先日、9月30日、第72回国民体育大会・愛媛国体開会式でブルーインパルスが祝賀飛行した。
ブルーインパルスの育ての親は、源田 実で、源田さんと松山は縁の深い所である。
昭和16年6月、松山海軍航空隊建設のため軍用地買収が行われ建設され、昭和18年10月「松山海軍航空基地」と松山海軍航空隊」が開隊した。
その後も松山海軍航空基地は拡張工事が行われ、昭和19年4月頃に、飛行機を格納する「掩体壕」隧道、誘導路が建設され、現在も3基の掩体壕と隧道が現存する。
そして、源田実司令が着任するのは、昭和19年12月、神奈川県横須賀海軍航空隊基地で第343海軍航空隊が新しく編成され、基地は、源田実のお気に入りの松山海軍航空基地となり、12月28日、第343海軍航空隊(剣部隊)源田司令が着任、終戦まで置かれた。
戦後、源田実は、防衛庁に入庁、初代航空総隊司令、昭和34年に第3代目の航空幕僚長就任、同年12月、米空軍サンダーバースの日本公演を見た源田、航空自衛隊によるブルーインパルスの構想を打ち出し結成した。
源田は、東京オリンピック開会式にブルーインパルスでカラー五輪フライトを提案し実現した。
昭和37年7月、自衛官を退官し参議院議員4期24年務めた。
現役当時操縦技術は非常に腕がよく、操縦もとてもうまかったが、荒いのでついて行くのが大変であったとある資料に記述がある。
晩年は、厚木市の自宅で過ごしたが体調を崩し、思いで深い松山の病院(南高井病院)で治療をしていたが、85歳の誕生日を迎える前日、第44回目の終戦記念日の平成元年8月15日松山市の病院で逝去された。
享年84歳。お生まれは、明治37年8月16日、広島県安芸太田町のご出身。
平成29年9月30日、第72回国民体育大会・愛媛国体開会式で祝賀飛行をしたブルーインパルス6機は、第343海軍航空隊、源田実司令がいた松山空港(旧松山海軍航空隊)上空を飛行し、開会式会場の直ぐ近く、北東方向に源田さんが療養されていた病院があり、源田さんが育てたブルーインパルスはその上空を飛行したが、若い後輩のパイロット達は知っていたのであろうか?
源田さんの魂は、未だその病院にあると思う、まさかブルーインパルスが飛来して来るとは思っていなかった事で偶然は凄い事です。
参考までに
松山には、海軍兵学校の第17期生、首席で卒業し日露戦争日本海海戦の専任作戦参謀を務めた大先輩の秋山眞之の生まれた地で、源田実は、海軍兵学校の第52期生。そして、関行男は、海軍兵学校の第70期生、西条市出身である。
関行男は、大正10年8月29日、愛媛県西条市生まれで、昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊である敷島隊を指揮し、自らの命と引き換えに敵空母を撃沈した神風特別攻撃隊第一号隊長である。
昭和50年3月、西条市の楢本神社に関行男中佐の慰霊碑が建立されたが、この慰霊碑建立にも源田実が尽力をされ、慰霊碑裏面に源田実が撰文した碑文が揮毫されていて、除幕式にも参列されたそうです。
今回愛媛国体では、少年男子のサッカー、ハンドボール、軟式野球、山岳競技が西条市で開催される。
また、昭和53年11月、愛媛県南宇和郡愛南町久良湾の海底40mに原型のまま沈んでいる紫電改(帰還出来なかった第343海軍航空隊の一機)を地元ダイバーによって発見され、翌年7月14日、実に34年ぶりに引き揚げられこの事についても源田実の尽力で実現した。
今回愛媛国体では、愛南町で女子サッカー競技が開催される。
源田実さんは、松山市はもとより愛媛県内各所に足跡を残されている関りの深いお人である。
画像は、現在の松山空港で、此処に海軍松山航空隊基地があった。昭和20年終戦時連合軍に接収され、朝鮮動乱時には米英軍が使用、昭和27年に民間空港として整備、現在は2500m滑走路に整備しジャンボジェットが就航、また国際便も就航するに至っている。
昭和41年11月13日、全日空のYS11が着陸に失敗し伊予灘に墜落、乗務員乗客全員死亡と言う悲惨な事故が起こった。
50万都市の空港で県庁、市役所から15分で空港に行けるのは、全国でも松山空港だけで非常に利便性のいい空港である。
昭和19年4月に第二期工事として、掩体、隧道、誘導路の建設工事をした。
紫電、紫電改を敵攻撃から守る格納庫「掩体壕」で、現在3基が現存している。
後方からみた掩体壕。
弁天山(松山空港傍の山)に現在も残る、松山海軍航空基地時代の隧道。
9月30日愛媛国体に祝賀飛行をした源田実が創設したブルーインパルス。
源田実さんが治療をした南高井病院上空辺りから白いスモッグを出し愛媛国体開会式会場に向かうブルーインパルス。
愛媛国体開会式会場真上を祝賀飛行するブルーインパルス。
昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊である敷島隊を指揮し、自らの命と引き換えに敵空母を撃沈した。神風特別攻撃隊第一号隊長である関行男中佐の慰霊碑。23歳の若さであった。
昭和50年3月、西条市の楢本神社に関行男中佐の慰霊碑が建立されたが、この慰霊碑建立にも源田実が尽力をされ、慰霊碑裏面に源田実が撰文した碑文が揮毫されている。除幕式にも参列されたそうです。
旧海軍江田島の海軍兵学校「現在は、海上自衛隊幹部候補生学校・第一術科学校・江田島警務分遺隊となっている」の教育参考館(宝物館)に、関行男中佐の遺影が展示してあるが、外国から見学に来られた方々は、遺影の前で暫く立ち止まり見られるそうです。
関行男中佐の慰霊碑の裏面で、撰文は源田実が書いた。
昭和53年11月、愛媛県南宇和郡愛南町久良湾の海底40mに原型のまま沈んでいる紫電改、帰還出来なかった第343海軍航空隊の一機を地元ダイバーによって発見され、翌年7月14日、実に34年ぶりに引き揚げられこの事についても源田実の尽力で実現した。
343空隊員や遺族により慰霊式が執り行われ、源田司令より「紫電改は浮上した今何事も語らずただ黙々と翼を休めております。」から始まる弔辞が詠まれたとある。
此れからの画像は、源田実とブルーインパルスとは関係ない画像です。
画像は、愛媛県伊方町三机湾で、ハワイ真珠湾攻撃で特殊潜航艇乗組員が極秘で訓練した場所。
三机湾が特殊潜航艇の訓練基地として選ばれた理由は、真珠湾と地形や水深がよく似ているため海軍の極秘の訓練基地に選ばれ、最初のうちは1ヶ月おきに一週間から10日位の滞在だったが、日米間の雲行きがあやしくなった昭和16年の春頃から泊り込みとなり、訓練も激しくなったと言われている。
昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り込み湾内の米軍艦隊に肉弾攻撃を行い戦死した「九軍神」が日夜猛訓練に励んだ縁の地で、昭和40年、九軍神の遺族が三机を訪れたのを機に、「広く世界の平和を呼びかける礎石とすべく」須賀の森の一角に昭和41年8月に佐藤栄作総理の揮毫で慰霊碑を建立した。九軍神が滞在した旅館が今も現存している。
この近くに四国電力の伊方原発がある。
三机湾に面した須賀の森(現 須賀公園)に昭和41年8月内閣総理大臣 佐藤栄作揮毫の「大東亜戦争九軍神慰霊碑」が、三机から「世界の平和を呼びかける礎石とすべく」記念碑が建立された。立派な記念碑である。此処で毎年慰霊祭が行われているそうです。
大東亜戦争、九軍神慰霊碑前に建立されている、九軍神の紹介の説明版が・佐藤栄作揮毫の「大東亜戦争九軍神慰霊碑」の前に掲示されている。
左から
岩佐直治中佐(前橋市出身・海軍兵学校・65期生・戦死当時26歳)
横山正治少佐(鹿児島市出身・海軍兵学校・67期生・戦死当時22歳生)
古野繁実少佐(福岡県遠賀郡出身・海軍兵学校・67期生・戦死当時23)
広尾 彰大尉(鳥栖市出身・海軍兵学校・68期生・戦死当時21歳)
横山薫範少尉(鳥取県東伯郡出身・海軍水雷学校・戦死当時24歳)
佐々木直吉特務少尉(島根県那賀郡出身・海軍水雷学・戦死当時28歳)
上田 定兵曹長(広島県山県郡出身・海軍水雷学・戦死当時25歳)
片山義雄兵曹長(岡山県赤盤郡出身・海軍水雷学・戦死当時23歳)
稲垣 清兵曹長(三重県一志郡出身・海軍水雷学校高等科・戦死当時26歳)
註:説明版には、お名前と当時の階級&戦死当時の年齢が刻印されていているが出身地・卒業学校名は記載されてない・・別の資料を基に記載した。