EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山秋祭本宮 秋山兄弟生誕地に巡行してきた子供神輿

2017年10月08日 | 伊予松山歴史散策

 昨日(10月7日)は、松山秋祭り本宮で、昨年までは、各町内早朝から集会所の拡声器で、三橋美智也の神輿音頭が流され祭りの雰囲気を高め神社から宮出しが行われていたが、今年からは、拡声器が設置してある周辺住民からの苦情で、中止となった。

静かな伊予松山の秋祭りでした。道後温泉駅前で行われる大神輿の勇壮な鉢合わせは、全国に知れ渡り、今年は、愛媛国体開催中で国体選手関係者の方々も観戦された。画像は、松山地方の秋祭り7日、本宮を迎え、秋山兄弟生誕地に町内の大街道3丁目商店街「ロープウェイ商店街」の子供神輿を従えて東雲神社宮司さんが来られ御祓い受け、神職が秋山兄弟生誕地の繁栄を祈願した。

 秋山兄弟生誕地に神輿が巡行して来た時に、群馬県バトミントン協会の星野会長(群馬県立前橋東高等学校校長)さんが貴重なお時間を割いて見学にお越しになり、秋山兄弟生誕地と坂の上の雲ミュージアム、そして萬翠荘(国指定重要文化財・旧伊予松山藩主、第15代久松家の当主、久松定謨伯爵の別邸)をご案内した。・・星野先生は、苦難な時代護国の為に尽くされた秋山兄弟の生誕地以前から伺いたかったが、今回いい機会に恵まれ訪れましたと言われた。生誕地を後にされる時は、正面に対して深々と一礼され後にされました。

  

 午前10時13分大街道三丁目の子供神輿と一緒に東雲神社の宮司が秋山兄弟生誕地に来られ御払いを受ける。

 秋山兄弟生誕地は、伊予松山15万石藩主松平(久松)隠岐守の家臣、徒士目付であった、秋山の屋敷跡である。 

東雲神社の宮司が祝詞をあげお祓いする。 東雲神社は、旧伊予松山藩久松家の藩祖を祀る社格の高い神社で、神紋は星梅鉢、久松家の祖先は菅原道真公で、久松家の家紋も星梅鉢である。

 大街道三丁目の子供神輿、秋山好古・秋山眞之の銅像の前で子供達一休み。

好古騎馬像の前で記念写真、6年生達は最後の祭りだから。 秋山好古も騎馬から秋祭りを楽しんでいるだろう!!よう秋山に来てくれたのう。・・好古は馬上から歓迎した。

 好古の弟、秋山眞之の胸像の前でも記念の写真。

 秋山兄弟生誕地で、秋山煎餅を頂き・・子供達「美味しい秋山煎餅は」とはしゃいぎながら英気を養った。

 秋山兄弟生誕地で一休みした担き手の子供達元気よく次の巡行に出て行った。

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源田 実と松山とブルーインパルス

2017年10月04日 | 伊予松山歴史散策

先日、9月30日、第72回国民体育大会・愛媛国体開会式でブルーインパルスが祝賀飛行した。

ブルーインパルスの育ての親は、源田 実で、源田さんと松山は縁の深い所である。

昭和16年6月、松山海軍航空隊建設のため軍用地買収が行われ建設され、昭和18年10月「松山海軍航空基地」と松山海軍航空隊」が開隊した。

その後も松山海軍航空基地は拡張工事が行われ、昭和19年4月頃に、飛行機を格納する「掩体壕」隧道、誘導路が建設され、現在も3基の掩体壕と隧道が現存する。

そして、源田実司令が着任するのは、昭和19年12月、神奈川県横須賀海軍航空隊基地で第343海軍航空隊が新しく編成され、基地は、源田実のお気に入りの松山海軍航空基地となり、12月28日、第343海軍航空隊(剣部隊)源田司令が着任、終戦まで置かれた。

戦後、源田実は、防衛庁に入庁、初代航空総隊司令、昭和34年に第3代目の航空幕僚長就任、同年12月、米空軍サンダーバースの日本公演を見た源田、航空自衛隊によるブルーインパルスの構想を打ち出し結成した。

源田は、東京オリンピック開会式にブルーインパルスでカラー五輪フライトを提案し実現した。

昭和37年7月、自衛官を退官し参議院議員4期24年務めた。

現役当時操縦技術は非常に腕がよく、操縦もとてもうまかったが、荒いのでついて行くのが大変であったとある資料に記述がある。

晩年は、厚木市の自宅で過ごしたが体調を崩し、思いで深い松山の病院(南高井病院)で治療をしていたが、85歳の誕生日を迎える前日、第44回目の終戦記念日の平成元年8月15日松山市の病院で逝去された。

享年84歳。お生まれは、明治37年8月16日、広島県安芸太田町のご出身。

平成29年9月30日、第72回国民体育大会・愛媛国体開会式で祝賀飛行をしたブルーインパルス6機は、第343海軍航空隊、源田実司令がいた松山空港(旧松山海軍航空隊)上空を飛行し、開会式会場の直ぐ近く、北東方向に源田さんが療養されていた病院があり、源田さんが育てたブルーインパルスはその上空を飛行したが、若い後輩のパイロット達は知っていたのであろうか?

源田さんの魂は、未だその病院にあると思う、まさかブルーインパルスが飛来して来るとは思っていなかった事で偶然は凄い事です。

 参考までに

松山には、海軍兵学校の第17期生、首席で卒業し日露戦争日本海海戦の専任作戦参謀を務めた大先輩の秋山眞之の生まれた地で、源田実は、海軍兵学校の第52期生。そして、関行男は、海軍兵学校の第70期生、西条市出身である。

 関行男は、大正10年8月29日、愛媛県西条市生まれで、昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊である敷島隊を指揮し、自らの命と引き換えに敵空母を撃沈した神風特別攻撃隊第一号隊長である。

昭和50年3月、西条市の楢本神社に関行男中佐の慰霊碑が建立されたが、この慰霊碑建立にも源田実が尽力をされ、慰霊碑裏面に源田実が撰文した碑文が揮毫されていて、除幕式にも参列されたそうです。

今回愛媛国体では、少年男子のサッカー、ハンドボール、軟式野球、山岳競技が西条市で開催される。

また、昭和53年11月、愛媛県南宇和郡愛南町久良湾の海底40mに原型のまま沈んでいる紫電改(帰還出来なかった第343海軍航空隊の一機)を地元ダイバーによって発見され、翌年7月14日、実に34年ぶりに引き揚げられこの事についても源田実の尽力で実現した。

今回愛媛国体では、愛南町で女子サッカー競技が開催される。

源田実さんは、松山市はもとより愛媛県内各所に足跡を残されている関りの深いお人である。

画像は、現在の松山空港で、此処に海軍松山航空隊基地があった。昭和20年終戦時連合軍に接収され、朝鮮動乱時には米英軍が使用、昭和27年に民間空港として整備、現在は2500m滑走路に整備しジャンボジェットが就航、また国際便も就航するに至っている。

昭和41年11月13日、全日空のYS11が着陸に失敗し伊予灘に墜落、乗務員乗客全員死亡と言う悲惨な事故が起こった。

50万都市の空港で県庁、市役所から15分で空港に行けるのは、全国でも松山空港だけで非常に利便性のいい空港である。

昭和19年4月に第二期工事として、掩体、隧道、誘導路の建設工事をした。

紫電、紫電改を敵攻撃から守る格納庫「掩体壕」で、現在3基が現存している。

後方からみた掩体壕。

弁天山(松山空港傍の山)に現在も残る、松山海軍航空基地時代の隧道。

9月30日愛媛国体に祝賀飛行をした源田実が創設したブルーインパルス。

源田実さんが治療をした南高井病院上空辺りから白いスモッグを出し愛媛国体開会式会場に向かうブルーインパルス。

愛媛国体開会式会場真上を祝賀飛行するブルーインパルス。

昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊である敷島隊を指揮し、自らの命と引き換えに敵空母を撃沈した。神風特別攻撃隊第一号隊長である関行男中佐の慰霊碑。23歳の若さであった。

昭和50年3月、西条市の楢本神社に関行男中佐の慰霊碑が建立されたが、この慰霊碑建立にも源田実が尽力をされ、慰霊碑裏面に源田実が撰文した碑文が揮毫されている。除幕式にも参列されたそうです。

旧海軍江田島の海軍兵学校「現在は、海上自衛隊幹部候補生学校・第一術科学校・江田島警務分遺隊となっている」の教育参考館(宝物館)に、関行男中佐の遺影が展示してあるが、外国から見学に来られた方々は、遺影の前で暫く立ち止まり見られるそうです。

関行男中佐の慰霊碑の裏面で、撰文は源田実が書いた。

昭和53年11月、愛媛県南宇和郡愛南町久良湾の海底40mに原型のまま沈んでいる紫電改、帰還出来なかった第343海軍航空隊の一機を地元ダイバーによって発見され、翌年7月14日、実に34年ぶりに引き揚げられこの事についても源田実の尽力で実現した。

343空隊員や遺族により慰霊式が執り行われ、源田司令より「紫電改は浮上した今何事も語らずただ黙々と翼を休めております。」から始まる弔辞が詠まれたとある。

此れからの画像は、源田実とブルーインパルスとは関係ない画像です。

画像は、愛媛県伊方町三机湾で、ハワイ真珠湾攻撃で特殊潜航艇乗組員が極秘で訓練した場所。

三机湾が特殊潜航艇の訓練基地として選ばれた理由は、真珠湾と地形や水深がよく似ているため海軍の極秘の訓練基地に選ばれ、最初のうちは1ヶ月おきに一週間から10日位の滞在だったが、日米間の雲行きがあやしくなった昭和16年の春頃から泊り込みとなり、訓練も激しくなったと言われている。

昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り込み湾内の米軍艦隊に肉弾攻撃を行い戦死した「九軍神」が日夜猛訓練に励んだ縁の地で、昭和40年、九軍神の遺族が三机を訪れたのを機に、「広く世界の平和を呼びかける礎石とすべく」須賀の森の一角に昭和41年8月に佐藤栄作総理の揮毫で慰霊碑を建立した。九軍神が滞在した旅館が今も現存している。

この近くに四国電力の伊方原発がある。

 三机湾に面した須賀の森(現 須賀公園)に昭和41年8月内閣総理大臣 佐藤栄作揮毫の「大東亜戦争九軍神慰霊碑」が、三机から「世界の平和を呼びかける礎石とすべく」記念碑が建立された。立派な記念碑である。此処で毎年慰霊祭が行われているそうです。

 大東亜戦争、九軍神慰霊碑前に建立されている、九軍神の紹介の説明版が・佐藤栄作揮毫の「大東亜戦争九軍神慰霊碑」の前に掲示されている。

 左から

 岩佐直治中佐(前橋市出身・海軍兵学校・65期生・戦死当時26歳)

 横山正治少佐(鹿児島市出身・海軍兵学校・67期生・戦死当時22歳生)

 古野繁実少佐(福岡県遠賀郡出身・海軍兵学校・67期生・戦死当時23)

 広尾 彰大尉(鳥栖市出身・海軍兵学校・68期生・戦死当時21歳)

 横山薫範少尉(鳥取県東伯郡出身・海軍水雷学校・戦死当時24歳)

 佐々木直吉特務少尉(島根県那賀郡出身・海軍水雷学・戦死当時28歳)

 上田 定兵曹長(広島県山県郡出身・海軍水雷学・戦死当時25歳)

 片山義雄兵曹長(岡山県赤盤郡出身・海軍水雷学・戦死当時23歳)

 稲垣 清兵曹長(三重県一志郡出身・海軍水雷学校高等科・戦死当時26歳)

 註:説明版には、お名前と当時の階級&戦死当時の年齢が刻印されていているが出身地・卒業学校名は記載されてない・・別の資料を基に記載した。

 

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えひめ国体開会式、ブルーインパルス飛行隊が祝賀飛行で華を添える

2017年10月01日 | 伊予松山歴史散策

9月30日(土)、第72回国民体育大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」総合開会式は、都道府県から参加した役員・選手の皆さんが、愛媛にお土産として持ってきた頂いた快晴のお天気の下・盛大に行われた。

開会式は、天皇皇后両陛下をお迎えしご臨席の下定刻に開始された。

総合司会者が、只今から第72回国民体育大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の総合開会式を行います。・・と会場にアナウンスされ、次に、愛顔(えがお)つなぐえひめ国体開催を祝して航空自衛隊第4航空団第11飛行隊「ブルーインパルス」が祝賀飛行に来てくれました。とアナウンスされと時間を計った如く6機の機体が現れた、時間は13時51分頃でした。昨日は、テスト飛行をしていました。

ブルーインパルスが行う飛行を展示飛行と言い、飛行形態は十数課目あり、えひめ国体で披露した課目は「デルタ・ダーティ・ローパス」と言う飛行演目だったそうです。

私は松山城ガイド当番日であったので、会場には行けなく、松山城から見ました。

なお、天皇皇后両陛下は本日(10月1日)午前中、日本最古の温泉、道後温泉本館を視察され、午後愛媛県武道館で行われる剣道の演技を視察され、皇居吹上御所にお帰りになられるそうです。2泊3日の伊予路行幸です。

道後温泉本館は、午前6時~12時まで休館にして天皇皇后両陛下をお迎えします。

第72回国民体育大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の開催を祝しブルーインパルスが祝賀飛行を披露その見学に来た人達・・伊予松山城本丸、太鼓門前広場。

ブルーインパルスの前身は戦前、源田実海軍大佐が、非公式に結成したアクロバットチーム「源田サーカス」が根源だそうです。昭和18年暮れに世界最強の航空隊を創ると言われ、横須賀で編成され、基地は松山が良いとの事で松山に於かれました。現在の松山空港です。度々グラマン機艦載機が攻撃に松山に来ました。

終戦後、源田実さんは自衛隊を退官され、参議院議員となり、その後松山の某病院で平成元年8月15日亡くなられました。

何故か松山がお好きであった様です。出身地は広島県の方です。

13時51分、九州方向から姿を現した松山城本丸から見たブルーインパルスの機体。

松山城本丸から、第72回国民体育大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の総合開会式が行われる、愛媛県総合運動公園陸上競技場までは、直線距離で9km位離れています。標準レンズで撮ると大豆くらいにしか撮れません。カメラは、キャノンのSX60HS、デジタルズームですので画像が悪いです。

ブルーインパルスの正式名称は、宮城県松島基地の第4航空団に所属する「第11飛行隊」で、青と白にカラーリングされた6機の機体が、大空で展開する一糸乱れぬフォーメーション、そしてダイナミックなソロ演技――次から次へ繰り広げられる驚異のパフォーマンスは、初めて観る人にとっては驚きの連続に違いありません。地上は大きな感動と歓喜の声に包まれます。その美しく雄大、華麗にして精密なフライトは、内外から高い評価を得てきました。これからもブルーインパルスは、「創造への挑戦」を合言葉に、より多くの人に「夢・感動」を感じていただける展示飛行を求め続けていきます。・・と防衛省の資料にあります。

東北大震災時に、ブルーインパルスの機体は壊滅したそうです。

ブルーインパルスは、福岡県築城基地から飛行してきたのか?

東温市にある愛媛大学医学部上空あたりでUターンし、総合開会式上空を目指し飛行。

総合開会式上空手前で、白いスモークを出しながら総合開会式上空を目指すブルーインパルスその間僅か2分余りの出来事でした。

会場上空から機種を上げて、祝賀飛行をしながら基地に帰って行った。

松山市で初めてのブルーインパルス展示飛行であった。

展示飛行は、天候により中止する事がありますとHPで告知があったが、この日は快晴で絶好の飛行日和会場では大きな歓声が上がったそうです。会場には15,000人の観衆と、4、100人の選手役員が鑑賞した。

 

此れからの画像はTVからの引用画像です。

カメラは、総合開会式場設置のカメラです。

松山城からはこの編隊は見えません。

総合開会式場上空に迫るブルーインパルス、この編隊が「デルタ・ダーティ・ローパス」と言う飛行演目だったそうです。

総合開会式場真上を飛行。何故か1番機はスモークを出していません。

そして総合開会式場を後に基地に帰りました。

伊予松山城本丸からブルーインパルスの機影が目視出来たのが13時47分、帰る機影が見えなくなったのは13時56分、僅か10分の空での出来事でした。

 

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