く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

〈休ケ岡八幡宮〉 社殿前のミニ土俵で奉納子供相撲大会

2024年09月17日 | 祭り

【薬師寺管主ら僧侶も参列し秋季大祭】

 薬師寺の鎮守社、休ケ岡(やすみがおか)八幡宮(奈良市西ノ京町)で敬老の日の16日、秋季大祭が執り行われた。神事に続いて、社殿の前に設けられた土俵では近畿大学相撲部の協力のもと「奉納子供相撲大会」が開かれた。

 大祭は午前10時すぎ、鮮やかな朱色の社殿の前で始まった。現社殿は1603年に豊臣秀頼によって造営されたもの。国の重要文化財に指定されている。献饌に続き巫女舞、土俵清祓(きよはらい)の儀、薬師寺僧侶による読経と続き、最後に薬師寺の加藤朝胤管主(かんす)の挨拶で1時間余にわたる神事を終えた。

 厳かな神事の後は恒例の子供相撲。近大相撲部員3人が登場し、参加するちびっこたちに禁じ手としてパンチ⋅足蹴り⋅髪を引っ張るの3点を挙げた。男児の勝負の多くは短時間で決着。ところか女児2組の対戦はいずれも約3分にわたる大熱戦に。大相撲ならたぶん水入りだろう。観客から「がんばれー」「押せー」という熱い声援が飛び交っていた。

 この後はちびっこたちと大学生の対戦。最初は小学低学年、次に高学年、そして最後は全員で相撲部員に向かっていった。締めくくったのは大学生同士のガチンコ勝負。その迫力に圧倒された。

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〈筒井順慶まつり〉 勇壮な僧形⋅武者行列が練り歩く

2024年09月09日 | 祭り

【地元の高校⋅中学の先生や生徒たちが扮して】

 奈良県大和郡山市で9月8日「筒井順慶まつり」が繰り上げられた。地元の「筒井順慶顕彰会」の主催で、今回で21回目。主会場の筒井城跡の広場で多彩なイベントが開かれ、多くの市民でにぎわった。(写真は近鉄筒井駅前で)

 筒井順慶(1549-84)は筒井城最後の城主。筒井城は外堀で囲まれた東西500m、南北400mに及び、平城式城郭の中では大和で最大規模を誇った。しかし1580年、織田信長の命で破却され、順慶は居城を郡山城に移した。

 順慶は山崎の戦いで洞が峠で形勢を眺めていたとして日和見主義者の代名詞のようにいわれてきた。ただ史実は異なり、順慶は実は洞が峠に出陣していなかったという。顕彰会は順慶を「領民第一の徳将」「状勢判断の天才」と讃える。

 順慶まつりは午前10時半、大阪堺鉄砲隊による祝砲でスタート。出陣式などに続いて「僧形⋅武者行列」が近鉄筒井駅前に向けて出発した。これまで市長が務めてきた順慶役は県立ろう学校の校長、嶋佐近役は県立大和中央高校の校長が務め、近隣の学校の先生や生徒たちが家臣などとして参加した。僧形は筒井家が元々興福寺の僧兵出身のため。

 行列の一行は筒井駅前で記念写真を撮って小休止した跡、再び城跡のまつり会場へ。行列帰着後、会場では「やまと獅子太鼓」の演奏や一般参加の水攻め合戦、堺鉄砲隊の実演などが繰り広げられた。近くの光専寺ではまつりに合わせ安置する木造順慶像が一般公開された。

(写真はまつりで曳き回された光専寺の木造順慶像を模した像)

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〈橿考研付属博物館〉 2023年度発掘調査速報展「大和を掘る39」

2024年09月07日 | 考古・歴史

【39回目、県内31遺跡の出土品を一堂に】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で2023年度発掘調査展「大和を掘る39」が開かれている。前年度の発掘調査の成果を出土した遺物やパネルなどで紹介する恒例の展示会。39回目の今展では縄文時代から江戸時代に至る県内31の遺跡を取り上げている。9月16日まで。

[珍しい太鼓形の埴輪が完全な形で!]

 田原本町の宮古北遺跡の周濠から他の様々な形象埴輪と共に見つかった。太鼓形埴輪はこれまでも今城塚古墳(大阪府高槻市)などで3例確認されているが、完形の出土は初めて。大きさは長さが約28㎝、胴部径が約25㎝。中央の穴は「成形⋅焼成のため開けられたものと考えられる」とのこと。遺跡は「宮古平塚古墳」と命名された。

[井戸の中から巨大な大甕を発見]

 奈良市の平城宮跡の南東約2キロの平城京佐京四条四坊~六条三坊の発掘調査で13基の井戸が確認された。大甕が出土したのはその一つの井戸から。須恵器で、石組みの枠内に転落した状態で見つかった。

[法隆寺参道脇の円形の植え込み、実は6世紀の古墳だった!]

 斑鳩町の法隆寺のそばにある駐車場の一角に円形の植え込みがあり、地元では舟塚古墳と呼ばれてきた。直径は8.5mほど。そこを奈良大学の学生が中心になって発掘したら、横穴式の石室が見つかった。副葬品の大刀や馬具、琥珀玉、須恵器や土師器も出土した。6世紀後半の築造とみられる。

[舒明天皇の宮殿跡に掘立柱塀の柱穴列!]

 飛鳥時代の宮殿遺構、飛鳥宮跡(国史跡)には3つの時期の宮殿遺構が重複して存在する。第Ⅰ期は舒明天皇が造営した飛鳥岡本宮。その推定地の発掘で、掘立柱塀の多数の柱穴跡が見つかった。写真は柱抜き取り穴の剥ぎ取り地層。

[若草伽藍の南を区画する溝?]

 聖徳太子が建立した創建法隆寺「若草伽藍」推定跡地の南側の調査で、東西に延びる幅約2m、長さ約16mの溝が確認された。伽藍の南辺を画する溝の可能性が指摘されている。溝からは大量の瓦類も出土。その中には焼けた瓦や壁土片なども含まれていた。

[井戸から浮き彫りされたお地蔵さんの石仏!]

 橿原市の芝ノ前遺跡は14~15世紀を中心とした墓地関連遺構。その発掘調査で新たに煮炊きなどに使う羽釜や甕を蔵骨器とする火葬墓が確認された。同時に石仏や土器が井戸や溝に投棄された状態で多数出土した。中世の墓地が廃絶されていく様子を物語るものとして注目を集めている。

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〈宝山寺〉 洋館風客殿「獅子閣」を特別公開

2024年08月19日 | メモ

【螺旋階段、色ガラス、漆喰壁┄和洋折衷】

 この建物を単独で見たら、仏塔伽藍の一つとは到底信じられないかもしれない。生駒山の中腹にあり「生駒聖天」として知られる宝山寺(奈良県生駒市)の「獅子閣」。完成からちょうど140年。国の重要文化財に指定されているその建物が8月中、日曜日ごとに特別公開されている。

 獅子閣は山門を入って本堂手前を右手に曲がった奥にある。2階建て寄棟造り(玄関は切妻造り)で、まず目を引くのが1階のアーチ状ガラス窓と玄関上部のベランダ。外観は洋館風だが、瓦葺きや漆喰壁など和風の伝統技法も見られる。

 宝山寺の客殿として1884年(明治17年)に建てられた。西洋建築として有名だった「鹿鳴館」の完成の翌年に当たる。明治初期、文明開化を象徴するものとして、洋館をまねた“擬洋風建築”が各地に建てられた。獅子閣もその一つ。横浜で西洋建築を学ぶため3年間修業を積んだ吉村松太郎という宮大工が設計し棟梁を務めた。

 玄関を入ると、板張りの洋室が広がる。すぐ右側には木製の螺旋階段。漆喰磨き仕上げの真っ白な壁面にアーチ状の扉と窓があり、扉に嵌め込まれた赤青緑の色ガラスが室内を華やかに彩る。左側には6畳敷きの日本間が2部屋。能や狂言に材を採った襖絵はいずれも江戸後期の絵師、土佐光孚(みつざね、1780~1852)の作。

 2階には10畳間が2部屋あり、上の間には床の間や違い棚が設けられていた。襖を飾るのは1階とは趣を異にする花鳥画や山水画(筆者は日本画家真嶋北光?)。天井は碁盤目状に縦横組み合わせた格(ごう)天井。ベランダからは眼下に本堂や拝殿などの堂塔を望む。

 獅子閣を後に、久しぶりに多宝塔、太師堂を経て奥の院へ。無数のお地蔵さんたちが出迎えてくれた。家族とみられる3人の男性が仏様をたわしなどでゴシゴシ磨いていた。ご苦労さまです。

 残念だったのは多宝塔などの賽銭箱に「信者様へ」と題し、こんな一文が掲げられていたこと。「賽銭窃盗事案が夜間に頻発しております┄┄夜間の賽銭献上は門衛に預けて頂きます様、お願い申し上げます」。奥の院の大黒堂には「酒⋅塩⋅穀類をまく事 厳禁します」という貼り紙もあった。

 参道で羽を休めている大きなガに出合った。羽根の目玉模様からたぶんヤママユ。虫好きには憧れの昆虫の一つだ。成虫の寿命は僅か1週間から10日ほど。この間に交尾し産卵する。相手は見つかったのだろうか。

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〈奈良市美術館〉 永井秀幸「とびでる!錯覚3Dアート展」

2024年08月15日 | 美術

【トラのイラストが手のひらを貫通!】

 奈良市美術館(「ミ⋅ナーラ」5階)で3Dアーティスト永井秀幸さんの作品展「とびでる!錯覚3Dアート展」が開かれている。平面のスケッチブックに描かれた絵が立体的に飛び出して見える作品が40点ほど。中には手のひらや甲を貫通しているように見える不思議な作品も。25日まで。

 

 永井さんは和歌山県出身で1991年生まれ。今は大阪市在住で関西を中心に各地で作品展を開いている。著書に『とびだす!3Dアートえほん ひみつのちかしつ』など。作品群は大きく①L字アート②貫通アート③平面アート――の三つに分かれる。

〔L字アート〕見開きのスケッチブックをL字型に置き、濃淡や陰影をつけながら描いたもの。筆記具は黒鉛筆のほか色鉛筆やクレヨンも使用。

〔貫通アート〕二つのイラストのパーツからなり、その一つを手のひらなどに乗せて合わせるとまるで貫通しているように。自由に手に取って体験できる。

〔平面アート〕これらも1枚の紙に描いた作品だが、陰影などによる目の錯覚で立体的に浮き上がって見える。

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〈東大寺二月堂〉 参拝客でにぎわう「功徳日(およく)」

2024年08月10日 | 祭り

【1日で4万6000日分参拝のご利益! 福引の楽しみも】

 8月9日は1年の中でも特別な観音様の縁日「功徳日」。この日参拝すると、なんと4万6000日参拝したと同じご利益があるという。十一面観音菩薩像を祀る東大寺二月堂もこの日が「功徳日(およく)」。朝早くから参拝客でにぎわった。

 4万6000日は約126年分に相当する。この日数はどこから? 一説ではお米1升が約4万6000粒であることから来ているという。加えて一生分の功徳があるとして「1升=一生」とかけたともいわれている。「およく」は「お浴」で「功徳に浴する」ことを意味する。

 参拝客にとっては福引もこの日の楽しみの一つ。灯明料(1口500円)を納めると、1口につき1枚の福引券がもらえる。午前8時半ごろ、二月堂の石段を上ると、福引引替所の前に列ができていた。

 引替所の中をのぞくと、様々な景品が三方の壁面にびっしり。正面の上段には大きなテレビや東大寺管長の色紙などもあった。福引券を1枚入手。直前の男性はたこ焼き機が当たった。もしかしたら正面の┄┄。手に入ったのは可愛いふきん1枚だった。

 二月堂に隣接する無料休憩所「北の茶屋」もにぎわっていた。入り口そばで販売していたのは名物の「およく餅」。その向かい側にはみたらし団子を買い求める客の行列ができていた。かき氷やそうめん、冷やしぜんざいなども販売。どれも100円と格安だった。

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〈奈良市写真美術館〉 「観仏三昧」3人の仏像写真約120点が一堂に

2024年08月08日 | 美術

【工藤利三郎⋅入江泰吉⋅永野太造】

 入江泰吉記念奈良市写真美術館(奈良市高畑町)で、奈良を拠点に仏像写真を撮り続けた写真家3人の作品展「観仏三昧」が開かれている。その3人は工藤利三郎と入江泰吉と永野太造で、それぞれ約40点ずつ、合わせて120点弱の作品が並ぶ。9月1日まで。

 タイトルの「観仏三昧」は奈良を愛し度々訪れた歌人、會津八一が宿泊した旅館「日吉館」に贈った扁額の言葉。「仏像の研究と鑑賞に専心する」という意味が込められているそうだ。

 工藤利三郎(1848~1929)は明治中期から大正時代にかけて活躍した古美術写真の草分け的存在。出身地徳島から転居した奈良の猿沢池畔に写真館を開業、19年かけて写真集『日本精華』全11巻を刊行した。奈良市写真美術館が所蔵するガラス原板は国登録有形文化財になっている。

 工藤が明治後期に撮った写真には戦後に修理される前の文化財が多く含まれ、歴史的資料として高く評価されている。展示作品にも腕や手首が欠けた興福寺の阿修羅像、光背が不揃いな法華寺の十一面観音像、解体修理前の法隆寺の中門などが。工藤は奈良を拠点に東北から九州まで足を運んだ。中尊寺金色堂の写真も展示中。

 入江泰吉(1905~92)が仏像写真を本格的に撮り始めたのは終戦翌年の1946年から。進駐してきた米軍が賠償物資として文化財を接収する、との噂話を耳にしたのがきっかけだった。展示写真には東大寺法華堂⋅不空羂索観音像の宝冠取り付け作業を終戦直後に撮影したものも。宝冠は1937年に盗難に遭い、その後戻ってきていた。1948年秋に撮った法隆寺⋅金堂壁画の模写風景もある。その翌年1月に起きた金堂火災について入江は「まさに青天の霹靂」と書き残している。

 永野太造(1922~90)は1952年に「奈良国立文化財研究所」が設立されたのを機に長年各地の文化財の撮影に携わった。小林剛⋅彫刻室長からは「仏像を単なる被写体と思ってはならない。仏師の気持ちに少しでも近付くように」と諭されたという。展示中の写真には工藤、入江作品と同じ仏像も含まれるが、撮る角度やライトの当て方などで表情が微妙に異なって見えるのが面白い。永野のガラス原板は帝塚山大学が所蔵している。

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〈奈良国立博物館⋅夏企画㊦〉 「フシギ! 日本の神さまのびじゅつ」展

2024年08月04日 | 美術

【一級の美術品を通して“祈り”の形を分かりやすく紹介】

 奈良国立博物館(奈良市)の西新館でわくわくびじゅつギャラリー「フシギ! 日本の神さまのびじゅつ」展が開かれている。東新館で開催中の特別陳列「泉屋博古館の名宝」展との同時開催で、会期も同じ9月1日まで。

 このわくわくギャラリーは子どもにも神様⋅仏様にまつわる祈りの美術に関心を持ってほしいと始めたもので、今回で3回目。展示は「お住まいのフシギ」「おすがたのフシギ」「ほとけさまとのカンケイのフシギ」など6章で構成する。

 展示品には国宝3点や重要文化財8点をはじめ一級品が並んでおり、大人にとっても見ごたえ十分。また展示品の所蔵者⋅団体は地元奈良のほか大阪、京都、滋賀、和歌山と広範。テーマに沿った特徴的な美術品展示のため、学芸員らが奔走したことを示す。

 国宝は同館所蔵の『辟邪絵(へきじゃえ)』6幅のうち『神虫(しんちゅう)』(写真㊦=部分)と『毘沙門天』、薬師寺⋅休ケ岡八幡宮の『八幡三神像』、熊野速玉大社の『古神宝類のうち桐蒔絵手箱および内容品』。

 『辟邪絵』は邪悪な鬼神を懲らしめ退治する様子を描いたもの。『神虫』は蚕の成虫の姿をした神様で、「災いをもたらす鬼を朝に三千、夜に三百も食べる」という説明が添えられていた。『八幡三神像』は平安初期の木彫で、中央に僧侶姿の八幡神、右に神功皇后、左に仲津姫命が鎮座。僧形の神像が神仏習合を象徴的に表す。

 重文『東大寺大仏縁起』は東大寺の僧侶祐全が室町時代の1536年頃に描いた。風神と雷神、龍神が大仏殿を建てるための材木をスムーズに運べるよう協力している様子なども描かれている(写真㊤=部分)。

 重文では奈良⋅往馬大社の『生駒宮曼荼羅』、大峯山寺の『蔵王権現像』、談山神社の『沃懸地太刀』、和歌山⋅丹生都比売神社の『金銅琵琶(伝平政子奉納)』などもある。他には奈良⋅矢田原第三農家組合所蔵の『富士参詣曼荼羅』、大阪⋅本山寺の『宇賀神像』、奈良⋅西笹鉾町自治会の『三社託宣』なども展示中。

 この美術展は高校生以下(18歳未満)入場無料で、来場者にはクイズ形式のワークシートを配付している。会場の一角には展示品の中から自由に描いてもらった作品を掲示する「お絵かきギャラリー」やお面づくりのコーナーも。

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〈奈良国立博物館⋅夏企画㊤〉 特別陳列「泉屋博古館の名宝」展

2024年08月01日 | 美術

【住友春翠のコレクションを中心に中国青銅器など80点余】

 奈良国立博物館(奈良市登大路町=下の写真)で特別陳列「泉屋博古館の名宝」展が始まった。泉屋(せんおく)博古館は住友家伝来の美術品の保管⋅研究⋅公開を行う施設として1960年、京都市左京区鹿ケ谷に開設された。現在はリニューアル工事中で、再オープンは来年4月の予定。

 この展覧会には「住友春翠の愛でた祈りの造形」という副題が付く。春翠は住友家第15代住友吉左衞門友純(1864~1926)の雅号。泉屋博古館の収蔵品は青銅器や書画、西洋絵画、陶磁器、茶道具、能面など約3500点に及ぶ。春翠の収集品はそのコレクションの中核を成す。

 

 展示は第1章の「中国青銅器―春翠の情熱」と第2章の「仏教美術―春翠の審美眼」で構成する。青銅器には紀元前14~11世紀の殷の時代やその後の西周の時代のものが多く含まれる。

 古代青銅器に多く見られる文様が怪獣を正面から見た姿を表したもので「饕餮文(とうてつもん)」と呼ばれる。殷代の酒を入れる容器『饕餮文方罍(ほうらい)』はつぶらな愛らしい目の造形が印象的。『犠首方尊』も同じく殷代の作。方尊の「尊」の文字は両手で酒甕を捧げ持つ様子を表すという。

 青銅器では『虎鎛(こはく)』というバチで叩く西周(紀元前11~10世紀)時代の打楽器や西周~東周時代の鐘、前漢(紀元前2世紀)~唐(8世紀)の銅鏡6面なども展示中。銅鏡のうち『画文帯同向式神獣鏡』(後漢3世紀)は重要文化財に指定されている。

 仏教美術の展示品では『線刻仏諸尊鏡像(瑞花鴛鴦八稜鏡)』(平安時代)が国宝。流れるような繊細な線刻で、中央の如来坐像を6体の諸尊が囲む。販促ちらしを飾るのは朝鮮⋅高麗時代の優美な仏画で重文の『水月観音像』。落款から徐九方の筆で制作年も1323年と判明している。

 

 『毘沙門天立像』(鎌倉時代)は京都⋅青蓮院旧蔵と伝わり、作者は快慶の弟子筋という説も。像内に62枚の画像が納められていた。上の仏像は重文の『阿弥陀如来坐像』(平安時代)。春翠の長男、住友寛一(1896~1956)が入手し、その後、泉屋博古館から奈良国立博物館に寄託された。会期は9月1日まで。

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〈大鳥神社「花奪い神事」〉 「神花」で飾られた花傘を青竹で乱打!

2024年07月25日 | 祭り

【花笠姿の愛らしい子どもたちの太鼓踊りも】

 滋賀県甲賀市甲賀町の大鳥神社で7月23~24日、無病息災や五穀豊穣を願って「大原祇園祭」が執り行われた。24日は前夜の宵宮祭に続いて本祭。「花奪い(はなばい)神事」が一番の見どころで、この祇園祭は県指定無形民俗文化財にもなっている。

 本祭は花火の号砲で午後3時から始まった。朱塗りの楼門前には白装束で鉢巻き姿の男衆約50人がずらりと整列。その間を花鉾を先頭に、太鼓踊りを奉納する子どもたち、赤い造花の「神花(しんか)」で飾られ酒樽を乗せた花傘が進む。

 太鼓踊りの踊り子は花笠を被り、和太鼓を「トントト、カカカ」と打ち鳴らしながら進んだ。昼過ぎ一時雨が降ったこともあって、太鼓は透明のビニールシートで覆われていた。

 楼門は京都⋅八坂神社の西門を模したもの。花傘はその楼門を潜って神輿が安置された拝殿へ。そこで酒樽などを奉納した後、再び楼門に姿を現した。

 境内の入場順は毎年、第1番が氏子総代を務める地区。第2番以降はくじ引きで決まる。今年は第1番が大原上田。その後に大原中、高野、大久保、大原市場、鳥居野、神、相模、櫟野と続く。

 いよいよ花奪いの始まりだ。第1番の花傘が笛の合図で石段を駆け下りて男衆の間へ。すると、一斉に青竹による集中攻撃を始まった。

 大鳥神社の祭神は素盞鳴命。花奪いは素盞鳴命のヤマタノオロチ退治に由来するという。花傘は数往復する間に竹の棒でしこたま叩かれ、「そこまで」という笛の合図で観客側に倒された。

 赤い造花「真花」には無病息災や家内安全のご利益があるという。参拝者たちは花傘が倒れるやいなや、我先に駆け寄り競って花を奪い合っていた。

 祭りを支えるのは旧大原村の氏子地域9地区。花傘は各地区から6基ずつほど奉納された。9地区を合わせると50基ほどに。

 花奪いは1時間20分ほど繰り返し行われた。この間に抱えきれないほどの花をゲットした人もいた。

 楼門前で花奪いが繰り広げられる最中、本殿や拝殿の前では子どもたちによって太鼓踊りが奉納された。輪になって和太鼓を打ち鳴らし、「インヨーソーライ(陰陽栄)」の掛け声で輪の中央で太鼓の胴をぶつけ合っていた。

 踊り子はかつて男児に限られていたそうだが、今は女児も加わった地区も見られた。踊り終えた子どもたちにはアイスクリームなどが配られ、親御さんが「お疲れ」というように団扇であおいでいた。

 花奪いの後は氏子総代や役員による楼門からの粽(ちまき)投げ。笹の葉でくるまれた粽の中には当たり券も。当たると酒樽がプレゼントされる。

 当たりの確率は結構高かったようだ。この男性は仲間5人で手にした10個ほどの粽の中に当たり券が4枚も入っていた、と見せてくれた。別の男性は一人で3つの酒樽を持っていた。

 粽神事に続いて神輿の渡御が行われた。担ぐのは花奪いで奮闘した白装束の男衆。汗だくになりながら「ワッショイ、ワッショイ」とお旅所まで担ぎ、獅子頭が沿道の人たちの頭を噛んでいた。

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〈散策「新薬師寺~中の禰宜道」〉 実忠の歯塔、縁切り⋅縁結び寺┄

2024年07月21日 | メモ

【新薬師寺の五重の石塔】

 薬師如来坐像を本尊とし、国宝十二神将像で広く知られる新薬師寺(奈良市高畑町)。その本堂に向かう途中、左手に五重の石塔が立つ。いつも一瞥して通り過ぎていたが、その前にある石柱を見るとこう刻まれていた。「實忠和尚御歯塔」。えっ、なぜここに?

 実忠は東大寺の開山、良弁(ろうべん)僧正に師事し、二月堂を創建してお水取り(修二会)を始めたというお坊さん。新薬師寺は元々、聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が建立した。それにしても歯を安置した塔だったとは!

【お水取りのお松明を橋の欄干に再利用!】

 その新薬師寺の庫裡の前にある池に「観楓橋」という小さな橋が架かる。苔むした欄干の向かい側の片方は長く大きな1本の竹だった。そこには「奉納 二月堂 家内安全」との墨書があり、寄進者の住所と氏名も記されていた。お水取りで使われたお松明を譲り受けたという。

【鏡神社の本殿は春日大社の旧本殿第三殿】

 新薬師寺の山門すぐ南側に鏡神社が鎮座する。その本殿は“春日移しの社”と呼ばれる。春日大社の第46次式年遷宮(1746年)の際、旧本殿のうち第三殿を譲渡したとの記録があり、それを裏付けるように鏡神社で1959年に修理したとき屋根裏から「三ノ御殿」という墨書銘が見つかった。奈良市指定文化財になっている。

【古都の風情を残す石垣にブルーシートが!】

 新薬師寺東側の小道には石垣や土塀が続く。古代の街道「山の辺の道」の一部を成し、古都の情緒が今も残る。ところが前方の道路脇がその風情を壊すブルーシートで覆われていた。梅雨の大雨で石垣が崩れたのだろうか。「塀⋅石垣キケン 通行注意」という紙が何枚も貼られていた。

【道端に「水草 無料」ホテイアオイなど】

 先に進むと水草が入った発泡スチロールが2つ置かれていた。その上には「水草(アナカリス ホテイアオイ)無料」と書かれていた。アナカリスは熱帯魚などの水槽でよく使われる水草で、正式名をオオカナダモという。この2つの水草は環境省が「重点対策外来種」に指定し、日本生態学会による「日本の侵略的外来種ワースト100」にもなっている。このため「水草 無料」の横にも「池や川への投棄厳禁」と注意を呼び掛けていた。

【不空院、縁切りと縁結びの神様が隣り合わせ】

 不空院は鑑真ゆかりの真言律宗の古刹。不空羂索観音坐像(重要文化財)を本尊とし、古くから「縁切り寺/駆け込み寺」としても信仰を集めてきた。本堂正面の左脇には「縁きりさん」(法竜大善神)と共に「縁結びさん」(市岐姫大神⋅黒竜大神)の祠が仲良く並ぶ。

【中の禰宜道、立ち枯れの杉(?)の巨木!】

 「中の禰宜道」はかつて禰宜(神官)たちが社家町から行き来した道で、春日大社の二の鳥居に通じる。道の両側には原生林が広がり、小川のせせらぎが涼やかな音を奏でる。そんな中、ひときわ目立つ立ち枯れの巨木があった。観光客で溢れにぎやかな参道とは対照的に、この道は昼間でも通る人が少なく森閑としている。

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〈祇園祭神幸祭〉 神輿3基、勇壮に御旅所へ渡御

2024年07月18日 | 祭り

【「ホイット、ホイット」沿道からも手拍子と掛け声】

 京都の夏を雅に彩る祇園祭の前祭(さきまつり)が17日都大路で華やかに繰り広げられた。日中の山鉾巡行に続く神幸祭の神事の後、夕刻からは四条通の御旅所まで神輿3基の渡御が行われた。

 神輿渡御は午後6時から。八坂神社のシンボル、朱色の西門の石段下に神輿3基が勢揃いし出発式が行われる。石段はその様子を上の方から見物できる“特等席”。2時間前には多くの人で既に埋め尽くされ、境内も身動きがままならないほどごった返していた。

 午後6時すぎ、神輿を先導する行列がやって来た。先頭は「豊園泉正寺榊」。神様を遷した神輿の進路を清める役割を担う。かつては3基の神輿にそれぞれ榊台があったが、今では泉正寺町の1基だけになったという。

 その後、白馬に乗ってやって来たのは綾戸國中神社のお稚児さん。胸の前に馬の首の彫り物「駒形」を掲げており「久世駒形稚児」と呼ばれる。

 盾や矛など神宝を掲げて進むのは八坂神社のお膝元祇園町の氏子組織「宮本組」。今年は「志丁組」というボランティア組織も立ち上げ、参加者を公募した。神宝奉持列に続いて神輿が「三若神輿会」の旗を靡かせながら現れた。

 この神輿は「中御座神輿」と呼ばれ、八坂神社の主祭神素戔鳴尊が乗る。四若神輿会の「東御座神輿」は櫛稲田姫命、錦神輿会の「西御座」は八柱御子神。重さは2~3トンもあるそうだ。

 石段下を出発した各神輿はそれぞれの順路で氏子地域を巡行。途中で神輿を高く持ち上げる“差し上げ”などを披露した。

 神輿は3時間ほどかけて御旅所へ。威勢のいい「ホイット、ホイット」という掛け声と「シャン、シャン」という神輿の鈴の音が夜遅くまで鳴り響いた。神輿は後祭の山鉾巡行が行われる1週間後の24日に神社へ戻る。

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〈人形作家永瀬卓さん〉 平城宮いざない館夏期企画展「万葉挽歌(レクイエム)」開幕

2024年07月14日 | 美術

【万葉集の登場人物中心に31体、中学教師定年後独学で!】

 平城宮跡歴史公園内の平城宮いざない館で夏期企画展「万葉挽歌(レクイエム)―人形からみる古(いにしえ)の奈良」が始まった。人形の制作者は埼玉県越谷市在住の永瀬卓さん(75)。わずか15年前に独学で始めたとは到底信じられない精細な造形と憂いを秘めた表情の人形など31体が並ぶ。9月1日まで。(下の人形は「額田王(立像)」

 永瀬さんは1972年に東京教育大学芸術学科絵画専攻を卒業。以来、越谷市内の中学で美術の教師を務めた。人形の制作をふと思い付いたのは2008年の定年退職後。学生時代に見た有馬皇子の人形像がずっと頭の中を巡っていたという。万葉集関連本の表紙を飾っていたその人形の作者は紙塑人形の人間国宝、鹿児島寿蔵氏(1898~1982)だった。(下は天照大神が隠れた天の岩戸の前で一糸まとわぬ姿で踊ったという「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」)

 万葉集ゆかりの奈良での企画展は不思議な縁で実現した。4年前、東大寺のお水取り(修二会)見学で奈良を訪れた永瀬さんは正倉院近くに宿をとる。その「小さなホテル奈良倶楽部」のオーナー、谷規佐子さんが作品に魅せられ、偶然宿泊していた知人の中田文花(もんか)さんに紹介。中田さんは日本画家⋅造形作家⋅尼僧(華厳宗)⋅舞楽舞人などマルチで活躍しており、多彩な人脈を通じて展示会の準備が進められたという。(下は「倭女王」)

 展示作品は全部で31体。「神々の世」「日本の曙」など時代を追って配置されている。「日本の曙」では万葉集の冒頭を飾る「雄略天皇御製歌」の「籠(こ)もよみ籠持ち┄┄」を表現した人形も(下の写真)。

 

 「胎動する歴史」「動乱の時代」では謀叛の疑いなどで処刑されたり自害したりした有馬皇子や大友皇子などが並ぶ。大津皇子と姉の大伯皇女の背景には姉が「明日よりは二上山を弟と我が見む」と歌った山並み。その前で永瀬さんが悲劇の歴史を親子連れの来場者に分かりやすく解説していた。

 有馬皇子は座像(写真㊤)のほか立像も展示中。飛鳥時代を代表する女流歌人、額田王も冒頭の立像のほか座像(写真㊦)も。

 

 さらに坂上郎女も立像と座像(写真㊦)の2体。「月立ちてただ三日月の眉根掻き日長く恋ひし君に会へるかも」の万葉歌が添えられている。

 

 下の人形は「越中の大友家持と坂上大嬢」。坂上郎女にとって家持は娘婿にあたる。家持が越中に赴任したのは746年で、その4年後、大嬢は都から越中に移った。

 最終章は「平和への祈り」として中将姫(写真㊦)や長屋王、藤三娘(とうさんじょう)、光明子が並ぶ。光明皇后は王羲之の『楽毅論』臨書の際、藤原不比等の三女として藤三娘の名前を使った。

 

 永瀬さんが人形作りを始めたのはあくまでも趣味としてだったという。そんな経緯もあって、その世界ではほとんど無名で賞とは無縁。ただ作品群を目の前にしたとき、趣味の領域を遥かに超越しているように感じた。永瀬さんは「賞をもらうなんて思わず、好きなように自由に作ってきました」と謙虚に話されていた。(下の人形は「藤三娘」)

 

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〈大和文華館〉 特別展「レスコヴィッチコレクションの摺物」㊦

2024年07月12日 | 美術

【柳々居辰斎「拳初め」】

 三宝の上に徳利、台の上に拳相撲の道具。拳相撲は中国発祥の酒席の遊び、数拳(じゃんけんの源流)を相撲風にしたもの。団扇を持った行司が仕切った。

【岳亭春信「衣通姫」】

 允恭天皇の寵妃(または娘)で絶世の美女と伝わる衣通姫が小箱の中の蜘蛛の巣を覗き込む。蜘蛛は天皇の訪れの予兆。古今和歌集に「わがせこが来べきよひなりさゝがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも」。

【二代目葛飾戴斗「鯉」】

 添えられた狂歌に「時を得て空へものぼれ王とよぶ花の下行(したゆく)江戸川の鯉」(文花楼清丸)など。「王とよぶ花」は桜のこと。

【歌川豊広「宝船に鶴亀」】

 伊勢エビの殻を船体に見立て、打出の小槌などめでたいものを満載。周りにも折り鶴や亀など吉祥の置物を描く。

【歌川国貞「三味線と琴の合奏」】

 松が描かれた屏風の前で女性2人が合奏を楽しむ。左側に記された狂歌から、近江⋅信楽の狂歌師からの注文で制作されたことが分かる。

【歌川広重「風の神」】

 画題「風の神」とは江戸時代に「風邪の疫病神を追い払う」という名目で、門口に立って鉦や太鼓を叩き金品をねだった物乞い。

【勝川春亭「長坂橋の張飛」】

 中国⋅後漢末期、曹操に追い詰められた劉備を逃すため、張飛が馬上で仁王立ちする場面。

【窪俊満「群蝶画譜 つばさには」】

 様々な色や模様の蝶や蛾を描いたシリーズ作品全7図のうちの一つ。

【渓斎英泉「隅田川の花見」】

 右図に「柳桜亭」、左図に「江戸花也」の名で狂歌が添えられている。いずれも第11代長州藩主の毛利斉元で、英泉や歌川国貞⋅国芳らに依頼して美しい狂歌摺物を数多く制作した。 

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〈大和文華館〉 特別展「レスコヴィッチコレクションの摺物」㊤

2024年07月11日 | 美術

 近鉄グループの美術館「大和文華館」(奈良市学園南)で特別展「レスコヴィッチコレクションの摺物―パリから来た北斎⋅広重⋅北渓⋅岳亭」が始まった。摺物は江戸時代の版画のうち特別な注文によって制作された作品。数十~数百部しか作られなかったため伝存数も少ない貴重品だ。

 展示作品はポーランド出身でパリ在住のジョルジュ⋅レスコヴィッチ氏の収集品。約260点が9月1日までの会期中、前期⋅後期に分けて展示される。葛飾北斎をはじめ魚屋北渓(ととやほっけい)、岳亭春信、歌川広重、歌川国芳、渓斎英泉ら、浮世絵全盛期の19世紀前半に活躍した絵師の作品が多く並ぶ。

【葛飾北斎「富士図」】

 富士山と芦ノ湖が描かれた春興の俳諧摺物。「舞雲雀声も高根と丈いくらべ」(桂花)などの句が添えられている。

【葛飾北斎「やつし六歌仙」】

 六歌仙を当時の江戸の様々な女性にやつした趣向の狂歌摺物。右から順に破魔矢を持つ商人の妻(在原業平)、花魁(小野小町)┄┄禿(僧正遍昭)、本をかざす生娘(文屋康秀)。

【葛飾北斎「始皇帝図」】

 秦の始皇帝が太山に登り暴風雨に遭ったとき松の木の下で難を逃れ、その松に太夫の位を与えたという故事を描いた。日本では常磐津の演目「老松」で知られ、この摺物も常磐津の会の案内状を飾った。

【葛飾北斎「空満屋連 和漢武勇合三番之内弁慶と韃靼美人」】

 同様の「首引き」の図柄に勝川春亭画の大判錦絵「武蔵坊弁慶とだつたんの首引」があるという。元々の出典はどこからだろうか? 義経が大陸に渡って王になったという伝説はあるけど┄┄。

【葛飾北斎「七代目市川団十郎の工藤祐経と五代目岩井半四郎の舞鶴」】

 江戸歌舞伎春恒例の曽我狂言の主要登場人物を描いた5枚揃いの1枚。

【魚屋北渓「虎退治」】

 幟や軍配、冑を飾った虎が描かれ、左上に秀吉に従い朝鮮に渡って虎退治をしたという加藤清正の伝説に絡めた南亭葉々広による文章が添えられている。

【魚屋北渓「夢中の坂田金時」】

 幼少時に金太郎として足柄山で熊と相撲をして遊んだ日々を坂田金時が夢見る図。文政(1818~30)後期頃の作。この物語はすでに当時、子ども向けの本で広く親しまれていたそうだ。

【魚屋北渓「京 三国志 桃宴結妓」】

 「三国志演義」の名場面、劉備と関羽と張飛が義兄弟の契りを結んだ桃園の宴のやつしとして、三都(京、江戸、大坂)の遊女の華やかな競演を描いた作品。

【魚屋北渓「鞠の神」】

 描かれているのは猿の姿をした鞠の神と蹴鞠の名手といわれた藤原成道。蹴鞠の神は「精大明神」で、通常猿田彦として各地の神社で広く祀られている。

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