EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

令和7年4月、私達の散歩道 染井吉野桜満開

2025年04月04日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

(画像:川附川で奥に掛かる橋は、孝田橋)

令和7年も私達が散歩する道にある「染井吉野桜」は元気よく咲いています。

昨年同様天候不順で特に桜の開花前後寒暖の差が激しく、絶好の写真撮影(青空が見えなく)今日(4月4日)久しぶりに青空が見えましたのでカメラ持参で散歩に行ってきました。午後1時50分現在外気温は、18,2度少し風があり肌寒いです。

なお、松山地方の染井吉野桜の開花日は3月25日に開花宣言されました。

桜は、川附川に掛かる「孝田橋」のすぐ下流にあり、桜が満開の状態になると対岸にある「高齢者福祉施設・れんげ荘」に入所している方々が、優しい介護士さんに付き添われ、車椅子で桜を鑑賞されますが今年は例年になく寒く外出されてなかったようです。

7本植えられた染井吉野桜のトンネルを潜るのも楽しみにしておられます。

これは一本の染井吉野桜で毎年元気よく沢山の花を咲かせます。

これも同じ染井吉野桜です。

これも同じ染井吉野桜です。

7本植えられた染井吉野桜があります。

この道は、散歩をされる方以外に天山病院の関係者の方々も通られます。

近くの方々にとっても一年で一番いい季節到来で清々しい気持ちで桜を鑑賞し、スマホで撮影しながら楽しまれています。

来年楽しみにして元気で過ごしましょう。

暫く紀行不順です皆さん御身体ご自愛ください。

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松山の偉人伝シリーズ その4: 仙 波 太 郎(改訂版) 

2025年03月11日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

                            陸軍中将 仙波太郎

 仙波太郎は、安政2年4月21日に、伊予国久米郡福音寺村(現・松山市福音寺町)に生まれ、幼名を惣太といった。
仙波家は、福音寺村の庄屋であったが、太郎の幼少時に家計の不如意から、家産は次第に減少していった。(私の曽祖父、仙波友十郎と幼友達で、届いた書簡を大切に保存、小型の屏風に仕立て大切に使っていたが、昭和21年12月21日午前4時19分頃発生した昭和南海地震時に破損し現在は現存しない。)

太郎は、家計を助けるために少年時代から三津浜で魚類を買って、松山の城下町で行商したり、冬場には久米郡小野村(現在の松山市北梅本町)の山に行って入会林で切り取った木の枝を刈り、これを町へ売り歩いたりしながら、僅かな賃金を得て家計を助けた。

父は病弱で病床に臥せってから、母と二人で苦労を重ねたが、この間母は、貧しいなかにも太郎を激励した。

激しい労働のかたわら、僅かな時間を惜しんで南久米の三輪田米山塾で学び、直接米山の教えを受け、明治7年の秋(20歳)陸軍教導団に合格、病床にあった父は、太郎を激励、叔父の松田通博の学友である河東坤(碧梧桐の父)の援助を受けた。
その後陸軍士官学校に入学、明治11年12月卒業、同12年2月歩兵少尉、同16年に中尉となり、同16年4月創設された陸軍大学校第1期生として入学同期に秋山好古がいた。

1期生は推薦入学で19名が入学し、卒業できたのは10名であった。首席で卒業したのは、東条英教(英機の父)太郎は3番目の成績で、好古は7番目の成績であった。なお、陸軍大学校の入学は2期生から試験制度となった。 
 その後陸軍大学校教官を経て、ドイツに留学その時、射撃術を習得し帰国後射撃術の優秀な部隊に名誉旗を授与するようになったのは太郎がドイツで行なわれていた制度をわが国に採用させた結果である。・・中略・・陸軍士官学校教官を経て大佐に昇進第三師団(名古屋)の参謀長、この頃、陸軍の三太郎「宇都宮太郎・桂太郎、後の内閣総理大臣・仙波太郎」のひとりと呼ばれた。その後福岡第24連隊長となりそして第2旅団長を経て明治43年11月30日陸軍中将となった。そしてかねてから永住の地を岐阜県加納町に決めてた。
加納町は夫人の出身地で、退役後は夫人・矢野タマの地である岐阜県加納町に居住した。

大正9年5月岐阜県より衆議院議員に立候補し当選、わが国の社会教育に貢献、太郎は質実剛健で正義の士にあって真に軍人の典型的であり、しかも単なる軍人に終わった人でなく常に豊富な学識と社会的常識とを保持し、正確な判断をなし得た立派な社会人でもあった。・・秋山好古は、仙波太郎中将は良く働いたとの談話がある。
 仙波太郎と温泉郡久米村との関係は、大正7年に御下賜金を受けた時、これを直ちに岐阜県教育委員会と久米村青年団とに匿名で寄贈した。
また昭和2年に生誕地である福音寺の屋敷跡に村民のために「公正会堂」を建てて寄付し、村の社会教育のために尽力した。
 昭和4年2月19日、逝去 享年75歳。

 旧伊予松山元藩主久松家の当主、第16代久松定謨は、秋山好古よりも8歳、仙波太郎よりも12歳年下であった。(仙波太郎、安政2年・秋山好古、安政6年・久松定謨、慶応3年)
明治16年、久松定謨が17歳の時、佛蘭西のサン・シール陸軍士官学校に留学することになり、加藤恒忠に付き添われて入学した。

入学以降の補導役として久松家の家令役である、藤野漸によって白羽の矢が立ったのが、秋山好古と仙波太郎であった。
藤野漸は先ず、仙波太郎に久松定謨の補導役としてフランスに行ってくれるよう頼んだが、仙波太郎はこれを断った。仙波は、藩政時代久米郡福音の庄屋の長男として生まれ藩政時代多くの年貢を納め務めて来たのに未だ久松家の世話をせねばならぬのかと断った。
もう一つの理由は、当時陸軍の用兵はドイツ式でフランスの用兵を学んでも役に立たず、その上身分の昇進が中断されるからであった。

次に、藤野は秋山好古に頼んだ。

信さん(当時秋山好古の事を信さんと呼んでいた。幼名が信三郎であったからである)は藩士の出で、久松家から家禄を賜りしした家系、恩をきせるわけではないが是非とも願いを聞き届けてほしいとたっての頼みであった。
 秋山もフランスの用兵を学んでも役にたたず、ましてや私費留学扱いで昇進もストップするので断った。藤野は、好古の父秋山久敬にも頼み込んだ。好古は仕方なく引き受け、明治20年7月20日付で本職、陸軍騎兵大尉を免じ、陸軍務総局長・桂 太郎から私費留学の訓令が発せられた。(御令息好古君には我陸軍大学校をも卒業せられ、前途洋々たる処、久松定謨の補導役として是非とも渡佛御報導置候也)秋山好古は、陸軍大学校1期生として卒業、階級は大尉で東京鎮台参謀の要職に在った。好古は、仏蘭西に行く事を承諾、明治20年7月23日、横浜港から陸軍局の訓令により私費留学の名目で、仏蘭西に行くことになり同年9月5日仏蘭西に到着した。階級は大尉で東京鎮台参謀の要職に在ったがその要職も解かれ生活費は、久松家から年間1000円の支給であった。
 秋山好古は、朝敵出身者で有るがために昇進が遅れていた。しかし努力して大尉まで昇進したが久松定謨の補導役として身を捧げる事とした。しかし思わぬことでフランスに行った事が後日有利に展開するそれは、下記の通りである。

フランスの騎兵用兵が日本人の身体にマッチする事が渡佛して初めて分かった。
当時陸軍の用兵は、ドイツ式であった。
山縣有朋中将が欧州視察の際、フランスに居た秋山好古を訪ねてくれた。騎兵の用兵だけは是非ともフランスの用兵を採用して欲しい旨詳しく説明した。山縣有朋は、好古に対していまここで即答は出来ぬが、東京に帰り要人たちと相計らい連絡すると約束した。後日、明治23年2月10日付で、陸軍総務局長、桂太郎から、正式に官費留学の許可となり、学資金は1ヵ年1、600円が支給された。スットプしていた昇進も解除され、日本陸軍騎兵用兵はフランス用兵を採用し改めて好古は、日本騎兵隊を育てる事になった。日露戦争時世界最強のコサック騎兵団と戦い善戦したのもフランス用兵のお陰であった。尚秋山兄弟生誕地にある「秋山好古騎馬像」の乗馬姿がフランス式用兵の姿である。

仙波太郎の経歴

安政2年6月5日       伊予国久米郡福音寺村の庄屋仙波家の長子として誕生
慶応 元年         三輪田米山に漢学を学ぶ
明治 7年         陸軍教導団に入る
明治 8年         陸軍士官学校入学
明治11年12月      陸軍士官学校卒業・2期生
明治12年 2月      陸軍少尉・歩兵第8連隊(大阪)付
明治16年 4月10日   陸軍大学校入学・一期生(歩兵中尉)
明治17年 5月      古戦場、星岡山に「星岡表忠之碑」建立を発起
明治18年12月24日   陸軍大学校一期生・優等で卒業
明治20年 4月      久松定謨の補導役としてフランス行きを断る
明治23年 2月      ドイツ留学
明治30年         乃木希典中将子息の教育監督
大正 4年 2月15日   第1師団長(この時秋山好古、近衛師団長、久松定謨、第
              1連隊長として衛戍地である東京を守護した)
大正 9年 4月      退役、岐阜3区から衆議院議員に出馬当選
昭和 4年 2月19日   岐阜県加納町にて死去 享年74歳 正三位勲一等功三級
昭和49年 4月25日   仙波太郎生誕地に「仙波太郎生誕の地」の記念碑建立

参考事項1:衛戍地である東京を、朝敵とされた旧伊予松山藩出身者の、秋山好古・仙波太郎・久松定謨の3名が守護した。予測していなかった事で驚いた。

ここで三名のことについて少し触れてみる。
先ず、
大正4年2月15日付 発令
秋山好古が近衛師団長として任命された。近衛師団は、天皇と宮城(皇居)を警備する師団で、一般の師団とは異なり、部隊は最新鋭、最古参の儀仗部隊で、秋山好古はそのトップに就いた。

大正4年2月15日付 発令
仙波太郎が第一師団長として任命、当時6師団中で近衛師団部隊に次いでの精鋭隊員の師団として首都東京を護った。

大正4年5月11日付 発令
久松定謨は、近衛兵第一連隊長として、天皇と宮城を護り抜いた。

伊予松山藩は朝敵とされ15万両の制裁金の上納、旧藩主、久松定謨の爵位は本来なれば侯爵であるはずが、朝敵であったがために伯爵止まり。しかし大正4年、摂政宮時代である東京を朝敵とされた伊予松山の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が護ったのである。
この3名は、明治維新の時、朝敵の汚名を被ったがこれでようやく汚名を返上出来たと久松家で祝杯を上げ喜んだそうだ。しかし、秋山好古・仙波太郎共に親藩、朝敵の出身者が故に身分の昇進が遅れていた。

画像は、左から、秋山好古(近衛師団長)・久松定謨(近衛第1連隊長)・仙波太郎(歩兵第1師団長)

大正4年久松家の法要時に撮った集合写真を切り抜いたもので、この時代久松定謨の横に座れる人物は秋山好古と仙波太郎しかいなかった。

                「星岡表忠之碑」

松山市星岡町にある星岡山山頂に「星岡表忠之碑」が建立されている。揮毫は、二品伏見宮貞愛親王で石碑は、明治16年に中尉となった仙波太郎が故郷の星岡山に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建設した。
「星岡表忠之碑」右側に、建立発起人 陸軍中尉 仙波太郎・松田通博・吉田格堂・鈴木安職、鴻田佐太郎の各位の氏名が刻まれている。

西条市丹原町得能にある常石山山頂に建立されている得能通綱の忠魂碑。

なお、得能通綱の忠魂碑は西条市丹原町得能の常石山山頂にあり揮毫は秋山好古で除幕式にも好古は参列している。除幕式は、昭和5年4月4日行われた。忠魂碑は昭和3年、昭和天皇の御大典記念に建立された。

揮毫は、秋山好古で、常石山の標高は163mある。

                  常石山山頂に建立された得能通綱の忠魂碑除幕式で挨拶をする秋山好古

除幕式場は山頂のため好古は足の具合が悪かったので地元民が用意した馬で登った。しかし好古は馬が疲れるからと言って途中から下馬して歩いたそうだ。除幕式は、昭和5年4月4日行われた。

揮毫は、秋山好古で、常石山の標高は163mある。

常石山の標高は、163mで昭和5年に建立された。

        松山市土居町、土居遊園地にある土居通増の五輪塔。

      松山市教育委員会設置の「星岡古戦場」説明板。

            「仙波太郎生誕の地」記念碑建立。

「仙波太郎生誕の地」記念碑建立除幕式に参列した関係者。
記念碑・仙波太郎生誕の地の揮毫は、温泉郡久米村大字高井出身(現在・松山市高井町)の元郵政大臣、桧垣徳太郎氏である。

記念碑は、昭和49年4月25日、松山市福音寺町にある福音寺公民館に「仙波太郎生誕の地記念碑」が建立され除幕式が行われた。公民館の敷地は、仙波太郎が生誕した屋敷跡で、此処に「公正会堂」と命名され、福音寺町に寄付され福音寺町の社会教育推進活動拠点として使われた。

参考事項1:仙波太郎と深い親交にあった木原さんが書かれた仙波太郎の手記の一部を別記する。

仙波太郎は、松山に帰っても家がなかったので宿は木屋町一丁目の木原家で、帰った時は大抵1ヶ月位は滞在し家族同様にして過ごした。・・中略・・軍を離れたはじめの頃は満州や支那にもよく行っており帰りに松山で疲れた身体を休めていた。そして揮毫をよくするので父はその墨をするのに汗だくであった。鍾馗と達磨が得意で5分間くらいで書き上げるので驚きの目で見ていた。中略・・秋山好古が松山に帰れてからはよく訪ねて来られ「ワシ」「オマエ」の仲で昔話を楽しんでおられた。松山高等学校のストライキが起こりかけた時も丁度仙波が来ていて、北豫中学校長であった秋山好古と香坂県知事の三人で木屋町の我が家で密談をしておられ、ストライキは不発に終わった。

「これが仙波の帰松最後の事件であったかもしれない」・・と書かれている。

昭和3年か4年頃、仙波から今年も又そのうちに帰るからその前に福音寺に持ってゆくお地蔵さんを送るから受け取っておいてくれと連絡があり、着いたのは小さなお地蔵さんであったが首が落ちていたので母が何か悪い予感がすると心配したが、予感通リそれが最後の帰郷計画になってしまった。お地蔵さんは久米の福音寺に送ったが今は何処にあるのか時々考えることがある。尚どうしたわけか知りませんが千舟町の白石写真館で撮った仙波太郎の写真が手元にありますので司馬遼太郎の記事を機に写真と共に古いとりとめのない思い出をまとめた次第です。しかし何分にも古い事ですので思い違いがありましたらお許し下さい。・・

以上の様な

木原さんの手記があった。

松山平野で、記事の中に出て来る星岡山と土亀山の位地を確認のため掲載した。

土居・得能氏の古戦場の「星岡表忠之碑」があるのは、星岡山で、仙波太郎の墓所は、土亀山にある。天山は、奈良県の天香久山と姉妹の山として有名である。

また加藤嘉明が松山城築城のとき徳川家康に築城候補地第1番に候補地に選んだ山である。築城候補地第2番候補地に選んだ山が勝山(現在の松山城)築城候補地第3番候補地に選んだ山は、御幸寺山であった。家康は築城許可地は申請の2番目の地に許可が下りていたので嘉明は勝山に築城したかったので2番候補地として申請した。

参考までに

星岡山の標高は:75m

土亀山の標高は:50m

天山の標高は:51m

昭和52年5月8日奈良県橿原市南浦町と松山市天山町は姉妹縁組を結成し交流をしている。

天山山頂にある天山神社拝殿横に「交流20周年」と揮毫された立派な記念碑が建立されている。

   松山市福音寺町「土亀山」にある仙波太郎中将の墓。

土亀山に付いて、正岡子規の俳句があり句碑が建立されている。

「凩にはひつくばるや土亀山」明治25年 終わりの冬、に詠んだ句である。

仙波太郎は、夫人の郷 岐阜市加納町で死去した。福音寺の墓は分骨である。生前墓は、大きな墓石にするなと言われたので先祖の墓石とほぼ同じ大きさである。

軍人の墓石は、肩書入りの大きな墓石であるが、秋山好古も墓石は家族と一緒「秋山家」の墓で眠っている。仙波も、秋山もよく似たものだ。

昭和49年、仙波太郎の長男、仙波正、孫の仙波昭が建立した「仙波家墓所」の石碑。

             仙波太郎中将の先祖代々のお墓

仙波太郎の一族は松山には居ないので、時より岐阜市から墓参りに来ている。そして秋山兄弟生誕地に寄って帰るそうである。

画像は、昭和46年4月1日、私が、陸上自衛隊松山駐屯地の資料館に寄贈した仙波太郎の写真である。当時はフィルムカメラであったのでデジカメ撮影して情報を持っておきたくて平成17年6月1日自衛隊に行き広報担当自衛官の許可を得て撮影した。

 

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令和7年2月・ 私の散歩道も春の気配を感じます 

2025年02月14日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

令和になって早くも7年が経ちます。

今年の冬は厳しい!!。北国の皆さん達大変な降雪で雪下ろし作業が大変!!ご苦労さまです。・・松山市も先日降雪がありました。

私の散歩道(川附川堰堤)は、寒波の最中、水仙と菜の花が元気よく花を咲かせだしました。

昨日、2月13日、カメラ持参で散歩に行ってきました。

伊丹十三記念館の庭にある「雪柳・ユキヤナギ」も花が咲いていました。

少しずつではありますが季節は進んでいます。

三寒四温・春一番と言った言葉を聞くようになりました。

画像は、昨日の様子です。

立春を過ぎた頃から少しずつ、太陽の高度が上がり、昼間の時間が長くなりました。

光の春・音の春・気温の春、植物も動物も日本列島各地で動き始めます。

光の春­=気温が上昇して光に反応して冬眠から目覚める。

音の春=川のせせらぎの音、鳥の鳴き声、雪国では雪解けの音が聞こえる。

気温の春=春分をすぎる頃から「暑さ寒さも彼岸まで」のたとえの通りに、気温も上昇して一番いい季節に移行していく。四季のはっきりしている日本は素晴らしい・・地震がなければであるが!!。

いろいろな水仙を撮ってみました。

水仙の裏側です。

水仙も元気ですが、菜の花も元気に開花していました。

地球は、温暖化が進んでいるが季節(四季)は必ずやってくる。

「地表が暖かくなると冬眠から目覚め、芽を吹き、葉っぱを形成し、花を咲かせる。そして人々の気持ちを浄化させてくれる。ありがとう、いい構図の写真が撮れないけれどごめんね・・と心の中で呟きながらシャッターを押しました。

昨日は、普段になく大勢の皆さんが歩いていました。

散歩道の直ぐ側には伊丹十三記念館があります。

左奥の樹々は、天山です。

伊丹十三記念館の庭に咲いていた「雪柳・ユキヤナギ」です。

伊丹十三記念館の庭に咲いていた「雪柳・ユキヤナギ」の傍に蝋梅が咲いていました。

散歩道沿線の家の庭に沢山の「みかん:種類は不明」がありました。

散歩道にある「染井吉野桜」は画像のような現状です。

今年の、松山地方の染井吉野桜の開花予想日は「3月22日」と予報されています。

私の散歩道、川附川に架かっている「孝田橋」から見た「西日本最高峰・石鎚山1982m」です。

雲が掛かり頂上部分は見えなかったです。

私が散歩をする付近を上空から見るとこのような図式になります。

私が散歩するのは、天山の南側を流れる「川附川」がありますがその堤防に敷設してある道を歩きます。

加藤嘉明が松山城築城の時、1番候補地(天山)に徳川家康に申請したが、もしも天山に許可が下りていれば、我が家周辺は松山の城下町になっていました。

この付近は、歴史上に出てくる所が沢山あり、歴史好きの人は散策に訪れます。

以前、奈良県から天山散策に訪れた人に出くわし、ご案内をしたことがありました。

伊丹十三記念館も散歩道の一角にあります。

 

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新しい年を迎えて 令和7年・初詣

2025年01月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

神社に掲示してあった。

「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、

松山市小野地区・久米地区・石井地区の氏子を祭事する神社で、末社が17社ある。

神社の社号額・石碑の文字全て三輪田米山揮毫である。

  今年(令和7年)の初詣は1月4日午前中に我が家の氏神様である、県社日尾八幡神社に詣でた。

毎年、初詣は1月3日、関東大学箱根駅伝をTV観戦して総合成績を確認してから行っていたが、今年は何時もの年と一日遅れの4日に行った。

関東大学箱根駅伝TV中継では必ず往路3区、復路8区では神奈川県藤沢市の遊行寺が大きく空撮で映し出される。

遊行寺については後ほど説明します。

神社入口に、大きな注連石と社号碑があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男、名は「常貞」で号を「米山」と称した。

社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」である。

社号碑の後ろに大きな朱色の鳥居がある。・・一礼して境内に進む・・10段程の石段を上がると大きな楼門が眼前に迫ってくる。

明治時代の軍人で、陸軍の三太郎と言われた一人に「仙波 太郎・中将」がいた、現在の松山市福音寺町の出身で、三輪田米山塾で教えを受けた人物である。

※ 陸軍の三太郎とは、宇都宮 太郎(陸軍大将)・桂 太郎(第11代内閣総理大臣)・仙波 太郎(陸軍中将・衆議院議員)です。

なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、これも三輪田米山である。

私の中学時代の同級生が日尾八幡神社の娘さんで、現在は結婚し東京都杉並区に在住している。2年に一度開催していた中学の同期会には何時も出席してくれた。

私の正月の過ごし方は、例年通りで、年末は全国高校駅伝(男女)元旦は、実業団駅伝、2日・3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦して総合成績を確認してからであるが、今年は4日の午前11時頃日尾八幡神社に初詣に行った。

この日、松山の外気温は11、8度でした。(我が家で測定)

なお、今年の愛媛県出身の駅伝ランナーは、宇和島東高校出身者が力走しておりました。

全国八幡社の総本宮は、大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮で「ゆく年くる年の風景」。

参考までに:その1

全国八幡社の総本宮は、大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮で、全国に11万の神社の内、4万600社あまりが八幡社だそうです。

日尾八幡神社も全国八幡社の一つです。

神奈川県藤沢市の遊行寺

参考までに:その2

関東大学箱根駅伝TV中継では必ず往路3区、復路8区では神奈川県藤沢市の遊行寺が大きく空撮で映し出される。

この遊行寺は、時宗の開祖「一遍上人」ゆかりの寺で時宗の総本山である。一遍上人は、伊予国の豪族・河野家に生まれ、10代で出家して修行して時宗を開いた。生まれた地は、現在愛媛県松山市道後湯月町にある「宝厳寺」で、愛媛県指定の史跡となっている。

平成25年8月10日火災にあった。本堂にあった国指定重要文化財・一遍上人立像が本堂とともに消失してしまった。

松山城天守最上階(約160m)から撮影「煙をあげる宝厳寺」

松山城天守最上階(約160m)から撮影「煙をあげる宝厳寺」720mm相当で撮影した。

平成25年8月10日宝厳寺火災の地元新聞記事。

平成25年8月10日,宝厳寺の火災前の本堂

宝厳寺の火災
平成25年8月10日、午後松山城のガイドで、広島県尾道市から来られた方をご案内していた所、火災発生のサイレンが鳴った。サイレンは、けたたましいものでなく、どこかの小火であったくらいに感じ直ぐ止みましたので、大した火災ではなかったと感じた。
天守最上階に上がり眺めると、道後温泉方角に火災らしき煙が上がっていた。

案内していた方に暫しの時間を頂き、直ぐにカメラを取り出し撮って拡大してみると、なんと宝厳寺の火災であることが判明した。時間は14時40分でした。
松山市の古刹、宝厳寺、松山道後温泉の宝物を無くし残念。本堂には、「国指定の重要文化財・木造一遍上人立像」があり、早い火の回りで運び出せなかったようでした。

注:撮影したのは、コンパクトカメラで、S社のDC・HX50Vのコンデジでありながら光学30倍のレンズが付いており、720mm相当で撮影しました。

平成25年8月10日、14時40分松山城天守最上階から撮影した宝厳寺の火災。

    

少し寄り道をしましたが、本題の初詣に戻ります。

大きい朱色の鳥居をくぐると楼門が見えて来る。

さーこれから158段の長い石段を上り拝殿に行きお参りをいたす。

今年は158段の石段を休みながら上がりました。足腰が弱ったなと感じた。

158段の石段を休みながら上がり拝殿前から下を見る。

158段の石段を上り詰めると拝殿がある。

日尾八幡神社の拝殿内部で、お昼前であったので初詣の方々は少なかった。

日尾八幡神社拝殿の社号額。

八幡神社の祭神、応神天皇が国内を平定する際に道案内をしたのが鳩だったことから、八幡様のお使いは「鳩」がしたので神社の社号額の八の字が「鳩で」揮毫されている。

拝殿前に作られた特設のおみくじ置き場。

158段の長い石段の中程に知られてない小さな社がある。
それは「黒田霊社」で、祭神は、黒田九兵衛霊である。

県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えている。

黒田霊社の由来:

慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し3,000人の将士を率いて美濃(関ヶ原)に進軍した。その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。

芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、このことが「伊予の関ヶ原」と言われる激戦があった。

この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率い夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。

これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。

衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな敵弾を受け戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。

この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。

昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用。

この戦いで、敗北していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い、武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守居を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際「北之郭」を造り之を与えこの功績に答えたのである。
松山城の北之郭は、佃次郎兵衛十成、一代だけの居住であった。

楼門左には、大きな石碑「忠魂碑」が建立されている。

旧愛媛県温泉郡久米村から、日清・日露・大東亜戦争に出征され戦死された方々の慰霊碑です。

忠魂碑は、明治100年記念として昭和35年10月23日建立された。揮毫者は不明である。

今年は、日本全国平穏な日々でありますように願いを込めて祈りをして神社をあとにした。

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新年のご挨拶

2025年01月04日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

皆様 新年明けましておめでとうございます

謹んで新春のお祝詞を申し上げます

令和に元号が変わり、早くも7年を迎えます

皆様今年もお元気でお過ごし下さい

さて

平成21年7月15日に開設いたしました私のお粗末なブログ、昨年もご覧頂ありがとうございました。

今年も拙いブログですが継続して行きますのでご覧頂き、そして是非ご批判頂きますと共にご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

昨年は、元日早々の地震発生「令和6年能登半島地震」一年が経過いたしますが、TVニュースで見る限り復興の速度が遅く感じます。政府の方々もっと早い復興支援を願います。

令和 7年 1月4日

画像説明:令和6年4月29日、NHKが放映した「日本最強の城スペ シャル」で使用された画像です。

この画像は、私が撮影しもので、NHKからの要請で画像提供しました。

背景の山は、西日本最高峰「石鎚山・1982m」で手前の天守は伊予松山城天守です。

この天守は、江戸時代最後に創建された天守で、安政元年の再建です。また現存12天守の一つです。

なお、西日本最高峰「石鎚山・1982m」を背景に松山城天守を入れ込み撮影出来る場所は一箇所しかない場所から撮影しました。

松山城は、標高132mの勝山山頂に建てられ、日本三大平山城・日本三大連立式天守・と言われています。

日本三大平山城:姫路城・津山城・松山城

日本三大連立式天守:姫路城・和歌山城・松山城・・です。

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