国指定の天然記念物だけあって圧巻だった。大分県内最大の杉で、樹齢は800年とも1000年ともいわれる。幹の裏側には大きな空洞があった。中は畳を3枚ほど敷ける広さがあるという。境内の一画に由布岳を詠んだ万葉歌碑が立っていた。「よしえやし恋ひじとすれど木綿間山(ゆふまやま) 越えにし君が思ほゆらくに」(作者不詳)。由布岳を詠んだ万葉歌はほかに3首あるそうだ。

 

 大杵社の本社、宇奈岐日女(うなぎひめ)神社の拝殿右側にで~んと居並ぶ杉の切り株3体(写真㊨)の存在感にも圧倒された。1991年9月の台風19号で144本もの杉の木が参道や社殿などに倒伏した。そのうちの大きなものを「御神木の切り株」として鎮座していただいているというわけだ。今でも境内は多くの樹木に囲まれているが、台風被害の前はもっと鬱蒼として昼なお暗く怖いほどだったといわれる。

 この神社は祭神として6柱をお祀りしているが、当初の祭神は宇奈岐日女と考えられている。では宇奈岐日女とは? 諸説の1つに『日本書紀』や『豊後国風土記』に景行天皇とともに登場する速津媛(はやつひめ)ではないかとの説がある。事前に読んだ藤井綏子(やすこ)さんの『古代幻想 旅人の湯布院』には、速津媛は「速見地方の女首長だった」「古い神社はごくしばしば古代の豪族の墓だという事実がある。そのことも、わたしに宇奈岐日女神社=速津媛の墓、との思いを深くさせる」と書いてあった。速見郡にはかつての湯布院町も属していた。

 

 湯布院にはもう1カ所、訪ねたい所があった。興禅院。耶馬溪の「青の洞門」を掘り、菊池寛の『恩讐の彼方へ』のモデルとなった禅海和尚が得度したお寺。かつては一時キリスト教の教会が置かれていたともいわれる。境内に真新しい禅海の像と妻お弓の古い像が並んで立てられていた。その向かい側に「キリシタンの墓」として数体の像が今なお大切に祀られていた。その立て札には「境内にキリシタン教会堂があったのではないかと言われています」と書かれていた。キリシタン大名大友宗麟の下で寺が教会になり、豊臣秀吉によるキリスト教弾圧で再び寺に戻ったのだろう。

 

 

上段㊧由布見通り㊨下ん湯、下段㊧湯布院フローラル・ビレッジ㊨香椎荘=2.26事件のとき戒厳令司令官として反乱軍を鎮圧した陸軍中将香椎浩平の別荘

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<アワコガネギク(泡黄金菊)> 秋の終わりに咲く黄色い可憐な野菊

2014年11月22日 | 花の四季

【かつて群生していた京都・東山の名所から「キクタニギク」とも】

 キク科キク属の多年草。東北の太平洋側から関東、近畿、九州北部などにかけて分布する。10~11月頃、直径1.5cmほどの黄花を付ける。中心の筒状花だけでなく舌状花(花びら)も黄色。茎先に小さな花が多く集まって咲く様子を泡にたとえて、牧野富太郎博士が「泡黄金菊」と名付けたという。

 別名「キクタニギク(菊渓菊)」。このキクが群生し名所となっていた京都・東山の菊渓(高台寺北側)にちなむ。アワコガネギクはかつて各地に自生していたが、最近は生育環境の変化やシカによる食害などで減少している。環境省のレッドブックでは準絶滅危惧種、京都府も絶滅危惧種に指定している。このため京都市都市緑化協会はキクタニギク復活に向け栽培講習会や展示会に取り組んでいる。

 アワコガネギクは「アブラギク(油菊)」と呼ばれることもある。ただ、この名前は本来、西日本に多い同じ花色のシマカンギク(島寒菊)の別名とされる。牧野博士はシマカンギクが島地ではなく山地に多く自生することから、その名前は不適当としアブラギクを正式名にするよう提案した。アブラギクの名は花を油に浸したものを切り傷などに用いたことに由来する。シマカンギクの花は直径1.5~3cmほどで、アワコガネギクよりやや大きい。

 日本在来種の自生地が減少する中で、中国や韓国産のアワコガネギクが帰化し分布域を広げているという。1990年代に道路の法面緑化用として中国などから種子が大量に導入されたことによる。国立環境研究所の侵入生物データベースはその影響として在来種との競合や遺伝的撹乱が懸念されるとしている。

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<橿考研付属博物館> 秋季特別展「飛鳥宮と難波宮・大津宮」

2014年11月21日 | 考古・歴史

【岡本宮南東の「エビノコ郭」は天武天皇が初めて造った大極殿!?】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で、秋季特別展・特別陳列「飛鳥宮と難波宮・大津宮」が開かれている。飛鳥宮跡ではこれまでに170次を超える発掘調査が行われてきた。その結果、最上層の遺構は天武・持統朝の飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)だったとみられている。特別展ではその時期を中心にした様々な遺物・遺跡を通じて、天武天皇が追い求めた宮殿の姿を探る。30日まで。

   

 壬申の乱(672年)の後、大海人皇子(天武天皇)は後飛鳥岡本宮に入り、その南東に宮室を造った。その遺構が見つかった場所の小字から「エビノコ郭」と呼ばれる。その一画にあった大型掘立柱建物の遺構こそ、天武天皇が681年(天武10年)に律令の編纂や『帝紀』『上古諸事』の記定を命じた大極殿ではないかとみられている。大極殿は藤原宮以降、天皇の占有空間となり国家の重大な行事だけに用いられる。(上の写真はエビノコ郭正殿の復原模型)

 会場には浄御原宮の時期の木簡やエビノコ郭の下層から出土した土器類などが展示されている。木簡の中には681年に当たる「辛巳年」と書かれたものや、「大津」「太来」など天武天皇の皇子や皇女の名が記されたもののあった。天武天皇と皇后の持統天皇は浄御原宮で20年余、律令国家としての基礎を築く。この間、中枢施設は斉明天皇の岡本宮を踏襲したもので、エビノコ郭以外は自身の宮殿を造営しなかった。

 

 天武天皇が追い求めた「新城(にいき)」の造営は持統天皇に引き継がれ、藤原京として実現する(694年遷都)。藤原京は十条十坊の正方形で、中央に宮城が位置した。この都づくりは唐や朝鮮三国の影響を受けない独特なもので、中国・周王朝の理想的な制度を記した『周禮(しゅらい)』考工記に記された都城の理想型(上の写真㊨)に基づくといわれる。(写真㊧は藤原宮大極殿=奥の樹木が茂る土壇=造営前の道路跡)

 展示会場の〝エピローグ〟はこう結んでいた。「対唐・新羅戦争で大敗を喫した日本にとって、国家体制の立て直しは急務であった。天武天皇は東アジアにおける国際的地位を確保するため、天皇を中心とする律令国家の建設を推し進めた。宮都は律令国家を象徴する。だからこそ、天武天皇は理想的な姿をめざしたのである」。

 

 会場には飛鳥京跡苑池から出土した「川原寺」との墨書がある土器、甘樫丘東麓遺跡出土の焼けた土器や壁土、難波宮跡出土の金製品や祭祀具なども展示中。川原寺の土器の1つ(写真㊧)には「川原寺の坏であるから取るな。もし取ったら災いが起こるぞ」という内容が書かれていた。甘樫丘出土の焼けた土器類など(㊨)は日本書紀の645年6月条に「蘇我蝦夷等、誅(ころ)されむとして、悉(ことごとく)に天皇記・国記・珍寶を焼く」とあることから、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼした「乙巳(いっし)の変」の時のものではないかとみられている。

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<BOOK> 「つばさの贈り物 ― 本を通して家族と共に分かち合ったよろこびのかずかず」

2014年11月20日 | BOOK

【アニス・ダフ著、大江栄子・間崎ルリ子・渡邊淑子訳、京都修学社発行】

 原書のタイトルは「BEQUEST Of WINGS ― A Family's Pleasures with Books」。最初に出版されたのが1944年というから、今年でちょうど70年前になる。英米の児童書を扱う図書館の関係者にとっては必読書とされてきた古典。訳者3人がこの本に出会ったのは20年以上前のことだった。いずれも神戸や大阪の図書館や自宅の家庭文庫などで児童書に関わってきた。毎月1回集まって読み解くうち、この本をもっと多くの人と分かち合いたいとの思いが募って刊行にこぎ着けた。

    

 著者アニス・ダフはカナダのトロント近郊の生まれ。学校卒業後、図書館に2年間勤務した後、書店の児童書部門の主任を務める。音楽教師の男性と結婚後、米国イリノイ州に移って2児に恵まれる。1930年代後半から40年代初めにかけ、子どもたちの成長に合わせて共に本を楽しんだ記録を次々に発表、それが出版社の目に留まって出版に至った。その後、アニスはニューヨークに移り、出版社で児童書の名編集者として20年近く活躍した。

 本書は「家族の行事として」「子ども部屋で楽しむ詩」「ことばの楽しみ」「笑いをもたらす本」など15章で構成する。巻末の索引に本書に登場する童話などが50音順に紹介されているが、その書名や作品名を合わせると250点余に達する。その中には『クマのプーさん』『ちびくろさんぼ』『不思議の国のアリス』など日本でもおなじみの童話も多く含まれている。

 子どもが最初に出会う本で、本当に良い本とはどんな本だろうか? 著者は体験から「絵が子どもの毎日の生活の中で目にするものを、くっきりと、美しく、生き生きと、力強く、そしてユーモアと魅力をもって描き出しているもの」とし、「こうした絵は日常目にふれるものを画家の想像力で輝きを与えて見せてくれる」という。

 そのくだりを読みながら、奈良のある図書館の入り口にあった貼り紙を思い出した。『「よい絵本」とは』というタイトルで、そこには「作家、画家たちが文字通り情熱を注いだ作品で、子どもたちの年齢にあっていること、理解しやすく、楽しく、正確な内容と美しい絵と文章、そして子どもの興味、関心をひくもので読書の原点となること」とあり、末尾に「全国学校図書館協議会」と書かれていた。

 著者の長女は多くの本と接するうちに、本の一節をうまく会話の中に引用するようになった。3歳になったばかりの頃、おもちゃを片付けずにぐずぐずしていた娘に、父親がしびれを切らし「早くしろ!」とどなった。すると、娘は静かな声で「と、とてもおおきなトロルが言いました」と言ったとか。その光景が目に浮かぶ。

 本書から「大きな刺激と喜びと励ましを得た」という訳者たちは「あとがき」にこう記す。「夫婦、子どもで成り立つ家族のなかで、本と自然、そして音楽や絵画といった芸術、つまり人間の想像力の翼の羽ばたきから生み出された良きもの、美しいもののかずかずがこのように自然に好ましく結合し、楽しまれ、子どもたちが豊かな精神性を得てゆくということは、なんとうれしいことでしょう」。図書館関係者だけでなく、小さなお子さんを持つ親御さんにもぜひ一読してほしい1冊である。

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<センニチコウ(千日紅)> 江戸時代から栽培されドライフラワーにも

2014年11月19日 | 花の四季

【原産地は熱帯アメリカなど、別名「センニチソウ」「ダルマソウ」】

 ヒユ科の春蒔き1年草。熱帯アメリカやインドなど南アジアの原産で、日本には江戸時代前期に渡来してきたといわれる。花期は7~11月ごろ。次々に花を付け、ドライフラワーにしても長期間色が褪せないことから「千日紅」の名前が付いた。「センニチソウ(千日草)」とも呼ばれる。

 真ん丸い花の形から「ダンゴバナ(団子花)」や「ダルマソウ(達磨草)」「テマリバナ(手毬花)」「センニチボウズ(千日坊主)」といった別名もある。ただ、花のように見えるのは花の基部を包む苞葉が発達したもの。花自体は小さく目立たない。花もちが良く鮮やかな花色を長く保つのはケイ酸を多く含むことによるらしい。

 外来植物にもかかわらず、江戸時代から様々な園芸書や事典で取り上げられ注目を集めてきた。古典園芸書『花壇地錦抄』(1695年)は「千日向」の名前で「陰干しすれば色が変わらず重宝なもの」と紹介しいる。当時からドライフラワーとして利用されていたようだ。『花壇綱目』草稿本(1664年)や貝原益軒の『花譜』(1694年)でも紹介されている。

 日本では渡来以降、仏花として親しまれてきたが、西洋でも「不死の花」「永久花」として乾燥した花を墓地に供えたり、インテリアとして室内に飾ったりしてきたという。花言葉は「色褪せぬ恋」「変わらぬ愛情」など。近縁種に草丈がやや高いキバナセンニチコウ(ハーゲアナ系)があり、その1種「ストロベリーフィールド」がイチゴのような鮮やかな花色で人気を集めている。「千日紅遺影の母のいつも笑み」(樺山翠)。

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<きよめの滝> 大神神社のそばに隠れ家のような〝お接待〟スポット!

2014年11月17日 | アンビリバボー

【「山辺の道」との分岐からわずか徒歩3分余り】

 16日、久しぶりに大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)に参拝した。日本最古の神社の1つで、背後の三輪山をご神体とする。拝殿でお山に向かって拝んだ後、白蛇が棲むという「巳(み)の神杉」、祈祷殿、宝物収蔵庫、摂社の狭井(さい)神社などを巡る。その後、狭井神社の鳥居を右手に折れ、緩やかな山道を登ると行場の「きよめの滝」と「辰五郎大明神」があった。そこは隠れ家のような〝お接待スポット〟だった。

 

 場所は市杵島姫(いちきしまひめ)神社の池の裏手の山道を3~4分ほど歩いた所。分岐で道を逆の左に取ると「山辺の道」で石上(いそのかみ)神宮(天理市)に到る。山道の左側では水路の工事中だった。右側には赤いよだれ掛けをした地蔵菩薩や小さな祠の「菊龍大神」、お不動さんが並ぶ。菊龍大神の中をのぞくと、とぐろを巻いた白い蛇が絡み合うように祀られていた。

 「きよめの滝」には茶店風の一軒家があった。ガラス戸が開けられ、電気もついたままだが、どなたも居られない様子。貼り紙にこう書かれていた。「初めて訪れてくださった方 なんらかのご縁があって訪れてくださったことを嬉しく思います……高い所まで登って来てもらったことの御礼に、お茶の無料接待をしています」。そばの石段を下りていくと、4~5mの高さから水が落下する行場があった。注連縄が張られ、緑色のバケツが水を受け止めていた。滝の裏手に赤い鳥居が林立する「辰五郎大明神」が鎮座していた。辰五郎って? 入り口両脇には巻物と宝珠をくわえたお狐さん。ということは商売繁盛のお稲荷さんだろうか。

 

 

 ゆっくり回って山道を下り始めたところで、登ってくる1人のご婦人に会った。「きよめの滝」を管理している村上道代さん(昭和21年生まれ)だった。「お茶でもいかがですか」。お言葉に甘えて戻ると、温かいコーヒーと茹で卵が出てきた。早速、辰五郎についてお話を伺った。それによると、この人物はどうも江戸時代の大坂の豪商、淀屋の5代目らしい。淀屋といえば淀屋橋に名を留め、淀屋辰五郎は幕府によって闕所(けっしょ=財産没収)処分にされたことで知られる。諸大名に大金を貸し付けるなど、その莫大な財力が幕府に目を付けられたともいわれる。

 行場には夏場を中心にお山に登る前に身を清めたり、山から下りてきて滝に打たれる人がいるそうだ。大阪方面から毎月決まった日の夜間に訪ねてくるグループもあるという。山道の途中に祀られた「菊龍大神」のことから、蛇についてもお話を伺った。この辺りではよく大きな蛇を見かけ、抜け殻も多いとのこと。長さが2mほどあるというから、アオダイショウだろうか。最初は怖かったが、最近は慣れてしまったとのこと。訪ねてくる常連からは「お守りにするから抜け殻を見つけたら、取っておいて」と頼まれているという。

 

 室内に「長寿の心得」が貼られていた。「還暦 六十才でお迎えの来た時は只今留守と言へ」「古稀 七十才でお迎えの来た時はまだまだ早いと言へ」……。お話は健康問題などにも及んでつい長居し、気がつくと約1時間が過ぎていた。いいお話を伺ったうえ、帰り際には「みんなの行場 きよめの滝」と緑色で印字されたタオルまで頂いた。心がほっこりと癒されるひと時だった。帰途、小高い丘から望んだ夕暮れの二上山や大和三山が実に美しかった(写真左端の山は耳成山)。17日午前中には「全国豊かな海づくり大会」で来県中の天皇・皇后両陛下が大神神社を参拝されるという。 

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<BOOK> 『日本の巨樹 1000年を生きる神秘』

2014年11月16日 | BOOK

【高橋弘著、宝島社発行】

 著者高橋氏は1960年山形県生まれ、北海道育ち。巨樹写真家として活躍する傍ら、東京の奥多摩町日原森林館の解説員・調査員、環境省の巨樹データベースの管理者を務める。「東京巨樹の会」を主宰、「全国巨樹・巨木林の会」「日本火山学会」の会員でもある。著書に『巨樹・巨木をたずねて』『神様の木に会いに行く』など。

    

 高橋氏が巨樹に魅せられ〝巨樹巡礼〟を始めたのは1988年に会津で巨木に出会ったのがきっかけという。以来、訪ね歩いた全国の巨樹は幹周5mを超えるものだけでも3200本を超える。「それぞれの巨樹に個性があり、歴史があり、表情がある」「巨樹とのすべての出会いが一期一会の感動的な体験」。本書では「あまり日の目を見ないが素晴らしい個性を持った巨樹たち」にもスポットを当てている。

 最初取り上げるのは「圧倒的なオーラに人生が一変 神宿る巨樹12選」。まず菅山寺のケヤキ(滋賀県)。山門のそばに樹齢1000年余といわれる巨樹2本が阿吽の仁王像のように並び立つ。ほかに表紙を飾る西善寺のコミネカエデ(埼玉県)、加蘇山の千本かつら(栃木県)、山高神代ザクラ(山梨県)、洞杉(富山県)、小野のシダレグリ(長野県)など。いずれも圧倒的な存在感だ。

 続いて北海道・東北から南へ、心に訴えかけてくる〝100体〟を順に紹介する。喜良市(きらいち)の十二本ヤス(青森県)、三春滝桜(福島県)、賀恵渕のシイ(千葉県)、月瀬の大杉(長野県)、岩屋の大杉(福井県)、平湯大ネズコ(岐阜県)など。近畿では高井の千本杉(奈良県)や祇園杉(京都府)、和池の大カツラ(兵庫県)など12体を取り上げている。中国や四国、九州では川棚のクスの森(山口県)、杉の大杉(高知県)、仲間川のサキシマスオウノキ(沖縄県)など。

 筆者によると「日本は巨樹大国」。国土が南北に長く降水量が多く、様々な気候が存在するため、多種多様な樹種が育つ。北海道で多く見られるのはイチイやカツラ、東日本ではスギやケヤキ、シイノキ、カツラ、西日本ではクスノキ、カシ、シイノキなど。巨樹は深い森の中に多く存在すると思いがちだが、森林内は生存競争が熾烈なため、思うほど巨樹を見ることが少なく、むしろ人里近くの社寺にある場合が多いという。本書に登場する巨樹にも注連縄を飾られたものが目立った。

 解説板に書かれた樹齢は実態より大きな数値が記載されていることが多いそうだ。「一番手っ取り早くて適当と思われる樹齢は解説板にある樹齢表記の半分の数値」。巨樹を目の前にすれば誰もが直接木肌に触ってみたいと思うはず。「木も人との触れ合いを望んでいる」と筆者。だが、最近は周囲を柵で囲うことが多くなった。中には鋼鉄製の3mもの高い柵で囲んだケースもあったという。「『困る』という漢字は『木』を国構えで囲んでしまっていて困る――。まさにその通りだと感じざるを得ない」。なるほど!

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<柳沢文庫> 企画展「柳澤家伝来の史料と水木コレクションの世界」

2014年11月15日 | メモ

【郡山藩の藩祖吉保の没後300年を記念、綱吉の書付や公用日記など展示】

 今年は郡山藩主・柳澤吉保(1656~1714)の没後300年に当たる。その節目を記念した企画展「柳澤家伝来の史料と水木コレクションの世界」が柳沢文庫(大和郡山市城内町、写真㊨)で開かれている。徳川5代将軍綱吉が吉保に領地を与えることを明記した書付や綱吉筆の「鷹図」、県指定文化財に新しく登録された吉保の公用日記「楽只堂(らくしどう)年録」などが展示されている。

     

 吉保は綱吉に重用され、小姓から側用人、さらには15万石余の城持ち大名と異例の出世を遂げた。初公開の「御秩禄(おんちつろく)御拝領之記」は綱吉が吉保に与えた書付を後年、軸装に仕立て直したものとみられる。書付2枚のうち1枚には甲州と駿州、もう1枚には武州羽生、和州、江州、作州の国名とそれぞれの領高が記されている。

 将軍が大名に所領を与える場合、通常は「領地宛行(あてがい)朱印状」を交付する。ただ、吉保の日記「楽只堂年録」によると、これらの書付は朱印状発給以前に、将軍が自ら袂から取り出して吉保に渡したという。しかも甲斐国と甲府城を徳川一門以外に与えるのは初めて。書付は側用人としての務めを全うする吉保への綱吉の信頼の厚さを物語る。

 吉保が将軍に献上した時服(四季に応じて着る服)への答礼の手紙「徳川綱吉御内書」2枚も展示中。その1枚には「為端午之祝儀 帷子単物数三 到来歓思召候……」と記され、5月3日の日付の下に綱吉の大きな黒印が押されていた。綱吉筆の「鷹図」は太い枝を両足でしっかとつかみ、眼光鋭く左方向を見据える構図。綱吉は水墨画が得意だったという。吉保筆の書「忠信」もその絵の隣に並ぶ。

 この企画展では大和郡山市の市制施行60周年に合わせ、同市ゆかりの文人、水木要太郎(雅号=十五堂、1865~1938)が収集した江戸時代の古文書など「水木コレクション」も同時に展示している。その1つ「南都大仏修復勧進帳」(1685年)は郡山観音寺町での勧進で寄付をした人々の名前を列挙したもの。江戸時代の奈良の観光地図「和州南都之図」(1778年)、「南都町中記」(1837年)なども展示されている。

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<ネリネ> キラキラ輝く花弁から「ダイヤモンドリリー」とも

2014年11月14日 | 花の四季

【南アフリカ原産、ヒガンバナに似た花姿】

 南アフリカ原産で、約30種といわれる原種のほとんどがケープ地方に自生するといわれる。ヒガンバナ科(クロンキストという分類体系ではユリ科)の球根植物。種間交雑が容易という特徴を持ち、英国やオランダ、米国などで「サルニエンシス種」や「ボウデニー種」などをもとに様々な園芸品種が作り出されてきた。

 属名のネリネはギリシャ神話に登場する海の女神「ネレイス」に由来する。開花はヒガンバナより1~2カ月遅く、10~11月頃にすくっと伸びた30~40cmの茎の先端に5~10個の華やかな花を付ける。花色は白、赤、紫、ピンク、オレンジなど多彩。日当たりを好み、日に当たると光沢のある花びらがキラキラ輝くことから、英名では「ダイヤモンドリリー」と呼ばれる。

 花姿がヒガンバナに似ていることから、ネリネの1種「ウンドゥラータ種」には「ヒメヒガンバナ」の和名が付けられている。また属名そのものも和名で「ヒメヒガンバナ属」と呼ばれることもある。日本には大正時代に渡ってきたが、最初にヒガンバナの仲間とみられたためだろう。ネリネはネリネ属、ヒガンバナはヒガンバナ属。科は同じでも属は異なる。

 ネリネはその花の形だけでなく、開花する頃に葉がほとんどないこともヒガンバナによく似る。そのためヒガンバナの不気味、不吉といったイメージとも重なって、長く敬遠され普及することがなかった。しかし、近年は豊富な花色や花もちがいいことなどから人気が高まっており、鉢植えのほか切り花、ブーケ、アレンジなどにもよく利用されるようになった。

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<哲学の道> ネコ・ネコ・ネコ、屋根付きワゴン車内でスヤスヤお眠り!

2014年11月13日 | アンビリバボー

【10匹余が押しくらまんじゅう、ネコ好きの観光スポットに】

 久しぶりに京都の「哲学の道」を歩いた。疎水の流れとは逆に北の銀閣寺橋から南へ。平日の午後。散策する人はさほど多くないが、海外からのお客さんの姿が目立つ。〝終点〟の若王子橋に近づいた時、アンビリバボーの光景に遭遇! 欧米の街角で見かけるようなワゴン車の中でネコが昼寝をしていた。その数が半端じゃない。前に大きなネコが2匹、後ろには10匹余りの子ネコたちが押しくらまんじゅう状態で気持ち良さそうに昼寝していた。

 「なに、これ!」「生きているよねえ」――。観光客が次々に集まっては携帯などで写真に収めていく。近くの路上やベンチ脇にも何匹ものネコがいた。と、ワゴンから一匹のネコが飛び出した。続けとばかりにネコたちが次々にレンガ造りの塀の上にジャンプし路上に下り立つ。その先では自転車でやって来た若い男性がキャットフードをやり始めていた。十数匹いたワゴンの中はいつの間にか空っぽに。

 

 膝の上に三毛猫を乗せ撫でている男性がいた。話を伺うと、台湾・高雄出身の30歳の方で、最初ここに来たのは日本語学校に通っていた3年前という。今は京都のホテルで働いているが、休日を中心に週に2~3回は来ているそうだ。この日はネコ用の缶詰3個と大きな袋入りのキャットフードを持参していた。自宅でもネコを1匹飼っているという。「ここはネコ好きにとって楽園。いつも癒されています」と話していた。どのネコも毛並みが良く、栄養状態も良さそう。餌や水に不自由せず、みんなに可愛がってもらえる。ネコたちにとっても楽園なのだろう。

 

  

 その男性によると、ネコたちは哲学の道から階段を下った所にあった古い喫茶店をねぐらにしているらしい。そういえば、ワゴンの前に「憩いの喫茶店 若王子」という看板が立ち、ワゴンにも「本日は休ませて戴きます」という表示がそのまま掛かっていた。その「休ませて戴きます」の表示の下でぐっすり休むネコたちの姿がなんとも微笑ましい。

 ネット情報によると、その喫茶店を経営していたのは俳優の栗塚旭さん(1937年生まれ)。『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』などテレビや映画、舞台で長年活躍している、あの栗塚さんだ。自宅として購入した敷地の一角で1972年に開店し、観光客の人気を集めていた。だが、店を手伝っていた義姉の死去などもあって12年前の2002年に休業したという。ネコ好きを中心に〝ネコスポット〟として注目を集める場所だけに、その店が廃業状態のままなのは少々惜しいような気もする。

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