く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<大和文華館> 特別企画展「中国陶磁の広がり」中国の青磁・青花など約60点

2013年05月31日 | 美術

【日本・朝鮮・ベトナムなどの作品も約30点】

 東洋美術・工芸品のコレクションで知られる大和文華館(奈良市)で、特別企画展「中国陶磁の広がり―愛好・写し・展開」が開かれている。中国の南北朝(東晋)から唐、宋、元、明、清に至る青磁・白磁・青花・五彩など約60点と、日本や朝鮮、ベトナム、オランダなどの作品約30点。中国陶磁器の変遷をたどりながら、その高い技術と多様な造形がいかに世界の焼き物に影響を与えたのかを示す。6月30日まで。

   

 館内に入ると真正面に「青花双魚文大皿」(上の写真)。明朝初期の景徳鎮窯のもので直径が53.5cmもある。唐草文に囲まれて2匹の魚が水藻の間を泳ぐ構図。「青花」はコバルトで絵付けを施した上に透明な釉薬をかけて焼き上げる。このため水が浸透せず文様が半永久的に消えないのが特徴で、この大皿も深みのある濃い青が実に鮮やか。

 顔料のコバルトは西方ペルシアから入ってきたもので、青花はいわばイスラム文化との交流の中で生まれた。中国の唐三彩や青磁は日本の施釉陶磁器の発展にも大きな影響を与え、朝鮮半島では高麗青磁が生み出された。江戸時代に入ると日本でも佐賀・有田で磁器焼成に成功し、伊万里焼はヨーロッパへの有力な輸出品になった。この企画展にも江戸前期の「染付山水文大皿」(重要文化財)や江戸中期の「色絵花文皿」などの有田産が出品されている。

   

 「光琳筆銹絵(さびえ)山水文四方火入」(上の写真)は京都の陶工、尾形乾山の1711年頃の作。乾山は野々村仁清に師事しながら、中国など海外の陶磁器も熱心に研究した。この作品は白絵の具で覆う〝化粧掛け〟という技法で作った器に、兄の尾形光琳が水墨画を描いた兄弟の合作。同時に展示中の乾山筆の「陶芸伝書(陶工必用)」には師仁清の陶法や自身が考案した陶法などが墨書されている。

   

 「黒地色絵瓜桃文鉢」(上の写真)は青木木米が加賀で春日山窯を築いたときの代表作。木米も中国の古陶磁に傾倒した1人で、仁清、乾山とともに江戸3大陶工ともいわれる。もともとは京焼の名工だが、加賀九谷焼の再生に尽力した。この鉢は見込みに桃、内外の側面に瓜が油絵のように柔らかいタッチで描かれている。

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<ササユリ(笹百合)> 笹の葉に囲まれ、楚々とした気品と美しさ

2013年05月30日 | 花の四季

【甘い芳香にスズメガが誘われ受粉のお手伝い!】

 日本特産のユリで、本州中部以西の里山の雑木林や草原に自生する。細長い葉の形がササに似ているうえ、ササに囲まれて生えていることが多いため、この名が付いた。淡いピンク色の花をうつむき加減に開く姿には、控えめながら凛とした気品と清楚な雰囲気が漂う。学名「リリウム・ヤポニクム」。英名で「ジャパニーズ・リリー」と呼ばれる。

 別名「サユリ」。万葉集にはユリを詠んだ歌が長歌も含め11首。そのうち8首が「さ百合花」と詠む。「灯火(ともしび)の光りに見ゆるさ百合花 ゆりも逢はむと思ひそめてき」(内蔵縄麻呂)。これらの歌に詠まれた「さ百合」の「さ」は接頭語で、特定のユリを指したものではないという。ただ、山野に多く自生するユリは関西ではササユリ、関東ではヤマユリのため、多分そのいずれかだろうと推定されている。

 毎年6月17日、奈良市の卒川(いさかわ)神社で「三枝祭(さいくさのまつり)」が開かれる。三輪山をご神体とする大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)の摂社で、山の麓で採取したササユリを神前に供え、巫女4人が「ゆりの舞」を奉納する。祭神・媛蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト、神武天皇の皇后)のお住まいだった山麓の川のほとりにササユリが咲き誇っていたという故事に基づく。別名「ゆりまつり」。古く大宝元年(701年)制定の「大宝令」に国家の祭祀の1つとして定められていたという。

 ササユリは上品な香りを放ち、特に夕方以降、暗くなると香りを増す。それに引き寄せられてやって来るのが夜行性のガの1種・スズメガ。ストローのような長い口を伸ばして花びらの奥にある蜜を吸う。その代わりスズメガは羽に付着した花粉を他のササユリの花まで運び媒介の役割を果たしてくれる。

 その清楚な花のたたずまいから、西日本の自治体を中心に「市の花」などシンボルに制定しているところも少なくない。大阪府箕面市・泉佐野市、兵庫県篠山市・宍粟市、滋賀県甲賀市、三重県伊賀市・熊野市、岐阜県恵那市……。奈良・桜井の大神神社ではいま「ささゆり園」を公開中(6月20日まで)。ササユリ約6000本が群生する愛知県豊田市の「ささゆりの里」は6月1~16日に公開し、9日には「ささゆりまつり」を開く。

 ササユリはかつて里山に多く、球根を食用にもしていた。だが、最近は乱獲などで目にすることが少なくなってきた。ササユリは山から球根を採取して平地で育てようとしても栽培が極めて難しいという。翌年咲いても、いつの間にか球根が消えてしまうことが多いそうだ。「手に取るなやはり野に置け蓮華草」(滝野飄水)。ササユリもレンゲソウと同じように、自然の野にあってこそ美しさが際立つということだろう。

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<ボストン美術館至宝展> 「吉備大臣入唐絵巻」など国宝・重文級が里帰り!

2013年05月29日 | 美術

【大阪市美術館で開催中、6月16日まで】

 〝東洋美術の殿堂〟ともいわれるボストン美術館の「日本美術の至宝展」(6月16日まで)が大阪市美術館で開かれている。昨年3月から東京、名古屋、福岡を巡回してきたが、この大阪展が見納め。フェノロサと助手・岡倉天心が中心になって進めたボストン美術館の日本美術コレクションは現在10万点を超えるという。その膨大な量にはただ驚くしかない。今回の里帰り展には「吉備大臣入唐絵巻」や快慶作の弥勒菩薩立像、狩野永納作の「四季花鳥図屏風」などの名品が多く並ぶ。

 

 弥勒菩薩立像(写真㊧)は高さ1m余りで、腰を少し左側に曲げて優しい表情を湛える。金箔で光輝き、衣文の流れるような曲線も印象的。像内の奥書に「仏師快慶」と記され、文治5年(1189年)の作と判明した。もともと奈良・興福寺に伝来していたもので、現存する快慶の作品の中では最も古いという。

 〝海を渡った2大絵巻〟の1つ「吉備大臣入唐絵巻」は4巻合わせて24mにも及ぶ長大な作品。後白河法皇が制作させた絵巻コレクションの1つとみられ、遣唐使・吉備真備の活躍をユーモラスに描く。もう1つ「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」(写真㊨、部分)は平治の乱(1159年)の約100年後に描かれたもの。軍勢の動きや騒乱の中で逃げ惑う人々の混乱ぶりがリアルに描かれ、合戦絵巻の最高傑作と評されている。

   

 「四季花鳥図屏風」は右隻に春夏、左隻に秋冬を描く(写真㊧は左隻)。作者の狩野永納は山楽、山雪に続く京狩野家の3代目。その流れを汲み、豪華で迫力に富む構図になっている。ボストン美術館は江戸時代の絵師・曽我蕭白(1730~81)のコレクションでも有名。至宝展には11点が出品されているが、その中で最も注目を集めているのが横幅10mを超える巨大な「雲龍図」(写真㊨、部分)。襖絵としては類例のない大きさで龍の頭などが画面いっぱいに描かれている。襖から剥がされたままだったものをパネルに仕立て直した結果、展示が可能になったという。

 長谷川等伯の「龍虎図屏風」や狩野山雪の「十雪図屏風」、尾形光琳の「松島図屏風」、花鳥図を得意とした伊藤若冲の「鸚鵡図」や「十六羅漢図」なども並ぶ。この他、南北朝時代の春日大社の境内を描いた「春日宮曼荼羅図」や奈良・永久寺(廃仏毀釈で廃寺)の堂内を飾っていた「四天王像」、左下に「高山寺」印が押された白描画「弥勒如来図像」なども。

 出品作の中には国内に現存しておれば国宝や重要文化財指定が間違いないものが少なくない。これらの〝日本の文化財〟が海外に流出したことは、往時の社会情勢を勘案しても極めて残念。だが〝世界の文化財〟として散逸を防ぎ、良好な状態で保存されてきたという点では、ボストン美術館に感謝すべきかもしれない。

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<ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)> ジャスミンに似た芳香 花色が紫から白に変化

2013年05月28日 | 花の四季

【ナス科、原産地はブラジル~アルゼンチン】

 原産地は南米のブラジル南部からアルゼンチンにかけての地域で、日本には明治時代末期に渡ってきたといわれる。和名「匂蕃茉莉」の「蕃」は外国、「茉莉」はジャスミンを指す。海外から渡来したジャスミンのような香りを放つ花ということで、この名が付いた。ただニオイバンマツリはナス科に属し、モクセイ科のジャスミンとは同じ仲間ではない。

 花の咲き始めは青紫色。これが2日ほどの間に次第に〝退色〟して薄紫から白に変化していく。次々に咲き続けるため1株で複数の色が楽しめる。その色の変化から英名では「イエスタデー・トゥデー・アンド・トゥモロー」などと呼ばれているそうだ。芳香は夕方から明け方にかけて特に強くなり、周りは甘い香りに包まれる。ちなみに花言葉は「浮気な人」。このほか「乙女の香り」「熱心」などもあるという。

 フラワーショップなどでは単に「バンマツリ」や「マツリカ」「アメリカジャスミン」、学名の「ブルンフェルシア」などの名前でも流通している。ただ「マツリカ(茉莉花)」はモクセイ科ソケイ属の植物で、ジャスミンティーに花のつぼみが使われる「アラビアジャスミン」を指す。ニオイバンマツリと同じ仲間には、黄花種のアメリカバンマツリ、花や葉が一回り大きいオオバンマツリなどがある。増殖は挿し木で比較的容易。この写真の株も小枝の挿し木から育てて3年目だが、今では高さ1.5m近くまで成長した。

 静岡県下田市の了仙寺は境内から参道にかけて約1000株のニオイバンマツリが咲き誇る。幕末に日米下田条約が調印されたお寺で国の指定史跡。ここでは「アメリカジャスミン」と呼ばれ、ちょうど「香りの花まつり」(31日まで)が開かれている。関西では奈良市の珹寺(れんじょうじ)が有名。本尊は光明皇后をモデルにしたという「女人裸形阿弥陀如来立像」(31日まで開扉中)だが、その本尊にお似合いの花として先代住職が30年ほど前ニオイバンマツリを植樹したのが始まりという。

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<上野彦馬賞フォトコンテスト> 身を賭してシリア内戦を激写 一般部門の大賞

2013年05月27日 | 美術

【尼崎市総合文化センターで6月2日まで】 

 「第13回上野彦馬賞―九州産業大学フォトコンテスト受賞作品展」が兵庫県の尼崎市総合文化センター(あましんアルカイックホール)で開かれている。同時に「新井卓銀板写真展」や明治初期の古写真展も開催中で、写真の珍しい技法など過去の世界を覗くこともできる。尼崎での開催は昨秋から東京や北海道、九州各地で開いてきた巡回展の締めくくり。会期は6月2日まで。

   

 上野彦馬(1838~1904)は幕末から明治にかけて活躍した職業写真家で、わが国の「写真の祖」ともいわれる。1862年、故郷長崎に日本初の写真館「上野撮影局」を開き、坂本龍馬や高杉晋作、伊藤博文ら歴史上の人物を多く撮影した。上野彦馬賞は若手写真家の発掘と育成を目的に、九州産業大学が2000年の建学40周年を記念し毎日新聞社とともに創設した。

 コンテストは39歳以下の一般と高校・中学生を対象にした2部門。内外から773点の応募があった一般部門では「シリア内戦、アレッポ攻防」(八尋伸氏)が大賞の上野彦馬賞に選ばれた。政府軍と戦う自由シリア軍の若者の姿を間近からとらえた緊迫感に満ちた5枚組(上の写真はうち2枚)。「独裁政権を拒絶した彼らに選択肢はなかった。戦わねば殺される。だから戦う。しかし、彼らは先の見えない不安さを感じさせない強さがあった」と八尋氏はコメントを寄せている。

 

 毎日新聞社賞の「Lost Place~One Year On,Tsunami JAPAN」(平井茂氏)は東日本大震災被災地の1年後をほぼ同じ場所で撮った5枚組の白黒写真。上下に1年前と1年後の写真を並べることで復興には程遠い現状を訴える。高校・中学生部門のジュニア大賞には2611点の応募作の中から、カラフルな防波堤と青い海・白い雲をバックに2人の若い女性を撮った「Teens」(杉田友里さん)が選ばれた(上の写真㊧)。

 銀板写真を出展した新井卓氏は1978年生まれで、現在、京都造形芸術大学の非常勤講師を務める。銀板写真はフィルムの代わりに鏡のように磨かれた銀板に直接画像を定着させる古典的な撮影手法。複製や引き伸ばしはできない。各作品の前に近づくと電球が点灯して画面が浮かび上がる。一般の写真とは異なる不思議な世界で、福島原発事故で放射能を浴びたヤマユリにはドキッとさせられる美しさが漂っていた(写真㊨は「2012年1月12日、検問所、川内村」)。

 古写真展では上野彦馬と同時代に日本に滞在したマンスフェルトというオランダ人医学教師が所有していた明治初期の風景や風俗写真50点余が展示されている。いずれも初公開で「上野撮影局」で撮った知人たちの写真も含まれている。京都の風景写真の中に金閣寺があった。金閣は昭和25年(1950年)の放火で全焼するが、写真の金閣は再建された今の金閣と違って、各層の外回りに多くの柱が立って屋根を支えている。

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<塼仏(せんぶつ)> 玄奘がインドから帰国後、唐の都・長安で製作が盛んに!

2013年05月26日 | 考古・歴史

【帝塚山大学公開講座で武蔵野美術大学講師・萩原哉氏が講演】

 帝塚山大学(奈良市)の市民大学講座が25日開かれ、仏教美術史研究家で武蔵野美術大学講師の萩原哉氏が「塼仏の流伝と三蔵法師玄奘」の演題で講演した。塼仏は粘土を型押しした浮き彫り状の小さな仏像や仏塔。日本には7世紀後半に造営された飛鳥時代の寺院跡などから大量に出土している。萩原氏は中国から日本に伝来した塼仏のルーツをたどりながら「塼仏はインドの文化と美術様式が唐の都・長安を経て日本に伝えられたモデルケースの1つ」などと話した。(写真㊧の2枚は中国・唐時代の「印度仏像塼仏」、㊨は日本・白鳳時代の塼仏)

    

 塼仏は粘土を型抜きすることで容易に大量生産でき、しかも既製の塼仏から型起こしすることで実物と同じ複製品ができるという特色を持つ。寺院の堂塔内の壁面を飾る荘厳具や、念持仏などの礼拝像として用いられたとみられる。仏教発祥のインドでは「遅くとも3世紀頃までに塼仏づくりが始まり、信者の聖地巡礼に伴ってお土産やお守りとして各地に広まった」。塼仏の製作はパーラ朝時代(750~1174年)に最も盛んになった。

 中国で製作年代が明らかな塼仏で最も古いものは北魏時代後期の525年の銘が入った方形如来坐像塼仏。釘穴や壁に打ち付けた痕跡があった。「千体仏として壁面全体を塼仏で埋め尽くしたのではないか。こうした仏塔内部の荘厳方法はインドや東南アジアなどでは知られておらず、中国で独自に考案されたのだろう」。

 塼仏の製作が一気に活発になるのは初唐時代の7世紀中頃から8世紀にかけて。しかも出土地域は都が置かれていた長安(現在の西安)に限られる。それらの塼仏は刻まれた銘から「印度仏像塼仏」と「善業泥塼仏」に大別される。「印度仏像塼仏」は玄奘(602~664)がインドから経典や仏像とともに持ち帰った奉献板を基に複製されたもので、玄奘の発願でインド式仏塔として建立された大雁塔周辺で多く出土した。玄奘は仏教研究のため629年にインドに向かい、16年後の645年に帰国している。

 「善業泥」銘の塼仏も大雁塔周辺で見つかったが、三尊像が彫り込まれたその図様は「基本的な造形を維持しながら『印度仏像』からA類→B類→C類と3つの段階を経て少しずつアレンジしたものになった」。そのうちC類は真ん中の中尊が禅定印を結んだ如来坐像。その図様は「玄奘の信仰と思想を目に見える形で表したものといわれる」。玄奘主導の塼仏の製作はさらなる流行を促して、多宝塔塼仏や小型方形塼仏群など多種多様な塼仏が生まれた。

 そうした中で日本には「善業泥塼仏」のうちC類を中心に「玄奘の教学と軌を一にして伝来した」。日本では白鳳時代の660年代創建の奈良・川原寺裏山遺跡で方形三尊塼仏が大量に出土したほか、奈良・橘寺や京都・山崎廃寺でも火頭形(上部中央が尖った形)の三尊塼仏が見つかっている。中国の最新の塼仏様式がほとんど時間差なく日本に渡ってきたわけだ。

 萩原氏は「遣唐使として653年に中国に渡り玄奘に直接師事した道昭が、661年の帰朝の際に請来したのではないか」とみる。三尊塼仏が出土した山崎廃寺は670年代に道昭が造営し、行基が山崎院として整備したといわれる。行基は道昭の著名な弟子の1人。「中国の塼仏は玄奘を中心とした子弟関係の中で、弟子の道昭、さらにその弟子行基を通して日本へ継承されたと言えるのではないだろうか」。

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<ホオノキ(朴の木)> 高い梢の頂に芳香のある大輪の白花

2013年05月25日 | 花の四季

【巨大な葉っぱは朴葉味噌や朴葉餅、朴葉ずしに】

 モクレン科の落葉高木で北海道から九州まで全国の山林に自生する。5~6月頃、枝先に直径が15cmほどもある少しクリーム色がかった白い花をつけ芳香を放つ。ただ上向きに咲くため、下から見上げても大きな葉に遮られてよく見えない(このため、この写真も遠く離れた高い所から。下の写真2枚は下から)。花弁は6~9枚で、同じ仲間のタイサンボク(北米原産)の花に少し似ている。

 葉は長楕円形で長さが30~40cm、幅が20cm前後もある特大サイズ。葉には殺菌作用もあるため、これで食物を包んで朴葉(ほおば)餅や朴葉ずしを作る。そこからホオノキは「ホオガシワ」の別名を持つ。朴葉味噌は飛騨高山地方の名物料理。朴葉の上に刻んだネギなどを混ぜた味噌を載せて焼くと香ばしくご飯の友に。最近では飛騨牛や魚介類、季節の野菜・山菜なども朴葉の上で焼いて、観光客の人気を集めている。

 

 ホオノキ材は軽くて柔らかく、きめ細やかで狂いも少ない。このため製図板や定規、刃物の鞘、まな板、寄木細工、下駄の歯、漆器の素地、楽器、彫刻材、船舶材……と幅広く活用されてきた。ホオノキの木炭はかつて眉墨としても使われた。樹皮は乾燥して生薬「和厚朴(わこうぼく)」に。利尿や去痰、腹痛、虫の駆除などに効果があるという。

 奈良県宇陀市の「戒場神社のホオノキ」は県指定の天然記念物。高さ15m、幹回り6.2mで、樹齢は300年以上と推定されている。岡山県新見市の「ほおのき原のホオノキ」は市の天然記念物で樹齢700年ともいわれる。このほか兵庫県香美町や秋田県湯沢市などにもホオノキの巨樹がある。ホオノキの花は初夏の季語。「朴ひらき大和に花を一つ足す」(森澄雄)。

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<BOOK> 「春は十石舟に乗って」(広田浩三著、ウインかもがわ制作)

2013年05月24日 | BOOK

【掌編・エッセー91本に加え短編小説「尋問」など】

 筆者の広田浩三氏は1938年京都市生まれで、現在下京区在住。若い頃には定職に就かず作家を目指して執筆に熱中し、61年に詩集「あくびと鼻血」を自費出版、66~71年「羅生門文学」を中心に同人誌・文芸誌に小説・詩・エッセーを発表した。72年には短編小説「尋問」が「小説新潮」の新人賞予選入選作に選ばれている。だが、その後、作家への夢を断念し職を転々、葬儀社や夕刊紙を発行する大阪の新聞社に勤めたこともある。

   

 本書は2001年から全日本年金者組合の京都下京支部の組合ニュースに連載中の掌編小説や短いエッセーの中から合計91本を選び、さらに短編小説「尋問」と「内陣の裏」を加えて出版した。タイトルにある「十石舟」は伏見の濠川を巡る遊覧船が有名だが、これは10年前から桜シーズンに琵琶湖疏水の京都市動物園向かい~夷川ダム間(往復約3キロ)を運航している十石舟のこと。掌編の1つの題をそのまま本のタイトルとした。

 掌編55本はいずれも見開き2ページの分量で、いわば〝ショート・ショート〟のミニバージョン。男女の微妙な機微や老いなどをテーマにしたものが多い。『妻の交通事故』では、妻が事故に遭ったという連絡を受けタクシーで病院に急ぐ夫の頭を奇怪な想念がよぎる。「これでおれは妻から解放され、自由になれるかもしれない!」。だが、妻は手足に軽い打撲だけ。妻は拍子抜けした夫に向かって、からかい口調で「あなた、子どもたちでなくてよかったと思っているでしょう?」。

 『初めての敬老乗車証』では心弾ませバスに乗ったものの「さて、どこで降りる? 今更行くあてなんかあるもんか! あっはっはっはっはっ!」。自嘲の笑いがバス中に響き乗客の冷たい視線が一斉に向けられる。『デパ地下の老夫婦』では試食品をほお張り続ける認知症の老人を描く。掌編の中にはもっと膨らませば、読み応えがある1本の物語になりそうなものも目立った。

 エッセーは「されどわが老いの日々―文化・社会・人生」として36本を掲載する。『鎮魂歌―幼い命の死を悼む』は葬儀社時代の体験を綴る。電車の踏切事故で亡くなった幼い男の子の棺の中に青いゴム長靴が納められた。「ふだんはいていたものらしく、ぬかるんだ死出の旅路の足元を気遣ったのだろうか」。霊柩車の発車に合わせて放鳥供養の鳩が飛び立った。筆者はその光景を歌に詠んだ。「子を送る棺に小さきゴム長を添へて父母らは鳩を放てり」。幼児の事故死ほど痛ましいものはない。

 『<ありのすさび>と憲法九条』では古歌の「在るときはありのすさびに語らはで悲しきものと別れてぞ知る」を紹介し、この「ありのすさび(在の遊)」は「人間関係以外のことにも当てはまる」として憲法問題を例に挙げる。「改憲の動きには平和憲法に<慣れてしまった>人心の虚を突くかたちで出てきたと思える側面がある……九条の改変を許せば、国民に復古的な愛国心を強要し、自衛軍をつくって海外での戦争を可能にする条項にとって代わられる。そうなって<ありのすさび>を嘆いても後の祭り」。

 『京都駅炎上と母の死』では、京都の駅舎が戦後間もない1950年に大火災で焼失していたことを初めて知った。「この火事は私が生涯で目撃した最も壮大で恐ろしい光景だった」。焼けた京都駅は大正天皇の即位記念に建てられたルネサンス式の立派な建物だったという。原因は駅舎2階にあった食堂のアイロンの消し忘れ。戦禍を免れた歴史的な建物なのに、なんと皮肉なことだろうか。

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<シャリンバイ(車輪梅)> 梅に似た白い小花 樹皮は大島紬の染料に!

2013年05月23日 | 花の四季

【乾燥・大気汚染に強いため路側帯などに植栽】

 バラ科シャリンバイ属の常緑低木。東北以西の海岸などに自生する。乾燥や大気汚染に強く、刈り込みにもよく耐えるため、道路脇の路側帯などに植栽されることが多い。比較的地味な植物で普段はあまり見向きもされないが、4~6月ごろ、梅に似た白い小花をいっぱい付けて存在をアピールする。花の形や放射状の葉や小枝が車軸のように見えることから、この名が付いた。ツバキ科のモッコク(木斛)の花に似ていることから「ハマモッコク」「ハナモッコク」の別名を持つ。

  葉の先端が丸いものをマルバ(丸葉)シャリンバイと呼ぶことがある。北限といわれる山形県鶴岡市や福島県南相馬市のマルバシャリンバイ自生地は県指定天然記念物。新潟県佐渡市小川の自生地も市の天然記念物になっている。南相馬市海老浜の自生地は一昨年の東日本大震災で大津波に襲われた。一帯は瓦礫で覆われるなど大きな被害を受けたが、一部は生き残って昨年6月再び開花、地元住民を「地域復興のシンボル」と喜ばせた。

 樹皮や根はタンニンを多く含み奄美大島の特産、大島紬の染料になっている。チップ状にして長時間煮沸し、その液に絹糸を漬け泥水で洗う。これを繰り返すうちにタンニンと泥の鉄分が反応して特有の渋い黒い色と光沢が出てくる。シャリンバイは〝泥染め大島紬〟という伝統産業を支えてきたわけだ。だから奄美市の「市花」もシャリンバイ。奄美市は2006年、名瀬・笠利・住用の3市町村が合併し誕生したが、合併を機にハイビスカスとともに市花に定められた。

 ただ各地の自生地は危機的な状況に追い込まれている。秋田や山形、福島、石川の各県では絶滅危惧種、鹿児島県でも準絶滅危惧種に指定されているという。最近では園芸品種として花も葉も小さい矮性や花がピンクのものなどが流通している。3年前には和歌山県紀の川市の生産者が育成した新品種が「ベニバナ(紅花)シャリンバイ・ペリドット」の名前で新しく登録された。県も優良県産品として販売を後押ししている。

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<京都市美術館> リヒテンシュタイン家の膨大なコレクションから珠玉の88点!

2013年05月22日 | 美術

【ルーベンスをはじめラファエロ、レンブラント、ヴァン・ダイク…】

 スイスとオーストリアに挟まれた小国リヒテンシュタイン。国家元首でもあるリヒテンシュタイン家は膨大な美術・工芸品のコレクションでも知られる。その数およそ3万点。京都市美術館で開催中の「リヒテンシュタイン 華麗なる公爵家の秘宝展」(6月9日まで)には、その中からルーベンスやラファエロ、レンブラント、アンソニー・ヴァン・ダイクの作品など88点が出展されている。ルネサンス期から19世紀前半までのヨーロッパ絵画史をたどる構成。絵画とともに家具や彫刻、タペストリーなども配置し、作品を公開しているウィーン郊外の「夏の離宮」の雰囲気を体感できるように展示を工夫している。

  

 リヒテンシュタイン家はオーストリアの名門貴族で、パプスブルク家の重臣として活躍し、1719年に神聖ローマ皇帝から自治権を授与された。美術・工芸品の収集は5世紀にも及び、英国王室に継ぐ世界最大級の個人コレクションといわれる。3万点のうち絵画が1600点余。特に収集に力を入れてきた画家の1人がバロック期に活躍したルーベンス(1577~1640)で、今回の秘宝展には所蔵する36点のうち油彩8点が出展されている。

 その1つ「マルスとレア・シルヴィア」(上の写真)は縦2m、横2.7mの大作。軍神マルスが就寝中の巫女シルヴィアに忍び寄り、シルヴィアが驚いて身を引く場面を躍動的に描いている。愛の神キューピッドがマルスの左手を取ってシルヴィアへ導く。ローマの建国神話によると、この時に宿った双子の兄弟ロムルスとレムスが長じてローマの建国者になった。

  

 レンブラントはこうした神話や宗教的題材の歴史画を多く描いたが肖像画にも名品が多い。「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」(写真㊧)は5歳の頃の長女を描いた作品。赤いほっぺが印象的で、かすかに微笑みながら父親の方をまっすぐ見つめる。レンブラントの娘への深い愛情が画面いっぱいにあふれる。だが、その愛娘も7年後、12歳という若さで短い生涯を閉じた。レンブラントの悲しみはいかばかりだったことか。

 レンブラントの肖像画は弟子たちにも大きな影響を与えた。とりわけフランドル地方出身のアンソニー・ヴァン・ダイク(1599~1641)は肖像画の第一人者と称えられ、上流階級の間で人気を集めた。「マリア・デ・タシスの肖像」(上の写真㊨)は気品のある女性の表情とともに絹の衣装の質感に目を奪われる。「ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン8世の肖像」も実に生き生きと描かれ、今にも画面から飛び出してきそうな気配すら感じた。ヴァン・ダイクは後にイングランドに渡って宮廷画家として活躍、イングランド絵画界に多大な影響を与えた。

  

 ルネサンス期を代表するラファエロ(1483~1520)の「男の肖像」(写真㊧)は20歳前後の頃に描いた作品。男性の目力に意思の強さが表れる。レンブラント(1606~69)の「キューピッドとしゃぼん玉」(写真㊨、部分)は28歳の時の作品。しゃぼん玉は愛のはかなさの象徴だろうか。18世紀前半の新古典主義の作品や、身近な人物や静物画を優美に描き「ビーダーマイヤー様式」と呼ばれた19世紀後半の画家たちの作品も並ぶ。

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<エゴノキ> 愛らしい白い小花が枝に鈴なり!

2013年05月21日 | 花の四季

【別名「チサ」「チシャ」「ロクロギ」「セッケンノキ」…】

 エゴノキ科の落葉小高木で、5~6月頃、小枝に白い清楚な小花を下向きに付ける。花は直径3cmほどで星形の5弁花。7分咲きのような控えめな開き方で、下から見上げると清楚で愛らしい。「スティラックス・ジャポニカ」という学名が付いており、日本全土のほか朝鮮半島や中国、フィリピンの一部にも分布する。エゴノキの名前は果皮を口にすると喉を刺激して、えごい(えぐい)味がすることに由来する。園芸品種に花が紅色のベニバナエゴノキやシダレエゴノキなど。

 エゴノキは「チサ」「チシャ」「チサノキ」「チシャノキ」などの別名を持つ。万葉集には大友家持が越中国司時代に詠んだ長歌に「ちさの花」として登場する。遊女との浮気にふける部下の役人を、都に残した妻子の愛らしさをこの花にたとえて諌めた。万葉集には「山ヂサ」を詠んだ歌も2首ある。ただ、これらの花はエゴノキ説のほか、野菜のチシャやイワタバコ、クスノキ科やムラサキ科のチシャノキ説などもあるという。エゴノキは江戸時代の「伊達騒動」を題材にした歌舞伎「伽羅千代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の中にも出てくる。

 材は緻密で粘り強い。そのため古くから器、杖、櫛、コケシ、将棋の駒など様々な材料として使われてきた。ろくろ細工や和傘の骨をつなぐろくろ材にも使われることから「ロクロギ」「ロクノノキ」の異名もある。果皮はよく泡立つサポニンを含み、洗濯石鹸の代わりとしても活用された。そこから「セッケンノキ」とも呼ばれる。楕円形で堅い実はお手玉の玉にも代用された。

 かつては魚やウナギなどを獲る漁にもエゴノキの果実や根が利用された。サポニンには麻酔効果があり、すりつぶして川に流し麻痺して浮かび上がってくる魚を獲った。サポニンは水に溶けると30分程度で分解されて毒性はなくなる。ただ、この〝毒流し漁〟は現在では爆発や電気ショックによる漁法とともに「水産資源保護法」などで禁止されている。

 実は野鳥ヤマガラの大好物。両足で押さえ殻を割って実をついばむ。ヤマガラには木の実などを隠し場所に貯める〝貯食〟の習性もある。山形大学農学部がかつてエゴノキとヤマガラの関係を追跡調査した。その結果「ヤマガラの貯蔵行動はエゴノキの種子を散布させるだけでなく、発芽にも大きく貢献している」ことが分かった。エゴノキの突然変異で生まれた岩手県一関市の「ガンボク(雁木)エゴノキ」は県の天然記念物に指定されている。「奈良坂にわが身漂ふえごの花」(山上樹実雄)。

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<江戸時代の4大麻布> 糸・織りの顕微鏡検査などで産地を特定!

2013年05月20日 | 考古・歴史

【近世麻布研究所・吉田代表が奈良県立民俗博物館で講演】

 奈良県立民俗博物館(大和郡山市)で19日、「国際博物館の日」記念講演会があり、「近世麻布研究所」代表の吉田真一郎氏が「布の山から文化を読み解く」と題して講演した。吉田氏は糸や織りを顕微鏡で検査・分析することで麻布の産地を特定する道を開いた麻研究の第一人者。講演の中で「奈良時代はもちろん弥生時代の人々も木綿のような柔らかい風合いの衣服を身に着けていたのではないか」と話し、古い時代の衣服は目が粗く肌触りが悪かったというこれまでの通説に疑問を投げかけた。

   

 吉田氏は1948年生まれで、30年余り前、アート素材として古い布の収集を始めたのが江戸時代の麻布研究のきっかけ。麻は長く植物繊維全般を指す言葉として使われてきた。だが、その素材の詳細について照会しても不明なことが多かったため、自ら顕微鏡を使った独自の繊維検査などで麻布の〝謎解き〟に取り組んできた。昨年夏には新潟県十日町市で「四大麻布―越後縮・奈良晒・高宮布・越中布の糸と織り」を開催、これまでの研究成果を披露した。

     

 江戸時代の麻布には大麻(たいま、写真㊧)または苧麻(ちょま、写真㊨)の繊維が使われている。越後縮と奈良晒は経糸・緯糸とも苧麻。ただ奈良晒は明治時代に入って経・緯とも大麻に変わったという。越後縮は「柔らかい中にも腰があるうえ透明感もあるのが特徴」。主に武士の帷子(かたびら)など式服に使われ、将軍家や諸大名からの注文で特別に織った極上品は「御用布」などと呼ばれた。

 一方「八講布」とも呼ばれた越中布は経糸が大麻、緯糸が苧麻だった。高宮布は滋賀県の湖東産で、その名は高宮宿(現在の彦根市)が集散地になっていたことによる。「古文書では大概、近江は大麻と苧麻の両方を使用となっていたが、高宮布の1つを顕微鏡検査すると経・緯とも大麻だった」。高宮布は大麻と苧麻を使い分けていたらしい。

 大麻で織った麻布は苧麻に比べると目が粗く品質が劣るといわれた。そのため主に野良着など日常着用に使われたが、高宮布は木綿のように柔らかい。吉田氏は「大麻は太い糸で織っても晒しを繰り返すと木綿のような風合いが出る」という。さらに「正倉院展に出品されたものや平安時代の絵巻物の衣装を見ても、大麻布が柔らかい風合いで描かれている。木綿が出るまで硬いものを着ていたといわれてきたが、古い時代から柔らかいものを着ていたのではないか」と指摘する。

         

 奈良晒や高宮布には検査に合格したことを示す小さな朱印が押されているものがあった。ほとんどが仕立ての際に切り落とされたとみられるが、奈良晒では「南都曝平大工曲」(上の写真㊧)と押されたものが運よく30余点見つかった。「平」は平糸、「大工曲」は曲尺(かねじゃく)を指す。高宮布の合格印(写真㊥)は「南都」の部分が「南郡」となっており、さらに「橘」という1文字の印(写真㊨)も押されていた。橘は彦根藩の井伊家の家紋。

 朱印さえ見つかれば、それだけでも産地は明白。中には朱印がわざわざ見えるように仕立てられた着物もあった。吉田さんは「今と同じように江戸時代にもブランド志向があって、自慢していたのではないだろうか」と話す。

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<BOOK> 「バッハの秘密」(淡野弓子著、平凡社発行)

2013年05月19日 | BOOK

【バッハの曲の配置法に倣って7章を〝シンメトリー〟に構成】

 ベートーベン、ブラームスと共に「ドイツ3大B」といわれるヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)。多くの音楽家を輩出したバッハ一族の中で「大バッハ」とも呼ばれる。バッハ(BACH)はドイツ語で「小川」。ベートーベンはそれをもじって「バッハは小川でなく大海だ」と言った。著者ははしがき冒頭で「バッハという大海に意を決して飛び込み、潜り込んで生命を落としかけた体験がこの小さな本になりました」と記す。

   

 帯に「ベテラン指揮者が解き明かすバッハ音楽の隠喩・数秘術・修辞学」。淡野氏は1938年生まれで東京芸大を経てドイツ・ヘルフォルト教会音楽大学で学んだ後、68年ハインリヒ・シュッツ合唱団を設立し、現在、桂冠名誉指揮者。2003年から東京・本郷教会で教会暦に沿った「バッハ・カンタータ連続演奏」を始め、今も続行中という。

 7つの章からなるが、その構成がおもしろい。真ん中の第4章を「二十世紀のバッハ像」とし、その両側の第3章と第5章にバッハの2大傑作「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ曲」を据え、さらに第2章と第6章で教会カンタータの話題を取り上げる。バッハは多くの作品で、ある中心点を挟んで鏡のように楽曲を配置した。そのシンメトリーの構成を本書に取り入れたところに、著者のバッハへの愛着とこだわりが垣間見える。

 第1章は「バッハの学んだこと、目指したこと」として少年時代から晩年に至る足跡を追う。その中でバッハに襲いかかった7つの〝事件〟や子ども20人のうち成人した10人の横顔などを紹介する。第4章ではバッハ研究者5人の見解を取り上げ、シュバイツァーがバッハを「1つの終局」と語ったのとは対照的に、ベッセラーは「次の時代の開拓者」とみなしたことなどを紹介する。

 ロ短調ミサ曲はミサ通常文全体を通して作曲した、遺言ともいわれる大作。著者は「背景となっている聖書の該当箇所をよく観察し、典礼文全体を一つの物語のように把握して、修辞学的に解釈しながら音楽としていること」に驚かされたという。さらに「『古い』ものの持つパワーを踏切台として前衛最先端の表現に至る経緯は、まるで『自伝』そのものといってよい」と称賛する。

 第2章や第5章ではバッハの音楽に隠れている「数象徴」にも触れる。18世紀、ヨーロッパでは数字に象徴的な意味を持たせる一種の遊びが流行した。バッハは「14という数を音楽の中でよく署名代わりに使った」。アルファベットのABC…を数字の123…に置き換えると「BACH」は2+1+3+8で「14」になるからだ。三位一体の神を表す「3」や十二弟子・教会を表す「12」にもこだわり、作曲する際にはこれらの数字を意識的に拍子や調、小節数、器楽・声楽の編成などに反映させた。

 かつて「音楽の父」とも呼ばれ多くの教会音楽を残したバッハ。彼にとって作曲とは? 筆者は最終章で「音楽の秘密と原理を探ることだった」と書く。「人間の耳に音として聴こえる部分はもちろん、聴こえないもの、見えないもの、哲学、そしてさらに宗教といった次元のテーマも物理の法則を基に構築され、音楽として表現され得ると理解していた。バッハは彼の悟った『神の律』『神の諭し』を響きに変え、彼が確信した神の存在を世界に向かって証言しようとした」。音楽の中に隠された数字やパロディー手法、シンメトリーな曲の構成……。心地よい崇高な響きの中に様々な仕掛けが施されていたことに、改めてバッハの凄さを思い知らされた。

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<タニウツギ(谷空木)> 日本原産 漏斗状のピンクの小花を無数に付け

2013年05月18日 | 花の四季

【別名「ベニウツギ」。「田植え花」のほか「葬式花」「火事花」の呼び名も】

 スイカズラ科で日本原産の落葉低木。主に北海道西部から本州日本海側の山野に自生し、5~6月頃、本年枝にピンクや紅色の漏斗状の小花をびっしり付ける。谷間によく生え、幹(髄)が中空(白いスポンジ状)のため、この名が付いた。ほぼ同じ頃に白い花を付ける「ウツギ」はユキノシタ科で別の植物。

 タニウツギはやせ地や日向など土地を選ばない。高木が育ちにくい山の崩壊斜面や雪崩の多発地域などでも育つ。北信越や山陰地方では「田植え花」「早乙女花」などと呼ばれてきた。〝自然暦〟の1つで、ちょうど田植えの時期に開花することによる。この花が咲くと鰯が取れるとの言い伝えから「イワシバナ」と呼ぶ地域もある。若葉は古くから飢饉の際の救荒植物としても利用されてきた。

 一方で忌み嫌われる植物の1つにもなっている。地域によっては「死人花」や「葬式花」「仏花」などと呼ぶ。この枝を使って死者に持たせる杖を作ったり、葬式の際のお骨上げに使う箸を作ったりしたことによる。家に持ち帰ると火事になるといった俗信から「火事花」とも呼ばれた。花には罪がないものの、地域によっては昔からの言い伝えで縁起が悪い植物にもなっているわけだ。

 タニウツギにはまれに白い花を咲かせるものがある。これは「シロバナタニウツギ」。タニウツギ属には東アジアで12種ほどあり、うち9種が日本に自生する。主に太平洋側の山地に分布し、花がうすい黄色から紅色に変わるニシキウツギをはじめ、オオベニウツギ、ハコネウツギ、ウコンウツギ、キバナウツギ、フジベニウツギなど。

 このうちオオベニウツギは福岡県の古処山(朝倉市・嘉麻市)だけに自生する貴重種で、環境省のレッドリストでは絶滅の危険性が高い絶滅危惧Ⅰ類に分類されている。ただ最近の調査では発見できなかった。福岡県の「レッドデータブック2011」によると「絶滅したものと考えられる」。原因は特定できていないが、近年増えてきた鹿の影響が考えられるという。

 この写真を撮っていると大きなクマバチがやって来て、しきりに花の中に頭を突っ込んでいた。花はそのたびに丸々としたクマバチの重みで沈み込んだ。「強引と思うばかりに蜂もぐる 筒花ゆらぐタニウツギかな」(鳥海昭子)。

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<ユトリロ展> 初期から絶筆までの76点 パリの風景を詩情豊かに

2013年05月17日 | 美術

【生誕130年の回顧展、大阪高島屋で開催中】

 パリの町並みを詩情豊かに描き〝モンマルトルの画家〟とも称された油彩画家モーリス・ユトリロ(1883~1955)。生誕130年に当たるのを機に、いま大阪高島屋で回顧展(20日まで)が開かれている。内外のコレクションから76点、そのほぼ半分が日本初公開という。その中には未完の絶筆も含まれる。アルコール依存症と闘いながら波瀾の人生を歩んだユトリロ。その画業を初期から晩年まで順を追ってたどる構成になっている。

 

 ユトリロの母はモデル兼画家だったが、恋多き女性として名を馳せ、ユトリロを祖母に任せきりだった。父親については諸説。母は作曲家エリック・サティやロートレックとも一時、愛人関係にあった。祖母は毎夕、愛飲していたワインを孫のユトリロにも与えた。それが高じてユトリロの飲酒癖につながり、後に入退院を繰り返す結果を招いたらしい。

 絵は医師の勧めでリハビリのために描き始めた。生涯に描いた作品は6000点余。その作品の傾向から「モンマニーの時代」(1904~08年)、「白の時代」(10~14年)、「色彩の時代」(20~55年)に分かれる。「モンマニーの時代」はパリ郊外のモンマニーで祖母と一緒に暮らしていた頃の初期の作品。全体に色調が暗く重苦しい。「白の時代」には石膏や漆喰なども使って白い色を多用した。

 ユトリロはモンマルトルのキャバレー「ラパン・アジル」をよく描いた。このキャバレーだけで何と400点もあるそうだ。上の写真㊧はそのうちの1点。制作時期は1916~18年頃で「白の時代」が終わり気分もやや明るくなった頃の作品。窓の鎧戸が閉まった絵が多い中で、この作品は気分を反映してか、鎧戸が開け放たれている。「色彩の時代」に入ると、多彩な色遣いが目立ってくる。上の写真㊨は1924年制作の「プリュネリ=ディ=フィウモルボの教会と司祭館(コルシカ島)」。

    

 風景画が多い中で、唯一つ花を描いた静物画があった。写真㊧の「青い花瓶の花束」(1936年)。ユトリロは1920年、ベルギーの銀行家夫妻が家を訪ねてきたとき、夫人のリュシーに贈るためバラの花束の絵を描いた。その15年後、ユトリロは夫に先立たれた夫人と結婚することになる。ユトリロ51歳、リュシーは12歳年上の63歳。以来、花の静物画を好んで描くようになった。この作品はそのうちの1点。

 ユトリロは1955年秋、映画「もし、パリが我々に語るとしたら」出演のためモンマルトルに出掛ける。その数週間後、静養のため南仏のダクスへ。だが、そこで風邪をこじらせて急逝してしまう。享年71。今展示会には死の2日前まで絵筆を執った絶筆「コルト通り、モンマルトル」(未完)も出品されている。

 写真㊨は「テルトル広場、サン=ピエール教会とサクレ=クール寺院」(1935年頃)。これもユトリロがよく描いた風景の1つだが、葬儀はそのサン=ピエール教会で行われた。数日後、市民5万人もの葬送の列が埋葬されたモンマルトルのサン・ヴァンサン墓地まで続いたという。ユトリロはいま石塀を挟んで「ラパン・アジル」の向かいのお墓に眠る。

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