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EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

三好俊吾氏 講演・演題は「大庄屋・乃万家について」

2024年12月09日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

講演をする「三好俊吾」氏

令和6年12月7日、元・松山市鷹子町、町内会長であった、三好 俊吾氏が「大庄屋・乃万家」について松山市久米公民館 鷹子集会所で講演されました。

この講演会は、久米公民館が主催する文化講座の一つとして開催されました。

その様子を簡単にご紹介いたします。

三好俊吾氏の家系は、乃万家の遠縁に当たるそうです。

さて、ここで松山市久米地区のことを簡単に紹介しておきます。

久米地区は、昭和30年5月1日松山市と合併し松山市のベットタウンとして発展をして来ました。わが故郷久米の里は、松山市で一番住みやすい町と言われております。

現在、松山市の人口は令和6年11月1現在、500,231人、四国一番の都市で、中四国でも広島市・岡山市に次いでの都市であります。

松山市の人口を覗いてみますと、

一番が石井地区で「57、286人」

次いで雄郡地区の「31、873人」

第3位が我が久米地区で「29、793人」です。

久米地区には、8の公称町名があり、その内訳は次の通りです。

北久米町=4,476人

来住町=5,616人

久米窪田町=2,542人

高井町=1,276人

福音寺町=4,231人

南久米町=5,497人

南土居町=646人

鷹子町=5,509人

以上が久米地区内の人口です。

久米地区は、程よく都市化され、程よく田園地帯があり、生活しやすい環境であります。温泉施設が三ヶ所・郊外電車が運行されており、駅が「福音寺駅・北久米駅・久米駅・鷹子駅」と4つの駅があります。そして国道11号線と旧国道11号線があり交通の便も整っております。・・東道後温泉郷とよばれております。

この様に久米地区が発展してきた源は、大庄屋「乃万家」の存在が大きく、地元の発展に寄与され現在の久米地区があるものだと思います。

その乃万家について講演された講師を紹介します。

 講演をされた、三好俊吾氏は、愛媛県温泉郡久米村大字鷹子(現・松山市鷹子町)に生まれ、私とは(筆者)義務教育時代の同期生です。

小中学校時代は何故か気心が合い親しい友達として過ごさせて頂きました。三好氏が入学した高等学校はラグビーの名門新田高等学校で、FWとして大活躍され全国大会や国民体育大会に出場し、特に昭和32年開催の第12回国民体育大会秋季大会・静岡県開催では四国代表として出場し優勝はならなかったが堂々たる第三位の成績を勝ち取る大活躍をされました。

当時の愛媛県知事、久松定武氏からその功績と栄誉を称え表彰状が贈られ、そして日本体育協会会長 東 龍太郎会長からも表彰されました。大学から誘いがありましたがラグビーは高校までと決めていたそうです。

卒業後、一時期国防の社会に身を置き航空自衛官になりましたが、以前から心の片隅に高等教育で勉学をしたいとの気持ちを抱いていました。自衛官を退官し東京の大学で高等教育(大学に進学)で勉学し卒業後、東京神田の金融機関に身を置きましたが、一身上の都合で退職、郷里の松山市の金融機関に入行しました。定年退職後は、安倍総理大臣時代の官房長官を務められました塩崎恭久氏との関わりで、自由民主党愛媛県支部連合会・久米支部長として活動、この時期に地元町内から町内会長として信任されました。現在は町内会長&久米支部長は辞任されました。

なお、元官房長官、塩崎恭久氏の嫡男、塩崎彰久議員が跡を継ぎ、三好俊吾氏は、久米地区の後援会長として活躍されています。

それでは、講演当時の画像を掲載しますので御覧下さい。

大庄屋、乃万家について講演をする三好俊吾氏と熱心に講演を聴講する参加者。

大庄屋、乃万家についての講演を熱心に聴講する参加者。

三好俊吾氏の講演を熱心に聴講する参加者。

講演会場の久米公民館鷹子集会所。

松山市鷹子町にある「素鵞神社」境内に乃万安央の顕彰碑が建立されています。

明治時代に建立する予定でありましたが、諸事情で建立が出来ず大正天皇の御大典記念を祝詞建立しました。碑文は、建立予定であった明治42年12月に撰文されていました。

平成3年10月吉日、鷹子町ふるさと会が碑文を作成し素鵞神社拝殿の天井に掲載しました。

碑文は、建立予定であった明治42年12月に撰文されていた文を、読みやすく作成しました。

平成3年10月吉日、鷹子町ふるさと会が碑文を作成し素鵞神社拝殿の天井に掲載しました。

講演終了後、三好俊吾氏の案内で現地に行き、筆者が撮影しました。

これからは、講演時に配布された資料です。

 

乃万家の本宅

松山市鷹子町、伊予鉄道横河原線の久米駅近くにあります。

 

 

 

 

乃万安央の墓:松山市南久米町の「長善寺」に建立されています。

参考事項:一時期、社会教育行政は、西日本では、兵庫県西宮市方式か、愛媛県松山市方式かと言われた時期がありました。西宮市方式は、中央公民館を核として社会教育活動を、松山市方式は地区公民館を中心とした生涯学習活動が行われました。松山では現在もそれが残っております。教育の3本柱「学校教育・社会教育・家庭教育」どれが欠けても生涯教育(人間形成)は実りません。久米公民館では多種多彩な生涯学習が行われています。

今回の、三好俊吾氏の講演も、社会教育活動の一環の一つです。

 

 

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私の散歩道春夏秋冬 彼岸花

2024年10月13日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今年の7月11日、少し熱があるのと、咳が出て体調が異常なので近所の内科医院で診察して頂きました。念の為コロナの検査をしますとの事で検査をすると陽性で、コロナに感染していました。抗ウイルス薬(ラゲプリオカプセル)5日分・咳止め・解熱剤を調剤してくれました。

コロナの症状は治まったのですが咳が止まらなく7月23日再度診察をいたし咳止めのお薬を調剤シテ頂き服用し服用後11日目に咳も止まり回復しました。

しかし、コロナの副作用か?倦怠感・疲労感・関節痛・足の筋力低下・集中力の低下・等々でコロナ感染前までは毎日40分ウオーキングをして足の筋力低下防止に努めていましたがコロナに感染しそして今年の夏は高温多湿でウオーキング等出来る状態ではなかったので外出もせず家に閉じこもっていました。

10月になってから少し涼しくなったのでウオーキングを始めましたがメッキリ足が弱っていました。昨日から心して足の筋力回復に努力しようと歩き始めました

今日、(10月13日)私の散歩道に咲く、彼岸花の写真を撮って来ましたので見て下さい。

散歩道に沿って川附川がありその堤防に彼岸花が咲いています。

今年は高温の為か咲く時期が遅れています。

今週が見頃です。

白色の彼岸花も咲いていました。

彼岸花の中に画像の花が咲いていました。私は植物には疎いので花の名前は分かりません。

雑草は元気で高温多湿の現況にも負けずに、元気よく送電線の電柱に付設している倒壊防止の支線に絡みつき異様な景色でした。除去しないと送電に支障を来すかも??

川附川とその堤防で画像上が上流です。左岸の細い道路を散歩者は歩きます。殆ど車は通りません。右岸は道幅が広いので車が多く通ります。

画像の橋は、しんせい橋で手前に国道33号線に掛かる天山橋があります。

しんせい橋の直ぐ側に伊丹十三記念館があります。

散歩道は、国道33号線の歩道に繋がっています。

天山橋手前から見た国道33号線で、松山市街方向です。

散歩道は、国道33号線で終点になり私はここで折り返します。

我が家から往復して40分です。

国道33号線上に松山城天守が見えます。天山橋から撮影。

我が家の近くに福祉センターがあり、施設を利用する方々が介護士さんに付き添われて散歩道を、ある人は歩行訓練をまた気分転換に出ておられます。

散歩道には、染井吉野桜もあり春には施設の皆さん介護士さんに連れられてお花見もされます。画像は昨年撮影です。

画像は、川附川と散歩道で左側は天山です。そこに6本の染井吉野桜が植樹されています。

なお、天山は、日本書紀や古事記に出てくる有名な山で、伊予風土記に記載されている事項には「天上にあった山が二つに分かれて落ち、その一つが奈良県の天香久山、そしてもう一つが伊予の天山になったと言われる山で、奈良県の天香久山と姉妹の山です。

大和三山=天香久山・畝傍山・耳成山で

伊予天山三山=天山・土亀山・星岡山と言われ隣接する東山を合わせて天山四山とも呼ばれている。

天山の位置関係を示しておきます。

画像は、上が北方向で、下が南方向です。私が散歩をするコースは、画像に天山がありますが、天山の南面麓に細い道がありますその道を歩いております。染井吉野桜も、天山の南面麓に植樹されています。

画像、星岡山は鎌倉時代の末期、幕府方と朝廷側による王政復古の戦いが起こった。此の戦いが全国に波及して鎌倉幕府は滅亡、畿内では楠木正成、新田義貞が宮方軍として奮戦した湊川の戦いが有名。

星岡山は、鎌倉幕府滅亡のきっかけとなった古戦場跡である。(伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行われた。河野一族の土居通増と得能通綱は宮方として戦った。)

参考に:(伊予天山三山の標高は=天山・51m・土亀山・50m・星岡山・75m)。

土亀山のことも少し記述しておこう。伊予天山三山の中で一番小さな山です。此処には松山市福音寺町川附地区の墓地があり、墓地の一角に旧帝国陸軍第1師団長 第11代 目 仙波太郎 陸軍中将の墓所がある。

そして、正岡子規が読んだ句碑がある、句は、明治25年、冬の終わりに正岡子規が詠んだ「凩に はひつくばるや 土亀山」だが、この時子規は東京大学の学生で松山には居なかった。上京する前にこの地区を吟行した時を思い出して詠んだのではなかろうか?

句碑は、平成30年4月13日、建立された松山市内で子規の句碑としては一番新しい碑である。

天香久山は奈良県橿原市南浦町にあり、天山は、松山市天山町に所在します。

南浦町と天山町とは、姉妹町提携を結び交流をしており、天山山頂にある、天山神社拝殿右側には交流20周年記念の石碑が建立されています。

 

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松山の偉人伝その3 新田長次郎 

2024年10月07日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

         正装姿の新田長次郎

  「松山市立味生小学校 校長室に展示、許可得て撮影。」

 新田長次郎は、安政4年5月29日 伊予国温泉郡山西村(現在 松山市山西町)の農家、新田喜惣次の次男として出生した。生家は農家であったが代々新田姓を名乗り、南北朝時代足利尊氏に敗れ各地に分散した新田氏の流れを汲んでいた。長次郎5歳の時、父喜惣次が急死新田家は苦境にたたされた。ある日「おいりんかー」と売り声をあげて魚の行商をする少年を見た 母ウタは、長次郎にお前も行商に行って家計を助けておくれと言い付けた。明治5年長次郎15歳の時であった。なお、魚の行商をしていた少年は仙波太郎で、安政2年4月生まれの長次郎とは2歳年上であった。仙波家は、温泉郡久米村福音寺の庄屋の家柄であったが維新前後の混乱と、父親を亡くして没落、家の再興という重荷を背負はなければならなくなり人の数倍の働きを自分に課していた。

 さて、長次郎は、母の言いつけに従い家計を助けるため城下に行商に行くことにした。明治4年廃藩置県が行われた時であった。松山の城下徒行町の秋山邸に行商に行ってみると、長次郎と同い年くらいの少年が縁側で熱心に本を読んでいた。長次郎が声をかけた「何の本を読んどるんぞなもし」私は、山西村の新田長次郎という者じゃけんど。すると「わしは、秋山信三郎じゃ、読んでおる本はな、福沢諭吉という人が書いた「学問のすすめ」なんじゃ、ええことが書かれておるぞな。本をお貸しするが新田さんも読んでみんかなもし・・と勧めた。これが新田長次郎と秋山信三郎の出会いであった。「学問のすすめ」は初編から17編までとして発行されていた。二人は、学問のすすめを通して意気投合し、何時しか「長さん」「信さん」と呼ぶ仲になっていた。「学問のすすめ」を読んで二人が痛感したのは、「人の差は生まれつきにあるのではなく、学問をどれだけしたか、しなかったかによるものであると悟り、教育こそが国の礎となる事を学び取った。そして、二人は「独立自尊」を座右の銘として人間形成を確立するには、信三郎は学校に行き教師の道を、長次郎は会社を興し成功したらその財をもって青少年の学業の施設(学校)を創るという大きな志を抱いたのであった。

  「大分県中津市の福沢諭吉記念館に展示してある学問のすすめで許可を得て撮影。」

 ある日、信三郎は長次郎に対し「長さん、わしは学校の教師になろうと思い大阪師範学校に入学しようと計画している事を打ち明けた。そうかな、それでは私も大阪に行き起業し成功したら学校を建設するよう頑張るよと二人は大きな志を語り合った。

 この時、長次郎16歳、信三郎14歳であった。信三郎は16歳で教師を志して大阪師範学校入学を目指し大阪に、この時名前を信三郎から好古に改名した。長次郎も親友の信三郎と共に大阪行きを母に願うが、母は20歳まではだめだと許しがもらえず行商をして家計を助けた。長次郎は、母ウタとの約束の満20歳となる5月29日の前日知人を頼って大阪に旅立った。信さんよりも大阪行きが遅くなったが、志は変わらず大きな目標は、起業を目指し、一生懸命に努力し成功したら学校をつくることであった。大阪には三津浜出身で、新田家とは親の代から懇意にしていた林家を尋ね就職の世話になった。明治10年11月、設立したばかりの「藤田組製革所」の職工として入社した。ここで一生懸命努力し皮革の扱いの技術を身に着け超一流の職人となった。

 明治17年12月、西成郡難波村久保吉(現、浪速区久保吉)に自宅兼工場の会社を立ち上げた。この時好古は、大阪師範学校卒業後、名古屋師範学校附属小学校の教師をしていたが、同校の教務官(教頭)和久正辰と、名古屋鎮台の武官・山本忠彰、共に伊予松山出身で、この二人の強い勧めにより軍人となり階級は、陸軍騎兵大尉であった。(明治10年4月陸軍士官学校入学、専攻科目は、後の内閣総理大臣となる寺内正毅の勧めで騎兵科を専攻した。)

 長次郎は、明治21年に日本で初めてとなる動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカーとなった新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)を創業「東洋一のベルト王」と呼ばれるまでになり、その後学校建設に尽力をした。

 明治37年2月8日、日露戦争が勃発。好古は千葉県習志野で騎兵第一旅団長の任に付き階級は陸軍騎兵少将であった。ロシア帝国は南下政策を企てており既に旅順港に帝国ロシア海軍太平洋第一艦隊(通称・旅順艦隊)がいた。日本は欧米列強によって制圧され、植民地化されることを避けんがためと、他国に支配されることに対する不安と恐怖があった。長次郎も何か役に立ちたいと思い、自宅を開放し、大阪港から出航する部隊の将校用宿舎として提供した。旭川第7師団栃内大隊長一行が20日間滞在した。秋山騎兵旅団は奉天の戦いで大活躍し明治37年9月5日、日露講和条約に調印戦いは終わった。長次郎は、革の鞣(なめ)しに不可欠なタンニンを多く含む槲(かしわ)が欲しく、林野が広がる北海道に進出したかった。その便宜を図ってくれたのが旭川第7師団栃内師団長であった。

 明治政府は、強くて豊かな国造りに努め、手始めに富岡に製糸場を建設した。富岡には広大な土地と、製糸に欠かせない豊かな用水が有り、養蚕が盛んであった。製品は高品質に重点を置き海外で高く評価された。そして日本各地に工場が設置され、製糸機械も国産化された。機械を動かすには、絶対欠かせない動力伝導革ベルトが必要で、新田革ベルトは生産が間に合わぬ程多忙となり、海外製品よりも耐久性があり、安価で大変好評であった。そして国産の豊田自動織機が開発され、益々ベルトの需要が増え新田帯革製造所は大きく栄えた。

        「最盛期の新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)」

 明治44年、大阪難波警察署長・天野時三郎から長次郎に依頼があった。夜間に学習が出来る学校設立であった。長次郎は快く了承し開校に向けて取り掛かった。この地区は、生活が苦しい家庭が多く子ども達は、昼間家計を助けるため仕事をして学校に行くことが困難な子供達が大勢いた。開校には、学校運営の一切の経費を負担したうえ、生徒の学用品、衣服、履物まで支給して教育に尽くした。翌年昼間も学習が出来る、二部授業制に拡張した。信三郎と読み交わした「福沢諭吉の学問のすすめ」に共感しての事であった。学校は、私立有隣小学校と命名され大正11年3月大阪市に移管されるまで長次郎が全ての費用を負担した。大阪市は一個人に負担を掛けてはいけないと考えての事だった。現在は、大阪市立栄小学校となり存続している。

「長次郎が開校した私立有隣小学校で、現在は大阪市立栄小学校となっている、平成29年5月10日私が撮影。」

               所在地:大阪市浪速区浪浪速東一丁目1番61号

 その後、大正13年四国で始めてとなる私立松山高等商業学校創設を目途に松山で設立準備をしていたがどうしても設立資金が調達できず困っていた。井上要と加藤恒忠は、大阪の新田長次郎を尋ね資金援助を願い出た。この意に賛同した長次郎は、開校設立資金全額を負担した。また郷里の味生尋常小学校校舎増築に際しても多額の寄附を行い故郷の青少年教育に多大なる尽力をした。

 同年3月、北豫中学校長・加藤彰廉が新設される松山高等商業学校(現・松山大学)初代校長として就任することになり、北豫中学では理事会を開催し、後任の校長に何方にお願いするかが議論された。井上代表理事は、後任の校長には、秋山好古陸軍大将しかないと考えていた。理事会では、予備役とはいえ陸軍大将を田舎の中学校長にお願いするのは大変失礼な事であるからと就任依頼をしないことで一致していた。しかし井上要代表理事は他の理事の反対を押し切って、東京四谷に居た秋山好古を訪ねて次のように要請したのである。

「いま、北豫中学校の校長の適任者がいないので困っております。暫しの間、名前だけで結構ですので出して頂き、将軍が松山にお帰りになった時、学校に来て生徒達と遊んで頂くだけで結構です。どうかお名をお貸し下さい。」・・と願い出た。好古はこの事は事前に察知していた。そして長次郎に密かに相談をしていた。長さんは、次のように進言した。「信さんの初心の志は、教育者になることだったから北豫中学校校長就任は、お受けしないとだめでしょう。松山の青少年教育の振興に尽力して下さい。」と言った。

 好古は、幼年期に母・貞からの教えとして「信よ、大きくなったら、世のため・人のため・そして故郷のために尽くせる人になるようにと」躾育てられたことが頭をよぎり校長就任は決めていた。この時好古は、66歳で前年65歳の時、元帥に推薦されるもこれを辞退している。大元帥(大正天皇)は驚かれた。大正天皇は、好古に特旨として官位従二位を与えた。元帥を辞退したのは好古が初めてのことで何故辞退したのか不明である。

 好古は、東京に来た、井上要に「外に人がいなければ校長の名前は出してもよい。何でも奉公するよ」・・と言って承諾した。応答は10分で好古校長就任の金的を撃ち落とし使命を果たした井上は、鼻高々と松山に帰りこれを報告した。好古は、井上理事に「大正13年2月20日頃松山に帰るからと伝えた。」

 新年度に入る前に、好古は、親友の新田長次郎と連れだって期を違えず北豫中学校に登校したのであった。時まさに、大正13年3月の事であった。

 松山に帰られた時に学校に来て頂き、生徒と触れ合ってくださるだけでいいのが、なんと大正13年3月から昭和5年3月31日までの6年間、それも無遅刻無欠勤(公務で主張以外)で登校し校長を努めた。

担任の教師が休むと休講自由時間となるが、秋山校長は、自ら教壇に立ち授業を進め、休講にしなかった。

 明教館で基礎教育を身に付け、大阪師範学校で・陸軍士官学校で・陸軍大学校で学び、そして久松定謨が仏蘭西のサンシール士官学校に留学するにあたり軍事補導役として渡仏、好古も仏蘭西で勉学した。このように各種学校で知識を身に着けていたからそれを駆使して授業が出来た。(校長が教壇に立ち授業をする・・前代未聞であった。)東京の新聞に次の事が報じられた。「元帥を辞退し、錦をステテ故郷田舎の中学校長となった秋山大将」・・と報道され暫く話題となった。

 校長時代夏休みには、必ず新田長次郎が経営する北海道の牧場を訪ね馬の飼育指導を行った。また大正7年、北海道幕別町にベニヤ合板製造会社を設立した時も好古は北海道に視察に行き、親友の新田長次郎と親交を深めた。

「就任した当時の北豫中学校卒業證書・秋山兄弟生誕地所蔵・宮崎氏から寄贈」

      「大正13年4月に開校新設された当時の松山高等商業学校・現 松山大学」

 松山高等商業学校は、大正13年4月開校したが校舎の建設が間に合わず暫くの間秋山好古が校長をしていた北豫中学校の教室を借りて授業をした。

 高等商業学校開設については、香川県高松市からも希望があったが、文部省は四国に一校のみと規定されていたので松山に許可が下った。

「松山高等商業学校開校式に 新田長次郎・元内閣総理大臣 清浦奎吾・秋山好古達が参列した。

     (左から:秋山好古・清浦奎吾・新田長次郎・秋山兄弟生誕地所蔵)

「味生尋常小学校校舎増築落成式に参列、左三人目から、新田長次郎・清浦奎吾・秋山好古・味生小学校誌より」

 味生小学校体育館舞台右側には、元内閣総理大臣 清浦奎吾の扁額が、左側には新田長次郎揮毫の扁額が掲げられている。

  「味生小学校体育館に掲げられている元内閣総理大臣 清浦奎吾揮毫の扁額」

「味生小学校体育館に掲げられている新田長次郎揮毫の扁額で共に校長先生の許可を得て撮影」

「昭和5年5月11日、好古は長次郎宅(温山荘)を訪れこれが二人の最後となる。・秋山兄弟生誕地所蔵」

 二人の友情は、昭和5年迄続いた。そして別れは、同年3月好古が北予中学校長を辞任し東京に帰る時、大阪の新田長次郎宅(温山荘)を訪れ一晩主屋座敷に布団を並べ、横になり過ぎし日々の事を何度も繰り返し話し合った。朝になり好古は写真を撮ろうと言い出した。長次郎は庭に椅子を置き、二人並んで記念写真を撮った。好古は背広姿、長次郎は紋付き袴姿で、これが二人の永遠の別れとなった。好古は、東京に帰り同年11月4日陸軍病院で亡くなった。享年72歳。

長次郎は、あの時信さんは別れの挨拶に来てくれたのだったのか、もっと話をしたかったと号泣されたそうだ。

長次郎は、昭和11年7月17日没、享年80歳。新田帯革製造所・新田ベニヤ合板製造所として創業し、日本一の会社を創り上げた実業家で教育には大変理解のあった人であった。

             「秋山兄弟生誕地・私が撮影」

 17年1月18日に完成した秋山兄弟生誕地、この日NHK総合テレビ朝の大型ニュース番組「おはよう日本」で、現地から全国にライブでその様子が放送された。

 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が平成21年から放映と報道され、これに伴い秋山兄弟生誕地整備事業が始まった。その経費は、全国の秋山好古・眞之の支援者からの醵金で行われ「ニッタ株式会社」から多額の寄附があった。現在のニッタ株式会社が存続しているのは秋山好古さんのお陰で深い思いがありますと、5年前開催された「秋山好古生誕祭」に参列された、現・新田社長は、挨拶の中にお礼の言葉があった。

 なお、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」は地上波で令和6年9月8日(毎週日曜日)午後11時から再放送されている。

 偉人伝のもう一つの話題に、関東大震災のことがある。大正12年9月1日に発生、明治以降の日本の地震としては最大規模の被害となった。復興には多くの建築資材が必要であったが不足していた。長次郎は革ベルトに使った接着剤を応用して合板を造った。これが現在のベニア板である。この合板が東京大震災の復興に大変役に立ち首都東京の震災復興を早めたのである。長次郎は、ベニア合板も日本で始めて開発製造したのであった。

 今もこのベニヤ合板は、株式会社ニッタが高級車の木目ダッシュボード用等に少量生産しているそうだ。

最後に「琴の浦温山荘園」について言及しておく。

         「和歌山県海南市にある琴の浦温山荘園」

         画像は、平成24年3月13日、私が撮影。

         「日本一の個人庭園:琴の浦温山荘園」

 琴の浦温山荘園は、新田長次郎が我が人生を振り返り、想いを込めて別宅庭園として造ったがもう一つの目的は、長次郎の故郷、旧伊予松山藩藩主久松定謨伯爵が来阪の際の迎賓館として建造された。また久松伯爵の他、伏見宮文秀女王や、皇族らがしばしば来訪し、随行した桂太郎、清浦奎吾、東郷平八郎、秋山好古らが訪れ、その時揮毫した扁額が、温山荘・主屋に掲げられている。庭園に建つ建屋の設計は、娘婿である建築家・木子七郎で、庭園の設計は、武者小路千家、家元名代の木津宗泉の指導である。大正元年10月に着手し昭和4年の完成で長きの年月を掛けて造り上げた名園である。

 面積は59,400平方メートル、(1万4千坪)日本全国で17位、個人庭園としては日本最大で、国指定名勝・建造物も国指定登録有形文化財に登録されている。名称は、新田長次郎の雅号である温山より「琴の浦温山荘園」と帝国海軍元帥・東郷平八郎が命名した。

 長次郎没後、翁の遺志に基づき本園の施設の一切と、維持資金を提供して財団法人琴ノ浦温山荘園を設立し長く風致の保存をはかるとともに氏の遺徳を後代に伝えることにした。その管理にあたっては平成22年文化庁より、庭園は国指定の名勝に、建造物は重要文化財に指定され平成23年7月、県より公益財団法人として認定された。

所在地は:〒642-0001 和歌山県海南市船尾370番地

「琴ノ浦温山荘園 主屋座敷で、画像右側が秋山好古揮毫の扁額・左側が東郷平八郎揮毫の扁額である。」

 昭和5年5月11日、北豫中学校長を辞任し東京に帰る時、無二の親友である新田長次郎宅(温山荘)を訪れ、一晩主屋座敷に布団を並べ、横になり過ぎし日々の事を何度も繰り返し話し合った永遠の別れとなった場所である。

      「琴ノ浦温山荘園主屋に掲示されている秋山好古揮毫の扁額」

     「琴ノ浦温山荘園主屋に掲示されている東郷平八郎揮毫の扁額」

    (平成24年3月13日、琴ノ浦温山荘園の許可を得て私が撮影。)

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NHKスペシャルドラマ坂の上の雲「地上波」で再放送決定

2024年08月31日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

令和6年8月16日(金曜日)報道の地元新聞・愛媛新聞記事。

NHKが作成した「坂の上の雲」のポスター

ポスターの下部には「この壮大な物語は、伊予・松山から始まる。」と書かれている。

海老沢 勝二、第17代日本放送協会会長時代に、NHKの歴史に残るドラマの作成は、坂の上の雲を差し置いてないとの考えで、司馬遼太郎の許可をとるもその承諾を得られず、司馬さんの死後、NHKの「総力を挙げて取り組みたい」との熱意と映像技術の発展により、作品のニュアンスを正しく理解できる映像化が可能となったとして平成11年に司馬遼太郎記念財団が映像化を許諾。

その後、著作権を相続した福田みどり夫人の許諾を得て、平成14年には志願したスタッフを中心に製作チームが結成され、NHKが総力を挙げて11年掛かりで制作、平成21年から平成23年の3年間に渡って放送したスペシャルドラマ「坂の上の雲」をもう一度全てを短時間で見たいとの声が秋山兄弟生誕地を訪れる全国の皆さんからの声が多くあり、平成23年5月から「坂の上の雲再放送」をNHKにお願いする署名活動を開始した。

NHKは、全国の多くの再放送請願に応えて頂き再放送を決定して頂いた。再放送開始は、BSで、平成26年10月5日(日曜日)の正午から、全26回・各45分で半年間に渡り放映された。

今回再び再放送される。

今回は、地上波総合テレビ令和6年9月8日午後11地から毎週日曜日に再放送される。

地元新聞、愛媛新聞令和6年8月16日(金曜日)版に報道された。

これからの画像は、錚々たる出演者が演じている中で秋山兄弟生誕地にお越しになり、私がご案内した出演者方々です。本木雅弘さん、竹下景子さん、藤本隆宏さんの3名をご紹介します。

先ずは本木雅弘さんです。

本木さんは、物腰の低い、言葉遣いが丁寧で、字が綺麗なのには驚きであった。書道7段だそうです。

秋山眞之胸像に立たれる本木雅弘さん。

本木雅弘さんは、秋山兄弟生誕地にお越しになられた時の第一声は、「私は、本木雅弘と言います。この度坂の上の雲で秋山眞之さんの役を仰せ付けられました。本日は生誕地にお伺いいたし、しっかりと勉強をさせて頂きにお伺いいたしましたのでよろしくお願いいたします。・・と言う丁寧なご挨拶でした。

NHKのチーフデレクターと、本木さんの事務所の女性がお付きでお越しになり秋山兄弟生誕地の研究員が説明をいたしましたが、本木さんは真剣に説明を聞き入っておられました。

秋山兄弟生誕地にあるVTRの資料を真剣な面持ちで視聴されていました。

秋山兄弟生誕地にあるVTRの資料を視聴。

秋山兄弟生誕地の研究員の説明を聞かれる本木さんとお供の女性。

秋山兄弟生誕地の研究員の説明を真剣に聞かれる本木さん。

県外から観光に来られた方の「オネダリ」で記念撮影に気軽に応じられる本木さん。

私が秋山兄弟生誕地の記念に保存いたしたく色紙にサインをお願いしましたら気持ちよく書いて頂きました。

本木さんが書かれたサインで、字が綺麗なものですからお供の女性に「本木さんは字が綺麗ですねと伺うと・・本木は書道7段ですと言われた。」

ドラマで日本海軍連合艦隊司令長官・東郷平八郎が、旗艦三笠で連合艦隊解散の辞の挨拶をするが、内容は秋山眞之が起案した。

 

秋山眞之(本木さんが解散の辞の原案を書くシーン。)

本木雅弘さんは書道7段の腕前を遺憾なく発揮し堂々と書き上げる。

もしも筆字が書けない俳優さんが秋山眞之の役であれば、違った場面の画像になっていたと思う。

解散の辞の原案を書き上げて、東郷平八郎の決済を受け巻紙に清書。

本木さんが実際に書く場面である。

場面は、坂の上の雲(26)日本海海戦(後編)にある。

秋山眞之(本木雅弘さんが清書した巻き紙)が起草した解散の辞を読み上げる「連合艦隊司令長官・東郷平八郎」。

秋山眞之は海軍一の文才の持ち主であった。解散の辞の最後の言葉が素晴らしい。

眞之の幼少時代、母・貞は眞之(淳五郎)の文才を見抜き苦しい家計をやりくりして塾に通わせていた・・その成果があったのか?母のお陰である。

文才の持ち主の現れの一つに、有名な「天気晴朗ナレドモ波高シ」がある。

(戦艦三笠事務局の許可を得て撮影)

 

JR四国、予讃線特別急行列車「しおかぜ号」にラッピングされた坂の上の雲号・特別列車としてJR西日本岡山駅からJR四国・松山駅間を走行し大変な話題になった。

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日本最強の城の一つ伊予松山城

2024年06月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

令和6年4月29日午後7時30分からNHK総合TVで 放映された「日本最強の城スペシャル」の一場面。

画像は、TVに放映された画像をデジカメで撮影、縁を切り取った画像。

TVに放映された画像をデジカメで撮影したもの、縁を切り取る前の画像。

令和6年4月11日松山観光コンベンション協会事務局からNHK番組の「あなたも絶対行きたくなる日本最強の城スペシャル」制作スタッフから放映に使用したい画像があります。使用許可をお願いします・・との連絡があった。

その画像は、私が以前「松山観光コンベンション協会」のHPに掲載した画像で、西日本最高峰の石鎚山1982mを背景にした伊予松山城天守であった。

NHKさんは、使用をさせて頂けるのであれば原画が欲しいとの由、原画を送った。放映は4月下旬頃だとはっきりした放映日時の連絡はなかった。

これからの画像は、原画である。

NHKには数種類の画像を送った。

石鎚山は、松山から観るのが一番綺麗に観える。

使用した機材は、カメラ:CANON 7D

レンズ:CANON ZOOM EF100~400m ZOOM

伊予松山城は、松山市のほぼ中心部の標高132mの勝山山頂に位置し天守最上階は160mあり全国にある城(現存天守・復元天守・復興天守・外観復元天守)平山城・平城・山城の中で伊予松山城は、日本三大平山城の一つ(津山城・姫路城・伊予松山城)の内一番高い所に本丸がある。

少しレンズを引いて撮影すると松山の町並みが視えてくる。

松山市の人口は、令和6年5月1日現在 499,930人、中四国で三番目の人口を有し広島市・岡山市に次いでの自治体で、四国では一番の人口を抱える街である。

西日本最高峰の石鎚山1982mを背景に日本三大平山城・日本三大連立式天守を誇る天守を撮影出来る場所は、一箇所しかない、この撮影場所を見つけるのに大変な苦労をした。

撮影に行ってみると先人たちはスタンバイしていた。

撮影の方角から考えると、松山総合公園と誰しも思い行ってみると全然場所違いであった。

道は、柑橘農家さんが使う地元土地改良区が管理する農業用道路のような道で撮影場所も、ちょっとした車を止める広場を借りてである。

その場所から見る松山城はこんな感じで、400m望遠レンズ以上でないと頭に描いた画像は撮れない。

そしてなにより肝心なのは、気象条件である。

大気の水蒸気の少ない季節、石鎚山に冠雪があること、石鎚山がくっきりと見えること。

我が家の玄関から真正面に石鎚山が見えるので石鎚山の状況を見て撮影場所に出かけていた。自宅から撮影場所までバイクで20分程である。

伊予松山15万石の城下町に夜の帳が降りる。

撮影場所は、道後温泉の裏山「瀬戸風峠」から撮影。

街の中心に見える山が松山城本丸のある勝山132mで、その奥に見える海は瀬戸内海「伊予灘」である。

伊予松山城天守は、江戸時代に築城された一番新しい天守・安政元年である。

撮影場所は、松山市畑寺町で四国八十八ヶ所第50番札所「繁多寺」の南側からである。

初代藩主加藤嘉明が築いた天守は、第3代藩主松平定行の時代(寛永19年)三層の天守に改築された。その後天明4年天守を含む本壇建造物は落雷で消失、以後70年間天守を含む本壇には建造物は現存しなかった。

現在の天守は、安政元年に再建された江戸時代では一番新しい天守である。

大政奉還され、幕府は無くなり、天皇を中心とした新政府が施行され、明治6年廃城令発布された。江戸末期193の天守があったが全て廃城命令であった。

いち早く伊予松山から明治新政府、大久保通卿に対して存続の上申が行われ、木戸孝允卿から存続の許可が下された。その許可書は現在愛媛県立図書館に大切に保管されている。

明治新政府は、松山から城の存続願いが上申されたのを切っ掛けに18ケ所から城の存続願いがあり、政府は、18箇所の城の存続を決定した。伊予松山城を含め19城であった。

伊予松山城天守は、再建から14年しか経過しておらず、廃城令でハイ分かりました・・で取り壊すのは忍び難い事で(新築して14年まだ木の香りが残る)

伊予松山藩の財政は厳しい中やりくりして再建した天守是非残してほしかったと思う。(存続の理由は、市民の憩いの場所としてが・・おおきな理由であった。)

明治新制は19城の存続を許可した。先の大戦で消失した5城と不審火で消失した1城が欠落し今は、下記の天守が現存している。

丸岡城・松本城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・丸亀城・宇和島城・備中松山城・高知城・弘前城・伊予松山城、これが現存12天守である。

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