EEKの紀行 春夏秋冬

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令和に改元され気持ちも新たに初詣

2020年01月08日 | 伊予松山歴史散策

1月3日午後、我が家の氏神様である日尾八幡神社に初詣に行って来た。

今年も松山は、年末から気温は高く過ごしやすい令和の年明けとなった。

私の正月の過ごし方は、毎年駅伝を見て過ごすのが恒例となっており、今年も元旦は、実業団駅伝、2日、3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦、今年の箱根は往路、復路も平成28年の様な体調を崩し大崩れする選手も無く無事終了。
青山学院大の素晴らしい走りで昨年は東海大学に5連勝を阻まれたが、今年は復調し往路・復路優勝で令和初の総合優勝を飾った。

今年は愛媛県出身の選手はいないのかとTV観戦したいたところ、一人の選手がいた。

愛媛県西予市の生まれ、八幡浜高校出身で法政大学2年生の清家陸選手、9区23,1km、区間7位で快走したが、結果法政大学は総合15位、来年は予選会から箱根を狙う。

さて、東京箱根間往復大学駅伝も終わり、昨年のお礼を心にして令和初の初詣に出掛けた。

多くの氏子達が家族ずれで氏神様である日尾八幡神社に来ていた。

昨年も全国各地で大きな風水害が発生し、未だ平常な生活が出来てない方々が令和の初春を迎えられたが、一日も早く元の生活に戻られる事を祈願し、今年は災害のない平穏な年であることをお願いするとともに、今年も家族一同元気で過ごせますようにとお祈りをした。そして南海地震が起こらない事をお願いして帰った。

日尾八幡神社の直ぐ東に、日尾八幡神社の守護寺である浄土寺(四国88ヶ所第49番札所・真言宗豊山派・我が家の菩提寺)にもお参りをして帰った。

我が家の宗教は、真言宗豊山派である。

氏神様である「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、

松山市小野地区・久米地区・石井地区の氏子を祭事する氏神である。

神社入口に、大きな注連(しめ)(いし)があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社神官、三輪田清敏の長男、名は「常貞」で号を「米山」と称した。

社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」である。

日尾八幡神社前には、後藤酒造「久米の井」があり、此処によく行き酒を飲んでは揮毫していたそうだ。

日尾八幡神社周辺の神社の社号碑や注連石は米山が揮毫した碑が沢山ある。

 

日尾八幡大神の神門で、「社号額」の揮毫は、三輪田米山である。

米山は、この神社で生誕した。

では、神門で一礼し画像に見える石段158段を上り参拝をした。

社務所から出て来た巫女さんも上がられていた。

巫女さんや、権禰宜の皆さんたち所用で社務所に行き来は大変である。

158段ある石段中腹左に黒田霊社がある。

黒田霊社の由緒は殆どの皆さんは知らない。

ここでその由緒を紹介します。

 知られてない社が日尾八幡にありそれは「黒田霊社」です。

祭神は、黒田九兵衛霊

県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えている。

黒田霊社の由来:

慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し将士を率いて美濃に進軍した。

その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。

芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、伊予の関ヶ原と言われる戦いがあった。

この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率いて夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。

これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。

衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな終に敵弾に中り戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。

この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。

昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用

この戦いで、敗退していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際北の郭を造りこの功に答えた。

158段の長い石段を上り詰め、その最上段から見た石段。

日尾八幡神社の拝殿。

日尾八幡神社神の拝殿内部。

祭神は天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神の神々が祀られている。

拝殿左側、春日大社入口には、おみくじを頂く特設を設置、今年の正月は気温が高く好天で巫女さんも楽であっただろう!!

おみくじを頂き、家族で確認して、おみくじを結んでいた。

松山市教育委員会が設置している、日尾八幡神社神の説明。
東京都千代田区にある私立の中高一貫校、三輪田学園中学校・高等学校は、日尾八幡神社、神官三輪田清政の3男、元綱の妻、眞佐子が明治20年(1887)開校した。
眞佐子は、京都中条次郎の長女である。

日尾八幡神社神の守護寺である、四国88ヶ所第49番札所・浄土寺が、神社の直ぐ東にあり画像の様な表示板が、拝殿の傍に設置してある。

三輪田米山の墓所もある。

米山は、明治41(1908)年11月3日 88歳で永眠、墓所は、日尾八幡神社神の直ぐ東にある四国88ヶ所第49番札所・浄土寺にあり墓標の文字「米山三輪田先生墓」は、米山が生前に自ら揮毫したものである。

裏面に、教正自取筆、明治廿七年甲午冬十一月習書、明生中建之 明治四十一年十一月三日逝去 年八十八・・と書かれている。

松山市教育委員会が設置している「三輪田米山の墓」の説明版。

四国88ヶ所第49番札所・浄土寺の三門。

浄土寺の境内で、中央に本堂が、左に大師堂がある。

四国88ヶ所第49番札所・浄土寺の本堂。

正式な装束を身に着けてお参りをされる方で、参拝者の邪魔にならぬよう、正面より少し控えに立ち、真剣に般若心経を唱えておられた。

本堂の右隣に大師堂がある。

大師は、高徳な僧に朝廷から送られる尊称号である。

有名な僧侶は、空海(弘法大師)最澄(傳敎大師)法然(円光大師)日蓮(立正大師)親鸞(見真大師)の僧侶がいる。

鐘を突き、鐘の音がなくなるまで暫くお参りをされる参拝者。

浄土寺の鐘楼で、正面には「南無釋迦如来」と刻印。

浄土寺の鐘楼で、左側には「西林山浄土寺」と刻印。

浄土寺の鐘楼で、裏面には「世界平和萬民豊楽」と刻印されている。

浄土寺の鐘楼で、右側には「昭和二十三年十二月」と刻印されている。

境内には正岡子規の句碑がある。

句は「霜月の 空也は骨に 生きにける」で、揮毫は、元高野山管長・森 寛紹(東温市出身)の筆。

明治29年12月3日号の雑誌「太陽」に掲載された冬の句。『寒山落木』巻五所収。
空也は平安中期の僧侶。
浄土寺に残る木造空也上人立像は国の重要文化財で、六波羅蜜寺に所蔵されている空也上人像と瓜二つの逸品。

子規の句「霜月の 空也は骨に 生きにける」の説明版。

重要文化財「浄土寺・空也上人像」の表示板。

昭和24年1月26日の法隆寺金堂壁画が火災により焼損した。
これがきっかけで日本の法律の一つ「重要文化財保護法」が昭和25年5月30日制定され、国宝・重要文化財に指定されている場所には画像の様な表記版が設置されている。

重要文化財「浄土寺・空也上人像」

木造 空也上人立像

昭和11年9月18日、国指定重要文化財に指定。
平安時代中期の僧侶で、巡錫中3年ほどこの地に滞在し自刻の木造を残したと伝えられているのがこの像である。

像高さは:122,4cmの寄木造り、南無阿弥陀仏と唱え遍歴する姿で、口から六文字の名号が仏となって現れている珍しい姿。
踊念仏を広めた僧として有名で、鎌倉時代の僧侶で、時宗の開祖、一遍上人に与えた影響は大きかったと言われている。

一遍上人が踊念仏を唱えながら巡錫したのは空也上人の影響大ではないか?

参考までに

一遍上人は、伊予守護・河野通広の第二子として、松山市道後湯月町にある宝厳寺で誕生した。
名は、河野通尚、13歳の時出家し大宰府で修業し名を智真と改名、その後一遍と名乗り踊念仏を唱えながら全国を遊行し民衆を極楽浄土へと導いた。
称号は、円照大師で、その後証誠大師が追贈された。
時宗の総本山は神奈川県藤沢にある「清浄光寺(遊行寺)」である。

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