く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ポインセチア> クリスマスを華やかに彩る定番の花

2013年12月23日 | 花の四季

【原産地メキシコ、日本には明治時代に渡来】

 クリスマスシーズンに室内を彩る鉢物といえば、やはりこのポインセチアだろう。トウダイグサ科の低木で、真っ赤な〝花びら〟と緑色の葉のコントラストが美しい。ただ花びらのように見えるのは蕾を包む葉が変化した苞(または苞葉)と呼ばれるもので、本当の花は慎ましげに真ん中にある小さな黄色の部分。ポインセチアは観葉植物の1つというわけだ。

 原産地はメキシコを中心とする中南米。花の名は19世紀の米国の外交官・ポインセット氏に由来する。1820年代に初代メキシコ大使として赴任した時、自生していたこの花を見つけ、米国に持ち帰って改良を重ねた。その結果、20世紀に入って欧米でクリスマスの花としてもてはやされるようになった。英名では「クリスマスフラワー」とも呼ばれる。日本への渡来は明治時代の1880年代といわれるが、急速に普及するのは戦後になってから。

 和名は「猩々木(しょうじょうぼく)」。その真っ赤な色から、酒を好み赤ら顔で赤毛の空想上の動物・猩々にちなんで名付けられた。しかし、この和名が使われることはほとんどない。品種改良で赤のほか、白やクリーム色、赤・白の混色、斑入りなど色柄も多彩になってきた。原産地では常緑で高さが5mにもなるが、園芸品種は寒さに弱いため温室で鉢物が栽培される。日の当たる窓際に置くと長持ちするが、冬越しはなかなか容易ではない。

 ただ沖縄や小笠原などの暖地では露地植えでも育つ。群生地として有名なのが宮崎・日南海岸の堀切峠。宮崎交通グループの創業者で「宮崎観光の父」と称された故岩切章太郎氏(1893~1985)が、花の少ない冬の日南海岸を彩る花としてポインセチアの植栽に取り組んだ。季語は冬。「宴果てぬ猩々木(ポインセチア)の緋に疲れ」(文挟=ふばさみ=夫佐恵)。

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<東寺「終い弘法」> 露店1000軒余、参詣者や観光客で終日大にぎわい

2013年12月22日 | 祭り

【師走を彩る風物詩、25日には北野天満宮の「終い天神」も】

 京都市南区にある真言宗総本山・東寺(救王護国寺)で21日、歳末恒例の「終い(しまい)弘法」が開かれた。境内には骨董や植木、古着、食品などの露店1000店余りが軒を連ね、押し寄せる観光客や参詣者で終日あふれ返った。

 

 21日は弘法大師・空海の命日。その縁日には古くから毎月「弘法市」(弘法さん)が開かれてきた。毎月20万人ほどの人出があるが、とりわけ多くの店と人出でにぎわうのが1年最後の「終い弘法」。刀剣、古陶器、仏像、道祖神、履物、西陣織、アクセサリー、風鈴、漬物、鯨肉、栗、団子、甘酒……。境内を埋め尽くす店は実に多種多彩。中でも人気を集めていたのは南天や葉牡丹、カズノコ、干し柿、新年の干支・馬の置き物、カレンダーなど、やはり正月関連の品々だった。

 

 骨董屋で掘り出し物を物色する年配者の姿も多く見かけた。神戸からやって来たという女性は年代物の木箱に納められた古陶器をあきらめきれず、もう一度戻って来て大枚をはたいて購入していた。包丁や芽かぶ茶などの店も店主の絶妙な口上やお茶の試飲で人だかりが絶えなかった。京都ではこの後、菅原道真公ゆかりの北野天満宮でも25日に「終い天神」が開かれる。

 

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<クロガネモチ(黒鉄黐)> 花は地味でも冬の赤い実が存在感を誇示!

2013年12月20日 | 花の四季

【縁起木・野鳥の好物、多くのまちの「市の木」に】

 モチノキ科の常緑高木。関東以西の暖地の山地に自生し、大きくなると高さが20mにもなる。滑らかで灰白色の樹皮はかつて鳥や虫捕りのためのトリモチの原料になった。「クロガネ」の名は葉柄や若い枝が濃い紫色を帯びることによる。5~6月頃、直径4ミリほどの淡紫色の小花を付ける。ただ、この木は花よりも冬季の美しい赤い実で人気を集めている。

 実は直径5~8ミリほどの球形で、この実を求めて野鳥が集まる。同じ仲間にモチノキ、ソヨゴ、ウメモドキ、タラヨウ、イヌツゲなど。これらの樹木も真っ赤あるいは黒光りする実が美しい。クロガネモチは材が堅く緻密なため、古くから櫛や印材、そろばんの玉、洋傘や農機具の柄などに利用されてきた。公害に強く病害虫も少ないことから街路樹や公園樹としてよく植栽される。縁起がいい木としても知られ庭木としての人気も高い。その名前が「金持ち」や「子持ち」に通じることによる。

 「市の木」や「町の木」としても人気が高い。岡山市では市の木クロガネモチを「アクラ」とも呼び、市内中心部にはその名を冠した「あくら通り」もある。福岡県内では福岡、大野城、古賀、中間、久留米の各市、愛知県では瀬戸、大府、江南各市がクロガネモチを市の木に選んでいる。他にも鹿児島県の霧島、薩摩川内両市、和歌山県御坊市、広島県大竹市、大分県中津市、宮崎県延岡市など。

 徳島県阿波市の「尾開(おばり)のクロガネモチ」は樹齢600年余といわれ県の天然記念物に指定されている。広島県指定の天然記念物、広島市の「正伝寺」と北広島町の「本地」のクロガネモチは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に苗木を持ち帰って植樹したと伝わる。この他、大阪府堺市の「方違神社」や静岡県磐田市の「甲塚(かぶとづか)」、愛知県武豊町の「白山社」、鳥取県南部町の「佐伯家」などのクロガネモチも府県指定の天然記念物になっている。

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<春日若宮おん祭> 古式ゆかしい伝統の「お渡り式」華やかに

2013年12月18日 | 祭り

【今年で878回目、総勢1000人余がお旅所まで】

 古くから大和の国で祭りといえば「春日若宮おん祭」(国指定の重要無形民俗文化財)を指した。平安時代の1136年(保延2年)に始まり1年も中断することなく今年で878回目。そのメーン行事の1つ「お渡り式」が17日、奈良市内中心部で繰り広げられた。華やかな時代装束を身にまとった総勢1000人余の大行列が目抜き通りを奈良公園内のお旅所まで練り歩いた。

 おん祭は春日大社の摂社・春日若宮神社の祭礼。若宮様はこの日未明の「遷幸の儀」で神社からお旅所の行宮(あんぐう)に遷られており、お渡りは芸能を奉納する人々がお旅所まで列をなして社参するもの。行列は正午、県庁前の登大路園地を出発し、近鉄とJRの奈良駅前を経て三条通りを東進した。その列は日使(ひのつかい)、猿楽、田楽、競馬、流鏑馬(やぶさめ)、野太刀、大和士(やまとざむらい)など、さらに郡山藩や南都奉行の大名行列など延々と続いた。

 

 

 三条通りを抜け春日大社の一の鳥居をくぐると「影向(ようごう)の松」。その前を通る際には「松の下式」といって、猿楽などさまざまな芸能を披露するのがしきたりになっている。参道では馬が2頭ずつ速さを競う「競馬」や馬上の稚児が3カ所の的に向かって矢を射る「稚児流鏑馬」も行われた。競馬は馬出橋からお旅所前までの参道を疾走し、流鏑馬では矢が命中するたびに参道を埋め尽くした観客から拍手と歓声が起きた。

 

 午後2時半からは「お旅所祭」が繰り広げられた。奏楽の中で神事が行われた後、社伝神楽や東遊(あずまあそび)、田楽、細男(せいのう)、和舞(やまとまい)など古くから伝わる芸能が次々と奉納された。おん祭が〝日本最古の伝統芸能の祭典〟といわれる所以もここにある。若宮様は午前零時までに神社にお戻りになるのが決まりで、深夜には「還幸の儀」が執り行われた。18日にはお旅所そばで「奉納相撲」と「後宴能(ごえんのう)」が行われ、15日の「大宿所詣」から丸4日間にわたったおん祭も諸神事全てが終了する。

  

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<生駒・宝山寺> 新年控え大注連縄を掛け替え、長さ6.5m・重さ400kg

2013年12月17日 | 祭り

【「六根清浄」「ソーレ」 と吊り上げ、華やかに舞う散華】

 今年も余すところ約2週間。大和路の社寺でも新年を迎える準備が始まった。「生駒聖天さん」と親しまれている生駒山中腹の宝山寺(生駒市)では16日、大鳥居に新しい注連縄(しめなわ)を飾る「大注連縄奉納」が営まれた。この注連縄、同寺青年会が20年ほど前から毎年もち米のワラで作って奉納しているもの。長さが約6.5メートル、重さは約400キロもある。

 奉納は午前10時半すぎ、両側に石灯籠が並ぶ参道を登りきった大鳥居の下で始まった。注連縄の前にはお供えの餅や野菜・果物。その前で袈裟をまとった僧侶が並び般若心経を唱和、その後も太鼓に合わせて読経が続いた。注連縄の吊り上げは11時前から始まった。

 

 注連縄は綱で鳥居の上部につながっており、そこから伸びた綱を信徒や参拝者が曳いて少しずつ吊り上げていく。僧侶の「六根清浄」の声に合わせ「ソーレ」と曳くこと10回余り。注連縄が鳥居の上部まで達すると、掛け替えの無事終了を祝うように注連縄の上から散華が宙を舞った。

 

 ハスの花びらをかたどった散華の表には「お彼岸万燈会」の模様が描かれ、裏には「大注連縄奉納記念」とこの日の日付が記されていた。鳥居の下の石畳は散華の色とりどりの紙片で埋め尽くされた。「注連縄は下をくぐるだけでご利益があります。新年もこの注連縄をくぐってお参りしてください」。こんな締めの挨拶の後、参拝者には紙袋に入った白餅2つが配られた。

 

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<大阪府立弥生文化博物館> 秋季特別展「吉備と邪馬台国―霊威の継承」

2013年12月15日 | 考古・歴史

【吉備の弥生文化、初期ヤマト王権に受け継がれた?!】

 弥生時代、肥沃な土壌と水に恵まれた古代吉備地方(岡山~広島東部)は稲作や製塩、製鉄などの農工業が極めて盛んだった。大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で開催中の特別展「吉備と邪馬台国―霊威の継承」(23日まで)は、出土した土器や祭祀遺物などを通じて、吉備と河内・大和の強い結び付き、初期ヤマト王権に与えた影響などを掘り起こす。

 

 会場は5つのコーナーで構成されている。「吉備弥生文化の成立と発展」「吉備のマツリと呪的世界」など第1~4章では岡山県内の遺跡から出土した特徴的な土器類を中心に展示。最後の第5章「吉備と邪馬台国」では奈良の纏向遺跡や箸墓古墳、唐古・鍵遺跡、大阪の久宝寺遺跡などの出土品を展示している。

   

 吉備では銅鐸や武器形青銅器の出土が少ない半面、分銅形土製品や絵画土器、龍形土製品など独特な祭祀遺物が多いのが特徴。河内・大和の遺跡からも吉備系の甕(かめ)や分銅形土製品が出土しており、両地域の強い結び付きを示す。また不思議な弧帯文(こたいもん)や撥形文(ばちがたもん)も特徴の1つだが、こうした文様の壷なども奈良の唐古・鍵遺跡などから見つかっている。(上の写真左から彩文土器(台付細頸壷)=岡山市・百間川原尾島遺跡、分銅形土製品=岡山市・加茂政所遺跡、龍形土製品=倉敷市矢部出土)

 弥生時代後期、岡山平野西部の足守川流域で巨大な楯築(たてつき)墳丘墓が築かれた。そこで行われた墓上祭祀には高さが1mを超える特殊器台が使われた。こうした巨大な器台は吉備地域で集中的に出土しており、筒部には孤帯文が描かれたものが多い。その巨大さと壮麗な装飾で葬送の場の威儀を整える目的があったのではないかとみられている。(下の写真の特殊器台の出土場所=左から倉敷市・楯築墳丘墓、新見市・西江遺跡、倉敷市・矢部堀越遺跡、奈良県橿原市葛本弁天塚古墳)

    

 吉備で創り出された特殊器台は卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳をはじめ古墳時代初期の前方後円墳にも導入された。ただ古墳時代の円筒埴輪には吉備で特徴的だった弧帯文が描かれていない。「それは古墳時代以降、ヤマト王権の発展の影で徐々に存在感を失っていく吉備の姿と重なるように思える」という。このヤマト政権が邪馬台国を母体に生まれたかどうかは別にして、吉備の弥生文化が古墳時代初頭の大和に大きな影響を与えたのは間違いないようだ。

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<ノジギク(野路菊)> 日本固有の野生菊、清楚な中にたくましさも

2013年12月14日 | 花の四季

【兵庫県の県花、近畿以西の瀬戸内、太平洋側に群落を形成】

 日本固有のキク科の多年草。10月下旬から12月にかけて、直径3~4cmの白花を付ける。花弁の枚数は13枚から20枚ほどと様々。中央には黄色の管状花が密生する。草丈は60~90cm。たまに外側の花弁が黄色のものもあり「キバナノジギク」と呼ばれている。ノジギクは栽培菊の原種ともいわれる。

 ノジギクの命名者は植物学者・牧野富太郎博士。約90年前の1924年に発見し、兵庫県姫路市の大塩・的形地域が国内最大の大群落地であることが確認された。ノジギクは近畿以西の瀬戸内、太平洋側の海辺や内陸の山麓に自生する。兵庫県が北限とされており、県は約60年前に「県の花」と定めた。2006年に兵庫県で開かれた国民体育大会もその県花にちなみ「のじぎく国体」と名付けられた。

 ただ開発に伴って野生種は減少傾向。岡山、香川、熊本各県では近い将来に絶滅の恐れが極めて強い絶滅危惧Ⅰ類に指定され、兵庫県でも準絶滅危惧種になっている。姫路市内には大塩・的形、馬坂峠、日笠山などに群落があるが、地元では有志が「大塩のじぎく保存会」をつくり保護活動に取り組んでいる。ノジギクの変種にアシズリノジギク、セトノジギク、奄美大島のオオシマノジギクなどがある。

 「父母が殿の後方(しりへ)のももよぐさ 百代(ももよ)いでませ我が来るまで」(万葉集・防人の歌)。私が戻ってくるまでいつまでもお元気で――。この歌に登場する「ももよぐさ(百代草)」については菊や露草など諸説あるそうだが、菊が最も有力という。奈良・春日大社内の万葉植物園ではこの歌とともに「ももよぐさ」をノジギクとして紹介している。

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<BOOK> 「工芸の四季―愛しいものがある生活」

2013年12月13日 | BOOK

【文=澤田美恵子、写真・デザイン=中野仁人、京都新聞出版センター発行】

 文と写真を担当したお2人はいずれも京都市出身で京都工芸繊維大学の教授。専門は澤田氏が言語学と伝統工芸、中野氏がグラフィックデザイン。本書は2012年4月から今年3月まで丸1年365日にわたって京都新聞の1面題字下で連載したものを書籍化したもの。日々の暮らしに溶け込んだ工芸品を美しい写真と簡潔な文章で紹介しており、「民芸運動」推進者・柳宗悦が唱えた〝用の美〟という言葉を改めて想起させる1冊となっている。

   

 取り上げた分野は実に幅広い。キセル、印籠、文楽人形、釣竿、黒谷和紙、和鏡、ぽち袋、和綴じ本、和傘、竹垣、茶筅、鉄瓶、茶筒、すす竹の箸、蕎麦猪口(そばちょこ)、束子(たわし)、がま口、髪飾り、行灯……。もちろん西陣織や京友禅、京漆器、京七宝、清水焼、京ろうそく、京仏壇など、地元京都の伝統工芸品も盛り込まれている。

 例えば1月をみると――。元日の「蓬莱模様 飾り扇」に始まって神楽鈴、百人1首、押絵羽子板、注連縄(しめなわ)と続く。その後も奴凧やゑびす飾り、京弓、飾り餅、浜独楽、留袖、市松人形、狛犬など1月にふさわしいものが選ばれている。そして、それぞれの写真には5行100文字余りの説明文が添えられている。

 いずれも職人の匠の技が凝縮した逸品ばかり。中でも京和傘の内側開閉部や花火のような金網製の豆腐すくい、黒漆の女性用の下駄などにははっとするような美しさが漂う。ちなみに今日12月13日の項に取り上げているのは「旅持(たびもち)香箱」。小さな香炉、香木、香割り道具がセットに。旅先で香を聞く、とはなんと優雅な!

 書籍化に当たって、新たに澤田・中野両氏に静岡文化芸術大学学長の熊倉功夫氏が加わった特別鼎談や、「箔画」作家・野口琢郎氏ら若手工芸家・芸能師3人のインタビュー記事も織り込んだ。鼎談の中で熊倉氏は茶道や武道同様、ものづくりの世界でも〝守破離(しゅはり)〟が大切と説く。「まねることは誰でもできます。その後は自分で自分の生き方を切り拓いて、新たな境地に達していただけたら」。

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<BOOK> 「素顔の新美南吉―避けられない死を前に」

2013年12月12日 | BOOK

【斎藤卓志著、風媒社発行】

 童話「ごんぎつね」や「手袋を買いに」で知られる新美南吉は1913年(大正2年)現在の愛知県半田市で生まれ、1943年(昭和18年)結核のため短い生涯を閉じた。今年はちょうど生誕100年、そして没後70年の節目に当たる。本書は南吉自身の日記や多くの聞き書きを基に、作品の生まれた背景やあまり知られていない人となりを丹念に掘り起こした。

    

 代表作「ごんぎつね」が児童雑誌「赤い鳥」に入選し、掲載されたのは南吉18歳のとき。その頃、南吉が生涯兄代わりと慕う巽聖歌(1905~73)に出会う。巽は童謡「たきび」の作詞者として知られる。南吉は巽の紹介で初めて北原白秋に会った。その時の喜びを白秋宛ての手紙にこう記す。「先生のお宅にあがってから、先生が、僕を『新美君』と仰有ったときも、うれしくて、返事も出来ないほどでした」。童話作家として南吉の名が戦後広く知れ渡るようになったのも、1つは巽の尽力によるといわれる。

 南吉はその後、東京外国語学校英語部文科に進む。ただ自分の進路については思い悩んでいたようだ。日記に「三つの道に迷ふ。英文学にゆくか、児童文学に行くか、小説にゆくか」と書いた。南吉の日記は9歳の綴り方帳に始まって約20年に及ぶ。その目的について「将来私が小説を書く時私の日記が何かの役に立つやうにと思ふがためである」と記す。著者も「ゴールは小説を書く作家としての生活だった」とみる。

 だが南吉には健康への不安が付きまとった。18歳の時には「我が母も我が叔父もみな夭死せし我また三十をこえじと思ふよ。」と詠んでいる。著者は「18歳の南吉が漠然とした形にしても死を意識していたことは重大である」という。そして、21歳の時、初めて喀血する。さらに23歳で2回目の喀血。この間に「墓碑銘」というタイトルの詩も作っている。「結核は死と同義語の時代だった」(著者)。作家や歌人にも結核で若くして逝った人が多い。樋口一葉(享年24)、石川啄木(26)、中原中也(30)、正岡子規(34)……。

 南吉は25歳の時、愛知県安城高等女学校の新任教師として1年生の担任になった。専門は英語だが、一番力を入れたのは作文だったといわれる。暇さえあれば生徒の作文を読み、点数をつけ評言を記して生徒に返した。添削で一番多く使った言葉は「実感」だったという。「実感がない」「実感がうすい」……。「大事なのは自分が受けた感じというわけだ」(著者)。

 南吉は初めて受け持った生徒たちを4年後に卒業するまで担当し送り出した。「途中で担任交代の話が出たとき全員が泣いて拒んだ」という。先生としていかに慕われていたかが目に浮かぶ。南吉は生徒に原稿の清書も手伝ってもらっていた。生涯独身だったが、女性に関心がなかったわけではない。強く惹かれた女生徒もいたらしい。その経緯は本書の中でわざわざ1章を立てた「先生の恋」に詳しい。

 「南吉の童話作家としてのピークはこのあと、昭和17年5月に来る。ふり返ると死まで1年を切ったときにはじまる」(著者)。巽聖歌も「最後の1年のために、短かった全生涯を賭けた」と表現する。とりわけ3~5月には精力的に執筆し、「おぢいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」など9作品を執筆した。その1年後の3月、喉頭結核のため永眠。29歳と7カ月だった。皮肉にも18歳の時詠んだ歌の通りになってしまった。

 直後、学校の中央廊下に南吉が「絶筆」と鉛筆書きした一文が張り出されたという。「皆んなと一緒に行った遠足は楽しかった。とても嬉しかったよ。そんな君達に石頭だとかザル頭だとか悪口言ったり叱ったりして悪かった。許してくれたまえ」。南吉の優しさ、温かさが伝わってくる。音楽も好んだ南吉は生前「(チャイコフスキーの)アンダンテ・カンタービレのような(文学)作品を書きたい」とも言っていたそうだ。

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<京都国立近代美術館> 「皇室の名品」展、11日から後期入り

2013年12月11日 | 美術

【代々引き継がれてきた近代日本美術の〝粋〟一堂に】

 京都国立近代美術館(京都・岡崎公園内)で11月から約2カ月間の会期で開催中の「皇室の名品」展(1月13日まで)は一部展示替えして11日から後期に入る。本展は京都だけの開催で、展示作品は宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵品を中心に前後期合わせ約180点。明治宮殿に調度として飾られたもの、皇室の慶祝行事に合わせ献上されたものなど、選りすぐりの美術・工芸品が一堂に展示されている。

 

 会場は明治・大正・昭和の作品を皇室コレクションに加わった経緯から6つのコーナーで構成されている。最初の第1章「宮殿装飾」の豪華な雰囲気と華やかな作品群は息をのむほど。1888年(明治21年)に完成した明治宮殿(1945年に焼失)の広間を再現しており、優美な大型花器など実際に宮殿を彩っていた作品が並ぶ。前期壁面に飾られた二代川島甚兵衛作の綴錦壁掛け「百花百鳥之図」(上の写真)や十二代西村總左衛門作「嵐図天鷲絨友禅壁掛」は、後期に入って三代川島甚兵衛作「春郊鷹狩・秋庭観楓図」、十三代西村治兵衛作「平等院鳳凰堂図綴織壁掛」に切り替わる。

 

 第2章「明治期の美術工芸と博覧会」は1900年のパリ万博に合わせ、天皇の御下命によって帝室技芸員の手で制作された作品が中心。並河靖之「七宝四季花鳥図花瓶」、荒木寛畝「孔雀之図」、下村観山「光明皇后」、橋本雅邦「龍虎図」、高村光雲「矮鶏置物」……。第3章「皇室と官展」には1907年に始まった文展と改組した帝展に出品され、皇室お買い上げとなった作品が並ぶ。前期には西村五雲の「秋茄子」(上の写真㊧)や木島桜谷の「月夜帰牧之図」などが出品されていたが、後期にも上村松園の「雪月花」(上の写真㊨=部分)や川合玉堂の「雨後」などの逸品が展示される。

 

 第4章「慶祝の美」は大礼(即位)や立太子礼(成年式)、ご成婚などで献上された作品群。ここにも富岡鉄斎、竹内栖鳳、川端龍子、鏑木清方、前田青邨、堂本印象、河井寛次郎ら著名な画家、工芸家、陶芸家の作品がずらりと並ぶ。第5章「皇室と日本美術院」は横山大観の作品(上の写真は「朝陽霊峰」)が中心、最終の第6章「御肖像と大礼」には明治~昭和の各天皇や皇后の肖像、天皇即位の「大饗の儀」で使われた「悠紀・主基地方風俗歌屏風」なども展示されている。

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<奈良国立博物館> 特別陳列「おん祭と春日信仰の美術」展

2013年12月09日 | 美術

【絵巻物や舞楽面・装束、文献史料……「大和士」にも焦点】

 今年も奈良の歳末を彩る「春日若宮おん祭」(15~18日)が近づいてきた。「日本最古の文化芸能の祭典」といわれるおん祭も今年で878回目。奈良国立博物館ではこれに合わせて特別陳列「おん祭と春日信仰の美術」展が始まった。「おん祭―春日若宮神に仕え奉る」「大和士(やまとざむらい)―奉仕の伝統と格式」「春日信仰―春日の神と仏への祈り」の3部構成で、風流行列を描いた絵巻や舞楽の面・装束、古い文献史料などが展示されている。来年1月19日まで。

 「春日若宮御祭礼絵巻」(上の写真=部分)は17世紀の作で3巻からなる長大な絵巻。大宿所での御湯立神事や風流行列、流鏑馬・相撲などお旅所での奉納芸能などが色鮮やかに描かれている。このほかにも江戸時代の祭りの様子が描かれた「若宮祭お渡り絵巻」「春日若宮祭典式古図」「春日若宮祭礼図・鷹狩図屏風」などが並ぶ。

 「舞楽面納曾利(なそり)」(写真㊧)は平安時代12世紀の作で重要文化財。龍をかたどった吊り顎の面で、目をカッと見開き牙をむき出した怪異な相貌。高麗楽(こまがく)の伴奏による〝右舞〟を代表する演目「納曾利」でこの面を付けて舞う。面の右側の写真はその装束。唐楽による〝左舞〟の演目「散手(さんじゅ)」の面・装束も展示されている。

     

 今年の特別陳列は明治以前まで祭りに奉仕してきた「大和士」にも焦点を当てている。江戸時代には「願主人」と呼ばれる特定の家筋によって祭りが担われ、彼らは自らを大和士と呼んだ。明治以降は旧春日社・興福寺領の人たちによって結成された講社が伝統を引き継いでいる。「隋兵(ずいひょう)甲冑」(写真)は流鏑馬を奉納する大和士のうち警護役が身に着けた当世具足。鮮やかな朱漆の色が目を引く。(写真㊨は春日鹿曼荼羅=北京終町春日講所蔵)

 「大和士仲間規定書」は16条からなり「賭博は禁止。また評判の悪い輩と関係を持ち雑談してはならない」など日常の心得を細かく定めている。その冒頭には「戦国の乱世に退廃しかけた春日若宮祭礼は東照神君(徳川家康)の力添えで往古の姿を取り戻した」とある。明治維新に際し江戸時代同様の地位を求めた嘆願書「維新に付大和士口上覚」の中にも「徳川家の時代に祭礼は盛儀を取り戻し……破損していた装束や諸道具も徳川家の手で修復された」。これらの文面から、おん祭も一時低迷し華やかさを失っていた時期があったことがうかがえる。

 おん祭を支えてきた春日信仰の広がりを示すものとして、「秋草蒔絵手箱」「銅鏡」「禽獣葡萄鏡」「春日本迹(ほんじゃく)曼荼羅」(いずれも重要文化財)なども出品されている。このうち「銅鏡」は11~12世紀のもので直径30cmの神宝。5面のうち4面は黒こげになったり一部が破損している。1382年の火災によるものという。

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<奈良大学世界遺産講座> 「岡倉天心の法隆寺金堂壁画保存建議書」

2013年12月08日 | メモ

【西山要一教授「文化財保存科学はここから始まった」】

 奈良市のならまちセンターで7日「岡倉天心の法隆寺金堂壁画保存建議書―日本の文化財保存科学ここに始まる」と題した講演会があった。7~8日の2日間にわたって「法隆寺」をテーマに開催中の連続講座「奈良大学世界遺産講座」の1コマ。講師の文学部文化財学科の西山要一教授は「日本の文化財保存科学は法隆寺金堂の壁画保存方法の研究から始まった。それを後押ししたのが100年前の1913年(大正2年)、岡倉天心(写真㊨)の提案を受けて古社寺保存会が文部省に上申した建議書だった」などと話した。

   

 天心は建議書の中で、金堂壁画を「世界ニ知ラレタル東洋各国壁画中最モ優秀……之ヲ永遠ニ保存スベキ方法ヲ講究スルハ極メテ必要ナルコト」とし、そのために「各方面ノ智識ヲ集メタル委員ヲ設ケテ」国の費用で十分研究するよう訴えた。保存科学は様々な分野にまたがる学際的な学問。西山教授はこの建議書の内容、とりわけ「多方面の智識」を「極めて先進的だった」と評価する。

 この建議書上申を遡ること40年余。江戸から明治に変わる直前の1868年(慶応3年)春、神仏判然令(神仏分離令)が出された。これをきっかけに全国で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。経済基盤を失った多くの寺院は仏像や書画を売り払い廃墟と化した。法隆寺も伽藍が荒廃、仏像の盗難も相次いで存亡の淵に。宝物を皇室に献納し、その恩賜として1万円が下賜されたこともあった。135年前の1878年のこと。その1万円、今なら、いくらぐらいになるのだろうか。

 1880年代、天心は師のフェノロサらと共に度々、宝物などの調査に訪れた。「近年其ノ頽廃日ニ甚シク若シ今日ニ及ンデ適当ノ措置ヲ為サズンバ此ノ貴重ナル国宝モ竟(つい)ニ絶滅ニ帰スルノ患アリ」。建議書上申の背景には天心らのこうした危機感があった。国は建議から3年後、建築・美術・考古・科学・生物など多様な分野に及ぶ保存方法調査委員会を設置した。「現代の保存科学・文化財科学の〝祖形〟がここにある」。

 保存調査は壁画の写真撮影から顔料の科学分析、金堂内の温度・湿度の変化、壁面のカビの調査など多岐にわたった。これらを踏まえ、石膏や埋針、天然樹脂などを使った壁画の補修試験などが繰り返された。同時に壁画の模写作業も続けられた。補修や解体、模写は気温・湿度の変化の少ない春と秋に限られていたが、戦後になると模写作業は季節を問わず行われるようになった。

 そして1949年1月26日早朝。覆い屋内の金堂から出火し、壁画も炎に包まれ類損してしまう。金堂の炎上で壁画も全てを失ったかと思えた。だが、色を失い損傷したものの、モノクロ写真フィルムのような姿で残っていた。「天心の提案による保存方法調査による学際的研究の成果と、新たな保存科学の研究成果を生かして、焼損壁画は今に伝えられている」。

 西山教授は講演の最後をフェノロサの歴史的講演「奈良の諸君に告ぐ」で締めくくった。宝物調査のため奈良を訪れた1888年6月5日、浄教寺(上三条町)で行われた。フェノロサは岡倉天心の通訳で奈良市民にこう訴えた。「奈良の古物はひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、日本の宝、いや世界の貴重な宝なのであります。その保護・保存は奈良の皆さんが尽くすべき義務であり、その義務は皆さんの栄誉でもあります」。

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<作家・玄侑宗久氏> 『「両行」と「不二」の国』と題し講演

2013年12月06日 | メモ

【南都二六会主催の仏教セミナー「いのちのおしえ」で】

 作家で臨済宗妙心寺派福聚寺(福島県三春町)の住職、玄侑宗久氏の講演会が5日、奈良市のならまちセンターで開かれた。奈良の中堅寺院でつくる南都三六会(岡崎良昭会長)主催で、演題は『「両行(りょうこう)」と「不二(ふに)」の国』。柔軟な思考で物事に対処してきた日本人特有の心のかたちを「両行」と「不二」という2つのキーワードを基に分析した。

   

 玄侑氏はまずルース・ベネディクト著の「菊と刀」を取り上げながら、「日本人は相対する一方を選ぶのではなく、両方とも認めてきた」と話す。その例として長く権威を保ったサムライと貴族、わび・さびに対する婆娑羅・伊達、さらに相反する多くの諺を並べた。「善は急げ」と「急がば回れ」、「栴檀は二葉より香ばし」と「大器晩成」、「二兎を追うもの一兎をも得ず」と「一石二鳥」……。漢字が中国から入ってくると、それに固執せず仮名も作り出した。

 「とにかく日本には正反対のものがいっぱいある。両極端のものを並べ、その時々に直感で決めてきた。〝両行〟は日本人の心そのもの」。日本人特有の正座は主君のためいつでも立ち上がれる武士座りと膝を組む安座の中間の座り方として「発明された」。「正座によって日本人の心は育まれたのではないか。正座しなくなったら中国人や韓国人と同じになってしまう。何とかして(正座というしきたりを)守りたい」とも話す。

 日本人はあえて対抗するものを作り上げ両方を認めてきた。その一方で2つを1つにまとめ上げる「不二」の思想も大切にした。「和」のこころである。「不二」は仏教の経典「唯摩経(ゆいまきょう)」に出てくる根本思想で「互いに相反する2つのものは別々に存在するものではなく、もとは1つのもの」と説く。物事を考える際も良い・悪いという二元論ではなく、まず〝無分別〟になることが全体を俯瞰して考えることにつながるという。

 「徳川家康はこの不二の考えを全国統一に生かそうとした」。関ケ原に勝利した家康はまず富士山浅間神社を武田信玄が植樹した桜の木を残して全面的に改修した。御用絵師・狩野探幽は「不二」や「不尽」とも呼ばれた富士山を理想郷として多く描いた。玄侑氏は「漆器を作る工程こそ、まさに両行と不二」とも言う。木地に漆を塗り乾燥させ炭で研ぐ。その作業を何回も続ける。玄侑氏は最初見ていて「徒労ではないか」と思ったそうだ。だが作業が繰り返されるうちに〝ほのかな輝き〟が出てきた。「日本人が求めてきた輝きがそこにあった」。

 玄侑氏は最後に柿本人麻呂が詠んだ歌1首を紹介した。「玉かぎるきのふの夕(ゆふべ)見しものを けふの朝(あした)に恋(こ)ふべきものか」。「また会いたいけど会えない。2つの気持ちがせめぎ合う中で出てくるほのかな輝きがここに歌われている」。古くから培われてきた日本人の心のかたちがこの歌に集約されているということだろう。

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<ミツバハマゴウ(三葉蔓荊)> 枝先に紫色の小花からなる円錐花序

2013年12月05日 | 花の四季

【南九州~沖縄に自生、鹿児島県では準絶滅危惧種に】

 クマツヅラ科(最新のAPGⅢの分類ではシソ科)の常緑低木で、名前の通り1枚の葉っぱが3つの小さい葉に分かれた〝三出(さんしゅつ)複葉〟になっているのが特徴。葉の表面は緑色だが、裏面は灰白色。枝先に淡紫色の小花をたくさん付けた円錐花序を形成する。花期は夏場を中心に結構長い。京都府立植物園では11月下旬になってもまだ多くの花と蕾を付けていた。

 ミツバハマゴウの分布域は南日本から熱帯アジア、オーストラリアとかなり広い。国内では九州南部~沖縄の海岸から少し内陸部に入った明るい林縁部に自生する。一方、同じ仲間のハマゴウは本州、四国、九州の海岸の砂浜に生え、地面を這うように茎を伸ばす。和名のハマゴウも「ハマハウ」からの転訛といわれる。「蔓荊」は漢名から。漢方で乾燥させた実は「蔓荊子(まんけいし)」と呼ばれ、頭痛や風邪などに用いられる。

 ハマゴウは漢字で「浜栲」とも表記される。「栲」は和紙の原料となるコウゾ(楮)の古名。ハマゴウは葉に精油成分を含み芳香を発散することから、かつてはお香や線香の原料としても利用された。そこから和名の由来も「浜香」からという説もある。最近、ミツバハマゴウの園芸品種が「プルプレア」の名前で流通している。これは葉の裏が灰白色ではなく濃い紫色なのが特徴。

 ミツバハマゴウは鹿児島県で準絶滅危惧種に指定されている。西表島と石垣島にはミツバの変種で、5枚からなる複葉を持つ「ヤエヤマハマゴウ」が自生する。沖縄県指定の天然記念物だが、これも絶滅が懸念されている。環境省のレッドリスト1997年版には準絶滅危惧種として掲載されていたが、最新の2007年版では絶滅の危険性が高まったとして絶滅危惧ⅠA類に移された。

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<BOOK> 「ミツバチの会議 なぜ常に最良の意思決定ができるのか」

2013年12月04日 | BOOK

【トーマス・シーリー著、片岡夏実訳、築地書館発行】

 人類が有史以前からその蜂蜜や蜜蝋などのお世話になってきたミツバチ。そのハチたちは春から夏にかけ分蜂(巣分かれ)し、新天地に新しいコロニーを作る。新居をどこにするかという選択は群れにとって生死に関わる重大事。本書はその場所探しの決定がいかに民主的に行われているかを、長年の追跡調査を基に明らかにした。極小さな脳しか持たないミツバチたちが進化の末に身に付けた〝分蜂群の知恵〟にはただ驚くばかりだ。

   

 著者シーリーは1952年生まれで、米コーネル大学の生物学教授。ドイツのリンダウアー教授が1950年代に始めたミツバチの家探しの研究を引き継ぎ、その研究によりハーバード大学で博士号を取得している。ミツバチの好みを探るために作った巣箱は252個に達し、何千匹ものハチに1匹ずつ背中にラベルを貼って、新しいすみかの探索バチや働きバチの動きを観察してきた。

 ハチの〝尻振りダンス〟は今では広く知られる。蜜源の花を見つけたハチは巣に戻ると仲間にダンスでその方向と距離を伝えるというものだ。その発見は40年前のノーベル生理学・医学賞につながった。分蜂群の探索バチも巣作りの候補地を見つけたらダンスで知らせる。ただ何カ所もの候補地の中から最適な場所をどのように決めるかは分かっていなかった。シーリーはその謎を解き明かした。

 分蜂群は1匹の女王バチと約1万匹の働きバチから成る。元の巣から飛び出ると近くの木の枝などに塊となって数時間から数日間ぶら下がったまま。その間に数十匹の探索バチが山野のあらゆる方向に飛び立ち約5キロ四方にわたって新居の候補地をくまなく探す。ハチは入り口の広さや高さ、空洞の容積などから総合的に評価し、それぞれ巣に戻って仲間にダンスの強さと周回の多さで報告する。

 そのダンスを見たまだ支持する場所のない中立の探索バチは、自ら候補地に行って確かめ評価したうえで、巣に戻り同様にダンスをする。「優れた候補地を支持する探索バチは、劣った候補地の支持者に比べて長く、そして『声高』に支持を表明する」。やがて多くの候補地の中からより良いものがダンスを独占し、最後は全員一致で新しい巣作りの場所が決まる。この後、探索バチは分蜂群のハチたちに〝飛行筋〟のウオーミングアップを促し、体が温まると一斉に飛び立つ。

 著者は「ミツバチの家探しは、意思決定集団が正確な合意形成を行い、なおかつ時間を節約する賢明な方法を示している」「興味深いのは、探索バチはこのすべてを、リーダーによる指図なしでやるということ」「探索バチはみな、どちらかと言えば質が低い選択肢でも、自分の発見したものを遠慮なく主張することも注目に値する」と指摘する。

 新居の場所を知っている僅か数%の探索バチが、1万匹もの分蜂群全体にどう情報伝達し誘導するのかなど謎も残っているものの、その合意形成の方法は多くの教訓を含む。著者自身もミツバチから学んだ意思決定の方法を、大学での月1回の教授会で応用し、その効果を実感しているという。この本を通してミツバチがより身近な愛すべき存在になってきた。

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