く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 『「あんたさん、どなたですか?」―世界初のアルツハイマー治療薬の開発に成功した杉本八郎物語―』

2018年08月27日 | BOOK

【大山勝男著、合同会社Amazing Adventure発行(オンデマンド版)】

 加齢による単なる物忘れと認知症による物忘れはどう違うのか。10年近く前「もの忘れ外来」を設けている大阪府下の病院の担当医に聞いたことがある。その時の答えは「認知症になると体験そのものを忘れ、今までできたことができなくなる。日常生活への支障の有無が大きな判断材料」。そして認知症の原因の約6割を占めるアルツハイマー病について、根治は難しいが薬物療法(塩酸ドネペジルの服用)にリハビリ、適切なケアを組み合わせることで進行を遅らせることは可能、と話していた。本書はそのドネペジル(商品名アリセプト)の開発を陣頭指揮した杉本八郎氏(1942年生まれ)の半生を追う。

     

 新薬の開発は長い研究期間と大きな投資を要する。臨床試験を経て発売に至る新薬は全体の6000分の1ともいわれる。そんな中で製薬会社エーザイの研究者だった杉本氏は在職中に2つの新薬の開発に成功した。その一つアリセプトは抗認知症の新薬として日本より先に米国や英国、ドイツで承認され、エーザイをグローバル企業に押し上げることに貢献した。今では世界95カ国以上で使われているそうだ。その新薬で〝薬のノーベル賞〟といわれる英国ガリアン賞特別賞や国内最高の発明表彰である恩賜発明賞も受賞した。定年退職後は京都大学や同志社大学で客員教授を務め、創薬ベンチャーの代表も兼ねる。

 新薬開発の裏には貧しい中で子ども9人を懸命に育ててくれた母親への深い思いがあった。その母が認知症を患って、訪ねるたびに「あんたさん、どなたでしたかね?」と尋ねられ衝撃を受ける。「私は母との対話を胸に秘め、この難病中の難病といわれているアルツハイマー型認知症に有効な新薬を開発することに、研究者としての使命感を鼓舞された」。ただ創薬の道のりは平坦ではなかった。杉本氏は「化合物の探索研究に4年、安全性を確認する開発研究に4年、動物やヒトでの臨床研究に7年近くの歳月が必要だった」と振り返る。この間、会社から2度も開発中止の厳命を受けたという。まさに苦節15年だった。

 アルツハイマー病患者は今世紀半ばに世界で1億人を突破するともいわれる。アリセプトはその治療薬として最も多く使われているが、あくまでも症状の進行を遅らせる対症療法の薬剤。いま世界の研究者や製薬企業は根本的な治療薬の開発にしのぎを削る。「3つの新薬を創るのが夢」という杉本氏にとっても今後の最大の目標が根治薬の開発。杉本氏はこれまでの体験から「創薬に成功するにはまず『志有りき』」とし、「挑戦はあきらめたら終わり、成功するまでやる! 成功者とはあきらめなかった人のこと」と語る。2017年2月には認知症の研究や啓蒙予防などに取り組むため、国内の認知症研究者らと共に一般社団法人「認知症対策推進研究所」を立ち上げ代表理事に就任した。

 本書は第1章「苦労の連続の母を見ながら育つ」~第5章「アルツハイマー根治の夢 新薬にかけ―」の5章+インタビュー記事で構成する。全編を通して杉本氏の新薬開発にかける執念にも似た一途の思いが伝わってきた。杉本氏は薬業剣道連盟の会長を務め、京都で単身赴任生活を送る。カラオケでは河島英五の『時代おくれ』や中島みゆきの『地上の星』をよく歌うという。人間味あふれるもう一つの素顔も親しみを感じさせてくれた。本書は認知症の根本治療薬の開発や新しい検査方法など世界の最前線の動きを知るうえでも大いに役立ちそうだ。膨大な医療・薬事関連の文献に当たって労作を書き上げた著者に敬意を表したい。

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<安土城跡> 信長の夢の跡、高層天守の魁

2018年08月14日 | 考古・歴史

【往時を偲ばせる礎石、城壁、大手道……】

 織田信長が天下統一を目標に掲げ、琵琶湖岸の安土山(標高199m)に築いた安土城。築城開始から3年後の1579年に高さ33mを誇る壮大な城が完成する。だが、その3年後の本能寺の変で信長は自刃、混乱の中で城も一夜のうちに焼失してしまった。安土城跡は国の特別史跡。礎石が整然と並ぶ天主跡や城壁、大手道、二王門、三重塔などが往時の信長の権勢を今に伝える。

 城に通じる大手道を上り始めると、ほどなく左手に伝羽芝秀吉邸跡、右手に伝前田利家邸跡や摠見寺の仮本堂になっている伝徳川家康邸跡があった。摠見寺は築城のとき、信長が他所から移築して自らの菩提寺としたと伝わる。天主炎上の際は幸い類焼を免れたが、江戸時代末期に焼失した。大手道の石段には所々に石仏がはめ込まれていた。築城に当たり多くの石材は近郊の山々から調達されたが、石仏や墓石なども使われたことを示す。

 

 安土山の山頂に残る天主跡には、東西・南北約28mの平地に礎石が1.2mおきに並ぶ。ただ、ここは天主の穴蔵(地階部分)に当たり、天主台の広さははるかに大きくて2倍半近くあったそうだ。城内は御用絵師狩野永徳の障壁画や装飾などできらびやかに飾られた。『信長公記』は「三重め、12畳敷、花鳥の御絵あり、則、花鳥の間と申すなり」「六重め、八角四方あり、外柱は朱なり、内柱は皆金なり」などと記す。地上6階建ての安土城は以降の高層の城造りの出発点にもなった。

 

 本丸御殿跡があるのは天主から少し下った場所。中庭を挟んで3棟あったとみられるこの建物の構造は天皇の住まいである内裏の清涼殿に酷似する。『信長公記』は天皇行幸のための〝御幸の間〟が設けられていたと記載している。天主跡の西側直下の伝二の丸跡には信長公本廟(上の写真)がある。本能寺の変の翌年、遺品の太刀、烏帽子、直垂などを埋葬し、一周忌には織田一族や家臣を集め法要が盛大に執り行われたという。

 天主跡からの帰途、摠見寺の本堂跡に立ち寄った。少し傾いた「摠見寺本堂址」という石柱が立つだけの殺風景な広場だが、案内パンフレットでわざわざ「展望台(撮影スポット)」と紹介するだけあって眼下の眺めはまさに絶景だった。そばに立つ三重塔は室町時代の建物で、信長が甲賀の長寿寺から移築した。ただ保存修理工事中(9月下旬まで)で、覆屋で囲まれて見学できなかったのが少々残念だった。少し下った所にある二王門(楼門)も甲賀から移築されたもので、安置されている2体の金剛力士立像とともに国の重要文化財に指定されている。

 

 JR安土駅のすぐ南側にある「安土城郭資料館」には、二十分の一のサイズで城の内部まで精巧に復元した安土城の模型が展示されていた。製作者は『復元安土城』などの著書もある建築史家の内藤昌(あきら)氏(1932~2012)。内部の構造が分かりやすいように城が真っ二つに左右に動く仕組みになっていた。

 

 館内には「安土・南蛮図屏風 陶板壁画」も飾られている。信長は1581年、イエズス会派の神父に屏風絵を贈呈、神父は4人の天正少年使節と共に絵を携えローマ法王の元へ旅立つ。陶板壁画は彼らが辿った安土城から京都、長崎などを経てローマに至るまでの様子を6枚の画面(1画面は高さ約1.6m、幅約3.7m)で描いたもの(写真はそのうち「安土城」の部分)。2階の展示コーナーには当時の宣教師が描いたといわれる信長の肖像画の写真もあった。この肖像画は織田家の菩提寺、三宝寺(山形県天童市)の御霊屋に掲げられているもので、信長を描いたものの中では実物に最も似ているといわれているそうだ。

 

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<中津・寺町通り> ひときわ目を引く赤壁の合元寺

2018年08月12日 | 旅・想い出写真館

【黒田官兵衛ゆかりの地、石畳の両側に12カ寺】

 大分県中津市のメインストリート福沢通り。その西側にある石畳風の寺町通りには戦国~江戸時代開創の寺院を中心に12カ寺が立ち並ぶ。この町は中津城の総曲輪(そうぐるわ)内の東側に位置し、城下の防衛を目的に造られたといわれる。寺院の中でひときわ目を引くのが黒田孝高(如水)ゆかりの合元寺(ごうがんじ)。外壁などが色鮮やかに赤く塗られており「赤壁寺」とも呼ばれる。

 豊臣秀吉から豊前国を与えられた〝軍師官兵衛〟黒田孝高は中津入部の際、播磨国姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移し、空誉上人を開山に迎えて合元寺を建立した。ただ、地元の武将の宇都宮鎮房(しげふさ)は孝高の入部に反旗を翻す。鎮房は中津城内で誘殺され、合元寺に待機していた家臣たちも黒田勢の急襲で全員斬り伏せられた。

 

 その血で寺の壁は真っ赤に染まった。その後、壁は何度白く塗っても血が染み出してくるので、やむなく赤く塗ったという。赤壁の背後にはそんな血なまぐさい伝説があった。山門をくぐって左手には「お願い地蔵」が祀られていた。3つの願い事を聞き届けてくれると評判で〝三願成就の地蔵尊〟と親しまれている。あの福沢諭吉も祈願したそうだ。そばには健康や家内安全、商売繁盛、受験合格などを祈願する絵馬が所狭しと掛けられていた。

 

 中津城の城主は黒田氏から細川氏、小笠原氏、そして奥平氏と移り変わる。黒田藩時代には合元寺のほか大法寺、円応寺、西蓮寺も造られた。大法寺には加藤清正を祀る浄池宮や「慶安の変」で有名な由井正雪が植えたという塩釜桜、大石良雄(内蔵助)奉納という2基の石灯籠などがある。円応寺の境内にある〝河童の墓〟と呼ばれる五輪塔は、中津城内で誘殺された宇都宮鎮房に一の太刀を浴びせた野村祐勝(黒田二十四騎の一人)の墓といわれている。西蓮寺は黒田孝高の末弟で兄に従って中津に来た光心師(俗名黒田市右衛門)によって1588年に開かれた。

 

 孝高入部以前からある寺院は地蔵院と安随寺。黒田藩以降では細川藩時代の普門院、宝蓮坊、本伝寺、小笠原藩時代の円龍寺と浄安寺、奥平藩時代の松巌寺がある。円龍寺には閻魔大王像を安置した焔魔堂があり〝えんまさまのお寺〟として知られる。山門を入ってすぐ左手には戦国大名で茶人の古田織部が考案したという「織部灯籠」(県指定有形民俗文化財)が立つ。竿の上部が膨らむ形が十字架を、下部に彫られた人物像が聖人をイメージさせることから隠れキリシタン礼拝用とみる説もあり〝キリシタン灯籠〟と呼ばれている。寺町通りを抜けた所には福沢諭吉が長崎遊学までの幼少・青年期を過ごした茅葺きの旧居と、西南の役の中津隊隊長増田宋太郎の生誕の地の石碑があった。

 

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<双葉の里> 大横綱双葉山の生涯を辿る記念館

2018年08月06日 | スポーツ

【隣接する生誕の地には忠実に復元した生家】

 「相撲の神様」「昭和の角聖」と称される大横綱双葉山(1912~68、本名穐吉=あきよし=定次)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)で生まれた。周防灘に注ぐ伊呂波川の河口近く。5歳の頃右目を失明し、さらに11歳のときには回船業を営む父親の手伝いをしていて右手をウィンチに挟まれ小指の一部を失う。だが、この2つのハンディを現役時代周りの人に語ることはなかった。そして1年2場所の時代に優勝12回(うち全勝8回)、前人未到の69連勝という偉業を成し遂げた。

 生地のそばに双葉山の生涯や記録、相撲道に対する思いなどを、多くの写真や資料などで紹介する記念館「双葉の里」がある。JR日豊本線天津駅から海側へ徒歩20分あまり。1999年に開館し、生誕100年に当たる2011年に資料展示室などをリニューアルした。施設の前には「超六十連勝力士碑」が立つ。双葉山のほか63連勝の白鵬、2代目谷風の名前と手形が刻まれており、11年に白鵬を迎えて除幕式を開いた。施設前左手には漫画家やくみつるさんの企画による双葉山と行司の顔出しパネルも。

 

 資料展示室の入り口には高さ約3mの巨大な双葉山像がそびえ立つ。京都教育大学名誉教授の山崎正義氏が制作したポリエステル樹脂製で、宇佐市総合運動場に建立されているブロンズ像の原型とのこと。館内には横長の大きな年表、愛用していた銀製のコップなどの遺品、化粧回しや明け荷、安芸ノ海に70連勝を阻まれた当時の新聞、入門からの全成績、名言集などが展示され、映像コーナーもある。名言として有名なのは「われ未だ木鶏たりえず」。他に「後の先」「勝負師は寡黙であれ」など。双葉山は生涯一度も「待った」をしなかったという。親方時代も「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」を指導理念とし、「心技体」ではなく「心気体」を強調していたそうだ。

 

 この「双葉の里」は今やパワースポットとしても人気を集めている。すぐ裏手に双葉山が生まれ育った生家があった。双葉山没後、夫人の澄子さんが遺志を継いで生家を改装し長く地元の公民館として使われていたが、1999年の生誕80周年の節目に生家の間取りを忠実に復元した。木造茅葺き、広さ約45㎡で、間取りは7.5畳、3畳、板の間、土間などの質素な造り。双葉山は父親が事業に失敗し、借金返済のため中学進学をあきらめた。ただ父の仕事を手伝う中で、後に無類の二枚腰といわれる強靭な足腰とバランス感覚を身に付けたといわれる。

 

 その生家から10分ほど歩いた河口に漁業航海の守り神、金刀比羅宮が鎮座する。その境内の一角に金文字で「横綱双葉山之碑」と刻まれた大きな石碑が立ち、そばには赤屋根で覆われた土俵もあった。最寄り駅天津駅の近くにも「生誕の地」を表す巨大な広告塔などが立つ。双葉山の偉大さを改めて痛感すると同時に、英雄を生んだ地として地元の誇りの大きさも実感することができた。

  

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<唐戸市場> 新鮮・格安! 寿司、海鮮丼、ふく汁…

2018年08月05日 | 旅・想い出写真館

【観光客の人気集める週末の「活きいき馬関街」】

 〝関門の台所〟といわれる山口県下関市の地方卸売市場「唐戸(からと)市場」。食のプロだけでなく一般向けにも小売りをする全国でも珍しい市場として知られるが、ここで週末に開かれる「活きいき馬関街(ばかんがい)」が観光客の人気を集めている。とれとれのネタを使った新鮮なにぎりや海鮮丼などをその場で味わえるとあって、大勢の観光客で毎回大賑わい。外国人観光客の姿も目立ち、今や関門観光の目玉の一つになっている。

 「活きいき馬関街」(馬関は昔の下関の呼び名)は新鮮な魚介をリーズナブルな価格で味わってもらおうと2002年にスタートした。原則として金~土曜は午前10時~午後3時、日曜と祝日は午前8時~午後3時に開いている。開催日には市場内の中央通路を挟んで左右に20店舗ほどが出店し、各店自慢のにぎり寿司や海鮮丼、揚げ物などが並ぶ。

 

 寿司ネタは多種多彩。もちろん下関を代表する味覚フグのにぎりも。下関ではフグは「不遇」に通じるとして福を招くように「フク」と呼ぶ。ほとんどの店が1貫単位で販売している。単価は100円から。客は受け取ったトレイに好みの寿司を載せて精算してもらう。別の店で気に入った寿司があれば同じトレイに載せることもできる。まさに寿司バイキング。鮮度抜群のカラフル寿司が並ぶ様子は圧巻そのものでまるで〝寿司のテーマパーク〟のようだった。

 

 市場内の1階と2階に飲食スペースが設けられているほか、屋上の芝生広場や海側で関門海峡を眺めながら買った寿司などを味わうことができる。市場を訪ねてからちょうど1週間。その時食べたのは海鮮丼にウナギ2貫とフグの唐揚げ、それにビール2缶。だけど今もずらりと並ぶ新鮮な寿司ネタの数々が目に焼きついて離れない。また行きたい! その時にはトレイで寿司を1貫ずつ選んで、食べ忘れた〝ふく汁〟もぜひ食してみたい。

 

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<バイカモ(梅花藻)> 低水温の清流に生える日本固有種

2018年08月04日 | 花の四季

【キンポウゲ科の多年草、別名「ウメバチモ」】

 キンポウゲ科の日本固有の沈水植物。初夏~初秋に細長い花柄を水面上に伸ばし、梅の花に似た清楚な白い5弁花を付ける。花径は1~2cmほど。年間を通して安定した低水温(生育適温14~15度)で、水底が砂質の浅い清流を好む。冷涼な北日本には河川や水路などに広く分布するが、暖かい西日本での分布域は河川の上流域や湧水地域などに限られる。別名「ウメバチモ(梅鉢藻)」「ウダゼリ(宇多芹)」。

 変種に浮き葉の形がイチョウに似たイチョウバイカモやオオイチョウバイカモ、浮き葉が手のひら状に深く裂けるミシマバイカモ、バイカモより全体的に小さいヒメバイカモなど。ミシマバイカモの名は静岡県三島地方で最初に見つかったことに因む。その自生地として有名なのが日本最短の一級河川、清水町の柿田川(全長約1.2キロ)。三島市はここから譲り受けたバイカモをもとに「三島梅花藻の里」を設け、この里で育てたバイカモを移植した源兵衛川も群生の名所に育っている。

 近畿地方では滋賀県米原市醒井(さめがい)にある清流、地蔵川の人気が高い。醒井は中山道の宿場町で、地蔵川は〝平成の名水百選〟の一つ「居醒(いさめ)の清水」を水源とする。兵庫県新温泉町の田君川は国内有数のヒメバイカモの群生地として知られる。地元の「田君川バイカモ保存会」を中心に移植や堤防の草刈りなどに取り組んで、毎年見頃の時期にはバイカモ祭りを開いてきた。ただ昨年と今年は豪雨と台風によるバイカモの流失で2年連続中止に追い込まれたという。

 バイカモは淡水魚ハリヨ(トゲウオ科イトヨ属)にとって貴重な産卵場所にもなっている。体長は4~5cmほどの小魚だが、氷河期から生き延びてきたといわれる希少魚。生息地は滋賀県、岐阜県の一部地域に限られ、環境省はごく近い将来に絶滅する危険性が極めて高いとして絶滅危惧ⅠA類に指定している。「梅花藻の花くぐり来て水潔し」(伊藤いと子) (写真は滋賀県米原市醒井の地蔵川で)

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<杵築> 全国唯一の〝サンドイッチ型城下町〟!

2018年08月03日 | 旅・想い出写真館

【谷間の商人の町を挟んで南北の台地に武家屋敷】

 大分県杵築市は豊後路の小京都といわれる。国東半島南部の付け根に位置し、江戸時代には杵築城を中心に南北の台地に武家屋敷群、その間の谷あいに商人の町が築かれていた。今も往時の面影を色濃く残す町並みは、日本唯一の〝サンドイッチ型城下町〟と形容される。高台と谷間を結ぶ数々の坂道が独特な景観をつくり、町並みに味わい深い風情を醸し出していた。

 杵築の坂道を代表するのが商人の町と〝北台〟の武家屋敷をつなぐ「酢屋(すや)の坂」。その名前は坂を下りた所に酢を扱う商店があったことから。坂道の上と中ほどには黒塗りの燈籠。この坂道は度々映画やテレビのロケ地になっているそうだ。坂は直線だが、下側の道幅が狭く、上に行くと広くなる。このユニークな構造は敵が坂の下から攻めにくくするための工夫だったのではないかといわれる。

 

 商人の町を挟んで「酢屋の坂」の向かいには「塩屋(志保屋)の坂」が〝南台〟の武家屋敷に上っていく。それぞれの坂の上から望むと、この城下町がまさにサンドイッチ型であることを実感することができた。南台につながる「飴屋の坂」は数少ない〝く〟の字形に折れ曲がった坂道。雨が降る暗い夜でも石畳が光ってよく見えることから「雨夜の坂」とも書き表される。北台の東の端にある「勘定場の坂」は傾斜が緩く階段の踏み幅もかなり広め。これは馬や籠かきの歩幅に合うように配慮したものといわれる。

 

 杵築城は八坂川の河口にある台山(だいやま)の上にそびえる。1970年に歴史資料館を兼ねて建てられた小規模な模擬天守だが、眼下に海や川、杵築の市街地などを望む360度の見晴らしは絶景そのものだった。ここからの眺めでも南北の高台とその間に挟まれた商人の町のサンドイッチ型の町並みをはっきり確認することができた。また南台の展望台からは杵築城や八坂川、杵築大橋などを遠望することができた。

 

 北台の武家屋敷は長い土塀や白壁、石畳が続き、江戸時代の面影を多く残していた(下の写真㊧)。酢屋の坂を上りきってすぐ右手にある大原邸は家老を務めた武家屋敷で、中島付きの池などを配した回遊式庭園を持つ(同㊨)。茅葺きで、4年前に26年ぶりに約4600万円を投じて葺き替えたそうだ。近隣には能見邸や磯矢邸、杵築藩の藩校「学習館」の門なども残る。商人の町には市役所や新しい商店が立ち並ぶが、その間に「綾部みそ」など江戸時代から続くという商家も点在していた。杵築は〝きものが似合う歴史的町並み〟として、和服で訪れた人に公共観光施設の入館無料、飲食代の割引などのサービスを提供しているそうだ。

 

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<戸畑祇園大山笠> 大下り→お汐井汲み、夜には競演会

2018年08月02日 | 祭り

【第65回の節目を記念し子供山笠も会場を1周】

 国指定の重要無形民俗文化財で福岡県の三大夏祭りの一つ、北九州市戸畑区の「戸畑祇園大山笠行事」が7月27~29日行われ、中日の28日には区役所前の浅生1号公園周辺で最大の見どころの競演会が繰り広げられた。第65回の節目を記念し、東・西・中原(なかばる)・天籟寺の4地域の大山笠と中学生が担ぐ小若山笠の計8基に加え、武者人形や幟(のぼり)で飾られた子供山笠もちびっ子らに綱を曳かれて公園を1周した。

 戸畑祇園の最大の特色は山笠の〝姿替え〟で、昼と夜でその姿を一変する。昼は「幟(のぼり)山笠」と呼ばれ、勾欄付きの台座の上に12本の幟が立てられ、前面は菊花を模した4つの白い〝前花〟、後部は直径が1.5mほどの円形の〝見送り〟で飾られる。水引幕など幕類には勇壮な武者絵などが金糸銀糸で刺繍されており、県の有形民俗文化財に指定されている。夜はこれらの飾り物が全て取り外され、12段309個のろうそくの提灯で彩られた光のピラミッドに変わる。高さは約10m、重さは約2.5トン。この巨大な「提灯山笠」を80人ほどのかきこが鉦や太鼓のお囃子に合わせ「ヨイトサ、ヨイトサ」と担いで進む。

 

 28日の正午前、東・西・天籟寺の大山笠と小若山笠の6基が飛幡八幡宮に集結、神事の後、神輿を先頭に神社の坂道を〝大下り〟し若戸大橋直下の渡し場に向かった。目的地は大橋公園のすぐ横にある「お汐井汲みの場」。各山笠はここで神官によるお祓いを受けた後、ご祝儀の御礼を兼ねて地区内を巡行した。中原の大山笠は例年、拠点とする中原八幡宮での御霊移し神事の後、中原先の浜にあるお汐井汲み場でお祓いする。

 

 競演会ではまず各大山笠の囃子方が観覧席前で巨大な太鼓を叩いてお囃子を披露。この後、ブラスバンドに続いて子供山笠が公園の周りを1周した。子供山笠は例年中日の正午前に飛幡八幡宮に終結するのが恒例で今年も10基近くが集まっていたが、競演会場で顔見世するのは今回が初めてではないだろうか。大山笠と小若山笠はまず昼の幟山笠の姿で周回した後、提灯山笠への姿替えのため台上に四角の櫓が組み立てられた

 

 「5段上げ、開始!」。12段のうち最上部の5段分の提灯が一気に持ち上げられ固定され、各段の提灯の木枠も次々に組み上げられていく。まさにあっと言う間に12段のピラミッドが完成し、各山笠から我勝ちにお囃子の「居神楽」が響いてきた。提灯山笠は夜空に浮かぶその幻想的な姿から、4年前に日本夜景遺産にも認定されている。

 

 この後、全提灯山笠8基の運行に続いて提灯小若山笠のみによる運行。百足競走のように歩調を合わせて担ぐ中学生たちに、十数万人ともいわれる見物客の間から温かい拍手と歓声が送られていた。最後は大山笠による〝自由競演〟。東・西・中原・天籟寺の大山笠4基が抜きつ抜かれつの熱い競争を繰り広げる競演は午後9時すぎまで続いた。まさに真夏の暑さを忘れさせてくれるひとときだった。

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<中津祇園> 辻々で華麗な踊り、勇壮な練り込みも

2018年08月01日 | 祭り

【台風接近で最終日は午前中で終了!】  

 長い伝統を誇る大分県中津市の中津祇園が7月27~29日の3日間行われ、踊り舞台を備えた豪華な山車「祇園車(ぎおんぐるま)」が城下町を曳き回された。ただ「戻車(もどりぐるま)」と呼ばれる最終日の29日は迷走台風12号の接近のため、午前中に全ての神事を終了し、歩行者天国への祇園車の集結など午後に予定されていた行事は中止となった。

 中津祇園は別々に繰り広げられる中津神社の〝上祇園〟と闇無浜(くらなしはま)神社摂社の八坂神社を中心に行われる〝下祇園〟からなる。かつては上祇園の1週間後に下祇園が行われていたが、1971年から同日開催となった。始まりは約580年前といわれるが、現在のような山車が登場したのは約330年前の1683年(天和3年)からという。祭り期間中に曳き回される祇園車は上祇園7台、下祇園6台の計13台。加えてそれぞれ神輿が1基ずつ担ぎ出される。

 

 

 祇園車の大きな特徴はほとんどが舞台付きの踊車(おどりぐるま)であること。中津の狭い路地を巡行できるように、左右の軒の部分を上向きに折り曲げた〝折り屋根〟になっているのも特徴の一つ。金箔を張った破風、華麗な彫刻や格天井など贅を尽くしたものが多い。重さ2~3トンという祇園車を支えるのは〝グル〟と呼ばれる重厚な車輪。樹齢数百年の松でできており、祭り後に山車が解体されると、車輪は虫食いなどの被害から守るため中津城の堀などに埋められるそうだ。

 

 最終日の29日、中津神社の南側一帯を巡行する上祇園の祇園車から梅沢富美男の『夢舞台』が聞こえてきた。近づくと音楽に合わせ1人の踊り子が舞台でしなやかに舞っていた。祇園車は〝高〆(たかじめ)〟が張られた通りの辻(十字路)で止まっては踊りを奉納し、次の辻に向かった。この〝辻踊り〟は辻や町と町の境界などから侵入してくると信じられていた悪霊を、神様の力で退散させてもらおうというもの。踊り子の中心は小中学生の女の子たちで、ある祇園車では8人で全員踊りを行っていた。本番に向け練習を重ねてきたのだろう、みんな見事な踊りを披露して大きな拍手が送られていた。

  

 祇園車7台はこの後、1台ずつ鳥居をくぐって神社に戻った。多くの祇園車が広い境内を全力疾走する〝練り込み〟を披露、土煙をもうもうと舞い上げながら2周ほど回っていた。正午前後には台風の影響で雨が降り始め、祇園車は次々とブルーシートなどで覆われた。祇園車の最後尾は片端町踊車で、ちびっ子を満載して入ってきた。子どもたちのかわいい笑顔が印象的だった。最後に鳥居をくぐったのは新魚町の奉仕による中津神社の神輿。この新魚町もかつては祇園車を出していたが、昭和の初めに宇佐地域の町に売却したそうだ。

 

 

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