く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<アカメガシワ(赤芽槲・赤芽柏)> 別名「御菜葉」「菜盛葉」

2022年04月29日 | 花の四季

【〝先駆樹種〟裸地でいち早く発芽し急成長】

 トウダイグサ科アカメガシワ属の落葉樹。日当たりのいい山野に生え、大きなものは高さが10mにも。公園や空地、道端など身近な場所でもしばしば見かける。春、枝先に鮮やかな紅色の若芽を出すのが特徴。アカメガシワの名前もその赤芽と、大きな葉が古くからカシワ(ブナ科)と同じように食べ物を載せたり包んだりするものとして利用されてきたことによる。そのため「御菜葉(ごさいば)」や「菜盛葉(さいもりば)」などの別名を持つ。

 雌雄異株で、6~7月ごろ、穂状の円錐花序に花弁のない小花を多くつける。雄花は淡黄色、雌花は赤みを帯びた黄緑色。有用植物の一つで、葉や樹皮は神経痛や胃痛などの民間薬として用いられ、花や葉は草木染の染料として活用されてきた。学名は「Mallotus japonicus(マロツス・ヤポニクス)」。属名は「長軟毛のある」を意味し、アカメガシワの蒴果には刺状の軟毛が密生し褐色に熟すと果皮が裂開して種が顔を出す。種小名は「日本産の」。観賞用として庭に植えられる近縁種にオオバベニガシワ(別名オオバアカメガシワ)がある。

 アカメガシワは代表的な「先駆樹種(パイオニアツリー)」として知られる。種子は土の中で長く休眠し、時には100年以上もじっと出番を待つ。そして山火事、土砂崩れ、森林伐採などの撹乱で荒地や裸地になり、土壌が熱や直射日光で温められると眠りから目覚めいち早く発芽し急成長する。ある発芽試験によると、種子の剥皮に加え35度の加温処理で発芽率が高まったという。アカメガシワ以外の先駆樹種にはタラノキ、ヤマウルシ、シラカバ、ヌルデ、キリ、ネムノキなどがある。

 アカメガシワは万葉植物でもある。万葉集に4首詠われている「久木(ひさぎ)」はキササゲ(ノウゼンカズラ科)や雑木、老木など諸説あるが、最も有力とされているのがアカメガシワ。手元の『万葉の花』(片岡寧豊著)や『草木万葉のうた』(稲垣富夫著)なども「万葉名ひさぎ」としてアカメガシワを紹介している。以下は山部赤人の歌。即位して間もない聖武天皇の吉野離宮行幸に従った時の作といわれる。「ぬばたまの夜の更けゆけば久木生(お)ふる清き川原に千鳥しば鳴く」(6巻925)

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<ナラノヤエザクラ> 100年前に再発見の貴重種

2022年04月27日 | 花の四季

【「いにしえの奈良の都の八重桜…」と歌に詠まれ】

 ナラノヤエザクラはカスミザクラの変種で、本来の一重咲きが重弁化したものといわれる。「ノ」を省いてナラヤエザクラとも呼ばれる。花径は3cmほどとやや小ぶりで、30~35枚の花弁が重なり合う。開花時期は桜の中で最も遅く、4月下旬から5月上旬にかけて見頃を迎える。ヤマザクラ同様、若葉と花が同時に展開し、白っぽい咲き始めの花弁が咲き進むにつれて次第に淡紅色を帯び濃さを増していく。

 伝承によると、奈良時代に聖武天皇が春日の奥山で見つけ、光明皇后にせがまれて平城宮に移植させたという。古くから歌に詠まれてきたが、中でも有名なのが平安中期の女流歌人、伊勢大輔(生没年不詳)が詠んだこの歌。「いにしえの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」。小倉百人一首にも収められている。一条天皇の中宮彰子に仕え始めたばかりの伊勢大輔が、奈良から献上されたこの桜を前に中宮の命により即興で詠んだ。平安後期の歌論書『袋草子』(藤原清輔著)はその流麗な響きと類まれな歌心に「万人感歎、宮中鼓動す」と当時の様子を書き残している。

 また吉田兼好は『徒然草』に「八重桜は奈良の都にのみありけるを、このごろぞ世におおくなりはべるなる」(139段)と、京都では珍しかった八重桜が最近では目にする機会が増えてきたと記している。ただ、そのナラノヤエザクラの存在もいつの間にか忘れ去られて長い年月が過ぎた。再び注目を集めたのはちょうど100年前の1922年。〝桜博士〟として知られる植物学者三好学(1862~1939)らによって、東大寺の塔頭寺院知足院の裏山にあった桜がナラノヤエザクラであることが確認された。その翌年には「知足院ナラノヤエザクラ」として国指定の天然記念物に。しかし、その桜も十数年前に枯れ死し、知足院には組織培養し育てられた桜の成木が植樹されている。

 ナラノヤエザクラは奈良県の県花で、奈良市の市花でもある。今では奈良公園をはじめ東大寺や興福寺の境内、平城宮跡、奈良女子大学などで見ることができる。「奈良八重桜の会」(上田トクヱ会長)はこの貴重な桜をより多くの人に知ってもらおうと様々な活動に取り組んできた。今年は会設立20周年の節目。記念事業の一環として募集した短歌には全国から635首が寄せられ、4月23日に開いた記念式典の中で授賞式を行った。「短歌大賞」に選ばれたのは奈良市の松森重博さんの作品。「時を超え古え人とつなぐかに 奈良八重桜は堂あとに咲く」

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<京都地名研究会> 創立20周年記念パーティー

2022年04月25日 | メモ

【来賓の日本地名研所長「来年の全国大会は京都で」】

 京都地名研究会(小寺慶昭会長)は4月24日、京都市の都ホテル京都八条で「創立20周年記念パーティー」を開いた。この研究会は京都を起点に各地の地名を比較研究しながら地域の文化と歴史への認識を深めようと2002年春に発足した。パーティーには約50人が出席。来賓の日本地名研究所所長金田久璋氏は祝辞の中で、来年の「第42回全国地名研究者大会」を京都で開催する計画であることを明らかにした。(写真は記念パーティーで挨拶する小寺慶昭会長)

 京都地名研は発足以来、研究発表の場として地名フォーラムや講演会の開催、年会誌「地名探求」や会報「都藝泥布(つぎねふ)」の発行、地名ウオークの開催などに取り組んできた。現在の会員数は京都府を中心に14都府県の116人。活動を長く牽引してきたのが創立以来13年間にわたって会長を務めた吉田金彦顧問(姫路獨協大学名誉教授)。吉田氏は「平成の大合併」を振り返りながら「歴史と地理を無視した地名の軽視が掛け替えのない文化遺産を消滅させる」「地名を疎かにすれば国は滅びる」と繰り返し警鐘を鳴らしてきた。その吉田氏と2代目会長を5年間務めた綱本逸雄名誉会長のお姿が記念パーティーの会場で見えなかった。小寺会長によると「闘病中」とのこと。お目にかかることができなくて残念至極。お二人にとっても痛恨の極みだろう。

 日本地名研究所は各地の地名研究団体や研究者でつくる全国組織。民俗・地名学の泰斗、谷川健一氏を初代所長に1981年に創設された。2021年には節目の第40回全国地名研究者大会を創設地の川崎市で開催し、今年は第41回大会を11月19~20日、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡の新博物館オープンを記念し福井市で開く予定。京都地名研の記念パーティーに来賓として列席した4代目所長の金田久璋氏(写真㊦)は、来年の全国大会について「京都の地で民俗学会も巻き込んで開催したい」「地名研究の後継者づくりに尽力したい」などと述べた。

 京都地名研は記念パーティーに先駆けJR京都駅前の龍谷大学アバンティ響都ホールで20周年記念講演会を開いた。聴講者は非会員も含め約80人。最初に登壇した言語学者の笹原宏之・早稲田大学教授は「地名の漢字から読み取れること」の演題で講演した。地名の〝東西分布〟の代表例として「谷」の訓読みが西日本では「たに」、東日本では「や」が多いことや、〝局地分布〟の例として地名での使用が宮城県内にしかない「閖(ゆり)」を挙げながら、そうした分布の背景について歴史的文献を基に詳述。「漢字から地名を見ていくことで、地名を表記するための文字を選び決めた過去の人々の意識や生活・文化が垣間見えてくる」などと話した。続いて「歴史と地名学」と題し講演した服部英雄・九州大学名誉教授は「地名研究には歴史学・民俗学・地理学・言語学などからのアプローチが考えられるが、実際にはそれらは混然と絡み合っている」「地名の発音自体は変化しづらく、漢字表記より音が大事」などと指摘した。

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<クレソン> 和名は「オランダガラシ」

2022年04月20日 | 花の四季

【栄養価高い〝最強の健康野菜〟】

 ヨーロッパ原産のアブラナ科オランダガラシ属の香辛野菜。日本には明治時代の初め、1870~71年ごろ在留外国人向けとして入ってきた。クレソンはフランス語の「cresson」から。英名では「ウォータークレス」と呼ばれる。葉や茎などにピリッとした辛味と苦味があるのが特徴。標準和名の「オランダガラシ(和蘭辛子)」も外国から渡ってきたカラシを意味する。別名に「ミズガラシ(水辛子)」や「セイヨウセリ(西洋芹)」など。日当たりのいい水辺に生え、枝先の総状花序に白くて小さな4弁の花を密に付ける。

 カルシウム、ビタミン、鉄分、カリウムなど多くの栄養素を豊富に含む。ある米国の大学が主な野菜・果実について17種の必須栄養素の含有量を調べてランク付けし、2014年に米疾病予防管理センターの機関誌上で発表した。そのランキングでクレソンは堂々の第1位に輝いた。以来、クレソンは〝最強の健康野菜〟ともてはやされている。日本国内の主産地は山梨県と栃木県で、この2県で全国の約75%を占める。肉料理の付け合わせに欠かせないクレソンだが、サラダやおひたし、和え物、天ぷらなどにも。粉末を練り合わせたうどんや煎餅、飴玉、アイス、ジュースなど様々な加工品も生まれている。

 学名は「Nasturtium officinale(ナスタチウム・オフィシナーレ)」。属名はラテン語の「鼻」と「捩る」の合成で「鼻が捩れるほど刺激的な香辛料」であることを表す。種小名オフィシナーレは「薬効/薬用の」。ナスタチウムといえば、鮮やかな黄や赤の花色とハスのような丸い葉から「キンレンカ(金蓮花)」という和名を持つナスタチウムが思い浮かぶ。ただ、こちらは南米原産でノウゼンハレン科の全く別属の植物。食用のエディブルフラワーとしても栽培され、葉や花にクレソンに似た辛みがあることからクレソンの属名が転用されたという。

 クレソンは繁殖力旺盛で、切り取った茎や葉、地下茎などでもすぐ根付く。しかも清流だけでなく溝や用水路、水深の浅い池などでも増殖するため、全国各地で野生化している。このため環境省は在来種との競合の恐れから、外来生物法に基づき「生態系被害防止外来種」(旧要注意外来生物)に指定。水路を塞ぐこともあって防除に取り組む地域も少なくない。一方でクレソンは水質汚染の原因となる窒素などの吸収効果が高いことが明らかになっており、水質浄化のため試験栽培する動きも。さらにホタルの幼虫の餌となるカワニナ飼育のためクレソンを栽培するところもあるようだ。「クレソンに水うなづきて流れゆく」(山田みづえ)

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<クマザサ(隈笹)> 寒くなると葉の縁に白い隈取り

2022年04月14日 | 花の四季

【別名に「縁取笹」や「焼刃笹」など】

 クマザサはイネ科ササ属の1種。日本各地の山地に広く分布するが、元々の原産地は京都盆地周辺の鞍馬山や大原などといわれる。若葉は葉全体が深緑色だが、秋から冬にかけて寒くなると縁が枯れて白くなる。この縁取りを歌舞伎役者の化粧「隈取り」になぞらえ「隈笹」と名付けられた。別名に「縁取笹(へりとりざさ)」「焼刃笹(やきばざさ)」「縞笹(しまざさ)」など。ただ大型のササ類全般をクマザサと呼んで「熊笹」の漢字を当てることもある。

 稈(かん)とよばれる茎は高さ1~1.5mで、葉は長さ20cmほどの長楕円形。クマザサによく似て葉に白い縁取りが入るものに「ミヤコザサ(都笹)」があるが、こちらは全体的にやや小型で、茎の節々が丸く膨らむのが特徴。クマザサの葉は殺菌・防腐作用がある精油成分を含み、古くから笹寿司や笹団子、粽(ちまき)などを包んだり、傷薬や胃痛、高血圧などの民間薬として活用されたりしてきた。

 学名は「Sasa veitchii(ササ・ヴェイチ)」。属名はもちろん日本語のササから。ササ類は東南アジアに多いが、とりわけ日本は世界一種類が多いことで知られる。種小名は19世紀の英国の植物学者J.G.Veitch(1839~70)の名前に因む。万葉集にはササを詠んだ歌が6種ほどある。その1首に柿本人麻呂の「ささの葉はみ山もさやにさやけども われは妹思ふ別れ来ぬれば」(巻2-133)。ササの万葉表記は「小竹」「佐左」などだが、それらのササはクマザサを指しているともいわれる。

 クマザサはまれに紫がかった緑色の小さな花を付け、穂状に実を結ぶ。岐阜県北部の旧飛騨国ではその実を「野麦」と呼んだ。作家山本茂実(1917~98)は「ある製紙工女哀史」の副題で「あゝ野麦峠」を書いた。以下はその冒頭部分。「日本アルプスの中に野麦峠とよぶ古い峠道がある……<野麦>という名から、人は野生の麦のことかと思うらしいが、実はそうではなくて、それは峠一面をおおっているクマザサのことである。十年に一度ぐらい平地が大凶作と騒がれるような年には、このササの根元から、か細い稲穂のようなものが現れて、貧弱な実を結ぶ。これを飛騨では<野麦>といい、里人はこの実をとって粉にし、ダンゴをつくって、かろうじて飢えをしのいできたという」

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<重文「円窓亭」> 万葉植物園への移築ほぼ完了!

2022年04月12日 | メモ

【約130年ぶりにゆかりの地に〝里帰り〟】

 「旧春日大社板倉(円窓)」として国の重要文化財に指定されているユニークな外観の「円窓亭(まるまどてい、丸窓亭とも)」。その移転工事がほぼ完成した。これまで奈良公園南側エリアの浅茅ケ原(あさじがはら)園地内に立っていたが、奈良県が文化庁などと協議のうえ春日大社万葉植物園内(奈良市春日野町)への移築工事を進めていた。茅葺きの高床式で大きな丸い窓が特徴的な建物は今後、植物園の新たな見どころとして来園者の注目を集めそうだ。

 円窓亭は鎌倉後期に春日大社西ノ屋(西談議屋)の経典を納める経蔵として建てられたが、1868年(明治元年)の神仏分離令によって現在の万葉植物園付近に東屋として移築。そのとき側壁3面に3つずつ円形窓を設けるなどの改造が加えられた。その後、1893年に建物が県に寄付されて、奈良公園の浮見堂で有名な鷺池を望む高台に再移築されていた。今回約130年ぶりにゆかりの地の万葉植物園内に戻ってきたわけだ。建物は宝形造りで、横幅約5.4m、高さ約8m。万葉植物園によると、水道などの付帯設備工事が残っており、周囲の芝生もまだ養生中。竣工式の開催や建物内部の一般公開などについては「未定」という。

 円窓亭の脇には歌人・書家の会津八一(1881~1956)の自筆歌碑が立つ。八一は古都奈良を愛し度々訪れては多くの歌を詠んだ。建碑は約80年前の1943年だが、この碑も繰り返し移転を余儀なくされた。東大寺観音院から戦後一時飛火野・雪消(ゆきげ)の沢を経て万葉植物園内へ。碑には「秋艸道人(しゅうそうどうじん)」の号で「秋の夕べの歌」が刻まれている。「かすがのに おしてるつきの ほがらかに あきのゆふべと なりにけるかも」。八一の最初の歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』(1924年刊)の巻頭歌だ。円窓亭の移築によって、この歌碑もより多くの来園者の目に留まるはず。八一も喜んでいるにちがいない。

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<春日大社国宝殿> 春季特別展「いきもののデザイン」

2022年04月10日 | 美術

【霊獣の龍・鳳凰、吉祥花鳥文の鶴・牡丹…】

 春日大社に古くから伝わる宝物類を収蔵・展示する国宝殿(奈良市春日野町)で、春季特別展「いきもののデザイン 宝物に躍動する花・鳥・動物」が9日から始まった(7月10日まで)。平安時代の古神宝から江戸時代の工芸品まで合わせて67点(前後期で一部展示替え)。その中には「平胡籙(ひらやなぐい)」や「銀鶴及磯形」「蒔絵筝」「緑地彩絵琴箱」(いずれも国宝・平安時代)をはじめ、霊獣や吉祥の花鳥文などが精緻にデザインされた第一級の工芸品が多く含まれる。

     

 「平胡籙」は矢を収納する武具の背板部分。表は銀板に磯千鳥文、裏には尾長鳥と宝相華が装飾されており、銘文などによると1131年(大治6年)に藤原頼長が使用し、その5年後に若宮神社に奉納した。「銀鶴及磯形」はミニチュアサイズの2羽の鶴が向かい合うように立つ。1135年(長承4年)に春日若宮の創建に際し奉納されたとみられる。若宮御料古神宝類にはこの他に単独の「銀鶴」や「金鶴及銀樹枝」なども伝わる。このうち「銀鶴」は奈良国立博物館の分析で表面から金の成分が検出し、当初は全体に金メッキが施されていた可能性があると、つい先日ニュースで報じられ話題を集めた。

 「緑地彩絵琴箱」は蓋の裏面に藤や松の枝、鳥、蝶などが胡粉地に描かれている。鶴と松の組み合わせは平安時代以降、代表的な吉祥意匠の一つになっており、「藤原氏の関わりを示すものかもしれない」との説明が添えられていた。掛け軸の「紅葉鹿図」は江戸時代後期に興福寺に仕えた絵師の内藤其淵筆。鹿の絵を得意とし、描いた鹿を牡鹿が本物と思って突き破ったという逸話も残っているそうだ。大展示室には甲冑史上屈指の名品として名高い「赤糸威(おどし)大鎧(竹虎雀飾)」や「鼉(だ)太鼓(左方龍火焔・右方鳳凰火焔)」「御本殿獅子狛犬(第二殿)」(ちらしの写真)なども展示中。

 大展示室の向かいにある小展示室には秋草文様を中心とした工芸品が並ぶ。「秋草蒔絵手箱」は梨地に蒔絵で秋草を描いた優美な手箱。社伝によると1314年(正和3年)に永福門院から寄進された。永福門院は伏見天皇の中宮で鎌倉時代後期の代表的な歌人。中身の内容品も一部がそのまま伝わっており、手箱とともに重文に指定されている。「秋野鹿蒔絵笛筒」は雅楽の龍笛(りゅうてき)の容器で、江戸後期の蒔絵の名工原羊遊斎(1769~1846)の作。その隣にはよく似た美しい「秋野蒔絵笛筒」。説明書きに目を向けると、なんと――。作者名がタイトルは「本阿弥長周」、その下の文中には「幸阿弥長周」と。調べてみると、蒔絵師として代々将軍家に仕えた幸阿弥家の16代幸阿弥長周のようだ。帰りに受付の方に声を掛けておいたが、果たして手直しされただろうか。

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<奈良市史料保存館> 特別陳列「奈良の桜 植桜楓之碑」

2022年04月09日 | メモ

【川路聖謨の緑化運動を記念し1850年に建立】

 奈良市の猿沢の池から興福寺の五重塔を結ぶ石段(通称「五十二段」)を上り切った所、三条通りに面して一基の古びた石碑が立つ。170年ほど前の1850年(嘉永3年)に建立された「植桜楓(しょくおうふう)之碑」。当時の奈良奉行川路聖謨(かわじ・としあきら1801~68)が展開した緑化事業を記念して建てられた。目に留める観光客は少ないものの、この緑化事業こそ今日の奈良公園の礎を築いたものといっても過言ではない。奈良市史料保存館は桜の季節に因み〝特別陳列ならまち歳時記〟として「奈良の桜 植桜楓之碑」をテーマに石碑の拓本や江戸末期の「南都名所記」など関連史料を展示している(4月24日まで)。

 川路が奈良奉行を命じられ奈良にやって来たのは1846年、45歳のとき。幕府の普請奉行を務めていた川路にとっては左遷そのものだった。当時の奈良は百姓一揆や度重なる社寺の火災などが相次いで荒れ放題。川路がまず取り組んだのが緑化事業だった。東大寺や興福寺を中心とした植樹は川路の呼び掛けで町ぐるみの運動に発展し、西は佐保川、東は高円地区まで広がった。佐保川沿いには今も「川路桜」と呼ばれる古木が残り、川の両岸約3キロに及ぶ桜並木は県内有数の桜の名所になっている。

 石碑の碑文は川路自身がしたためた。ただ漢文のうえ風化が進んでいるため読みづらいのも確か。そのため奈良ロータリークラブが15年前の2007年、読み下した解説の石碑をすぐ右側に設けた。「然れども歳月の久しき、桜や楓や枯槁の憂い無きあたわず。後人の若し能く之を補えば、則ち今日の遊観の楽しき、以て百世を閲(けみ)して替えざるべし。此れ又余の後人に望むところなり」。愛する古都奈良が後々まで緑に包まれた町であり続けてほしい――この碑文の一節にはそんな川路の熱い思いが込められている。

 奈良奉行としての務めは1851年まで5年余の長きに及んだ。この間、植樹事業以外にも、病人や貧民の救済制度の創設、集会所づくり、墨や武具製作など家内業の奨励、河川の整備、強盗・賭博の取り締まり、拷問の廃止、天皇陵の整備など様々な施策に取り組んだ。そうした善政から川路は奈良の恩人と慕われた。町民たちは別れに際し、春日社に川路の武運長久を祈る石灯篭を奉納し、何百人もが京都の木津川まで見送ったという。川路はこの後、大坂東町奉行、勘定奉行、外国奉行などの要職を歴任したが、1868年、新政府軍による江戸城総攻撃の予定日に自尽し幕政に殉じた。

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<映画「ひまわり」> ロシア侵攻で再び脚光!

2022年04月04日 | メモ

【ロケ地はウクライナ南部のヘルソン州】

 戦争で引き裂かれた新婚夫婦の悲哀を描いた古典的名画「ひまわり」(ヴィットリオ・デ・シーカ監督)が再び注目を集めている。この映画を象徴する場面が地平線まで広がる広大なひまわり畑。そのロケ地がいまロシアの軍事侵攻を受けているウクライナ南部のヘルソン州だったからだ。ロシア軍は3月15日、ヘルソン州全体を掌握したと発表した。映画の公開は1970年。東西冷戦時代に、西側の映画としては初めて旧ソ連でロケが敢行された(ウクライナの独立は1991年)。随分久しぶりにDVDを借りて視聴した。バックに繰り返し流れるヘンリー・マンシーニの切ないメロディーが切々と心に染みた。

 第二次世界大戦中、ジョバンナ(ソフィア・ローレン)と結婚したばかりのアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)はイタリアからソ連戦線に送り込まれる。やがて終戦。ところがアントニオは戻ってこない。そのためウクライナへ探しに向かうが、そこで残酷な現実を目にする。夫は地元の女性と所帯を持って娘までもうけていた。それだけでは終わらない。しばらくしてアントニオは事情を説明するためイタリアでジョバンナに再会する。だがジョバンナは既に別の男性と新生活を始めていた。しかも二人の間には男児も。「名前は?」とアントニオ、それにジョバンナは「アントニオ」と答える。忘れられない元夫の名前を息子に付けていたのだ――。

 ひまわりはウクライナを象徴する花で国花になっている。世界最大のひまわり油の生産国でもある。ウクライナの青と黄2色の国旗は青が青空、黄色は麦またはひまわりを表しているという。映画の中でひまわり畑での印象的な場面がある。そこに案内した男性がジョバンナに話しかける。「ひまわりやどの木の下にも麦畑にもイタリア兵とロシア人捕虜が埋まっています。そして無数の農民、老人、女、子ども……」。そして「あきらめなさい」と諭すが、ジョバンナは「いいえ、必ずどこかにいます」と答える。この映画がいま全国各地で上映されており、市民団体などによるものを含めると約80カ所に上るそうだ。公開からほぼ半世紀。監督や出演者はロシアによる侵攻というこんな状況下で再注目を集めるなど、とても想像していなかったに違いない。

【民族楽器奏者のグジー姉妹、支援訴え各地で演奏】

 国内ですぐ思い浮かぶウクライナ出身者といえば、民族楽器「バンドゥーラ」の奏者で〝ウクライナの歌姫〟として知られるナターシャ・グジーさん(写真=公式サイトから借用)。6歳のときチェルノブイリの原発事故に遭い、2000年に日本に移住してから音楽活動に取り組んできた。伸びやかな透明感のある歌声と哀愁を帯びた弦の響きで人気を集めている。また妹のカテリーナ・グジーさんも姉を追うように来日し、同様に歌手・バンドゥーラ奏者として活躍中。3月21日には二人の母親が戦火を逃れ避難していたポーランドから来日した。カテリーナさんが空港で出迎えたときの様子は「涙の再会」としてニュースにもなった。その日、ナターシャさんは東京・代々木公園での反戦集会で、故郷に思いをはせながらきれいな日本語で「ふるさと」を歌ったそうだ。ナターシャさんのユーチューブでの演奏(さだまさしの「秋桜」「防人の詩」など)は何度聴いても心が打たれる。

 ウクライナでヨーデルの天才少女として有名なのがソフィア・ニキチェンコさん。小さい頃から数々のコンテストに出場し、全ウクライナ少年芸術祭では大賞を受賞。2017年に出場したオーディション番組「ゴッド・タレント」はユーチューブ視聴回数が1000万回を大きく突破している。その歌声と可愛らしい容姿はまるでアニメの「アルプスの少女ハイジ」。日本からも「ソフィアちゃん、大丈夫かなあ?」と心配する声が出ているが、ネットには「今はポーランドに避難していて無事」という書き込みもあって一安心。なにはともあれ一刻も早い終戦を願うばかりだ。

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<東大寺ミュージアム> 「国宝四天王立像」特別公開中

2022年04月02日 | 美術

【耐震工事中の戒壇堂から一時移転】

 東大寺南大門のすぐそばにある「東大寺ミュージアム」で、戒壇堂に安置されていた国宝の塑像四天王立像が特別公開されている。戒壇堂は755年の建立以来3回火災に遭い、現在の建物は江戸中期の1732年の再建。その耐震化と保存修理のための工事に伴って、四天王立像は同ミュージアムに移転安置されている。造立は奈良時代の中頃とみられ、天平彫刻の傑作と称えられている。

 四天王立像は中央第2室に入って左側に安置されている。右手の向かい側には重要文化財の木造千手観音立像(平安前期)や国宝の塑像日光・月光菩薩立像(奈良時代)など。四天王立像は戒壇堂では中央の宝塔の四隅に立っていたが、ここでは広目天、多聞天、持国天、増長天が横一列に並ぶ。カッと目を見開いた持国天と増長天に、眉を寄せて射すくめるような眼差しの広目天と多聞天。迫力満点の仏像に踏み付けられた邪鬼の表情からはその叫び声が聞こえてくるような気もした。

 東大寺ミュージアムは10年ほど前の2011年秋に開館した。入り口に近い第1室には「創建時の東大寺」として、国宝の金銅八角燈籠火袋羽目板や誕生釈迦仏立像をはじめ、東大寺金堂鎮壇具の刀剣類、西大門勅額、伎楽面などが並ぶ。第2室を通ってさらに進むと、特集展示として「東大寺大仏縁起絵巻」が展示されていた。室町時代後期の16世紀の作で、東大寺の創建、大仏の鋳造、鎌倉時代の再建などを上中下の3巻にまとめたもの。大仏の開眼供養会が営まれたのが1270年前の752年4月9日だったことに因んで、大仏造立の場面が描かれた絵巻の中巻などが展示されている。

 東大寺ミュージアムを出て、久しぶりに大仏殿に向かう。平日にかかわらず青空の好天で春休み中、しかも奈良公園の桜もほぼ満開とあって、多くの家族連れなどでにぎわっていた。大仏殿手前左側の桜も花盛りだった。大仏さまの威容にはいつも圧倒されるばかり。ただ新型コロナの影響で、観光客に人気の「柱の穴くぐり」の場所は板で塞がれ、回廊脇の賓頭廬(びんずる)尊者の木像には「当分触れていただけません」の張り紙が。病気を治す力があって「撫仏(なでぼとけ)」として人気のびんずるさんだが、気のせいかその表情も少し寂しげに思えた。

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