く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<飛鳥資料館> 冬期企画展「飛鳥の考古学2017」

2018年01月30日 | 考古・歴史

【飛鳥・藤原地域での2015~16年度調査の成果を一堂に】

 国立文化財機構奈良文化財研究所の飛鳥資料館(奈良県明日香村)で、冬期企画展「飛鳥の考古学2017」が始まった。奈良県立橿原考古学研究所、明日香村教育委員会との共催。飛鳥・藤原地域で2015~2016年度に行われた小山田遺跡、飛鳥寺西方遺跡、藤原宮跡など7カ所の発掘調査の成果を、出土品や写真パネルなどを使って詳しく紹介している。3月18日まで。

 会場で最も目を引くのが中央のガラスケースに納められた馬の頭蓋骨。藤原宮大極殿の南方前面の調査で、造営期の資材運搬用の下層運河から大量の土器(下の写真㊧)や牛の骨などとともに出土した。いずれも頭蓋骨が割られた状態で見つかっており、死後に脳を取り出した痕跡とみられる。奈良時代の「養老律令」(757年施行)の厩牧令には、官の馬牛が死んだら皮や脳、角、胆嚢を取るよう規定されている。脳は近現代まで動物の皮をなめすときに用いられた。割られた馬の頭蓋骨の出土は律令制定以前からその習慣があったことを示し、後にそれが条文化されたのではないかと推測されている。

 

 藤原宮で重要な儀式や政務が行われた朝堂院の〝朝庭〟と呼ばれる中央の広場からは、大宝元年(701年)の元日朝賀の際に幢幡(どうばん)を立てたとみられる7つの大きな柱穴が見つかった。会場には幢幡3基(烏形幢・日像・月像)の復元模型を展示中(上の写真㊨は烏形幢の頂上部分)。藤原宮跡の大極殿院内庭の調査では、大極殿南面の階段遺構も確認された。縄文~平安時代の複合遺跡、瀬田遺跡からは藤原京期の遺構の下から、弥生時代終末期の大型円形周溝墓が見つかり、周溝南側に台形の陸橋が付いていることも明らかになった。後に登場する前方後円墳の原型ともみられている。周溝からは弥生時代の多数の土器(下の写真㊧)や脚付きの編みかごも出土した。

 

  甘樫丘の南端部に位置する小山田遺跡からは貼石を施した大規模な掘割が見つかり、一辺70mほどの方墳で大型の横穴式石室を持っていた可能性が高まっている。舒明天皇の初葬墓ではないかとの説もある。昨夏の調査では石室内の羨道(せんどう)の一部も確認された。日本書紀に登場する「槻木(つきのき)の広場」があったとみられる飛鳥寺西方遺跡からは石組みの溝や物見櫓か楼閣のような掘立柱の建物跡が見つかった。企画展会場の隣接場所では高松塚古墳の解体事業を紹介するコーナーが設けられ、壁画が描かれた原寸大の石室模型も展示されている(上の写真㊨)。中に立ち入ることもできる。

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<桜井市立埋文センター> 企画展「ウチの土器、ヨソの土器」

2018年01月26日 | 考古・歴史

【纒向遺跡などから出土した古墳時代前期の外来系土器】

 奈良県桜井市の市立埋蔵文化財センターで企画展「ウチの土器、ヨソの土器~古墳時代前期の外来系土器」が開かれている(4月15日まで)。三輪山西麓の纒向遺跡など古墳時代前期の古墳群が分布する桜井市内からは、様々な地域の土器が大量に出土している。その範囲は瀬戸内海沿岸や山陰、北部九州、東海、北陸などにまたがり、近年、朝鮮半島製とみられる土器も見つかった。膨大かつ広範な〝外来系土器〟の出土は当時の活発な人と物の流れを映すとともに、この地域が中心的な役割を果たしていたことを物語る。

 外来系の〝ヨソの土器〟には大和以外の地域の土や技法で作られ運び込まれた土器のほか、他地域の影響を受け地元の土で作られた土器も含まれる。上の写真は纒向遺跡から出土した外来系土器。一口に外来系といっても、当然、各地域の土器には特徴がある。四国の土器のうち阿波地域のものは赤みがかった色をし、上部に成形したときの指の跡が残っている。ホケノ山古墳から出土した壷は工人が四国から大和に移って作ったとみられる。山陰の出雲国や伯耆国で作られた甕は口縁部が上下二段の複合口縁になっているのが特徴。

  

 東海地域の土器を代表するものに口縁部の断面が「S」の字形になっている甕がある。「S字状口縁台付き甕」と呼ばれる(上の写真㊧)。底に脚部が付けられているのも特徴の一つ。近江地域の甕や壷は口縁部が折り曲がった受け口状で、口縁部や体部には櫛描文やへら描文が施されている。北陸地域の〝装飾器台〟は土器を載せる器台に装飾を施したもの。纒向遺跡からは朝鮮半島から運び込まれたとみられる韓式系土器5点も見つかっている。

 

 奈良盆地の土で作られた地元大和の〝ウチの土器〟(上の写真㊧)は、古墳時代前期初頭の3世紀前半のものが「庄内式土器」、その後の3世紀後半~4世紀後半のものが「布留式土器」と呼ばれる。甕を比較すると、庄内式は成形時に表面を板状の工具で叩いた〝タタキ〟の跡が見られるのに対し、布留式は表面を〝ハケメ〟と呼ばれる薄い板状の工具でなでつけた線が見られる。また底部は庄内式が尖り気味なのに対し、布留式は丸底になっているという違いもある。(写真㊨の左側が庄内式の甕、右側が布留式の甕)

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<BOOK> 「人生の気品」

2018年01月24日 | BOOK

【新日本出版社発行、著者=草笛光子、赤川次郎ら15氏】

 『しんぶん赤旗日曜版』の連載「この人に聞きたい」(2014~17年)に登場した著名人のインタビュー記事を加筆・修正したもので、16年に発行した『人生の流儀』の続編。今回も作家や俳優、映画監督、写真家、漫画家、物理学者など各界の一線で活躍する15人を取り上げている。女性が草笛光子、鳳蘭、渡辺えりら6人、男性が赤川次郎、宝田明、周防正行、梶田隆章ら9人。人生の転機や仕事にかける情熱、戦争や平和への思いなどを、苦労話やエピソードも交えながら率直に語っており、有名人の知られざる一面を垣間見ることもできる。

       

 長年、舞台・映画・テレビで活躍してきた草笛光子さんは「声量を自在に調節するには、背筋、腹筋が欠かせません。1に筋力、2に筋力です」と語る。「70代でも80代でも、いつまでたっても人生の〝新人〟なのではないでしょうか。いつだって転機。『新しく出発だわ』と思っています」とも。草笛さんは日本ミュージカル界の第一人者。本書の中で宝田明さんも草笛さんとブロードウェーで『マイ・フェア・レディー』を観劇した際のエピソードに触れている。草笛さんは人生の軌跡を日本経済新聞朝刊の「私の履歴書」でいま長期連載中。

 映画監督周防正行さんの代表作にあの『Shall we ダンス?』。「電車を降りてダンス教室という知らない場所に足を踏み入れたら、どういう世界が広がっていくか。そういうサラリーマンの冒険物語が、この映画のテーマだったんです」。作品の中には冤罪の痴漢事件を題材とした『それでもボクはやってない』もある。「裁判官や裁判員制度など、司法に関するテーマは今後もやりたい。僕のライフワークです」。『Shall we ダンス?』では本書に登場する渡辺えりさんもオバサンダンサー役で名演技を披露した。劇団「オフィス3○○(さんじゅうまる)」を主宰し演出家・劇作家としても活躍中の渡辺さんは「自分の演劇では、お客さんに『よし、明日もがんばろう』と思ってもらえるよう、連帯のエールを送りたい」と話す。

 前進座の看板役者で、2016~17年の創立85周年特別公演『怒る富士』で主役を演じた嵐圭史さんは「一に情熱、二に体力、三、四がなくて、五にいささかの知恵」をいつも自分に言い聞かせているそうだ。俳優・作家の高見のっぽさんは子どもを「小さいひと」と呼ぶ。幼少時に「私を悲しませたり痛めつけたり無作法で思い上がったりするようなおとなにはなりたくない」。だから子どもにも「言葉づかいも接し方も、自分の持っているうちの最高の礼儀正しさで敬意を表します」。ノーベル物理学者の梶田隆章さんは「国立大学法人化以降、多くの大学が急激に弱体化し、研究力が落ちています。手遅れになる前に、研究力回を打つことが必要」と、日本の研究環境への危機感を訴える。

 登場人物の中には出征したり幼少時を戦地で過ごしたりした人も多い。画家の野見山暁治さんは満州(中国東北部)の傷痍軍人療養所で終戦を迎えた。戦後、同郷の友人宅を訪ねると家族から「どうしてあなたは生き残っているんだ」と言われ、仏間で「なんでせがれも病気にならなかったんだ」と泣かれたという。野見山さんはその後、戦没画学生の遺作の収集に奔走し「無言館」(長野県上田市)開設に尽力した。宝田明さんも同じ満州で11歳の時侵攻してきたソ連兵の銃撃を受け、悲惨な引き揚げも体験した。渡辺えりさんには父の戦争体験を基に書いた『光る時間(とき)』という作品がある。戦後小学校の教師になったその父はよくこう口にしていたそうだ。「あの時、人を狂わせ、僕を軍国少年にした教育とは何か。その謎を解きたいんだ」。

 作家・精神科医の帚木蓬生さんの父は戦時中、香港駐在の憲兵で戦犯として巣鴨に収容された。「日本が外国を侵略した罪は消えません。前の世代がやったことだから、もう水に流そうというのは大間違いです」。渡辺美佐子さんの「戦後35年の『対面』」の話も印象深い。小学5年の時、転校してきた赤いほっぺの男児に淡い思いを寄せる。その男児に会いたい一心で、1980年にテレビのご対面番組で探してもらった。だが、カーテンの陰から登場したのは男児ではなく、そのご両親だった。男児は疎開先の広島で原爆に遭い12歳で亡くなっていた。遺体も遺品もなく、まだ墓も造れないと嘆くご両親は渡辺さんにこう声を掛けた。「あの子のことを覚えているのは家族だけと思っていたのに、35年も覚えていてくださり、ありがとうございます」。それをエッセーにした『りんごのほっぺ』は国語授業の教材にもなった。渡辺さんはその後、仲間の舞台女優たちと長年、原爆朗読劇に取り組んでいる。

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<相撲館「けはや座」> 展示や照明を更新しリニューアルオープン

2018年01月21日 | メモ

【69連勝の大横綱双葉山のコーナーを新設】

 奈良県葛城市にある相撲館「けはや座」が20日リニューアルオープンした。同市は相撲の始祖、当麻蹶速(たいまのけはや)の出身地といわれ、桜井市などとともに〝相撲発祥の地〟を宣言している。「けはや座」の名前もその蹶速に因むもので、1990年にオープンした。今回のリニューアルでは約1万2000点に上る相撲関連資料の収蔵・展示品を見直し、目玉として新たに大横綱双葉山のコーナーを新設した。

 そのコーナーに展示されているのは双葉山が使っていた明け荷や節目の番付表、双葉山の勇姿が表紙を飾る相撲雑誌など。明け荷には支援者たちと明け荷のそばでくつろぐ双葉山のモノクロ写真が添えられている。1939年発行の「野球界」増刊号「春場所 相撲讀物号」の表紙には土佐犬(?)を引き連れた双葉山の写真。「大阪国技館」落成記念の大阪場所での双葉山の土俵入りを伝える37年の新聞社のニュース写真なども並んでいる。

 

 番付表は双葉山が新十両になった1931年5月の横綱不在場所の番付、春秋園事件で大半の力士が脱退した32年1月の〝幻の番付〟、連勝を40まで伸ばし新横綱に昇進した38年1月の番付(上の写真㊨=一部を拡大)など計8枚。その中には戦争の激化に伴い増えた応召・入営力士の名前を欄外に列挙した41年1月の〝応召番付〟もある。応召力士の名前は翌42年1月場所から機密漏洩防止のため軍から発表の中止を求められ、それは45年の終戦まで続いたという。西張出横綱として双葉山最後の場所となった45年11月の番付表はそれ以前のものに比べ紙面が一回り小さい。相撲館担当の市職員、小池弘悌さんは「紙不足という当時の社会状況が番付表にも反映されています。大きさだけでなく紙質も劣っていました」と解説してくれた。

   

 同館には他に北の湖や寺尾、奈良県出身の鶴ケ濱、力櫻、大真鶴らの化粧回し、かつて吉田司家から授与されていた横綱免許状、歴代横綱の手形、相撲玩具類(下の写真㊧)など、相撲にまつわる多彩な品々が展示されている。その一角には「幕内最高優勝 祝稀勢の里関おめでとう」という横断幕が掲げられ、本場所と同じ仕様の土俵脇には稀勢の里の等身大パネルも。稀勢の里が属する田子ノ浦部屋はこの「けはや座」で合同合宿するなど葛城市との縁が深くファンも多い。それだけに稀勢の里には3月春場所での奮起をぜひ期待したい。

 

 この日はリニューアル初日ということもあって、市のマスコットキャラクター「蓮花(れんか)ちゃん」もやって来た。そこで記念に、と1枚撮らせてもらった。頂いたシール裏側のプロフィル欄に、特技は「出会った人を元気にすること」、好きな男の子は「せんとくん」、そして好きな力士には「たいまのけはや」とあった。心がほっこり温まったところで「けはや座」を後にした。

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<富雄丸山古墳> 出土した鏡3面が天理参考館に〝鎮座〟

2018年01月17日 | 考古・歴史

【「国内最大の円墳」の可能性、奈良市の発表から約2カ月】

 奈良市西部の富雄川右岸の丘陵地に位置する「富雄丸山古墳」。この古墳が航空レーザーによる3次元測量調査の結果、国内最大の円墳である可能性が高まり、にわかに注目を集めている。昨年11月15日に奈良市教育委員会が調査結果を発表して約2カ月。天理大学付属博物館「天理参考館」(天理市)には、その古墳から出土したといわれる三角縁神獣鏡3面が「国内最大の円墳 富雄丸山古墳の鏡」のタイトルとともにガラスケースの中で大切に保管・展示されている。

 富雄丸山古墳の所在地は第二阪奈道路中町インターのそばで、グラウンドやテニスコートがある奈良市西部生涯スポーツセンターの東側に位置する。築造時期は古墳時代前期後半の4世紀後半とみられ、北東側に一回り小さい富雄丸山2・3号墳が隣接する。明治時代には石製品を中心とする多くの副葬品が出土し、それらは国の重要文化財に指定され京都国立博物館蔵になっている。天理参考館蔵の鏡3面も国指定の重要美術品。その一つ、三角縁吾作銘四神四獣鏡の裏には中央の鈕(ちゅう、つまみ部分)の周りに龍に乗った仙人4人が描かれ、その外側に「吾作明鏡」で始まる吉祥句が刻まれる。他の二つにも龍や虎とみられる神獣や神が描かれている。

  

 この古墳は1972年の県立橿原考古学研究所の調査で2段築成の直径86mの円墳と報告され、10年後の追加調査で北東部に方形の造り出しが付く直径102m前後の円墳である可能性が指摘された。ところが昨年5~8月の市教委による空からの3次元測量で、3段築成の直径110m前後の円墳である可能性が高まった。それまでは埼玉県行田市にある丸墓山古墳が長らく国内最大の円墳とされてきた。この丸墓山は古墳時代後期の6世紀前半の築造とみられ、直径は105m。富雄丸山はそれを5mほど上回る可能性が大きくなったわけだ。

 

 丸墓山古墳の周辺は古墳公園として整備され墳丘にも登れるという。一方の富雄丸山古墳は雑木が生い茂り、周囲には金網が張り巡らされて立ち入ることもできない。県内に多い巨大な前方後円墳などの陰に隠れ知名度もいまひとつだった。奈良市教委では早ければ2018年度から詳細な規模や構造を解明するため発掘調査に乗り出すという。調査の進展によっては、未解明被葬者についても何だかヒントが得られるかもしれない。そして調査後には周辺が古墳公園として整備され、より身近な存在になることを期待したい。

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<BOOK> 朝日選書「髙田長老の法隆寺いま昔」

2018年01月15日 | BOOK

【髙田良信自伝、小滝ちひろ構成、朝日新聞出版発行】

 法隆寺の宝物や仏像を徹底的に調べ上げた『法隆寺昭和資財帳』(全15巻)の編纂など〝法隆寺学〟の確立に生涯を捧げた髙田良信長老(法隆寺第128世住職・聖徳宗第5代管長)。『私の法隆寺案内』『法隆寺の謎を解く』『法隆寺秘話』など一般向けの著作も多く、まさに学僧の名にふさわしい高僧だった。本書は小滝ちひろ氏(朝日新聞編集委員)が2016年の1月から年末まで計15回・約30時間にわたってインタビューしてまとめた髙田さんの半生の物語である。

       

 小僧として法隆寺に入ったのは1953年、12歳のとき。法隆寺ではその4年前の火災で焼損した金堂修理の真っ最中だった。地元の中学・高校に通いながら、境内で古い瓦を拾い集めたり天井裏に散在していた寺僧の位牌を調べたりした。〝瓦小僧〟という渾名を付けられ、後に自ら〝瓦礫法師〟と呼ぶように。こうした収集癖が後の昭和資財帳の編纂などにつながった。「私の『法隆寺学』は天井裏から始まった気がします」とも。天井裏から見つけたものの中に藤ノ木古墳の略図があった。髙田さんが「藤ノ木古墳=崇峻天皇陵説」を主張したのも、その図の中央に「崇峻天皇御廟」と記されていたことによる。

 昭和資財帳の編纂は1981年にスタートし、13年がかりで全15巻が完成した。その完成記念として全国5都市を巡回する「国宝法隆寺展」を開催、来場者は100万人を超えた。ただ「資財帳調査も単なる宝物調査ではなく、宝物類を法具として法会に生かすのが念願だった」。その言葉通り、中断していた様々な法会の復活に取り組んだ。慈恩大師(法相宗開祖)の遺徳を称える慈恩会、玄奘三蔵を偲ぶ三蔵会、お釈迦ざまの仏生会と涅槃会……。法要を復活するには趣旨を述べる「表白文」が必要だが、それらも全て自ら作った。法隆寺では過去にしていなかった仏様の〝お身ぬぐい〟も始めた。他にも百済観音堂の落成、寺紋の作製、『法隆寺史』の編纂、『法隆寺銘文集成』の刊行、法隆寺夏季講座の開催など、功績を数え上げるとまさに枚挙に暇がない。

 小滝氏によるインタビュー時、髙田さんは肺気腫のため酸素ボンベが手放せなくなっていた。書籍の出版計画を伝えると喜んでいたそうだが、2017年4月帰らぬ人に。享年76。本書が発行されたのはその半年後の10月だった。長女聖子(しょうこ)さんは「法隆寺の新たな資料や新事実を発見したときの、キラキラと少年のように目を輝かせて、喜びが身体から溢れでて止まらない様子は、娘の私も羨ましいほど輝いていました」と本書の「あとがきにかえて」に記す。棺の中で酸素チューブを外した髙田さんは「とても楽しそうで(略)生き生きとした立派な死顔」だったという。聖子さんは「劇団☆新感線」に所属する女優。髙田さんは俳優になることをなかなか認めなかったそうだが、今や劇団の看板として舞台・テレビ・映画で活躍中。2016年には優れた舞台人に贈られる「紀伊國屋演劇賞」個人賞を受賞した。

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<天理参考館> 新春展「はれの日の装い―装身具の歴史」

2018年01月14日 | 考古・歴史

【縄文・弥生・古墳時代の耳飾りや腕輪、埴輪など約200点】

 縄文時代や古墳時代など昔の日本人はどんな装身具を身に着けていたのだろうか。そんな疑問に答えてくれる展示会が天理大学付属博物館「天理参考館」(奈良県天理市)で始まった。新春展「はれの日の装い―装身具の歴史」。同館の膨大な考古資料から選び出した装身具や鏡類、埴輪など約200点を一堂に展示し、日本の装身具の歴史を振り返る。展示品の中には初公開のものも多い。3月5日まで。(下の写真は古墳時代の腕輪形石製品)

 縄文時代には石や土、貝、動物の骨・牙・角などを素材に耳飾りや首飾り、腕飾りなどが作られた。中でも全国各地で多く出土し縄文時代の装身具の代表ともいえるのが腕飾りの〝貝輪〟。身に着けたのは圧倒的に女性が多く、岡山県笠岡市の津雲貝塚からは貝輪をはめた人の骨が出土している(下の写真㊧)。耳飾りには耳たぶに開けた孔に通す〝玦状(けつじょう)耳飾り〟と、孔に全体をはめ込む耳飾りの2種類があった。(下の写真㊧は岩手県陸前高田市の獺沢貝塚から出土したペンダントの垂飾)

 

 縄文時代にも今のペンダントのように胸元に垂らす飾り物〝垂飾(すいしょく)〟があった動物の骨や牙、貝などのほか、人骨で作られたものも見つかっている。「身近な人か、族長のような権力を持つ人とのつながりを示したのではないか」という。縄文時代の装身具には着飾るためだけでなく、人知を超えた神や精霊、動物の力を身に付けたいという願いが込められていたが、弥生時代になると装身具は集団内での地位や立場を表す道具となる。腕飾りは引き続き貝製が中心だったが、首飾りは動物の骨や牙から、ヒスイなどの美石やガラス製に変わっていく。(下の写真は㊧択捉島のシャナ貝塚から出土した垂飾、㊨宮崎県の西都原古墳から出土した耳飾りの耳環

 

 古墳時代に入ると、装身具は地位や権力、富の象徴としての意味合いが強くなった。死者への副葬品も時とともに変化する。初めは石製の腕飾りや玉、鏡など宝物や祭祀に用いるものが中心だったが、その後、鉄製の刀剣や甲冑などの武器類が主体となり、さらにきらびやかな金属製の冠や耳飾り、首飾り、馬具類などに変わっていった。そして冠位で冠や衣服、帯の色・形が規定された飛鳥・奈良時代には、装身具を身に着ける飾る習慣もなくなった。その後、耳飾りや腕飾りなどの装身具が長い時を経て復活するのは、服装の洋風化が進む明治時代に入ってからだった。

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<奇形大根> なんだ、こりゃ? 先が5つに枝分かれ!

2018年01月13日 | アンビリバボー

【長さ30cm・150円、JAの農産物直売所で販売】

 12日午後、国道163号を京都府木津川市方面へ走っていて、左手にある農産物直売所「JA京都やましろ 愛菜館」(精華町乾谷金堀)に立ち寄った。ここに入ったのはこれが初めて。野菜や米、手作りの漬物などがずらりと並ぶ。いずれも新鮮で安い。その中で目を引いたのがこの大根。途中から枝分かれし、左右に2本ずつ伸び、そして真ん中にも小さなものがちょこんと! この異形の大根、まっすぐな正統派大根の中でひときわ異彩を放っていた。

 値札には「精華町産 清水勉さんの長大根 税込み150円」とあった。持ち帰って早速体格測定。身長は葉を除く本体部分で約30cm、上部の腰周りも30cmほどあり、体重は2kg近くあった。上から11cmほどの所から5つ(真ん中右上のごく小さいものを含めると6つ)に枝分かれ。一般の食品スーパーでは決して目にできない珍品だ。というわけで、測定後、前後上下左右から記念撮影。枝分かれは先端の生長点が小石や土、堆肥などの硬い塊に当たるのが原因という。この〝股根〟を防ぐには土を十分に掘り起こし障害物を取り除いてフカフカの土を作ることが不可欠で、「大根十耕」という格言もあるそうだ。

 

 枝分かれした大根でよく見掛けるのは2つに分かれた二股大根。東北地方には「大黒さまと二股大根」の民話が伝わる。好物の餅を食べ過ぎおなかを壊した大黒さまが、川で大根を洗っていた娘に薬代わりにしようと1本所望した。娘は旦那さまが大根の本数を数えているので渡すと叱られるといったんは断る。ところが大根の中に二股に分かれたのが1本あった。そこで片方をもいで渡すと、それを口にした大黒さまの腹痛も治った――。東北地方ではその言い伝えから今も二股大根を大黒天に供える風習が残っているという。

 江戸後期の浮世絵師、葛飾北斎には『大黒に大根図』という作品がある。大黒さまが大きな二股大根を肩車した姿をユーモラスに描いた。大阪市浪速区の大国主神社には二股大根が描かれた絵馬もある。この神社の祭神は日本神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)。大国が「だいこく」とも読め「大黒」に通じ混同・習合して信仰が広まったことによるとみられる。大根は歓喜天(仏教の守護神天部の一つ)の供物にもなっている。歓喜天を本尊とする東京・浅草の待乳山(まつちやま)聖天の紋章は巾着と二股大根を組み合わせた図柄。巾着は商売繁盛、二股大根は無病息災や夫婦和合、子孫繁栄を象徴するそうだ。

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