く~にゃん雑記帳

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<ふるさとミュージアム山城> 聚楽第跡から出土の金箔瓦を展示

2013年10月01日 | 考古・歴史

【平成24年度京都府内遺跡発掘調査成果速報展を開催中】

 京都府木津川市のふるさとミュージアム山城(京都府立山城郷土資料館)で、企画展「関白・夢のあと~秀吉の京」が開かれている。目玉は聚楽第跡から出土し、重要文化財に指定されている金箔瓦。それらの瓦からも聚楽第が豪華絢爛な城郭だったことが分かる。同時に「平成24年度京都府内遺跡発掘調査成果速報展」も開催中。6日まで。

 

 聚楽第は関白となった豊臣秀吉が1586~87年、京都での政庁・居城として平安宮の大内裏跡に築造した。88年には後陽成天皇を迎え、諸大名に天皇の前で豊臣家への忠誠を誓わせている。91年、秀吉は甥の秀次に聚楽第を関白職とともに譲る。だが95年に秀次を謀反の疑いで切腹させたうえ、聚楽第も徹底的に破壊してしまった。

 金箔瓦(上の写真㊧)は1992年の発掘調査で発見された本丸東堀から大量に見つかった。400年以上前の軒丸瓦や軒平瓦だが、なお金箔が様々な文様を鮮やかに彩る。出土した金箔瓦の中には織田家や前田家、浅野家(上の写真㊨)などの大名の家紋瓦もあった。これらのことから金箔瓦が聚楽第だけでなく、東側の大名屋敷にも葺かれていたことが判明した。

 

 2012年度の発掘調査では初めて本丸の石垣(写真㊧)が南堀から見つかった。東西32m分で、残りのいい所で高さは1.5m(4段分)。石垣は55度の角度で積まれていた。石材には花崗岩を中心とする自然石が使われ、東に行くほど大型になっていた。絵図などから調査地の東側に門があったとみられ、同館では「本丸へ入城する人々に対し威信を誇示したのではないか」とみている。調査終了後は保存のために埋め戻された。

 この企画展では聚楽第のほか「秀吉の町造り―御土居(おどい)・大名屋敷」「秀吉最期の地―伏見城とその城下町」「聚楽第その後―豪商の町」をテーマに、秀吉の足跡を出土品や発掘調査の写真パネルなどで紹介している。聚楽第が壊され、大名屋敷が伏見城下に移転した跡地には茶屋四郎次郎ら豪商が屋敷を構えた。屋敷跡からは国産陶磁器のほか中国、朝鮮、東南アジアなどからもたらされた陶磁器(写真㊨)も多く見つかっている

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