年表によると昭和天皇は松山に四度行啓されている。
皇太子時代、つまり摂政宮として、大正11年11月14日、温泉郡新濱村高浜沖(現 松山市高浜町)で日本陸海軍の大演習が行われ、此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の御名代として松山に行啓された。
摂政宮殿下は、駆逐艦「谷風」でお越しになり萬翠荘に宿泊された。
象徴(人間)天皇となられ、戦後の全国巡幸せられ、摂政宮時代を入れ松山には下記4回来られた。
第1回目は、大正11年11月14日、 摂政宮時代、陸海軍松山大演習観閲行啓
第2回目は、昭和25年 3月17日~20日、戦後の復興巡幸
第3回目は、昭和28年10月22日、 第8回国民体育大会開会式行幸啓
第4回目は、昭和41年 4月17日、 第17回全国植樹祭行幸啓
これから訪ねる石碑「摂政宮殿下特別大演習御野立場」は、大正11年11月14日に行われた日本陸海軍の大演習を観閲された場所、荒神山に皇太子のご成婚記念として大正13年1月温泉郡新濱村が建立した記念碑である。
石碑は、軍の大演習があった方向に向けて建立されている。
1.碑 文 : 摂政宮殿下特別大演習御野立場
2.所 在 地: 松山市高浜町二丁目乙74番地29 荒神山 標高27m
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 温泉郡新濱村
5.建立年月日: 大正13年1月 (皇太子のご成婚記念)
6.碑石大きさ: 高さ 2m 97㎝ 横幅 99㎝ 厚み 36cm
荒神山山頂。
皇太子殿下(摂政宮殿下)が結婚された記念に大正13年1月、記念碑を建立した。
伊予鉄道高浜駅から徒歩10分標高27mの場所にある。
摂政宮殿下特別大演習御野立場の石碑で、石碑左側面に、建立年月日 大正13年1月が刻まれている。
皇太子殿下が結婚された記念に荒神山山頂に建立された「摂政宮殿下特別大演習御野立場の石碑」。
石碑裏面に「為御成婚奉祝記念建之 大正十三年一月 新濱村」と揮毫されている。
陸海軍の大演習が行われ、摂政宮殿下が観閲された場所に建っている。
伊予鉄道高浜駅から徒歩10分、標高27mの場所にある。
荒神山山頂の風景。
以前は、地元高浜地区ボランティア団体「ひまわり会・代表・宮部 富光さん」の会員が毎週清掃活動をしており何時も綺麗に整備されていた。
海南新聞:大正11年11月15日付の記事、大正11年11月14日、摂政宮殿下は陸海軍の大演習が温泉郡新濱村高浜沖で行われこの大演習を荒神山山頂から観閲された。
「海南新聞:大正11年11月15日付の記事」荒神山に上られる皇太子殿下。
下の画像は、観閲されるお席、玉座。
海南新聞は、現在の愛媛新聞である。
大演習をこの荒神山山頂から観閲された。
画像は、観閲されるお席(玉座)。
荒神山山頂から見た現在の画像。
四十島(左に小さく見える島)高浜港から船が出港しているが、ここで大正11年11月14日 昭和天皇が皇太子時代に陸海軍の大演習が行われた場所。
夏目漱石、坊ちゃんに出てくるターナー島「青島」「愛称、ターナー島」で、その奥は興居島。
島の名前、四十島 俗名、ターナー島・・である。
高浜沖、四十島付近で大正11年11月14日、日本陸海軍の大演習が行われ、観閲に摂政宮(後の昭和天皇)が大正天皇の名代として行啓された。(大正天皇は御身が弱く地方には行幸されなく殆ど摂政宮殿下が名代として行啓されていた)観閲された場所が高浜の荒神山でここに秋山好古が揮毫した記念碑が建っている。
四十島について:
1、 所在地は、松山市高浜一丁目115番地。
2、地目は、土地の種類は(堤塘・ていとう=土手)として法務局に登記されている。
3、位置は、高浜港から500m・黒岩海岸から200m沖合。
4、所有者は、平成17年7月8日、愛媛県から松山市に移管。
平成17年11月18日、国指定登録記念物に指定。
5、成り立ち、地殻変動で地上に出来た。年代は不明。
6、松の復活、20数年前に松が枯れ、今後この島には松は生息出来ないと大学の権威者が言われた事に対して、なにくそ魂でいろいろと研究された当時高浜小学校の理科の先生「北岡先生」が25年の歳月を掛けて自費で船を調達し松を植栽、毎日のように水を与え育て上げ立派な松になっている。24本あり平成17年国登録記念物に指定。
松は根から有機酸を出し岩に食い込み育っている。
成り立ちは、花崗閃緑岩の大小三つの岩が連なって出来ており、高さ8m 面積1200平方m(363坪)、島の周り約140m。
地質がもろく、波浪や海流の影響を受け、年々細っている・・その内消滅するのではないかと心配している。
後方は興居島で、元読売巨人軍投手、西本 聖の出身地である。
ターナー島の由来の説明版が設置されている。
高浜港の後方にある荒神山山頂に秋山好古が揮毫した「摂政宮殿下特別大演習御野立場の石碑」がある。
大正11年11月14日、日本陸軍の大演習が行われ此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の名代で松山に来られ、この時に萬翠荘に宿泊された。
摂政宮は、駆逐艦「谷風」でお越しになった。
松山城南側山麓に萬翠荘(旧伊予松山藩主久松定謨が大正11年松山の別宅として建築)がある。
松山市では一番古い鉄筋コンクリート造りで、木子七郎が設計したフランス式の建物である。
久松定謨は明治23年フランスの陸軍士官学校に留学、のち台湾総督にもなった人物であり、フランスの陸軍士官学校留学に随行役で行ったのが秋山好古である。
大正11年11月14日、日本陸軍の大演習が行われ此れを観閲の為、摂政宮時代に大正天皇の名代で松山に来られ、この時に萬翠荘に宿泊された。
この時、萬翠荘は建築真っ最中で、摂政宮殿下の宿舎とするために突貫工事で完成を急いだ。
摂政宮殿下は2階のお部屋に泊まられた。
萬翠荘は、昭和20年11月から暫く連合軍司令官の宿舎として使われた時代もあった。
設計は、建築家木子七郎で、代々宮大工の家系に生まれ、東京帝国大学建築科を卒業、日本の主要な建造物300余りを手がけた驚くべき建築家である。
東京放送局愛宕山放送所、東郷侯爵目黒本邸、大阪国技館、そして日本の赤十字病院の大部分を設計している。
夫人が愛媛出身の新田長次郎の娘であったという縁で、愛媛県では愛媛県庁、鍵谷カナ頌功堂など数多くの建物が残されている。
秋山好古と縁がある新潟の旧新潟県庁舎も木子七郎の設計で,建物様式も愛媛県庁舎とよく似ていた。
萬翆荘は平成23年11月29日、重要文化財第2580号として指定された。
萬翠荘を建築した旧伊予松山藩主・伯爵久松定謨。
松山城南側山麓に萬翠荘(旧伊予松山藩主久松定謨が大正11年松山の別宅として建築)がある。
松山市では一番古い鉄筋コンクリート造りで、木子七郎が設計したフランス式の建物である。
久松定謨は明治23年フランスの陸軍士官学校に留学、のち台湾総督にもなった人物であり、フランスの陸軍士官学校留学に随行役で行ったのが秋山好古である。
画像は、フランスの陸軍士官学校に留学に随行役で行った時の秋山好古(32歳)と久松定謨(24歳)であった。
明治23年1月29日、旧伊予松山藩藩主、久松定謨はフランスへ留学した。
元殿様が一人で外国に行かすわけにはいかない。そこで旧藩士がお供として随行し、その随行者に好古が指名されたのである。
好古には迷惑な話であった。すでに、陸軍はドイツ式で軍備を始めている。ドイツとフランスでは正反対な事が多く、いまさらフランス留学などしたらかえって混乱するのではないだろうか。それに、帰国したら自分だけがフランス流となってしまい、周囲から浮き上がってしまうのではないか。
そんな心配が好古の頭をよぎった。おまけに、費用は自前である。しかし、好古の性格では嫌とは言えなかった。好古は渡仏したのである。(費用に関しては、途中から官費に切り替わった。)
フランス留学の収穫は「馬術」であった。フランス人は「ドイツ馬術は人間を木か鉄だと思っている」と悪評していた。
実際、好古が調べてみたところ、ドイツの馬術は見た目の凛々しさを重視しすぎるあまり、騎乗者の負担が大きく疲れやすいものであったらしい。後にフランス訪問に来た陸軍中将・内務大臣山県有朋に、好古は馬術のみはフランス式を採用することを直訴し、山県も好古に一任した。好古は、フランス様式馬術を取り入れ日本の騎兵を育てたのである。