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新伊予松山紀行 松山八社八幡 2番社 桑原八幡神社

2013年01月06日 | 伊予松山歴史散策
桑原八幡神社は、松山八社八幡の2番社として位置づけされている。

社記によれば桑原村古宮に姫大神鎮座、履中天皇(400~405)の勅願所であったという。貞観元年(859)四月八幡宮を合祀し、延久年間(1069~1073)伊予守源朝臣頼義公が当国鎮護として八社八幡宮を定め、2番社として社殿再建、祭器料として神田を献じた。

寛治2年(1088)現在地に移転、元弘3年(1333)8月河野通村が主社殿を再建、文中三年(1374)四月兵火に躍り神宝社記悉く焼失したが天授二年(1376)八月河野通定が社殿を再建し、天文11年(1542)8月河野通康が主社殿再建、寛永12年(1635)12月国命で社殿を再建した。

寓治2年(1659)松山藩主松平走行が束野へ別荘を建て、当社を祈願所と定めて鼓一個紋付提灯を奉納、祭祀の節に忌竹を献納した。延宝7年(1679)5月社殿再建、正徳5年(1715)8月石鳥居を建立した。

桑原八幡神社には、昭和46年に三島神社を合祀している。それは桑原八幡神社の神殿改築するために三島神社を手放した。現在は、宅地となっている。

この神社を取壊す際に境内にあった、6世紀ころのものといわれる古墳があった。全長45,2m、前方部29m、前方部の高さ3,25m、後円部の高さ4m、の前方後円墳であった。松山市教育員会が発掘調査をした。一部は盗掘を受けていたが、中から碧玉製管玉、臼玉、金メッキの帯金具、鉄のやじり等多くの出土品があった。今から1560年位前の豪族が支配した古墳ではないかと考古学者は言っている。
古墳は古代の墓で、この調査に携わった職員は体調を崩した者もいたそうだ。


神社入口に桑原八幡神社・三島神社の社号碑が建立されている。


社号碑の裏面で、昭和46年桑原八幡神社前宮司は、神殿改築のために三島神社を手放し合祀したその時の記念碑と関係者の氏名が刻印しれている。


私は松山八社八幡神社を1月2日と3日に自転車で初詣をした。この日(2日)は小雨が時より降っていた。


境内入口には「郷社 桑原八幡大神」の石碑があった。
神社には格式がある。官社・民社があり、民社には、府社、県社、藩社、郷社、村社がある。・・桑原八幡神社は郷社である。


28段の石段を登り本殿に


正月2日目小雨の中初詣に来ていた。


桑原八幡神社の神殿、拝殿の後ろにある。


境内入口左に立派な慰霊塔が建立してある。
この慰霊碑は、日清、日露、太平洋戦争で戦死された多くの霊を祀っている。


慰霊塔の揮毫者は、久松定武謹書と書かれていた。
久松定武氏とは、旧伊豫藩主の嫡流久松家第17代で、民選県知事、愛媛県知事2代目から6代目の知事をした。
NHKアナの松平定知氏は伊豫久松家の親戚。


初詣に来た氏子達古いお札を置く「古札納所」15日のどんど焼きにお払いをして宮司が焼き払う。この時注連飾りも焼いてくれる。但しプラスチック類や不燃物を取り払って持っていく事。


拝殿には門松も用意されていた。


三島神社にあった古墳・・現在は三島神社とともに取壊され宅地になっている。

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