
神社に掲示してあった。
「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、
松山市小野地区・久米地区・石井地区の氏子を祭事する神社で、末社が17社ある。

神社の社号額・石碑の文字全て三輪田米山揮毫である。
今年(令和7年)の初詣は1月4日午前中に我が家の氏神様である、県社日尾八幡神社に詣でた。
毎年、初詣は1月3日、関東大学箱根駅伝をTV観戦して総合成績を確認してから行っていたが、今年は何時もの年と一日遅れの4日に行った。
関東大学箱根駅伝TV中継では必ず往路3区、復路8区では神奈川県藤沢市の遊行寺が大きく空撮で映し出される。
遊行寺については後ほど説明します。
神社入口に、大きな注連石と社号碑があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男、名は「常貞」で号を「米山」と称した。
社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」である。
社号碑の後ろに大きな朱色の鳥居がある。・・一礼して境内に進む・・10段程の石段を上がると大きな楼門が眼前に迫ってくる。
明治時代の軍人で、陸軍の三太郎と言われた一人に「仙波 太郎・中将」がいた、現在の松山市福音寺町の出身で、三輪田米山塾で教えを受けた人物である。
※ 陸軍の三太郎とは、宇都宮 太郎(陸軍大将)・桂 太郎(第11代内閣総理大臣)・仙波 太郎(陸軍中将・衆議院議員)です。
なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、これも三輪田米山である。
私の中学時代の同級生が日尾八幡神社の娘さんで、現在は結婚し東京都杉並区に在住している。2年に一度開催していた中学の同期会には何時も出席してくれた。
私の正月の過ごし方は、例年通りで、年末は全国高校駅伝(男女)元旦は、実業団駅伝、2日・3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦して総合成績を確認してからであるが、今年は4日の午前11時頃日尾八幡神社に初詣に行った。
この日、松山の外気温は11、8度でした。(我が家で測定)
なお、今年の愛媛県出身の駅伝ランナーは、宇和島東高校出身者が力走しておりました。

全国八幡社の総本宮は、大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮で「ゆく年くる年の風景」。
参考までに:その1
全国八幡社の総本宮は、大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮で、全国に11万の神社の内、4万600社あまりが八幡社だそうです。
日尾八幡神社も全国八幡社の一つです。

神奈川県藤沢市の遊行寺
参考までに:その2
関東大学箱根駅伝TV中継では必ず往路3区、復路8区では神奈川県藤沢市の遊行寺が大きく空撮で映し出される。
この遊行寺は、時宗の開祖「一遍上人」ゆかりの寺で時宗の総本山である。一遍上人は、伊予国の豪族・河野家に生まれ、10代で出家して修行して時宗を開いた。生まれた地は、現在愛媛県松山市道後湯月町にある「宝厳寺」で、愛媛県指定の史跡となっている。
平成25年8月10日火災にあった。本堂にあった国指定重要文化財・一遍上人立像が本堂とともに消失してしまった。

松山城天守最上階(約160m)から撮影「煙をあげる宝厳寺」

松山城天守最上階(約160m)から撮影「煙をあげる宝厳寺」720mm相当で撮影した。

平成25年8月10日宝厳寺火災の地元新聞記事。

平成25年8月10日,宝厳寺の火災前の本堂
宝厳寺の火災
平成25年8月10日、午後松山城のガイドで、広島県尾道市から来られた方をご案内していた所、火災発生のサイレンが鳴った。サイレンは、けたたましいものでなく、どこかの小火であったくらいに感じ直ぐ止みましたので、大した火災ではなかったと感じた。
天守最上階に上がり眺めると、道後温泉方角に火災らしき煙が上がっていた。
案内していた方に暫しの時間を頂き、直ぐにカメラを取り出し撮って拡大してみると、なんと宝厳寺の火災であることが判明した。時間は14時40分でした。
松山市の古刹、宝厳寺、松山道後温泉の宝物を無くし残念。本堂には、「国指定の重要文化財・木造一遍上人立像」があり、早い火の回りで運び出せなかったようでした。
注:撮影したのは、コンパクトカメラで、S社のDC・HX50Vのコンデジでありながら光学30倍のレンズが付いており、720mm相当で撮影しました。
平成25年8月10日、14時40分松山城天守最上階から撮影した宝厳寺の火災。
少し寄り道をしましたが、本題の初詣に戻ります。
大きい朱色の鳥居をくぐると楼門が見えて来る。

さーこれから158段の長い石段を上り拝殿に行きお参りをいたす。
今年は158段の石段を休みながら上がりました。足腰が弱ったなと感じた。

158段の石段を休みながら上がり拝殿前から下を見る。

158段の石段を上り詰めると拝殿がある。

日尾八幡神社の拝殿内部で、お昼前であったので初詣の方々は少なかった。

日尾八幡神社拝殿の社号額。
八幡神社の祭神、応神天皇が国内を平定する際に道案内をしたのが鳩だったことから、八幡様のお使いは「鳩」がしたので神社の社号額の八の字が「鳩で」揮毫されている。

拝殿前に作られた特設のおみくじ置き場。

158段の長い石段の中程に知られてない小さな社がある。
それは「黒田霊社」で、祭神は、黒田九兵衛霊である。
県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えている。
黒田霊社の由来:
慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し3,000人の将士を率いて美濃(関ヶ原)に進軍した。その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。
芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、このことが「伊予の関ヶ原」と言われる激戦があった。
この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率い夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。
これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。
衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな敵弾を受け戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。
この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。
昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用。
この戦いで、敗北していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い、武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守居を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際「北之郭」を造り之を与えこの功績に答えたのである。
松山城の北之郭は、佃次郎兵衛十成、一代だけの居住であった。

楼門左には、大きな石碑「忠魂碑」が建立されている。
旧愛媛県温泉郡久米村から、日清・日露・大東亜戦争に出征され戦死された方々の慰霊碑です。
忠魂碑は、明治100年記念として昭和35年10月23日建立された。揮毫者は不明である。
今年は、日本全国平穏な日々でありますように願いを込めて祈りをして神社をあとにした。