く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<高校ラグビー大阪府予選> Aシード3校が全国大会へ

2023年11月13日 | スポーツ

【東海大仰星、強豪常翔との接戦制す】

 第103回全国高校ラグビー大会の大阪府予選が11月12日、東大阪市花園ラグビー場で行われ、Aシードの関西大学北陽高校、大阪桐蔭高校、東海大付属仰星高校の3校が勝って全国大会(12月27日開幕)に駒を進めた。関大北陽にとっては初の全国切符。大阪桐蔭は3大会連続17回目、仰星は5大会連続23回目の出場となる。

〔第1地区決勝〕関大北陽41―7大阪産業大学付属高校

 初のAシード関大北陽の戦いぶりが注目を集めた一戦。前半10分台に北陽が2本のトライを決める。これで北陽ペースになるかと思われたが、大産大付属は20分すぎ主将の小谷剛輝がトライ(写真)。その後も互いに譲らず北陽の10―7とわずか3点差で前半を折り返す。

 だが後半に入ると北陽が地力を発揮、バックス・フォワードが一体となって大産大付属を圧倒した。4本のトライとコンバージョンを積み重ね、さらにロスタイムにはペナルティーキックにも成功。大産大付属は後半、零封に抑え込まれた。

〔第2地区決勝〕大阪桐蔭24―3大阪朝鮮中高級学校

 まず先制したのは大阪朝高。開始早々、相手の反則で得たペナルティーキックをきっちり決め、幸先のいい3点に応援席は大盛り上がり。この後、桐蔭は激しくゴールに迫るが、朝高が必死に防戦。桐蔭がモールで押し込みトライと思われた場面もあったが、結局認められず(写真)、朝高の3―0でハーフタイム。

 しかし後半開始直後、桐蔭は2本のトライを決め14―3と逆転に成功。その後、約20分間にわたって一進一退の攻防が続いたが、桐蔭が相手のオフサイドの反則で得たペナルティーキックを決め17―3に。さらにロスタイムにはNO8上野凌大の後半2本目のトライ(写真)で引き離した。

〔第3地区決勝〕東海大仰星27―17常翔学園

 Aシードの仰星と春の全国選抜大会4強常翔の対戦は予想通りの好ゲームとなった。前半14分、仰星のCTB金子健伸が独走して右隅にトライすると、常翔もトライを奪い返して5―5の同点に。その後、再び仰星がトライとゴールキックを決め12―5で前半を終えた。

 後半開始早々、先にトライを決めたのは常翔(下の写真)。これで2点差まで迫ったが、その後仰星が2本のトライを決め24―10。だが常翔も負けていない。後半20分、ラインアウトからモールを押し込みゴールも成功し、再び1トライ1ゴール差に。しかし25分、相手にペナルティーキックを与え10点差に広げられた。常翔にとっては前半のペナルティーキックの失敗や後半反則が相次いだことが痛かった。

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<花園ラグビー場> W杯控え「資料館」が「ミュージアム」に変身

2019年01月04日 | スポーツ

【VRで迫力のある選手の動きを体感!】

 大阪・奈良府県境の生駒山を望む東大阪市花園ラグビー場。全国高校ラグビー大会の会場として、花園は高校ラガーマンにとって憧れの〝聖地〟。今秋にはワールドカップも控えており、2年から大規模なリニューアル工事が行われてきた。その一環として旧ラグビー資料館も「花園ラグビーミュージアム」として生まれ変わった。高校ラグビー準々決勝が行われた1月3日、ミュージアムは多くのラグビーファンでにぎわっていた。

 ミュージアムはメーングラウンドの正面入り口を入ってほぼ向かい側(南側サイドスタンドの1階部分)に位置する。展示されているのはラグビーの歴史や高校・大学・社会人のラグビー大会の歩みを紹介するパネル、オールジャパンのジャージやサインボールなど。日本人として初めてラグビー殿堂入りを果たした坂田好弘さんを紹介するパネルや、〝史上最大の番狂わせ〟ともいわれた前回W杯の日本・南アフリカ戦(34対32)の模様を伝えるパネルも。勝利の雄たけびを上げる日本代表の勇姿を目にしたとき、4年前の驚きと感動が蘇ってきた。

 

 一角には「宇宙を旅したラグビーボール」(下の写真)も鎮座。高校~大学でラグビーに明け暮れた宇宙飛行士星出彰彦さんが2008年にスペースシャトルディスカバリー号に乗船したとき持っていったという。新設のVR(バーチャルリアリティー)体験コーナーには行列ができていた。専用ゴーグルとイヤホンを装着すると、オフェンスあるいはディフェンスの場面を選手と同じ目線で体感できる。その力感あふれる素早い動きに圧倒された。来場者の中には展示の品々を覗き込むようにじっくり見て回る人も多かった。

 

 花園ラグビー場は日本初のラグビー専用球技場として1929年に開場。W杯を前に2017年2月から大規模な改修・増築工事が行われてきた。メーングラウンド正面の壁面はラグビーのスクラムをイメージする格子状のデザインに一新。スコアボードのある北側にもスタンド席が新設されたほか、大型ビジョンや夜間照明、ドーピング検査室なども設けられた。ゴールポストの高さも従来の13mから国際基準の17mに。W杯では花園で9月22日のイタリア・ナミビア戦を皮切りに同28日アルゼンチン・トンガ戦、10月3日ジョージア・フィジー戦、同13日アメリカ・トンガ戦の計4試合が予定されている。

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<双葉の里> 大横綱双葉山の生涯を辿る記念館

2018年08月06日 | スポーツ

【隣接する生誕の地には忠実に復元した生家】

 「相撲の神様」「昭和の角聖」と称される大横綱双葉山(1912~68、本名穐吉=あきよし=定次)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)で生まれた。周防灘に注ぐ伊呂波川の河口近く。5歳の頃右目を失明し、さらに11歳のときには回船業を営む父親の手伝いをしていて右手をウィンチに挟まれ小指の一部を失う。だが、この2つのハンディを現役時代周りの人に語ることはなかった。そして1年2場所の時代に優勝12回(うち全勝8回)、前人未到の69連勝という偉業を成し遂げた。

 生地のそばに双葉山の生涯や記録、相撲道に対する思いなどを、多くの写真や資料などで紹介する記念館「双葉の里」がある。JR日豊本線天津駅から海側へ徒歩20分あまり。1999年に開館し、生誕100年に当たる2011年に資料展示室などをリニューアルした。施設の前には「超六十連勝力士碑」が立つ。双葉山のほか63連勝の白鵬、2代目谷風の名前と手形が刻まれており、11年に白鵬を迎えて除幕式を開いた。施設前左手には漫画家やくみつるさんの企画による双葉山と行司の顔出しパネルも。

 

 資料展示室の入り口には高さ約3mの巨大な双葉山像がそびえ立つ。京都教育大学名誉教授の山崎正義氏が制作したポリエステル樹脂製で、宇佐市総合運動場に建立されているブロンズ像の原型とのこと。館内には横長の大きな年表、愛用していた銀製のコップなどの遺品、化粧回しや明け荷、安芸ノ海に70連勝を阻まれた当時の新聞、入門からの全成績、名言集などが展示され、映像コーナーもある。名言として有名なのは「われ未だ木鶏たりえず」。他に「後の先」「勝負師は寡黙であれ」など。双葉山は生涯一度も「待った」をしなかったという。親方時代も「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」を指導理念とし、「心技体」ではなく「心気体」を強調していたそうだ。

 

 この「双葉の里」は今やパワースポットとしても人気を集めている。すぐ裏手に双葉山が生まれ育った生家があった。双葉山没後、夫人の澄子さんが遺志を継いで生家を改装し長く地元の公民館として使われていたが、1999年の生誕80周年の節目に生家の間取りを忠実に復元した。木造茅葺き、広さ約45㎡で、間取りは7.5畳、3畳、板の間、土間などの質素な造り。双葉山は父親が事業に失敗し、借金返済のため中学進学をあきらめた。ただ父の仕事を手伝う中で、後に無類の二枚腰といわれる強靭な足腰とバランス感覚を身に付けたといわれる。

 

 その生家から10分ほど歩いた河口に漁業航海の守り神、金刀比羅宮が鎮座する。その境内の一角に金文字で「横綱双葉山之碑」と刻まれた大きな石碑が立ち、そばには赤屋根で覆われた土俵もあった。最寄り駅天津駅の近くにも「生誕の地」を表す巨大な広告塔などが立つ。双葉山の偉大さを改めて痛感すると同時に、英雄を生んだ地として地元の誇りの大きさも実感することができた。

  

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<高校ラグビー> V候補の東福岡、20トライ・139点で圧勝!

2016年12月31日 | スポーツ

【Bシードの秋田工と国学院栃木は2回戦で姿消す】

 東大阪市花園ラグビー場で開催中の第96回全国高校ラグビー大会は30日、2回戦16試合が行われ、シード校(A3校・B10校)が初登場した。Aシードでは優勝候補の筆頭、東福岡が浜松工(静岡)相手に20トライをあげ大会最多得点の139―0で圧勝、御所実(奈良)と前年準優勝の桐蔭学園(神奈川)も順当に元日の3回戦に進んだ。Bシードでは秋田工が報徳学園(兵庫)に敗退し、国学院栃木は日本航空石川と引き分け抽選の結果、3回戦進出を阻まれた。(写真は浜松工相手に縦横に走り回りトライを量産した東福岡の選手たち)

 東福岡がスピードとパワーで圧倒的な力の差を見せつけた。1年前は準決勝で東海大仰星(大阪第1)に22―24で決勝進出を阻まれており、2大会ぶり6回目の全国制覇を目指す。今シーズンは4月の全国高校選抜大会と7月の全国高校7人制を制しており、今大会で3冠達成も狙う。秋の福岡県予選では4戦で被トライは僅か1つだけ、総得点は445点と1試合平均100点を超えた。この日の浜松工戦でも平均体重約100キロの強力なFWとBKが一体となった速攻が光った。3回戦の相手は山形中央、山口を破った松山聖陵(愛媛)。

 

(上の写真は㊧御所実―尾道、㊨東海大仰星―光泉)

 御所実は2年ぶり10回目の出場。毎年奈良県予選で天理と熱い戦いを繰り広げており、今年は天理を18―7で破って花園に駒を進めた。Aシードは今回で2回目。初戦はノーシードとは思えない尾道(広島)の力強い攻撃に手を焼き再三ゴール近くまで攻め込まれたが、ゴールを割らせない粘り強い堅守が目を引き26―0で零封。桐蔭学園も33―7で流通経大柏(千葉)を退けた。3回戦では御所実は大分舞鶴、青森北を撃破し勝ち上がった茗渓学園(茨城)と、桐蔭学園は鹿児島実、明大中野(東京第2)を破った新潟工と対戦する。

 

(上の写真は㊧東京―岡谷工、㊨深谷―長崎北陽台) 

 Bシードでは前回優勝の東海大仰星が光泉(滋賀)を61―5と寄せつけず、春の選抜ベスト4の東京(東京第1)も岡谷工(長野)を73―5で退けた。京都府予選で伏見工・京都工学院を僅差で破って花園出場を果たした京都成章も高鍋(宮崎)に46―5と圧勝。秋田工は後半の追い上げも及ばず報徳学園に19―24で破れた。国学院栃木は後半終了間際のトライで日本航空石川に追いつき19―19で引き分けたが、抽選で日本航空石川の3回戦進出が決まった。このほか常翔学園(大阪第2)、大阪桐蔭(大阪第3)、中部大春日丘(愛知)、深谷(埼玉)、石見智翠館(島根)も3回戦に駒を進めた。(写真は上段㊧松山聖陵―山口、㊨大阪桐蔭―朝明、下段㊧常翔学園―佐賀工、㊨日本航空石川―国学院栃木)

 

 

 

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<パラ・トライアスリート秦由加子> フラミンゴの刺繍入り手提げ袋!

2016年10月20日 | スポーツ

【リオ五輪のトライアスロンで6位と健闘、2020年東京の目標は表彰台】

 「健常者、障害者を問わず、優れた運動選手が会心の瞬間に見せる姿の美しさには胸を打つものがあり、そうした写真の幾つもを切り抜いて持っています」。20日に82歳の誕生日を迎えられた皇后美智子さまが、9月のリオデジャネイロ五輪・パラリンピックについて宮内記者会の質問に文章でこう回答された。今回のパラリンピックでは金メダルこそゼロだったが、メダル総数は銀10個、銅14個の計24個に達し、16個だった4年前のロンドン五輪を大きく上回った。

 リオ・パラリンピックではトライアスロンが初めて正式競技として採用された。運動機能障害PT2クラス(下肢切断など)には密かに応援していた秦由加子選手(35)=マーズフラッグ・稲毛インター=が出場。得意の競泳(750m)で8選手中2位につけたが、バイク(自転車、20km)で6位に後退、最後のラン(5km)では後続選手の追い上げをかわし6位をキープしてゴールした。1~3位は米国勢が独占した。秦選手はゴール直後に倒れこんだが、その後インタビューに対して「力を出し切れた」と晴れやかな表情で語った。

 その秦選手から「後援会の皆様へ 応援ありがとうございました!」と、デニム生地の手提げ袋が送られてきた。「YUKAKO HATA」と「JAPAN」の文字の間に4羽の1本足で立つフラミンゴを刺繍であしらったデザイン。添えられたメッセージの前半には「初のパラリンピック出場ということで、日の丸を背負う重みと世界の舞台に立つことへの緊張を感じながらレースに臨みました」とあった。4年ほど前に水泳からトライアスロンに転向して以来、内外の大会で好成績を収めてきたが、やはり五輪は普通の国際大会とは全く違う特別のものだったようだ。

 スタートラインに立ったとき「ずっと目指してきた場所に今まさに自分がいるという実感が沸き、涙が込み上げた」という。「バイクやランの間中、コースの端から端まで声援は途切れることなく続き、世界中の方々が各国の旗を振りながら声援を送ってくれました。青いカーペットのトランジション・フィニッシュエリアに入った時の声援と場内アナウンスは、自分に向けられているとは信じ難い程で、全てが夢のような経験でした」。そして最後をこう結ぶ。「これからも自分の可能性を信じ、挑戦し続けていきたいと思っております」。メッセージの下には手書きで「○○様 応援ありがとうございます。秦」とあった。

 秦選手は13歳のとき、骨肉腫で右足の大腿部から下の部分を失った。以来、スポーツとは無縁の生活を送っていたが、社会人になって水泳を始め、31歳のときにトライアスロンに転向、2014、15年の世界トライアスロンシリーズ横浜大会では連覇を果たした。リオ五輪前、秦選手は「私の姿を見てトライアスロンをやりたいと思ってくれる人がいたら、その人の人生も自分と同じように変わっていってくれると思う」と話していた。それだけに五輪では表彰台を目指した。だが、かなわなかった。このメッセージの中で秦選手は「今の力を精一杯出し切ることはできたと思っておりますが、やはりメダルを獲得できなかったことは悔しく思います」と正直に吐露している。秦選手はすでに4年後の東京を見据えているようだ。

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<大阪自由大学> スポーツ事件の裏の裏「ヒットラーとベルリン五輪」

2016年07月15日 | スポーツ

【玉置通夫氏「メディア史上、画期的な大会だった」】

 大阪自由大学主催の連続講座「スポーツ事件の裏の裏―その真相を探る」の第4回講座が14日、大阪市中央区本町の「おおさかシニアネット」で開かれた。講師は大阪スポーツマンクラブ会長の玉置通夫氏(元毎日新聞編集委員)。1936年のベルリン・オリンピックはドイツのヒットラーが〝好戦国家〟としての疑念を払拭するため政治的に最大限利用した大会といわれるが、玉置氏は現地でのテレビによる実況中継や史上初の記録映画の製作など「メディア史のうえで画期的な大会でもあった」などと語った。

   

 ヒットラーは最初、開催に否定的だったが、側近ゲッペルスらの忠言を受け入れ開催を決めたという。「周辺国が警戒を強めていた中、好戦的な姿勢をカモフラージュするうえで格好のイベントだった」。ベルリン大会では新基軸として聖火リレーが初めて採用され、現地ではテレビによる実況中継も行われた。女性監督を起用して「民族の祭典」「美の祭典」という2部構成の記録映画も製作された。また設備や運営面でも参加選手らに好印象を与えたという。

 日本選手の活躍はめざましいものだった。日本の〝お家芸〟といわれた三段跳びでは前々回(アムステルダム)の織田幹雄、前回(ロサンゼルス)の南部忠平に続いて田島直人が世界新で優勝し三連覇。競泳では200m平泳ぎの前畑秀子や葉室鉄夫らが優勝し、マラソンでも孫基禎が金メダルをとった。そのベルリン大会では日本で初めてラジオによる実況中継も実現し、「前畑、がんばれ」の絶叫に多くの国民が熱狂した。河西三省アナウンサーは生前当時を振り返って「冷静に放送しないといけないのに応援団になってしまった。アナウンサーとしては失敗作。絶対に聞きたくない」と話していたそうだ。

 日本の新聞社の報道合戦もすさまじかった。各紙は初めて特派員団を結成し、一流の作家や文化人も送り込んだ。朝日は武者小路実篤、毎日は横光利一、読売は西条八十……。ベルリン大会は「オリンピックとメディアの関係が新たな段階に入った記念すべき大会でもあった」。五輪開幕前日にはIOC(国際オリンピック委員会)の理事会で、4年後の1940年の開催地が東京に決まった。だが、日本は1937年の日華事変(日中戦争)の勃発を機に戦争に突き進む。ドイツも39年ポーランドに侵攻する。そうした中、日本は東京五輪の開催を返上し「東京に向け準備をしていた多くの選手がオリンピックの夢を断たれた」。

 戦時下の1944年も五輪は開かれず、48年になってようやくロンドン大会が開かれた。だが戦争当事国の日本とドイツは参加が認められず、日本の五輪復帰は52年のヘルシンキ大会まで待たねばならなかった。ベルリンから実に16年もの空白。「この間にピークを迎えた選手たちにとっては大きな痛手だった」。世界新を連発し〝フジヤマのトビウオ〟とまでいわれた古橋広之進でさえ、ヘルシンキでは400m自由形決勝で最下位に終わった。4年前のロンドンに出ていたら金メダルはほぼ確実だった。ロンドン大会の競泳決勝に合わせ同じ日に行われた日本選手権。古橋が400mと1500m自由形で出したタイムは世界新に相当し、ロンドンの金メダリストの記録も上回っていた。

 ◎次回以降の同講座の開催日とテーマは以下の通り。第5回=9月8日「東京五輪フィーバー」、第6回=10月13日「大相撲界最大の騒動、春秋園事件」、第7回=11月17日「力道山の死」、第8回=12月8日「南海ホークス蔭山監督の急死」(いずれも午後6時半~8時「おおさかシニアネット」で、参加費は1000円)

 

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<リオ・パラリンピック> パラトライアスリート・秦由加子選手〝夢舞台〟へ!

2016年07月14日 | スポーツ

【女子パラトライアスロンの日本代表に内定】

 パラトライアスリートの秦由加子さん(35)=マーズフラッグ・稲毛インター=が、9月に開催されるリオネジャネイロ・パラリンピックのパラトライアスロン女子の日本代表に内定した。日本トライアスロン連合が13日に発表した、水泳からトライアスロン競技に転向して約3年。昨年からパラリンピック出場を目指し積極的に内外の大会に出場してきたが、その努力が報われ大きな夢がかなうことになった。昨年後援会に入会し密かに応援してきた一人としてもうれしい限りだ。

       

 秦さんは13歳だった中学1年のとき、骨肉腫のために右大腿部を切断した。長くスポーツとは無縁の生活だったが、24歳の2007年、一念発起して水泳を始めた。さらに5年後の2013年にはトライアスロンに転向し、翌年には日本トライアスロン連合の強化指定選手に。パラトライアスロン女子はスイム0.75キロ、バイク(自転車)20キロ、ラン5キロの3種目合計25.75キロで競う。障がい度に応じてPT1~5のカテゴリーがあり、秦さんは高度下肢障がいクラスのPT2に属す。

 リオパラリンピックに出場するには国際トライアスロン連合(ITU)主催の国際大会などに数多く出場しポイントを積み上げる必要があった。今年は3月の南アフリカ大会で4位、4月のオーストラリア大会で2位と健闘し、4月末に広島県廿日市市で開かれたアジア選手権では優勝を飾った。5月のITU横浜大会では世界ランキング1位のアリサ・シーリー(米国)に最後のランで抜かれ2位に終わったが、そのときのタイム1時間26分56秒は国際大会でのベスト記録だった。

 秦さんの強みは最初のスイムにある。横浜大会でもスイムでシーリーに約2分半もの大差をつけており、続くバイクでも1位をキープした。先月6月に開かれた関東身体障がい者水泳選手権では100m自由形と400m自由形の2レースを制している。うち100mは大会新記録だった。課題は最後のランをどう粘るかだろう。ランの出来によってはメダル争いも決して夢ではない。パラトライアスロン女子は9月11日、リオ南部のコバカバーナ地区で開かれる。 

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<相撲サミットin葛城> 横綱白鵬の登場で会場は超満員!

2016年02月29日 | スポーツ

【ちゃんこにも長蛇の列、ゲル内ではモンゴル衣装で記念撮影】

 奈良県葛城市の新庄文化会館を主会場に28日「相撲サミット2016in葛城」が開かれた。横綱白鵬と市相撲館「けはや座」名誉館長、河内家菊水丸氏(新聞詠み河内音頭家元)の対談は大勢の立ち見客も出る超満員で、優勝回数35回を誇る大横綱の話に熱心に耳を傾けた。宮城野部屋力士によるちゃんこ販売にも長蛇の列ができて、大勢の人が本物のちゃんこの味に舌鼓を打った。

 

 対談に先駆けて「けはや相撲甚句会」のメンバー10人による相撲甚句の披露や西岩親方(元関脇若の里)による講演、モンゴル伝統芸能の披露などがあった。西岩親方は昔と今の実力差について陸上競技のタイムなどを挙げながら「相撲でも現代が最強ではないか」と指摘、自ら対戦した相手で最強だったと思う力士に元横綱貴乃花(貴乃花親方)を挙げた。またメンタルトレーニングの重要性に触れ「どんなにつらい逆境の時にもプラスに考えることがなによりも大切。これはスポーツだけでなく普段の生活にも通じる」と強調していた。

 白鵬の来場は同市の「モンゴル友好協会・未来への架け橋」の橋渡しで実現した。対談はまず35回の優勝の場面を大画面で振り返ることからスタート。その後、白鵬は入門時の体重が62キロであまりの細さに親方が驚いていたことなど様々なエピソードを披露してくれた。勝ち負けは「組んだ瞬間に分かる」そうだ。「好きなのは体が硬い人で、一回(体勢が)崩れるとそのまま崩れる」。逆に崩れそうで崩れない体が柔らかい力士として豊ノ島と安美錦を挙げた。

 

 尊敬する力士は69連勝の記録を持つ双葉山と優勝回数32回の昭和の大横綱大鵬。相撲をとってみたい歴史上の力士としてもこの2人を挙げた。立ち合いの「後の先」を得意とした双葉山には「当たったら後の先にはまる。(いい取り口が)浮かばない」と話した。ただ過去に1度だけ夢の中で双葉山と相撲をとったという。あと1回で双葉山の優勝回数12回に並ぶという巡業中のこと。その勝負の結果を問われると、白鵬は「心の中にしまっておく」と笑いながら答えていた。が、その表情から察すると双葉山に勝ったのだろう。

 対談の後、奈良県の葛城市、香芝市、桜井市と兵庫県のたつの市の4市による共同宣言が発表された。これら4市は初の天覧相撲として日本書紀にも登場する當麻蹶速と野見宿禰のゆかりの地で、今後〝相撲発祥の地〟として連携して観光振興と地方創生に取り組むと宣言した。この日はその他にも多彩な催しが開かれた。白鵬の化粧回しの展示、現役力士2人(幕下・高三郷と三段目・勝武士)による初っ切り、しり相撲大会、移動式住居ゲルの展示、モンゴル伝統衣装の試着、モンゴル写真・絵画展……。好天に恵まれたこともあって、会場の文化会館や屋敷山公園周辺は終日多くの来場者でにぎわった。

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<高梨沙羅> W杯スキー・ジャンプ初戦、優勝で飾る!

2015年12月05日 | スポーツ

【2シーズンぶり個人総合制覇へ好発進、伊藤は10位】

 ノルディックスキーの2015/16ワールドカップ(W杯)ジャンプ女子が開幕した。ノルウェー・リレハンメルで4日午後3時(日本時間午後11時)に始まった第1戦(HS100m)で、日本のエース19歳の高梨沙羅(クラレ、写真中央)が優勝し、3回目の個人総合優勝に向けて好スタートを切った。W杯通算31勝目。伊藤有希(土屋ホーム)は10位だった。

 

 昨季総合2位だった高梨は最後から2番目に滑走し1本目95.5m、2本目97.5mで着地のテレマークも決まった(合計251.7ポイント)。2位はスロベニアのマヤ・ヴティッチ(写真㊧)で1本目はこの日最長の101.5m、2本目は93.0m(240.2ポイント)。3位は地元ノルウェーのマーレン・ルンドビー(㊨)で96.0m、92.0m(233.6ポイント)だった。ソチ冬季五輪の銀メダリストで昨季W杯総合優勝のダニエル・イラシュコは僅か2.7ポイント差で表彰台を逃した。

  このイラシュコをはじめオーストリア勢4人が4~7位を独占した。昨季のW杯総合5位で今季の飛躍が期待される伊藤は10位と振るわなかった。日本勢の残り2人、勢藤優花(北海道メディカルスポーツ専門学校)は16位、岩渕香里(松本大学)は20位。ソチ五輪金メダリストで昨季W杯総合3位のドイツのカリーナ・フォークトは15位スタート。

  W杯のジャンプ女子は4年前の2011/12シーズンから始まり、米国のサラ・ヘンドリクソンが初代女王に輝いた。翌12/13シーズンは16歳高梨が16戦中8戦を制し2代目女王となり、さらに13/14シーズンでは18戦15勝と圧倒的な強さで連覇を飾った。ただ金メダル候補の大本命といわれたソチ五輪は追い風という不利な条件もあって4位入賞と惜しくも表彰台に届かなかった。さらに昨季W杯(6勝)は最終戦までダニエル・イラシュコと競り合ったものの3連覇はならなかった。

  だが今年の高梨には再び勝負強さが蘇ってきた。夏のグランプリでは5戦全勝で個人総合4連覇を達成し、秋の全日本選手権、NHK杯も快勝。そして昨季3位だったW杯開幕戦が今季は幸先よく1位に。個人総合の優勝争いは今季も高梨を中心に繰り広げられそうだ。今季W杯の個人女子は来年3月6日の最終戦まで全19戦。第2~第3戦は12~13日にロシアのニジニ・タギルで、続く第4~第7戦は年明け1月に日本の札幌・宮の森(16~17日)と蔵王(22~23日)で行われる。

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<大阪スポーツマンクラブ> 玉置会長講演「田中のボストンマラソン制覇」

2015年10月31日 | スポーツ

【昭和26年に19歳日大生、日本の陸上界を活気づけた快挙!】

 大阪市西区の大阪スポーツマンクラブ会議室(靭テニスセンター地下)で29日、「田中のボストンマラソン制覇」をテーマに同クラブ会長玉置通夫氏の講演があった。同クラブと大阪自由大学共催の連続講座「戦後70年とスポーツ」の一環。若干19歳の大学生、田中茂樹が第55回ボストンマラソンを制したのは戦後まもない1951年(昭和26年)4月19日のこと。日本の陸上界はその快挙に沸き、田中は現地の黒人社会からも大歓迎を受けたという。

   

   当時の毎日新聞社会面(昭和26年4月21日付)は「田中堂々優勝す」と3段見出しで大きく扱い、ゴールする田中の写真も添えている。「〝原爆の子〟十九歳の田中茂樹選手は好調に快走、群がる強豪を一しゅうしてゴールに飛び込み、2時間27分45秒で優勝し、ダイヤ入りのメダルを獲得、栄冠は太平洋を渡ってアジヤに輝いた」。マラソン大会として最も古い歴史を持つボストンで欧米人以外が優勝したのは初めて。同じ紙面のアタマ記事は「マ元帥の記録映画 六月に日本でも公開」だった。

 敗戦で日本は世界の水泳や陸上などの競技連盟から除名されており、48年のロンドン五輪出場も阻まれていた。敗戦から6年目。51年のボストンマラソンは日本の陸上界が戦後初めて海外に送り込んだ国際舞台だった。派遣したのは田中茂樹をはじめ小林舜治、内川義高、拝郷弘美の4人。日本人選手は全く下馬評にも上がってなかったが、ふたを開けると田中が終盤の心臓破りの丘でスパートして2位の米国人に3分以上の大差をつけて優勝。さらに小林5位、内川8位、拝郷9位と4人全員が入賞(10位まで)を果たした。

 「これまで日本勢は誰も参加したことがなく未知の大会だったが、敢然と挑んだ日本大学1年生の田中が金的を射止めたのだから、大きな話題とならないはずがなかった」。田中は広島県比婆郡敷信村(現庄原市)の出身。高校までの砂利道4キロを毎日走って登校していた田中は中国駅伝で大活躍。ボストン出場はスカウトされて日大に進学した直後のことだった。

 田中は14歳のとき、遠くで大きな光を見たという。それは広島に投下された原爆とみられる。その広島出身の田中の優勝をボストンの地元新聞は「アトムボーイが快挙」の見出しで大きく報じた。田中自身、レース後「原爆を落としたアメリカ人に負けてたまるか、という気持ちで走った」と話したそうだ。地元の黒人たちからも「(自分たちを差別する)白人をやっつけてくれて、こんなに胸のすくことはない」と大歓待を受けた。

 田中は一躍、翌年に迫ったヘルシンキ五輪の有力候補に躍り出る。しかし、練習中に足を痛めて選に漏れ、その後は目立った活躍がないまま第一線を退き日本陸連理事などを務めた。現在もご健在で、後進の指導を続けているという。「選手としては不遇に終わったが、田中のボストンでの力走に刺激されて、日本のマラソン界が活気づいたのは間違いない」。ヘルシンキ五輪ではメダルを逃したものの、翌1953年のボストンマラソンを山田敬蔵が、55年のボストンも浜村秀雄が制して、日本は世界のマラソン界の強豪国としての地歩を固めた。

 連続講座「戦後70年とスポーツ」の今後の日程とテーマは以下の通り。11月5日「佐伯通達と柳川事件」、12日「モスクワ五輪ボイコット」、19日「江川事件」。いずれも午後2時~3時半、大阪スポーツマンクラブ会議室で。受講料各1000円。

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<国際女子ソフトボール大会> 日本、上野力投も延長の末米国に惜敗

2015年08月11日 | スポーツ

【米5連覇達成、熱戦に観客から惜しみない拍手】

 「2015JAPAN CUP国際女子ソフトボール大会」が7~9日、岐阜県大垣市の北公園野球場で開かれた。出場は日本、米国、オーストラリア、台湾の4カ国。日本は予選リーグ3戦全勝で決勝に進出し、4連覇中の米国(予選2勝1敗)と対戦したが、惜しくも延長の末1―2で敗れ5大会ぶり2回目の優勝はならなかった。

  日本は前日の予選リーグ2日目に米国を3―0で下していた。この日は温存していたエース上野が要所で三振を奪うなど米国の反撃を断ち切って7回まで零封。一方、日本は2回に2死満塁、3回は先頭河野が2塁打で出塁、さらに6回にも先頭中森がヒットで出塁するなど再三先取点のチャンスを迎えながら、ここ一番で1本が出なかった。肝心なところでのバント失敗も痛かった。(写真は上段㊧力投する上野㊨捕手の我妻と話す上野、下段㊧6回裏ヒットで出塁する中森㊨試合終了直後の日本チーム)

 

 

 最終回の7回を終わってヒット数は米国の5本に対し日本は6本、互いに失策ゼロと、がっぷり四つの手に汗握る展開だった。無死2塁から始まるタイブレーカーの8回表、米国は1死からヒットで2、3塁とした後レフトオーバーの2塁打で2点を先取。日本も1死3塁から外野ファール飛球による犠牲フライで1点を返したが、その直後、抜ければ長打という鋭いレフトライナーを好捕されてゲームセット。米国の再三の堅守が光った。

 

 日本の5大会ぶりの優勝はならなかったものの、スタンドを埋め尽くした観客からは両チームの選手に惜しみない拍手と歓声が送られた。3位決定戦はオーストラリアが3番ポーターの特大の3ランホームラン(上の写真㊧本塁上でナインに迎えられるポーター)などで台湾を4―0で下した。バックネットには「野球・ソフトボール2020年復帰を!」と大書された横断幕(写真㊨)。2020年東京五輪の追加種目は来月9月28日の大会組織委員会理事会で選ばれ、来年8月の国際オリンピック委員会(IOC)総会で正式決定する。

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<人見絹枝> 「非凡な選手 名文家で講演の名手でもあった」

2015年04月18日 | スポーツ

【大阪自由大学の公開講座で玉置通夫氏が講演】

 78年前のアムステルダム五輪で銀メダルに輝いた人見絹枝。日本人女性初の五輪メダリストとして知られるが、彼女はどんな女性だったのだろうか。大阪自由大学の公開講座で「人見絹枝のスポーツ人生」と題して講演した玉置通夫氏(元毎日新聞編集委員)によると、「選手として非凡だっただけでなく、名文家で講演の名手でもあった。全国各地を回って偏見の多かった女子の陸上競技普及に努めた」。玉置氏は「夭折しなければ、国際オリンピック委員会の理事などとして世界のスポーツ界で活躍したのではないかといわれ、再評価の研究も進んでいる」などと話した。

 ≪人見絹枝の略歴≫ 明治40年(1907年)1月1日生まれ。大正9年(1920年)岡山高女(現岡山操山高校)入学、同12年、県女子体育大会の走り幅跳びで日本記録、翌年二階堂体操塾(現日本女子体育大学)入学。大正15年、大阪毎日新聞に入社、第2回国際女子オリンピックの走り幅跳びで世界新を出して優勝。昭和3年(1928年)アムステルダム五輪の女子800mで銀メダル。同6年8月2日肺炎のため死去、享年24。

 近代五輪は1896年に始まったが、クーベルタン男爵の意向を受けて女子は当初参加を認められなかった。そのためヨーロッパを中心に「国際女子スポーツ連盟」が設立され、1922年に女子だけによる第1回国際女子オリンピックが開かれた。人見はその第2回(1926年)と第3回(1930年)に参加している。人見が800mで銀メダルを取った1930年のアムステルダム五輪は、初めて女子の陸上競技が認められたオリンピックだった。

 人見はその五輪直前、100mで世界記録を出しており、五輪でも照準を得意な100mに絞っていた。毎日新聞社員でもあった人見は「100m有力人見」などと自ら署名入りの予想記事を書いていたという。ところが準決勝でよもやの4位。決勝進出さえ果たせなかった。「このままでは日本に帰れない」。そこで出場したのが残る競技800m。人見にとって未経験の中距離だけに「無謀」という声もあった。だが予想を覆して見事銀メダル。ただ人見を含めゴール後全員が倒れ失神する選手も。このため女子にとって過酷すぎるとして、女子800mはこの大会限りで中止に。復活したのは40年後のメキシコ五輪だった。

 人見は身長が169cmで、当時の日本人女性としてはかなり大柄で体格に恵まれていた。ただ運動能力だけでなく「文才があり、和歌もたしなみ、文武に秀でた女性だった」。玉置氏は「恩師や先輩との良い出会いが人見の人生を左右した」とし、恩師の二階堂トクヨ(二階堂体操塾=現日本女子体育大=の創設者)や木下東作(大阪医専教授、後に毎日新聞運動部長)を挙げる。女子スポーツの良き理解者でもあった木下は人見の思いに応えて海外派遣を実現させた。

 人見の後半生は「スキャンダルとの戦いでもあった」という。多忙な講演活動などを支えるため、二階堂塾の後輩女性が一緒に住んで身の回りの世話をしていた。このことから「同性愛者ではないか」という噂が絶えなかった。大きな体格から男ではないかという醜聞にも悩まされたそうだ。

 アムステルダム五輪の銀メダルは戦時中に供出され現存しないともいわれてきた。ところが15年前の2000年、生家の押し入れの中から偶然見つかった。五輪の女子陸上で人見以来2人目の日本人メダリストとなったのは1992年バルセロナ大会でのマラソンの有森裕子。同じ銀メダルだった。実に64年ぶりのこと。有森は出身地も同じ岡山市とあって人見を尊敬するスポーツ選手として挙げている。

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<スキー・ジャンプ女子> 13日にW杯最終戦 通算30勝を目指す高梨

2015年03月04日 | スポーツ

【世界選手権銀メダルの伊藤は今季W杯初の表彰台が目標】

 ノルディックスキーの2014/15ワールドカップ(W杯)女子ジャンプは13日にフィンランドのオスロで最終戦が行われる。12戦までの戦績は1位ダニエラ・イラシュコ(オーストリア)を2位の高梨沙羅が追う展開。ポイントで大差があるため高梨の3連覇は極めて厳しい状況だが、高梨にはこの最終戦にW杯通算優勝30回目がかかる。2月20日の世界選手権個人ノーマルヒルで銀メダルを獲得した伊藤有希は最終戦でW杯今季初の表彰台を目指す。

☆第12戦までの上位5人の順位と獲得ポイント、1~3位の回数

① ダニエラ・イラシュコ  962点(1位5回、2位4回、3位1回)

② 高梨 沙羅       873点(1位5回、2位1回、3位3回)

③ カリーナ・フォクト   622点(1位2回、2位4回、3位なし)

④ シュペラ・ロゲイユ   549点(1位1回、2位なし、3位3回)

⑤ 伊藤 有希       398点(1位なし、2位なし、3位なし)

 女子ジャンプは初開催の2011/12シーズン、サラ・ヘンドリクソン(米国)が制して初代女王になったが、翌シーズンから日本のエース高梨が2連覇。今季は第12戦(2月15日)でイラシュコと高梨が同点で優勝を分け合った結果、総合優勝は最終戦に持ち込まれた。イラシュコは31歳のベテランでソチ五輪の銀メダリスト。(写真㊧=W杯第12戦で左側のイラシュコと優勝を分け合った高梨沙羅、写真㊨=世界選手権で銀メダルを獲得した伊藤有希。右は優勝したカリーナ・フォクト)

 

 1位と2位のポイント差は89点。高梨が3連覇を果たすには最終戦で優勝して100点を獲得することが最低条件。そしてイラシュコが21位以下に沈んだ場合に高梨のポイントが初めて上回る。ただイラシュコの今季の成績は極めて安定している。12戦中、表彰台を逃したのは僅か2回だけ、しかもその2回も4位と8位。しかし何が起こるか分からないのがスポーツの世界。高梨の3連覇にもまだ一縷の望みが残っている。

 これまで4シーズンの高梨のW杯通算優勝回数は29回。サラ・ヘンドリクソンの13回、イラシュコの10回を大きく上回る。それに次ぐのは今季W杯で総合3位につけているカリーナ・フォクト(ドイツ)の2回。23歳のフォクトはソチ五輪の金メダリストで、今年2月の世界選手権でも金に輝いており、大きな大会でめっぽう強い。その世界選手権で高梨は4位に終わっており、せめてW杯最終戦を優勝で飾って通算30回という大台に乗せてほしいところ。

 伊藤は2013/14のW杯で優勝こそなかったものの2位3回、3位2回で、高梨とフォクトに続いて総合3位に輝いた。ところが今季は12戦して4位が最高。まだ表彰台に届いていない。世界選手権の銀メダリストとして、最終戦では思い残すことのないような大ジャンプを期待したい。最終戦には日本から岩渕香里と勢藤優花も参戦する。今季のW杯獲得ポイントはともに99点で24位と同順位。今季最高順位は岩渕が12位、勢藤が11位となっており、最終戦で1ケタ順位を目指す。  

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<高校ラグビー> 5日の準決勝は御所実―京都成章、東福岡―尾道

2015年01月04日 | スポーツ

【Aシード決戦は東福岡に軍配、大阪勢は姿消す】

 近鉄花園ラグビー場(東大阪市)で開催中の全国高校ラグビー大会は3日、準々決勝4試合が行われ、5日の準決勝に進む4強が決まった。Aシード同士の対戦となった東福岡―東海大仰星(大阪第2)は東福岡が攻守に圧倒、43―12の大差で前回大会優勝の宿敵を退けた。東海大仰星は後半残り5分まで無得点、最終盤にようやく2トライを挙げるのがやっとだった。

 

 京都成章―報徳学園(兵庫)は京都成章がバックス陣の活躍もあって4トライを挙げ、後半追いすがる報徳を22―12で振り切った。御所実(奈良)―国学院久我山(東京第1)は御所実が31―19で快勝。自在の走力で4トライを挙げた竹山晃暉選手(7人制ユース日本代表)の活躍が光るが、重量FWを相手にディフェンス陣の頑張りも勝利に貢献した。尾道(広島)―大阪朝鮮(大阪第1)は息詰まる展開で、後半ロスタイムに大阪朝鮮がモールで押し込み12―12でノーサイド。抽選の結果、尾道が準決勝に駒を進めた。(写真は㊧東福岡、怒涛の攻撃で後半3つめのトライ、㊨ゴール中央に飛び込む御所実の竹山)

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<高校ラグビー2回戦> 大分舞鶴 大殊勲! Aシード国学院栃木を破る

2014年12月30日 | スポーツ

【優勝候補の東福岡、御所実は3ケタ得点】

 東大阪市の近鉄花園ラグビー場で開催中の全国高校ラグビーは30日、2回戦16試合が行われシード13校が初登場。そのうちAシードの国学院栃木が大分舞鶴に敗れる大波乱があった。Aシードで優勝候補筆頭の東福岡とBシードながら優勝候補の一角と目される御所実(奈良)は3ケタ得点で圧勝、Aシード東海大仰星(大阪第2)も実力校の東京(東京第2)を退けた。(下の写真㊧大分舞鶴、逆転された直後の後半16分トライし再逆転、㊨ノーサイドで対照的な表情を見せる大分舞鶴と国学院栃木の選手たち)

 

 大分舞鶴―国学院栃木は前半を12―7と大分舞鶴リードで折り返す。1トライずつ挙げた後半13分、国学院栃木がモールで押し込みゴールも決まって17―19と初めて逆転。しかし、大分舞鶴はその直後の16分にトライ、さらに22分には左隅トライし角度のある難しいゴールキックも決めて突き放し31―19で大金星を挙げた。大分舞鶴の低く鋭いタックルが国学院栃木のバックス陣の展開力を封じた。

 

 全国高校選抜、全国高校7人制に続き高校3冠を狙う東福岡は静岡聖光学院を総合力で圧倒、前後半合わせて16トライを挙げ100―14で3回戦へ(上の写真㊧ゴールラインに迫る東福岡)。前々回準優勝の御所実も中標津(北北海道)を寄せ付けず19トライで117―7と圧勝した(写真㊨モールで押し込む御所実)。一方、東海大仰星は粘り強い東京に手こずったが終盤突き放して31―12で振り切った。その他の試合では石見智翠館(島根)の健闘が光った。終盤まで7―5でBシード流通経済大柏(千葉)をリードしていたが、残り2分にモールで押し込まれ7―10で逆転負けを喫した。

(下の写真㊧ゴールライン間近で激しい攻防を見せる東海大仰星―東京戦、㊨後半28分、流通経済大柏がモールで押し込みトライ)

 

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