く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ホトケノザ(仏の座)> 円形の葉の形を仏像の蓮華座に見立てて

2014年03月31日 | 花の四季

【「春の七草」のホトケノザはキク科の別物!】

 道端や田畑の畦道などでよく見かける野草の1つだが、近づいて見ると紅紫色の小花はなかなか愛らしい。シソ科オドリコソウ属の越年草で、北半球に広く分布する。茎を取り巻く半円形の2枚の葉を仏様の蓮華座に見立て「仏の座」の名が付いた。その葉が3~4段になるため「三階草(サンガイグサ)」とも呼ばれる。

 「春の七草」のホトケノザと名前が同じため古くから混同されてきた。七草のホトケノザはキク科の仲間で、正式な和名は「コオニタビラコ」。単に「タビラコ」とも呼ばれる。漢字で書くと「田平子」。冬の間、根出葉がロゼット状に地面にへばり付く様を表しており、その姿を蓮華座にたとえた。花はタンポポのような黄花で、ギザギザの葉の形もタンポポに似る。

 タビラコは正月の七草粥の食材の1つ。貝原益軒は『大和本草』(1709年)で「黄瓜菜(タビラコ)」として「一名黄花菜」「七種ノ菜ノ内佛ノ座是ナリ」「味美シ」と紹介している。一方、このシソ科のホトケノザは苦味を感じる「イリドイド」という成分を含み食用には向かない。牧野富太郎博士も『植物記(野の花)』に「今日のホトケノザはへんな味の草でとても食べられたものではありません」と記す。

 雑草としてあまり見向きもされない存在だが、その生き残り戦略はすごい。カタクリの花と同様に、アリを利用して分布域を広げるのだ。種子には「エライオソーム」という粒子が付いており、アリがそのにおいに誘われて巣まで運び込む。しかし、においは時間がたつと消えるため、アリは無用となった種を巣の外に運ぶ――。進化の末に植物が獲得した知恵にはただ驚くばかり。

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<BOOK> 「老楽国家論 反アベノミクス的生き方のススメ」

2014年03月30日 | BOOK

【浜矩子著、新潮社発行】

 〝アベノミクス〟を標榜する安倍内閣が発足してまもなく1年半。今春闘では円高に伴う業績回復で大手企業の相次ぐベア回答が新聞紙上をにぎわした。これに対し著者は『ビックイシュー』などで「春闘劇場の浮かれ騒ぎに少し泣きたくなってきた」と嘆いた。日本の労働環境はこの10年ほどで様変わり、今や非正規雇用が全体の4割を占める。世論調査でも景気回復を「実感しない」という声がなお大勢を占める。日本全体を「豊かさの中の貧困問題」が黒雲となって覆う。

   

 著者は安倍政権が掲げるスローガン「日本を取り戻す」にまず異を唱える。「今の日本は、世界の背中を目指して頑張っていた時代の日本ではない。過去を『取り戻す』ことにこだわっていればいるほど……未来を展望することが出来なくなる」「不似合な若さへの郷愁に浸るのは大人げない」。そして、今の日本の〝真像〟は「豊かさの中の貧困という問題を抱えた成熟国家」であると指摘する。

 OECD(経済協力開発機構)の調査によると、日本の相対的貧困率は先進30カ国の中で4番目に高い(2004年14.9%)。その数値はなお上昇を続けている(2010年16.0%)。著者は「豊かさの中の貧困」問題は「人間の冷たさの産物」とし、これが続くようなら「あまりにも人の痛みに無頓着な精神風土だ」という。

 全5章のうち2つの章を欧米諸国の国家像の分析に当てる。成熟した〝老楽国家〟日本の本来の姿を求めるのが目的。その結果「イギリスの姿はかなりの程度まで、老楽国家の理想像に近い」とし「ドイツの姿からも学ぶべきことは多い」と指摘する。さらにベルギー、スイス、デンマークといった小国にも注目する。「いずれも実に強烈な個性を持ち……したたかに生き抜いている」。

 最後に老楽国家に必要な要素を列挙する。過去を振り切る思い切りの良さ▽現実を直視する勇気▽国境無き時代に生きていることを認識する時代感覚▽小国たちの多様なしたたかさに学ぶ感性……。そして「老楽の域に入りたければ人の痛みを我が痛みとして感じとる感受性が必要」とし「グローバル時代をすいすいと生きる大人の国の姿を、地球的世間にみせてあげて欲しいものだ」と結ぶ。

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<レンギョウ(連翹)> 枝々に鮮やかな黄色い小花がびっしりと

2014年03月29日 | 花の四季

【中国から平安時代に渡来? 日本の固有種は絶滅危惧種に】

 3月から4月にかけ、葉に先立って黄色の小花を直立または枝垂れた細い枝にびっしり付ける。その花色は遠目にも実に鮮やか。乾燥した果実に解毒や消炎、鎮痛作用があり、中国から薬用植物として平安時代に渡来したといわれる。モクセイ科の落葉低木。ただ中国で「連翹」と呼ばれるのは本来オトギリソウ科の多年草トモエソウなど別の植物を指したそうだ。

 

 枝の髄が中空のため「レンギョウウツギ(連翹空木)」とも呼ばれる。枝垂れた枝が地面に接すると、そこから根を下ろす。中国名は「黄寿丹」、英名は「ゴールデン・ベル」。変種に枝が立ち上がり下向きに花を付ける「シナレンギョウ」、花が濃黄色の朝鮮半島原産の「チョウセンレンギョウ」などがある。レンギョウは大気汚染に強く、病害虫も少ない。このためシナレンギョウを中心に庭木や公園などによく植栽される。

 日本固有種もある。広島や岡山の石灰岩地帯に自生する「ヤマトレンギョウ」と香川県小豆島の寒霞渓などで群落が見られる「ショウドシマレンギョウ」。ヤマトレンギョウはちょうど100年前の1914年に、植物学者牧野富太郎博士が新種として発表した。ただ、いずれも分布域が限られており、ショウドシマレンギョウは環境省の絶滅危惧Ⅱ類に、ヤマトレンギョウも準絶滅危惧種に指定されている。

 詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956)は花の中で特にレンギョウを好んだ。告別式の棺の上には1枝のレンギョウが飾られていたという。このため命日は「連翹忌」と呼ばれる。今年も4月2日の命日には東京で58回目の連翹忌が営まれる。関西では在原業平ゆかりの不退寺(奈良市)がレンギョウの名所として有名。「連翹のまぶしき春のうれひかな」(久保田万太郎)。

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<バレー・プレミアリーグ女子> きょうから決勝ラウンド、まず4強が3連戦

2014年03月28日 | スポーツ

【久光製薬、連覇に照準 追う東レ・岡山・トヨタ車体】

 バレーボールのV・プレミアリーグ女子は28日から決勝ラウンドに入る。レギュラーラウンドの上位4強、久光製薬、東レ、岡山、トヨタ車体が30日まで1回総当たりの3連戦を行い、上位2チームが来月14日の決勝戦に進む。優勝候補の最右翼は首位を独走した久光製薬。中田久美監督の就任1年目だった昨シーズンに続いて2連覇を狙う。これを東レ、岡山、トヨタ車体が追う。

レギュラーラウンド上位4チームの戦績  得セット 失セット

  ① 久光製薬     23勝 5敗    76     28

  ② 東 レ      18勝10敗       63    55

  ③ 岡 山        17勝11敗       62     45

  ④ トヨタ車体    15勝13敗       52     53

セミファイナルリーグの試合日程 

  <28日> 久光製薬―トヨタ車体、東レ―岡山

  <29日> 久光製薬―東レ、岡山―トヨタ車体

  <30日> 久光製薬―岡山、東レ―トヨタ車体

 レギュラーラウンド(8チーム4回総当たり)では久光の強さが目立った。前半こそ接戦に持ち込まれる試合展開も多かったが、尻上がりに調子を上げて後半は14戦全勝。しかも上位3チームとの後半6試合で落としたセットは東レ戦の僅か1セットだけだった。

 強みは攻守のバランスの良さ。アタック決定率(バックアタックを含む)では全選手中、上位10人に平井香菜子が4位、長岡望悠が5位、岩坂名奈が7位と3人が名を連ね、ブロック決定本数(1セット当たり)でも岩坂が2位、平井が6位だった。サーブ効果率では石井優希が1位、岩坂が2位。サーブレシーブ成功率でも新鍋理沙が1位、筒井さやかが5位。各選手が持ち味を遺憾なく発揮したことがこれらの数字に表れている。

 東レは総得点ランキングで迫田さおりが昨シーズンの得点王カナニ・ダニエルソン(トヨタ車体)を抑え堂々の1位だったほか、新外国人ペーニャ・ヨンカイラが4位、高田ありさが6位と10位までに3人が入った。ただチームのサーブレシーブ成功率が8チーム中5位にとどまり、ブロック決定本数は7位と下位に甘んじた。木村沙織に続き主軸の荒木絵里香が抜けた穴が大きかったようだ。

 レギュラーラウンドの対戦成績を振り返ると、久光は東レとトヨタ車体に3勝1敗で岡山には4戦負けなし。その戦績からみても決勝進出の可能性はかなり高い。東レは岡山に3勝1敗だったが、久光とトヨタ車体には1勝3敗と負け越した。岡山は久光に全敗し、東レにも1勝3敗だったが、トヨタ車体には4戦全勝と強い。トヨタ車体は久光に1勝3敗、岡山には全敗だったが、東レには3勝1敗と勝ち越している。

 東レ、岡山、トヨタ車体の3チームにはそれぞれに苦手チームと相性がいいチームがあり、いずれにも決勝進出の可能性がありそうだ。2季ぶりの優勝を目指す東レとしては何としても決勝戦に駒を進めたいところ。岡山は昨シーズン、セミファイナルで3戦全敗だった。3位決定戦で勝って3位となったが、今季こそ決勝進出を果たしたい。悲願のセミファイナルに勝ち上がったトヨタ車体にも十分チャンスがある。

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<大和文華館> 優美な枝垂れ桜「三春滝桜」が開花!

2014年03月26日 | 花の四季

【福島の天然記念木の子孫、約30年で高さ9m超にも】

 各地から桜の開花情報が届く中、奈良市学園南にある美術館「大和文華館」でも25日、「三春滝桜(みはるのたきざくら)」という大きな枝垂れ桜がチラホラ咲き始めた。国の天然記念物に指定されている福島県三春町の「三春滝桜」を親木とする子株。昨年は25日に満開になっていたといい、今年は開花が少し遅れていた。

 

 「三春滝桜」はエドヒガン系の紅枝垂れ桜。三春町の桜は樹齢が推定1000年以上で、樹高13.5m、幹周り8.1mという巨木。岐阜の淡墨桜、山梨の神代桜とともに日本3大桜の1つといわれ、1922年には天然記念物に指定された。薄紅色の花が滝のように流れ落ちる様から滝桜の名前が付いたようだ。その種子から育てられた苗木が約31年前の1983年、三春町から遠く奈良の同文華館までやって来た。

  

 縁を取り持ったのは室町時代の画僧雪村(せっそん)。三春町郊外には雪村が晩年を過ごした「雪村庵」がある。一方、文華館は「自画像」「花鳥図屏風」「呂洞賓図」(いずれも重要文化財)など雪村の名品を多く所蔵する。雪村没後400年に当たる1983年、三春町が記念行事「雪村 三春への道」展を開いた折には、文華館が「自画像」を出品し学芸員が法要にも参列した。

 

 「三春滝桜」はそのお礼として寄贈された。苗木はその後、すくすくと成長し毎年十数本が花をつけて来館者の目を楽しませてくれる。とりわけ本館前の桜は樹高9m、幹周り1mを超え、四方に広がる樹冠も12m×9mに達する巨木に育った。25日訪ねると、遠目には枝々が赤く染まり開花直前を思わせたが、近づくと既にうすいピンク色の花が開き始めていた。文華館の方は「今朝初めて開花に気づきました。今度の日曜(30日)あたりが見頃でしょう」と話していた。

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<コブシ(辛夷)> 早春の青空に映える純白の花

2014年03月25日 | 花の四季

【日本原産、その名は握り拳のような果実の形から?】

 春の到来を告げるように、コブシがモクレンと相前後して咲き始めた。モクレン科の落葉高木で、北海道~九州の山地と韓国・済州島に自生する。コブシの名は秋に赤く熟す果実の形がゴツゴツして人の握り拳(こぶし)に似ていることに由来するという。漢字には「辛夷」の字を当てるが、この漢字は本来、中国ではモクレンを指す。誤用というわけだが、日本ではこの表記がすっかり定着している。

 コブシは「木筆」とも書く。花のつぼみを包む苞(ほう)が筆の穂のように膨らむことによる。開花の時期や状況が古くから農作業の目安や豊凶の占いなどに用いられてきた。花が多い年は豊作といわれ、秋田など東北地方では開花に合わせて田起こしを始めるため「タウチザクラ(田打ち桜)」とも呼ばれる。他に「花が咲きだすとサツマイモを植える」(鹿児島)、「花が咲くとイワシが取れる」(佐渡)など。

 コブシに似た花にタムシバやハクモクレンがある。コブシは花びらの基部に1枚の若葉がちょこんと付くのが特徴。タムシバやモクレンにはその葉がない。花の咲き方もモクレンが上向きなのに対し、コブシは四方八方を向く。コブシのつぼみは漢方で「辛夷(しんい)」と呼ばれ鼻炎や解毒に効果があるという。堅牢な材は家具や楽器、玩具、漆器素地などに使われ、花は香水の原料になる。

 コブシから誰もが連想する歌といえば千昌夫の「北国の春」だろう。♪白樺青空南風 こぶし咲くあの丘 北国のああ北国の春……。詩人三好達治にもコブシを詠んだ4行詩がある。「山なみ遠(とほ)に春はきて/こぶしの花は天上に/雲はかなたにかへれども/かへるべしらに越ゆる路」。帰る場所のあてもなくとぼとぼ山路をたどるのは作者本人か。コブシが咲く明るい早春との対照の中で深い寂寥感と孤独感が漂う。

 コブシはシンボルの樹木として人気が高く、東日本を中心に多くの市町村が「市の木」や「市の花」などに指定している。北海道石見沢市、岩手県花巻市、新潟県魚沼市・南魚沼市、埼玉県新座市、栃木県那須烏山市、東京都立川市・武蔵野市、神奈川県秦野市、山梨県韮崎市、福井県大野市、岐阜県郡上市……。「満月に目を見ひらいて花こぶし」(飯田龍太)。

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<高梨沙羅> W杯圧勝で2連覇! 優勝15回、2位2回、3位1回

2014年03月24日 | スポーツ

 【18戦全てで表彰台、惜しまれる五輪の4位】

  ノルディックスキーの女子ワールドカップ(W杯)は22日、スロベニアのプラニツァで最終戦を行い、日本のエース高梨沙羅が五輪を挟み7連勝でW杯2連覇を果たした。今季は18戦中15戦で優勝、全試合で表彰台に上がる圧勝だった。ソチ五輪では2回のジャンプとも追い風という不運もあって僅かな点差でメダルを逃したのが今さらながら惜しまれる。

 2013/14W杯総合成績   ポイント 1位  2位  3位(五輪順位)

 ①高梨沙羅(クラレ)     1720  15回  2回  1回  4位

 ②カリーナ・フォクト(ドイツ)806   ―  4回  4回  1位

 ③伊藤有希(土屋ホーム)    759   ―  3回  2回  7位

 ④イリーナ・アバクモア(ロシア)731    1回   1回  4回   16位

 ⑤ダニエラ・イラシュコ    682   2回  4回  ―   2位

  (オーストリア)

 ⑥マーヤ・ブティッチ(スロベニア) 542   ―  1回   ―   6位

 ⑦マーレン・ルンビー(ノルウェー) 487   ―  1回  ―   8位

 ⑧コリーヌ・マテル(フランス)  453  ―  1回   ―   3位

  日本選手では五輪で7位だった伊藤有希が総合で3位に食い込んだのが注目される。今季は出だしこそ振るわなかったが徐々に調子を上げて五輪直前にはランキングを5位まで上げていた。最後の3戦では3位、2位、2位と続けて表彰台。伊藤にとっては自信につながる収穫の多いシーズンになったことだろう。(写真は3月15日の第17戦で優勝した高梨㊥と2位の伊藤㊧)

   

  五輪のメダリストでは金のカリーナ・フォクトが今季W杯では1度も優勝がなかったものの安定感のあるジャンプで総合2位となった。銀のダニエラ・イラシュコは5位に終わった。ただ五輪直前の4戦は1位2回、2位2回と好調を持続していた。30歳のベテランらしく五輪に照準を合わせてきたのだろう。五輪後のW杯5戦は出場を見送った。銅メダルのコリーヌ・マテルは総合8位。W杯での表彰台は2位の1回だけで、五輪後も9~16位と振るわなかった。

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<山本浩氏> 「世界で勝つ日本の計算式~サッカーW杯を前に~」

2014年03月23日 | スポーツ

【NHK文化センター主催のフォーラムで講演】

 サッカー・ワールドカップ(W杯)ブラジル大会の開幕まで約80日。日本は1次リーグを突破できるのか? 優勝候補はどこか? 22日けいはんなプラザ(京都府精華町)でオムロン文化フォーラム(NHK文化センター京都支社主催)が開かれ、元NHKアナウンサーでJリーグ特任理事、山本浩氏(法政大学スポーツ健康学部教授)が「世界で勝つ日本の計算式~サッカーW杯を前に~」と題して講演、「勝負は情報戦、コンディショニング戦という見えないところで動く」などと話した。

    

  山本氏はまずオフト監督以降の歴代日本代表監督の戦いぶりを振り返った。1994年のW杯出場権を逃した〝ドーハの悲劇〟は現地から実況中継した。当時の日本チームのコンディションは良くなかったという。「選手たちがドーハに着いたときには疲労困憊(こんぱい)しヘトヘトの状態だった」。試合後、祝勝会が予定されていたオフト監督のホテルのスイートルームで、ビールを放心状態で飲む選手たちの姿が忘れられないそうだ。

 W杯は通常「中4日」で試合が組まれる。それだけに「試合の合い間の作り方が重要になる」。2010年W杯1次リーグでは「中4日の練習を軽くすべし」というトレーナーの提言を受け入れて練習メニューを組み立てた。その結果、グループ2位の2勝1敗で決勝トーナメントに進出、ベスト16となった。「負荷を下げて選手たちの心身の状態をベストに保ったことが勝利につながった」。

 相手チームの情報分析も欠かせない。2011年女子W杯ではなでしこジャパンがアメリカとのPK戦をGK海堀あゆみの活躍で破り頂点に立った。日本側は事前に過去のアメリカチームのPK戦をチェックし、海堀には相手の蹴る順番と方向が書かれたデータが渡されていたそうだ。その結果、海堀は1人目を止め、動揺した2人目のミスを誘い、さらに3人目も止めた。

 山本氏は日本がW杯で活躍するにはポイントを稼いでFIFAのランキングを上げる必要があると指摘する。「(強い)欧州勢との試合数を増やすなどしてポイントを積み上げ、世界のトップ8に入るとシード国になれる。だが現実にはなかなかランキングが上がらない」。日本は現在48位。1次リーグで当たるコートジボワール(24位)、ギリシャ(13位)、コロンビア(5位)はいずれも日本より上位。

 1次突破はなかなか容易ではなさそうだが、「これから2カ月半、けが人を出さずチーム状態が順調に仕上がるかどうかで決まる」。今回のW杯でキーマンとみられているのが本田圭佑。「本田はピッチの中にいる監督のような存在。ドーハの悲劇のときのラモス選手と同じような立場にいる。本田がザッケローニ監督とうまくいけばいいが……」。

 右膝負傷の長谷部誠が間に合わない場合、誰がキャプテンを務めるのか。「(ドイツで活躍中の)細貝萌が長谷部とよく似たタイプでベンチ・選手の信頼も厚い。イタリア語でザッケローニ監督と直接話せる長友佑都の可能性も大いにあるだろう」。優勝争いは試合日程も大きく影響しそうと山本氏はみる。1次リーグ最終戦から決勝トーナメントの日程をみると、ブラジルにゆとりがあるのに対しドイツは「中3日」が入るなどかなり厳しいという。(この日の講演はNHKラジオ第二で5月18日午後9~10時に放送の予定)

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<BOOK> 「命の輝き 若き遣唐使たち―国を背負い唐に渡った使節の実像」

2014年03月22日 | BOOK

【大原正義著、叢文社発行】

 1000年以上前の7~9世紀、唐の都長安を目指して遣唐使が派遣された。約260年間に合計17回。造船技術が未熟だった時代のこと、渡航はまさに命懸けだった。遣唐使の中には二十歳前後の若い留学生(るがくしょう)や学問僧も多かった。著者は序章に「困難を乗り越えて、命と引き替えに志を遂げた多くの若者たちがいた事実に、魂の揺さぶられる思いがする」と記す。

    

 10年前の2004年、中国・西安市で井真成(いのまなり)の墓誌が出土し公開された。井真成(唐名。日本名には諸説あり)は19歳のとき第8次遣唐使船で派遣された留学生。36歳のとき長安で没した。墓誌には死を惜しんだ玄宗皇帝が高位の役職を賜ったことなどが刻まれていた。当時、多くの日本人が唐に渡ったが「墓誌が発見され、その存在が確認されたことは奇跡に近い」。

 同じ第8次遣唐使船には井真成と同年齢とみられる阿倍仲麻呂も乗っていた。仲麻呂は日本人として初めて官吏登用試験「科挙」に合格し、玄宗皇帝に重用された。入唐15年後に第9次遣唐使船が渡ってきたとき、望郷の思いから帰国を申し出るが却下されている。これも異国人としては異例の出世を遂げ高位に昇りすぎたことが一因だったらしい。

 それから19年後、第10次の遣唐使船が入ってきた。仲麻呂は再度帰国の許しを申し出たところ、玄宗はようやく認めてくれた。「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも」。仲麻呂が帰国船の船上で詠んだといわれる。ところが出帆後、暴風雨で船が安南(ベトナム)に漂着、仲麻呂らは捕らえられた。どうにか脱出して長安に戻ったものの、仲麻呂の帰国は結局かなわなかった。

 万葉集では遣唐使船を「四つの船」と呼んでいる。第7次から1度に唐に渡る遣唐使船が4隻になったことによる。朝廷には1船でも唐土につけばよいという考えがあったらしい。第10次では帰国船4隻のうち仲麻呂の船は遭難するが、別の第2船は順風に乗って九州・薩摩に漂着した。この船には後に唐招提寺を開いた鑑真が乗船していた。渡日は鑑真にとって6度目の挑戦だった。

 唐に渡った留学生や学問僧の中には唐の女性と恋愛し子どもをもうけた人も多いとみられる。阿倍仲麻呂と共に乗った船が遭難し帰国を果たせなった藤原清河には結婚した唐の女性との間に喜娘(きじょう)という娘がいた。清河没後、喜娘は「亡き父の国日本を一目見たい」と願い出た。これが皇帝に認められ、喜娘は第14次の帰国船で日本に向かい天草に漂着したという。

 遣唐使に選ばれることは大変な名誉だったが、既に地位や名誉のある人の中には命を懸けてまで行きたくないという者もいたようだ。航路が北路から南路になった第7次以降、仮病を使って辞任を申し出る人が目立ったらしい。最後の遣唐使となった第17次では病気を理由に拒否した小野篁が官位を剥奪され隠岐島に流されている。この第17次では往路復路とも遭難が頻発、4割を超える260人余が犠牲になった。

 614年に始まった遣唐使の派遣は894年、第18次の大使に任命された菅原道真の建議により廃止が決まった。だが、この間に先進国家だった唐から吸収したものは多い。国の内外で混迷が深まる中、1000年以上前に新しい国づくりのため海を渡った多くの若者がいたことに思いを馳せることも意義深いのではないだろうか。

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<BOOK> 「名曲の暗号 楽譜の裏に隠された真実を暴く」

2014年03月20日 | BOOK

【佐伯茂樹著、音楽之友社発行】

 著者は早大卒業後、東京芸大でトロンボーンを学んだ。現在はピリオド楽器(作曲当時の古楽器)を中心にした演奏活動の傍ら、大学で楽曲・楽器に関する講義をしたり、音楽雑誌に月評やコラムを執筆したり。著書に「管楽器おもしろ雑学事典」「オーケストラ・吹奏楽が楽しくわかる楽器の図鑑(全5巻)」「名曲の『常識』『非常識』―オーケストラの中の管楽器考現学」などがある。

    

 4章構成で、第1章「常識を疑うと見えてくる名曲の真相」ではまずベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を取り上げる。冒頭の「ダダダダーン」について扉を叩く音ではなく鳥の鳴き声だったのではないかという。第五が「運命」と呼ばれるようになったのは「ベートーヴェンが『運命が扉を叩く音である』と語った」と秘書が伝記に記したことから。だが秘書には虚言癖があって、その証言には信憑性がないという。

 一方、ベートーヴェンの弟子だったカール・ツェルニー(ピアノの教則本で有名)は全く別の証言をしていたそうだ。冒頭のモチーフは扉を叩く音ではなく、ベートーヴェンがウィーンの公園を散歩中に聴いたキアオジという鳥の鳴き声をヒントに思いついたという。著者は「実際、ベートーヴェン自身『鳥は偉大な作曲家である』と語ったと言われており……鳥の鳴き声を曲の中に採用したとしてもおかしくはない」としている。

 第1章では他に「ホルストの《惑星》は天体を描いたわけではない?」「ラヴェルが望んだ《ボレロ》は現在の演奏とは異なっていた?」「モーツァルトの〈トルコ行進曲〉のリズムは間違って演奏されている?」など、名曲の定説に疑問符を投げかける。

 第2章は「名曲に隠された死の概念を知ろう」。西欧のオーケストラ曲の中でトロンボーンは縁起が悪い概念を表すことが多く、人々はその音からミサや葬儀を連想するという。「バロック期の作品でもトロンボーンは死を表す楽器として扱われ、モーツァルトやハイドンなど古典派時代になっても、基本的に宗教曲とオペラの死の場面にしか使われていない」。トランペット(またはホルン)と打楽器に弱音器を装着したときの響きも葬儀を表すことが多いという。

 こうした傾向を踏まえ、著者は「ベートーヴェンの交響曲第六番≪田園≫は実は告別の歌だった?」「ドヴォルザークの≪新世界より≫第二楽章はアメリカ先住民の葬儀を表している!」などと指摘する。≪新世界より≫第二楽章といえば「家路」として知られる牧歌的なあの名曲。米国滞在中に作曲したドヴォルザーク自身も「この楽章は先住民の葬儀を表現している」と語っていたそうだ。クラシックの名曲の数々に「こんな見方や解釈や裏話もあったのか」と感心させられることが多い一冊。

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<京都・南座> 松緑、太郎冠者の剽軽ぶりを生き生きと

2014年03月19日 | メモ

【三月花形歌舞伎、菊之助も品のいい与三郎を好演】

 京都・南座で公演中の三月花形歌舞伎(2~26日)も千秋楽まで残り8日。「昼の部」は「吹雪峠」で幕開けし、続く「素襖落(すおうおとし)」では尾上松緑が太郎冠者をおかしみあふれた動きと表情で生き生きと演じている。世話物「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」では与三郎役の尾上菊之助の品のいい名演が光る。(18日観劇)

 

 「吹雪峠」は兄貴分の女房と駆け落ちした2人が命からがら辿り着いた山小屋で、追ってきた兄貴と鉢合わせするという設定。登場人物は兄貴分直吉役に坂東亀三郎、妻おえん役に中村梅枝、弟分助蔵役に尾上松也と若手の役者3人だけだが、それぞれ持ち味を発揮して心の内に潜む男女の愛憎を見事に表現した。手を取り合って逃げた2人が助かりたい一心で命乞いを始め、「この女を殺してくれ」などと途中から互いを責め合う場面になると、観客席にはくすくすと笑いが広がった。

 「素襖落」は新歌舞伎18番の1つ。大名の使いで伊勢参宮の誘いを伝えに行った太郎冠者が酒でもてなされ土産に素襖までもらう。頭を左右させながら酒をぐいぐいと飲み干す太郎冠者。酔っ払って大名の前で隠していた素襖を落とし探し回る場面にも滑稽さがあふれる。総勢22人の長唄囃子を前にした舞踊も華やか。松緑は軽い身のこなしで自在の踊りを披露した。

 「与話情浮名横櫛」は「木更津海岸見染めの場」と「源氏店(げんやだな)の場」の2幕。海岸で出会った若旦那与三郎とお富が互いに一目惚れするが、お富は実はヤクザの妾(めかけ)。密会がばれ与三郎は全身を切り刻まれる。3年後、無頼漢になった与三郎は質屋で偶然、お富に会う。入水し死んだはずのお富は助けられて囲われの身になっていた。

 そこであの名せりふ。「いやさ、これ、お富、久しぶりだなあ」「死んだと思ったお富たぁ、お釈迦さまでも気がつくめえ」。与三郎役の菊之助が海岸での若旦那とその後の〝切られ与三〟という好対照の役柄を見事にこなす。それをごろつき蝙蝠安(こうもりやす)役の市川團蔵と、どっしり構えた和泉屋多左衛門役の坂東彦三郎が引き立てる。中村梅枝も粋なお富役を見事に演じた。梅枝は2月に結婚したばかり。女形のホープとして大きな期待が寄せられている。

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<大阪自由大学> 「大相撲大阪場所とタニマチ―大阪にあった2つの国技館」

2014年03月18日 | スポーツ

【講師の玉置氏「大阪での3月場所開催は61年前から」】

 大阪で開かれている大相撲春場所も両横綱が全勝のまま後半戦へ――。そんな中でタイムリーなテーマの講演会が17日、大阪・靭公園テニスセンター内の大阪スポーツマンクラブで開かれた。大阪自由大学の主催で、元毎日新聞編集委員の玉置通夫氏が「大相撲大阪場所とタニマチ―大阪にあった2つの国技館」のタイトルで講演した。

 大阪は江戸時代から京都、江戸とともに相撲興行が盛んだった。1702年(元禄15年)には大阪・堀江で〝晴天興行〟が初めて許可され、1878年には大阪相撲協会が設立された。スポンサーを指す言葉「タニマチ」も谷町筋に相撲を後援する旦那衆が多かったことにちなむ。一方、江戸相撲も寛政年間(1789~1801年)には谷風や雷電、小野川の活躍で盛り上がり、1881年には明治天皇の前で初の天覧相撲が行われた。

 

 「大阪国技館」(写真㊧)は東京の両国国技館に遅れること約10年、1919年に完成した。場所は通天閣に近い「新世界」の一角。1万人収容のドーム型で、建設費50万円は第28代横綱朝日山が負担した。ただ観客席の位置取りが悪くて見にくいなど不評だったらしく10年後には映画館に衣替えしている。

 1927年には日本相撲協会が設立された。それまでは東京と大阪の相撲協会がそれぞれ番付を作り、興行も別々に行っていた。1本化の背景には力士の待遇改善運動やスターの不在などがあった。「対等合併だが、実際には東京が大阪を吸収した形。親方の数も東京88人に対し大阪17人で合わせて105人。実力的にも東京が上といわれた」。ただ統一直後の初の本場所では下馬評を覆し大阪相撲の横綱だった宮城山が優勝、大阪勢は溜飲を下げた。

 翌28年からはラジオの実況中継が始まった。「相撲界にとってはまさに〝革命〟そのもの」。中継の条件が立ち合いの制限時間の導入だった。それまでは制限がなく、両国対鬼面山の取組では「待った」の応酬で2時間も立たなかったという。中継の開始に合わせ幕内の制限時間が10分(現在は4分)と決まり、仕切り線も初めて引かれるようになった。

 双葉山人気が高まる中、1936年には現在の城東区古市の城北川沿いに「関目国技館」が建てられた。4階建てのドーム式で2万5000人収容と国内最大規模だった。しかし結局本場所は行われず准場所が7回行われただけ。戦時色が強まる中、6年後には軍需物資の倉庫に転用され、終戦後には進駐軍に接収された後、1951年ごろに取り壊された。

 一方、大阪国技館の建物も1945年の空襲で焼失した。今は温泉施設「スパワールド」のほぼ正面に記念碑が立つ(写真㊨)。大阪市が2002年に建立した。大阪で3月に春場所がおこなわれるようになったのは61年前の1953年から。この年から4場所制になったことに伴うもので、そのときの幕内優勝は大関栃錦だった。

 玉置氏はこのほかにも▽欧化政策が主流となる明治維新のときチョンマゲ姿の相撲界は大ピンチに追い込まれた▽終戦後には厳しい食料事情の中で力士の腹もへこんでまわしがずり落ち反則負けすることもあった――など様々な裏話を明かしてくれた。

 明治維新のピンチを乗り越えたのは明治天皇や政府の重鎮の中に板垣退助のような相撲好きがいたこと、力士が火消しの手伝いとして活躍したり地方巡業中の梅ケ谷が「秋月の乱」(1876年)の暴徒を鎮圧したりして力士が見直されたことなどが大きかったそうだ。大阪場所が「荒れる春場所」といわれるのは、寒暖差が大きい時期に当たって体調を崩す力士が多いことも一因ではないかと話していた。

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<ジンチョウゲ(沈丁花)> 遠くまで芳香を運ぶ春告げ花

2014年03月17日 | 花の四季

【原産地は中国、室町時代に渡来】

 芳しい香りの花の代表格といえば、クチナシにキンモクセイ、そしてこのジンチョウゲだろうか。甘い香りが遠くまで匂うことから「千里香」という別名もある。ジンチョウゲ科の常緑低木。3~4月ごろ、枝先に10~20個の小花を手まり状に付ける。先が4つに裂けて花びらのように見えるのは全てガクで、花弁そのものはない。

 和名の沈丁花は同じジンチョウゲ科の香木ジンコウ(沈香)とフトモモ科のチョウジ(丁子・丁字)に由来する。原産地は中国南部。日本には室町時代の1480年代に渡来したといわれる。雌雄異株だが、日本で見られるのはほとんどが雄株のため果実を見かけることは少ない。花色は内側が白で外側が紅紫色のものが一般的だが、園芸種には花全体が白い「シロバナジンチョウゲ」や葉の回りが白く縁取られた「フクリンジンチョウゲ」などがある。

 中国では「瑞香」と呼ばれる。昔、山林の中で寝入ってしまった僧侶がいい香りで目覚めると、辺り一面にこの花が咲いていた。そこで初め「睡香」と名付けられたが、吉祥を表す瑞を当てて「瑞香」の名前が与えられたという。ジンチョウゲは中国で「名花十友」または「名花十二客」の1つに数えられ、古くから南画の画題としてよく取り上げられてきた。

 香りがいいジンチョウゲは日本の歌謡曲などにも多く歌われてきた。有名なのは松任谷由実の「春よ、来い」。♪淡き光立つ俄雨(にわかあめ) いとし面影の沈丁花……。ほかにも石川さゆりや石川優子の持ち歌にもずばり「沈丁花」という題名の歌があった。ジンチョウゲは東京都武蔵野市でツツジやスイセンなどとともに「市民の花」に選ばれている。「部屋空ろ沈丁の香のとほり抜け」(池内友次郎)。

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<帝塚山大公開講座> 「大名家の遊び―歌舞伎・人形浄瑠璃を楽しむ武士たち」

2014年03月16日 | メモ

【鈴木博子准教授「江戸屋敷で年に6~7回上演」】

 帝塚山大学(奈良市)で15日「大名家の遊び―歌舞伎・人形浄瑠璃を楽しむ武士たち」と題した公開講座(平成25年度科学研究費助成事業研究成果地域還元報告会)が開かれた。講師の鈴木博子・人文学部准教授は「江戸の大名屋敷では客の接待や家臣の気晴らしなどのため、平均して1年に6~7回ぐらい、歌舞伎や人形浄瑠璃が上演されていた」などと話した。

   

 その様子が屏風や絵画に残っている。江戸中期の画家・英(はなぶさ)一蝶の「四季日待(ひまち)図巻」(出光美術館蔵)には広間に仮設舞台をしつらえ人形浄瑠璃を上演した様子が描かれている。「日待」は日の出を拝むため酒宴などで夜を明かす古い習慣。図巻は英が釣りをして生類憐れみの令に反したとして三宅島へ島流しになっていたとき、江戸での華やかな日待の模様を思い起こしながら描いた。

 この座敷芝居は1670年代の場面とみられ、舞台正面の主賓や男性陣のほか、御簾(みす)越しに見る女性陣、舞台前の3本の燭台、火鉢なども描かれている。元禄期の1697年頃の作とみられる「歌舞伎遊楽図屏風」(今治市河野美術館蔵)には屋敷内の能舞台を使って、呼び寄せた歌舞伎役者が演じる模様が豪華な金地屏風に描かれている。

 こうした様子は古文書にも残されている。「弘前藩庁日記(江戸日記)」(1677年9月16日)には人形浄瑠璃を指す「操(あやつり)」の上演について詳細に書き記されている。客名などに続き「御女中様方へは浄瑠璃一段置きに御菓子出る。表御客様へは二段目に蒸し菓子、煮染め、香の物、御銚子、御肴二種出る」とある。

 越後村上藩主の「松平大和守(直矩)日記」(1660年4月3日)には歌舞伎上演後、役者と共に深夜まで酒盛りしたとし、末尾に「面白き事かぎりなし」と記す。「市川栢莚舎事録」(1769年5月)には2代目市川団十郎が「さる諸侯」から所望があり、再三辞退したものの繰り返し乞われ一座が屋敷に上がって演じるまでの経緯が詳しく綴られている。

 屋敷芝居はどんなときに行われたのか。鈴木准教授によると、客の接待や日待のほか、殿の誕生日、お盆、参勤交代で殿が国元から江戸に来たとき、江戸を離れるときなどに上演されたという。加賀藩の「御用番方留帳」(1699年11月13日)には座敷で上演された人形浄瑠璃に「都合七百七十五人、右、白洲見物……白洲見物も御菓子これをくださる」とある。大名屋敷内での歌舞伎や人形浄瑠璃の見物は江戸詰めの家臣たちにとっても大きな楽しみで、まさに家中挙げての一大レクリエーションだったようだ。

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<東大寺二月堂> 子どもの健やかな成長願って〝達陀帽いただかせ〟

2014年03月15日 | 祭り

【1263回目の〝不退の行法〟お水取りが無事満行】

 1日から2週間にわたった東大寺の修二会(お水取り)。無事満行を達成した15日、二月堂では恒例の「達陀帽(だったんぼう)いただかせ」が行われた。本行中、練行衆が達陀の行法で用いた金襴の帽子を幼児にかぶせると健やかに育つといわれる。その言い伝えにあやかろうと、幼児や赤ちゃんを伴った多くの参拝客が長い列を成した。

  

 場所は練行衆が毎晩厳しい修行を繰り返した二月堂の南側の階段を上りきった広場。階段にはお松明(たいまつ)の名残の黒い燃えカスがまだ残っていた。予定では午前10時から午後3時まで。開始時間に合わせていくと、広場は既に親子連れでいっぱい。長い列が5~6本できて既に始まっていた。

 

 近くの幼稚園児だろうか、そろいの制服姿の子どもたちも大勢来ていた。帽子をかぶせられると手を合わせる女の子、僧侶を不思議そうに見上げる小さな子、母親に抱かれぐっすり眠ったままの赤ちゃん、父親も入って記念写真を撮ってもらう家族連れ……。何をされるか分からない〝初体験〟の不安からか、帽子が頭に近づくと火が付いたように泣き出す小さな子どもも多かった。

 

 お水取りが始まったのは奈良時代の天平勝宝4年(752年)。以来1度も途絶えることなく続くことから〝不退の行法〟といわれる。今年で1263回目。春を呼ぶお水取りが終わって、古都奈良にもまもなく本格的な春がやって来る。

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