「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
令和元年6月4日、35年振りに法隆寺を訪ねました。
訪ねた訳は,下記の通りです。
1、昭和24年1月26日、法隆寺金堂の火災により金堂壁画が焼損、これがきっかけとなり、昭和25年5月30日、重要文化財保護法が制定された、その金堂が見たく伺った。
2、聖徳太子が法興6年(596年)、道後に訪れたと言われ、太子は名媚な風光と良質な温泉を推賞せられ、湯の岡に温泉の碑を建立されたと伝わっています。
平成29年12月26日、道後温泉に新しく飛鳥時代の建築様式を取り入れた道後温泉別館とした湯屋「飛鳥乃湯」が新築された。
道後温泉飛鳥乃湯の最上部には、法隆寺のシンボルである、夢殿を模した構造物が造られた。
そして飛鳥乃湯の中庭の一角に聖徳太子撰文の石碑の写しが建立してあります。
当時は椿が美しく生い茂り、霊妙な温泉が平等に恩沢を施す様はまるで寿国(理想の国)のようだと讃えられたと言われています。(松山市の花は、椿です。)
3、 法隆寺修復時に西岡常一棟梁と日本橋の刃物商「木屋」で出会い和釘「千年の釘」を制作した西岡常一棟梁の片腕として活躍された名工鍛冶職人、白鷹幸伯さんが松山市堀江町の方で活躍されました。
法隆寺修復に白鷹さんが制作された千年の和釘を見に行った。
4、正岡子規は、明治28年10月26日〜29日の4日間、東京に帰る途中何故か奈良に滞在し詠んだ句が有名な「「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」この句碑の確認と撮影。
5、近年、松山市が寄贈した観光俳句ポストが法隆寺周辺3カ所に設置してあるそうでその確認と俳句ポストの撮影。
以上の事案で、35年振りに法隆寺を訪ねました。
法隆寺伽藍配置図。
この日は、真夏日で参拝するには大変でしたが、写真を撮るには絶好の撮影日和でした。JR法隆寺駅からタクシーで「いかるがホール」を経由して「法隆寺iセンタ」まで行き、法隆寺の正門である南大門まで徒歩で、いよいよ35年振りの参詣です。
南大門は歴史を感ずる壮大な建造物で、それに連なる続き塀が素晴らしい。
永享10年(1438)室町時代、第6代将軍足利義教時代に再建された。
南大門正面右側に画像の表版。
室町時代、第6代将軍足利義教時代に再建された南大門表示板。
南大門を潜り、大門から見た西伽藍の中門と五重塔を望む。
この日は、真夏日で天候は良く写真撮影には絶好の天候であったが、少し熱すぎた。
また、大勢の修学旅行生が来ていました。
西伽藍の一角に拝観料を支払う受付があり規定の料金を支払い入りました。
西伽藍回廊の入口で参拝券を見せて拝観を行う。
法隆寺は、金堂・五重塔を中心とする西伽藍と、夢殿を中心とする東伽藍、百済観音を中心とする大宝蔵院に分けられ、広さ18万7千平方メートル広大さである。
さて画像は、問題の金堂です。
昭和20年に金堂の解体作業が始まり、昭和24年1月26日の早朝、金堂に火災が発生した。
出火当時、金堂は、解体中で仏様や重要なものは金堂から移されて難をまぬがれたが肝心な壁画は外す事が不可能で焼損した。
金堂は、昭和29年に解体修理を終えて復旧したが、壁画の描かれていた壁は空白のままであった。
その後壁画は著名な画家たちの手で複製され、壁にはめ込む工法で昭和43年2月に完成、パネルにはめ込んだ上で金堂の壁に設置され法隆寺金堂内部はようやく火災前の姿に戻った。
そして、昭和25年5月30日、重要文化財保護法が制定された。
それまでの国宝は全て重要文化財に指定替えされ、改めて重要文化財保護法に基づき新しい国宝が指定された。
なお、昭和25年(1950)の文化財保護法施行以前の旧制度下では、現在の「重要文化財」に相当するものがすべて「国宝」と称されていた。
城郭を例に挙げると、現存12天守は全て国宝であったが、文化財保護法施行後は、松本・犬山・彦根・姫路城の天守が国宝に指定され、弘前・丸岡・備中松山・松江・丸亀・高知・宇和島・伊予松山の天守は重要文化財に指定替えされ格が下がった感がする。
なお、松江城天守は、平成27年7月8日、重要文化財であったが国宝に指定された。
画像は、金堂と五重塔。
昭和25年5月30日、重要文化財保護法が制定の続きである。
文科省は、明治30年(1897)から昭和24年(1949)までの間に、古社寺保存法および国宝保存法に基づいて「国宝」に指定された物件は明治30年(1897)から昭和24年(1949)までの間に、古社寺保存法および国宝保存法に基づいて「国宝」に指定された物件はいわゆる「旧国宝」であり、これらの物件すべては文化財保護法施行の日である昭和25年(1950)8月29日をもって、同法に規定する「重要文化財」となった。
そして、「重要文化財」のうちで日本文化史上特に貴重なものがあらためて「国宝」に指定されることになった。
つまり、昭和25年(1950)以前と以後とでは法律上の「国宝」という用語の意味が異なっており、旧法の「国宝」は文化財保護法上の「重要文化財」に相当する(文化財保護法付則第3条)。
この点の混同を避けるため、文化財保護法上の「国宝」を「新国宝」と俗称することもある。いずれにしても、第二次世界大戦以前には「国宝」であったものが戦後「重要文化財」に「格下げ」されたと解釈するのは誤りである。・・文科省のHPにはこのように記載してある。
文科省HPを引用
しかし私は格下げになったとしか理解できない。
金堂と五重塔で、北側から撮影。
西側から見た金堂。
南側から見た金堂と五重塔で法隆寺の建造物は全て南が正面だそうです。
この日は多くの修学旅行生徒が来ていた。
南側、正面から見た五重塔。
創建は金堂と同じ推古15年(607)、五重塔としての建物で現存する木造建築としては世界最古、法隆寺西院伽藍のシンボルである。
金堂と五重塔には、創建当時は敷設されなかった付設建造物がある。
それは、画像の通り敷設物で「裳(も)階(こし)」と言うそうです。
建物外部の軒下に回した庇(ひさし)で、風雨・風雪を防ぐ構造物。
付設物の名称は、法隆寺の職員さんに教示願いました。
金堂壁画で代表する壁画はどれですか?と伺うと、写真があるからご覧下さいと写真を取り出し見せて頂き、許可を受け撮影しました。
画像が、金堂壁画の代表する壁画で、名称は「6号壁画・阿弥陀浄土図」だそうです。
「裳(も)階(こし)」について、金堂壁画の代表する壁画「6号壁画・阿弥陀浄土図」を説明して頂いた安保さんで、顔を写さない条件で撮影させて頂きました。