【千葉正昭著、社会評論社発行】
著者は1952年宮城県生まれ。高校教諭を18年、仙台高専で助教授・教授を12年務めた。著書に「記憶の風景―久保田万太郎の小説」や「技術立国ニッポンの文学」(共著)など。「薬と文学」なかなかユニークなテーマだが、執筆理由も変わっている。あとがきに①数年前から降圧剤をのむようになった②次男が薬剤師を志していた③薬学や医学研究者も参加した読書会を通じて薬が身近な存在になった――などを挙げる。
著者は読書会で文学研究がどう現代生活に関わりや意義を持つか質問され、返答に窮したことがあったという。そこで「文学についての研究や批評が、現代生活と無縁ではないことを説明するため、その切り口の一つに<薬>を使って説明したい欲求を覚えた」。本書誕生の背景には実はこの欲求があったからだろう。ただ医薬系は門外漢。出版までに6年の歳月を要した。
本書では有吉佐和子の「華岡青洲の妻」や泉鏡花の「外科室」、松本清張の「点と線」、奥田英朗の「オーナー」など文学作品12点を取り上げた。作品中に登場する麻酔薬やモルヒネ、青酸カリ、抗がん剤、パニック障害などについて多くの専門書に当たり医師や研究者にも取材を重ねて、それぞれの作品の中で重要な役割を果たす薬や病気について掘り下げた。
「華岡青洲の妻」では青洲が薬草を調合した薬湯をのんで妻加恵が失明する。この薬湯はのちに「通仙散」と呼ばれたもの。筆者は失明について「一つは薬理成分の副作用であり、もう一つは現代社会に当てはめれば治験の問題につながるかもしれない」と記す。猫や犬への麻酔薬の実験は成功していたものの、「青洲自身、人体実験での重篤な副作用までは予知し得なかったといってよい」。
「点と線」では作品が発表された昭和30年代前半に青酸カリなど毒物・薬物を使った事件が多発し、生産ソーダなど工業品の生産高も飛躍的に増加していたという時代背景に切り込む。リリー・フランキーの「東京タワー」は主人公のボクとがんと闘うオカンの物語。作品中に何度も「ぐるぐるぐるぐる」という擬態語が登場する。「慰めも、希望も、安易に語れないとき、ボクは擬態語の空間に逃げ込む」。ミュージシャン福山雅治がこの物語に共鳴し帯に推薦文を寄せたことも、著者は「この感覚的・感性的な擬態語の多用と無縁ではなかったのではないか」とみる。
奥田英朗の「オーナー」は発行部数日本一の新聞社の会長でプロ野球チームのオーナーが主人公。たびたびパニック障害に襲われ医師から抗不安薬を処方される。このパニック障害は働き盛りに多く、放置し慢性化するとうつ病に移行することも多い。主人公はその根本的な原因は役職に執着する心ではないかと気づき、第一線から退くことによって快方に向かう。
12本目として取り上げるのは小説以外では唯一の林宏司脚本「感染爆発」。2008年にNHKテレビで放映されたもので、パンデミック(インフルエンザの世界的大流行)をもたらすウイルスの恐怖を描いた。著者はカミュの「ペスト」と比較しながら、「個人が描き出す社会への関わり方と同時に、ウイルスの恐怖と戦う医療人たちの桎梏と葛藤とを重ね、更に政治がどこまで危機的感染症の防疫に対処出来るかなどを語って興味深い」と記す。「ウイルスもしぶといが、人間も案外しぶといもんだ」。ドラマ最終章での医師の呟きが印象深い。