く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

〈大鳥神社「花奪い神事」〉 「神花」で飾られた花傘を青竹で乱打!

2024年07月25日 | 祭り

【花笠姿の愛らしい子どもたちの太鼓踊りも】

 滋賀県甲賀市甲賀町の大鳥神社で7月23~24日、無病息災や五穀豊穣を願って「大原祇園祭」が執り行われた。24日は前夜の宵宮祭に続いて本祭。「花奪い(はなばい)神事」が一番の見どころで、この祇園祭は県指定無形民俗文化財にもなっている。

 本祭は花火の号砲で午後3時から始まった。朱塗りの楼門前には白装束で鉢巻き姿の男衆約50人がずらりと整列。その間を花鉾を先頭に、太鼓踊りを奉納する子どもたち、赤い造花の「神花(しんか)」で飾られ酒樽を乗せた花傘が進む。

 太鼓踊りの踊り子は花笠を被り、和太鼓を「トントト、カカカ」と打ち鳴らしながら進んだ。昼過ぎ一時雨が降ったこともあって、太鼓は透明のビニールシートで覆われていた。

 楼門は京都⋅八坂神社の西門を模したもの。花傘はその楼門を潜って神輿が安置された拝殿へ。そこで酒樽などを奉納した後、再び楼門に姿を現した。

 境内の入場順は毎年、第1番が氏子総代を務める地区。第2番以降はくじ引きで決まる。今年は第1番が大原上田。その後に大原中、高野、大久保、大原市場、鳥居野、神、相模、櫟野と続く。

 いよいよ花奪いの始まりだ。第1番の花傘が笛の合図で石段を駆け下りて男衆の間へ。すると、一斉に青竹による集中攻撃を始まった。

 大鳥神社の祭神は素盞鳴命。花奪いは素盞鳴命のヤマタノオロチ退治に由来するという。花傘は数往復する間に竹の棒でしこたま叩かれ、「そこまで」という笛の合図で観客側に倒された。

 赤い造花「真花」には無病息災や家内安全のご利益があるという。参拝者たちは花傘が倒れるやいなや、我先に駆け寄り競って花を奪い合っていた。

 祭りを支えるのは旧大原村の氏子地域9地区。花傘は各地区から6基ずつほど奉納された。9地区を合わせると50基ほどに。

 花奪いは1時間20分ほど繰り返し行われた。この間に抱えきれないほどの花をゲットした人もいた。

 楼門前で花奪いが繰り広げられる最中、本殿や拝殿の前では子どもたちによって太鼓踊りが奉納された。輪になって和太鼓を打ち鳴らし、「インヨーソーライ(陰陽栄)」の掛け声で輪の中央で太鼓の胴をぶつけ合っていた。

 踊り子はかつて男児に限られていたそうだが、今は女児も加わった地区も見られた。踊り終えた子どもたちにはアイスクリームなどが配られ、親御さんが「お疲れ」というように団扇であおいでいた。

 花奪いの後は氏子総代や役員による楼門からの粽(ちまき)投げ。笹の葉でくるまれた粽の中には当たり券も。当たると酒樽がプレゼントされる。

 当たりの確率は結構高かったようだ。この男性は仲間5人で手にした10個ほどの粽の中に当たり券が4枚も入っていた、と見せてくれた。別の男性は一人で3つの酒樽を持っていた。

 粽神事に続いて神輿の渡御が行われた。担ぐのは花奪いで奮闘した白装束の男衆。汗だくになりながら「ワッショイ、ワッショイ」とお旅所まで担ぎ、獅子頭が沿道の人たちの頭を噛んでいた。

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〈散策「新薬師寺~中の禰宜道」〉 実忠の歯塔、縁切り⋅縁結び寺┄

2024年07月21日 | メモ

【新薬師寺の五重の石塔】

 薬師如来坐像を本尊とし、国宝十二神将像で広く知られる新薬師寺(奈良市高畑町)。その本堂に向かう途中、左手に五重の石塔が立つ。いつも一瞥して通り過ぎていたが、その前にある石柱を見るとこう刻まれていた。「實忠和尚御歯塔」。えっ、なぜここに?

 実忠は東大寺の開山、良弁(ろうべん)僧正に師事し、二月堂を創建してお水取り(修二会)を始めたというお坊さん。新薬師寺は元々、聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が建立した。それにしても歯を安置した塔だったとは!

【お水取りのお松明を橋の欄干に再利用!】

 その新薬師寺の庫裡の前にある池に「観楓橋」という小さな橋が架かる。苔むした欄干の向かい側の片方は長く大きな1本の竹だった。そこには「奉納 二月堂 家内安全」との墨書があり、寄進者の住所と氏名も記されていた。お水取りで使われたお松明を譲り受けたという。

【鏡神社の本殿は春日大社の旧本殿第三殿】

 新薬師寺の山門すぐ南側に鏡神社が鎮座する。その本殿は“春日移しの社”と呼ばれる。春日大社の第46次式年遷宮(1746年)の際、旧本殿のうち第三殿を譲渡したとの記録があり、それを裏付けるように鏡神社で1959年に修理したとき屋根裏から「三ノ御殿」という墨書銘が見つかった。奈良市指定文化財になっている。

【古都の風情を残す石垣にブルーシートが!】

 新薬師寺東側の小道には石垣や土塀が続く。古代の街道「山の辺の道」の一部を成し、古都の情緒が今も残る。ところが前方の道路脇がその風情を壊すブルーシートで覆われていた。梅雨の大雨で石垣が崩れたのだろうか。「塀⋅石垣キケン 通行注意」という紙が何枚も貼られていた。

【道端に「水草 無料」ホテイアオイなど】

 先に進むと水草が入った発泡スチロールが2つ置かれていた。その上には「水草(アナカリス ホテイアオイ)無料」と書かれていた。アナカリスは熱帯魚などの水槽でよく使われる水草で、正式名をオオカナダモという。この2つの水草は環境省が「重点対策外来種」に指定し、日本生態学会による「日本の侵略的外来種ワースト100」にもなっている。このため「水草 無料」の横にも「池や川への投棄厳禁」と注意を呼び掛けていた。

【不空院、縁切りと縁結びの神様が隣り合わせ】

 不空院は鑑真ゆかりの真言律宗の古刹。不空羂索観音坐像(重要文化財)を本尊とし、古くから「縁切り寺/駆け込み寺」としても信仰を集めてきた。本堂正面の左脇には「縁きりさん」(法竜大善神)と共に「縁結びさん」(市岐姫大神⋅黒竜大神)の祠が仲良く並ぶ。

【中の禰宜道、立ち枯れの杉(?)の巨木!】

 「中の禰宜道」はかつて禰宜(神官)たちが社家町から行き来した道で、春日大社の二の鳥居に通じる。道の両側には原生林が広がり、小川のせせらぎが涼やかな音を奏でる。そんな中、ひときわ目立つ立ち枯れの巨木があった。観光客で溢れにぎやかな参道とは対照的に、この道は昼間でも通る人が少なく森閑としている。

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〈祇園祭神幸祭〉 神輿3基、勇壮に御旅所へ渡御

2024年07月18日 | 祭り

【「ホイット、ホイット」沿道からも手拍子と掛け声】

 京都の夏を雅に彩る祇園祭の前祭(さきまつり)が17日都大路で華やかに繰り広げられた。日中の山鉾巡行に続く神幸祭の神事の後、夕刻からは四条通の御旅所まで神輿3基の渡御が行われた。

 神輿渡御は午後6時から。八坂神社のシンボル、朱色の西門の石段下に神輿3基が勢揃いし出発式が行われる。石段はその様子を上の方から見物できる“特等席”。2時間前には多くの人で既に埋め尽くされ、境内も身動きがままならないほどごった返していた。

 午後6時すぎ、神輿を先導する行列がやって来た。先頭は「豊園泉正寺榊」。神様を遷した神輿の進路を清める役割を担う。かつては3基の神輿にそれぞれ榊台があったが、今では泉正寺町の1基だけになったという。

 その後、白馬に乗ってやって来たのは綾戸國中神社のお稚児さん。胸の前に馬の首の彫り物「駒形」を掲げており「久世駒形稚児」と呼ばれる。

 盾や矛など神宝を掲げて進むのは八坂神社のお膝元祇園町の氏子組織「宮本組」。今年は「志丁組」というボランティア組織も立ち上げ、参加者を公募した。神宝奉持列に続いて神輿が「三若神輿会」の旗を靡かせながら現れた。

 この神輿は「中御座神輿」と呼ばれ、八坂神社の主祭神素戔鳴尊が乗る。四若神輿会の「東御座神輿」は櫛稲田姫命、錦神輿会の「西御座」は八柱御子神。重さは2~3トンもあるそうだ。

 石段下を出発した各神輿はそれぞれの順路で氏子地域を巡行。途中で神輿を高く持ち上げる“差し上げ”などを披露した。

 神輿は3時間ほどかけて御旅所へ。威勢のいい「ホイット、ホイット」という掛け声と「シャン、シャン」という神輿の鈴の音が夜遅くまで鳴り響いた。神輿は後祭の山鉾巡行が行われる1週間後の24日に神社へ戻る。

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〈人形作家永瀬卓さん〉 平城宮いざない館夏期企画展「万葉挽歌(レクイエム)」開幕

2024年07月14日 | 美術

【万葉集の登場人物中心に31体、中学教師定年後独学で!】

 平城宮跡歴史公園内の平城宮いざない館で夏期企画展「万葉挽歌(レクイエム)―人形からみる古(いにしえ)の奈良」が始まった。人形の制作者は埼玉県越谷市在住の永瀬卓さん(75)。わずか15年前に独学で始めたとは到底信じられない精細な造形と憂いを秘めた表情の人形など31体が並ぶ。9月1日まで。(下の人形は「額田王(立像)」

 永瀬さんは1972年に東京教育大学芸術学科絵画専攻を卒業。以来、越谷市内の中学で美術の教師を務めた。人形の制作をふと思い付いたのは2008年の定年退職後。学生時代に見た有馬皇子の人形像がずっと頭の中を巡っていたという。万葉集関連本の表紙を飾っていたその人形の作者は紙塑人形の人間国宝、鹿児島寿蔵氏(1898~1982)だった。(下は天照大神が隠れた天の岩戸の前で一糸まとわぬ姿で踊ったという「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」)

 万葉集ゆかりの奈良での企画展は不思議な縁で実現した。4年前、東大寺のお水取り(修二会)見学で奈良を訪れた永瀬さんは正倉院近くに宿をとる。その「小さなホテル奈良倶楽部」のオーナー、谷規佐子さんが作品に魅せられ、偶然宿泊していた知人の中田文花(もんか)さんに紹介。中田さんは日本画家⋅造形作家⋅尼僧(華厳宗)⋅舞楽舞人などマルチで活躍しており、多彩な人脈を通じて展示会の準備が進められたという。(下は「倭女王」)

 展示作品は全部で31体。「神々の世」「日本の曙」など時代を追って配置されている。「日本の曙」では万葉集の冒頭を飾る「雄略天皇御製歌」の「籠(こ)もよみ籠持ち┄┄」を表現した人形も(下の写真)。

 

 「胎動する歴史」「動乱の時代」では謀叛の疑いなどで処刑されたり自害したりした有馬皇子や大友皇子などが並ぶ。大津皇子と姉の大伯皇女の背景には姉が「明日よりは二上山を弟と我が見む」と歌った山並み。その前で永瀬さんが悲劇の歴史を親子連れの来場者に分かりやすく解説していた。

 有馬皇子は座像(写真㊤)のほか立像も展示中。飛鳥時代を代表する女流歌人、額田王も冒頭の立像のほか座像(写真㊦)も。

 

 さらに坂上郎女も立像と座像(写真㊦)の2体。「月立ちてただ三日月の眉根掻き日長く恋ひし君に会へるかも」の万葉歌が添えられている。

 

 下の人形は「越中の大友家持と坂上大嬢」。坂上郎女にとって家持は娘婿にあたる。家持が越中に赴任したのは746年で、その4年後、大嬢は都から越中に移った。

 最終章は「平和への祈り」として中将姫(写真㊦)や長屋王、藤三娘(とうさんじょう)、光明子が並ぶ。光明皇后は王羲之の『楽毅論』臨書の際、藤原不比等の三女として藤三娘の名前を使った。

 

 永瀬さんが人形作りを始めたのはあくまでも趣味としてだったという。そんな経緯もあって、その世界ではほとんど無名で賞とは無縁。ただ作品群を目の前にしたとき、趣味の領域を遥かに超越しているように感じた。永瀬さんは「賞をもらうなんて思わず、好きなように自由に作ってきました」と謙虚に話されていた。(下の人形は「藤三娘」)

 

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〈大和文華館〉 特別展「レスコヴィッチコレクションの摺物」㊦

2024年07月12日 | 美術

【柳々居辰斎「拳初め」】

 三宝の上に徳利、台の上に拳相撲の道具。拳相撲は中国発祥の酒席の遊び、数拳(じゃんけんの源流)を相撲風にしたもの。団扇を持った行司が仕切った。

【岳亭春信「衣通姫」】

 允恭天皇の寵妃(または娘)で絶世の美女と伝わる衣通姫が小箱の中の蜘蛛の巣を覗き込む。蜘蛛は天皇の訪れの予兆。古今和歌集に「わがせこが来べきよひなりさゝがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも」。

【二代目葛飾戴斗「鯉」】

 添えられた狂歌に「時を得て空へものぼれ王とよぶ花の下行(したゆく)江戸川の鯉」(文花楼清丸)など。「王とよぶ花」は桜のこと。

【歌川豊広「宝船に鶴亀」】

 伊勢エビの殻を船体に見立て、打出の小槌などめでたいものを満載。周りにも折り鶴や亀など吉祥の置物を描く。

【歌川国貞「三味線と琴の合奏」】

 松が描かれた屏風の前で女性2人が合奏を楽しむ。左側に記された狂歌から、近江⋅信楽の狂歌師からの注文で制作されたことが分かる。

【歌川広重「風の神」】

 画題「風の神」とは江戸時代に「風邪の疫病神を追い払う」という名目で、門口に立って鉦や太鼓を叩き金品をねだった物乞い。

【勝川春亭「長坂橋の張飛」】

 中国⋅後漢末期、曹操に追い詰められた劉備を逃すため、張飛が馬上で仁王立ちする場面。

【窪俊満「群蝶画譜 つばさには」】

 様々な色や模様の蝶や蛾を描いたシリーズ作品全7図のうちの一つ。

【渓斎英泉「隅田川の花見」】

 右図に「柳桜亭」、左図に「江戸花也」の名で狂歌が添えられている。いずれも第11代長州藩主の毛利斉元で、英泉や歌川国貞⋅国芳らに依頼して美しい狂歌摺物を数多く制作した。 

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〈大和文華館〉 特別展「レスコヴィッチコレクションの摺物」㊤

2024年07月11日 | 美術

 近鉄グループの美術館「大和文華館」(奈良市学園南)で特別展「レスコヴィッチコレクションの摺物―パリから来た北斎⋅広重⋅北渓⋅岳亭」が始まった。摺物は江戸時代の版画のうち特別な注文によって制作された作品。数十~数百部しか作られなかったため伝存数も少ない貴重品だ。

 展示作品はポーランド出身でパリ在住のジョルジュ⋅レスコヴィッチ氏の収集品。約260点が9月1日までの会期中、前期⋅後期に分けて展示される。葛飾北斎をはじめ魚屋北渓(ととやほっけい)、岳亭春信、歌川広重、歌川国芳、渓斎英泉ら、浮世絵全盛期の19世紀前半に活躍した絵師の作品が多く並ぶ。

【葛飾北斎「富士図」】

 富士山と芦ノ湖が描かれた春興の俳諧摺物。「舞雲雀声も高根と丈いくらべ」(桂花)などの句が添えられている。

【葛飾北斎「やつし六歌仙」】

 六歌仙を当時の江戸の様々な女性にやつした趣向の狂歌摺物。右から順に破魔矢を持つ商人の妻(在原業平)、花魁(小野小町)┄┄禿(僧正遍昭)、本をかざす生娘(文屋康秀)。

【葛飾北斎「始皇帝図」】

 秦の始皇帝が太山に登り暴風雨に遭ったとき松の木の下で難を逃れ、その松に太夫の位を与えたという故事を描いた。日本では常磐津の演目「老松」で知られ、この摺物も常磐津の会の案内状を飾った。

【葛飾北斎「空満屋連 和漢武勇合三番之内弁慶と韃靼美人」】

 同様の「首引き」の図柄に勝川春亭画の大判錦絵「武蔵坊弁慶とだつたんの首引」があるという。元々の出典はどこからだろうか? 義経が大陸に渡って王になったという伝説はあるけど┄┄。

【葛飾北斎「七代目市川団十郎の工藤祐経と五代目岩井半四郎の舞鶴」】

 江戸歌舞伎春恒例の曽我狂言の主要登場人物を描いた5枚揃いの1枚。

【魚屋北渓「虎退治」】

 幟や軍配、冑を飾った虎が描かれ、左上に秀吉に従い朝鮮に渡って虎退治をしたという加藤清正の伝説に絡めた南亭葉々広による文章が添えられている。

【魚屋北渓「夢中の坂田金時」】

 幼少時に金太郎として足柄山で熊と相撲をして遊んだ日々を坂田金時が夢見る図。文政(1818~30)後期頃の作。この物語はすでに当時、子ども向けの本で広く親しまれていたそうだ。

【魚屋北渓「京 三国志 桃宴結妓」】

 「三国志演義」の名場面、劉備と関羽と張飛が義兄弟の契りを結んだ桃園の宴のやつしとして、三都(京、江戸、大坂)の遊女の華やかな競演を描いた作品。

【魚屋北渓「鞠の神」】

 描かれているのは猿の姿をした鞠の神と蹴鞠の名手といわれた藤原成道。蹴鞠の神は「精大明神」で、通常猿田彦として各地の神社で広く祀られている。

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〈喜光寺〉 淡いピンク色の「中尊寺蓮」お披露目

2024年07月09日 | 花の四季

【境内を彩るハス250鉢 津波で蘇ったミズアオイも開花】

 奈良時代の高僧行基ゆかりの古刹、喜光寺(奈良市菅原町)の境内が花ハスの大きな鉢で埋め尽くされている。8日午前訪ねると、カメラを抱えた中高年数人が“試みの大仏殿”と呼ばれる本堂(重要文化財)を背景にハスの花を撮影していた。伝承によると、行基はこの本堂を参考に東大寺の大仏殿を建立した。

 ハスの栽培が始まったのは30年ほど前から。喜光寺は法相宗別格本山。大本山の薬師寺から派遣された山田法胤住職が、荒れ果てた喜光寺を花の寺にしたいと栽培を始めた。今では栽培数が約70種、約250鉢に上る。

 平年の見頃は6月中旬から7月中旬にかけて。ただ今年は猛暑の影響か、花付きがいまひとつのようだ。前日に藤原宮跡のハス池で満開の花を見てきたという男性はやや期待外れといった表情を浮かべていた。

 そんな中で注目を集めていたのが社務所前に置かれた「中尊寺蓮」。戦後の学術調査で中尊寺(岩手県平泉町)の藤原氏四代泰衡の首桶からハスの種子が見つかり、1998年に約800年の時を経て開花した。

 喜光寺のこのハスも中尊寺から株分けして頂いたもの。花はさほど大きくないが、淡いピンク色で気のせいか気品も漂っていた。

 その近くでは東日本大震災の津波で蘇ったという水生植物ミズアオイも咲き始めていた。環境省のレッドリストで準絶滅危惧種とされる貴重な植物。東北の被災地で津波により地下で休眠していた種子が発芽し、群落が復活した。

 喜光寺ではハスの開花シーズンに合わせ、弁天堂のご神体で秘仏の「宇賀神」を公開中。そのお姿は“人頭蛇身”といわれるもので、とぐろを巻いた蛇が鎌首を持ち上げ、その頭は髭を蓄えた老人の顔を持つ。

 宇賀神の前面には弁財天。水に縁のある弁財天と蛇が結びついて、学問や技芸、福徳円満の神になったという。奈良市観光協会はハスの花が境内を彩る喜光寺⋅西大寺⋅唐招提寺⋅薬師寺を巡る「奈良⋅西ノ京ロータスロード」(共通拝観券4000円)を開催中。宇賀神はその期間中の8月12日まで公開の予定。(下の写真は秘仏「宇賀神」開帳期間限定の特別朱印「福徳圓満銀印」)

  

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〈橿考研付属博物館〉 特別陳列「ホケノ山古墳―ヤマト王権の成立へ」

2024年07月05日 | 考古・歴史

【銅鏡など出土品の重要文化財指定を記念して】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で特別陳列「ホケノ山古墳―ヤマト王権の成立へ」が開かれている。出土品が一括して重要文化財に指定されることになった(3月に国の文化審議会が答申)のを記念したもの。纒向遺跡や纒向古墳群の出土品も併せて展示している。7月15日まで。

 ホケノ山古墳(桜井市箸中)は「卑弥呼墓説」もある箸墓古墳のすぐ東側に位置する。墳丘は全長約80mの前方後円墳(後円部径約60m)。築造時期は出土品などから箸墓古墳に先行する3世紀中頃と推定され、最古級の古墳として注目を集めている。

 埋葬施設は内部の木槨と外側の石槨からなる二重構造の“石囲い木槨”。中央に安置された棺はコウヤマキ製の舟形木棺(長さ約5.3m)だったとみられる(写真は推定復元模型)。

 木棺内からは銅鏡3面、刀剣や矢じりの銅鏃⋅鉄鏃、農工具類などの副葬品が見つかった。ただ古墳時代前期の有力古墳から多く出土する三角縁神獣鏡はなく、玉類などの装身具もなかった。銅鏡3面のうち画文帯神獣鏡の2面は中国⋅三国時代(200~280年)の鏡とみられる。

 刀は中国系の素環頭大刀など2本出土、剣⋅槍は6本以上見つかった。銅鏃と鉄鏃はそれぞれ70点以上に上る。それらの形態は「古墳時代の始まり頃を示す時期的特徴とともに、ヤマト独自の副葬武器類の祖型的特徴も併せ持つ」。

 木槨内からは壷形土器11個と小型丸底土器4個も出土した。壷形土器は装飾が施された二重口縁壷。もともと木槨の上に設置されていた土器が、蓋材の腐朽に伴って落ち込んだものとみられる。

 では、この古墳の被葬者は? 橿考研の発掘担当者は「箸墓被葬者の先代の有力者や、大王を支える立場の人物だった可能性も」と類推する。

 ホケノ山古墳は築造から350年ほどたった6世紀末から7世紀にかけて、首長墓として再利用された。横穴式石室(全長約13.5m)からは家形石棺(写真)が見つかった。石室からは多くの須恵器や土師器も出土した。

 興味深いのは横穴式石室が設けられた場所。後円部の中心に位置する埋葬施設を避けるように造られていた。古墳の本来の主を尊重したとみられ、「系譜的関係性を示すためにあえて墳丘を再利用した可能性も考えられる」という。

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〈奈良県立図書情報館〉 切り取り⋅書き込み「絶対にやめて」と警告

2024年07月02日 | メモ

【日経新聞に「書き込み多発」はなぜ?】

 奈良県内で公共図書館としては最大の蔵書量を誇る奈良県立図書情報館(奈良市大安寺西)。その館内に「困っています!」と題した、ひときわ目立つ立て看が置かれている。設置からかなり経つが、一向になくならない雑誌や新聞などへの書き込み⋅切り抜き。その文面には図書館側の怒りや苦悩ぶりが詰まっている。

 看板が置かれているのは2階メインエントランスから入館してすぐ右側。新聞コーナーと3階に上がるエレベーターとの間に立つ。3階には開架式で膨大な蔵書が並ぶ。

 

 濃い黄色地に大文字で「困っています!」とあるので、遠くからも入館者の目に留まる。赤い手のひらには「NO」。下の「絶対におやめください」の間には書き込みなど破損⋅汚損があった事例が掲載されている。

 新聞では日経新聞の被害が目立つようだ。新聞の閲覧台には「日本経済新聞に、書き込みが多発しています」として、絶対にやめるよう注意喚起。はて、書き込みが多いページとは? 株価欄? この警告文を見るたび疑問符が頭を巡っていた。

 エレベーターで3階に上がって雑誌コーナーへ。かなり以前、週刊誌の「数独」などの部分に、書き込み防止用の透明シートが貼られていたのを思い出したからだ。「週刊文春」や「週刊新潮」をめくると、今も透明シートが貼られ「書き込み禁止!」の文字も添えられていた。(写真㊤は「週刊文春」と「週刊新潮」、写真㊦は「サンデー毎日」)

 多くの雑誌類は表紙が見えるように最新号が置かれ、それ以前の10冊ほどはボックス内に収納。ただ週刊誌の「サンデー毎日」は最新号がなく、ボックスの表に「書き込みが多いためカウンター内においています」との貼り紙があった。

 なぜ? 過去の「サンデー毎日」のページをめくって疑問が解けた。そこには「懸賞応募のはがきには、下の応募券が必要です」とあった。その応募券の部分には黒いシールが貼られ図書館印も。相次ぐ応募券の切り取りに業を煮やし、貸出カウンターで管理しているのだろう。

 これらの週刊誌を見るうち、日経新聞に書き込みが多い理由も「クイズ?」と閃いた。改めて新聞をめくって確信。クイズの種類と掲載頻度が他紙を圧倒していることが分かったのだ。

 「解けるかな? 漢字クイズ」や「Challenge ! CROSSWORD 」、それにイラストの「間違いさがし」や「今日のナンプレ」などの日経脳活クイズ┄┄。土曜版と日曜版を中心に様々なクイズが掲載されていた。

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〈石上神宮〉 国宝の拝殿で「神剣渡御祭」と「御田植神事」

2024年07月01日 | 祭り

【神田神社への渡御行列は6年連続中止に!】

 日本最古の神社の一つといわれる奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮で、6月30日「神剣渡御祭」が営まれた。末社神田(こうだ)神社へのお渡り(渡御行列)は梅雨空のため中止となり、一連の神事は全て国宝の拝殿内で執り行われた。

 お渡りは神剣渡御祭の一番の見どころ。太鼓を「でんでん」と打ち鳴らしながら進むため「でんでん祭」とも呼ばれる。この日の天候は「雨のちくもり」で、神事が始まる午後1時ごろには薄日も差していた。だが「諸準備の都合もあって」結局中止に。これでお渡りは6年連続中止となった。(写真は拝殿に参進する宮司ら神職)

 拝殿では雅楽が奏される中、まず「本宮祭」が営まれた。お祓いに続き、お供え物を捧げる献饌、祝詞奏上、玉串奉奠┄┄。

 神事は粛々と進んだ。拝殿には多くの一般参拝者も自由に上がって参列し、厳かな神事を見守っていた。

 拝殿前の境内にも多くの参拝者。神事の節々に神前に向かって低頭していた。

 本宮祭が終わると、続いて「神田神社例祭」。拝殿内に設けられた遥拝所に神剣を供えて神事が執り行われた。

 この後は五穀豊穣を祈る御田植神事。拝殿内を神田に見立て、作男と牛役が田起こしなどの所作をユーモラスに演じた。途中、お疲れ気味の牛役を、脇に控えていた早乙女が立ち上がって励ます一幕も。

 田んぼが整うと、早乙女3人の登場。早苗を一つ一つ丁寧に並べていった。その苗は本物の稲。神事が終わると、参拝者たちは競って苗を手に取り持ち帰っていた。

 この日は半年間の罪⋅穢れを祓い清める「夏越の大祓式」も夕方から行われた。

 社務所前の参道には高さ2mほどの大きな茅の輪。神職らが古歌を唱えながら輪をくぐった。「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり」

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