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松山市内の銅像巡り7 新田長次郎 像

2014年05月09日 | 伊予松山歴史散策
新田長次郎 像

新田長次郎は、伊予国温泉郡山西村の農家の次男として生まれ廃藩置県後伊予松山の城下で秋山好古と出会う。そして好古が愛読していた福沢諭吉の「学問のすすめ」を通して、人の差は生まれつきにあるのではなく、学問をしたか、しなかったかによるものであると考え、教育こそが国の礎となる事を学び二人は、独立自尊を座右の銘として人間形成を確立し、好古は教師の道を、長次郎は会社を興しその財をもって青少年の学業の施設(学校)を作る志を抱いた。
この時、長次郎16歳、好古14歳であった。
好古は16歳で教師を志て大阪師範学校を目指し大阪に、新田長次郎も親友信三郎(好古)と共に大阪行きを母に願うが、母は20まではだめだと許しが貰えづ、20歳で大阪に出て明治21年に日本で初めて動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカーとなった。

新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)の創業者で「東洋一のベルト王」と呼ばれるまでになり、その後学校建設に尽力をする。先ずは、大阪難波に私立有隣尋常小学校を開校(現在の大阪市立栄小学校)設立時、教職員や学校運営の一切の経費を負担した上、生徒の学用品、衣服、履物まで支給して教育に尽くした。
(好古と読み交わした「福沢諭吉の学問のすすめ」に共感して)大正12年四国で始めての私立松山高等商業学校創設として、加藤拓川(正岡子規の叔父さん)の意に賛同し開校設備費全額を負担した。また郷里の味生尋常小学校校舎増築に際しても多額の寄附を行い青少年の育成に多大なる尽力をされた。

晩年、和歌山県海南市に琴の浦温山荘園を造り命名は、東郷平八郎元帥が命名した。好古が昭和5年3月に北豫中学校長を退職し東京に帰る時温山荘園を訪れ主屋の座敷で一晩語り明かし東京に帰り11月4日陸軍病院で亡くなった。
長次郎は、信さん(好古)別れの挨拶に来てくれたのだったのか、もっと話をしたかったと号泣されたそうだ。
主屋の座敷には、秋山好古・清浦奎吾・東郷平八郎・桂太郎・そうそうたる人物が揮毫した扁額がある。温山は、新田長次郎の雅号である。
平成17年1月18日に完成した秋山兄弟生誕地整備事業についてもニッタ株式会社から多額の寄附があったと聞いている。


新田長次郎は信さん(好古)と一緒に読んだ、「学問のすすめ」を通して、人の差は生まれつきにあるのではなく、学問をしたかしなかったかによるものであると考え教育施設を創って来た。その一つの松山大学に新田長次郎の銅像がある。


新田長次郎と信さん(好古)とは暫く会う事がなかったが、公務で大阪に出かけて時、信さんの方から新田長次郎を訪ねた。長次郎は信さんが好古と改名したことを知らなかった。最後に琴の浦温山荘を訪ねた時も信さん・長さんと呼び合って一晩を過ごした。新田長次郎さんの最も親交が深かった人が秋山好古であった。


皐月の植え込みの中に設置されている。松山の高等商業教育の場を提供した偉人をどの位理解している学生がいるのだろうか??


松山大学で、正門の直ぐ左手に銅像はある。今日も頑張って志を貫いて下さい・・と建っている。


校内にある温山会館で、 温山会館は、松山高商時代からの本学のシンボルとして、在校生、卒業生、松山市民からも親しまれ、昭和54年に解体された旧本館を彷彿とさせる外観で、正門を入って左手の林の中にそのすっきりとした美しい姿を見せています。玄関両側の植え込みの中には、旧本館の玄関前にあった大きな蘇鉄の子株も植えられています。
延床面積715.92m2 2階建で、1階はエントランスロビーをはさんで温山会本部事務室と会議室兼談話室があり、2階は歴史資料室となっています。歴史資料室には本学90年の歴史と伝統を物語る資料が展示されています。
地元の温山会員はもとより、遠来の会員にもお気軽にお立ち寄り頂き、学園の古今を語り合い、楽しいひとときを過ごしていただければと思います。
また、学園の歴史資料コーナーへ展示する古き良き思い出のある資料等がございましたら、ご恵送頂ければ幸いです。・・温山会館資料引用


温山会館前にある説明版・・松山市教育委員会設置。


大正13年に松山高等商業学校開校のお祝いに来松された、元内閣総理大臣、清浦圭吾氏との記念写真。左から、秋山好古・清浦圭吾・新田長次郎の各氏。


和歌山県海南市に琴の浦温山荘園正面に建つ新田長次郎の銅像。


和歌山県海南市に琴の浦温山荘園正面に建つ新田長次郎の銅像。この庭園の規模が凄い・・


琴の浦温山荘園主屋入玄関には東郷平八郎揮毫の扁額「温山荘」が掲げてある。


琴の浦温山荘園主屋座敷にある好古揮毫の扁額。その他、清浦奎吾・東郷平八郎・桂太郎の扁額がある。
昭和5年3月北豫中学校校長を退職し東京に帰る途中、長次郎さんを訪ね主屋座敷で一晩過ごし語り合った。東京に帰り11月4日陸軍病院で亡くなった。
長次郎さんは、信さん(好古)別れの挨拶に来てくれたのだったのか、もっと話をしたかったと号泣されたそうだ。この扁額はもしかするとその時に揮毫したのでは??
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