EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

満州 その1

2019年09月26日 | 伊予松山歴史散策

昭和10年代の満州

某TV番組で満州にて出生し、終戦後内地に引き上げられ芸能界・スポーツ界で活躍された方々のご苦労が放映された。
出演された方は、俳優の宝田明さん、歌手の加藤登紀子さん、作詞家のなかにし礼さんでした。
実は、私も満州哈爾濱(ハルピン)生まれで、昭和18年に内地に引き揚げたものです。

私の事は満州・その2で掲載いたします。

昭和6年(1931)、日本が満州事変によって占領した中国東北部を指し関東軍と南満州鉄道の強い影響下にあり日本は、大東亜戦争敗戦の年まで開拓移民を満州に送り続けた。
ソ連参戦や中国人蜂起などにより、移民総数約130万人のうち約20万人が死亡したとされる。
取り残された人も多く、このうち中国人の養父母らに育てられるなどした残留孤児は28000人あまりに達する。
平成21年度の厚労省調査では、昭和36年以降に永住帰国した中国残留邦人(当時成人も含む、回答数4377人)のうち、5・2%がある県内に居住すると発表された。

昭和7年(1932)日本は満州国を建国したが,大東亜戦争後に中国に復帰し,それとともに満州の名も消滅した。

中国から引き揚げてくるとき、20万の人が亡くなっているそうで、どういう人が亡くなったかというと、兵隊ではなく、お年寄りとか、身体が弱い人、そしてたくさんの子どもたちが、親とはぐれたり、亡くなったりし遺体は放置されたまま。その人たちにはお墓も何もない。そこで20年前、浅草の浅草寺に満州地蔵が建立されたそうで、引き揚げ者のもお手伝いしながら、慰霊祭を続けている。

東京や大阪の大空襲でも、広島・長崎の原爆でも、沖縄戦でも、そして満州からの引き揚げでも、犠牲になるのはいつも弱い人たちです。

日本は戦後74年と言うが、今も世界のどこかでずっと戦争が続いている。
だから、本当は「戦後」はないん。
日本についても、昭和20年8月15日で平和になったわけではなく、日本が降伏してからも、引き揚げがあったり、シベリア抑留があったり。殺戮が続き、たくさんの人が亡くなった。10年以上もシベリアに抑留された人がいる。

昭和20年8月15日、玉音放送があり靖国神社で下座・和・最敬礼をして天皇の声を聴いた。

靖国神社で下座・和・最敬礼をする国民。この時の思いはどんな感じで下座最敬礼をしたのでしょうか。

皇居で何の御前会議があったのか。
もっと早く戦争を終結する事は出来なかったのか、軍部上層部は国民の事等考えてなかったのか!!

満州から引き揚げられその後いろんな分野で活躍された主な著名人。

先日、某TVに出演された宝田明さん、終戦直後ソビエト兵がやって来て銃剣を顔に突き付けられ恐ろしかった。ポケットに沢山の万年筆、両腕には腕時計を付けていた。内地に帰ってくると苛めにあったと語られた。

加藤登紀子さんで、母親の言葉が凄かった。

これからはソビエト兵がやって来て、このような出来事はしょっちゅう起こるから、自分が判断し、自分の力で逃げなさい。その日から「泣かない・ぐずらない・足手まどいにならない迷惑を掛けない子供になったそうだ。

母親はしっかりした人でして、内地に引き上げるときは漁船をチャーターして帰って来たそうだ。

作詞家のなかにし礼さんで、終戦後重松外務大臣から訓令があった。

いま、日本は近代まれにみる危機に見舞われている、とても君たちを養う力がない。そちらの事情は分からないけれど、君たちは、そこで死ぬとも生きるとも勝手にしろ、帰って来るなとの宣言を受けた。
大人たちは泣き崩れた。日本国から見捨てられたと思った。

その時の悲しみを歌にしたのが、なかにし礼が作った「人形の家」である。

祖国日本から、捨てられたやるせなさの思いがこの歌には綴られていた。弘田三枝子の人形の家には、祖国日本から捨てられたやるせない気持ちがなかにし礼の気持ちが込められている。・・そんな意味のある歌であったとは私は知らなかった。

昭和44年作られた「人形の家」。
祖国日本から、捨てられたやるせなさの思いがこの歌には綴られていた。弘田三枝子の人形の家には、祖国日本から捨てられたやるせない気持ちがなかにし礼の気持ちが込められている。

 

開放されたハルピンの街。

武装解除された日本軍。
陸軍大本営は、昭和18年11月発令、関東軍に公主嶺で、教育総監発令をもって関東軍は「海上機動第一旅団・第二旅団」を編成させ南方に移動し、主力部隊のいない満州にソビエトが不可侵条約を破棄して宣戦布告をして満州に攻め込んで来た。

遼寧省葫蘆島。

昭和20年8月15日、日本は降伏し、戦争が終わったとき、中国・東北部(満州)には、日本の軍人や居留民が約130万人いた。難民となった日本人を、『ポツダム宣言』に基づいてすべて帰国させる事業が、昭和21年から昭和23年にかけて実施された。大勢の日本人が遼寧省葫蘆島に集められ、住宅や食糧が与えられ、帰国していったとの記述がある。
これほど多くの難民の帰還が、大きな混乱もなく整然と行われたことは、世界史的にもあまり例をみない。
戦後の中日関係は、この葫蘆島から始まった。

昭和21年から遼寧省葫蘆島に集められ帰国が始まり内地上陸は博多港であったがその後舞鶴港が引き揚げの指定港となった。
昭和63年4月、京都府舞鶴市に舞鶴引揚記念館が建設された。

長野市立篠ノ井西中学校の社会科教諭、飯島春光さん(現在は退職され違った肩書で活動されている)。
終戦後74年が経った今も、中国から長野県へ帰ってくる人々がいるそうです。
多分飯島さんは、退職後も詳細な活動をされていると思います。
中国で生まれ、日本語が話せない状態で日本に来る子どもたちは、どのような環境で育ち、どんな困難を抱えてきたのか。彼らを迎え入れたクラスメイトたちはどのように接してきたのか。そして、社会科教師であった飯島さんは、子どもたちにどのような言葉をかけ、どんな支援を展開してきたのか?その苦労は大変であったと推察される。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする