松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」の群生地を3年振りに行ってきました。
今年の夏は猛暑の連続で全国の彼岸花の開花が遅れているそうです。
窪野町の彼岸花群生地の開花も例年よりも一週間程遅れての開花、気温が20度から25度にならないと開花しないそうです。
7年連続して、窪野町北谷の彼岸花群を撮ってきましたが、最近花が少なくなりました。
平成23年から写真を撮りに行っていますが、平成29年から行っておらず今年3年振りにカメラ持参で行ってきました。
お彼岸の最終日、昨日(9月26日)某TV局が天気予報コーナーの全国放送で珍しい彼岸花の群生地域があります・・と紹介した関係か岡山県から大型バイク(900cc)で鑑賞に来ていました。
平成23年に行った時は、彼岸花が3ヘクタールほどある地に真っ赤な花が咲き誇っていたが何故か最近少なくなってきている。手入れが追い付かないのか、気象条件のためか不明です。
「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑があります。
一遍上人は、時宗の開祖で鎌倉時代の僧侶、初代内閣総理大臣、伊藤博文と血縁のある人物で、伊予の守護・河野通信の孫、出家して僧侶となった。生誕地は、道後温泉近くにある「宝厳寺」で時宗の総本山は神奈川県藤沢市にある遊行寺である。
画像は、9月26日、撮った松山市窪野町北谷の彼岸花群生です。
花は、今が見頃です。
窪野町北谷の彼岸花を撮りだしてから今年で8年目になり、ここ2年ばかり撮影に行っておらず今年3年振りに居てみましたが、毎年花が少なくなっています。
しかし、約3ヘクタール一面に広がる、赤のじゅうたんは壮大、今年で8年目となりますが、最初に行った時は、此れは凄いなと驚いた。四国一と言っても過言でない。
何といっても、地元の方々の皆さんが綺麗な彼岸花を鑑賞してもらおうと、管理育成に努力している事を忘れないことです。
四国88ヶ所第46番札所・浄瑠璃寺、第47番札所八坂寺のある地区、お接待お持て成しの心の表れでしょう。ご苦労様です。
一山南側には、歩き遍路さんが必ず通る遍路道(旧土佐街道)が有り、有名な遍路宿「坂本屋」がある。現在宿は中止してお遍路さんの休憩処となっている。
仲良しのご婦人達、心いくまで曼殊沙華の花を鑑賞していた。
群生地は、中に入り鑑賞出来るよう小道を作り管理をしてある。
仕切りのロープは新しかったので今年張り替えたのでしょう。管理をされている地元の方々ご苦労様です。
こんな方が居られました。年齢は60代のサイクリストでお元気な姿でした。
曼殊沙華を背景に記念写真をパチリ。
岡山県から大型バイク(900cc)で鑑賞に来られていました。30代の男性で、バイクは新車のようにホコリ一つなくピカピカに手入れが行き届いていた。
話を伺うとバイクは3年乗っているそうです。新車同様よく手入れが出来ていました。
私もメグロの500ccに乗っていましたので、暫しバイク談義をしました。当時愛媛県警の白バイは、メグロ・キャブトン・陸王の自動二輪車で、ホンダやヤマハスズキはまだなかった。
ストロボを装着し本格的で真剣に撮影する中年のご婦人も居られた。
仲良し熟女さん達。
彼岸花群生地にある樹木は、31年前に植栽された「染井吉野桜」で56本あった。
彼岸花群生地には小さな谷川が有り、山の湧水が流れ、湧水と彼岸花をスローシャッターで撮るため三脚を使用しての撮影するご婦人も居られた。
湧水と彼岸花をスローシャッターで撮る。
アゲハチョウが蜜を摂りに来た。
「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑があり、この地で若き頃の一遍上人が修行した場所だそうです。
窪寺跡の石碑の傍には「御霊木・一遍上人の欅」の石柱があった。石柱の左には伐採された切り株がある。成長途中枯れたのでしょうか?
彼岸花群生地には駐車場がなく、すぐ上に動物霊園がある。画像の案内版が設置されていました。
彼岸花は、別名「曼珠沙華」とも呼び異名が多く、約1000名程呼び名があるそうです。
死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあったが最近は趣が変わり活花として観賞するようになった。・・世も変わったものである!!
季 語⇒花言葉 ・秋の季語。
花言葉は⇒情熱・独立・再会・あきらめ。
「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
迷 信⇒花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になると言われている。
都道府県では画像のような呼び名があるそうです。山口百恵さんが歌った「曼殊沙華」も呼び名の一つで名曲ですね。
以前、私のブログに松山市窪野町北谷の彼岸花群生地に行きたいのですが、道順を教えて下さいとありましたので再度ご案内します。
松山市街方面からご案内しますと、一級河川、重信川に掛かる橋「久谷大橋」を目標に、橋を渡り道は県道207号線、三坂、松山線を、道なりに直進、途中右側に、松山市役所久谷支所がありますが、直進し約2km程走行すると、伊予鉄バスの「丹波バス停」がります。此処を左に折れると約3km先に群生地があります。バス停前に案内版があり、途中にも案内板があります。バスは、便数が少なく、バス停からもなだらかな坂道を約3km歩きますので車で行ってください。アサヒ動物霊園の直ぐ下です。
バス停「丹波」の掲示板。
便数は、午前7時から午後6時迄で1時間に1便です。
バスは便数が少なく、歩きは坂道となるので車で行かれるのが良いかと思います。
「旧遍路宿、現遍路休憩所・坂本屋」
丹波バス停から左折すると彼岸花群生地に行きますが、遍路休憩所・坂本屋はバス停を直進して下さい。約1km先にあります。
所在地は、
松山市窪野町桜2146番地(旧、愛媛県温泉郡坂本村大字窪野字桜)にお遍路さんの休憩所「坂本屋」がある。老朽化に伴い平成29年11月から修復工事がされ完了した。
坂本屋は、国道33号線にある三坂峠北側の山間部にあり自然豊かな場所で、四国88ヶ所霊場 第45番札所 岩屋寺から、第46番札所 浄瑠璃寺に向かう途中にある。岩屋寺と浄瑠璃寺の間約30km、徒歩で約8時間かかりその道は険しく、その途中にある坂本屋はお遍路さんにとって「ほっと」一息つく休憩所となっている。
四国88ヶ所霊場の内、愛媛県内には25の霊場がる。その遍路休憩所のシンボル的存在が「坂本屋」である。
坂本屋の家屋が老朽化し平成29年11月から修復工事を行っていたが完了し、平成30年6月8日修復完了式が行われた。その様子が地元TVで放映された。
画像は、修復工事が完了された遍路休憩所「坂本屋」で、平成30年6月9日、伺った。この日は、お接待役として、地元坂本小学校の男性の先生が居られ、「どうぞおあがりください」と言って冷たい麦茶を出して頂きました。一時間程滞在しましたが歩きお遍路さんとはお会いする事が出来なかったが岡山県から車で来れたご婦人二人に出会いました。
遍路休憩所・坂本屋前の道路で旧土佐街道である。
慶応4年1月11日、伊予松山藩は朝敵となり、朝廷は土佐藩に対して松山藩の討伐の令が発せられた。土佐藩主山内豊範は、伊予松山藩とは縁がある間柄出来れば戦火を交えず修めたい。松山藩の占領には長州がやってくる、その前に松山に行ってやらねばと考え同年1月23日、土佐を出発、1月25日、四国88ヶ所44番札所、大宝寺で宿泊した土佐隊兵士915名、荷駄夫を含むと総勢2000名の大部隊が坂本屋の前の道を歩いて松山藩に入城した歴史のある街道である。その当時坂本屋は未だ建築されてなかった。
遍路休憩所・坂本屋前には「お遍路さん、休んでいって下さい。善根宿」と書かれた表示版が置いてある。
私が伺った時にお話を聞きました一つに、平成29年6月中年の女性が倒れ込むように坂本屋に辿り着いた。直ぐに奥の部屋に床を敷き横にさせてあげ、暫く休んでいただきました。元気になられ第46番札所・浄瑠璃寺に向かわれました。
翌年その女性お遍路さんは、お礼に見えたそうです。・・こんなお話を伺いました。
同行二人「お遍路さんの巡礼において、常に自分には弘法大師さんがついていてくれる、と言う気持ちを持って、特に歩き遍路さんには強い気持ちを持って居られる。疲れてもお大師様のお導きで大事に至る事なく回復されたのでしょう。
土日祝のみ開き、お接待は地元の方や、地元の小学校の先生や、保育園の保育士さんもお接待をして居られます。
遍路休憩所「坂本屋」の二階部屋です。許しを得て撮影させて頂いた。
女優である、柴田理恵さんが平成29年11月、松山に来られた時にお越しになり、瓦に揮毫をされたそうです。
修復した屋根瓦に全てに醵金をされた方の名前が記載してあるそうです。
修復する時に使われた同じ瓦に、女優・柴田理恵さんが訪れ、揮毫された瓦。