く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<クラリンドウ> 下垂花序に蝶が舞うような華やかな白花

2018年11月30日 | 花の四季

【和名の語源は属名「クレロデンドルム」が転じて?】

 インド北部のアッサム~ヒマラヤ地方原産のシソ科(旧クマツヅラ科)クサギ属の常緑小低木(樹高1~2m)。花期は11~12月頃で、垂れ下がった長さ30cmほどの総状花序に華やかな白い花を横向きにたくさん付ける。花径3~4cmの合弁花で、花冠は5つに裂けて雄しべが長く突き出す。

 学名は「Clerodendrum wallichii(クレドデンドルム・ウォリッキー)」。属名は「運命」と「樹木」を意味するギリシャ語の合成語。これはセイロン島(スリランカ)で最初に発見された同属の植物2種が「幸運の木」「不運の木」と呼ばれたことに由来するそうだ。種小名はデンマーク生まれの医師・植物学者ナサニエル・ウォリッチ(1786~1854)の名前に因む。ウォリッチはイギリス東インド会社在勤中に多くの植物標本を収集したことで知られ、クラリンドウのほかヒメツバキ、ドンベア(アオイ科)、塊根植物の奇峰錦(ベンケイソウ科)など多くの学名に名が残る。

 クラリンドウの渡来時期や和名の語源ははっきりしていない。「リンドウ」と付くが、リンドウ科のリンドウとは全く無関係。可能性がありそうなのが属名のクレドデンドルムが訛ってクラリンドウになったのではないかという説だ。お茶の水女子大学の教授だった植物学者津山尚(たかし)さんも、横文字が日本音化して命名されたルイラソウ(ゴマノハグサ科)などの例を挙げながら、クラリンドウも「属名の不明瞭な発音から由来したものではないだろうか」と研究報告書に記している。

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<ブルーデージー> 和名は「ルリヒナギク」

2018年11月29日 | 花の四季

【南アフリカ原産、斑入り品種が人気に】

 南アフリカ原産のキク科ルリヒナギク属(フェリシア属)の半耐寒性多年草。日本では1年草として扱われることも多い。草丈は20~50cmほどで、夏の高温多湿期を除き、5月頃から11月頃まで咲き続ける。ブルーデージーの名前も和名の「ルリヒナギク(瑠璃雛菊)」も、花弁が涼しげな青色でデージー(ヒナギク)の花に似ていることから。ただデージーはヨーロッパ原産のヒナギク属で、同じキク科でもブルーデージーとは属が異なる。

 属名フェリシアの語源はラテン語で「幸福な」「恵まれた」を意味する「felix(フェリックス)」といわれる。この属の植物は約80種がアフリカ南部を中心に分布するが、ブルーデージーとして主に栽培され流通しているのはアメロイデス種とアモエナ種。アメロイデス種はアモエナ種に比べ花弁や葉が太くて幅が広いのが特徴。花径は3cmほどで黄色い管状花と青い舌状花からなる。

  鉢植えや寄せ植えなどとして親しまれているが、とりわけ人気なのが葉の縁に明るい黄色の模様が入る斑入り品種。花のない季節でもカラーリーフとして楽しめることが人気を集めている。ブルーデージーの仲間では花色が白やピンク色の品種や、草丈が80cmほどになる高性種のものなども出回っている。

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<松伯美術館> 「上村松園・松篂・淳之三代展『画家の仕事』~本画・下絵・素描が語るもの」

2018年11月28日 | 美術

【作品完成までの創作の過程を浮き彫りに】

 奈良市の松伯美術館で「『画家の仕事』~本画・下絵・素描が語るもの」と銘打った「上村松園・松篂・淳之三代展」が開かれている。完成作品を準備段階に描いた原寸大の下絵や縮図、素描などとともに展示しており、作品完成に至る経過を垣間見ることができる。12月2日まで。(写真の作品は上村松園作『花がたみ』の本画と下絵)

 

 入ってすぐ左手の特別展示室には松園初期の代表作『人生の花』の大きな下絵3点が並ぶ。松園にとって「青春の夢を託したもので終生忘れ得られぬ一作」だ。少しずつ変化する下絵の構図などに、この作品に一心に取り組む松園の姿勢が滲む。その向かいには同じく松園の作品『娘』の本画と下絵。いずれの下絵にも紙が何箇所も貼り重ねられ描き直した跡が残る。「画を作ることは作家にとって苦しみでもあり、また楽しみでもある……作家はその苦しみを楽しむ―そういう気持ちが制作の上での、第一条件ではないかと思う」。松園はこう書き残している。

 隣の第1展示室にも松園が謡曲「花筐(はながたみ)」に想を得て描いた『花がたみ』の本画と下絵が隣り合って展示中。狂気をはらんだ女性の虚ろな表情が印象的なこの作品の前で、来場者の多くが目を凝らすように見比べていた。松篂の作品『真鶴』『雁金』『粟』『五位鷺』などのそばには、各画面に描かれた鳥たちの無数の素描が並ぶ。松篂は「写生を重ねることで理想のかたちがおぼろげにでき、育んだ世界を画面につくることができる」と信じて常日頃から写生を大切にしていた。別室には松篂の壁画の大作『万葉の春』が下絵と向き合う形で展示されている。

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<ペラペラヨメナ> 「源平小菊」や「無休菊」の異名も

2018年11月26日 | 花の四季

【メキシコ原産の帰化植物、〝生態系被害防止外来種リスト〟に掲載】

 キク科ムカシヨモギ属(エリゲロン属)の多年草。原産地はメキシコ~ベネズエラの高地で、茎が匍匐し地面を這うように広がっていく。草丈は10~20cmほど。花期は5~11月頃と長く、径2cm前後の小花を次々に付ける。真ん中の筒状花は黄色、周りの舌状花は白だが、咲き進むにつれて舌状花が次第に赤みを帯びて淡紅色に変化していく。仲間のムカシヨモギ属にはアズマギク(東菊)や北米原産のハルジオン(春紫苑)、ヒメジョオン(姫女苑)などがある。

 学名「エリゲロン・カルビンスキアヌス」。エリゲロンはギリシャ語の「早い」と「老人」に由来、種小名はドイツの植物収集家カルビンスキー男爵(1780~1855)の名前に因む。和名ペラペラヨメナは葉が薄っぺらくて花姿がシオン属のヨメナ(嫁菜)に似ていることから。「ゲンペイコギク(源平小菊)」「ムキュウギク(無休菊)」といった別名もある。前者は花びらの色の変化を源平の白旗・赤旗に見立てたもの。後者は春から秋まで休みなく長く咲き続けることによる。属名から「エリゲロン」とも呼ばれる。英名は「メキシカン・デージー」。

 ペラペラヨメナは繁殖力が旺盛で、今ではヨーロッパやアフリカ、アジアなど世界各地に広く侵入している。日本には初め観賞用やグラウンドカバーなど緑化用として導入されたが、関東以西では今や野生化。このため環境省は生態系に悪影響を及ぼす恐れがあるとして「生態系被害防止外来種リスト」の中で、ヒメジョオンなどとともに防除・遺棄・導入・逸出防止などの普及啓発対策が必要な〝総合対策外来種〟の一つに指定している。

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<大和文華館> 「四季探訪―研ぎ澄まされる四季絵の伝統」

2018年11月23日 | 美術

【四季の表情を描いた屏風など25点、国宝「寝覚物語絵巻」も】

 奈良市の大和文華館で企画展「四季探訪―研ぎ澄まされる四季絵の伝統」が開かれている。四季絵は春夏秋冬の自然景観に折々の行事や祭礼を織り込んで屏風などに描いたもので平安時代に生まれた。同展では平安後期作の国宝「寝覚物語絵巻」をはじめ、江戸時代の作品を中心に季節の移ろいを一望に眺めることができる屏風絵など計25点が展示されている。12月24日まで。

 国宝「寝覚物語絵巻」(上の作品=部分)は菅原孝標の女(「更級日記」の筆者)の作といわれる長編物語を絵巻物に仕立てた作品。現存しているのはそのごく一部の4場面と前後の文章のみだが、その全画面(長さ約5.3m)を一挙に公開している。最初の画面に描かれているのは満開の桜の下で少女たちが笛や笙の合奏を楽しむ様子。他の画面には月に照らされた初夏の夜の庭などもあり、それぞれに季節感が醸し出されている。

 四季を描いた屏風は渡辺始興が描いた「四季花鳥図押絵貼屏風」(六曲一双)と円山応挙作「四季山水図屏風」(六曲二双)を展示中。始興の作品は12枚の紙に描かれた絵を貼り合わせたもので、背景の木々などは墨で、手前の鳥や草花などは彩色を加えて描かれている。春と秋など2つの季節を組み合わせた屏風も2点展示されている。江戸中期作の「伊勢物語図屏風(八橋・布引図)」(六曲一双)と江戸後期に岡田為恭が描いた「春秋鷹狩茸狩図屏風」(同、下の作品は左隻=秋の茸狩図)。

 俵屋宗達作「桜図」は〝たらし込み技法〟で画面下部の枝や葉が墨でぼんやりかすむように描かれている。尾形乾山筆「春柳図」は幹が途中でぽっきり折れた柳の老木だが、しなやかな枝からぽつぽつと新芽が吹き出す。添えられた和歌は室町時代の公家三条西実隆の「露けさもあかぬ柳の朝ねかみ 人にもかなや春のおもかけ」。朝露に濡れた柳の枝を女性の寝乱れ髪にたとえた。乾山、晩年の77歳のときの作品だが、なおみなぎる自身の生命力を柳の木に込めたのだろうか。乾山筆の作品には重要文化財「武蔵野隅田川図乱箱」も展示中。ほかには本阿弥光悦筆「新古今集和歌色紙」、英一蝶筆「僧正遍昭落馬図」、応挙筆「鱈図」「雪汀双鴨図」なども出ている。

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<サザンクロス> かわいい星形のピンクの花が人気

2018年11月21日 | 花の四季

【オーストラリア原産、正式名は「クロウエア」】

 ミカン科クロウエア属の常緑小低木。細い枝の上部に星形のかわいらしいピンクの花をたくさん付けることから、主に鉢花として親しまれている。径1.5~3cmほどの5弁花で、花期が高温多湿の真夏を除いて初夏から秋までとかなり長いことも人気につながっている。草丈は30~100cm。ミカン科とは少々意外な感じもするが、葉をもむと柑橘系の爽やかな香りが漂う。

 その花姿と南半球のオーストラリア原産ということから、国内では星座の南十字星を意味するサザンクロスの流通名で広く浸透している。ただし、これはあくまでも日本だけの話。欧米などでサザンクロスといえば、同じオーストラリア原産で十字形の白花を付けるセリ科の植物「ザンソシア・ロツンディフォリア」を指すことが多く、この花は学名通り「クロウエア」と呼ばれる。クロウエアの名前は英国の医師・植物学者のジェームズ・クロウ(1750~1807)に因む。

 サザンクロスでよく栽培されるのはサリグナ種とエクサラータ種、それにこれら2種の交雑種。サリグナ種は花弁が肉厚で、葉の幅がエクサラータ種に比べ広い。交配で生まれた園芸品種には花が大きい「ポーリンダ・エクスタシー」、矮性で純白の花を付ける「ホワイトスター」、葉に黄色い覆輪が入る「フイリーナ」などがある。このうちフイリーナは秋になると葉が真っ赤に紅葉するのも特徴で、新潟県胎内市の園芸家井上堅太さんが品種改良に取り組み2009年に東京で開かれた園芸展に初出品された。

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<長崎・出島和蘭商館跡> 企画展「明治維新と出島展」

2018年11月11日 | メモ

【日本初の蒸気船「スンビン号」の航海日誌を初公開】

 長崎の国指定史跡「出島和蘭商館跡」を訪ねたとき、ちょうど企画展「明治維新と出島展」が開かれていた。明治維新から150年になるのを記念したもので、激動期の幕末~明治初期の出島の変遷を日本の近代化に尽くしたオランダ人の功績と重ね合わせながらパネルや文献、写真、地図などで辿る。その中にオランダから寄贈された日本初の蒸気船「スンビン号」(のちに「観光丸」に改名)の航海日誌が初公開として展示されていた。企画展は12月9日まで。

 

 スンビン号は最後のカピタン(オランダ商館長)ドンケル・クルティウス(1813~79)の尽力で、1855年にオランダ国王から将軍徳川家定に献上され、長崎海軍伝習所の練習艦として使われた。航海日誌は全40ページ。筆者は不明だが、当時の出島や長崎の情景、奉行所で国王の肖像画を献上した時の様子などが写生画とともに記されている。「オランダの三色旗がはためく小さな『出島』は……町とは運河で隔たり、表門で閉ざされ、水門で波止場へと繋がる」

 海軍伝習所ではオランダ海軍日本派遣隊司令官のファビウス(1806~88)が率先して蒸気機関術などを伝授する傍ら、海軍の諸規律に関する意見書の作成などにも取り組んだ。「この蒸気艦を閣下にお引渡しし……日本海軍が誇れる軍艦になることを願ってやまない」(フォス美弥子編訳『海国日本の夜明け オランダ海軍ファビウス駐留日誌』)。伝習生には幕臣関係者から勝麟太郎(海舟)ら3人の艦長候補生も含まれていた。書き写したとみられる日課表には造船、砲術などの実技のほか「下等仕官心得方」なども含まれ、伝習科目が多岐にわたっていたことが分かる。

 

 1857年にはオランダからカッテンディーケ(1816~66)を団長とする第2次教師団を乗せた蒸気船「ヤパン号」(のちの「咸臨丸」=模型を展示中)が長崎に到着する。「我々は元気いっぱいに、また熱意をもって日本における任務に取り掛かった……きっと日本人は何事にも我々と協力して、目的達成のために尽くしてくれるであろう」(カッテンディーケ著『長崎海軍伝習所の日々』)。第2次の伝習では長崎から時計回りで九州を一周するなど乗艦訓練も大掛かりなものになった。そして1860年には勝海舟らが率いる海軍伝習生が米国サンフランシスコに至る太平洋横断に成功する。

 ヤパン号は海軍教育以外でも日本の近代化に大きな役割を果たす人材を運んできた。海軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールト(1829~1908)は日本での西洋医学教育の礎を築き、国内初の西洋式近代病院「長崎養生所」の開設にも尽くした。「学生たちに医師にとっては……貧富・上下の差別はなく、ただ病人があるだけということを納得させようとした」(『ポンペ日本滞在見聞記』)。ヘンドリック・ハルデス(1815~71)は1861年、海軍伝習所の対岸に軍艦を修理する日本最初の洋式近代工場「長崎製鉄所」(現在の三菱重工業長崎造船所の前身)を完成させた。展示中の「長崎港全圖」にはこの製鉄所なども含め明治初期の港の様子が詳しく記されている。

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<オキシペタラム> 明るい空色と星形の花で人気

2018年11月09日 | 花の四季

【切り花やブーケなどに、和名は「ルリトウワタ」】

 南米のブラジル~ウルグアイ原産のキョウチクトウ科の常緑多年草。オキシペタラムの名前は旧属名から。明るい空色と星形の優しげな花姿が人気で、主に切り花として「ブルースター」の名前で親しまれてきた。最近は花壇や鉢植えなどとしてもよく栽培され、ブーケやコサージュなどに使われることも増えてきた。和名は「ルリトウワタ(瑠璃唐綿)」。これは花の色と紡錘形の袋果から飛び出す真っ白い綿毛の付いた種子の様子から。

 熱帯地方原産とあって日当たりを好む。花期は初夏~秋と長い。草丈は50~100cmで、茎の上部の葉の付け根から花柄を伸ばし径3cmほどの5弁の花を数輪ずつ付ける。茎や葉には白い軟毛が生え、茎を折ると乳液が出てくる(肌が弱い人はかぶれにご注意)。オキシペタラムの語源はギリシャ語の「鋭い」と「花弁」から。学名は「Tweedia caerulea(トゥイーディア・カエルレア)」。属名は英国王立エジンバラ植物園の庭師の名前に因み、種小名カエルレアは「空色の」を意味する。

 オキシペタラムの花色は青だけではなく白や赤などもある。国内で栽培が盛んな主産地は高知県や北海道、長野県。日本は新品種育成の先進国としても知られ、2011年には高知県産の花びらが丸みを帯びて大きいオリジナル品種「ピュアブルー」がドイツで開かれた国際園芸見本市で最優秀賞(切り花部門)を受賞した。育種栽培したのはJA土佐あき芸西集荷場花卉部会ブルースター部会で、茎の切り口から乳液が出にくいため、水揚げが良く日持ちするのも特徴。このほか国内で開発された新品種は赤色品種の「インカレッド」、純白で花弁が10枚の「マーブルハピネス」、濃いピンクの「ラブリーピンク」など数多い。輸出も年々盛んになっており、海外でも国産品種が人気を集めている。

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<シロバナサクラタデ(白花桜蓼)> イヌタデ科の湿地植物

2018年11月07日 | 花の四季

【花はサクラタデより小さく、全開せずに半開】

 タデ科イヌタデ属の多年草で、全国各地の湿地や休耕田、溜め池などの水辺に生える。朝鮮半島の南部や中国、台湾にも分布する。名前は草姿が近縁のサクラタデで似て、花が白いことから。サクラタデはタデ科の中では大きめの淡紅色の花を付ける。その花の色や形がサクラに似ているとして命名された。

 花期は8~11月頃。草丈は50~100cmで、茎の上部がよく枝分かれし細長い穂状の花序に多くの小花を付ける。花穂の先は垂れ下がることが多い。花弁のように見えるのは萼(がく)で深く5つに裂ける。花は株により雄しべが雌しべより長く花被から突き出る短花柱花と、雌しべのほうが長く柱頭が花被から突き出す長花柱花がある。花によって雌しべや雄しべの長さが異なるこうした性質は〝異形花柱性〟と呼ばれる。

 シロバナサクラタデを近縁のサクラタデと比べると、花被の長さが3~4mmと短く花が一回り小さい(サクラタデ=5~7mm)、花は全開せず半開(同=平開する)、多いと5本ほどに枝分かれし花序枝が多い(同=1~2本)といった違いがある。少々紛らわしいが、サクラタデにも白花を付けるものがある。こちらは「シロバナハナサクラタデ」と呼ばれている。

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<クロアゲハ> 冬に向かうこんな時期に羽化とは!

2018年11月05日 | アンビリバボー

【庭先の金木犀の小枝で、16時間後力強く飛翔】

 4日(日曜日)の午後4時前、NHKのEテレで「あの日あの時あの番組」を見終わった直後のことだった。番組のタイトルは「日本のプチファーブル画家・熊田千佳慕さん 虫と語り、虫を描く」。庭に下りると、目の前の金木犀(高さ1.5mほど)の枝先になんやら黒い物体が。「えっ、なに?」。近づいて覗くと、なんとクロアゲハだった。そばには蛹の抜け殻。羽化したばかりのようだ。

 翅の裏側には鮮やかなオレンジ色の斑紋があった。雌だろうか。そのクロアゲハは接写しようとカメラを近づけても、前脚を少し動かす程度で翅を閉じたままほとんど身動きしない。観察したり写真を撮ったりすること30分余り。すると、今度は翅を大きく広げた。乾かしているのか。その後、時々様子を窺ったが、体勢はそのままだった。そのうち日が落ち次第に薄暗くなってきた。今日はここで過ごし、夜が明け暖かくなったら飛んでいくのだろうか。案の定、5日早朝も前日と同じ小枝につかまったままだった。

 

 それにしても寒さが厳しくなるこんな時期にどうして羽化したのだろう。ネットによると、アゲハチョウの寿命は2週間とも3~5週間ともいわれる。その間に相手を見つけることが果たしてできるのだろうか。暖かい時期に時々見かけていたアゲハの姿も今では全く目にしないけど。それに蛹が金木犀にくっ付いていたのも不思議だった。これまでもアゲハチョウの幼虫が好む柑橘系のユズやミカンなどで時々蛹を見かけた。だけど、この金木犀の近くには柑橘系がないのだが……。

 

  と、ここまで書いてガラス窓越しに金木犀を覗いた。午前8時半。クロアゲハは相変わらず同じ場所に止まったまま。羽化してから多分ずっと飲まず食わず。蜂蜜を溶かして与えてみようか。そんなことを考え始めた矢先のことだった。急に翅を打ち震わせ始めた。しばらく続けた後、頼りなげにふわっと枝から飛び下りた。そして2mほど先のビワの蕾の上につかまった。そこでも数十回翅を打ち振った。次第に力強さが増してくる。と、ついに空中へ。頭上を数回旋回するようにしてふわふわと飛び去っていった。最初の発見から約16時間。感動の一瞬だった。

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<赤花ソバ> 景観作物として人気の「高嶺ルビー」

2018年11月03日 | 花の四季

【ヒマラヤの山麓原産、日本の気候に合わせ品種改良】

 ソバはタデ科ソバ属の1年草。原産地は中国南部の雲南省などの山岳地帯とされ、日本には古く朝鮮半島を経由して渡来した。『続日本紀』には元正天皇の養老6年(722年)に稲の凶作に備えてソバや小麦を植えるよう詔(みことのり)を出したことが記されている。ソバの花といえばほとんどが白だが、最近は各地の農山村で赤花を目にすることも増えてきた。日本の赤花ソバは標高約4000mのヒマラヤの麓で栽培されていたものを、産学が連携して日本の気候風土に合うように品種改良を重ねた末に開発された。

 共同開発したのは信州大学名誉教授だった故氏原暉男氏(1934~2013)と長野県宮田村に本社を置く上場会社のタカノ。赤花のソバは「高嶺(たかね)ルビー」の品種名で登録されている。花が赤いのは富士山より高く強烈な紫外線が降り注ぐ厳しい環境の中で、アントシアニンという赤色のポリフェノールを蓄えて身を守るため。草丈は40~50cmと白花のソバに比べると低く、開花も遅い。食用にされることもあるが、収量は白花の3分の1ほどにとどまる。このため観賞用の〝景観作物〟として休耕田などで栽培し、地域起こしや観光客の誘致に活用されることが多い。

 学名は「Fagopyrum esculentum ‘Takane‐ruby’(ファゴピルム・エスクレンツム・高嶺ルビー)」。属名の語源はラテン語の「ブナ」と「小麦・穀物」の合成語。ソバの実が三稜形のブナの実によく似ることによる。種小名エスクレンツムは「食用にされる」の意。2011年には花の赤色がより濃い「高嶺ルビー2011」が誕生した。赤ソバの栽培で有名なのが信州伊那高原(長野県箕輪町)の「赤そばの里」。今秋も遊歩道を整備した約4ヘクタールのソバ畑を開園し、地元公民館では「赤そばまつり」も開かれた。

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<長崎「四福寺」巡り㊦> 原爆の被災で明暗を分けた2つの寺院

2018年11月02日 | 旅・想い出写真館

 「長崎四福寺」のうち福済寺と聖福寺はJR長崎駅から程近い場所にある。原爆が炸裂した爆心地公園から見ると、福済寺は南南東に約2.5kmの距離、聖福寺はその福済寺から200mほど東側に位置する。福済寺は戦前、七堂伽藍を有する大寺院だった。だが1発の原爆により創建317年にして全て焼失、境内は瓦礫の丘と化した。一方、聖福寺は倒壊や焼失を免れ、今は本堂の大雄宝殿をはじめ4棟が国の重要文化財に指定されている。長崎市街を望む高台にある福済寺と、山の陰に隠れて原爆の影響が少なかった聖福寺。いわば〝お隣さん同士〟のような2つの由緒ある寺院はその立地でくっきり明暗を分けた。

【福済寺】国宝伽藍跡地に巨大な観音像

 福済寺は江戸初期の1628年、中国の覚悔禅師によって創建された。境内には国宝建造物に指定された壮麗な堂宇が立ち並び、国宝級の絵画の大作などもあって、多くの内外の要人(グラント米大統領、シーボルト夫妻、勝海舟、坂本竜馬など)が集う国際色豊かな文化交流の場になっていたという。戦後まもなく大書院跡地に本堂兼庫裡が建造され、さらに1979年には大雄宝殿跡に「萬国霊廟長崎観音」が造営された。霊廟は原爆殉難者と戦没者の御霊を祀り慰霊するもの。殉国慰霊殿、原爆慰霊殿、戦地で収集された遺品を展示する遺霊殿などがあり、戦前の福済寺の遺物や写真なども展示している。

 

 観音像は巨大な台座の亀の背に立つ。アルミ合金製で、身の丈は18m(地上からの高さは35m)、重量は35トンもある。霊廟の地下、観音像の真下に「フーコーの振り子」と呼ばれる地球自転観測装置があった。その名は地球が自転していることを振り子で実証したフランスの物理学者レオン・フーコー(1819~68)の名前に因む。長い振り子を長時間振らせていると、北半球では錘(おもり)がゆっくり時計の針の回る方向に回るそうだ。福済寺の振り子は上部が観音像の頭部に取り付けられている。吊り糸の長さは25.1m、錘の重さは32㎏。だけど、なぜお寺に? 説明書きには「この永遠に動き続ける地球とともに私たち人類も〝永遠に平和であること〟への願いを込めて設置された」とあった。本堂の前面には原爆が炸裂した午前11時2分に毎日打ち鳴らすという〝鎮魂の鐘〟もあった。

【聖福寺】大雄宝殿など4棟が国の重文

 黄檗宗の祖、隠元禅師の孫弟子、鉄心道胖によって1677年に開創。長崎四福寺の中では最も創建が遅いが、長崎奉行の支援を受けていたこともあって先に創建された三福寺を監督する目付け寺の立場にあったという。こちらは原爆の影響が少なかったため江戸時代の堂宇が多く残る。国指定重要文化財になっているのは本尊として釈迦を祀る大雄宝殿のほかに山門と天王殿と鐘楼。大雄宝殿は黄檗様式の特色を持つ一方で、屋根瓦に武雄産の赤瓦を使うなど地方色も見られるとのこと。山門は堺の豪商京屋宗休による寄進によるもので、中央に掲げられた大きな額は隠元禅師が揮毫した。

 

 境内の一角に「じゃがたらお春の碑」が立つ。バテレン追放により15歳のとき異国のバタビア(ジャカルタ)に送られたお春(日本人とイタリア人の混血女性)を哀れんで造られた。「じゃがたら」はジャカルタの古称。石碑に歌人吉井勇の歌が刻まれている。「長崎の鶯は鳴く今もなほ じゃがたら文のお春あはれと」。大雄宝殿の近くには写真家や画家にとって格好の題材になっているという「鬼塀」があった。明治初年に廃寺となった同寺末庵の瓦などを再利用して築造された。聖福寺は江戸時代末期、瀬戸内海で「海援隊」の坂本竜馬らが乗った船が紀州和歌山の藩船と衝突し沈没した「いろは丸事件」の賠償交渉の場になったことで知られる。さだまさしさん原作の小説で映画化された『解夏(げげ)』のロケ地にもなった。

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<長崎「四福寺」巡り㊤> 江戸時代前期に来航唐人らが創建

2018年11月01日 | 旅・想い出写真館

 長崎には「福」の字が入った名刹が多い。江戸時代初期に唐人(中国人)たちによって創建された崇福寺、興福寺、福済寺は「長崎三福寺」や「唐三カ寺」と呼ばれる。これに少し後に創建された聖福寺を加えて「長崎四福寺」と呼ばれることも。これら4寺院は隠元禅師ゆかりの黄檗宗。鎖国時代、唯一オランダや明・清(中国)に開かれていた港が長崎だった。禁教令によりキリスト教徒への弾圧が激しさを増す中、来航した唐人たちは仏教徒であることを示す意味もあって次々に寺院を創建。本堂に釈迦如来を祀ると同時に、航海の安全を祈願して「媽祖堂(まそどう)」を建てた。

【崇福寺】「大雄宝殿」と「第一峰門」は国宝

 崇福寺は福建省の福州出身の華僑が中心になって1629年に創建された。このため「福州寺」の別名を持つ。本尊釈迦如来(大雄)を祀る「大雄宝殿」は1646年の建設。下層部分が中国明朝の建築様式なのに対し、上層部の細部には和様も採り入れられている。「第一峰門」も中国で材料を加工したうえ唐船数隻で長崎に運び込んで1644年に創建、96年に改築された。軒下の組物は「四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)」と呼ばれる手法で、国内では類例がなく中国華南地方でも珍しいそうだ。別名「唐門」「赤門」。

 

 この2つの国宝のほかにも国指定の重要文化財や県指定の有形文化財などが多い。重文の三門(楼門)はまたの名が「竜宮門」。初期の三門は火災や風災で倒壊し、現在のものは約170年前の1849年に再建された。中国風の色彩の濃い建物だが、実際に建設に携わったのは棟梁をはじめ全員日本人だったという。境内の一角に巨大な大釜が鎮座していた。口径1.97m、深さ1.82m。17世紀後半の天和年間の飢饉のとき住民救済のために鋳造し施粥(せがゆ)の炊き出しを行った。柱には「寺宝」と書かれていた。

【興福寺】日本最古の黄檗宗の寺院

 山門の脇に「祝2020年 興福寺開創400周年 隠元禅師初登の寺」と大書した看板が掲げられていた。興福寺は来航した唐人が1620年頃、航海の安全を祈願して小庵を造ったのが始まりといわれ、四福寺の中では創建が最も早い。南京地方出身の唐人によって堂宇が次々に整備されたことから別名「南京寺」とも呼ばれる。丸窓が目を引く本堂の大雄宝殿と唐人屋敷から移築された旧唐人屋敷門は国指定重要文化財、媽祖堂や山門、鐘鼓楼なども県の有形文化財に指定されている。

 

 インゲンマメにその名を残す中国の高僧、隠元禅師(日本黄檗宗の祖)が日本に渡ってきたのは1654年。約20人の弟子を引き連れて渡来し、住職として興福寺に1年間滞在した。山門上部の扁額「初登宝地」は隠元の書。隠元はその後、崇福寺の第4代住職も務め、1658年には4代将軍徳川家綱に謁見、その2年後、京都・宇治に萬福寺を開創した。県有形文化財「三江会所門」内部に「唐人さんの寝棺」が横たわっていた。中国社会では生前に自分の棺桶を用意し自室に立てかけておくのが習わしで、興福寺ではかつて職人3~4人が寝棺造りに従事していたそうだ。興福寺の第2代住職黙子如定(もくすにょじょう)は観光名所になっている眼鏡橋の架設に尽くしたことでも知られる。

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