く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

〈奈良大学博物館〉 企画展「太田古朴が見た山里の文化財」

2024年06月28日 | メモ

【室町前期に遡る翁系能面4面など初公開】

 奈良大学博物館(奈良市山陵町)で企画展「太田古朴が見た山里の文化財」が開かれている。副題に「高野山麓⋅細川八坂神社の仮面群」。2年前に和歌山県高野町の神社で再発見された室町時代前期の作とみられる能面4面などが初公開されている。7月27日まで。

 太田古朴(1914~2000)は奈良県吉野町出身で、奈良美術院で仏像修理を学び、生涯を仏像の研究や修理に捧げた。『仏像研究三十年』『美佛参籠』など著書や著作も多い。

 企画展では代表的な仏像修理の事例とともに、古朴が調査と仏像修理を手掛けた和歌山県高野町細川地区の文化財も紹介している。

 「はだか地蔵」として有名な伝香寺の地蔵菩薩立像は古朴が調査⋅修理を行った仏像の一つ。納入品納置状況図には像内から見つかった舎利や胎内仏、経典などの納入場所が詳細に描かれている。(下の写真は古朴の著書など)

 代表的な調査⋅修理として他に挙げるのは金峯山寺の聖徳太子⋅二童子像、円成寺の南無仏太子立像、東大寺中性院の弥勒菩薩立像など。当時はまだX線CTスキャンなどの先進技術がない時代。それだけに専門家は「像内納入状況の図解は今日、再評価すべき学術資料」(鈴木喜博⋅奈良国立博物館名誉館員)と高く評価する。

 古朴が依頼を受け高野町細川地区の文化財を調査し仏像を修理したのは1975~77年。彼自身が作成した仏像修理報告書やアルバムのほか、阿弥陀如来坐像などの写真パネルも展示している。

 細川八坂神社の仮面群は古朴の『美佛参籠』の中にも能面8面の寸法などが記されていた。ただ、その後は長く所在不明だった。再発見されたのは2022年6月で、神社の土蔵内から見つかった。まさに灯台もと暗し。

 このうち室町前期に遡るという能面は翁⋅三番叟⋅父尉⋅延命冠者の4面。古式の「式三番(しきさんば)」で用いられた一具同作(セットもの)の面とみられる。高野山麓で古式の翁舞が行われていたことを具体的に示すもので、「芸能史上においても貴重な仮面」との解説が添えられていた。(下の写真は細川八坂神社に伝来する金属製の鐘「鰐口」)

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〈奈良⋅菅原天満宮〉 5年ぶりに「鷽替え神事」

2024年06月26日 | 祭り

【「誕生祭」に続き約110人が鷽のお守りを次々に交換】

 奈良市菅原東の菅原天満宮で6月25日、祭神菅原道真公の「誕生祭」と「鷽(うそ)替え神事」が執り行われた。鷽替えの開催は新型コロナ禍もあって実に5年ぶり。約110人の参拝者が太鼓に合わせ「替えましょ、替えましょ」と木彫りの鷽のお守りを交換しあった。

 鷽替え神事は九州の大宰府に流された道真が蜂の大群に襲われたとき、鳥の鷽に救われたという故事に因む。鷽は嘘(うそ)に通じ、災厄⋅悪事をうそとし吉に転じてくれるとして、道真を祀る各地の天満宮で行われている。

 神事の開催時期は年の始めの1月というところが多い。太宰府天満宮も大阪天満宮も道明寺天満宮(大阪府藤井寺市)も1月に斎行。ただ、この菅原天満宮では古くから道真の誕生日(陰暦6月25日)に合わせて行ってきた。

 鷽替えは午前11時、中村眞一宮司の挨拶に続いてスタート。太鼓の「ドン⋅ドン⋅ドン」という音に合わせ「替えましょ、替えましょ」と鷽のお守りが入った箱の取り替えっこが始まった。

 お守りの交換は回数が多ければ多いほど厄が払われ幸運に恵まれるといわれる。そのため参拝者は次々に相手を見つけては取り替えていた。

 太鼓が鳴り止むと、交換は一旦終了。そのたびに抽選会が行われた。当たりくじを引くのは中村宮司。くじの番号と箱の番号が一致した当選者には梅茶や毛筆、奈良⋅特産赤膚焼の焼き物などが贈られた。

 お守りの交換と抽選は30分余り繰り返された。そして抽選も最後の特別賞1本を残すだけに。景品は高さが30㎝ほどもある「大鷽」。拝殿前の三方の上に飾られていた一品だ。

 「63」。番号が読み上げられると、どっと歓声が起きた。幸運の主は73歳の男性だった。大鷽と副賞の抹茶茶碗を受け取った男性はその後、報道陣に囲まれ取材に応じていた。

 この日、境内にはしばしは「ピ、ピ、ピーッ」という鷽の鳴き声が流された。まるで人の口笛のようなやや甲高い鳴き声だった。鷽の「ウソ」の名前も古く口笛を意味した「オソ」が語源らしい。(上の写真は天満宮の東約100mの住宅街にある「菅原道真産湯の池」と伝わる遺跡)

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〈奈良⋅猿沢池〉 出現! うわさの巨大スッポン

2024年06月21日 | アンビリバボー

【クサガメ(?)と仲良く甲羅干し】

 奈良市の観光名所「猿沢池」。6月19日の午前10時すぎ、工事用素屋根の建設が進む興福寺の五重塔を眺めようと池の畔に立った。ふと池を見下ろすと「アンビリバボー」。巨大なスッポンが悠然と甲羅干しの最中だった。

 その大きさに唖然! 隣のカメの3~4倍はありそうだ。突出した鼻先からスッポンに間違いない。この池にスッポンが生息するとは聞いていた。だが、実際に甲羅干しの場面に遭遇するとは。

 10年前の2014年、奈良県が池の水抜き調査を行った。その時確認されたカメは全部で258匹。その大半を外来種アカミミガメ(幼体名ミドリガメ)が占めたが、クサガメが54匹、スッポンも3匹いた。

 国内最大のスッポンはどれくらい? 調べてみると、2011年に京都府城陽市の木津川で38.5㎝(甲羅の長さ)、16年には島根県松江市の朝酌川で39.3㎝のスッポンが見つかっていた。猿沢池のこのスッポン、測れるものなら測りたい。

 隣で甲羅干ししていたカメは甲羅の中央と左右に3本の隆起した筋が見られた。その特徴からたぶんクサガメだろう。上の写真は池の別の場所で撮ったカメ。これもクサガメに違いない。

 分からないのがまた別の場所にいた上の写真のカメ。甲羅は茶色っぽく、顔や四肢は黒かった。ニホンイシガメ? それともイシガメとクサガメの交配種? 10年前の調査ではそれぞれ1匹ずつ確認されていた。

 かつて我が物顔で池を占拠していたアカミミガメは今回目にしなかった。度重なる掃討作戦が功を奏したということだろう。アカミミガメは昨年6月から罰則⋅罰金が規定された「条件付き特定外来生物」になっている。

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〈興福寺五重塔〉 見納め! 工事用の素屋根建設本格化

2024年06月20日 | メモ

【120年ぶり大規模修理、完了は7年後の2031年春】

 奈良公園のシンボルの一つ、興福寺の国宝五重塔が素屋根ですっぽり覆われようとしている。6月19日久しぶりに訪れると、塔を囲むように鉄骨の柱が組み上がり、外観でまだ見えるのは最上層とその上に立つ相輪だけだった。(下の写真は猿沢池から)

 この五重塔は奈良時代に藤原不比等の娘、光明皇后の発願で創建された。以来、戦火や落雷により再建を繰り返し、現在の塔は約600年前、室町時代の1426年に建てられた6代目。高さは50.9mで、五重塔としては京都の東寺に次いで2番目に高い。

 本格的な修理は明治時代以来約120年ぶり。屋根瓦の破損やずれ、漆喰の剥離、木造組み物の腐朽など傷みが目立ってきたことによる。素屋根の建設は当初昨年1月着工を予定していたが、資材の高騰などで7月へ半年ほどずれ込んだ。

 それにしても驚くのは建築から600年という長い歳月をびくともせず生き抜いてきたこと。解体ではなく修理ですむのも、建物を支える心柱など基本的な構造自体は大丈夫との判断による。匠の技に改めて感服!

 素屋根は工事中の塔を風雨から守るためのもの。高さは約60m、幅と奥行きはそれぞれ約42m、37m。震度6程度の地震や強風にも耐えられる設計になっているそうだ。(下の写真左側の建物は中金堂、正面は東金堂)

 作業現場には長さ約110mという超大型のクレーン車が据えられ、しきりに鉄骨を吊り上げていた。本体の鉄骨柱の組み立てが終わると、側面はシートやサイディング(外壁材)で覆われる。このため外から全く見えなくなる。

 修理工事が本格化するのは来年度から。屋根瓦(約6万枚)を取り外し1枚ずつチェック、まだ使えそうな瓦は再利用する。最上部の相輪も下ろして修理が必要か調べる。同時に漆喰壁の塗り直しなども。総事業費は約57億円。

 素屋根が取り外されて塔が再び姿を現すのは6年後の2030年。翌31年3月の工事完了を目指している。上の写真は2時間後の猿沢池からの眺め。五重塔の最上層部右側にも鉄骨柱が組み上がっていた。

 

 この間、見学を始めてほぼ1時間後の午前11時半すぎ、五重塔真上のお日様の周りに大きな光の輪ができた。「日暈(にちうん)」。この日は青空の一方で、五重塔の上などに薄雲も広がっていた。

  

 この後、興福寺国宝館を訪ね久しぶりに阿修羅像などに対面した。

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〈平城宮跡大極門〉 「東楼」1年半後の完成に向け復原進む

2024年06月13日 | 考古・歴史

【見学デッキを上ると大きな柱が林立! 眺望も絶景】

 国営平城宮跡歴史公園(奈良市)内の第一次大極殿院の大極門(南門)。2022年3月に始まったその「東楼」の復原工事も後半に入り、25年11月の完成予定まで1年半を切った。工事現場を覆うのは巨大な素屋根。見学デッキを上ってみると、東楼本体を支える大きな柱が林立しているのが見えた。(写真左側の建物が南門)

 南門(2022年復原)は天皇の即位や元日の朝賀、外国使節の謁見など国家的儀式が行われた大極殿院への正門に当たる。広場を挟んで真北には中枢施設の大極殿(2010年復原)が立つ。

 奈良時代、その南門の両側には東西に楼閣が立っていた。東楼の復原は過去の発掘調査を踏まえ進行中。南門には南側に接して築地回廊が構築されていた。(下の写真は北側の大極殿から見た東楼と回廊の完成予想図)

 復原中の東楼は高さ18.6m(基壇を含む)の2階建て寄せ棟造り。桁行き5間、梁行き3間で、長さ12mの外周柱16本は掘立柱、内部柱8本は礎石建ち。これらの柱は手斧(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)を使い奈良時代と同じ手法で加工された。

 使用する瓦は約3万6000枚に上り、出土瓦を見本に製作。今後、瓦葺きや屋根に乗る鴟尾、軒先を飾る金具の製作と取り付け、塗装、土壁の漆喰仕上げなどの工事が同時並行的に進められる。

 見学デッキからは普段とは違った高い目線からの眺望を楽しむこともできた。東に若草山や東大寺の大仏殿、南に平城宮の正門朱雀門(1998年復原)。そして西に目を向けると、生駒の山並みが横たわる。

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〈近江神宮〉 「時の記念日」恒例の「漏刻祭」

2024年06月11日 | 祭り

【時計関係者参列し、時計の献納や舞楽の奉納】

 6月10日は「時の記念日」。約1350年前、671年のこの日、天智天皇が近江大津宮に漏刻台(水時計)を設け時報を始めたとの故事に因む。天智天皇を祭神として祀る近江神宮(大津市)で10日、時計メーカーなど関係者が参列するなか恒例の「漏刻祭」が開かれた。

 祭典が始まったのは午前11時すぎ。王朝装束を身に着け“漏刻博士”などに扮した3人の時計関係者や、采女役のびわ湖大津観光大使の女性ら奉仕者が列をつくって拝殿の石段を上ってきた。

 修祓(しゅばつ)に続いて網谷道弘宮司による本殿の御扉開き、祝詞奏上┄┄。神事が粛々と進む。この後、いよいよ見どころ時計の献納だ。

 先頭は献納目録を捧げもつ”漏刻博士“。その後ろに采女4人が続く。献納台に載っているのは最新の腕時計や置き時計など。

 采女たちはやや緊張の面持ちで本殿の石段を上っていった。観光大使の2人は4月に就任したばかり。2人とも大津市在住の立命館大学の学生さんだ。

 この後、本殿と拝殿の間に設けられた仮設舞台で舞楽が奉納された。拝殿では招待者の後ろ側に一般の参拝者が詰め掛け、立錐の余地がないほど。

 “時の祖神”を祀るだけに、境内には様々な時計が設置されている。最も注目を集めていたのが「古代火時計」(ロレックス社寄贈)。龍の背で巨大な線香が煙を上げていた。銅球が等間隔で糸で吊り下げられており、線香の火が糸を焼き切ると、銅球が落ちて下のドラが鳴る仕組みだ。球の落下はおよそ2時間おきとのこと。

 「時計館⋅宝物館」のそばには漏刻の模型も。こちらは1964年に日本⋅スイス修交100周年を記念して、オメガ社の総代理店から贈られた。

 「時計館⋅宝物館」は漏刻祭のこの日、入館無料だった(通常大人300円)。1階の時計館には古い大名時計や高松宮家寄贈品などとともに、過去3年の漏刻祭での献納目録と献納時計も展示されていた。

 帰り際、びわ湖大津観光大使と遭遇、早速写真を撮らせてもらった。右が片山桃花さん、左が平良優さん(この春高校を卒業し大学生になったばかり)。お二人とも大役を終えた安堵からか、笑顔満開の柔和な表情が印象的だった。

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〈淡路島㊦〉 国史跡洲本城跡、淡路人形浄瑠璃┄

2024年06月09日 | 旅・想い出写真館

【国内最古の模擬天守、重厚な野面積みの石垣】

 初めて国の史跡洲本城跡を訪れた。馬屋(月見台)からの紀淡海峡の眺望を堪能した後、三熊山(標高133m)山頂に築かれた天守台へ。途中、自然石を積み上げた野面(のづら)積みの石垣が続く。

 本丸大石段を上ると、ほどなく正面に天守が姿を現した。天守台の上に築かれたコンクリート製の4脚の上に3層の天守が立つ。建設は約100年前の1928年(昭和3年)。昭和天皇の即位式(御大典)を記念して建てられた。古図などに基づかない“模擬天守”としては国内最古とのこと。石垣の多くは野面積みだが、この天守台の隅石など要所には加工した長方形の石を組み合わせた算木積みが採用されていた。

 ここからの眺めも絶景。そばに「洲本八景1 大浜を大観」と刻まれた石碑が立っていた。洲本商工会議所青年部が8カ所のビューポイントを選定。その1番目に選ばれた。

【500年の伝統を誇る淡路人形浄瑠璃】

 淡路人形浄瑠璃は文楽のルーツともいわれる。全盛期の江戸時代前半には島内に40を超える人形座があり、全国を巡業していたそうだ。1976年には国の重要無形民俗文化財に指定された。

 しかし娯楽の多様化などもあって次々に廃業に追い込まれ、今では1964年に旗揚げした「淡路人形座」が島内唯一の座元となってしまった。福良港(南あわじ市)のそばにある専用劇場の受付には「おかげさまで60周年を迎えました」と大きく掲示されていた。

 淡路人形浄瑠璃は文楽同様、人形を3人で操る。ただ文楽の人形遣いが男性だけなのに対し、ここでは男女を問わないのが特徴。淡路からは人間国宝(重要無形文化財保持者)も出ている。女流三味線方の故鶴澤友路さん(1913~2016)だ。その鶴澤さんの現役当時の写真が今も掲げられていた(上段左から4人目)。その右側のベテラン太夫竹本友喜美さんは4年前、文化庁長官表彰に輝いた。

 その日の演目は「戎舞」と「伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段」。商売の神様戎さまは元々海の神様で、淡路島では昔から浜芝居で大漁や航海の安全を祈って舞われたという。「伊達娘┄」では3人で操っていた人形の娘お七が手を借りず櫓のはしごを上る場面が一番の見どころだった。舞台背景が次々に変わる「大道具返し」も見応え十分。幕間には主遣いなどの座員が人形の操り方を分かりやすく説明してくれた。

【さすが「タマネギ王国」巨大オブジェ⋅蛇口からスープ】

 淡路島南端の丘の上にある「うずの丘大鳴門橋記念館」。訪ねた日はあいにく定休日だったが、建物の裏手に回るとタマネギの巨大オブジェが出迎えてくれた。その名も「おっ玉葱!」(高さ2.5m、直径2.8m)。観光客は順番待ちで橋と鳴門海峡をバックに写真を撮っていた。

 大鳴門橋を望む「道の駅うずしお」にもタマネギ形のベンチが。こちらの名前は「おっ玉チェア」(高さ1.8m、直径1.5m)で、ここも絶好の撮影スポットとして人気を集めていた。

 淡路島北側の観光施設「淡路ハイウェイオアシス」。その館内には蛇口からタマネギのコンソメスープが出てくる無料コーナーもあった。ゆるキャラ「淡路タマ子さん」をかたどったスタンドには蛇口が2つ、上部には大きく「世界初!」と書かれていた。2018年に設置したが、新型コロナのため長い間休止。昨年1月に再開したという。

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〈淡路島㊥〉 24年ぶり「北淡震災記念公園」に

2024年06月08日 | 旅・想い出写真館

【野島断層「地質遺産100選」に、保存館裏手には「神戸の壁」】

 久しぶりに淡路市の「北淡震災記念公園」を訪れた。ここには阪神大震災の断層変動を生々しく物語る野島断層が当時のまま保存されている。開園は震災3年後の1998年春。最初に訪ねたのが2000年の夏だから、もう24年前、ほぼ四半世紀ぶりになる。

 「世界の『地質遺産100選』に野島断層が選ばれました」。館内に入ると左手の壁面に、赤地に白抜きの大きな文字でこう掲示されていた。国際地質科学連合(IUGS)によって2022年秋に選定されたという。日本ではここと、同じ兵庫県の玄武洞(豊岡市)の2カ所だけ。海外ではグランドキャニオン(米国)やエアーズロック(オーストラリア)なども含まれているそうだ。

 その向かい側には以前同様、修学旅行などで訪れた生徒たち手作りの千羽鶴がずらりと並ぶ。そばに奉納団体名の一覧も。眺めていると、北海道の高校や熊本の中学など遠方の学校名も含まれていた。

 断層保存館はドーム状の屋根で覆われる。そこに破壊された道路や地割れ、大きく横ズレした畦道や生け垣などが、そっくりそのまま残されている。地形の変化を赤と青のマークで分かりやすく標示した場所もあった。

 保存館の南側には「神戸の壁」が立つ。元々は約100年前の1927年ごろ、防火壁として神戸市長田区の公設市場に建設されたもの。1945年に神戸大空襲、95年には阪神大震災に遭遇しながら倒壊せず耐えてきた。いわば戦争と震災の“語り部”だ。壁は保存活動の結果、1999年に旧津名町のホール隣接地に移設され、さらに2008年、断層保存館のそばに再移設された。

 保存館北西側には「べっちゃないロック」と名付けられた鎮魂の碑がある。3つのビラミッド型が印象的なこのモニュメントを制作したのは世界的な彫刻家⋅作庭家として高松を拠点に活躍した流政之さん(1923~2018)。「べっちゃない」は淡路弁で「大丈夫」「たいしたことない」を意味するそうだ。震災に負けないぞ。モニュメントにはそんな思いがこもる。そばの慰霊碑には犠牲となった町民40人の名が刻まれていた。

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〈淡路島㊤〉 鳴門の渦潮、圧倒的な迫力!

2024年06月05日 | 旅・想い出写真館

【激しい潮流⋅渦巻く波の轟音┄自然の力を体感】

 その迫力は観光ポスターやテレビの動画なとでは決して味わえない圧倒的なスケールだった。初めて船上から目にした鳴門海峡の渦潮。潮の干満によって起きるその現象を前に、改めて自然のエネルギーの大きさ、激しさを思い知らされた。

 乗船したのは淡路島南端の福良港を発着する「うずしおクルーズ」の咸臨丸。船名は約160年前に勝海舟らを乗せアメリカに向かった蒸気帆船に因む。3年前に2代目咸臨丸として就航した。全長約59m、定員は500人。

 この日は新月で大潮。乗船する午前9時半出航予定の第1便案内の横には渦潮期待度「大」を示す二重丸がついていた。クルーズ船は職員が振る大きな旗と4本の放水に見送られて出航した。(上の写真左側のクルーズ船は臨時便の日本丸)

 船は遠く左側の山頂に立つ戦没学徒の慰霊塔などを望みながら西に進む。出航して約20分。大鳴門橋の手前側に白波が見えてきた。

 ほどなく眼下に幾つもの渦巻きが現れ始めた。波音を立てながら激しくうねり、回転を繰り返す。渦は短い間にできては消え、またできていた。

 鳴門海峡は“世界三大潮流”の1つ(あとの2つはイタリアのメッシーナ海峡とカナダのセイモア海峡)。海峡の幅は約1.3㎞と狭く、潮流は時速15~20㎞にもなるという。

 この時、潮流は南流。満潮の瀬戸内海側の播磨灘から紀伊水道側へ、北から南に激しく流れ込んでいた。その干満の段差が黒くくっきり見えた。徳島側から出航した観潮船も、ここが船長の腕の見せどころとばかりに渦潮の縁ぎりぎりを巡っていた。

 豪快な渦潮の躍動を見ること20分余り。その間、頭上の大鳴門橋を見上げると、橋上から渦潮を眺める人たちが手を振っていた。クルーズ船は大潮と好天に恵まれ渦潮の迫力を堪能した乗船客を乗せて出航した港へ。

 帰路、臨時便のクルーズ船日本丸とすれ違うときには互いに汽笛を鳴らし合図を交わしていた。鳴門海峡を挟む兵庫県南あわじ市や徳島県鳴門市などは渦潮の世界自然遺産登録を目指している。

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