EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

令和7年2月・ 私の散歩道も春の気配を感じます 

2025年02月14日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

令和になって早くも7年が経ちます。

今年の冬は厳しい!!。北国の皆さん達大変な降雪で雪下ろし作業が大変!!ご苦労さまです。・・松山市も先日降雪がありました。

私の散歩道(川附川堰堤)は、寒波の最中、水仙と菜の花が元気よく花を咲かせだしました。

昨日、2月13日、カメラ持参で散歩に行ってきました。

伊丹十三記念館の庭にある「雪柳・ユキヤナギ」も花が咲いていました。

少しずつではありますが季節は進んでいます。

三寒四温・春一番と言った言葉を聞くようになりました。

画像は、昨日の様子です。

立春を過ぎた頃から少しずつ、太陽の高度が上がり、昼間の時間が長くなりました。

光の春・音の春・気温の春、植物も動物も日本列島各地で動き始めます。

光の春­=気温が上昇して光に反応して冬眠から目覚める。

音の春=川のせせらぎの音、鳥の鳴き声、雪国では雪解けの音が聞こえる。

気温の春=春分をすぎる頃から「暑さ寒さも彼岸まで」のたとえの通りに、気温も上昇して一番いい季節に移行していく。四季のはっきりしている日本は素晴らしい・・地震がなければであるが!!。

いろいろな水仙を撮ってみました。

水仙の裏側です。

水仙も元気ですが、菜の花も元気に開花していました。

地球は、温暖化が進んでいるが季節(四季)は必ずやってくる。

「地表が暖かくなると冬眠から目覚め、芽を吹き、葉っぱを形成し、花を咲かせる。そして人々の気持ちを浄化させてくれる。ありがとう、いい構図の写真が撮れないけれどごめんね・・と心の中で呟きながらシャッターを押しました。

昨日は、普段になく大勢の皆さんが歩いていました。

散歩道の直ぐ側には伊丹十三記念館があります。

左奥の樹々は、天山です。

伊丹十三記念館の庭に咲いていた「雪柳・ユキヤナギ」です。

伊丹十三記念館の庭に咲いていた「雪柳・ユキヤナギ」の傍に蝋梅が咲いていました。

散歩道沿線の家の庭に沢山の「みかん:種類は不明」がありました。

散歩道にある「染井吉野桜」は画像のような現状です。

今年の、松山地方の染井吉野桜の開花予想日は「3月22日」と予報されています。

私の散歩道、川附川に架かっている「孝田橋」から見た「西日本最高峰・石鎚山1982m」です。

雲が掛かり頂上部分は見えなかったです。

私が散歩をする付近を上空から見るとこのような図式になります。

私が散歩するのは、天山の南側を流れる「川附川」がありますがその堤防に敷設してある道を歩きます。

加藤嘉明が松山城築城の時、1番候補地(天山)に徳川家康に申請したが、もしも天山に許可が下りていれば、我が家周辺は松山の城下町になっていました。

この付近は、歴史上に出てくる所が沢山あり、歴史好きの人は散策に訪れます。

以前、奈良県から天山散策に訪れた人に出くわし、ご案内をしたことがありました。

伊丹十三記念館も散歩道の一角にあります。

 

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新しい年を迎えて 令和7年・初詣

2025年01月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

神社に掲示してあった。

「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、

松山市小野地区・久米地区・石井地区の氏子を祭事する神社で、末社が17社ある。

神社の社号額・石碑の文字全て三輪田米山揮毫である。

  今年(令和7年)の初詣は1月4日午前中に我が家の氏神様である、県社日尾八幡神社に詣でた。

毎年、初詣は1月3日、関東大学箱根駅伝をTV観戦して総合成績を確認してから行っていたが、今年は何時もの年と一日遅れの4日に行った。

関東大学箱根駅伝TV中継では必ず往路3区、復路8区では神奈川県藤沢市の遊行寺が大きく空撮で映し出される。

遊行寺については後ほど説明します。

神社入口に、大きな注連石と社号碑があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男、名は「常貞」で号を「米山」と称した。

社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」である。

社号碑の後ろに大きな朱色の鳥居がある。・・一礼して境内に進む・・10段程の石段を上がると大きな楼門が眼前に迫ってくる。

明治時代の軍人で、陸軍の三太郎と言われた一人に「仙波 太郎・中将」がいた、現在の松山市福音寺町の出身で、三輪田米山塾で教えを受けた人物である。

※ 陸軍の三太郎とは、宇都宮 太郎(陸軍大将)・桂 太郎(第11代内閣総理大臣)・仙波 太郎(陸軍中将・衆議院議員)です。

なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、これも三輪田米山である。

私の中学時代の同級生が日尾八幡神社の娘さんで、現在は結婚し東京都杉並区に在住している。2年に一度開催していた中学の同期会には何時も出席してくれた。

私の正月の過ごし方は、例年通りで、年末は全国高校駅伝(男女)元旦は、実業団駅伝、2日・3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦して総合成績を確認してからであるが、今年は4日の午前11時頃日尾八幡神社に初詣に行った。

この日、松山の外気温は11、8度でした。(我が家で測定)

なお、今年の愛媛県出身の駅伝ランナーは、宇和島東高校出身者が力走しておりました。

全国八幡社の総本宮は、大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮で「ゆく年くる年の風景」。

参考までに:その1

全国八幡社の総本宮は、大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮で、全国に11万の神社の内、4万600社あまりが八幡社だそうです。

日尾八幡神社も全国八幡社の一つです。

神奈川県藤沢市の遊行寺

参考までに:その2

関東大学箱根駅伝TV中継では必ず往路3区、復路8区では神奈川県藤沢市の遊行寺が大きく空撮で映し出される。

この遊行寺は、時宗の開祖「一遍上人」ゆかりの寺で時宗の総本山である。一遍上人は、伊予国の豪族・河野家に生まれ、10代で出家して修行して時宗を開いた。生まれた地は、現在愛媛県松山市道後湯月町にある「宝厳寺」で、愛媛県指定の史跡となっている。

平成25年8月10日火災にあった。本堂にあった国指定重要文化財・一遍上人立像が本堂とともに消失してしまった。

松山城天守最上階(約160m)から撮影「煙をあげる宝厳寺」

松山城天守最上階(約160m)から撮影「煙をあげる宝厳寺」720mm相当で撮影した。

平成25年8月10日宝厳寺火災の地元新聞記事。

平成25年8月10日,宝厳寺の火災前の本堂

宝厳寺の火災
平成25年8月10日、午後松山城のガイドで、広島県尾道市から来られた方をご案内していた所、火災発生のサイレンが鳴った。サイレンは、けたたましいものでなく、どこかの小火であったくらいに感じ直ぐ止みましたので、大した火災ではなかったと感じた。
天守最上階に上がり眺めると、道後温泉方角に火災らしき煙が上がっていた。

案内していた方に暫しの時間を頂き、直ぐにカメラを取り出し撮って拡大してみると、なんと宝厳寺の火災であることが判明した。時間は14時40分でした。
松山市の古刹、宝厳寺、松山道後温泉の宝物を無くし残念。本堂には、「国指定の重要文化財・木造一遍上人立像」があり、早い火の回りで運び出せなかったようでした。

注:撮影したのは、コンパクトカメラで、S社のDC・HX50Vのコンデジでありながら光学30倍のレンズが付いており、720mm相当で撮影しました。

平成25年8月10日、14時40分松山城天守最上階から撮影した宝厳寺の火災。

    

少し寄り道をしましたが、本題の初詣に戻ります。

大きい朱色の鳥居をくぐると楼門が見えて来る。

さーこれから158段の長い石段を上り拝殿に行きお参りをいたす。

今年は158段の石段を休みながら上がりました。足腰が弱ったなと感じた。

158段の石段を休みながら上がり拝殿前から下を見る。

158段の石段を上り詰めると拝殿がある。

日尾八幡神社の拝殿内部で、お昼前であったので初詣の方々は少なかった。

日尾八幡神社拝殿の社号額。

八幡神社の祭神、応神天皇が国内を平定する際に道案内をしたのが鳩だったことから、八幡様のお使いは「鳩」がしたので神社の社号額の八の字が「鳩で」揮毫されている。

拝殿前に作られた特設のおみくじ置き場。

158段の長い石段の中程に知られてない小さな社がある。
それは「黒田霊社」で、祭神は、黒田九兵衛霊である。

県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えている。

黒田霊社の由来:

慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し3,000人の将士を率いて美濃(関ヶ原)に進軍した。その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。

芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、このことが「伊予の関ヶ原」と言われる激戦があった。

この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率い夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。

これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。

衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな敵弾を受け戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。

この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。

昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用。

この戦いで、敗北していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い、武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守居を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際「北之郭」を造り之を与えこの功績に答えたのである。
松山城の北之郭は、佃次郎兵衛十成、一代だけの居住であった。

楼門左には、大きな石碑「忠魂碑」が建立されている。

旧愛媛県温泉郡久米村から、日清・日露・大東亜戦争に出征され戦死された方々の慰霊碑です。

忠魂碑は、明治100年記念として昭和35年10月23日建立された。揮毫者は不明である。

今年は、日本全国平穏な日々でありますように願いを込めて祈りをして神社をあとにした。

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新年のご挨拶

2025年01月04日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

皆様 新年明けましておめでとうございます

謹んで新春のお祝詞を申し上げます

令和に元号が変わり、早くも7年を迎えます

皆様今年もお元気でお過ごし下さい

さて

平成21年7月15日に開設いたしました私のお粗末なブログ、昨年もご覧頂ありがとうございました。

今年も拙いブログですが継続して行きますのでご覧頂き、そして是非ご批判頂きますと共にご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

昨年は、元日早々の地震発生「令和6年能登半島地震」一年が経過いたしますが、TVニュースで見る限り復興の速度が遅く感じます。政府の方々もっと早い復興支援を願います。

令和 7年 1月4日

画像説明:令和6年4月29日、NHKが放映した「日本最強の城スペ シャル」で使用された画像です。

この画像は、私が撮影しもので、NHKからの要請で画像提供しました。

背景の山は、西日本最高峰「石鎚山・1982m」で手前の天守は伊予松山城天守です。

この天守は、江戸時代最後に創建された天守で、安政元年の再建です。また現存12天守の一つです。

なお、西日本最高峰「石鎚山・1982m」を背景に松山城天守を入れ込み撮影出来る場所は一箇所しかない場所から撮影しました。

松山城は、標高132mの勝山山頂に建てられ、日本三大平山城・日本三大連立式天守・と言われています。

日本三大平山城:姫路城・津山城・松山城

日本三大連立式天守:姫路城・和歌山城・松山城・・です。

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三好俊吾氏 講演・演題は「大庄屋・乃万家について」

2024年12月09日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

講演をする「三好俊吾」氏

令和6年12月7日、元・松山市鷹子町、町内会長であった、三好 俊吾氏が「大庄屋・乃万家」について松山市久米公民館 鷹子集会所で講演されました。

この講演会は、久米公民館が主催する文化講座の一つとして開催されました。

その様子を簡単にご紹介いたします。

三好俊吾氏の家系は、乃万家の遠縁に当たるそうです。

さて、ここで松山市久米地区のことを簡単に紹介しておきます。

久米地区は、昭和30年5月1日松山市と合併し松山市のベットタウンとして発展をして来ました。わが故郷久米の里は、松山市で一番住みやすい町と言われております。

現在、松山市の人口は令和6年11月1現在、500,231人、四国一番の都市で、中四国でも広島市・岡山市に次いでの都市であります。

松山市の人口を覗いてみますと、

一番が石井地区で「57、286人」

次いで雄郡地区の「31、873人」

第3位が我が久米地区で「29、793人」です。

久米地区には、8の公称町名があり、その内訳は次の通りです。

北久米町=4,476人

来住町=5,616人

久米窪田町=2,542人

高井町=1,276人

福音寺町=4,231人

南久米町=5,497人

南土居町=646人

鷹子町=5,509人

以上が久米地区内の人口です。

久米地区は、程よく都市化され、程よく田園地帯があり、生活しやすい環境であります。温泉施設が三ヶ所・郊外電車が運行されており、駅が「福音寺駅・北久米駅・久米駅・鷹子駅」と4つの駅があります。そして国道11号線と旧国道11号線があり交通の便も整っております。・・東道後温泉郷とよばれております。

この様に久米地区が発展してきた源は、大庄屋「乃万家」の存在が大きく、地元の発展に寄与され現在の久米地区があるものだと思います。

その乃万家について講演された講師を紹介します。

 講演をされた、三好俊吾氏は、愛媛県温泉郡久米村大字鷹子(現・松山市鷹子町)に生まれ、私とは(筆者)義務教育時代の同期生です。

小中学校時代は何故か気心が合い親しい友達として過ごさせて頂きました。三好氏が入学した高等学校はラグビーの名門新田高等学校で、FWとして大活躍され全国大会や国民体育大会に出場し、特に昭和32年開催の第12回国民体育大会秋季大会・静岡県開催では四国代表として出場し優勝はならなかったが堂々たる第三位の成績を勝ち取る大活躍をされました。

当時の愛媛県知事、久松定武氏からその功績と栄誉を称え表彰状が贈られ、そして日本体育協会会長 東 龍太郎会長からも表彰されました。大学から誘いがありましたがラグビーは高校までと決めていたそうです。

卒業後、一時期国防の社会に身を置き航空自衛官になりましたが、以前から心の片隅に高等教育で勉学をしたいとの気持ちを抱いていました。自衛官を退官し東京の大学で高等教育(大学に進学)で勉学し卒業後、東京神田の金融機関に身を置きましたが、一身上の都合で退職、郷里の松山市の金融機関に入行しました。定年退職後は、安倍総理大臣時代の官房長官を務められました塩崎恭久氏との関わりで、自由民主党愛媛県支部連合会・久米支部長として活動、この時期に地元町内から町内会長として信任されました。現在は町内会長&久米支部長は辞任されました。

なお、元官房長官、塩崎恭久氏の嫡男、塩崎彰久議員が跡を継ぎ、三好俊吾氏は、久米地区の後援会長として活躍されています。

それでは、講演当時の画像を掲載しますので御覧下さい。

大庄屋、乃万家について講演をする三好俊吾氏と熱心に講演を聴講する参加者。

大庄屋、乃万家についての講演を熱心に聴講する参加者。

三好俊吾氏の講演を熱心に聴講する参加者。

講演会場の久米公民館鷹子集会所。

松山市鷹子町にある「素鵞神社」境内に乃万安央の顕彰碑が建立されています。

明治時代に建立する予定でありましたが、諸事情で建立が出来ず大正天皇の御大典記念を祝詞建立しました。碑文は、建立予定であった明治42年12月に撰文されていました。

平成3年10月吉日、鷹子町ふるさと会が碑文を作成し素鵞神社拝殿の天井に掲載しました。

碑文は、建立予定であった明治42年12月に撰文されていた文を、読みやすく作成しました。

平成3年10月吉日、鷹子町ふるさと会が碑文を作成し素鵞神社拝殿の天井に掲載しました。

講演終了後、三好俊吾氏の案内で現地に行き、筆者が撮影しました。

これからは、講演時に配布された資料です。

 

乃万家の本宅

松山市鷹子町、伊予鉄道横河原線の久米駅近くにあります。

 

 

 

 

乃万安央の墓:松山市南久米町の「長善寺」に建立されています。

参考事項:一時期、社会教育行政は、西日本では、兵庫県西宮市方式か、愛媛県松山市方式かと言われた時期がありました。西宮市方式は、中央公民館を核として社会教育活動を、松山市方式は地区公民館を中心とした生涯学習活動が行われました。松山では現在もそれが残っております。教育の3本柱「学校教育・社会教育・家庭教育」どれが欠けても生涯教育(人間形成)は実りません。久米公民館では多種多彩な生涯学習が行われています。

今回の、三好俊吾氏の講演も、社会教育活動の一環の一つです。

 

 

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私の散歩道春夏秋冬 彼岸花

2024年10月13日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今年の7月11日、少し熱があるのと、咳が出て体調が異常なので近所の内科医院で診察して頂きました。念の為コロナの検査をしますとの事で検査をすると陽性で、コロナに感染していました。抗ウイルス薬(ラゲプリオカプセル)5日分・咳止め・解熱剤を調剤してくれました。

コロナの症状は治まったのですが咳が止まらなく7月23日再度診察をいたし咳止めのお薬を調剤シテ頂き服用し服用後11日目に咳も止まり回復しました。

しかし、コロナの副作用か?倦怠感・疲労感・関節痛・足の筋力低下・集中力の低下・等々でコロナ感染前までは毎日40分ウオーキングをして足の筋力低下防止に努めていましたがコロナに感染しそして今年の夏は高温多湿でウオーキング等出来る状態ではなかったので外出もせず家に閉じこもっていました。

10月になってから少し涼しくなったのでウオーキングを始めましたがメッキリ足が弱っていました。昨日から心して足の筋力回復に努力しようと歩き始めました

今日、(10月13日)私の散歩道に咲く、彼岸花の写真を撮って来ましたので見て下さい。

散歩道に沿って川附川がありその堤防に彼岸花が咲いています。

今年は高温の為か咲く時期が遅れています。

今週が見頃です。

白色の彼岸花も咲いていました。

彼岸花の中に画像の花が咲いていました。私は植物には疎いので花の名前は分かりません。

雑草は元気で高温多湿の現況にも負けずに、元気よく送電線の電柱に付設している倒壊防止の支線に絡みつき異様な景色でした。除去しないと送電に支障を来すかも??

川附川とその堤防で画像上が上流です。左岸の細い道路を散歩者は歩きます。殆ど車は通りません。右岸は道幅が広いので車が多く通ります。

画像の橋は、しんせい橋で手前に国道33号線に掛かる天山橋があります。

しんせい橋の直ぐ側に伊丹十三記念館があります。

散歩道は、国道33号線の歩道に繋がっています。

天山橋手前から見た国道33号線で、松山市街方向です。

散歩道は、国道33号線で終点になり私はここで折り返します。

我が家から往復して40分です。

国道33号線上に松山城天守が見えます。天山橋から撮影。

我が家の近くに福祉センターがあり、施設を利用する方々が介護士さんに付き添われて散歩道を、ある人は歩行訓練をまた気分転換に出ておられます。

散歩道には、染井吉野桜もあり春には施設の皆さん介護士さんに連れられてお花見もされます。画像は昨年撮影です。

画像は、川附川と散歩道で左側は天山です。そこに6本の染井吉野桜が植樹されています。

なお、天山は、日本書紀や古事記に出てくる有名な山で、伊予風土記に記載されている事項には「天上にあった山が二つに分かれて落ち、その一つが奈良県の天香久山、そしてもう一つが伊予の天山になったと言われる山で、奈良県の天香久山と姉妹の山です。

大和三山=天香久山・畝傍山・耳成山で

伊予天山三山=天山・土亀山・星岡山と言われ隣接する東山を合わせて天山四山とも呼ばれている。

天山の位置関係を示しておきます。

画像は、上が北方向で、下が南方向です。私が散歩をするコースは、画像に天山がありますが、天山の南面麓に細い道がありますその道を歩いております。染井吉野桜も、天山の南面麓に植樹されています。

画像、星岡山は鎌倉時代の末期、幕府方と朝廷側による王政復古の戦いが起こった。此の戦いが全国に波及して鎌倉幕府は滅亡、畿内では楠木正成、新田義貞が宮方軍として奮戦した湊川の戦いが有名。

星岡山は、鎌倉幕府滅亡のきっかけとなった古戦場跡である。(伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行われた。河野一族の土居通増と得能通綱は宮方として戦った。)

参考に:(伊予天山三山の標高は=天山・51m・土亀山・50m・星岡山・75m)。

土亀山のことも少し記述しておこう。伊予天山三山の中で一番小さな山です。此処には松山市福音寺町川附地区の墓地があり、墓地の一角に旧帝国陸軍第1師団長 第11代 目 仙波太郎 陸軍中将の墓所がある。

そして、正岡子規が読んだ句碑がある、句は、明治25年、冬の終わりに正岡子規が詠んだ「凩に はひつくばるや 土亀山」だが、この時子規は東京大学の学生で松山には居なかった。上京する前にこの地区を吟行した時を思い出して詠んだのではなかろうか?

句碑は、平成30年4月13日、建立された松山市内で子規の句碑としては一番新しい碑である。

天香久山は奈良県橿原市南浦町にあり、天山は、松山市天山町に所在します。

南浦町と天山町とは、姉妹町提携を結び交流をしており、天山山頂にある、天山神社拝殿右側には交流20周年記念の石碑が建立されています。

 

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